「・・・おい。来たぜ、いつものピザ屋が」 「けっ、またピザかよ。しかもまたあの店じゃねえか」 いつのまにか建物の正面に停まっていた、一台の中型トラック。 昼間は応接室として使われている玄関口横の部屋の窓から、二人の男は深夜の屋外を横目に眺める。 車体の側面に描かれた「NIN-NIN PIZZA」の赤と黄色の大きなロゴを確認。 すぐに視線を室内に戻し、互いに厭そうに目を合わせた。 この事務所の用心棒として雇われて以来、すっかり目に馴染んでしまったあのピザ屋の宅配車だ。 「毎日毎日ピザばっか食って、よく飽きねぇよなぁ若頭も。 ここ二ヶ月ってとこはほとんどあのピザ屋だしよ。いくら好物ったって限度があんだろ」 「どーでもいいだろ、んなことはよ。俺達はな、余計な口出しせずに言われたことだけやってりゃあいいんだよ」 「あの店もあの店だろ、どーなってんだよあの店。今何時だと思ってんだぁ?夜中の三時だぜぇ? しかも元旦の三時。正月三箇日の宅配なんて断れってぇの」 「注文が多けりゃそうもいかねえんだろ。どこも年中無休らしいぜ、最近のピザ屋は」 数日前に宅配に来た無駄に愛想のいい男が、確かそんなことを言っていた。 (年末年始はうちも休みが貰えなくって大変なんですよ。) 見ていると妙に緊張感を削がれてしまう呑気な面をしたそいつは、よほど話し好きな男らしい。若頭の代わりに 代金を払いに出た玄関先で、聞かれもしないことをへらへらと、おおよそ三分ほどは喋り倒して帰っていった。 そういやぁあの兄ちゃんもこの店の配達員だったな。年越し蕎麦代わりのカップ麺を啜りながら そんなことを思い返していると、廊下で来客を告げるブザーが低く鳴る。 客人用の応接セットに寝そべりテレビを見ている仲間に、おい、と無愛想に声を掛けた。 「鳴ってんぞ。お前出ろよ」 「あぁ?お前が出ろよ面倒くせぇ」 「今日はそっちの番だ。昨日は俺が出たじゃねえか」 ちっ、と舌打ちしながら起き上がったその男は、テーブルに投げ出されていたリモコンを手に取った。 三時間前に年明けを迎えてからというもの、参拝客の多い有名神社のCMばかりを繰り返していた画面がふつりと暗くなる。 再び放り出されたリモコンがテーブルに落ちると同時で、二度目のブザーが鳴らされた。 「どうもー、毎度ありがとうございまーす、忍々ピザですー」 間延びした配達員の声に「へいへい」と生返事しながら、仲間の男は部屋を出ていった。 部屋に一人残された彼もカップ麺を置いて立ち上がり、自分の影が外にいる者の目に映らないよう、 壁伝いに窓まで寄って行く。窓辺に身を隠すようにして、用心深く外の様子を伺った。 宅配車は普段のそれよりも大きめな中型程度のトラックだ。そこがどうも気にかかったのだが、 他に怪しい点は見受けられない。視線を横に伸ばすと、ピザの箱を手にした小柄な男が玄関前に立っていた。 電灯の薄暗い光を受けたその顔を、しげしげと注意深く眺める。 「・・・なんだ、噂をすれば、ってえやつか」 数日前の兄ちゃんじゃねえか。 見るからにお人好しそうな男の人相を確認して拍子抜けした気分になっていると、 ――配達車後部の貨物庫のドアがゆっくりと開く。 そこから細身な脚がするりと滑り出て、暗い路上に降り立った。 男の身体に胸騒ぎが走る。 ・・・どうもおかしい。本当にピザ屋か、あれは。 今夜は三階の部屋に客人が詰めかけており、若頭は一時間前から対応に追われている。 深夜の見張り番である彼らが事務所に顔を出した夜半にも、新年を迎えた三時間前も、若頭は今夜行われる得意先との 商談の準備に余念がないようだった。ピザ屋に電話しているところなど見た覚えはない。 宅配員を追ってこちらへ向かってくる人影の、素早くしなやかな動作にも不審を駆り立てられる。 玄関先ではふたたびブザーが鳴り響いている。 ソファの背面に立て掛けていた自分の刀を手に取ると、男は仲間の後を追って部屋を飛び出していった。 ――それから数分後。 深夜の来客を迎えている三階の部屋では、一時間前から進められていた交渉の末に めでたく商談が調ったところだった。広めな部屋での会合には二十人を超える男たちが詰めていて、 売る側と買う側、双方はテーブルを挟んで互いに顔を突き合わせている。 一方には「若頭」と呼ばれるこの事務所の責任者。その横に居並ぶ十人は、この事務所の本体である組織の男たち。 そしてもう一方には、彼等に「得意先」と呼ばれている、ここ数年で頭角を現してきた新興団体の幹部たちが。 合わせて二十数人が囲む大きなテーブルには、商品見本として用意した大小の銃火器とその弾薬の類が置かれ、 端には白銀のジュラルミンケースも数個積まれている。箱の中身は今回彼らが売買する銃火器類の代金だ。 彼らはこの後、江戸郊外にある隠し倉庫まで移動。トラック三台分の荷台がゆうに埋まる、 大量の武器密輸品を取り引きする手筈となっていた。 商品代金の確認も済み、ようやく一息ついていた両者は、たいした意味のない世間話に紛らわせながらも 互いの所属する組織の動向をそれとなく探り合う。 すると何の気配もなかった廊下から、こんこん、とドアをノックする軽い音が。 