「遅いですねぇ。・・・すぐ終わる検査だって、看護師さん言ってたのに・・・」 長椅子の隣に腰を下ろした山崎が壁の時計を見上げ、落ち着かない様子でつぶやく。 倒れた女を抱えて飛び乗ったパトカーで病院へ駆け込み、検査結果を待つこと数十分。 夜間救急用の治療室に運ばれていったの容態は依然判らない。「関係者外立入禁止」と 大きく書かれたドアに遮られ、遠目に様子を窺うことすらかなわなかった。 付添人の待合所を兼ねた廊下の窓から見える景色が、夜明けを迎えて白み始めていく。 やがて初日の出が空を朝焼けに染め、目覚めたばかりの鳥の鳴き声が聞こえ始め、 ――彼らが病院へ着いてから一時間が過ぎた。 かちかちと小刻みに響く時計の音がいやに耳につく。黙って待つ以外には何も出来ない、 悶々とした時間がのろのろと過ぎていく。消灯された薄暗い廊下で診察を待つ側には、 もどかしい不安が広がっていた。 の身体に銃弾を受けた痕跡はなかった。 顔や脚に出来た切り傷以外には出血もない。だが、口から血を流していたのがどうも気になる。 あの血はどこから流れ出たのか。車から振り落とされた衝撃で肋骨が折れ、そのせいで臓器のどこかが 傷ついているのかもしれない。意識も朦朧としていたし、呼吸するにも息絶え絶えに苦しむような有り様だった。 ――車内での彼女の様子を何度も思い返し、たった一分の時間経過が十分ほどに思える時間を やきもきしながら過ごすうち、ようやく看護師から声が掛かる。医師からの病状説明を受けるため、診察室へと通された。 そこでさらに待たされること数分後。 「すいませんお待たせして。今朝は急患の患者さんが多くて…」と詫びながら、若い医師が急ぎ足で現れる。 開口一番にこう告げた―― 「検査の結果から申し上げますが、患者さんの骨や臓器に損傷は見られませんでした」 「・・・・・・、へ?・・・・・損傷なしって。・・・ええぇ?」 何の問題もなさそうに告げられた診断結果に、山崎は目を丸くした。A4サイズほどの 白黒フィルムを手にしたその医師は、大きなディスプレイとパソコンを並べた事務机にカルテを置く。 持参したフィルムは頭上のボードに手早く貼り付けていった。 「損傷なしって、せ、先生?それってつまり、さんがどこも怪我してないってことですよねぇ?」 貼られたフィルムと医師を交互に見上げていた山崎が、ぽかんと口が空いた気抜けした顔で尋ね返す。 医師は画像一枚ずつを注意深い目つきで眺めていき、白衣から出したボールペンで一枚を指し示した。 「はい、怪我はどこも擦り傷や切り傷、打撲程度の軽傷のみです。吐血したように 見えたのは口の中が切れていたからで、内臓からの出血はありません。 ではさんが突然倒れられた原因は何か、というとですね。これは胃炎ですね。神経性の胃腸炎」 「・・・・・・・・い?・・・胃炎?神経性?」 「ええ。主にストレスなどから来る、神経性の胃腸炎です」 「でも先生っ、さんは痙攣まで起こしてたんですよ!呼吸するのも苦しそうで」 「ああ、それはそうでしょうねえ。症状が悪化していて、胃潰瘍のわずか一歩手前といったところですから。 それは痙攣も起きますよ」 当然だという顔で医師が頷き、ほらここ、とフィルムの一枚を指してくる。 胃を映しているらしい黒っぽい部分を指しながら詳しい病状を付け加えた。まだ診断結果に納得がいかなさそうな、 半信半疑な顔をした山崎が話に耳を傾けるうちに、医師は画像のとある一点を見つめる。 顔を近づけ、そこをじっと覗き込んだ。 「・・・それにしても荒れてますねぇ胃が。おそらくここ一、二ヶ月は激しい痛みがあったはずですがねえ。 医療機関での受診は?されてませんか」 「はぁ、多分。医者に通ってるなんて話、俺たち誰も聞いてないし・・・」 「うーん。そうですかぁ」 医師はカルテを手に取り目を走らせ、山崎の答えを聞きながら何か考え込む。軽く眉を寄せていた。 「患者さんは痛みに強いというか、随分と我慢強い方のようだ。しかしそれが災いしましたね」 普通ならとっくに医師の診察を受けている状態ですがねぇ。 そう言って首を傾げながらカルテを見つめ、それを置き。回転椅子をくるりと回して、ふたたび山崎へと振り返った。 「神経性ですからねぇ。痛みの原因になったストレスさえ取り除いてあげれば、あっけなく全快する場合もあるんです。 どうですかねー、同じ職場のみなさんから見て、患者さんがここ最近強いストレスを抱えていそうな様子は ありませんでしたか?例えば、仕事について悩んでいそうだなぁ、とか」 「はぁ。悩んで・・・、ですかぁ?」 