「・・・お。やっと目ぇ覚ましやがった」 信じられない状況に遭遇したときにはありがちな、きわめて反射的な反応。 それらにはいくつかの例がある。そのうちの一つが「その存在を認められない、認めたくない、と 脳が認識した対象物を一旦スルーするが、視界に違和感を覚えて再び対象物を確かめる」という反応。 いわゆる「二度見」と呼ばれるアレである。 病人生活三日目の朝、ぼんやりと目を覚ましたはまさしくそんな状態に陥っていた。 一度はもぞもぞと起き上がりかけ、右側を穴が空きそうなほど注視し、ふたたび布団にもぞもぞと潜る。 ややあってから、ぽかんと見開いた目をもう一度布団から覗かせた。が、すぐに布団の奥へと引っ込んでしまう。 温かくて暗い中で目をひん剥き、必死で息を詰めている彼女の額には、じわじわと嫌な汗が湧いてきていた。 嘘だ。こんなの嘘にきまっている。無視しようにも無視できない至近距離にあった。 ・・・いや、正確にはその、あるというか、――いるのだ。目にしただけで心臓が破裂しそうになってしまう非常事態が。 「・・・・・・・・・・・・・・・・、」 「おいこら無視すんじゃねえ。どこ見てんだ?こっちだこっち。つーかまだ寝てんじゃねーだろうな。 まあいい。とにかく離れろ、まずは俺の腕を離せ」 かったるそうな低い声に呼びかけられ、頭まで被った布団をぺらっと剥がされる。 そこで目の当たりにしたのは、――なぜか隣に土方が寝ていて、自分がその腕にむぎゅっと胸を押しつけ、 ユーカリの樹に登る南半球の生物・コアラのようなポーズでしっかりと抱きついている、 ――という、信じがたい事実だった。 絶句したは眠気も忘れ、ついでに呼吸することすら忘れて石のように固まった。 ・・・土方さんだ。なんで。どーして。土方さんが、隣で寝てる。 なぜか寝間着姿で。あたしに腕を片方貸していて。なぜかあたしが土方さんに、コアラみたいにしがみついてる。 土方さんがあたしの部屋で、あたしの布団で添い寝して、土方さんであたしが布団でコアラが添い寝で――!! どっと押し寄せてきた混乱に頭の中をぐしゃぐしゃに引っ掻き回されながら、はあわあわと口籠る。 目の前の状況が飲み込めず、軽くパニックを起こしていた。男の腕にしがみついた手はふるふると震え、 口端を曲げたうんざり顔をしている土方を見つめる目はうるうると潤み、やがて涙目になってしまう。 ――いったい何が起きたんだろう。とんでもない非常事態だ。目の前のすべてが信じられない。 だが自分が腕にしがみついている男は間違いようもなく土方だ。 わずか十数センチ程の超至近距離から睨んでくる目つきの悪い上司は、枕に顔を押しつけるようにして こっちを向き、明らかに寝不足そうで疲れが残った顔をしている。目元には薄くクマまで浮いていた。 どうしてそんな疲れた顔で、しかもいたく不平満々な目つきでじとりとこっちを睨んでくるのか。 ・・・理由は判らない。が、そんな些細なことを気にする以前に、目の前にはもっと気にするべき だろうことが山盛りだ。のパニックは今や最高潮に達し、すぐにも絶叫してしまいそうだった。 (何で。どーして。誰か教えて、あたしが気持ちよく眠ってた間にいったい何が起こったの!?) うろたえるを不審そうな白い目で土方が眺める。空いているほうの手で彼女の頬をぺちぺち叩く。 それは彼にしてみれば、目覚めたんだか寝惚けているんだかわからない手の掛かる女を、ちょっと 正気に引き戻してやるか、くらいの軽い行動だったのだが―― 「聞こえてんなら返事くれぇしろ。おら離せ、お前、人の腕をカイロか何かと勘違いしてねえか」 「ひぅぅ!」 ぺち、と叩いたまま頬から離れなくなった大きな手が肌を包む。 熱くて硬い感触に頬を覆われ、びくうっと背筋を跳ねさせたの鼻先を、強い煙草の匂いがふわっと掠めた。 目の前の男がごそっと身じろぎしたせいで、ますます顔が近くなる。はふぇえええ、と泣き声を上げた。 切れ上がった鋭い目にじっくりと見られている。 