片恋方程式。

50

「・・・・・・・・・・ひ。じかた、・・・・・・さん?」 「・・・・・、」 「あ、あのっ。もう大丈夫。です、から――、」 自分の視界を狭く遮った男の影の落ちた顔を、困惑の瞬きを繰り返しながら見上げる。 うわずった声で断りかけて、――開きかけたの唇は動きを止めた。 あっ、と声にならない声が身体を走る。 背中に回された腕に身体を奪われ、ぐいっと強く引き寄せられる。 白いシャツの衿が覗く胸元に顔がぶつかり、息も出来ないほど強く押しつけられ。何の考えも及ばないうちに、 土方の両腕に抱きしめられていた。 はーっ、と深くて投げやりな響きの溜め息が、頭上で短く吐き出される。 ぴったりと合わされた男の胸を伝って、ひとことずつを噛みしめているような、くぐもって重苦しい声が身体に響いた。 「・・・どこが大丈夫だ。ろくに立てもしねえくせに」 「・・・・・・・・・・・・っ。・・・・・ひ・・・。ひじか・・・た、さ・・・?」 (離してください。) 言うつもりだった言葉は喉の奥で止まり。とくん、と大きく高鳴った胸の鼓動に掻き消されてしまう。 は驚きに目を見開いた。おずおずと顔を上げていく。 一瞬で自分を抱き寄せた男の腕は、強引ではあったが乱暴ではなかった。 手荒く抱かれたあの時の腕とは違う。何かが、全然違っている。 突然に抱きしめられ、混乱しきった頭の中では、その違いが何なのかが判らない。 けれど違う。何かが、たしかに違う。 いつのまにか頬に添えられていたごつごつと硬い手のひらの動きも、まるで大事な壊れ物でも扱うかのような慎重さだ。 「もういい」 「え。いいって。な――」 「俺の負けだ。・・・つーか、てめえの見え透いた強がりには懲り懲りだ」 弱ってる時くれぇ素直に頼りやがれ 歯痒そうな声にそう言われ、かすかに唇が震えた。 とくん。とくん。とくん。とくん。 心臓の音がおかしい。おかしなくらいに――今にも破裂しそうなくらいに大きく響いている。 なのには何も言えず、身じろぎすら出来ない。瞬きすらも出来なかった。 いつも滅多に目を合わせてくれない土方の目。 鋭く切れ上がったあの目が、珍しく視線を逸らそうとしない。 何か言いたげな、けれど、ちょっと怒っているような男の顔つきに吸い込まれる。 息が詰まるほど近い距離から、自分だけを見つめてくる視線に ――ひどくまっすぐなのに、どこか憂いや迷いを残した眼差しに身体を縛られ。心臓までも縛られているような気分になった。 「おい。さっきのあれぁ、どうあっても撤回する気はねえんだな」 「・・・・・・っ、さ。さっき、って・・・・・・?」 「言ったじゃねえか。俺の傍にいるって、あれだ。お前、あれは何があっても撤回しねえつもりか」 「し・・・、しま、せん・・・・・」 「フン、そーかよ。・・・しょうがねえ。なら、ひとつ誓っとけ」 言い聞かせるように土方が言う。 頬を覆った熱い手のひらが、返事しろ、と促すかのように撫でてくる。 は呆然と彼を見つめ、やがてこくりと頷いた。 返事をしようにも声が出なかった。 喉が詰まって、胸が苦しくなるほどに心臓がどきどきと高鳴っていて。 それに、もし声を出せたとしても、唇が震えて言葉らしい言葉になんてならない気がする。 「そこまで言うなら傍に置いてやる」 「え・・・」 開きかけたままの口の奥でぽつりとつぶやく。 驚きに表情を固めて見上げていると、頬を撫でていた手のひらが肌を滑って動き出した。 「お前が音ぇ上げて嫌がろうが泣こうがもう知るか。一生、手許でこき使ってやる」 「・・・・・・・・・ぇ、・・・?」 語調の強い、真剣な声で、まっすぐに目を見つめてそう告げられた。 ――けれど、言われたことの意味が判らない。判るけれど、判らない。 あたし、まだ夢でも見ているんだろうか。そんなことを思ってしまう。 目の前で起こっていることも、肌を通して身体で感じていることも、どちらも信じられなかった。 土方の手が自分を撫でている。 頬から首筋へ。顎から耳の下へ。