※直接描写はありませんが 一部に暴力的表現が含まれていますのでご注意ください 急に上から落ちてきて、腰から肩口までを覆った硬く分厚い布の重み。 その重みに纏わりついた煙草の匂いを無意識に嗅ぎ取り、はびくりと身体を震わせた。 寒い。 寒さで身震いが止まらない。 どんよりと重い瞼を上げてみれば、そこは手足がかじかむほどに冷えきった、暗い部屋の中だった。 畳に伏せていた顔をのろのろと横向きに動かす。すると、みし、と音を立てた足元の畳が軽く沈むのを感じた。 気配がある。誰かがそこに立っている。 みし、みし、と短く切れのいい音で床を軋ませながら、その気配は部屋を出て遠ざかっていった。 「・・・・・・・・か・・・・、さ・・・・」 (土方さん。) 閉ざされる寸前の障子戸に、声を振り絞って呼びかけたつもりだった。 けれど、こみ上げる声を我慢し続けて潰れた喉は、声にならない声をひゅうひゅうと風音のように漏らすだけ。 腰や脚に残る鈍いだるさを押して畳に肘を突き、はうつぶせにされた身体を起こそうとする。 無言で廊下に去っていった足音の行方を追おうとしたが、――すぐにやめてしまった。 畳から這い上がってくる湿った冷気を深く吸い込み、胸の奥から苦しげな溜め息を吐き出し、ぐったりと身体を横たえる。 すべてが横向きになった視界はどこも仄暗く、どこも輪郭がぼんやりと滲んでいた。 中央には細く隙間の開いた障子戸が映っている。雪明りを背にして伸びる障子戸の影は長く、 畳に寝転ぶ彼女を跨いで部屋の奥まで続いていた。 ・・・知らなかった。あれからずっと、外では雪が降り続いていたんだ。 戸口の隙間から覗く光景を、瞼の落ちかけたうつろな目で見つめてぼんやりと思う。 しんしんと積もって屯所の庭中を埋めていく雪に音が吸われているためか、どこからか流れてくる隊士たちの声も 遠くくぐもったものに感じた。 緩く開かれたままの唇に、ぶるりと震えが湧き起こる。 じっとして動かずにいると身体を取り巻く寒気が強まっていく。衣服を乱されて冷えきってしまった胸元や腰から、 忍び込むようにじわじわと冷気が襲いかかってくる。隊服に覆われた背中や、ぐしゃぐしゃと絡まった髪の毛が 貼りついている首筋からは、つめたい汗の感触がじっとりと肌に染み込んできていた。 意識が薄れかけているような遠く揺らいだ瞳を外の雪景色に凝らし、は思う。 あれは本当のことだったんだろうか。 過ぎ去ってみれば夢だったように思えてならない。・・・ううん、いっそ全部が ――この寒々とした部屋に一人残された自分も含めて、すべてが夢であってくれたらいいのに。そうも思った。 けれど腰の奥に残された鈍い疼きのような熱は、土方が去っていった廊下に曇ったまなざしを向けている彼女に ほんの束の間の逃避すら許してはくれなかった。 隊服を整えようとして、ボタンが外れて露わになった胸元へ手を伸ばす。 裾から二つほど留めてみたけれど、最初からうまく動かせなかった手は次第に力を失くして動かなくなり、 三つめを留め終える前に、だらりと床に投げ出した。 急な眠気で意識を遠ざけながらぼうっと見つめた畳には、小さな何かが転がっている。 指先をうんと伸ばしてそれに触れる。ゆっくりと、もてあそぶように、畳を転がしながら手繰り寄せていく。 ふと自分の手首が目に入る。は表情を凍りつかせ、そこからすっと目を逸らした。 土方に鷲掴みで抑えられていたために、肌には彼の指の跡が残っている。 腕の一番細い部分にぐるりと付けられたそれは未だに赤く、目を逸らさずにはいられない生々しさだ。 ようやく手中に収めた花の飾りをそうっと握る。 ――ほんの気紛れだ。 そんな言葉の念押し付きでつっけんどんに寄越されて以来、毎日のように付けていた髪飾りを。 眠ろう。誰にも会わないように急いで部屋に戻って。着替えて。すぐに眠ろう。 何も考えずに。何もかも忘れて。眠ってしまおう。 不規則に漏らされる自分の吐息だけを耳に感じながら、頭の中でそんな順序立てをしていく。 泥のようにぐったりと沈みこんだ身体は早急な眠りと休息を求めているのに、意識はやけにはっきりとしていた。 どうしてなんだろう。 身体が凍りつきそうなほど冷えたせいで、心の中まで凍えて麻痺してしまったんだろうか。 何も感じない。 ――自分でも怖いくらいに。何も。・・・何も感じない。 ほんのわずかな痛みも。悲しさの欠片すらも。ひとかけらの苦い感情すらも、身体のどこにも湧いてこない。 ほんの一粒の涙すらもだ。そのことが自分でも不思議でならなかった。 