問われた山崎は口許に手を当てて考え込む。 うーん、と唸って首を傾げ、白く清潔そうな天井を眺めた。 「そーですねぇ。さんもここんとこ色々あったからなぁ・・・」 「もし差支えなければ教えていただけませんか。やはりお仕事の関係で?」 「ええ、まぁ。仕事の関係っていうかー、仕事も含めての心当たりっていうかー、・・・」 何か思い浮かべるような顔をして喋っていた山崎が、隣をちろりと意味深な目つきで眺める。 そちらをひょいと指で差し、 「あのぉ先生。俺より思いっきり心当たりがありそうな人がここに」 「ねぇよ!!」 「ふごっっっ!!」 「・・・・・」 頭上から振り下ろされた拳に後頭部をがつんと殴られ、山崎が椅子から転がり落ちる。 医師はペン先で頬のあたりを掻きながら、突如同僚を殴りつけた乱暴な男に怪訝そうな視線を移した。 べしゃりと床に突っ伏したままの山崎を眼光鋭く睨みつけ、こめかみに青筋を浮き立たせている、もう一人の付き添い人だ。 ――いや、実を言えば、患者の容態を説明していた途中からこの男の態度が気になっていた。 表情が薄く冷静そうな印象のその男はなぜか途中から顔がぴきぴきと引きつり始め、 挙句、額からたらたらと大量の汗を流し始めたのだ。そんな状態の人間を前にすれば、当然、医者として 放っておくわけにいかない。不審な汗を流し続けるその男を注意深く観察しつつ、声を掛けた。 「あなたも顔色が優れませんねぇ。発汗もすごいようだし、もしかしてどこか怪我なさってるんじゃ」 「あぁ!?してねえよ」 「いやぁー、でもねぇ、異常ですよその汗?本当に大丈夫なんですか」 「っっっせーなしてねーったらしてねーよ放っとけ藪医者!!」 「っっ!!?」 がたんっっ、と大きな音を響かせ椅子が倒れる。ぎらりと目を剥き立ち上がり、椅子を蹴倒す勢いで 医師に食ってかかったその男――土方は、何を思い直したのか椅子を立て直し、むっとした顔で座り直した。 がっちりと腕組みしてひどく気まずそうに目を背け、誰もいない部屋の入口あたりを睨みつけている。 しかしその顔に伝う原因不明な汗は一向に止まる気配がない。突然の怒声に震え上がった医師と山崎、 二人は怯えながらも互いに顔を見合わせた。 ・・・あれがストレス溜め込んだ原因だ?心当たりだ? んなこたぁてめえらに言われずとも星の数だ。思い当たる節がありすぎて、逆にひとつに的が絞れねぇ。 しかもそのどれもが、てめえでしたこととはいえ思い返すだけで胸やけがしてくる、 自業自得でやましい心当たりばかりときてやがる・・・! 自分に対する呆れや腹立ち、その他諸々の困惑と動揺が入り混じった凄まじい顔に嫌な汗を浮かべつつ、 土方がガサゴソと隊服の上着の裏を探り出す。堂々とそこから取り出したものに驚き、山崎と医師は目を剥いた。 片手にはかちかちと荒い手つきで乱打されるライター。そしてもう片手には、今にも潰されそうなくらい がっちりと握りしめられた煙草の箱があるではないか。 「〜〜〜あぁ畜生っ、んな時に限って点きやがらねえ・・・!」 「――っっちょっとぉぉ、副長!!?」 ここは病院、言うまでも無く禁煙すべき場所である。 山崎はあたふたと土方の腕を掴み、早くも火が点けられた煙草を奪おうとした。 「ちょっとちょっとぉぉ、何やってんですかあんた!病院ですよここっっ」 「見ての通りだろーが一服すんだろぉが。つか山崎てめ邪魔だうぜぇツラ近づけんじゃねえ!」 「ふごふぉっっっ」 ゴッッッ。部屋中に鈍く大きな衝突音が響き、強烈な頭突きを喰らって山崎が撃沈。 白目になって床に倒れた監察の腹をぐりっと踏みつけ、医師が恐怖で青ざめるほどの剣幕で土方が怒鳴る。 「おいコラ、何が「俺より思いっきり心当たりがありそうな人」だぁ?ここぞとばかりにしたり顔しやがって! この吸いかけ鼻に突っ込まれてーのか?それともライター突っ込まれてーのか、ぁああ!!?」 「なっ、ななっなんなんですかあなた!ここをどこだと思ってるんです、病院ですよ、禁煙が常識でしょう!?」 「っせーよ藪医者の常識なんざ知るか。こちとらてめえのモタクサした診察に散々待たされて鬱憤溜まってんだ、 ちったぁストレス発散させろ!!」 非常識で横暴な上司にガツガツ踏まれ、鼻穴にライターをぐりぐり押し込まれて泣きわめく山崎。 そんな彼の鼻に火が点いた煙草まで押し付けようとする、ストレスが限界値まで達して不機嫌極まりない土方。 二人に割って入ろうにも入れず、部屋の隅まで退避しておののく医師。そこへ診察室での大声に驚いた 看護師たちが飛び込んできて、果てにはこの病院の警備員までもが飛び込んできて―― 平穏な新年の朝を迎えるはずだった早朝の診察室は、思いもよらない大騒ぎになったのだった。