耳たぶを掠めた硬い指先はおでこへ向かって、前髪を無造作な手つきで掻き上げる。 大きな手はそこから後ろ頭に回っていき、衿足あたりの髪をくしゃりと掴むと 彼女の首筋ごと手のひらに収めた。 の肩がびくりと竦む。 うなじを覆った男の手の熱さと力強さは、彼女の動きを封じようとする意志をはっきりと持っていた。 深く睫毛を伏せた表情の薄い顔がゆっくりと近づいてくる。息が止まりそうな思いで目を見張った―― 「・・・その代り、だ。二度とうっかり死にかけるような危なっかしい真似すんじゃねぇぞ。いいな、馬鹿パシリ」 言葉が終わらないうちに、頭上が暗い影を落としてきた。 と同時に、眩暈のしそうな強い煙草の香りが覆い被さってくる。 熱い感触がそっとの顔に触れてきた。 髪を撫でつけて開いたおでこに。切れて傷が出来た、左の瞼に。 大きな絆創膏で覆われた頬に。 傷痕ばかりを選んで、優しく労わるように注がれるその感触が、土方にキスされているからだとようやく気付いて。 ――大きな瞳を見開いて棒立ちになっていたは、身体の芯から湧き上がってきた熱い何かにぶるりと震えた―― 「・・・・・・っ、」 ふにゃりと泣きそうに眉を下げ、驚きに固まっていた表情を歪め。 きゅっ、ときつく、震えが走っている唇を噛みしめる。 土方さんが抱きしめてくれた。キスしてくれた。 傍にいてもいいって。ずっと傍にいていいって。許して、くれた―― 頭の片隅でそう認めたときは、全身に鳥肌が立ちそうだった。 今はもう、頭の中がすべて真っ白だ。何も考えられない。土方と自分の周囲だけ、時間が止まっているような気さえする。 一瞬で広がった熱い何かに胸を満たされた感覚が――たまらなく嬉しいのにたまらなくせつなくて、 胸の奥をきゅうっと絞られるようで、泣きたくなってしまう感覚が―― が味わったことのない何かがじわじわと溢れて、身体中を一杯にしていく。 膝から力ががくりと一気に抜けて、隊服の背中に腕を回してしがみついていないと立っていられなくなってしまう。 崩れ落ちそうになっていることに気付いたのか、土方の腕が腰に回ってくる。自分のそれとは全く違う、 骨太で逞しい感触に抱きしめられた。あまり力の加減もなく、思わず背筋が反り返るほどに、ぎゅっと。 は自分でも知らないうちに瞼を閉じ、深く息を吸い込んでいた。 身体を包んだ煙草の香りと温かさに、理由が判らない懐かしさと安堵感が広まる。 足元の床が硬さを失くしてふわふわと揺らいでいるような、落ち着かない不可思議さにも包まれる。 目の奥でじわりと滲んだ何かが、瞼を熱く満たしながら広がっていく―― 夢かも。これって夢じゃないのかな。だっておかしい。 土方さんがあたしを思いきり抱きしめてるなんて。こんなの夢じゃなかったらありえないよ。 ああ、どうしよう。 こんな。こんな気持ちは知らない。 こんなに幸せで。なのに、こんなに泣きたくって。 ああ。本当に本当なのかな。夢じゃなかったらいいんだけど―― 「・・・・・・・・・・・っ、ぁ、あの」 「・・・・・・、あぁ?」 「は、早く、行かないと・・・。ゃ、やまざ、き、く・・・・・が、・・・・」 「・・・・・・・・・、」 ・・・・・このタイミングでわざわざ言い出すような事か、それは。 の顎に指を掛けて上向かせ、唇を重ねようとしていたその時だ。 機嫌を窺っているようなか細い声が、触れる寸前だった女の唇からおどおどと漏れてきた。 土方はむっとした顔つきで片眉を吊り上げる。仕方なく、しかし納得いかなさそうに顔を離した。 腕に抱いた女のうつむいた頭を恨めしそうにじろりと睨み、脱力しきって深く肩を落とす。 呆れ混じりな溜め息とともに口にした。 「待たせときゃいい」 「・・・・・・・・・・でもぉ・・・」 「っせえな少し黙ってろ。俺がいいって言ってんだ、何も問題ねぇだろうが」 「・・・・・・・・・・と・・・に・・・・・?夢じゃ。ないの・・・・・・・?」 そうつぶやき、がかすかに息を呑む気配が伝わってきた。 