年末の挨拶回りを終えて本庁の高層ビルを後にしたら、外はつめたそうに透きとおった夕暮れに 陽が沈みきろうとしている頃だった。 本庁からの送迎車は入口前であたしと近藤さんを待っていて、そのまま屯所へ直行した。 滑るように流れていく窓の向こうの景色は、きらきらと瞬き出した沿道のイルミネーションがすごくまぶしい。 走る車の中から夜景を眺めているだけなのに「今日って特別な日なんだなぁ」って感じるくらいに、 夜を迎えようとしている江戸の街は独特の昂揚感とまばゆい光に溢れていた。 年末の忙しさのおかげで姐さんのお店に通えていない近藤さんは「そーか今日はクリスマスイブかぁ・・・ 久しぶりにお妙さんに会いてーなぁ」なんて窓ガラスに貼りつく近さで外を見つめて、がっくりと肩を落として、 「すまいるのクリスマスフェアが今日までなんだよなぁ。女の子たち全員サンタの衣装なんだよなあぁっ。 いーなぁ俺も見たかったなぁああああ、お妙さんの貴重なミニスカサンタ姿・・・!」 クリスマスカラーで飾られた街並みを寄りそって歩くカップルや、すまいるに似たような お店の派手な看板が目につくたびに、しきりに近藤さんは嘆いていた。 ご無沙汰している姐さんの笑顔や可愛いミニスカサンタ姿を思い浮かべてるのか、もはやすっかり涙目だ。 溜め息が止まらない近藤さんを励ましながら、あたしは「来年は行けるといいですね」なんて笑って相槌を打った。 ・・・でも。近藤さんにはすごく悪いんだけど、実は半分以上は上の空だ。きちんと話を聞いているふりで頷いたり、 車窓の外で輝いてるクリスマスの夜景を落ち着かない気分で眺めたりしていたら、あっという間に屯所に着いてしまった。 「食堂がずいぶんと賑やかだな。式典の警備に出た奴らも戻ったらしい」 「そうみたいですね。藤堂さんたちの声も聞こえるし」 近藤さんと戻った屯所はちょうど晩御飯の時間。 遠目に眺めた食堂の入口には、もう大勢の人が詰め掛けている。 離れていても賑やかな話し声や笑い声ががやがやと耳に響く。あの奥はもう人でごった返してるんだろうな。 市中見廻りに出ていた人たちや、業務がだいたい定刻通りに終わる勘定方の人たちが どっと押し寄せるこの時間帯の食堂は、いつも朝と並んでにぎやかだ。 「局長、お疲れさまです!」 「おう、お疲れさん」 「お疲れさまです、これから飯ですか」 「おう、おめーらもご苦労さん。明日は朝から本庁と合同で式典警備だからな、しっかり休めよ」 「うーす、」 食事を終えて出てきたみんなの挨拶を気さくに受ける近藤さんの後ろから、「おつかれさまです」と 会釈しながら廊下を進む。 しばらく進んだところで歩調を緩めて、足を止めて。左へ伸びた廊下へ目を向けた。 ここをまっすぐに進めば賑やかな食堂。左へ向かえば薄暗い廊下。 人気が少なくて静まった廊下の向こうは、局長室を初めとする幹部級隊士の私室棟へ繋がる渡り廊下だ。 見つめていた方向に―― 明るく賑やかな食堂じゃなくて、しんと静まった左の方へ、一歩踏み出す。 ぎこちなく固まっていく唇を噛み合わせて、ごく、と小さく息を呑んで。 「ん?おぉい、どこ行くんだ。飯はいいのか?」 「はい、あの、・・・・・・ちょっと用があって。ご飯は後にします、まだお腹すいてないんです」 通りのいい近藤さんの声が廊下中に響いて、食堂に背中を向けようとしていたあたしを引き止めた。 おつかれさまでした。 深く頭を下げて一礼して、近藤さんの前から小走りに駆け出す。 走ると床板が軋む古い廊下の突き当たりを右へ。食堂へ向かう人たちとすれ違いながら渡り廊下へ出て、 庭に挟まれた細い通路を駆け抜けて、角を折れて左へ。 あとはただただ、あの部屋を目指した。他に何も考えられなかった。 何度も何度も――隊士になってからはほとんど毎日通っている廊下だ。 足は何も意識しなくても、勝手に向かう方向を選んでる。自然と足取りが速くなっていく。 とく、とく、とく、と踏み出すごとに逸る心臓の音が、何か叫びたくなるような不安定な緊張を高めていた。

片恋方程式。 46

少し呼吸を乱しながら辿り着いた副長室は真っ暗だった。 人の気配も物音も、中からは何も感じない。あたしは部屋の前で待つことにした。 膝を抱えて廊下に座って、後ろの障子戸にもたれかかる。 縁側沿いに並んだ部屋はどこも暗い。隊長さんたちはまだどの人も戻っていないみたいで、 廊下を通る人も一人も無かった。心細さを噛みしめながら、静まり返った真っ暗な庭を見つめてじっと待った。 座り込んでからどれくらい経ったんだろう。 庭を挟んだ隣棟に明かりが灯って、食堂から部屋へ戻る人たちの声が遠くから響くようになった頃には、 床に直に着いた腰や隊服の肩口は冷気でしっとり冷たくなっていた。口を覆って吐息で温めていた指先も、 じぃんと痺れるくらいにかじかんでくる。