片恋方程式。 49
「・・・・・・・・・・・・・・・病院って。どこも禁煙じゃなかったでしたっけ・・・・・・」 ――目覚めたばかりの女の口からぼんやりと出てきた、最初の言葉がそれだった。 が寝ている医療用ベッドの横で丸椅子に座っていた土方は眉を顰めた。 …拍子抜けさせやがって。一言目がそれかよ。他にもっと言うべきことがねえのかお前は。 心中ではそんなことをぼやきながら煙草を噛みしめ、細い煙を昇らせる先を不満げな顔つきで揺らす。 フン、と鼻先で笑うと、窓辺の方へと顔を逸らして目を細めた。南向きの小さめな病室は、 すでに陽が高く昇った窓辺が白く眩しい。屋外からはたまに患者を搬送してきた救急車のサイレンが 響いてくるが、通院患者が居ない正月の院内は建物全体が息を潜めているかのようにひっそりとしていた。 数分ほど前に看護師が点滴用具を片付けに来てからというもの、外の廊下からは足音すらしない。 入院病棟とは隔離されたこの個室には土方が身じろぎする時の衣擦れ以外に音が無く、 まるで外界からぽつんと切り離されているかのように静かだった。 「ええと。土方、さん・・・・?」 身体を白い毛布に包まれまんじりとも動かないは、不思議そうに彼を見上げてぱちぱちと瞬きだけを繰り返す。 表情を動かすと切り傷だらけの皮膚がぴりぴりと引き攣れるのだろう。時折、痛そうに眉を顰めていた。 あまり動きのない表情は、普段よりもその顔つきを硬く見せる。切れた左の瞼には 細い絆創膏が貼られ、頬には弾丸が掠めた傷痕を隠す大きめなものが貼られていた。 「あのー。いいんですかぁここで吸っても。看護師さんに見つかったら怒られますよ」 「・・・他に誰もいねえんだ。お前が黙って見逃せば済む話じゃねえか」 「えぇー。そういう問題じゃないと思うけど・・・」 言い返されたは紅い唇を小さく尖らせる。子供染みて不満げな表情になった。 「おい、病状は医者に聞いたか」 「え、・・・ええと、・・・」 視線を合わせて尋ねると途端にしどろもどろになる。 「そ。そうですねぇ、・・・」などと言いながら曖昧な笑みを浮かべ、ぎこちなく顔を逸らして、 「はい、聞きましたよ?びっくりしましたよー、胃炎だなんて。最近ね、たまにお腹が ちくちくするなぁとは思ってたんですけどねー。あはは、あたしのお腹って意外と繊細なんですねぇ」 「相当酷でぇらしいじゃねえか。医者が驚いてたぞ」 「あぁ、そんなことも言ってましたねー。でもほら、お医者さんってみんな大袈裟だから。 酷いって言ってもお薬だけで治るみたいだし、実際はたいしたことありませんよ」 別段気にしていなさそうに言い切ると、眉を下げてへらっと笑う。 一見素直そうな、何気ない表情だ。だがその表情は同時に、どこか普段の彼女にはない違和感を感じさせるものだった。 笑っているようで笑っていない目。やけにあっけらかんとした気丈な態度からは、土方に対する遠慮も垣間見える。 その遠慮が生まれた原因も、こいつが腹痛で倒れた原因も、どちらも俺の身勝手さに他ならないってのに。 ・・・なのにこいつは。 俺を咎めることもしねえ。それどころか何事もなかったような顔をして、自分が不調を来した原因から 俺をどうにか遠ざけようとしやがる。何とも情けねぇ話じゃねえか。つまりこいつは俺を庇おうとしてんだ。 信じた野郎に手酷い扱いを受けて。悩んだ末に身体まで壊して。それでもこいつは―― たった数言話しただけで疲れてしまったのか、は眠たげな表情で目を閉じた。 顔も、首筋も、隊服の袖から伸びた手も、毛布に隠れている脚も――淡い色をした素肌を どこも傷だらけにして、ぼろぼろになった女。まるで生気が感じられない青白い顔で、 人形のように力なくベッドに横たわっている。 そんな彼女が歯痒かった。 それこそ身勝手な怒りだと承知している。だが、それでも歯痒くて仕方がなかった。 ふいと目を逸らした土方は、飲みかけのコーヒー缶を備え付けのテーブルに荒い仕草で置く。 不機嫌さ丸出しな声音で問いかけた。 「・・・しばらく通院するのか」 「はい、来週また来なさいって。・・・ああでも、仕事は二、三日休むように言われました」 は多くを語らなかった。以前は聞かれてもいないことまで土方に報告していた 話し好きな女が、余計な言葉は一切挟まず報告だけに徹している。 やはり気を遣っているのだ。…いや、俺に気を遣わせまいとしているのか。 