緊張でひどく強張っていた背筋から、ふぅっと力が抜けていく。 驚きに目を見張っていた表情が、今にもほろりと泣き出しそうに崩れた。小さな頭が少しずつ傾き、 もたれかかってくる。土方はもたれてきた小さな頭を、ゆっくりと自分の胸に押しつけた。 「・・・・・・・、いいの?」 軽く頼りなげなぬくもりが隊服に埋もれてしまうと、心許なさそうな声がぽつりと尋ねてきた。 「・・・・・・ほんとに。ほんとに、いいん、です、・・・かぁ・・・? ・・・っ、あ、あたし。ずっと。土方さんの。傍に。いても。・・・い・・んで・・・、す、・・・かぁ・・・・・?」 「・・・いいって言ってんだろ。何度も言わせんじゃねえ」 そう返すと、唇を噛みしめてこらえていた震えた息遣いが、嗚咽へと変わっていく。 黙って聞いているだけで胸を熱くする、小刻みでせつなげな涙声だ。 土方の口許にわずかな微笑が浮かぶ。 汚れてはいるがしっとりと手触りのいい髪を撫でつけながら、その声にじっと耳を傾けた。 「・・・・・・・・、し・・・知りません、よ・・・?いいんですかぁ・・・?」 「あぁ?」 「そ。・・・んなこと。言われたら。あたし。・・・・・・自惚れちゃうじゃ、ない、ですかぁ・・・」 「構わねえよ。好きなだけ自惚れてろ」 「・・・・・・・・っ、」 か細い女の手に、隊服を遠慮がちに握り締められる感触があった。 の肩が。腕が。泣き声を漏らしている頭が。抱きしめた華奢な身体が、どこも小さく震えている。 胸元に収まった女が零す大粒の涙が、胸元を熱く濡らしていく。 が必死に装ってきた精一杯の強がりが、この震えや涙と一緒に華奢な身体からほろほろと剥がれ落ち、消えていく。 身体で実感など出来るはずもない感触だ。 だがそんな感触を、土方はたしかに両腕の中に感じていた。 「・・・ふぇ・・・・・・っ、・・・・ぅう・・・っ、・・・・・ひ、土方さぁ・・・・・っ、」 声を押し殺し、震えを噛みしめて泣いていたが掠れた声で土方を呼び、隊服の背中をきつく握り締める。 抱きしめられているうちに感情が昂り、とうとうこらえきれなくなったらしい。 廊下まで響きそうな声で泣きじゃくり始めた。 困ったような顔で涼音を見下ろし、病室のドアにきまりの悪そうな視線を向け、 土方は女の耳元にぼそりとつぶやく。 「おい。そのガキくせぇ泣き声はどうにかならねえのか。・・・看護師どもに聞かれると体裁が悪りぃ」 「・・・・・・ってぇ、・・・・・・・・・・っ、・・・っく、・・・・・っ」 頭を撫でて宥めても、震える背中を擦ってやっても、の号泣は止まらない。 むしろ宥めようとすればするほど、泣き声や震えが激しさを増していくような気がするが――、 いや。もしかすると俺は、この泣き虫が泣いて憂さを晴らす気にもなれないほどの苦痛を与えていたのかもしれない。 思いつめて身体を壊しちまったのはその辺りが原因じゃねえのか。泣いて発散出来なかったせいじゃねえのか。 (てことは。これは、――突き放してきたここ二ヶ月で、こいつが人知れず溜め込んできた涙か。) そう思い至り、土方は表情を曇らせる。何とも言えない気分になった。 ふつふつと湧き上がってくる罪悪感に煽られ、ぎゅっと強く抱きしめてやれば、がぎこちなく腕に力を籠めてくる。 その仕草がやけにいじらしく思えて、真下で震えている小さな頭に顔を寄せ、軽く唇を落とした。 手触りのいい髪から昇ってくる甘い匂いや、胸に収まった頼りなさや温かさを改めて実感していると、 どこから来たのか判らない感情が――味わい慣れない安堵感が、身体中に広がっていく。 くすぐったくて身体に合わない心地良さに溜め息をつくうちに、再びの湿っぽい気分がせり上がってくる。 どうしようもなく喉が詰まって、目元がかあっと火照ってくる。土方はがむしゃらに女の身体を抱きしめた。 すると瞳いっぱいに涙を湛えた大きな目がこっちを見上げてきて、震える掠れ声に尋ねられた。 「ひ。・・・っっ、ひ、土方、さ・・・?」 「・・・・・・、何だ」 「ね。