何かと目敏いうえに女を見る目も厳しい土方に。よりによって二日もお風呂に入っていない、 ふやけた寝起き顔を、じっくりと―― 「・・・ったく、おかげでこっちはろくに眠れねえし、朝稽古にだって出れやしね」 「んぎゃあぁあああああああ!!!!!!」 「っっっふごふぉおおおっっっっっ!!」 が叫ぶと同時で土方の身体が掛け布団ごと吹っ飛び、ぶつかった障子戸がだだぁんっと音を立てて揺れる。 言葉よりも早く身体が拒否反応を示してしまった。混乱しきったの足は、本人の意思とは無関係に キレの良い蹴りを繰り出し彼の腹部を直撃。幼いころから鍛錬してきた体術の切れ味は見事なまでに発揮されたが、 それでものパニックは収まらない。ぅひいゃあああ、と震えた奇声を発しがばっと起き上がり、頭を両手で ぐしゃぐしゃに引っ掻き回す。ぐるぐると盛大に目を回しながら、ひっくり返った裏声で叫んだ。 「な、ななななっ、なんっ、なんでぇええ!?ひ、ひじかた、さ、なんで、あたしの、ふふふ布団にいぃぃぃ!!」 「〜〜〜〜〜ってぇなぁあああ畜生っ、どこがお前の布団だ!こいつは俺の布団だ!!」 「ややややだぁぁ何でえぇええ、ちょ、そ、それはそのっ、・・・あ、ああいうことはあった、けどっっっ。 でででもぉそれとこれとは別っていうかぁぁ!い、一緒の、お布団でとか、・・・いっっ、嫌、じゃない、けどぉぉ! でもほらっ、あるでしょそのっ、ここここういうことは、そのぉ、こ、こころの、準備、っていうものがぁぁぁ!!」 「・・・・・・・・・・・・おい。・・・まさかたぁ思うがお前。昨日のあれを覚えてねえのか。また忘れてやがるのか?」 「・・・!ちっっ、違いますよ違いますからっっ、誤解しないでくださいね!?今のは別に、心の準備さえ出来たら いつでも好きに入ってきてもいいとか、そそそっそぉいう破廉恥な、ふしだらな意味じゃなくてぇぇ!!」 「っっっの野郎ぉぉ・・・!すっかり忘れちまってんじゃねーか!!!!!!」 「ふぇえ!?なっ、土方さん?・・・そそ、その顔、怖いですよぉ?てゆうか、えっ、何で怒っ、」 全身にぞぞーっと寒気が走って、はあわてて布団から飛び退く。よろよろと後退すると襖戸に背中がぶち当たった。 掛布団を乱暴に跳ね避け、腹を抑えた土方がゆらりと音もなく起き上がる。怖い、映画で見たゾンビみたいで怖すぎる。 しかも「俺が一晩どんだけ大変だったと思ってんだコルぁあああああ。畜生、もぉ二度と 辛抱なんざしてやるか・・・!!」なんてドスの利いた声で脅してくる男の眼光鋭い目には、 見るからに危険そうな怒りと憤慨がぐらぐらと煮え滾っているのだ。 四つ這いでのしのしと近寄ってきた土方は、ばんっと襖戸に両腕を突いての左右を塞いでしまう。 追い詰めた女を眉を顰めて睨みつけ、ちっ、といまいましげな舌打ちをする。殊更な早口で切り出してきた。 「女としちゃあ最悪な部類だなてめえは」 「へ?」 「まず救いようがなく頭が悪りぃ。物覚えも察しも致命的に悪りぃ。 酒癖も悪けりゃ寝起きも酷でぇし、トドメに寝相も最悪ときてやがる・・・!」 「ふぇえ!?」 ・・・わからない。寝起き早々どうしてここまで責められなくてはいけないのか、理由がさっぱり判らない。 は涙が浮いた大きな目をぱちぱちと瞬かせ、泣きそうな顔で土方を見つめた。 「ざっけんなてめぇええ、今晩絶対思い出させてやるから覚悟しとけ!」と悔しげに言い放った男の 殺気立った視線が、何かを見据えようとして下へ下へと下がっていく。 彼につられたも、思わずつーっと視線を下げていった。そして、かぱーっと顎が外れそうなほどに口を開けた。 胸が――胸が非常事態だ。とんでもないことになっている。 寝間着にしている浴衣の前が緩んでおおっぴらに肌蹴け、ブラとお腹が完全に露出しているのだ。 「ひぃやぁぁあああああああ!!!!」 自分のあられもない姿にようやく気付いた彼女は顔を真っ赤に染めて胸元を隠し、耳をつんざく奇声を上げる。 と同時に、たいした罪もない土方のみぞおちに強烈な二度目の蹴りを浴びせた。