階下に居る見張り番には「商談が終わるまで声を掛けるな」と言いつけてある。異変を感じた若頭がドアを 抜け目のない視線で注視し、音もなく椅子から立ち上がった。 「どうした。急用か」 「――ご注文のピザの出前に参りました。」 問いかけに応じてきた声は、見張り番の男たちの野太い声とは明らかに違っていた。 澄んだ女の声だ。しかもその声音には、出前の宅配員らしい媚びや愛想など微塵も感じられない。 部屋の全員が顔つきを変える。間もなく、がんっ、と蹴られたドアが勢いよく開き、 そこに二人の姿が現れた。 一人は用心棒として雇った男だ。腕を背中で縛られているのか手は見えず、 両肘が窮屈そうに上がっている。その背後に立ち、用心棒の首筋に刀の切っ先を突きつけている女は、顔色が青白く 表情は薄く、気位の高そうなつんとした顔立ちをしている。とはいえ、なかなかお目にかかれないほどの上玉だ。 女は江戸に暗躍する攘夷浪士でもある彼等には見覚えがあって然るべき制服、――に意匠がよく似通った、 女物の黒服を身に纏っていた。 「真選組です。武器密輸および違法取引の容疑であなたたちを逮捕します。 全員その場から動かないで。手を頭の上まで挙げてください」 視線を部屋の左右にさりげなく走らせながら、女はゆっくりと言い渡した。 部屋を見渡して軽く頭を振れば、その仕草につられて長い髪がさらりと肩を流れる。 女はテーブルを囲んだ顔ぶれを、一人一人、注意深く視認していった。やがて一人の男の姿を部屋の奥に認め、 大きくて印象的な瞳を一点に集中させる。 「・・・そいつは妙な話だ。今夜は出前を頼んだ覚えも、警察の方をお呼びした覚えもねえんだがなぁ。 場所を間違えてやしませんかねぇ、お嬢さん」 若頭は気安い口ぶりを装って堂々と女に話しかけながら、廊下から音も無く忍び寄る気配の数を確かめていく。 ・・・三人。四人。五人か。いや、六人ほどか、こいつの仲間の幕府の狗は。 最も入口に近い席から、身丈も横幅もある巨漢が立ち上がった。男はくちゃくちゃと音を立ててガムを 噛みながら、女の様子を威圧的に眺める。場に居る全員が息を潜めつつ、しかし表情を変えずに腰を上げていく。 巨体の男が腰の刀に手を回しながら前へ進み出る。女はやや吊り上がり気味なその目をわずかに細めた。 「そこの人、動かないで。一人でも動けば、あなたたちの身の安全は保証できません」 「ははは、これはまた、勇ましいお嬢さんが迷い込んでこられたもんだ。けどねえ、たった一人でどうするつもりですか」 「あなたたち次第です。出来れば手荒なことはしたくないし、大人しく投降してほしいんですけど」 「私たちが従わなければ?どうなるんです」 乾いた薄笑いで若頭が問う。女は表情を消したまま、無言で用心棒の背中を蹴飛ばした。 と同時に廊下から、抜刀した数人の男たちがどっと押し寄せる。――どの男も全身が黒の制服姿。真選組の隊服だ。 左右二手に割れて浪士たちに突進していく仲間の男たちに援護されながら、女はまっすぐに部屋を突っ切ろうとする。 その行く手を塞ぐようにして、刀を振り被った巨体の浪士が襲いかかった。 「行かせるかぁっ、っっのアマぁぁぁ!!」 ぶんっ、と空気を唸らせ振り下ろされた頭上高くからの斬撃にも、向かってくる男にも目もくれない。 姿勢を低めた女は男の巨躯の脇を風のように駆け抜けた。 男の横を擦り抜ける瞬間、彼女が握った細身な刀が、ひゅっ、と目にもつかない速度で一閃する。 目指しているのはこの事務所の代表者。ここでは「若頭」と呼ばれ、突入前に局内の全員が面と素性を確認している男だ。 我が身の危機を察知した男は、素早く床に身を伏せた。かと思えば、部屋の三分の一ほどを占める大きなテーブルを 裏から力ずくで押し上げ、天井近くまでを塞ぐ壁を作ろうとする。ひっくり返したテーブルを一時凌ぎの盾とするためだ。 しかし、突如現れた防壁にも彼女がたじろぐことはなかった。 床を強く蹴って大きく跳ねると、目の前で徐々に起こされ、壁のように立ち上がっていくテーブルの急な斜面を、 まるで坂でも駆け昇るかのように、たんっ、たんっ、とブーツの先で蹴りつけ、飛び上がり、を繰り返し、 空中でバランスを崩すこともなく鮮やかな跳躍で乗り越える。ふわっ、と短いスカートの裾を翻らせて 壁の向こう側へ着地、呆然としている若頭へと腰を低めた構えを取った。 するとそこで、部屋の空気を切り裂くような喚き声が上がって―― 「ぐ・・・はぁあああぁっっっ!う、腕がっっ。腕があぁっ・・・・〜〜〜っ!!!」 部屋中の注目が喚き声のほうへと向き、若頭も思わず女から目を逸らす。壁に阻まれて見えはしないが、 突入を許した入口側からだ。入口前では浪士の一人が自分の右腕を抑え、血に濡れた床にうずくまって 肩を震わせていた。テーブル前で女に斬りかかったが、彼女の俊敏さに追いつけずに取り残された巨漢の男だ。 抑えた腕からは多量の鮮血が絶えず噴きこぼれており、その右手首から先はすでに失われていた。 疾風のような女の太刀筋によってあるべき場所から切断された右手は、ぼたぼたと流れ落ちてくる真紅に染まって 握っていた刀ごと床に転がっている。ぐぉおおおっ、と叫び、男は焼けつくような痛みに床をのたうち回る。 