本当にどうしちゃったんだろう。 あのひとと何かあるたびに、あたしは自分でも呆れるくらい、めそめそと泣きじゃくってきたのに。 ・・・ここがあまりに寒すぎて、頭の芯まで凍りついてしまって。おかげで涙の出し方まで判らなくなって いるのかもしれない。 ふっ、と力無い笑いが唇からこぼれる。目の前から広がった吐息の淡い白さが、冷えた暗闇に散っていった。 上半身を覆っていたごわごわと硬い上着を両腕に抱き、はぎゅっと縋りつく。 軽く握ればくしゃりと潰れる頼りない造りの花の飾りを、目元に強く押しつける。 そのうちに自然と瞼が落ちてきて、ゆっくりと目を閉じ。 隊服に残されたきつい煙草の香りを押し殺した息遣いで吸い込みながら、背中を丸めてうずくまった。 「土方さん・・・」 眠りに落ちる間際に、掠れた声でうわごとのように名を呼んだ。 無言のままに出ていった男を追って部屋から漏れ出たあえかな声は、 しんしんと降り続ける雪の静けさに埋もれて消えた。

片恋方程式。 47

その翌朝。 誰もいない深夜の資料室で書架を漁って時間を潰した土方は、空が白み始めた頃に部屋に戻った。 障子戸が暁光に染まった薄明るい部屋に、案の定、女の姿はどこにもなく。 しかし、確かにここに居たのだという形跡はあった。冷えきった部屋の隅に置かれた、きっちりと畳まれた隊服の上着。 ――それと、盛りを終えて地に落ちた花のように、戸口前にぽつんと置き去りにされていた髪飾りも。 戸を開けるなりその花に気付いて、土方は思わず足を止めた。 真下に見下ろした白い花。畳に跪いてそれを拾い上げ、苛立ちが滲んだ目元を細めて歯痒そうに見つめた。 触れるとかさかさと音を立てる薄い花弁。花芯にあしらわれたプラスチックの石。 彼が露店で買い与えた、いかにも安物らしい造りのこの花は、昨夜もの耳元に留められていた。 (何があってもいいんです。 だってあたし、最初から命懸けなんです。土方さんが入隊を許してくれた日から、ずっと) そう言ってうっすらと涙を浮かべ、精一杯の覚悟を秘めて見つめてきたあの瞳の横で、 この花が冷気に揺らいでいたのを覚えている。 だが。・・・彼女の腕を掴み、暗い室内に引きずり込んでからは、この花を目にした覚えすらない。 片腕で床に引きずり倒した女は、最後まで声を漏らそうとしなかった。 鷲掴みした手首を畳に縫い付けて見下ろした顔は、暗闇にもうっすらと青ざめて見えた。 最初から最後まで泣きそうだった。きつく眉を寄せ、苦しげに目を瞑り、 小刻みに震える色の醒めた唇を、両手で必死に塞いでいた。 華奢な身体は寒さに凍りついてしまったかのように固く、ぎこちなく男の身体に嬲られた。 は怯えきっていた。怖かったはずだ。俺を怖がっていたはずだ。 だというのに、少しも抗おうとはしなかった。 その強情さに却って頭を焼かれ、扱いは次第に手荒になった。 それでもは逃げなかった。何の抵抗らしい抵抗も見せず、悲鳴ひとつ上げようとしない。 ただひたすらに声をしのばせ、身体を震えさせて耐えていた。 行為が激しさを増していくにつれて、閉じっ放しの瞼の縁に涙の粒がじわりと浮かんで。その一粒がほろりとこぼれ、 こめかみを伝って流れていくのが見えた。 青白く醒めた女の肌をすうっと流れたかすかな光。その儚い光を見つめるうちに、なぜか無性に腹が立って。 一気に逆流するほどの勢いで頭に血が昇って。 ――そこからの自分がどういった行動を取ったか、・・・ふとした折に思い出すたび、吐き気が募る有り様だ。 「――・・・・・・・・・・・・い、トシ。おい、どうした?」 不思議そうに掛けられた声に驚き、弾かれたように背筋を伸ばした。 軽く息を呑んで左を向けば、隣に座った近藤の、こちらもやや驚いたような、きょとんとした視線に捉われる。 ごほっ、と取ってつけたような咳払いを打って気まずさを紛らわし、土方は浮かしかけた腰をふたたび座席に据え直した。 手にしていた煙草を咥え、ゆっくりと吸い込む。煙を細く吐き出しつつ周囲に視線を配る。 暗い車内で、彼の目の前の座席に座る隊士――運転手役を務める男が、 ミラー越しに一瞬だけ、軽い興味を込めた視線を向けてきた。 今日の本庁では、夕刻から各部署の代表者を集めた月例会議が開かれていた。 その戻りの車内には、近藤と彼と、運転手役の隊士の三人が同乗している。 視線をふいと右の車窓に流す。年末の混雑した道路事情に合わせて外をゆるやかに流れる宵の入りの景色には、 本庁と屯所とのちょうど中間地点にある高層ビル群がそれぞれに光を放ち、寒々しい冬の夜景に眩しい彩りを添えていた。 