片恋方程式。 52
「こっちは・・・製法、成分ともに不明で特定出来ず。 こっちは・・・うーん、・・・構成物質のうち九割弱は特定出来たものの、それ以外については不明、・・・かぁ」 朝食を摂る隊士たちの熱気と声でごった返す食堂の片隅で、近藤は眉をひそめて唸っていた。 先に席に着いて食事をしていた土方に目で合図され、他とは分離された窓際の席へ向かい、 そこへ座ること数分。最初は順調に動いていた箸の動きは、すっかり止めてしまっている。 今は土方から手渡された書類の内容確認に没頭しているところだ。 その内容はというと―― 十件の研究機関に預けておいた、ある採取品の分析結果だ。 二か月前の連続爆破テロの際、事件捜査の手掛かりのひとつとして採取した蝶の羽を模した欠片。 警察病院で発見された謎の破壊痕と同様、壁を大穴で穿たれていた廃業後のホテルから出たものだ。 事件現場となった室内の床には粉砕されたそれが散乱していた。薄く硬い素材で出来たその欠片は 指紋採取などの各種検査へと回されたが、わずかな反応すら検出されずに終わった。それではこの羽の 出処について探ってみるかと、真選組が分析調査を依頼した研究機関は全部で十件。民間企業の研究施設。 江戸市中や郊外の高名な学問所。もちろん本庁の鑑識部にも依頼した。普段は多くて二、三か所のところを 十か所に撒けば、半分は的を射た答えを返してくるだろう。そのうちの二つや三つからは、 緻密な分析結果が得られるはずだ。近藤も土方もそう期待していた。ところが―― 「どこの結果もすっきりせんもんだなぁ。 二ヶ月も待たされたってのに、目ぼしい報告は最初の一件だけとは・・・」 難解な専門用語の羅列や、何を示しているのかすら不明なグラフ表示などの連続に 目を白黒させながら検分していった最後の一枚を、ひらりと手許で翻して落とす。 ぱさりと食卓に着地したその書面の横では、味噌汁や白飯が温かな湯気を昇らせている。 ふたたび箸を動かし始めた近藤は、うーん、と唸って首を傾げる。主菜の焼き鮭に 大口で齧りつきながら書面を横目に流し見て、怪訝そうな顔つきをしていた。 「どうも腑に落ちねえよ。あれぁ高名な学者でも手が出ねぇほどの難物なのか? あの蝶の羽、俺の目にはどこにでも売ってそうな子供の玩具にしか見えなかったぞ」 「あぁ。この結果を見るに、相当に珍しいもんだってこたぁ間違いなさそうだな」 「これで依頼した研究機関の結果がほぼ出揃ったのか?」 「そうだな。残る一件は東雲科研だが、・・・近藤さん。 俺はここで結論を出していいと思ってる。東雲がまともな分析結果を送って寄越すたぁ思えねえ」 「・・・?どうしてだ?あそこは分析にかけても江戸随一なんだろう?本庁の鑑識部では 手に負えねぇ難物でも、あそこの最先端設備があれば容易く見分けられるそうじゃねえか」 「これが他のヤマならあてにするさ。だが、今回ばかりは待つだけ時間が無駄になりそうだ」 すでに食事を終えた土方は、眠たそうに伏せた目つきで茶を啜りながら答える。 何か思い出したような表情になり、近藤に視線を向けた。周囲はざわざわと騒がしかったが、 他の隊士たちの耳には入らないよう、低く落とした声で話を続ける。 「あの欠片を持たせて東雲まで使いに出した奴の話がな。・・・どうも引っかかってんだ」 「・・・?」 「応対に出た研究員の態度があからさまにおかしかったそうだ。そいつは研究主任って肩書きの奴で、 下手に出て挨拶してもうんともすんとも言わねぇような、横柄で人を見下した男だったらしい。 ところがあのブツを見た途端、急に怯えた態度になったんだとよ。しかも預けた次の日、ご丁寧にも向こうさんから 連絡が来てな。こういった材質の分析は畑違いだ、時間が膨大に掛かる、結果を急ぐなら他へ回してくれと 断りを入れてきやがった。えらく焦った口ぶりでな」 「はぁ?おいおい、どういうこった。