獣めいたその叫びが室内に轟いた頃には、隊服姿の女が若頭の側頭部に鋭い蹴りを決めていた。 衝撃で床に転倒し、痛みに呻く男の首筋に光る白刃をぴたりと押し当て、開いたままの戸口に向けて彼女が叫ぶ。 「――山崎くん!もういいよ、お願い!!」 「はいよっ、了解っっ」 ピザ屋の制服を着た小柄な男――山崎は、待機していたドアの影から無人の廊下を駆け出した。 同じ三階の端にある非常階段入口を目指しながら、腕時計が示す時刻をちらりと確かめる。 ――すごい。やっぱりすごいや、さんは。 建物侵入から主犯格の制圧までを、僅か五分足らずでやってのけた。まぁ、今回は不在の沖田さんの代理として、 臨時の特攻隊長ってことになるけどさ。それでも隊長格の初陣としては申し分ない手際とスピードだよなぁ。 分厚く重たい耐火ドアを急いで開け、まるで自分のことのような嬉しさに顔をにやつかせながら耳を塞ぐ。 手にした小銃を夜空に振り上げる。空砲を一発、高々と鳴らした。 しめやかに静まり返る元旦の夜に、派手に爆ぜた合図の音。それを受け、手にした携帯で話しつつ 玄関前に待機していた土方は、派手な音とかすかな白煙が上がった建物三階の上空を振り仰ぐ。 それから背後を振り返った。 そこにはピザ屋の宅配車を偽装したトラックから降りてきた真選組隊士たち、総勢数十名が列を成している。 建物前に集まりつつあるパトカーからも、続々と隊士たちが詰めかけているところだ。 土方は一人一人の様子を冷静に見極めるような視線を向けながら通話を終え、横に立つ近藤と視線を合わせる。 「向こうが一足早かったな。密輸品倉庫は番人ごと制圧、多少抵抗されたらしいが負傷者なしだ」 「そうか、よかったじゃねえか。正月早々験が良いってやつだな」 「ああ。こっちもそう願いてえもんだが」 言いながら人影が重なり合って蠢く三階の窓を厳しい目つきで見上げ、吸いかけの煙草を路上に落とす。 小さな雪の粒を時折ちらつかせている夜空に、右腕を高く振り上げた。 「突入!」 声を張り上げると同時で、隊士たちは列を成して狭い玄関口へ飛び込んでいった。

片恋方程式。 48

たん。 たん、たん、 ・・・・・・たん。 大晦日から続いていた緊張と疲れで棒になった脚を引きずるようにして、は階段を降りていた。 一階の証拠品押収に入っている二番隊の作業をちらりと眺めながら廊下を通り、スチール製の 分厚い扉を押して外に出る。出た傍から、隊服のミニスカートから伸びた素足にひんやりと冷気がまとわりついてくる。 真冬の深夜の屋外は、黙って立っていれば途端に唇が震え、手足が凍るほどの寒さだった。 見上げた空はまだまだ暗い。江戸の空がまばゆい初日の出に照らされ、凍えた街並の空気が 新春の陽光に温まり出すまでには、あとどれくらいの時間がかかるんだろう。 暗く静まりかえった路上を通りかかるのは、現場の撤収作業に励む仲間の隊士たちと、 深夜の参拝からちらほらと戻ってくる初詣客だけだ。 じんじんと痛むくらいにかじかんだ指先に、はーっ、と吐息をかけて温め、 は現場となった建物の玄関口から歩き出す。路上に出ると、すべてが霜で覆われている。 パトカーも、街路樹も、建物も、足元のアスファルトも。ふと見下ろした、雑草が逞しく生息する ちっぽけな草地にも霜が降り、冬場には貴重な緑が寒そうに凍えているのが目に入った。 「ふぁぁ・・・。さむーい。ねむーいぃ・・・・・」 冷えきった両手で口元を覆い、こらえきれずに出てしまった小さな欠伸を噛み殺す。 さっき携帯で確かめた時間はまだ四時半だった。建物内の制圧を終えてからというもの、やけに時間が長く感じる。 現場の撤収まであと何時間かかるだろう。この撤収さえ終われば屯所で休めるし、幸運にも今日は非番だった。 ・・・・疲れた。すごーく、疲れた。 疲れすぎて頭が少しくらくらしている。頭から浴びた血の匂いのせいで食欲はぜんぜん湧かない。 ああ、でも、お風呂には早く入りたいな。こんな時はうんと身体を暖めて、早くお布団で眠りたい。 頭から爪先まで血を被った身体を曇った目で見下ろし、そんなことをぼんやり思う。服を通して肌にまで こびりついてしまいそうな強い血臭が、冷えきった身体から昇ってくる。その匂いを感じていると 自然に増幅されてしまう憂鬱さが、お腹にもやもやと溜まってくる。重たい気分を振り払いたくて、 は疲れた脚に気合いを入れ直して歩みを速めた。 「お疲れさまです、近藤さん、土方さん」 「おぅ、来たか。ご苦労さん」 建物から少し離れた路上に留まり、開いたドアから警察無線の音を流しているパトカーの前。 そこで各隊からの作業報告を受けている二人の許へ、急ぎ気味に寄って行く。 軽く手を挙げた近藤が、人懐っこい笑顔を彼女に向ける。片や隣の土方は、四番隊の副隊長と 真剣な顔つきで何事かを話し込んでいた。彼女に目を向けるどころか、その存在にほんのわずかな関心も 示そうとしない。 は眉を曇らせ、困惑した様子でその横顔を見つめる。 ほんの一瞬、悲しそうに睫毛を伏せた。しかしすぐに表情を変え、近藤へと向き直る。 「容疑者全員の所持品没収、終わりました。これから護送車に連行します」 「そうか判った。…なぁお前、なかなかの手際だったそうじゃねえか。