換気用にと細く開けた窓の上部で、風音が低く唸っているのが耳につく。たまに思い出したようにざざっと響く、 無線の音声とノイズがそこに割って入っていた。 「・・・・・・、ああ、いや。悪い。」 「珍しいな、お前がここまで上の空たぁ。そういやお前、ここんとこ休んでねえだろう。疲れてんじゃねえのか?」 「そうでもねえさ。11月の爆破事件以来、たいしたヤマもねえからな。却って寝る時間が増えたくれえだ」 「そうかぁ?いや、それならいいんだがな。それより聞いてたか?今の話」 「ああ。いや。・・・・・・・・悪りぃ。聞いてねえ」 車窓のほうへ顔を逸らし、ばつが悪そうな土方が歯切れ悪く答える。 それを聞いた近藤が目を丸くする。 その一瞬後には表情を崩して肩を揺らし、ははっ、と屈託なく笑う。小気味良い笑い声が車内一杯に広がった。 の処遇を元に戻し、副長室に置くようになってからすでに三日。 土方からの意外な申し出に目を見張っていた近藤は、以来、肩の荷が降りたとばかりに上機嫌だ。 「先月末から探らせてた件だ。あれぁどうなった」 近藤に問われ、ああ、と軽く頷く。 (ある過激派の末端組織が違法な武器弾薬を扱い、気勢の荒い攘夷浪士たちと取り引きしている) 手なずけておいた狗の一人からの垂れ込みを受け、真選組は一月ほど前から秘かな捜査に乗り出している。 裏取り引きの現場となるだろうその事務所周辺には、この一カ月、監察方の数名を交替で日夜張り込ませてあった。 土方自ら現場に出向く余裕がなかったので、陣頭指揮は山崎に一任している。これは久しぶりのことだった。 これまで土方は、山崎の任務をの身辺調査と秘かな護衛の二つに専念させてきた。 しかし今は、一時的にその任を解いている状態だ。これは、の身に急な危険が及ぶ確率が下がった、と 彼が判断したためだ。そして、その判断の裏付けはというと、――京から戻ってきた服部の態度にあった。 もう一月以上前の話になる。 の昔馴染みでもある胡散臭い忍者は、土方の部屋の天井からひょこっと唐突に顔を出した。 (俺の仲間もおいおいに京から戻ってくる。あと一週間も経てば副長さんの手を煩わすこともなくなりそうだ) 読もうにも読めないとぼけた表情が、気楽な口調でそう言った。 目元が隠れた髭面を微細に眺め、土方が厳しい目で様子を伺った限りでは、どうやら 服部が京に上る前に張った一方的な戒厳令はすでに解け、今なら警戒レベルを数段落としても差し支えが無い、 ――というような意味合いのことらしいのだが。 (まあ、だからといって、から完全に目を離されても困るんだがな。) そんな言葉と顎を掻きながらの苦笑を残し、土方に質問攻めにされた忍者は副長室から逃げるようにして姿を消した。 「山崎が言うには裏取り引きまであと三、四日ってとこだろうとよ。 あいつの見込みに外れがねえなら、大晦日。遅くとも年内中には踏み込めそうだが」 「そうか年内か、意外と早かったな。となると、手入れ当日は総悟と源さんが抜けた穴をどう埋めるか、だなぁ」 「六番隊は副隊長以下、よく仕込まれてるからな。この程度の手入れなら隊長不在でも問題ねえ。 問題は一番隊だが。・・・あれを総悟の代理として、一番隊の頭に当てるつもりだ。どうだ」 問われた近藤は数回瞬きを繰り返した。どことなく硬い表情で顔を逸らした土方を、やや不思議そうに横目で眺める。 土方の言う「あれ」が誰を指すのか、すぐには見当がつかなかったのだ。 それでも一瞬後には指名された隊士が誰なのかに思い至り、表情を明るく変えて頷いた。 「おう、そうだな。うん、それしかねえよな。なら一番隊の奴らとの連携も取りやすい。 何より総悟に引けをとらねえ速さを持ち合わせた奴といえば、あいつより他にいねえしなぁ。 ・・・いやいや、そうか、そうかぁ、こりゃあも喜ぶに違いねえ。やっとお前の信頼を取り戻せた、ってな」 「はっ。ぁに言ってんだ。俺の一存は関係ねえよ」 口端の煙草を軽く噛み、土方はさしておかしくもなさそうに乾いた声で笑い飛ばした。 右手が荒い仕草で上がり、煙草を口許から奪うように抜き取る。腹に溜まった鬱憤ごと吐き出そうとしている かのような、長々とした煙を吐いた。苛立たしげなその仕草に、近藤はわずかに目を見張った。 「いつも通りに仕掛けを打って、仕掛けに合わせて適材適所を敷く。それだけのことだ。 大体なぁ、特攻組の矢面に立たされて喜ぶ奴がそうそういるかよ。それで喜ぶ馬鹿なんざ、総悟くれえのもんだろうが」 「いいや、あいつは喜んで立つさ。