いかにも怪しいじゃねえか」 驚きに目を丸くする近藤と目を合わせ、土方は無言で頷く。 白飯が山と盛られた茶碗の手前に箸を戻すと、近藤は腕を組んで考え込んだ。 「・・・なぁトシ、そいつの線からどうにかならねえか? しょっ引く理由は何か適当にでっち上げるとして、その研究主任とやらの聴取だけでも取れねえもんかなぁ」 「やめとけよ。相手は東雲の所員だぞ、下手に手出しすりゃあこっちの首が危うくなる」 「だがよー、病院から消えたあの男に繋がる手掛かりは他にねえんだぞ? 多少の危険には目を瞑ってでも追いかけるべきじゃねえのか」 「あんただって判ってんだろ。とっつあんがあんたをここの頭に据えてからこっち、幕府高官どもの 接待だ宴席だに始終引き回されてんだ。あそこのきな臭さは俺以上に肌で感じてんじゃねえのか」 「・・・・・・・。そりゃあまあ、東雲って機関の薄気味悪さはわんさと耳にしちゃあいるが」 「深入りはよそうぜ。ここに大当たりを匂わせる結果が一件あんだ。これだけでも充分、御の字だ」 茶を一口啜った土方は、食卓に重ねられた書類にちらりと視線を向ける。 まだ納得がいかなさそうな近藤はその視線を追い、中から一枚を引き抜いた。 「・・・実物が入手不可能なためあくまで推察の域を出ないが、おそらく茶吉尼族の母星でのみ 製造されている特殊シリコン。製法は他星系に対して秘匿しており門外不出、使用した製品の 輸出も許されておらず、その詳しい用途や構成物質等についての情報の殆どが不明である。 競合の他製品に比べて非常に軽く、加工性に富み、優れた耐久力を持つ。用途の一例として、 整形外科などの手術用。人工の軟骨として用いられる場合もあるらしい、・・・と」 通りのいい地声を最大限に潜め、江戸郊外に所在する学問所からの分析結果を読み上げる。 その声を聞きながら土方も表情を曇らせた。茶吉尼といえば、広い宇宙でも指折りの戦闘民族だ。 大柄で強靭な肉体を持つ好戦的な種族としての一面が取り沙汰される場合が圧倒的に多いが、 一方では研究者や学者も多く輩出する、勤勉で頭脳明晰な種族でもあるらしい。 そういった知的特性もあってか、母星においての技術の発達――特に工業系の技術は 江戸のそれを遥かに凌ぐ目ざましさで、近隣の星に比べても革新的な発展を遂げている…、 茶吉尼族について流れてくる見聞といえばその程度だ。そこから察するに、おそらく戦闘で傷ついた兵士たちを 治癒するための医療技術も、連綿と続いてきたその戦歴とともに他星に先んじた発達を遂げてきたのだろう。 「それにしても、あの造り物の蝶・・・どういう経路で江戸に持ち込まれたんだろうなぁ。 そのシリコンとやらは門外不出の特殊技術で、他の星には全く出回ってねえんだろ? それがどうして江戸の、しかもあの訳が判らねぇ事件の現場にバラバラと散らばってやがったんだ?」 「いや、あれを茶吉尼の専売特許品と決め込むにはまだ早ぇえんじゃねえか。報告書を送ってきた学者が 立てたのはただの推論、仮の話だ。あれがその特殊シリコン製だって根拠はどこにもねえ」 唯一のそれらしい例を示唆してきた調査結果も、あくまで可能性のひとつに過ぎない。 専門の研究者が推察の域を出ないと前置きしているのだ。素人が何かを断定出来る要素など、皆無に等しい。 「まぁ、あの蝶が現場に空いたでけぇ風穴と何か関係があるのかねえのか、それすら藪の中だがな。 とにかく茶吉尼族の線と・・・そうだな、医療用ってあたりから出処を探ってみるか」 「どうするトシ。またえらく待たされそうだが、入管に話通して大使館にでも当たってみるか」 「ああ。あそこは総じて頭が硬てぇからな。面倒掛けてすまねえが、早めに頼む」 「ははっ、何だお前、水くせーなぁ。そのくれーのこたぁ任せてくれよ」 「・・・・・・。それとな、近藤さん」 「うん?何だ」 「早ければ今晩にでも、に直接兄貴のことを当たってみるつもりでいるんだが。・・・どう思う」 手に収めた湯呑の熱い水面を意味なく見下ろす。 