どっちを向いても男の人だらけな真選組の屯所にも、実は女の園と呼べる場所がある。 本棟の隣に建つその棟は、他の棟よりもすこし小さめ。唯一の女性隊士なあたしの部屋もその棟にあって、 他にはどんな部屋があるかというと、女中さんたちの作業室や、調理場のおばさんたちも使う広い休憩室。 それから、お風呂場と繋がっている洗濯部屋、物置、布団部屋…、などなどなど。 「女が三人寄れば姦しい」なんて言葉もあるくらいだから、昼間は話し声や笑い声が飛び交ってすごくにぎやか。 逆に夜はすごく静かだ。あたしが入隊した時に土方さんがお触れを出してくれたおかげで、夜間完全男子禁制に なっているから。そのお触れの効き目もあってか、日が高い時間でも、男の人がここまで足を運んでくること自体が めずらしかったりする場所なんだけど。 ――しかも、ここまでたくさん集まってるなんて。・・・こんなの前代未聞じゃないのかなぁ。 「これさぁ、角の和菓子屋の大福なんだけど。 さんは甘いもんが好きだって聞いたから買い込んだんだ。ははは、ちょっと多かったかなぁ」 「うわぁ、こんなに?いいんですかぁ、ありがとうございます」 「いいんだって、俺らいつもちゃんに励まされてるからさー、たくさん食べて早く体力取り戻してほしいんだよ。 これも食べてよ、ただのコンビニ菓子だけど」 「あっ、これ、このクッキー、あたし大好きなんですよー!ありがとうございます」 紛らわしい倒れ方をして運び込まれた病院で「神経性胃腸炎」なんて診断をされて、病人生活二日目の午後。 昼間だけどお布団敷きっ放しの部屋には、なぜか朝から続々と、お見舞い客が詰め掛けっ放しだ。 お医者さまには安静にしてろって言われてる。でも、お客さまを寝たままお迎えするのは気が引けるから、 あたしはお布団の中で上半身だけ起こしてる。見渡した六畳間は詰めかけた十二人が布団を囲んで座ると もうそれだけで満員御礼、足の踏み場もないくらいだ。病院で貰った薬や水差しが置かれた枕元には、 お見舞いの品々を積み上げた小山が出来ている。みんなあたしが甘いもの好きだと知ってくれているみたいで、 お見舞い品のほとんどがお菓子だった。近所の和菓子屋さんの袋とか、近所のケーキ屋さんの箱とか、 流行りのコンビニスイーツとか。デパ地下なんかで売ってそうな、高級そうなチョコレートの箱もあれば 近所にあるお花屋さんの店先でよく見掛ける、可愛いブーケなんかもあったりする、・・・んだけど。 ――あれっ。 急に不思議になってきて、お見舞い品の小山を眺めて首を傾げる。 ・・・最近いろいろあったからすっかり忘れてたけど、たしか前にも、これと似たようなことあったよね。 朝起きたら、部屋の前にお菓子やお花がいっぱい置いてあったり。食堂でご飯食べてた時に ちょっとだけ席を立って、お茶を貰って戻ってみたら、テーブルの上がお菓子だらけになってたり―― あれっていつ頃のことだっけ。 「ごめんなーちゃん、こんな大勢で押しかけちまってさぁ」 いつだっけ、と考え込んでたら、一番近くにいた二番隊隊長、永倉さんに満面の笑顔で声を掛けられた。 そういえばこれも不思議だったんだけど、今日お見舞いに来てくれた人はどの人もなぜか揃って満面の笑顔だ。 ・・・ショックだなぁ。そんなに笑っちゃうほど面白いのかなぁ、あたしの傷だらけすっぴん寝惚け顔。 「悪いなぁ、かえって迷惑だったんじゃねーか?疲れちまわねーよーにすぐに退散するからさ」 「えっ、そんなことないですよー。たいした病気じゃないのにお見舞いに来てもらって、申し訳ないけど嬉しいです。 で、でも。あのー・・・・・・・、ひとつ気になってることがあって。訊いてもいいですか?」 「俺たちに!?聞いて聞いて!なんでも聞いて、どんどん聞いて!!」 きらーん、と目を輝かせた全員が揃ってずずいっと身を乗り出す。 おもわず掛布団ごと仰け反った。 全員ガタイがいいだけあって、詰め寄られると圧迫感がものすごい。…ど、どうしよう、おもわず笑顔が引きつっちゃう。 「みなさん任務はどうしたんですか?まさか全員揃って非番、・・・・・・なぁんてことは、ないですよねぇ・・・?」 あはは、と笑いながら、でもおそるおそる尋ねたら、全員がふいっと目を逸らした。 みんな反応はバラバラだ。顔に大量の汗を流しはじめる人、天井見上げてぽりぽり頬を掻いてる人、 ひゅーひゅーと意味なく口笛なんか吹き始める人に、微妙な半笑いを浮かべてる人。 みんなの反応を見てるうちにあたしまで冷汗が滲んできて、いやな予感で顔がぴきぴき固まってくる。 だって全員が全員、申し合わせたみたいに無言だし。