お前に指名されたんだ。たとえ火の海だとしても迷わず飛び込んでいくだろうよ」 「・・・・・・・・・」 近藤にしてみれば、それは日頃のを眺めて思ったことをそのまま口にしただけのこと。 時に土方を絶句させるほどの正直さを備えた彼の、心からの本音だった。 ところがそれを口にした途端、真横に座る土方が異変を見せた。身体の側面に嫌な冷汗を掻きそうなほどに感じる 無言の強い圧力。それと、醒めきった鋭い視線の二段構えで、近藤をびしびしと突き刺さしてくるのだ。 「だからどうした。んなこたぁあいつに限らず、うちの隊士として当然の心構えじゃねえか」 「いやぁ、けどよー。まだ若けぇ娘の身空でそこまでの覚悟を持てる女なんて、ざらにいるもんじゃねえだろう」 「女だからって特別扱いは不要だ。近藤さん、あんたあいつにほだされすぎじゃねえのか」 「あぁ、まぁなぁ。それを言われると弱ぇえんだがよー、・・・けどなぁトシ、そりゃあほだされもするさ。 なにしろの口から直接聞いちまったからなぁ・・・」 「聞いたって、何をだよ」 「何をって。そりゃあ、あいつが、おま、・・・」 それまでは腕組みをして天井を見上げ、組織の長らしく泰然と構えていたのだが、 急に近藤は焦った顔になる。額にだらだらと汗が湧く。 (しまったぁぁぁ、俺ぁまた余計な事を!!)と心の中であたふたと喘いでいると、土方が疑いの目を向けてきた。 大きく分厚い肩はたちまちにひるみ、じりじりと腰が引けてくる。いやいやいや、と顔の前でぶんぶんと手を振り、 「いっっいやその、何だ、あれだぞ、もう少しその、・・・あいつなりの覚悟ってやつを認めてやったっていいと思うぞ? 今だから言うが、・・・・・・俺の部屋に移されてからのときたら、まったく見ちゃいられなくてなぁ。 お前の反応に一喜一憂して、毎日どんどん萎れちまって。口数がみるみる減っちまって、・・・」 なあ、トシ。 何かに躊躇したような間を空けてから、低めた声で呼びかけてくる。 前で運転手を務める隊士の耳に聞こえないようにと、慮ってのことだった。 「優しくしてやれとまでは言わねぇよ。だがな、少しでいいんだ。あいつの思いも酌んでやってくれねえか」 普段は表に出すことのない、長年傍にいた友人としての近藤の気遣いが染み出た口調で真摯に乞われる。 土方はあまり遠慮のない皮肉気な視線を、じろりと隣の男に投げかけた。 ――俺に直接振ってくるくれえだ。を局長室に預けたこの二月の間、 よほどあいつのことを気に掛けてきたのだろうが―― 探るような目つきで近藤を眺め、視線を前の運転席に逸らした。ふっ、と呆れたような失笑を漏らす。 「どうしてあんたはそうもあいつに甘いんだ」 「ははは、そうか、甘いか。そうだなァ。・・・・・・いや、まあ、甘いくれーで丁度いいだろ。 総悟も年明けまで戻ってこねえしな。少しは誰かが気遣ってやらねえと」 「・・・・・それにしたって、えらく肩入れするじゃねえか」 煙草の煙と一緒に声を吐き出し、ちっ、と口内で軽く舌を打つ。 たいした興味もなさそうに、何気ないふりで問いかけるつもりだった。 ところが自分の口から飛び出てきた声ときたら、――いやに険のある、意固地な口調だ。 ・・・なっちゃいねえな、我ながら。 車窓に広がる冬の夜景を眺めるふりで顔を逸らし、土方はわずかに眉を顰めた。 「んー、そうかぁ?いやぁ、まぁこれは、元気がない妹を心配する兄貴の 余計なお節介ってやつだ。ただそれだけだからな。そのへんはな、あまり疑ってくれるなよ」 「・・・おい。俺が何を疑ったってぇんだ」 「いやいや、だからよー、なんとなくだよなんとなく。お前の勘繰りがそういうあれに聞こえたってだけで、」 にやにやと目を細めながら言葉を濁すと、近藤は土方の肩をぽんと叩いた。 「ちょっと考えてやってくれや。な?」と妙な含みのある顔つきで念を押されたのだが、 そこへ無線の連絡が入った。通信室を通した山崎からの伝言は、土方が何時頃屯所に戻るかを尋ねるものだ。 土方は運転手からマイクを受け取り、オペレーターを介して伝言を返す。ふと気になって、左に座る男に視線を向けた。 近藤は何の疑いも抱いていなさそうな晴れた表情で腕を組み直し、よかったよかった、と満足そうに頷いていた。 ――その後二度の渋滞に巻き込まれ、車が屯所に着くまでに普段の倍ほどの時間を要した。 門前で車を降りた土方はその足で自室を目指し、屯所の廊下を進んでいた。 実は山崎からの無線連絡を受けた後に再び連絡が入り、近隣の繁華街で発生した強盗事件を報せてきたのだが それを聞いた近藤は、自ら現場へ出向くと請け負った。