胸に支えた妙な言いにくさにたまりかねながら、土方はいつになくはっきりしない口調で告げた。 すると、茶碗から勢いよく白飯を掻き込んでいた近藤の手が止まる。見開いた目は驚きに染まっていた。 二人だけが座る食卓に沈黙が流れた。が、近藤はすぐに気を取り直したらしい。 満足そうに何度も頷き、人の良さそうな顔を目一杯に崩してにかあっと笑った。 「そうか。おぅ、そうだな、そうしてくれ。俺には何も異存はねえよ」 「反対しねえのか」 「しねえさ。お前がそう言うからには、何かの本音を引き出せる、よっぽど手堅い見込みがあるんだろ? ・・・それによー。俺ぁなぁ、いつかお前が自分からそう言い出してくれるだろうと信じて待ってたんだ」 ひどく嬉しそうに、しかしどこかしみじみと語る、近藤のその口ぶりは意外だった。 土方は彼を呆気にとられたように見つめた。やがて目線をふいと逸らし、どことなくぎこちない様子で口を開く。 「・・・悪いがあんたの期待には応えられる気がしねえな。 普段はへらへらと笑ってやがるが、あれぁ俺でも手を焼くような頑固者だぜ」 「おぅ。急な成果が見込めねえことは承知の上だ、じっくり気長にやってくれ」 「判った。・・・まあ、気長に進められるほどの猶予があるかどうかすら不明だがな」 「ああ、だがよー、出来ればあまりを問い詰めねえでやってくれよ。 これであいつが思いつめでもしてまたどこかへ失踪しちまったら、とっつぁんや養父殿に申し訳が立たん」 「ああ。そこも判ってる。あんたが気に掛ける必要はねえよ」 土方は即座に頷き、何ということもなさそうにあっさりと請け負った。 今のなら大丈夫だ。俺の追及に戸惑うことはあっても、ここから逃げ出すことはないだろう。 そこは近藤さんに懸念されるまでもねぇ。何より俺が、金輪際あれを逃がしてやる気がねえからな。 ・・・などという執着心が滲み出た本音を漏らせば、それだけで近藤が目を点にしそうだ。 なので表情にも口にも出すことなく、本音は冷め始めた茶とともに飲み込むことにする。 彼の喉が動いてごくりと飲み込もうとしたあたりを見計らっていた近藤は、すかさず声を掛けてきた。 「ところでよー、トシ」 「ん?」 「今朝は珍しくにぎやかだったじゃねえか、お前の部屋」 「・・・っ!」 尋ねられた土方はぴたりと絶句、ぶはっと派手に吹き出した。 食卓一面に吹きこぼした茶を眺め、げほげほと咳込む土方を眺め、近藤はにやにやと顔を寄せてくる。 「で、はどうしてる?部屋に戻したのか?あれほどデケぇ声で叫べるんだ、もう体の心配はなさそうだがなぁ」 「・・・・・・・・・・ま。まだ、俺の部屋だ」 「そうなのか?お前が怒鳴ってたからよー、俺ぁてっきりまた仲違いでもしたんじゃねーかと」 「・・・いっ、いーだろ別に。ここであいつを自室に戻してみろ、もっと七面倒臭せぇことになんだろ?その、あれだ、 また馬鹿どもが集まってくんだろ!?手前の任務も放り出してわらわらと、ゴキブリみてーに群がってくんだろーが!」 茶が流れた口許を手で拭い、たまに言い澱みながらの歯切れの悪い説明を終えると、 土方はきつく眉を寄せ、ひどくむっとした顔になる。食卓用の濡れ布巾をわしっと引っ掴んだ。 汚した所をろくに見もせず、がしがしと荒っぽい手つきで拭いていく。やけに深くうつむいているのは、 近藤と目を合わせたくないからだ。聞かれもしないことまで白状してしまう取り乱した自分は、大層きまりが悪かった。 見慣れない土方の慌てぶりにきょとんと目を見張っていた近藤が、やがてぷっと吹き出す。 食堂どころか廊下にまで届きそうな、豪快な笑い声を響かせた。 「ははははは!いやぁまったくだ!そーだよなぁ、ここはしっかりゴキブリどもからを囲っておかねーとなぁ。 ようやく仲直りしたばかりだってのによー、他の奴に茶々入れられてうっかり逃したんじゃ敵わねーよなぁ!」 「だっっっっっっ、だから違げーって言ってんだろぉが!」 「うんうん、そぉかそぉか、いやぁよかったよかった!