「サボりました」ってしっかりその目に書いてあるし! 「ちょっっ、だめです、だめですよみなさん!年末年始はただでさえ忙しくて どの部所も人手不足なんですからっ。お願いですから今すぐ持ち場に戻ってくださいぃっ、今すぐ!」 「判ってないなぁちゃん。こんな時だからこそだよっ」 「だよなーっ、むしろ今ここに来ねーでいつ来れるんだって話だよなぁっ」 「えぇっ、で、でもぉ」 「そーだよなぁっ。こんな時じゃねーとさんの部屋に上がり込む機会なんて一生ないもんなぁ、俺らには」 「普段は遠慮してんだぜぇ俺たち。こんな時でもねえとおおっぴらに迫れねーんだから」 「そーそー、最近は副長も監視を緩めてるっつーか、前ほど目ぇ光らせてねーよーな雰囲気だからいーけどさぁ。 前はよー、もし見つかれば半殺しの目に遭わされるのは必死だったしなぁ」 「いやいや、今だって状況は変わんねーだろぉ?副長が見逃してくれたって沖田さんがいるんだからよー。 見つかったらバズーカ連射で追い回されるもんなぁ。半殺しどころかマジでタマ奪りにくるから怖ぇーよなぁ、あの人は」 「・・・!?なっっ、なんですか半殺しって。なんですかバズーカ連射って!!」 「ははは・・・やっぱり気づいてなかったんだぁちゃん。・・・ははははは、だ〜よね〜、そ〜〜だよね〜〜・・・」 ははははは、はは、は、ははははははははははは。 部屋中に乾いた笑いの大合唱が広がって、みんなが妙に遠い目をしてこっちを見てる。 たぶんみんなはあたしの反応を待ってるんだろうけど・・・驚きすぎて言葉が出ない、口がぽかんと開きっ放しだ。 知らなかったよ。そんなことしてたんだ土方さんてば、総悟ってば・・・! 「――まぁ。まだこちらにおいででしたか、皆さん。 ここは病室ですから長居なさらないで下さいと、先程もあれだけ申し上げましたのに・・・」 すーっ、と音もなく襖戸が開く。 後ろから掛けられた声にぎくっとして、全員の背中がかちんと固まる。襖戸の影から笑顔で現れたのは、 局長副長でさえ頭が上がらない唯一の人。ある意味土方さん以上に屯所を牛耳っている、女中頭の鬼河原さんだ。 「さんの仰るとおりですよみなさん。どうぞ今すぐ任務にお戻りください」 「そんなぁ、お願いですから見逃して下さいよー椿さぁん」 襖の近くに座ってた七番隊の大柄な隊士さんが頭を下げて、小柄な鬼河原さんを 「ねっ、今日だけですからっ」と拝み倒す。 すると鬼河原さんの顔から穏やかな笑みがすっと消える。ほんの一瞬だけ能面並みの不気味な無表情になって、 それを見てしまったあたしたち全員の背筋はぞぞぉーっと凍りついた。おたおたと後ずさる全員を前にして 鬼河原さんは皺の寄った口許を割烹着の裾で押さえてうつむくと、悲嘆に暮れた悲しげな態度で訴えた。 「悲しゅうございますねぇ。老い先短い年寄りの願いでも、お聞き入れいただけないのですね・・・」 「いっっ、いやっ、違うんです、違うんですよ椿さんっっっ、俺たち決して椿さんを悲しませようとは!!!」 「そそっ、そーですよ!ただ、そのぉ・・・、俺たちには俺たちの事情があるっていうかぁぁ!」 「いいえ、よいのでございますよ。どうかお気になさらないで下さいませ。 お若いみなさんが口煩い老婆をお厭いになるのは当然のこと。しゃしゃり出たわたくしが悪いのです」 「いや、いやいやいや、そーじゃなくて!!」 途端にみんながあたふたと、襖戸のほうへ詰めかける。 楚々とした仕草で目元を拭い終えると、鬼河原さんは顔を上げた。たちまちに笑顔を取り戻して、 「いいえ、お気遣いは無用にございます。こんなこともあろうかと思い、今しがたお呼びして参りましたので」 「へ。お呼びして、って・・・」 ――あれっ。 なんだろ。遠くから何か聞こえるんだけど。 廊下のほうからだ。何か低い音がこっちへすごい速さで向かってくる。足音だ。誰かがこっちに向かってくる。 足音っていうよりも地鳴りに近い。 床を踏み抜きそうな大きな音を鳴らして近づいてくる。ドカドカドカドカドカドカドカドカドカ―― 「てっっっっっめーらぁにやってんだコルぁあああああああ!!」 すぱぁあああんっっ。 閉まってた障子戸が左右に弾き飛ばされ、血走った目をかあっと見開いた土方さんが怒鳴る。 突然の登場と怒声に、鬼河原さん以外の全員が震え上がった。だけど一人も逃げようとしない。・・・ていうか、 逃げたくっても逃げられない状態だよね、これって。 目の前には泣く子も黙る屯所の鬼。後ろには謎の微笑みを絶やさない屯所の鬼子母神。 微動だに出来ないみんなの顔が恐怖でガチガチに強張っていって、すーっと、 一気に青ざめていく。