なのでそちらは任せることにして、土方だけが先に屯所に戻っている。 例の裏取引現場の動向を定時報告するため一旦屯所に戻った山崎が、部屋で帰りを待っているはずだ。 まだ明るい食堂の窓辺に多少の人の気配を感じながら、左右を庭に挟まれた暗い渡り廊下を抜ける。 普段であれば隊士の半数以上が帰舎している賑やかな時間。だが、この時期の隊舎内はどこも人気がまばらである。 玄関からここまで歩いて来た間というもの、誰かに出くわすことは一度もなかった。 年末は幕府が執り行う大掛かりな年間行事以外にも、市民向けの防犯キャンペーンなどの催事も多い。その他にも 何かと人手を必要とされているため、辿り着いた幹部級隊士用の個室棟はどこも暗く、しんと沈黙していたのだが。 「・・・・・・・っとにさー、俺たちにこれ以上どーしろってんだよぉぉ。勘弁してほしいよなぁ副長もさぁぁ・・・」 ぽつりと一部屋だけ灯りを点した副長室の、半分開いた戸口の影。 そこからいつも通りに間延びした、なのにいたく不満たらたらな声がする。 ――いい度胸じゃねえか山崎の奴。人の部屋に上がり込んで堂々愚痴りやがって。 ぴくりと眉を吊り上げた土方は、足音を潜めて近付いていった。 「元々さー、俺たち監察なんか人間扱いしてやるかってくらい平気で無茶ぶりしてくる人だけどさぁ。 ここ二ヶ月、輪を掛けて無茶ばっか言うんだもんなぁぁぁ。任務に失敗して目ぼしい情報逃せば殴る蹴るだし、 死にもの狂いで情報仕入れて持ってったって、遅せぇって怒鳴られてめちゃくちゃ怖えーしぃぃぃっ」 たりめーだ、何かってえとつけ上がるてめえの扱いなんざ人間以下で充分だ。 つーか山崎の分際で何を愚痴ってんだコラ。 などと舌打ちしながら、悟られないよう手前の部屋で立ち止まり、遠目から中を流し見る。 障子戸越しの部屋の中には、畳に四つん這いになった山崎の姿が。 隊服半分を捲くり上げた背中には紫色の大きなあざが出来ていて、 山崎はそこを痛そうにさすっている。横に座ったが湿布を貼ってやっていた。 おそらく密偵中に何かヘマをやらかし、どこかで身体を打ったのだろう。 「やっぱりさぁ。まだまだふっきれてないんだろーね、副長。沖田さんの姉上さまのこと」 背骨のあたりに貼られた湿布の上から腰を摩りながら、山崎がしみじみとつぶやく。 思わぬ監察の発言に、口に咥えた煙草に火を点しかけていた土方の手が止まる。 ぺりぺりと透明な保護シールを剥がしていたの手もぴたりと止まった。うん、と小さく頷いて、 「・・・そうだよね。あたしもそんな気がする。山崎くんもそう思ってたんだね」 「うん。俺さあ、副長見てるとたまに思うんだよね。 あれって見た目以上に傷は深そうっていうか、複雑そうっていうか。思いのほか堪えてそうだよなぁって」 うん、とがふたたび頷き、二枚目の湿布を山崎の腰に当てる。 障子戸に背を向け、横顔は長い髪に遮られて見えないため、彼女の表情は判らない。 しかし何か気遣っているような、いたわしげな響きがその声にはあった。 「元々何考えてるんだかわかんねーような顔してる人だから、気付いてる奴のほうが少ないだろーけどさ。 最近はより一層、感情を表に出さねーように抑えてるっていうか。なんか微妙に張りつめてるんだよね、気配が。 あれ見てるとさ、ああ、内面ではまだまだ葛藤があるんだろうなって。・・・思うんだよねぇ」 「・・・・・、うん」 がぽつりとつぶやき、同意を籠めて深く頷く。小さな頭の動きにつれて、長い髪もさらりと流れた。 隣室の障子戸に疲れたような顔で軽くもたれ、土方は彼女の姿を流し見ていた。 腹に溜め込んでいた煙を溜め息とともにゆっくりと吐き出し、深く伏せた視線を暗い縁側の床に落とす。 やがて、物思いに沈むような顔つきになっていった。 ――がミツバのことを知っている。 改めて知らされた事実に対して、特別な驚きはなかった。やはりそうか、と頭の片隅で思っただけだ。 気付いたのは、ミツバが死んだ日――あいつの婚約者だった男を夜明け前の埠頭で葬った、あの日の夜だ。 江戸市中で立て続けに爆破テロが起き、急遽、は城から戻ってきた。 その時に気付かされたのだ。火災現場に駆けつけたあいつの顔は、泣き腫らした目が真っ赤で。 俺を見上げた表情は、仲間の身内の不幸を悼み、悲しんでいるような、単純な泣き顔などではなかった。 あそこに浮かんでいたのは激しい後悔の色。それと、俺に対する複雑な思いだ。 あの表情を見た瞬間に直感した。