を横目に流し見ると、目を薄く開いていた。 うつろな眼差しがぼんやりと天井を見上げている。その表情を眉間を険しくして眺め、 土方は喉の奥で苛立ちを噛み殺す。大晦日から降り積もった雪に朝の光が乱反射している、 ひどく眩しい窓辺へと顔を逸らした。 「お前、もう動けるのか。なら屯所に帰るぞ。表に山崎待たせてんだ」 「あ、はい。・・・・・・あの、土方さん」 「何だ」 「・・・すみませんでした」 申し訳なさそうに言いながら衣擦れの音を鳴らし、はゆっくりと起き上がった。 毛布で覆われた脚を折って横座りするような姿勢になり、眉を曇らせた不安そうな目つきを向けてくる。 腰から身体を折り、長い髪が枝垂れて顔を覆うほどに深く頭を下げた。 「あたし。・・・みんなと協力するべきだったのに、一人で勝手なことして。本当にすみませんでした。 今日は総悟の代理だからって、力みすぎてました。かえって迷惑かけちゃって・・・」 土方は無言で振り返る。射るような視線で女を見据えた。 彼の反応を気にしてなのか、それとも、当分顔を上げられないと思いこんでしまうほど猛省しているのか。 小さな頭はうなだれたままだ。びくりとも動く気配がない。 土方はそんな彼女を複雑そうな表情で見つめる。 やがて仕方なく諦めをつけ、溜め息とともに煙を吐く。面倒そうに口を開いた。 「こんなぼろぼろで血の気もねぇ面した女に頭下げられるような筋合いなんざ、何もねえよ。俺だけじゃねぇぞ。 倒れるほど弱った奴に謝られたって、他の奴らも気まずいだけだ。お前は余計な心配しねえでさっさと身体治せ」 「でも・・・」 「つーか。・・・立場が逆だろうが」 「え?」 「むしろこっちじゃねぇのかよ。・・・土下座してでも身体張ってでも、てめーに詫び入れなきゃなんねえのは」 喉に籠った低い声が悔しげに言い捨てる。 の頭が小さく揺れた。のろのろと、何か迷っているような仕草で顔を上げていく。 歯痒そうに自分を見据えていた男と視線を合わせると、戸惑いを隠しきれない表情で唇をきゅっと噛んだ。 「――。答えろ。俺はお前にどう詫びりゃあいい」 どこか苦しげな表情で真摯に問われ、は呆然と目を見開く。黙って土方を見つめていた。 まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかったらしい。 疲れきって光を失くしかけていた大きな瞳が、強い戸惑いと驚きに揺らいでいる。 見るからに意外そうな彼女の反応に、土方は不貞腐れたかのような表情で煙草を噛みしめる。ふいっと顔を逸らした。 「・・・・・・・・・・土方さん。」 「・・・あぁ」 「土方さんはよく、あたしが人の話を聞かないって怒るけど。でもそれ、土方さんも同じですよ」 「・・・・・・、てっめぇ。いい加減に、」 かっと見張った目に苛立ちを滲ませ、土方が勢いよく振り返る。 何の話だ、こんな時に。それともここまで来てもまだしらばっくれようってのか、こいつは。 しかしは、怒りっぽい上司の不機嫌を前にしても少しも表情を変えなかった。いまだに戸惑いに揺れている、 濡れたような輝きを放つ瞳が土方の視線を捉える。はそれを待っていたかのように語り出した。 「忘れちゃったんですか?あたし前にも言いましたよ。言ったじゃないですか。 土方さんがあたしに何かしてくれる必要なんてないんです。これ以上は何もしてくれなくていいんだって。 ・・・ほら。あのとき、言ったじゃないですか」 九兵衛さまたちと行った料亭に、迎えに来てくれた時に。 控え目に小さくつぶやくと、は睫毛を深く伏せた。 「お詫びなんていりません。謝ってほしくなんて、ないんです。土方さんがあたしの気持ちを認めてくれて、 それでも傍にいさせてくれるなら。あたし、それだけでいいです。他になんにもいらないんです」 目元がふっと細められ、何か思い出しているような顔つきになる。 毛布の端を握って胸元まで引き寄せると、は幸せそうな――なのにどこか痛々しい、 うっすらと影の落ちた笑みを浮かべた。 土方はその姿を言葉もなく見つめた。見つめるうちに、苛立ちで力んでいた肩から力が抜けていく。 言ってやりたかった。問い質したかった。 傍にいられるのなら他に何もいらない。は笑ってそう言った。 それならお前は、どうしてそんな淋しげな顔をしているのか。どうしてそんなに苦しげに笑うのか。 見ているこっちまで遣る瀬なさに身をつまされてしまうような、ひどく儚げな表情で。 笑っていても疲れが覗くほどにやつれてしまったの姿。 青白く醒めた肌。力無い表情。すっかり痩せ細ってしまった頬の輪郭。 