うわぁどうしよう、怒鳴られる?それとも張り飛ばされるか蹴り飛ばされる? どっちにしたって絶体絶命な状況だってことには変わりがない。 別に何も悪いことはしていないあたしまでつい条件反射でびくびくしちゃって、掛け布団を抱きしめて ガクブルしながら怯えていたら、なぜか土方さんがこっちを向いた。 どかどかと畳を踏み鳴らして目の前までやってきて、腰を屈めて枕と薬を手早く掴む。えっ、何で? 目を丸くして見上げていると、今度は鬼河原さんに振り返る。ぎろりと眼光鋭く全員を見渡しながら、早口に言った。 「椿さん、こいつらのこたぁ任せます。この際だ、きつめに灸でも据えてやってください」 「はい、かしこまりました」 「、来い。今からてめーは俺の部屋預かりだ」 「は、はいっ、・・・・・・・・・・・って、ええっ?な、何で!?」 「いいから来い。これ以上面倒かけさせんじゃねぇ馬鹿パシリ」 言い終らないうちに土方さんが隊服の上着を脱ぎ始める。 今は真冬で部屋の中でも寒いのに何で脱ぐんだろうと思っていたら、がしっと手首を掴まれる。 ぐいっ、と身体を引っ張り上げられた。 脱いだ上着をばさっと頭から引っ掛けられる。途端に肩や背中が温かくなったけど前が見えない、真っ暗だ。 「え、な、待っ、土方さ、 ――ぅっっわぁ何これぇ、煙草くさっっ」 「うっせえ、部屋まで辛抱しろ」 「や、嘘でしょ、だってこれ何も見え・・・って、えっ、ちょっっ、ひ、や、な、ななっっっ」 強制的に立たされたあたしはそのまま土方さんの肩に担ぎ上げられ、部屋から連行されてしまった。 片腕で腰を抑えただけの荒い担ぎ方は重心が不安定で、土方さんが踏み出すたびにゆらゆら揺れて、今にも落ちそう。 怖がったあたしが「ぎゃー!」とか「ひー!」とか素っ頓狂な声を上げて暴れるたびに、上着の上から無言で手刀が 落ちてくる。痛い。このただでさえ馬鹿力な手に加減無しでガツンとやられるのは久しぶりだし、すっごく痛い。 しかも途中で「お疲れ様です」と声を掛けてきた誰か(…あの落ち着いた声、たぶん通信室の室長さんだ)は すれ違い際にぷっと吹き出していたし、最近入ったばかりの若い女中さんらしき女の子たちにも おかしそうにくすくす笑われてしまった。遠ざかってもまだ聞こえてくるひそひそ声とくすくす笑いを 耳にしながら、あたしはがっくりとうなだれて暴れるのをやめた。 ・・・この間抜けな目隠しプレイの評判、今日の夜には屯所中に広まっちゃうんだろーなぁ・・・・・・・・。
片恋方程式。 51
「馬鹿かてめーは。見舞いに駄菓子貰った程度でどいつもこいつも部屋に入れて、 しかも寝間着姿でへらへらと、気前よく愛想振り撒きやがって・・・」 屈辱の目隠しプレイから逃げ出せないまま副長室に着いたら、今度は敷いてあったお布団にどさっと落とされ、 上から掛布団をばふっと被せられた。あたしの顔に持ってきた枕をむぎゅっと押しつけ「病人は大人しく寝てろ」と 言い放ったひとは、もう文机の前で座ってる。座った途端に掴んだ煙草の箱から一本出して、 さっそくライターで火を点けにかかっていた。 「自慢じゃねえがうちにはゴキブリ並みに溢れてんだぞ。女の寝間着姿ひとつに群がってくる、万年発情期のサルどもが」 「ぇえー。ていうことは近藤さんがサル山のボスゴリラでー、土方さんがNo.2のオランウータンですねぇ」 と、けらけら笑いながら話しかける。ライターをカチカチやってた手をぴたりと止めた土方さんが、くるりと 無言で振り返った。起き上がって身を乗り出して喋りかけていたあたしは、あたふたと布団の奥まで引っ込んだ。 ぎろっ、と瞳孔全開で凄んでくる、殺気に満ちた目が怖い。夢に出てきてうなされそうなくらい怖い。 「それ以上言いやがったらぶっ殺す」って、煙草をぎりっと噛みしめた顔にしっかりくっきり書いてあったし。 「いっ、いいじゃないですかぁお見舞いに来てくれたんだから、部屋の中に入ってもらうくらいは」 「けっ、何が見舞いだ。見舞いなんざ口実に決まってんだろ。奴らの緩みきった面ぁ見りゃあ一目瞭然じゃねーか、 ぺらっぺらに透けて見えんだろ下心が。それを何やってんだてめーは、何でいちいち部屋に入れてんだ? 障子の隙間から手ぇだけ出して、貰うもんだけ貰っときゃ済むもんを・・・!」 「そんな失礼なこと出来ませんよ。ていうか土方さんが思ってるようなことは誰も考えてないですってば。 こんな傷だらけでぼろっぼろの寝惚け顔じゃ、見ても笑っちゃうだけだし。ていうか、実際みんな笑ってたし」 あんまり強く押さないように、左目の上瞼を絆創膏の上からそーっと触る。 