ザキの奴が感心してたぞ」 満面の笑みで彼女を迎えた近藤に「よくやった」と労われ、温かく分厚い手にぽんぽんと頭を叩かれる。 どこにいても変わることがないその笑顔のおおらかさにほっとして、もぎこちなく笑い返した。 「で、どうだった、初の隊長役は」 そう問われた彼女は何か思い出したような顔になり、きゅっと唇を引き結んだ。 表情を消して黙っていさえすれば一見気が強そうというか、気品高い名家の令嬢風にも見えてしまうその顔が、 なぜか唐突にふにゃりと崩れる。眉がへなへなと気弱そうに下がり、唇はぱくぱくと空回り。 そのうちに、黒のロングブーツに半分隠れた膝までもがかくかくと小刻みに震え出した。 「おぉ?何だ、どーしたお前、怪我でもしたのか!?」 「あはは、ち、違うんですよー、これはあの、武者震いの後遺症っていうかぁ。ちょっと気を抜くと こうなっちゃうんです。昨日からずーっと緊張してたから、今頃になって震えが、きちゃって・・・!」 驚いて「大丈夫か」と手を差し伸べてきた近藤に情けない笑顔を返し、 は「すいません大丈夫です」と謝った。だけど本当はちっとも大丈夫なんかじゃない。 目を見張っている近藤さんの足元にぺたりと腰を落としてへたり込みたいくらいに、身体は脱力感と疲れで一杯だ。 (・・・総悟ってやっぱり凄い。こんな緊張とプレッシャーで押し潰されちゃいそうな大役を、 いつもとぼけた顔してけろりとこなしているんだから。) どんな厳しい状況下であっても迷いなく賊の懐に飛び込んでいき、特攻隊長としての任を着実に 果たしている沖田。常に彼女が頼りにしてきた「相棒」の姿が、――今はここにいない少年の姿が目に浮かぶ。 隊長役としての彼と自分とを比較してみれば、何かと反省も湧いてくる。しかしその反面、 くたくたに疲れきった身体には、小さいながらも心地良い充足感が生まれていた。 よかった、近藤さんに誉めてもらえた。まだまだ未熟なあたしでも、少しは役に立てたみたいだ。 安堵の溜め息を暗い冷気にふわりと吐き出し、は血に汚れて疲れ気味な顔にうっすらと笑みを浮かべた。 「でも、どの人にも怪我がなかったし、無事に終わってよかったです。あたしは慌ててばっかりでしたけど、 一番隊のみんなに援護してもらえたおかげでどうにか乗り切れたかなぁって・・・」 「さっき来た一番隊の副隊長がな、誉めてたぞ。総悟が先陣を切るよりも 器物破損の始末書がうんと少なくて済むから有り難い、だとよ」 それを聞いてきょとんとしたは、次の瞬間、ふふっ、と可笑しそうに吹き出した。 「そう言えば副隊長さん、ぼやいてましたよ。いつも総悟に始末書押しつけられて 代わりに書かされてるから、あの書面を見るだけでうんざりするんだって」 「おい。浪士どもはどうした」 「っ!」 背後からの剣呑で隙が無い声に、はびくっと身体を竦み上がらせた。 近藤はそんなの姿に目を丸くし、なんとなく苦笑気味な顔になる。四番隊との打ち合わせを 終えたらしい土方が、二人の会話の呑気な調子に痺れを切らしたかのように割って入ってきた。 「は・・・、はいっ、三階で待機させてます」 「横の駐車場に三番隊が護送車引っ張ってきたはずだ。斉藤に言って引き渡せ」 「はい、了解です」 「所持品は。没収したか」 「しました、三階で検査済みです」 「屯所に送る前にもう一度、身包み剥ぐつもりで洗っとけ」 「はいっ」 「それと、終わったら数人連れて建物に戻れ。四番隊から引き継いで、三階のガサ入れだ。いいな」 矢継ぎ早な命令を言い聞かせる間も土方は手許の書類に目を通していて、 書面に視線を走らせながら車内の無線機に手を伸ばし、屯所との連絡にかかろうとする。 どこか淋しげな目つきで彼の動きを追っている女には、決して目を向けようとはしなかった。 はい、と何度も頷き、緊張した態度で命令を受けるうちに、の表情が目に見えて曇っていく。 最後に深く頭を下げると、スカートを翻らせてその場から走り去った。 ――それから数分ほどが経ち。 たち一番隊は、容疑者の一団を引き連れて戻ってきた。 手錠を縄で繋がれた容疑者二十数名の集団を連行していく一番隊と、そして山崎。 隣の駐車場へと向かう一行の様子を横目に窺いつつ、近藤と土方は他隊との打ち合わせを進めていたのだが。 「・・・・・ちょっ、それはマズいですってば、だめですよ神山さんっ」 なぜかが困ったような声を上げ、隊士も容疑者の浪士たちも足並みを乱し。 駐車場に入る手前で、一団が路上に立ち止まる。その場に居る者たち全員の注目を集めた。 「こんな時にメールは駄目ですっ、土方さんに見られたら切腹させられちゃいますよっ。 任務が終わった後か、せめてこの人たちを護送車に引き渡してからにしてください」 「これはこれは、すいません隊長!以後気をつけます!!」 注意を受けた隊士が携帯を持った手を額にかざし、ぴしりと敬礼する。 に向かって直立不動になった、容疑者の一人を連行中のこの男。 むやみやたらに大きな声。瓶底のように分厚い眼鏡に、うっとおしいまでにぴちっと分けられた髪型。 その独特な野暮ったさが妙に目につく一番隊隊士、神山だ。 「だから隊長じゃないですってば。