こいつは知っている。おそらくは、城に迎えに行った近藤さんから 何か聞かされたんだろうが――。 「・・・あれから二ヶ月経ったけど。でも、まだたったの二ヶ月だもんなぁ」 神妙な顔つきで山崎が語り、はそれを黙って聞いている。 三枚目の湿布を腰に密着させようと、細い指が大きなあざの広がる肌をすうっと撫でた。 「副長にとってあの姉上さんは、それだけ大事な人だったっていうか、たった二ヶ月じゃ忘れられない人なんだろうし。 そりゃあ、部下としては怖えーから早く元に戻ってほしいんだけどね。 けどさぁ。あの事件を引きずっちゃう副長の気持ちも、わからないでもないんだよなぁ・・・」 言いながら山崎は横のを何気なく見上げたのだが、うっ、と息を詰めたような顔になる。 彼が眺めたの顔は、彼が何か気詰まりを感じてしまうような表情を しているらしい。ちょっと申し訳なさそうにぽりぽりと頬を掻き、困ったように苦笑していた。 「ごめんごめん。さんは聞きたくないよね、こんな話」 「ううん。いいの、気ぃ使わないでよ。だってそんなの、とっくに、 ・・・・・・・・・・・はい、終わったよ。もう身体起こしても大丈夫」 ぽんぽん、とが患部の湿布を手で抑え、ありがとね、と山崎が礼を言う。 身体を起こしながら捲くっていた隊服の上衣をずり下げ、彼女と向き合う形で座り直した。 は残りの湿布を箱に戻したり、剥がした透明のシールを集めたりしつつ、ふと思い出したように口を開いた。 「ねえ山崎くん。覚えてる?」 「うん?」 「ちょうど一年前の今ごろにさ。食堂で、近藤さんと・・・ええと、永倉さんと井上さんが来て。 二人がいろいろ話してくれたでしょ。武州に居た頃の土方さんと、ミツバさんの話」 それを聞き届け、土方の表情が硬くなる。 煙草を挟んで口許まで上がっていた右手は、徐々に脱力して下がっていった。 「うん。あの時は肝が冷えたよ。さんは泣きそうだし、局長も俺もおろおろしちゃってさぁ」 「あはは、・・・ごめんねあの時は。すごく困ったでしょ」 「うーん、まあね。俺、あんな時の女の子にどう声掛けたらいいのかとか、経験ないからわかんなくてさぁ」 実はかなり困ってた、かな。 へへへ、と山崎が照れ笑いで頭を掻いている。 の表情は相変わらずに見えない。少し考え込むような間を置いてから、ひそめた声でぽつぽつと語り出した。 「あのね。この一年でミツバさんのこといろいろ知っていくうちにね、もう慣れたっていうか。 ・・・土方さんにはすごく特別な、大事な人がいるけど。それでもいいって思えるように、なったんだ」 ゆっくりと、一言ずつを噛みしめるようには語る。 一度口をつぐみ、それにね、と前置きしてから話を続けた。 「今の土方さんの気持ちって。そういうの、・・・そういう時の、 大事なひとを失くしたときの気持ちって。あたしも、わからないでもないから」 それを聞いた山崎がわずかに目つきを変える。 しかしすぐに元ののんびりとした表情に戻り、うん、と笑ってに同意してみせていた。 膝元に揃えて置かれた華奢な手が、隊服のスカートの短い裾をきゅっと掴んでいる。 あの仕草。あれはあいつが何かに耐えている時の仕草だ。 いや。あの頼りなげな仕草で湧き上がる不安を宥めながら、自分に言い聞かせようとしているのだろう。 それでも俺の許を離れない、と。 (ちょうど一年前の今頃に。) (武州に居た頃の、――) (土方さんにはすごく特別な、大事な人がいるけど。それでもいいって思えるように、なったんだ) が口にした言葉を頭の中で反芻するうち、今までいくら考えようと解けなかった 疑問の答えが、あっさりと頭の中に導き出されてくる。そうか。これか。 これまで幾度も妙に思い、幾度も首を傾げ続けてきた、あいつの不思議なまでに自信無さげな態度の理由は―― それに納得すると同時に、身体の感覚が徐々におかしくなっていった。 足元を波に浚われたような――急な眩暈に身体が揺らいだような錯覚が、廊下に立ち尽くす脚に生まれる。 ――これは錯覚でしかない。そう判っていても首筋に冷えを感じるような、心地良いとは言い難い感覚が。 ・・・馬鹿か。いいや、馬鹿にも程がある。 ああまでされてもまだ人のことばかり。てめえの傷はお構いなしで、俺にばかり気ぃ遣いやがって。 お前がそうもお人好しだから、終いには理不尽な理由で手籠めにされちまってんじゃねえか。 だってのに。だってえのに、あいつ、 ――それでも俺から離れねぇってのか。 ――馬鹿が。 口元をきつく噛みしめ、土方は深くうつむく。