彼女を見つめるうちに後悔の波が押し寄せて、何か言う気も失くしていた。 二人はそのまま沈黙し、いつの間にか互いに視線を逸らしていた。 土方の口許から昇る白い煙の匂いと、頭上から圧し掛かるような休日の病院の無音が 小さな病室を息苦しく占める。 靴音をカツカツと響かせ、誰かが廊下を過ぎていく。どこか遠くで喋っている、 看護師らしき女性の声が耳に届く。外からは窓を通して鳥のさえずりが流れ込んでくる。 ささいな雑音すら大きく感じられるほどの、やけに長い沈黙が続き。 ――先に口を切ったのは、毛布の端をもじもじと弄り出しただった。 「・・・・・・・・・あのぅ。・・・それは。やっぱり。その。こ。こわかった、ですよ?こわかったし、悲しかったです」 重い沈黙が気まずくて慌てて言葉を捻り出したような、たどたどしくて拙い口調だ。 深くうなだれてしきりに毛布を指で引っ張り、意味なく擦り合わせたり引っ掻いたりしている。 土方とは決して目を合わせようとしない。 ・・・いや、それも当然だ。そう納得しながらも土方は眉をきつく寄せ、の次の言葉を待った。 「でも。それ、土方さんのせいじゃないです。怖くなったのは、 ・・・・・あの。嫌なこと、思い出しちゃったからで。・・・嫌な目に遭ったのは、その時のあたしが馬鹿だったからで・・・」 土方さんのせいじゃありません。 静かな声できっぱりと言い切った。だが、の手はかすかに震えている。 その震えを抑え込もうとしているかのような仕草で、重ねた両手はきつく握りしめられた。 「土方さん。土方さんは屯所から追い出したかったんですよね、あたしを。あんなことでもしないと あたしが出ていかないって思ったから。だから。」 ふと口を止め、何か思い出したように表情を緩める。 細かな傷だらけになった細い手が、同じような傷を残した口許を覆う。肩を揺らしてくすくすと、苦笑気味に笑った。 「でも、ほんとはしたくなかったんでしょ。あんなこと」 思いがけなく向けられた問いかけに、土方がやや目を見張る。 は彼を上目遣いに見上げてその表情を確かめ、柔らかく目元を細める。 小さく首を傾げると、砂埃と血飛沫に汚れた髪がさらさらと肩を流れていった。 「そのくらいわかりますよー。だってあの日、・・・クリスマスイブの日の土方さん。 あたしよりずっと辛そうだった。すごく怒ってたし、乱暴だったけど。でも、すごく辛そうだったから」 そう言うと、土方の表情が判りやすく変化した。 不意を衝かれたように息を詰め、煙草を挟んだ口端がひどく気まずそうに歪んでいく。 は彼への気遣いを含んだ、ちょっと苦笑気味な視線を向けてみた。すると、土方はあからさまにその視線を避ける。 新雪がきらきらと輝くガラス越しの景色まで首を回して顔を背け、わずかに動揺が滲んだ目つきを眩しげに細め。 これ以上の彼女の詮索を拒否したがっているような、頑なな気配を発しながら腕を組んで黙り込んだ。 ――図星だったみたいだ。 ・・・そっか。やっぱりそうなんだ。 そんな土方を見つめ、は自然と湧き上がった微笑に顔をほころばせた。 ほんの一週間ほど前の寒い夜。あの夜も雪が降っていた。 暗い部屋で身を硬くして手荒な行為に耐えた記憶は、今も身体に残っている。毎夜、部屋に戻って一人になるたびに はその苦い体験の残像に苛まれてきた。土方には気にしてほしくなかったから、つい無理をして 「怖かったのは土方さんのせいじゃありません」なんて言ってしまったけど。 ――そうじゃない。本当は違う。 本当は怖かった。土方さんのことも、怖かった。 だけど。・・・でも、だからといって、土方さんを責める気にはなれなかった。 突然あんなことをしたこのひとに対する、怯えや怖さは今も拭えない。けれどあの時と違って、 嫌悪感は少しも湧かなかったから。 「それにね。・・・こんな風に言ったら変に聞こえるかもしれないけど。ちょっと嬉しかったんです。 あの日は、・・・・・・土方さんが、久しぶりにあたしを見てくれたから、・・・」 無言で覆い被さってくる土方さんの姿を暗闇で呆然と見上げて。 好き勝手にされる身体が痛いのに。裏切られた悲しさで胸が苦しいのに。 なぜかどこかでほっとしていた。 このひとがようやくあたしと向き合ってくれた気がしたから。久しぶりに本音をぶつけてくれたように思えたから。 (他の誰にも、他のどこにもぶつけようがなかった土方さんの苦しさを、あたしは分け与えられたのかもしれない。) 後になってそんなふうに思い返せば、胸の奥がほのかに温まっていく。それは泣きたくなるほど嬉しい温かさだった。 