あたしはただの代理ですから、普通に名前で呼んでくださいよー」 「失礼しました隊長っ、以後気をつけます!!ところで隊長、今日の記念に自分と一枚撮って貰っていーっスか!!」 「えっ、写真ですかぁ?でもあの、まだお化粧直してないし。髪とかすっごくボサボサになっちゃったから今はちょっと、 ・・・・・・・・・・・・いやだからそうじゃなくて!って聞いてます神山さん?ねえっ」 一瞬素に戻りかけて髪まで撫でつけていたがあわてて問い詰め、神山から携帯を取り上げようとする。 ところが注意された神山には堪えた様子など欠片もない。「うっス隊長、失礼します!!」と に図々しく肩を寄せ、早くも携帯を構えようとするのだ。年中こんな調子で場の空気を掻き乱す神山にも、 彼を発端としたこんな騒ぎにも慣れているためか、一番隊の隊士たちは皆うんざり気味だ。 「あーあーまたやってるよこいつはぁ」とでも言いたげな白い目で彼を眺め、容疑者たちを引き連れて さっさと素通りしていくのだが。 「ちょっとちょっと神山くん。だめだって、なにふざけてんの」 そこへの苦戦を見兼ねてか、一人が割って入ってきた。集団の後方にいた山崎だ。 「いや君さー、俺も人のこと注意出来るほど偉くはないんだけどさぁ、いい加減にしてくんないかなぁ。 さっきもこっそり隠れてケータイ弄ってたよね?いいの、後で沖田さんに知れたら殺されるよ」 局内においてある意味土方以上に怖れられている、悪魔のような一番隊長。 神山にとっては直属の上司でもある沖田の名を出してしまえば、いくらこの「やけに腰は低いが 悪びれることを知らないと評判の図々しい奴」だって、さすがに態度を改めるだろう。山崎はそう思ったのだ。 ところがその読みは甘かった。神山の分厚い眼鏡のレンズがよりいっそうの期待に輝き、 がばっ、と抱きつくほどの勢いで詰め寄られ、 「おおっっ、マジっスか山崎さんっ、本当でありますか!!」 「いややめてくんない神山くん暑苦しいから。やめてくんない顔近づけるの、マジうぜーから」 「自分、隊長になら殺されても本望です!!沖田隊長の手に掛かるならどんな死に様でも構いません、 拷問部屋で吊るし上げでも火責めでも水責めでも木馬責めでも!」 「いややめてマジで、この近さマジで不愉快なんだけど!?ていうかちょっっ、鼻息荒いんだけど? ツバも飛んでくるんだけど!!!?」 「おおっそうだ、何なら隊長にも女王様としてボンテージスーツ姿でお手伝い頂ければ!!」 「〜〜〜っ神山さんっっ、SMプレイ妄想はいいからここは早くこの人たちを連行しましょうっ、ねっ!!?」 困りきったと山崎は神山を容疑者ごと引きずるようにして、よたよたした足取りで連れていく。 ・・・どうやら容疑者の扱いよりも、容疑者以上に曲者な身内の扱いに手古摺らされているようだ。 醒めきった目つきで騒動を眺めていた土方は、呆れた溜め息とともに煙を吐いた。 「神山か。総悟がいねえと途端に仕事舐めやがるな、あのお調子者が」 「なぁトシ」 「ああ?」 「・・・何かこう、おかしくねえか?の奴。あれぁ少し休ませたほうがよくねえか?」 現場となっている建物の敷地を出て右へ折れ、駐車場へと消えていく一団の背中を指で差し、 近藤が怪訝そうに問いかけてくる。 土方は盛大に溜め息をつきたい気分にかられ、近藤からは見えないように ほとんど車が通らない夜明け前の路上へと顔を逸らして眉をしかめた。 ・・・またそれか。そろそろ懲りてほしいもんだが。 「・・・、あんた、またあれを女だ何だと庇う気か? 勘弁してくれ。身贔屓もいい加減にしてくれねえと、他の奴等に示しがつかねぇんだが」 「いや、これはそういうんじゃねぇよ。違うんだ今日は。 その、特にどこがどうってぇんじゃねえんだがな。何かこう、声に張りがねえっていうか・・・」 顎髭のあたりを弄りながら、近藤は心配げにの背中を見送る。 特に反論しようという気にもなれず、土方は手許の押収物リストに目を落とした。 「近くで見ると顔色も冴えねぇようだしなぁ。なあ、お前から言ってやれよ。少し休んだらどうだって」 「だからそれが身贔屓だってぇんだ、顔色くれえ放っとけよ。そもそもなぁ、体調管理も俺らの仕事のうちだろうが。 自分の面倒すら見きれねえようじゃ、あいつの技量もそこまで止まりってぇ事だろ。そうじゃねえのか」 「・・・・・・お前は心配じゃねえのか。あいつはお前の部下なんだぞ」 「俺はあんたと違って女に甘くねえからな。それとも何か。またあんたがあの馬鹿を預かってくれんのか」 リストをぱらりと捲りながら、皮肉っぽい口調で淡々と返す。 これでは何を進言しても無駄だ、とでも思ったらしい。近藤は口を閉ざして眉をひそめる。 まだ思い悩んでいそうなその横顔をちらりと眺めた土方は、すぐに踵を返した。 立入禁止の黄色いテープがぐるりと張り巡らされた建物内へ、足早に向かう。 歩くうちに、さっき眺めたばかりの、顎の線がすっかり痩せ細った女のどことなく疲れた表情が浮かんでくる。 まだ充分に長さのある煙草を苛立たしげに投げ捨て、朝霜に凍った地面をうつむきがちに睨みつけると、 土方は、ちっ、と小さく舌打ちを漏らした。 ――今日からじゃねえ。ここ三日ほど、ずっとそうだ。 は体調を崩し始めている。