昨日気になっていた瞼の腫れは、起きたらすっかり引いていた。今はちょっと痒い程度、かな。 銃の弾に引っ掻かれたほっぺたの痛みも、わりと軽くなってる。他にも絆創膏貼りっ放しなところはあるけれど、 細かい擦り傷は一晩寝たらかさぶたになってたし、どれも浅い傷みたいだから、跡はほとんど残らなさそうだ。 「それにあたし、土方さんみたいに図々しくないですから。誰かに何か貰ったら、ちゃんとその人にお礼したいんですよー」 「・・・判っちゃいねえ」 「判ってますよー!土方さんこそ判ってないじゃないですか。お見舞いに来てくれた人にお礼して何が悪いんですかぁ」 「悪りぃに決まってんだろこのお人好しが。フン、これだからてめえは何かってぇと男どもにつけ込まれんだ。 あの連中はなぁ、お前が無意識に振る舞ってる礼が目当てなんだよ。あの中に下衆な下心抜きで見舞いに来た奴が 何人居ると思ってんだ?」 「えーっ、ひどいぃ。誰も下心なんて持ってませんよっ。みんな心配して来てくれただけじゃないですかぁ」 「・・・・・・――っとにてめえは」 土方さんがこっちを睨みつけたまま肩を落とす。 ふーっ、と真横に引き結んだ口許から盛大に煙を吐く。白く昇った煙には、多少の溜め息も混ざっていそうだった。 「困ったもんだ。・・・あの髭面忍者の言い分じゃねえがな。っとにてめーは、泣けてくるほど男を見る目がねえな」 その声はやけに嘆かわしげだった。 すっかり呆れているような声だ。でも、少し可笑しがってもいそうな響きも見え隠れしてる。 こっちを見る目がちょっと笑ってるし。もしかしたらからかわれてるのかなぁ。 ・・・あたしの反応見て遊んでるのかも。ほんと性格悪いんだから。 悔しくなって睨み返した。なのに、睫毛を伏せ気味にして笑ってる目に、なんとなくどきっとさせられてしまう。 「・・・・・・・・。もぅ。何なんですかぁ昨日から。ずるいですよぉ・・・」 「あぁ?」 「っっ、なっ、何でもないですっ」 おたおたしながら枕をひったくって両腕で抱きしめて、ぼふっと顔にくっつける。 あわてて遮った視線はまだ逸らされていないみたいだ。矢印がこっちへ固定されたままの気配を感じて、 頬がかーっと熱くなった。 ・・・・・ああっもう、いたたまれないぃ!ていうかそわそわする。すっごく落ち着かない。 この部屋に居ること自体が落ち着かない。居慣れたはずの土方さんの部屋が落ち着かない。 煙の匂いが混じったこの部屋の空気が落ち着かない。 身体を包んでいるのは煙草の香りが染みついたお布団で、漂ってくるのはよく知っている香りなのに、 初めて触ったシーツや掛け布団の感触に困ってしまう。でも、あたしをこんなに落ち着かない気分に させているのはこの環境じゃない。この環境を作り上げてる本人だ。 昨日からずーっと、あたしは困りつづけてる。寝ても醒めても困りっ放しだ。あたしの回りにある全部が 土方さんのペースで動かされてるような気がして仕方がないからだ。昨日病院で起きたあれ以来、 このひとがあたしに向ける態度は急に変わった。口調や表情の素っ気なさにはぜんぜん変わりはないんだけど、 ――気のせいなのかなぁ。土方さん、なんだか急に過保護になった気がする。 口では何も言ってくれないけど。でも、内心では相当、あたしの怪我や病気を気にしてるんじゃないのかな。 ・・・そんなの、どっちも土方さんのせいじゃないのに。あたしが勝手に怪我して、勝手にお腹が 痛くなっただけなんだから、土方さんが気にすることなんて全然ない。怪我なんてほんの打撲程度だし、 お腹の痛みはもう殆ど感じない。だからもう大丈夫、今日からでも働けますって今朝も頼んでみたんだけど、 全然耳を貸してくれなかった。昨日もなんやかんやと文句言いながら、結局あたしを部屋まで担いで運んでくれたし。 昼間も夜も、何度も様子を見に来てくれた。今までの無関心さや冷たい態度が嘘みたいに気に掛けてくれる。 ていうかもう、監視に近い見守り体勢っていうか・・・「自分の目が届くところに置いておかないと気が済まない」 なんてことくらいは思っていそうな雰囲気だ。今の騒ぎだってそう。鬼河原さんから話を聞いた途端、 この忙しいひとが仕事を中断して、自ら、わざわざ来てくれたんだから。しかも自分の部屋まで連れ帰るなんて。 …まあでも、それは、みんながお見舞いを口実にサボろうとするから仕方なしに、 っていうのが主な理由なんだろうけど。理由はともあれ、あたしをここで一日面倒見てくれるつもり、・・・みたいだし。 傍にいてもいいって言われてから。