けれど、そんなことを考える自分を疑ってもいた。 あのひとがあたしにした事を、辛い記憶を、――勝手な理由づけで都合良く捻じ曲げてしまう自分。 そんな自分がおかしくて、少し憐れだ。 ・・・やっぱりあたしって駄目な子なのかな。どこか歪んでるのかな。 自分の思いを踏みにじられたショックの代償として、都合良く導きだした自己満足で 必死に痛みを和らげようとしているのかもしれない。もう少し冷静になろう。自分にそう言い聞かせてもみた。 けれど、結局のところはその考えは変わらなかった。 どうしても、何度考え直そうとしても、あのひとがやっとあたしに向き合ってくれたことの嬉しさのほうが勝ってしまう。 「・・・こわいけど。こわかったけど。でも、こわいほうがまだいいんです。 毎日無視されっぱなしよりは、ずっといいです。 ・・・土方さん、あたしにも少しは気を許してくれてるのかなあって。少しは何かの役に立ててるのかもって、思えるから」 突如として城へ研修に出されてからの、この二ヶ月。が一番辛く感じたのはむしろ屯所に戻ってからで、 中でも、副長附きという立場上、毎日顔を合わせるのは必須な土方に事あるごとに遠ざけられ、 なし崩しに無視されてしまうことがひどく堪えた。だから、さっきから一度もこっちを向こうとしないくせに、 こっちをひどく気にしているような気配を放っている男のどことなくぎこちない態度を見ていると、 思わず表情が緩んでしまう。さっきだってそうだった。「俺はお前にどう詫びりゃあいい」と目を見て言って貰った時は、 たまらなく嬉しかった。言葉にならない嬉しさだった。 何でもないような顔をしてこらえたけれど、実は、あとちょっとで泣いてしまいそうなくらいほっとしていたのだ。 ・・・いつ以来だろう。 お城に行かされる前かもしれない。急には思い出せないほど久しぶりに見るこのひとの姿だ。 何があってもあまり動じない、態度や表情からは感情が見えにくい人。 なのに、出さないわりに喜怒哀楽はしっかりあって、冷血そうに見えるくらい整った面立ちよりも、 中身はずっと人間臭くて、熱っぽい。 ぶっきらぼうな態度の中には、いつもどこかに不格好でわかりにくい優しさが隠れてる。 普段は目も合わせてくれない素っ気なさの裏には、あまり見せてくれない温かさがちゃんと隠されてる。 そういう土方さんを知るたびに、心臓をきゅうっと締めつけられるような嬉しさで胸が一杯になって。 死にたがっていたあたしを思い留まらせてくれた恩人は、いつしかあたしが生きたいと願う理由そのものになった。 微かに潤んだの瞳が、気まずそうな様子で煙草をくゆらせている男の横顔をじっと見つめた。 顔まで引き上げた毛布で口許を隠し、嬉しそうにふふっと笑う。 ――よかった。やっと見れた。あたしの前に戻ってきた。いつもの土方さんだ。・・・あたしが好きになった、土方さん。 「・・・わかってますよ。土方さんにそんなつもりはなかったんだろうなって。 あたしの自惚れだってわかってるけど。でもね。それでも嬉しかったです」 えへへ、と傷だらけの頬を指先でぽりぽりと掻き、照れたような顔では話す。 荒く煙を吐き出した土方から、返事はなかった。何か考え込んでいるらしく、無言で床を睨んでいる。 は細めた目尻をふっと下げ、さらに表情を緩めて彼を見つめた。こうして見つめていられるだけで嬉しかった。 もしかしたら、これを機に何かが変わるかもしれない。 ・・・そんなことを思ってついつい期待したくなるけれど。でも、期待はお預けにしておこう。 だって、こんな風に話が出来ても、明日にはまた土方さんの態度が硬化しているかもしれないし。 全面拒否だった態度が少し緩んだからって、あたしとこのひとの関係が 元のように修復されたわけじゃない。それとこれとは別のことだ。 でも、いい。今日はこれだけでいい。 ・・・・・・・今日はあの、すごく気まずそうな、感情剥き出しな表情を見せてもらえただけで充分だもん。 「ええっと・・・・じゃあ、行きましょうか。山崎くん待たせちゃったし」 髪の乱れを手櫛で直しながら慌て気味に言うと、は身体を覆っていた毛布を避けた。 それからベッドの足元を見下ろす。あれっ、と目を丸くしてつぶやいた。 「靴はー?靴がないですよー、靴下も。ちょ、土方さぁん、どこ行ったか知りませんか、あたしのブーツ」 「・・・・・・・・・、いいのか」 「は?」 凍りついたような硬い声に尋ねられた。 はきょとんとした顔で土方を見上げる。 不思議がりながら眺めた男の表情も、その声同様に強張って硬い。 床を睨んで伏せた目は、暗い何かで澱んでいる。