煙草を指に挟んだ手で、額のあたりの髪を苛立ち任せに掻き乱した。 足元はいまだ打ち寄せる波に浸っているような錯覚に囚われたまま。 だというのに、そんな途方に暮れて動けなくなったような困惑やためらいとは全くの真逆な何かが、 ――腹の底から生まれて全身を焦がそうとしている炎のような、抑えきれない激しい感情が湧きあがってくる。 自分でも気付かないうちに、爪が手のひらに刺さるほど強く拳を握りしめていた。 ・・・どっちだ。 これはあいつに対する怒りか。それとも、不甲斐ねぇてめえ自身にか。 そんなことすら冷静に判別出来ないほどに、炎は一瞬にして燃え盛る。熱の上がった脳裏を荒んだ怒りで焼き尽くしていく。 「ところで山崎くん、今日はどうだったの?事務所の様子」 「そうそう、それなんだけどさ。昨日は夜中に派手な動きがあったんだ。あの様子なら 取り引きまであと二、三日ってとこじゃないかなぁ。やれやれ、これでよーやく俺もあんぱん生活脱出できるよ」 「あははっ、そうなんだ。でもよかったね、張り込みが年内に終わりそうで」 が笑顔で障子戸の方へ振り向く。足元に置かれていた救急箱の蓋を開ける。 湿布の箱を戻そうとしたのだが、廊下に人の気配を感じて顔を上げた。 気を許しきった柔らかい笑みの表情がすうっと消える。 戸惑いに見開かれた彼女の目には、暗い廊下に佇む男の姿が映っていた。湿布の箱がすとんと手から滑り落ちる。 「・・・、何やってんだ」 地の底から這い上がってきたような低さの、感情が一切感じられない響きの声。 寒々しいまでのその声に、言葉もなく戸口を見上げた山崎が一瞬で顔を強張らせる。 廊下の暗闇からゆらりと姿を現した土方に、何か只ならないものを感じたのだ。 殺気立った時の表情とは違う。怒りを押し殺している時のそれとも、似通ってはいたが違っていた。 彼にとっては見たことのないその表情に身体が竦み、浮かしかけていた腰からがくりと力が抜け落ちる。 「定時で上がれっつっただろーが。今ぁ何時だと思ってんだ」 「っ、・・・・・・・は、はい。すみませんっ」 「すぐに片付けて出てけ。・・・おい、山崎」 「っっ!!」 土方の凍りついた視線と目が合い、腰を抜かしかけた山崎の背中一杯に ぞわーっと凄まじい寒気が走った。 思わず「ひいっ」と出そうになった呻き声を、どうにか喉の奥に押し戻す。 「お、ぉおおおお疲れさまです副長っっ。すすっすぃませんんんっっままっまさかもうお戻りとはそのっっ」 「余計な挨拶はいい。お前はさっさと報告済ませて現場に戻れ」 「っははは、はいィィィ!!」 びしっと直立不動になり、裏返った声で叫んだ山崎は、 土方が漂わせる只ならない空気にすっかり震え上がってしまっていた。問答無用で殴る蹴るの目に遭わされたり、 怒鳴られたりすることこそなかった。だけどそのほうが全然マシだったかもしれない。 そう思ってしまうほど得体のしれない無表情さで目の前に座した土方が怖すぎて、それだけで生きた心地がしなかった。 とはいえ、一日一度の定時報告をおろそかにするわけにもいかない。彼はあわあわと口を動かし続けた。 架空の食品輸入業社として看板を掲げている例の事務所に出入りする人間の顔ぶれが、昨日今日で 少しずつ増え始めていること。昨日の深夜、そのビルの前に不審な大型トラックが停まっていたこと、等々。 いつにも増して感情が見えない土方の顔色を頻繁に窺いつつ、山崎がほとんど一方的に喋り続けるかたちで 細かな現場指揮の打ち合わせもどうにか終わる。その間、ほんの五分ほど。 報告を最大限に手短に切り上げた山崎は「至急現場に戻りますっっ」と頭をがばっと下げるが早いが、 泡を食って副長室を飛び出す。怯えた顔で廊下を全力疾走しながら、体感温度が 冷蔵庫なみに下がったあの部屋に残してきたのことを思い出し、 (ごめんっ、さんっっっ、ごめんんんん〜〜〜〜!!!) 泣きそうになりながらも一目散に玄関を目指し、あっというまに屯所から姿を消した。 その頃、土方の前に一人残されたはというと、 ――やりかけていた書類の整理を命令どおりに手早く片付け、副長室を後にしようとしたのだが。 「・・・・・・・ひ、土方さん。あの、」 帰って早々文机に向かった土方の背後に跪き、硬い表情で問いかけた。 「25日の。朝、・・・だと思うんですけど。 ここに落ちてませんでしたか。あの。・・・あたしの、髪飾り」 「ああ。」 不安そうな顔をした女に振り返ることもなく、届けられた報告書を捲りながら素っ気なく答える。 するとは重ねた手をぎゅっと握り合わせる。