昨日は総悟の代理を務めるという緊張もあって眠れなかったらしく、 今朝はまた一段と表情がやつれていた。近藤さんのみならず、あれが心身ともに弱ってきているのは、 そろそろ誰の目にも明らかになっていくことだろう。 ・・・だが、だからこそだ。ここで徹底的に突き放す。甘い顔など出来たものか。 「――きょっっ、局長っっ、副長っっっ!!」 そこへ背後からあわてふためいた声が掛かった。 見れば護送車に向かったはずの神山が、こちらへまっしぐらに駆けてくる。 何事か、と顔色を変えた局長と副長の前で、神山はびしっと敬礼して立ち止まった。 「申し訳ありません!!自分が連行した男が車の鍵と短刀を隠し持ってまして、駐車場で 刀を突きつけられ、手錠を外すよう脅されたので、仕方なく外してしまいました!!」 「・・・!?おいっ、それでどうした、その男は」 「男は主犯の男とともに車内に立て籠もっており、目下さん達が説得中です!!」 二人が驚きに目を見張ったのとほぼ同時、隣の駐車場で大きな音が弾ける。 突入の合図で山崎が鳴らした空砲よりも残響がうんと長く、空砲よりも低くて腹に轟く音。 ――銃声だ。 闇夜に轟いたその音にはっとした近藤と土方は顔を見合わせ、互いに表情を強張らせた。 「あれっ、銃も隠し持っていたようで!いやぁ自分、ちっとも気付きませんでした!!」 「――はぁ!?気付きませんでしたで済むか!」 「それにしても所持品の確認がここまで重要だとは。自分、初めて知りました!!」 「馬鹿野郎!!所持品没収の徹底なんざ初歩の初歩だろうが、そんなことも習ってねえのか!!」 「はいっ、以前、沖田隊長に所持品検査の極意をお伺いしたところ、そんなことは適当でいいと!!」 「・・・っっのガキ!戻ってきたら監督不行き届きで始末書書かせてやる・・・!」 罵倒されても敬礼を崩さない神山をガツンと一発殴りつけつつ、こめかみに青筋を浮かせた土方が唸る。 一足先に駆け出した近藤を追い、騒ぎを聞きつけた他の隊士たちと駐車場へ走った。駆けるうちに焦りが募る。 状況はさらにひっ迫しているのだと、駐車場からの音が如実に告げていた。 二発、三発と銃声が続く。荒々しく唸る車のエンジン音が近くなる。敷地を囲むブロック塀越しに中の様子が見え、 土方の表情が一気に固まる。 「・・・!!」 先に駐車場に入り、目の前に立ち止まった近藤が叫んだ。 彼の広い背中越しに広がるその光景に、土方はやや放心気味に目を見張った。 車内には二人の男の姿があった。一人はハンドルを握っており、もう一人が助手席で拳銃を手にしている。 ハンドルを握る容疑者の――見ればそれは、「若頭」と呼ばれる例の主犯格の男だったのだが―― その男の強引かつ滅茶苦茶な方向転換のせいで、外国産車らしき頑丈そうな大型四輪駆動車が 駐車場を荒らし回っていた。車を止めようとする隊士たちに突進して脅し、轢かれそうになった彼等を四方に 分散させると、次はアクセル全開で後退して敷地の三方を塞ぐブロック塀に衝突、さらには護送車にも 体当たりをかまして…を幾度も繰り返しては、そう広くもない敷地内でどうにか警察の包囲を突破しようと、 猛々しいエンジン音を響かせ、暴れ狂っている。 そして、――奴らの逃走を阻止しようとしたのだろう。暴れる車のボンネット上には女の姿があった。 は唇を噛みしめ、前後左右に暴れる車の動きに振り落とされまいと腰を落とし、 ボンネットの鉄板に突き刺した刀に必死でしがみついている。細い身体は容疑者の荒いハンドル捌きに振り回され、 今にも車上から滑り落ちそうだ。それだけならまだしも、車内で目を血走らせている助手席の浪士は、 逃走の邪魔だてをするに、握った銃の照準を合わせようとしているのだ。それを目にした瞬間、 土方の背筋がぞっと凍りつく。一瞬で全身が血の気を失くした。 「・・・・・・っっ。・・・にやってんだ、あの馬鹿が!!」 (ちったぁ後先考えろってえんだ・・・・!) おぞましさにぎりっと歯噛みしながら、土方は抜刀して駆け出した。 外そうにも外しようがないあの至近距離だ。浪士の放った銃弾が当たれば、確実にの身体か頭を貫通する。 あいつのことだ。どうせ頭で考えるよりも身体が先に動いて、車に飛びつきでもしたんだろうが、 それにしたってあれはねぇ。とんだスタンドプレーじゃねえか。もしあれで運良く弾道が逸れたとしても、 暴走する大型車に振り落とされ、轢かれでもしたなら。華奢な女の骨身などひとたまりもない・・・! 「!!刀ぁ離せ、降りろ!!」 「っっ、・・・・・大丈夫っ、こ、このくらい、平気です!」 「命令だ、降りろ!!」 「い、いや、ですっっっ。あたしがなんとかしますっ、今日は、総悟の、代理、ですからっ」 「っだとこの、・・・・・・!!」 激しく前後左右に振り回され、なめらかに光る鉄板の上でどうにか踏ん張っていたブーツがずるりと滑る。 は横に転倒して太腿と腰をしたたかに打ち、今にも車上から滑り落ちそうになった。 「よさねぇか!おいっ、強情張るのもいい加減にしろ!!」 「!!もういい、刀を離せ!!!」 通りのいい近藤の声が、思わず動きを止めてしまうほどの抑止力をもって耳に飛び込んでくる。 はほんの少しためらいを感じた。