は心配そうに彼を覗き込んだ。 「・・・?どーしたんですか、土方さん」 「俺なんぞについてきたって。ろくなこたぁねえんだぞ」 「・・・・・・・・・・・・、あはは、それですか。まだそれ蒸し返すんですかぁ。やだなぁもう」 笑いながらも表情を曇らせ、困ったように言葉を濁す。 腰を上げてベッドの端まで移動し、ブーツを探してきょろきょろと床を見回しながらは答えた。 「だからー、さっき言ったじゃないですか。そういうことはいいんです。土方さんが気にする必要ないんですってば。 土方さんはあたしのことなんか気にしないでください。あたしも勝手に後ろをついていくだけですから」 「・・・・・・無茶言いやがる。これが気にせずにいられるか」 うなだれた土方がぐしゃりと前髪を掴み、目元を広げた手で覆う。苦い顔で黙り込んだ。 ・・・ほとほと呆れた。 馬鹿じゃねえのかこいつは。いや、救いようのねえ馬鹿に決まっている。 何の非もない女を傷つけ、どうにか突き放そうと躍起になってる手前勝手な野郎の態度を、身体を壊すほど気に病んで。 そいつの役に立ちてぇあまりに、目も当てられねえほど傷だらけになって。挙句の果てには命まで投げ出そうとする。 馬鹿じゃねぇのか。そこまでして、どうして俺だ。 どうして俺なんぞのためにそこまでする。 もっとまともな男なんざ、探せば他に幾らでもいるってのに。どうしていつまでもこんな奴に固執する。 普通の女なら――ちょっと利口で目先の利く、ごくごく普通の女なら。こんなろくでもねえ奴のことなど、 とうに見切りをつけた頃だ。いくら尽くそうが靡かない男になど早々に愛想をつかして、 別天地を探しに屯所を飛び出て行くだろう。 お前もそうしちまえばいいじゃねえか。そうするだけで。――ここまでの苦労をしなくとも、 お前なら他に幾らでも手に入るだろうが。 容易く手に入るはずだ。屯所を出るだけで自然と眼前に広がるはずだ。 諸手を血に染めることがない毎日が。晴れやかで娘らしい、何の曇りもない自由が。 年頃の娘が手に入れるに相応しい、ありきたりだがかけがえのない幸せが―― 「・・・てめえだって、判ってんだろ」 「はい?」 「お前は俺が言うほど馬鹿でもねぇ。どこへ行ったって上手くやれるはずだ。 まだ若けぇし、これからいくらだってやり直しがきく。その気になりゃあどこへだって行けんだろ」 「えー。・・・前にもそんなこと言ってましたよねぇ、土方さん」 ちろりと横目に土方を眺め、が納得いかなさそうに首を傾げる。 すぐに視線を下に戻し、降ろしかけた足をふたたびベッドに上げた。四つん這いになり、 土方が座る側とは逆のほうへと、ふらつきがちで危なっかしい動きで這って行った。 「覚えてないですか?あの時も土方さん、あたしを助けに来てくれたんです。・・・怪我して動けなかったあたしを 泥の中から拾って、おんぶして。みんなのところまで連れて帰ってくれました」 頭を下げてベッドの下を見下ろしたは、こちらに背を向けている。 毛布に膝を突いた脚が目に入った。長いブーツで隠れた膝下以外は素足だったため、太腿から膝までが傷だらけだ。 車から振り飛ばされた時に出来たらしい、青紫の大きなあざも痛々しい。 難しい表情で口許を引き締め、土方は彼女の後姿を見つめていた。 ブーツ探しに夢中なは背後の視線に気付かない。きょろきょろと暗いベッド下を眺め回しつつ、 間延びした呑気な声で話を続けた。 「土方さんはどれも覚えてないかもしれないけど。あたしね。行き倒れて屯所に連れてきてもらってから、 他にも、土方さんに、いっぱい、いーっぱい、苦しい時に助けてもらったんですよ?今日だってそうです。だから。・・・」 ・・・・・、だから。 再びがつぶやく。なぜかそこで動きを止め、言葉を切った。 ふふっ、と唇から軽やかな笑い声が漏れる。何かおかしなことでも思いついたのか、背中が小刻みに揺れていた。 はくるりと振り返る。 子供っぽさの残るはにかんだ笑顔で土方を見つめ、控え目にねだるような口調で言った。 「・・・だめですか?土方さんが苦しいときには傍にいたいって思ったら。 あたしが出来ることなら何でもして、助けてあげたいって、・・・思ったら」 何の遠慮も隔たりも感じさせない、素直で屈託のない声にそう問われる。 聞き慣れたはずのその声音になぜか胸を打たれた。耳の奥まで染み透っていくその響きを噛みしめるうちに、 なぜか急に喉が詰まった。唇がかすかな震えを起こす。土方はその震えを飲み込むようにして、 奥歯をきつく噛みしめた。 目の前で笑うを見つめて、熱を孕んだ胸の奥。