病院でぎゅっと抱きしめてもらってから――あれからずっとこんなかんじで。 遠く開いていた土方さんとあたしの距離は、急激に、一挙に縮まってしまったみたいだ。 病院から戻っても。部屋で一人になっても。一晩眠って朝が来ても。それでもまだ、このひとの腕の中から 抜け出せてないような不思議な感覚が、背中や肩のあたりをふわふわと、くすぐったい感触で覆ってる。 これはたしかに自分の身体なのに、所有権はすっかりこのひとに握られちゃってる。そんな不自由さを感じて 自分の胸元を眺め下ろすたびに、ほんのちょっとだけ胸が詰まって、なんとなく息苦しくなってくる。 なのにその息苦しさは、ちっとも嫌じゃなくて。なぜかそれを感じると、身体がぽうっと熱くなる。 それに――これって、本人も無意識なのかもしれないけど。昨日から土方さんは、 あたしが今までにほとんど目にしたことがない、慣れない表情を浮かべるようになった。 みんなの前で見せている隙がなくて厳しい副長の顔よりも、ちょっと毒気が抜けている。 考えてることや感情があまり顔に出ないところは、いつものこのひととそう変わらない。 でも、どこか優しい。どこか甘い。 そういう顔を見せられたらあたしは無条件でどきっとしちゃうから、どうしてもあわててしまって、調子が狂う。 言わなくてもいいことを言い返しちゃう。茶化さなくてもいいことを茶化してしまう。 …可愛くないなぁあたし。話の流れでついつい反抗しちゃったけど、あんなこと言わなきゃよかった。 さっきの会話を思い返したらちょっと恥ずかしくなってきて、枕に額を押しつけてかぶりを振った。 本当は判ってるんだけどな。 ――お見舞いに来てくれた他の誰よりも、あたしのことを心配してくれてるのは誰なのか。 「ところで――何人来たんだ、見舞いの奴等は。寝床の横に山が出来てたじゃねーか」 「そっ、そーなんですよー、今朝から入れ替わり立ち替わりで。お菓子たくさん貰っちゃいました」 「えれぇ盛況だな。昨日は誰も来なかったってのに」 「昨日は近藤さんや土方さんがいたから寄りつけなかったって言ってましたよ、藤堂さんが」 今朝のお見舞い一番乗りは藤堂さんで、あたしがお粥をはふはふしながら食べてるところに 可愛いお花を持って来てくれた。そう言ったら、微かに土方さんの眉が吊り上がった。 「・・・・・、藤堂まで来たのか」 「はい、隊長さんは原田さん以外全員来てくれました。永倉さんなんて朝と午後と、二回も来てくれて」 「ちっ。ちょっと目ぇ離した隙にまた増えやがった」 「は?」 意味不明な舌打ちとつぶやきを漏らした土方さんが、机の端に頬杖をつく。何か考える体勢に入った。 煙草を挟んだ指でこめかみのところをとんとん打ってる。鋭い目は斜め下の畳を見つめていた。 ・・・いったい何を企んでるんだろう。「ここいらで一発、蹴散らしておくとするか」なんてことを ぼそっと言うと、物騒に光らせた目つきを畳に向けたまま、口端を歪めてにやりと笑った。 「・・・土方さぁん、こわいですよやめてくださいよその顔。どう見てもおまわりさんの顔じゃないですよー。 ていうか何ですかぁ、何の話ですか蹴散らすって」 「うるせぇ。病人は病人らしく黙って寝てろ。つーかおい、誰が起きていいっつった?布団から出るんじゃねえ」 「ぇえー無理ですよー、眠れませんよー。すっっっっっごく煙草臭いんだもんこの布団」 もそもそっと布団の奥まで潜り込んで、くんくんと鼻を鳴らして匂いを確かめる。 ・・・信じらんない。どーしてこんな布団で眠れるんだろう、土方さんて。 一晩眠るだけで全身に煙草の匂いが染みつきそうなお布団だよ。ファ×リーズ一本丸ごと使っても、 まだまだ煙草の匂いがしそうだよ・・・! 「どーやったらここまでヤニ臭く出来るんですかぁ。ああっ、もしかして寝煙草? 寝煙草ですかぁ?やめてくださいよー、屯所が火事になったらどうするんですかぁこの放火犯」 「勝手に放火の容疑かけてくんな。つーか寝しなには吸ってねぇよ」 「本当ですかぁ?怪しいなぁ」 「しつっっけーな、吸ってねえって言ってんだろ。 ・・・ったく、可愛げのねぇ。昨日の今日で急にピイピイと、口やかましくなりやがって・・・」 「え?なに?何て言ったんですかぁ今」 「言ってねえ」 「えーっ。言ったじゃないですかぁ、なんか小声で、ぼそぼそって」 「言ってねえって、――」 こっちを歯痒そうに睨みつけながら、土方さんが振り返る。 あたしにぴたりと目の焦点を合わせると、文句を言いかけていた口が急に止まった。 何か思いついたような顔になる。 シャツを少し捲くった腕を畳に突いて立ち上がって、こっちへ歩いてきた土方さんが 枕元で膝をつく。