だが、それでも刀を離そうとはしない。 歯を食い縛って車上にうずくまり、膝立ちになり、がむしゃらに刀の柄にしがみつく。車に揺らされ続けたおかげで 酷くなった眩暈のせいで、吐き気がするほど気分が悪い。息が切れる。流れてきた血で目が曇る。 車内の浪士が発砲した時に割れたフロントガラスの破片を真正面から浴びてしまい、瞼かどこかが切れたらしい。 肌のあちこちがぴりぴりと痛む。顔も手も足も細かな傷だらけで血まみれだ。 ガラス越しに見える浪士たちが凄まじい目で睨んでくる。何か口汚い言葉で罵っている。 自分に向けて構えられた銃口に言いようのない寒気を感じる。疲れきって限界な腕が震えを増してきた。 はぁ、はぁ、と息を乱し、辛そうな呼吸を繰り返し。は今にも泣き出しそうな顔でぎゅっと目を瞑る。 ――もうやだ。馬鹿みたい。あたし、どうしてこんな危ないことしてるんだろう。 痛い。疲れた。吐きそうだ。土方さんにも怒鳴られたちゃったし、それだけで泣きたくなってくる。 一人で先走ってこんなことして、きっとみんな呆れてる。馬鹿みたい。もうやめてしまいたい。もう逃げたい。 でも。 ・・・いやだ。 いや、いやだ、絶対にいや。どうしても、死んでも諦めたくない。 どうしてもこれは手離せない。ここで逃走を許してしまえば、あたしはあのひとの役に立てない。 そんなあたしじゃ駄目。 呆れられてもいい。怪我したっていい。ここですぐに諦めてしまうようなあたしなんて、あのひとの傍には必要ない――・・・! 「・・・っ。止めて・・・!車、止めて、ください・・・!あの銃があたしを狙ってる間に、早くっ」 「るっっせぇ、つべこべ言わずにてめえは降りろ!聞こえねぇのか!」 「――っっ、だめ!だめですっっ。ここで・・・ここで離したら。諦めたら。だめなんですっ。 ・・・・・・だって、あたし、もう、逃げないって、決めたから・・・・・・・・!」 息が上がってひどく辛そうな、けれど、動かしがたい意志を秘めた女の声が耳に刺さる。 土方がその声に顔色を変え、ぐっと喉を詰まらせる。近藤が指示を出し、隊士たち全員が車の周囲を取り囲んだ。 しかし猛然と暴れ続ける車体に成す術もなく、隊士たちの表情には焦りが色を濃くする一方だ。 まずい雲行きになってきた。もしも駐車場を囲む塀のどこかがあの体当たりで崩れてしまえば、 主犯を取り逃がしてしまうおそれがある。も撃たれてしまうかもしれない。 土方は胸で暴れる苦悶をこらえ、こめかみに嫌な汗を感じながら車を睨む。困惑に乱れる頭の中から どうにか活路を見い出そうと必死になった。…とそこへ背後から、ぬっ、と大きな人影が近づいてきた。 「局長、副長」 身長は2メートル弱、局内で最も身体が大きく最も無口な三番隊隊長、斉藤が進み出る。 土方たちの頭上に影を落としてのそりと並び、ぼそぼそと小声で提言してきた。 「車は私達が抑えます。その隙にどうか、容疑者の確保を」 言うが早いが三番隊と一番隊の隊士を引き連れ、護送車にぶつかって動きを止めたばかりの車に突進する。 全員がが乗っているボンネットを囲むようにして押さえにかかり、車の動きを止めようと奮闘した。 まずは車体側面に飛びついた隊士たちが、刀をざくざくとタイヤに突き刺して前輪を潰す。大きな車体が前方に がくりと沈み、血眼で怒鳴った若頭がアクセルを目一杯に踏み込む。しかし大型車の最大馬力は、 十数名の隊士たちが束になった馬力となんとか拮抗しているらしい。隊士たちの全力包囲に押し留められた車体は、 そこから走り出すことはなかった。空気を抜かれた前輪がギュルルルルルル、と空回り気味に唸り、高速の回転に 擦られた地面から濛々と白煙が上がる。隊士たちは車をじわじわと、しかし着実に押していき、ついに車体後部が がつんとブロック塀に突き刺さる。ブロックの一部ががらがらと音を立てて崩れたが、塀に突き刺さって しまった車はこれで全く前に進めなくなった。後輪のタイヤは軽く地面から浮き、完全に空回りしている状態だ。 この機にが立ち上がり、刀を素早く車体から引き抜く。抜いた勢いを利用して空をひらりと旋回させた刀身が 浪士たちの眼前で舞い、車内を鋭く突き刺した。 「――っっ、はぁああああぁ――――っっ!」 「ぐっっ、うぉおおおおおおっっ・・・・!!」 凛々しい掛け声とともに繰り出した一撃が銃を構える男の肩を貫通、座席に串刺しされた男が ひび割れた声で絶叫する。の突きで粉々に砕かれた光る破片が浪士たちを襲う。 ところが男はそれでも銃を離さなかった。血がどくどくと流れる肩の痛みに顔を顰め、 それでもを狙おうとした。アクセルがさらに深く踏み込まれ、エンジン音が獰猛にわななく。 ブロック塀がガラガラと砂煙を上げて崩壊、暴走車を留めていた枷が外れた。小刻みだが激しい動きで 車体にしがみついていた隊士たちをすべて振り払い、車が全力で動き出す。 ――急な加速のせいで足元を崩してボンネット上に倒れ、それでも刀を離そうとしないを乗せたままで。 「やめろ、手を離せ、!!」 横で近藤が声を限りに叫んでいる。近いはずのその声がやけに遠いものに聞こえた。に拳銃を構えた男が 引鉄に指を掛け、今にも弾丸を放とうとしている様子と、逃走車に浚われようとしている女の様子が目に留まった。 