土方さ・・・・、泣いてる、・・・ん、ですかぁ・・・・・?」 「てめえじゃねえんだ。これしきで泣くか、馬鹿」 はっ、と呆れ気味に笑い飛ばした声には、かすかな震えが混ざっていた。 ――よくもまあ、言えたもんだ。なにが馬鹿だ。誰が馬鹿だ。―― よくも言えたもんだな、偉そうに。 誰が馬鹿だ?馬鹿はどっちだ? どう間違ったってこいつじゃねえだろ。馬鹿はてめえじゃねえか。 涙絞り出そうにも手前で手前に呆れすぎちまって、ほんの一滴たりとも出やしねぇ。 蓋を開けてみりゃあ何のこたぁねえ。 ――欲しかったのは。血迷ってもなお渇望していたのは、 結局のところ、潔くこいつをてめえのもんにして二度と悔やまないだけの覚悟。ただそれだけのことじゃねえか。 ただそれだけに腹を括って、こいつを受け止めてやる。たったそれだけの覚悟じゃねえか。 ・・・御大層な決意で打って出た割には、結果はどうにも無様なもんだ。 たったそれだけを得たいがために、俺はどれだけこいつを傷つけたのか。泣かせてきたのか。苦しめたのか。 時間の無駄ばかり重ねて。しなくてもよさそうな遠回りばかり繰り返して。ようやく、やっと、この手の中だ。 ここにいるのは。――腕の中で泣きじゃくっているのは、てめえの命と引き換えにしてでも護りたい女。 こいつだけは俺の手で幸せにする。俺にそう決めさせた女。 命懸けで土壇場まで自分を追い詰め、俺を追い詰め。ついには腹を括らせちまった凄げえ女。 危なっかしくていじらしくて、・・・・・どうにもならねえ、厄介な奴だ。 「――おい、いい加減に泣き止め。もう行くぞ」 呼びかけながら腕に軽く力を入れる。を腰から持ち上げた。 「・・・・・・・・・ぇえ、っ、え、ひゃ、や、なっっ」 「お前靴がねえんだろ。他にどうしようがある」 途端に肩を竦ませ、あたふたと手足を動かして逃れようとする細い身体を 力ずくで肩に担ぎ上げる。軽々と抱え上げられて驚き、足が地につかない不安定さに 素っ頓狂な悲鳴を上げたは、隊服の後ろ衿あたりをぎゅっと引っ掴んで抵抗してきた。 「ひっっ、土方さ・・・!まさかこのまま外まで行くつもりですか!?ゃゃややだあっ、恥ずかしいからやめてぇええ!!」 「んな時に人目気にしてどーすんだ。大体、元旦の外来病棟に人目があるかよ」 「人目がなくても山崎くんには見られるじゃないですかっっ。な、や、やですよっ、は、恥ずかしいっっ」 「ぁに言ってんだ、山崎だぞ。普段からしているかいねえか判らねえ存在感の奴が人目のうちに入るかよ。 ・・・・・・・・つーか、俺にここまで腹括らせたんだ。お前もそのくれぇは観念しろ」 「・・・ふぇ・・・・・・・?」 ぐすぐすと鼻詰まりを起こした声を漏らし、がのろのろとこっちを向いた。 目元は兎のように真っ赤。眉はへなりと八の字に下がって、黙っているだけで男の目を惹くはずの顔は 傷と絆創膏だらけ、しかも涙でぐちゃぐちゃときている。見る影もないほどに情けない泣きっ面だ。 「お前、・・・・・・いつにも増して色気のねぇ面だな」 「〜〜っっ。へ、変な顔になってるのは土方さんのせいじゃないですかぁっ。誰がこんなに泣かせたと・・・!」 うぅぅ、と唸ったは唇を尖らせ、拗ねた顔つきで土方を睨んでくる。 ぷうっと子供っぽく頬を膨らませたその表情ときたら、こいつを屯所のアイドル扱いしている連中ですら さすがに引くだろうという色気のなさだ。 だというのに、――女らしい色艶の欠片もないその表情が、どうしてなのか愛おしい。 千年の恋すら一瞬にして醒めそうな、傷だらけで崩れまくったぐちゃぐちゃの泣き顔。 これを自分一人のものにしておきたい。他の奴には見せたくない。 何故だか強くそう思い、そして、そんな自分に何よりの驚きを覚える。 思わず土方は深くうつむく。はっ、と肩を揺らして苦笑した。 まさかこんな面した女にそそられるたぁ、・・・・・俺も相当の重症だ。 「ちょっっ。ここで笑う!?笑うんですか!?〜〜〜っっ、なにそれぇええ、ひ、ひどいぃぃ・・・!」 ひどすぎます、最低ですよっ。