見るからにほっとしたように顔中をほころばせた。 「よかったぁ・・・。どこに落としたかわかんなくて、ずっと探してたんです」 「落ちてたな。もっとも、とっくに捨てちまったが」 何の感情も混ざっていない、事務的で冷淡な声でそう告げる。 土方は肩越しに背後を振りかえり、刺すような視線でを見上げた。 女の顔に浮かんでいた笑みが、すうっと凍りついていく。土方は口許を皮肉気な笑みに歪ませた。 普段のなら「そんなのひどい」と躍起になって食ってかかるはずの答えだ。 なのに、今のは俺に言い返すことすら出来ない。 「何だ。文句でもあるのか」 「・・・・・・っ、」 言いながらに手を伸ばす。 はっとしたは身体を引こうとする。だがその前に体が前のめりになって姿勢が崩れ、 咄嗟に畳に腕を突いた。 彼女の手首を掴んだ男の手が、自分の方へと強引に引き寄せようとしていた。 「・・・ひ、土方さん。離し、・・・っ!」 「何が悪い。あれぁ元をただせば俺が買ったもんだ。どう扱おうと俺の勝手じゃねえか」 その気になれば易々と握り潰せそうな頼りない女の手首に、ぎりっと、骨身が軋むほどの力を籠める。 それでもは強い痛みにきつく眉を寄せながら、呆然と彼を見つめてくる。 自分を捉え、体の自由を奪おうとしている男から視線を逸らせなくなってしまった大きな瞳が、 傷つきやすい今の彼女にはこらえきれないほどの失意で満ち、みるみるうちに凍りついていく。 そのさまを醒めた目でじっと見据えると、土方は失笑気味に言い捨てた。 「・・・ああ、そうだな。あれぁてめえと同じだ。使い飽きたら捨てりゃあいいだけの、安物だからな」 あの夜以来何度もやり過ごしてきたお決まりの吐き気が、喉にうっすらとこみ上げてくる。 何度味わっても慣れることはないだろうその虫唾が走る嫌悪感に、土方は軽く眉を顰める。 女の腕を掴んだ手に、ほんの一瞬の惑いが生じた。 それでも――それでも、止めるわけにはいかなかった。 自分の中に吹き荒れる悲しみと失望を隠そうともせず、どうして、何で、と縋るようにして訴えてくるこの瞳。 信じた男に裏切られ、傷つき。それでも、まだどこかで望みを捨て切れていないこの瞳が、 見たことのない暗い色に染まるまで。それまではほんのわずかな光すら与えてやらない。固くそう決めていた。 詫び代わりに買ってやった露店の安物。たったそれだけを失ったせいで、こいつは瞬く間に悲嘆に沈んでいった。 だがまだ足りない。 この瞳が涙に暮れて、苦しさや虚しさに打ちひしがれてしまうまで。嫌というほど俺に幻滅したこいつが、 自分の意志で屯所を去ると決めるまで。 あの潤んだ瞳に侵食していく冷水のような失意が、二度と溶けることが叶わないまでに凍りつき。失望が絶望に変わるまで。 ――迷うな。このまま突き放せ。ここで迷っちまったら最後だ。そうなればもう、俺は―― ぺたんと畳に座り込み、腰が引け気味になっているの肩を強く押す。 華奢な肩がぐらりと揺らぎ、背中が後ろに仰け反って倒れた。それでも声を出す術を失ったかのように黙したままだ。 唇を噛んで怯えをこらえていた女の腕を乱暴に畳にねじ伏せると、土方は何のためらいも感じていなさそうな 涼しい顔で彼女に告げた。 「おい。幸い人気はねえが戸が開きっ放しだ」 「・・・っ!」 「てめえが声でも上げたらどうなるか、いくら馬鹿でも判るだろ。・・・まあ、俺は別にどうなろうが構いやしねえが」 畳に倒れた女の大きな瞳が、信じられない何かに衝撃を受けたかのように見開かれる。 唇は次第に色が褪せていき、小刻みな震えが生まれ始めた。 ――悪いな、近藤さん。 俺はあんたの意に背く。あんたの期待を裏切る。これ以上、こいつをここに置くわけにはいかねえんだ。 胸の奥からせり上がってくる後味の悪い息苦しさを、眉ひとつ動かすことなく飲み下す。 肩を竦ませたか細い肢体に覆い被さる。力任せに掴んで隊服を裂き、きつく目を瞑って耐えている女の胸元に迫れば、 薄暗くなっていくその眼前に、帰りの車中で横目に眺めた満足そうな近藤の笑顔が浮かんで消える。――そして。 こちらを冷やかに睨みつけてくる時の沖田の、相手を射抜こうとするような淡い色の瞳が浮かんで消えた。

「 片恋方程式。47 」 text by riliri Caramelization 2012/01/23/ -----------------------------------------------------------------------------------       next