唇を噛みしめた、苦しげで疲れきった表情に目を奪われる。どくん、と妙に不安定な音で鼓動が鳴る。 急激に乾いた喉の奥に吐き気が湧く。胸を破裂させそうな勢いで鼓動が騒ぐ。足元から痺れのような震えが走る。 周囲のすべてがスローモーションで動いているような、ままならなくて焦りばかりが募る不愉快な感覚に囚われる。 女を一人、失うかもしれない。 たったそれだけのことに身の毛がよだつほど恐怖している自分に気付く。 土方は全身を占領していく震えをこらえ、刀の柄を握り潰さんばかりにきつく掴む。ぎりっと奥歯を噛みしめた。 ――冗談じゃねえ。 てめえはこの期に及んで、何を怖気づいてやがる。こんなところで。・・・こんなことであれを死なせる気か? 「――!!」 ――そう叫んで、叫びながら地面を蹴った気がする。 いや。違ったかもしれない。どう叫んだのかも、自分がどうやって走り出したのかすらも覚えていない。 気づけば頭の中を真っ白にするほどの衝動にかられて駆けていた。全身がを助けようとして勝手に動き、 隊士たちを強引に押し退けてその場を駆け抜け、ブロック塀に飛び上がる。駐車場の包囲を突破して路上に 出ようとする車の動きに寸前で追いつき、ぎりぎりで屋根に飛び移った。前輪がパンクした車体はスピードが上がらず、 がくがくと上下してひどい揺れだ。おかげで男の銃も上下にゆらゆらと定まらないが、それでも憎々しげに何かを叫び、 の頭に照準を合わせようとしている。 ・・・ふざけんな。冗談じゃねえ。よりにもよって俺の目の前で、死なせてたまるか!! 「ひ、じかた、さ・・・!」 飛び乗って来た土方にがはっとして、大きく見開いた瞳に揺らぎが生まれる。車内の男が喚き、銃声が爆ぜる。 髪を振り乱してこっちを向いた青白い頬を、ガラスを貫き飛来した銃弾が掠めた。ぴっ、と赤い血の線が女の頬に弾ける。 男が続けざまに発砲、兆弾やガラスの破片がびしびしと飛び散り、破片で切れた女の髪が空に舞う。 刀にしがみついて車上にうずくまるの顔や手、素足にも小さな傷が無数に刻まれ、白い肌は鮮血の赤で滲んでいく。 「・・・・・っ!!」 「伏せろ!!頭上げるんじゃねえ馬鹿野郎!!」 表情を険しくした土方が怒鳴る。足下に見える助手席へと身を乗り出す姿勢で刀を構え、 車内で銃を構える男めがけて一息に振り下ろす。 全身の勢いを乗せた重い一撃がガラスを砕き、男の手をも骨から砕く。ぐぁああっ、と男が呻き、 拳銃がついにその手を離れ、鮮血がびしゃっと車内に飛び散った。すぐさま刀身を引き抜き、さらに振り下ろす。 赤黒く染まった車内を再び血飛沫が濡らす。の姿に目の前を塞がれ、前が見えずに歯ぎしりしていた 運転席の男は、土方の刀によって肩を釘刺しにされてもがいていた。車が急なブレーキにがくんと速度を落とし、 後を追ってきた隊士たちにたちまちに包囲され、逃走も半ばに路上で止まる。刺された激痛に喘ぐ二人の浪士たちも、 その中から引きずり出されようとしていた。 「――トシ!は!どこだ、落ちたのか!」 流血する男の肩から切っ先をぶんと振り抜き、ようやく刀を鞘に納めようとした、その時だ。 うろたえた近藤の呼び声にはっとして、土方は呆然と目の前を見つめた。 そこに居たはずの女の姿がない。まさか、振り落とされたのか。 歯痒さに舌打ちして、血染めの刀を車上に投げ出す。ボンネットから駆け降り、左右を素早く見渡せば、 ――わずか数メートル先。 逃走犯が目指していた方向から少し横に逸れた、街路樹が等間隔に並ぶこの道の路肩だ。 街路樹の根元にうつぶせの状態で転がった女は、腹を抱えてうずくまっていた。 生きているはずの女の身体が、まるで物のように力無く見えた。 だらりと脚を投げ出し、乱れた髪が顔を覆って、びくりとも動かずに倒れ伏している。 それを目にした瞬間、すべてが止まったような思いがした。 周囲の音も。他の奴等の動きも、声も。空気も。時間も。自分の心臓の鼓動すらも―― 「・・・・・さん!大丈夫、さんっっ」 そこで耳に飛び込んできた山崎の声に、不気味な静寂を打ち破られる。 我に返った土方は猛然と飛び出し、の許へ駆け寄った。間もなく山崎が彼の後を追う。 「・・・・・・・・・、おい、っ。おい!!」 「ひ・・・かた、さ・・・・・・・・・・・・・、」 残りの気力を振り絞ったかのような弱々しい声に、切れ切れに呼び返された。 しかしは動かない。動けなかった。立ち上がるどころか、起き上がることすらままならないのだ。 青ざめて言葉も無く見下ろす土方の足元に、ぐったりと倒れ伏したままだ。 目を固く閉じて腹部を抱きしめ、苦しそうにぶるぶると身体中を痙攣させている。青白く醒めた 傷だらけの肌が、吹き出した汗に濡れていく。きつく食い縛った唇からはつうっと一筋、薄く血の赤が流れ出ていた。

「 片恋方程式。48 」 text by riliri Caramelization 2012/02/03/ -----------------------------------------------------------------------------------       next