そんなだから土方さんにはデリカシーが足りないんですよっっ。 詰まった涙声でああだこうだと言い返してくる女に反論するすこともなく、 空いていた片腕を彼女の細い首へと回す。 広げた手で首筋を抑え、そのまま自分のほうへと倒していき―― 「――・・・・・・・っ・・・!」 抵抗する猶予を与えることなく、何か言いかけていた唇を塞ぐ。 無理に抱いた時には一度も触れなかったそこは心地良い熱さで、やはり特別な柔らかさだった。 強く押しつけて呼吸を奪えば、あっけにとられてされるがままになっていたは背筋をびくんと跳ね上がらせ、 途端に全身をかちんと石のように硬直させる。 ・・・妙に初々しいというか、いかにもガキじみた反応だ。 二度ばかり抱いたこの身体は男を知っているようだったが――知ってはいても、男に慣れてはいないらしい。 唇から直に伝わってくる反応にも、こうして触れてみて初めて得た発見にも満足して 土方はゆっくりと唇を離す。触れ合っていた感触が消え、女の唇から乱れがちに漏れている吐息からも 完全に離れた瞬間、ぱちりと最大限に見開かれた瞳と目が合い、 ――ぐっ、と喉を詰まらせた。思わず吹き出しそうになったのだ。 ――あぁ畜生。こいつときたらこんな時だってえのに笑わせやがる。 何だその面。耳まで真っ赤じゃねぇか。しかも、微塵も色気のねえ素っ頓狂面しやがって。 「・・・バーカ。んな時は目くらい閉じろってえんだ」 澄まし返った表情を被った土方は、からかうような意地の悪い目つきで言ったのだが、その直後、 はっ、とたまらず吹き出した。顔を伏せて肩を揺らし、くくっ、と喉で笑いを噛み殺しながら、 表情を歪めて可笑しそうに笑う。はそんな土方をぽかんと見つめていたのだが、 …なぜかまた、火が点いた子供のように泣き出してしまう。 しがみついて派手に泣きじゃくる女を見下ろし、こみ上げてくる可笑しさとくすぐったい嬉しさを噛みしめながら 彼は病室を後にした。 抱き上げた女に話しかけ、機嫌を伺いながら向かった玄関口では、山崎が車とともに待ち受けており、 両腕にしっかりとを抱いた土方を認めると、大袈裟なまでに目を丸くした。 それからやけに嬉しげな顔つきになり、にまにまと緊張感のない面で彼等を出迎えに駆けてくる。 「えらく遅かったじゃないですか、副長。どーしたんですかぁ、さんと何かあったんですかぁああ」 「別に。どうってこたぁねえよ。おい、余計なことに首突っ込んでる暇があんならさっさと車出せ」 「はいっ」 返事は良いが興味津々に輝く目つきを向けてくる山崎の前を、しれっとした態度で通過する。 ――ここから屯所に着くまで、おおよそ三十分。 その時間をたっぷりと費やし、このぺらぺらとよく動く監察の口をどうやって塞いでやるか。 効果的な実力行使を考えつつ踏み出した玄関口の光景は、雪の純白に照らし出されてやけに明るい。 静かな元旦の屋外は、肌を刺すような冷たさだ。 首に縋りついてぐすぐすと啜り泣いている女の身体は、その凍てつく寒さを打ち消してしまうほどに温かく。 山崎の目など無視して抱きしめたくなるほどに愛しかった。 車に乗り込む手前で足を止める。ふと土方は顔を上げた。 そこに広がっているのは、昨夜から江戸を覆っていた雪雲も去り、晴れ上がりつつある新年の空。 遥か遠い頭上を染める、澄み渡った青。 いつかの朝に屋上で見つめたその色に良く似た冬空を、どこかほろ苦い気分で眩しげに見上げた。 ――とんだ番狂わせがあったもんだ。これだから人生ってのは判らねぇ。 惚れた女を傍に置ける。 そんな身に過ぎた仕合わせがこんな俺の手に入るものかと、ハナから諦めをつけていたのに。

「 片恋方程式。50 」 text by riliri Caramelization 2012/02/15/ -----------------------------------------------------------------------------------       next