実はなー俺ぁ陰ながらお前らのことを心配してきたんだが、 そーか、もついに報われたんだなぁ・・・!正月早々目出度ぇ限りだよ、おめでとうトシ!で、祝言はいつにする?」 「・・・!?何でいきなり祝言の話になってんだ!?」 「そーだなぁ、式場の予約を考えると…今年の秋か?冬か?当然俺とお妙さんが仲人だよな?」 「おい待てちょっと待て!仲人ったら夫婦でやるもんだぞ、あんたいつあの女と添い遂げた!?」 「いやいやいーんだって、お前は何も案ずるな!見てろよトシ、お前たちの幸せのためにも俺は必ずお妙さんと 三か月以内に添い遂げてみせる!よーし頑張るぞ!の根性に見習って、今年もお妙さんを諦めねえぞ・・・!」 「諦めてくれ。そこは三か月内と言わずすぐにでも諦めてくれ、頼むから!」 湯呑を食卓にだんっと打ち付けて訴えてくる土方をよそに、新たな意気込みに燃える近藤は いそいそとスケジュール帳を取り出した。 「えーと九月と十月の大安はぁ・・・」と指折り数え、他人の式の日取りまでうきうきと決めにかかろうとする。 そんな彼に頭痛にでも悩まされているような険しい顔つきを向けた土方は、がくりと肩を落として脱力した。 近藤の単純な勘繰りにうっかり乗って、ついつい動じてしまったこと。奇跡が起ころうが天変地異が起きようが 幸せな成就など見込めなさそうな近藤の恋心に、まったく無用な火をつけてしまったこと。 そのどちらもが悔やまれて、頭を抱えたくなるような反省気分がずずーんと肩に圧し掛かってきたのだった。 土方の部屋で一人きりの昼食を終え、二日ぶりのお風呂を使って普段着に着替えると、 退屈な病人生活に飽き飽きしていたは思いきって部屋を出た。 まずは物干し場まで煙草臭い布団を運ぶ。薄く溶け残った雪がきらきらと眩しい庭の日向にせっせと干す。 女中たちのはらはらした目線を感じながらも、危なっかしい手つきで土方の湯呑を洗う。 急須も洗い、吸殻が高々と積まれていた灰皿も中身を捨てて洗い終え、きつく絞った雑巾を借りて 部屋に戻った。 文机の上。箪笥の上。床の間。障子戸の桟――目についたところを片っ端から拭いていく。 彼女の家事指導係を請け負ったことがある女中頭が目にすれば「あんなに熱心にお教えしたのに・・・」と 涙ぐんで嘆きそうな不調法な手つきだ。それでも一所懸命に、家事の類はことごとく苦手な 彼女なりの丁寧さで掃除を続けた。 こんなにぱたぱたと動き回っているところを見られたら、きっと土方さんにお小言を喰らう。 でも、お小言くらいなら甘んじて受けるつもりだ。ちょっとくらいなら叱られたっていいし、 グーで頭を小突かれるくらいは構わない。 「・・・・・、あれっ。そういえば土方さん、今朝何か言ってなかったっけ・・・?」 今朝この部屋で目を覚ました時のことを、なぜか急に思い出した。 は雑巾を握る手を止め、不思議そうに首を傾げる。拭いていた文机にどさりと積まれた 捜査資料の山を見つめながら考えてみたが、・・・何も思い出せない。 やっぱり、滅多に薬を飲まないせいだろうか。処方された睡眠導入剤が効きすぎたのか、昨日の夜から 今朝にかけての記憶がやたらに曖昧だ。そう、確か今朝、土方さんに怒られた。なぜ怒られたのかは 覚えていないし、どんな話をしたのかも覚えていない。あの時はまだ半分寝惚けていたのかもしれない。 他にぼんやりと覚えていることといえば、――隊服に着替えようとする土方の半裸を目撃して赤面してしまったこと。 部屋を出ていく間際の土方に「勝手に部屋に戻るんじゃねえぞ。俺が帰るまでここに居ろ。いいな!」と、 こめかみに青筋を浮かせた怖い顔で脅し半分に命令されたこと。そこまで怒らなくてもいいのに、と 膨れたくもなったけれど、そう思う一方ではその横暴な命令が嬉しくて、胸の奥がとくんと高鳴ったこと。 それと、・・・・・・ええと、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、 「・・・、何だっけ?」 まあ、いいか。