そこから急激に溢れてきたのは、自分にはいかにも 不似合いな感情だ。 鬼などという二つ名を持ち、組織のためにどこまでも冷徹であることを課せられた男には不要な感情。 二か月前のあの日。 病院の屋上で朝を迎えたあの日を境に、こんな感情はすべて捨てるつもりでいた。 これと同じ轍を踏み、再び悔むくらいなら、いっそここで捨て去ってしまえばいい。 そんな思いで噛みしめた虚しさとともに、胸の奥底に封印したもの。 湿っぽくてやけに熱くて。いくら気張ってこらえようにも抑えが効かない。 どうあっても認めたくなかった、厄介な感情。なのにそれは、を目にするたびに鮮やかに広がっていく。 身の内に広がって根を張るばかりで歯止めがない。欲しがるばかりできりがない。 だから今度こそは手放そうと思った。どんなに苦しめてでも、泣かせてでも、必ずここで突き放すと決めた。 制御しようにも手に負えないそれが暴走して、こいつの幸せな行く末まで奪ってしまわないうちに。 ・・・そうするはずだった。こいつへの情など捨てたつもりでいた。 だってえのに俺は、あっさりと血迷った。 こいつが浪士どもに危なっかしく立ち向かっていった、あの傷だらけな姿を黙って見ていられなかったがばっかりに―― 「それにね。土方さんがいくらあたしを嫌がっても、もう無理なんです。 いくら乱暴にされてもだめなんです。あのくらいのことじゃ嫌いになれないくらい、好きになっちゃったから」 「・・・・・・・・・・また、それか」 短くなった煙草をコーヒー缶に突っ込む仕草に紛らせて深くうつむき、もどかしさを噛みしめながら土方は答える。 呼吸が詰まったその声は、偶然、ひどくつまらなさそうな口調に聞こえた。 が途端に口を尖らせる。素っ気ない男の反応に拗ねているはずのその顔は、大きな目が嬉しそうに笑っていた。 「えぇ〜、なにその反応。もっと素直に喜んでくれたっていいじゃないですかぁ」 「・・・無茶言いやがる。この状況で何を喜べってんだ」 「ねー土方さぁん、少しも?ほんの少しも嬉しくないんですかぁ? 実はちょっと嬉しいんですよね、嬉しいでしょ?こーんな可愛いちゃんにここまで想われてるんだもん。ね?」 「・・・可愛いだ?てめーのかろうじて可愛い部分ったら、同情するほど具合が悪りい頭の中身くれえのもんだろうが」 「ちょ、ひどくないですかそれっっ」 起き抜けでまだ足元がしっかりしないらしい。はふらついた仕草でベッドの端に座りながら、 土方の暴言とも取れる皮肉な軽口に、はしゃいだ様子で瞳を輝かせる。顔を上げた土方は、 どこか辛そうな苦笑を口の端に浮かべて彼女を眺めた。 ――俺が渋々でも話に付き合ってやっている。 こいつが喜んでいるのはたったそれだけ。 たったそれだけのことを嬉しがって、ガキみてぇに無邪気な、信頼しきった面で笑いかけてきやがる―― 「・・・・・・・・・・・ったく。・・・てめえときたら。 ・・・・・・馬鹿じゃねえのか。いや、馬鹿だろ。間違いねえ。どうしようもねえ、救いようがねえ馬鹿だ」 「はぁ?ひどっ。酷すぎますよなにそれぇ。ていうかそんなこと、土方さんにだけは言われたくありませ、」 病室の冷えた床に素足の爪先をつけ、は立ち上がろうとする。 ところがやはり身体が弱りきっているらしい。立ち上がったのも束の間、ぐらりと膝がよろめいた。 きゃぁ、と甲高く叫んで前のめりに転びかけたが、目の前にぱっと出された何かに反射的にしがみつく。 咄嗟に伸ばされた土方の腕だ。思わず全力でぎゅっと縋りつき、腰に回された腕に身体を支えられた。 「・・・っ。す、すみませ、・・・・っ、」 思わず縋りつく恰好になった男の腕に上半身をもたれさせ、は驚いた顔で裸足の足元を見つめる。 膝から下にちっとも力が入らない。頭では歩こうとしても身体がついていかないのだ。 けれど、なんとか自力で立つくらいの脚力なら残っていそうだ。おそるおそる床を踏みしめ、 あまり頼りになりそうもない膝の感覚や、足裏の感覚を確かめて――、 ――そこで、ふと息を呑んだ。 唐突に気付いたのだ。 身体を支えてくれている土方が徐々に近くなり、煙草の香りが濃さを増し。 いつのまにか、黒い隊服の胸元が目の前に影を落とす距離まで迫っていることに。
「 片恋方程式。49 」 text by riliri Caramelization 2012/02/15/ ----------------------------------------------------------------------------------- next