真上から見下ろしてくるから、煙草を手にして薄く笑う土方さんの姿で 一杯になった視界は陽射しが遮られて、灰色の影で染まっていた。 「気になるなら確かめてみろよ。俺が寝煙草してんのかどうか、今晩、寝しなに」 「・・・!」 なんてことを煙を吐きながらぼそりと言われて、頭の中が真っ白になる。 続いてかちんと固まっていた顔がぼわっと赤くなって、真っ白になってた脳内はいきなりどかんと爆発、 火を噴いたみたいに頭も身体も熱くなった。 ぱく、ぱく、ぱく、ぱく。 布団に潜ってる身体が石みたいに凝り固まってる中で、口だけが意味なく動いてる。 何か言い返してやりたいのに喉が動かない。声が出ない。あぅ、あぅぅ、と意味なしなうめき声だけ漏れてくる。 ・・・・・・な。なななななな。なっ。なんで。そんな、ついでに尋ねてみました的な態度で煙草ふかしながら、 そんな平然とした、したり顔で!!! 「何だお前。・・・やけに口煩せぇからもしかしてとは思っちゃいたが。やっぱり緊張してんのか」 「っっ!!?ち。ちが。し。しっ、してないぃ!」 「へぇ。図星か」 「違うぅぅ!」 がばっっ。全力で否定しようとして、布団を跳ねのけて起き上がる。 でも、すっかり確信を得た土方さんの「これをどうからかってやろうか」って思っていそうな、 なんとなく愉快そうな様子を目にしたら、そんな勢いもあっというまにへなへなと萎えてしまった。 赤かった顔をさらに、燃えそうなくらい真っ赤にして、すごすごと布団を引き被る。 ごにょごにょごにょっと小さな声で、顔に枕をむぎゅっと押しつけながら白状した。 「だ。だって。だってぇえええ・・・ひ。土方さんと、こんなに長く喋るの久しぶりだし。 ・・・煙草くさいし。二人きりだし。煙草くさいし。土方さんの部屋だし。煙草くさいし。土方さんのお布団だし・・・!」 「おい。何で三度も煙草臭いを強調した。煙草臭せー布団で簀巻きにすんぞ。窒息させんぞコルァァ」 「もっ、元はと言えば土方さんが悪いんじゃないですかぁっ。ね、寝しなにとか、変なこと言うからっっ」 「あぁ判った判った。わめいてねえで早く寝ろ、ガキが」 「〜〜〜っっ!」 あたしの頭をわしっと握って髪をぐちゃぐちゃに掻き混ぜると、土方さんはさっさと机の前に戻った。 たまに小さく背中が揺れる。 思い出し笑いを繰り返しながら書類に目を通している姿を見つめて、あたしはあわあわと口籠った。 抱きしめてる枕の影で頬を膨らませる。ばたばたばた。布団の中の両足をじたばたさせる。 うああもうっ、悔しいっ。 なのに結局何も言い返せなくって、そのまま布団を引っ被った。 ――やけになって不貞寝しようとして、でも眠れなくって。 布団の端を弄りながらしばらくもぞもぞしていると、誰も動かない部屋の空気はゆっくりと畳に沈殿していった。 ほんわりと暖まった室内はしんと静まっている。布団にくっつけた耳に届くのは、こっちに背を向けて座るひとが ぱら、ぱら、と早い仕草で書類を捲る微かな音。それから、部屋の隅にある火鉢の上でしゅんしゅんと 湯気を昇らせている薬缶の音。 柔らかい音に耳を傾けているうちに眠気が強くなって、頭の芯がぼうっとしてくる。 目元まで覆っていたふわふわの羽根布団を口許まで下げて、ふう、と小さく呼吸して。真上の、薄暗い天井を見上げた。 クリスマスイブのあの夜も、あたしはこうして仰向けに天井を見ていた。 あの日見たこの部屋の景色は、どこも真っ暗で冷え冷えとしていて。深い黒に染まっている天井の もっと向こうまで、冷たい暗闇はどこまでも続いていそうで。いつかはあたしもそれに飲まれてしまいそうで怖かった。 けれど今のあたしには、あの夜に感じた暗闇の冷たさはもう感じられないし、 この部屋があの時とは違う部屋みたいに見える。 副長附きになってからずっと通っていたこの部屋とも違う。同じなのにどこか違う。同じなのに、別の部屋だ。 薬缶が漏らす湯気の音が耳に心地良い。ぼんやり眺めている背中からは、あたしを拒もうとする気配は すっかり消えてしまってる。だからあの背中がこっちを見てくれなくても、何も言ってくれなくてももうさみしくない。 まだ肌に慣れない土方さんのお布団は、煙草くさいけどあったかい。 ああ。なんだかまだ夢を見てるみたい。ちっとも実感が湧かないや。 今までは近くにいてもすごく遠かったひとを、こんなに近くに感じられる。 ――どんなに手を伸ばしても届かなかった土方さんが、あたしのほうへ手を差し伸べてくれるようになったんだ。 ――すっかり陽が暮れた夕方、鬼河原さんに起こされた。 