土方さんが戻ってきたら聞いてみよう。 いくつか出来ている書類の山をひとつずつ畳に下ろし、文机を隅々まで拭き、 位置や順番を変えないように気をつけながらまた戻す。 久々に綺麗になった灰皿を、土方が定位置にしている右隅に戻す。それを眺めて満足そうにふふっと笑った。 たった一日で山になることもある灰皿の片付け。部屋の中のちょっとした掃除。 作業としては単純で簡単な部類だけれど、量が多くて面倒な集計作業や書類の作成。捜査資料の整理。 いつまで経っても淹れ方が上手くならないお茶。屯所内をぱたぱたと駆け回ってこなす、雑用の数々。 自分が土方にしてあげられることといえば、いつもこんなことだけ。いつもほんのちょっとしたことだけだ。 それでもこうして傍にいれば、忙しい土方を気遣うことは出来る。忙しいあのひとの手が回らずにいることを 自分なりに見つけ出して、僅かながらに手助け出来る。はいつだってそれが嬉しかった。 夢中で拭き掃除に没頭するうちに、いつしか陽が傾いていた。 庭に干していた布団は新入りの女中さんが部屋へ持ってきてくれた。どうせ土方が今晩使うのだからと、 もう一度部屋の中央に敷き直す。女中たちが使う洗い場まで行き、新入りの若い女中と比べても 格段に不器用な手つきで、水飛沫をぱしゃぱしゃと飛ばしながら楽しそうに雑巾を洗う。 床も障子戸も暖色に染まった夕暮れの縁側を、調子の外れた鼻唄を唄いながら部屋に戻った。 「よーし、じゃあ次は経費報告書とー、本庁に出すあれとー、そーだ、あれもこっそり片付けちゃおっかなー・・・!」 自然と顔がほころんでくる。なんだか久しぶりにすっきりしたというか、晴れ晴れした気分だ。 胃の痛みも無くなったし、昨日今日とぐっすり眠れたおかげで足取りもなんだか軽い。 ほんの少しだけ綺麗になった室内を気分良く眺めながら、暗くなりかけてきた部屋の隅へと向かった。 それにしてもこの部屋は、いつ来ても無駄な物がない。いつでも殺風景なまでに片付いている。 部屋を見るとその人の内面が解る、…なんてことを言うけれど、本当にその通りかも、と思ってしまう部屋だ。 こうして眺め回してみても、目につく物の殆どは仕事に必要なものばかり。趣味嗜好品らしいものといえば 煙草と灰皿だけの、生活感が薄い部屋。の目には、そんな特徴が土方自身と重なって見えるのだ。 いつ見ても仕事のことしか頭になさそうな厳しい横顔や、無愛想で素っ気ない態度や、はっきりして生真面目な性分と。 中でもこの書棚なんて極めつけにそうだ。いかにも土方さんらしい棚だと思う。 部屋の隅に置かれた、古くて傾きかけた棚。中身は過去の調書や捜査資料や手配書や、 ――つまり職務に関する資料だけ。それぞれ年度別に分類されて綴じられ、誰が見ても判りやすい状態に 整理されている。の仕事に使う資料もほんの少しだけ紛れていて、彼女はそれを自分用のカラフルな 水玉模様のファイルに収納していた。くたびれた背表紙に筆で項目を走り書きした黒い冊子ばかりの中で、 そのファイルはひどく呑気で子供っぽい。思いきり浮いて見える。 改めてじっと眺めてみると、まるで土方と並んだ自分のようにも思えて可笑しかった。 くすくすと笑いながらそれを引き抜こうとする。ところが、いつもならすっと抜き出せるそのファイルは 何かに引っかかっているらしい。はその横に並ぶ薄い冊子を数冊抜き取り、それから自分の ファイルを抜き出す。中から集計作業に使う資料を取り出し、他の冊子と一緒に棚へ戻そうとした。 しかし途中で手を止めた。黒い冊子が並ぶ列の奥に、まるで人目を避けるためにそうしているかのように 伏せて置かれた一冊が目に入っていた。
「 片恋方程式。52 」 text by riliri Caramelization 2012/03/17/ ----------------------------------------------------------------------------------- next