部屋の中もいつのまにか暗くなっていて、土方さんは居なかった。 任務から戻ってきた人たちのばたばたした足音やにぎやかな気配を廊下の向こうに感じながら、 運んでもらったご飯をお布団の上で食べる。苦い粉薬を湯ざましで喉まで送り込んで、またころんと横たわる。 煙草臭いお布団にも、だんだん身体が馴染んできたみたいだ。自分以外の人がつけた残り香や お布団やシーツの感触の違いにも、あんまり違和感を感じなくなっていた。 もぞもぞ動いて頭まで深々と羽根布団を被ると、急に身体が思い出す。 ――昨日抱きしめてもらったときも、隊服の胸元からこんな匂いがしてた。 強い煙草の匂い。男のひとの匂い。包まれてるだけでせつなくなるのに、なんとなくほっとしちゃうから不思議だった。 昨日のことを思い返して頬を赤らめているうちに、瞼がふうっと下がってくる。 ご飯を食べて温まった身体がうとうとと眠気に誘われて、あくびが口をついて出る。すこしずつ身体の力が抜けていく。 処方してもらったお薬には、飲むと眠くなる薬も混ざってる。 そういう薬を飲み慣れてないあたしの身体には、必要以上に良く効くみたい。 布団に潜って十も数えないうちに、とろんと落ちた瞼がくっついて。あっという間に意識が飛んだ。 意識が霞んでふつりと途絶えていく、その間際。近くで煙草の香りがした―― ような気がした。 次に目を覚ましたときには、硬い感触に肩を抱かれていた。 枕を宛てていたはずの首の下にも、硬い感触。 人肌の温かさが、うなじに当たった布地を通して首筋をしっかり覆ってる。 左の肩先を大きな手の感触が握っている。その手のひらの高めな温度が肌まで染みてきて気持ちいい。 頭の中をどんより重たくしている眠たさに眉を曇らせながら、ぱちぱちと、瞬きを繰り返して目を開く。 周りが暗い。真っ暗ですごく静かだ。 人の声も物音も聞こえない。まだ夜中なんだ、となんとなく思う。 横向きで寝そべっている目の前は、骨っぽい首筋や鎖骨が覗く誰かの衿元で遮られてる。 そこからあの強い香りが流れてくる。肩を抱いている感触からも同じ匂いがした。 ――腕枕されてる。 まだぜんぜん眠り足りない、って訴えてくる頭の隅でぼんやり認めながら、寝惚け声を漏らした。 自分が誰に何を言おうとしているのか、なんて意識は、ちっとも、どこにもなかったけれど。 「・・・やっぱり、・・・・・吸ってるじゃ。ない。れす。かぁ・・・」 ふにゃふにゃした芯のない声でつぶやいたら、ふーっ、と煙を吐き出しかけていた息遣いが半端に止まる。 腕枕していたほうの肩がごそっと動いた。 身体を屈めるようにして頭を下げた土方さんは、思ったとおり火の点いた煙草を咥えていた。 細い煙を昇らせる先をわずかに揺らして、意外そうな顔をしてこっちを見てる。黙って何秒かあたしを見つめてから、 答える気を失くしたみたいに顔を逸らした。真上の天井を見上げて、ふっと目元を細めて笑う。 普段よりも眉間が緩んだ、ちょっと気だるそうな横顔を見つめているうちに、頬にかーっと血の気が昇ってきた。 今までに見たことがないその顔は、どきっとするほど色っぽかった。 「・・・・・・?あれぇ。なんれ。れす。かぁ?どぉ。して。土方さ。・・・あたしの。部屋、でぇ・・・」 「俺の部屋だ」 「・・・ふぇ?」 「お前、寝過ぎて呆けてんのか。それとも寝言か、どっちだ」 低めた声で言いながら、土方さんが肘を突いて身体を起こした。 腕枕してもらっていたほうの腕があたしの首元から擦り抜けて、離れていく。支えがなくなった首筋が ひんやりした冷気に触れて、ぞくりと鳥肌が立った。寒い。思わず肩を竦めて、もぞもぞと布団の中に潜り込む。 黒い寝間着の袂が、さらりと目の前に落ちてきた。頭の上の暗闇には、土方さんの腕や肩がゆっくり動いてる気配がある。 ぐしゃ、と小さく、紙みたいな何かを潰す音がした。煙草を消してるんだ。あれは灰皿で吸殻を潰した音。 ああ。でも。変だ。・・・・・あたしの部屋には灰皿なんてないはずなのに。 「おい」 「ふぁい・・・?」 どうしてだろ。わからない。 どうして土方さんがいるんだろう。どうしてこんなに近いんだろう。 どうしてあの少し伏せた目が、こっちを見つめて笑ってるんだろう。 肩と背中に回ってきて、ぎゅっと抱いてくれる二本の腕があったかい。背中を遠慮なく引き寄せていく力強さが嬉しい。 思わず表情が緩んで、笑っちゃうくらい嬉しい。 ――でも、すごく眠たい。 目は覚めているのに、頭の中はまだ眠ってる。意識はとろとろに溶けたままだ。 だから、わからなかった。 目の前に影が迫ってきても。熱い何かに顔を覆われて、押しつけられて呼吸を奪われても。 「・・・・・・・・ん、ふ、・・・・く、」 「・・・、」 「んんっ。ん、――・・・・・っ、」 わからない。何が起きてるんだろう。 濡れた何かが唇を割って入り込んでくる。口の中をきつい煙の香りで一杯にされて、くらりと弱く眩暈がしてくる。 唇を大きくこじ開けられた。舌を奪うようにして絡め取られて、口の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜられる。 びっくりして逃げようとしても動けなかった。頭と首筋をしっかり抑えられて身動きできない。 唾液ごと酸素を吸われて、息が出来ない。苦しい。んんっ、と鼻にかかった変な声が、濡れた口の端から漏れる。 身体の芯がじんわり火照ってくる。その熱さがなんだかすごくせつなくて、背筋や腰がぶるっと震えた。 湧き上がってくる不思議な熱と息苦しさのせいで、最初からはっきりしていなかった意識がさらにぼうっと溶ける。 頭の中に靄でもかけられたみたいに白く霞んでぼやけていく。腕がいつのまにか土方さんの背中に 縋りついている。口の中で動く何かに深いところをゆっくりと、角度を変えて何度も撫でられる。 撫でられるたびに震えが走った。寝間着の布地を握った指にも、布団の中でぎゅっと縮めた足の爪先にも。 ・・・・・・・・・変なの。何だろうこれ。何が起こってるんだろう。 でも、宥めるみたいに髪を撫でてくれる手が気持ちいい。頭を抑えていた腕が肩や背中を撫で下ろしていって、 大丈夫だ、って言いたげな仕草で抱きしめてくれるから気持ちいい。 それに、――知ってる。このかんじ、知ってる。 土方さんにぐちゃぐちゃにされて頭が真っ白になっちゃう、このかんじ。前にも、どこかで―― 「・・・・・・・ふ、・・・は、・・・・・」 奥まで入り込んでいた熱いものがすうっと引いていって、最後に唇を軽く啄ばんだ。 土方さんの顔が離れていく。とろりと濡れた感触だけが肌に残る。 息苦しさがようやく消えて、ふぅ、と吐息を漏らしたら、濡らされたところがあっという間に冷えていく。 尾を引きながら消えていく気持ちよさにぼんやりしながら、息の上がった声で問いかけた。 「・・・さ、・・・・・・め・・・?」 「あぁ?」 「・・・き。キス。・・・・・・・・・・三、回、・・・め、・・・・・?」 「馬鹿言え。四度目だ」 「ふぇ・・・・・・?」 「あぁ。細けぇこたぁ朝んなってから考えろ。いいからもう眠れ。さっさと身体治せ」 「ぇえ・・・?ちがいますよぉ・・・さんかい、・・・・・、」 言いかけてから、視界を塞いでいる姿を見上げる。 土方さんも少し息が上がっていた。 こっちを見つめる顔は目元が細められていて、昼間に見る土方さんの表情よりもずっと和らいでる。 ・・・なのに、どうしてだろう。 瞬きもなくじっと視線を注いでくる目は少しだけ怖くて、見上げていたら視線を逸らせなくなった。 身体の芯に響く低い声で「いいから寝ろ」と言われて、背中から抱き寄せられる。 荒い呼吸を繰り返す胸と胸がぴったりと合って、その動きを感じながらじっとしているうちに、 鼓動が少しずつ静まっていく。頭をぐいっと引き寄せられて、あたしの顔は煙草の匂いがする首筋に深く埋もれた。 最初はごそごそと身じろぎを繰り返していた土方さんは、腕枕している左腕が落ち着く位置を見つけると すぐに眠ってしまった。目の前を覆っている熱い身体から力がすこしずつ抜けていく感覚が、全身に、直に伝わってくる。 いつのまにか頭の上から規則正しい寝息が漏れるようになって、それを聞いていたら あたしまで眠たくなった。なのにどうしてなのか、眠れない。 とろとろに蕩けて何もまともに考えられなくなってるはずの意識に、小さな何かがしこりみたいに引っかかっていて 一秒でも早く眠りたがってる身体を眠らせてくれない。 なかなか眠りに落ちていかない。意識を手放してぐっすり眠るには、何かが、ちょっとだけ足りていなかった。 抱っこしてもらって嬉しいのに。 煙草の匂いがする腕の中はこんなにあったかくて、こうして寄り添っているとそれだけで安心出来て、気持ちいいのに。 どうしてなのかな。ほんのちょっとだけもどかしい。何かが足りない。 ――物足りない。
「 片恋方程式。51 」 text by riliri Caramelization 2012/03/02/ ----------------------------------------------------------------------------------- next