そんな時に廊下の角から、待ちわびていたひとが現れた。 入口前を塞いでいるあたしに気付いて、脇目もふらずに部屋を目指していた早足が急に止まる。 強くブレーキをかけた足元で、ぎっ、と音を立てて床が軋んだ。 立ち竦んだ土方さんの硬い表情があたしを見据えてる。少し眉を寄せた目元に、かすかな、 ――ほんのかすかな困惑が浮かんで。暗闇に流れる煙草の煙に紛れて消えた。 暗闇に佇んだ土方さんはこっちを見ている。 たった一瞬で、厳しくて冷たい表情に戻っている。 その変化を見上げていただけで、心臓が飛び出しそうなくらいに強く鳴った。 「・・・っ、お、・・・おつかれ、さま・・・です」 無言でこっちへ向かってくるひとを目で追った。あわてて正座に座り直しながら、 上手く出ない声を絞り出して挨拶をした。 ・・・声が震えてる。寒さで口の中まで凍えて、歯がかちかち鳴ってるせいだ。 「何やってんだ」 「・・・はい。あの。・・・・・・す、・・・すみません、こんな、こと、・・・して、・・・」 待っていたひとを前にして委縮しきったあたしは、スカートの裾を握ってうんと深くうつむいた。 土方さんの足が目の前で立ち止まってる。頭上に感じる沈黙の重さがいたたまれない。 どうしよう。こんな鉛みたいな空気の中で、どう切り出せばいいんだろう。 何から話そうかと迷っていたら、はぁ、とひとつ、溜め息が響く。 呆れきったときのこのひとがこぼすような、深くて投げやりな溜め息が 煙草の匂いと一緒に、頭上にふわりと落ちてきた。 「馬鹿かお前、風邪ひ、・・・」 たまりかねたようにつぶやいたその声は、なぜか中途半端にふつりと途切れた。 それを耳にしたら、震え続けていた唇の揺れが止まった。 身体の凍えが治まったからじゃない。寒さを忘れそうになるくらい驚いたからだ。 あたしはぱちりと大きく瞬きをした。 目の前から動こうとしない足をおずおずと見上げて。迷いながら、ためらいながら、それでも視線を 少しずつ上げていく。背後の庭と変わらない暗さをした隊服の姿を、驚きと戸惑いを籠めた目で見上げた。 「いや。とにかく部屋に戻れ」 「・・・・・・・・・・・・・・、戻りません」 背中をじわじわ伝っていく怖さと震えをこらえながら、目を見つめてきっぱりと言い切る。 久しぶりに見せた反抗的な態度だ。 無言で目を見張った土方さんの表情は、予想どおりに厳しさと苦々しさを増してきた。 「お願いです、少しでいいんです。少しだけ話を聞いてください」 「お前のこたぁ近藤さんに一任した。俺より先に近藤さんに指示を仰げ」 「・・・近藤さんにお伺いをたてるような話じゃありません」 「何の話だ。お前に急ぎの仕事なんざ任せた覚えはねえが、」 「・・・・・仕事の話じゃ、ありません」 「仕事じゃねえなら聞く必要はねぇな」 一瞬の躊躇もなく言い放って、立ち止まっていた足が動き出す。 「いいか。念を押すのもこれが最後だ」 土方さんは部屋の入口を塞いでるあたしを避けて、足早に前を通り過ぎた。 ひとつ先にある端の戸を開けようとして、手を掛けて。 「私情で血迷うような奴ぁうちには無用だ。ここをおん出されたくねえなら、二度とこういう真似はするな」 「・・・・・・・・・・・・・・。土方さんだって」 「あぁ?」 「私情なら土方さんだって挟んでるじゃないですか。・・・私情であたしのこと遠ざけてるくせに・・・!」 語尾が震えるほど張りつめた声を、横顔にぶつける。 すると、障子戸を引きかけていた土方さんの手がぴたりと止まって。 室内へ踏み込もうとしていた足が立ち竦んで、微動だにしなかった無表情が、唇だけを薄く開けて。 はっつ、と不愉快さを笑い飛ばすように煙を吐いた。 「・・・言いがかりつけてねえでさっさと部屋に戻れ」 「言いがかりじゃないです。本当のことじゃないですか」 こうしている間にも身体を硬くしていく緊張感を声に出さないように我慢しながら、必死で言い張る。 気を抜くとスカートを握った手が震えちゃいそうだ。大きく弾み始めた心臓は、とく、とく、とく、と早い鼓動を刻んでる。 こわい。緊張する。ちょっと気を抜いたら、怖気づいた身体がぶるぶる震えちゃいそうなくらいに。 でもここで引き下がるわけにはいかない。 今しかない。ほんの少しでも話を聞いて貰うには、土方さんの無反応が崩れ始めてる今を逃すわけにはいかないんだ。 感情をすっかり削ぎ落したような、表情の薄さは変わらない。 なのに口端に刺している煙草は、徐々に、だんだんと、深く噛みしめられようとしている。 淡々とした声音にも、隠しきれなかった感情の色が滲んできている。僅かずつだけれど確実に変わりつつある 土方さんの態度の変化。目の前の戸を見つめて動かない横顔に、あたしは息を詰めて目を見張った。 どんなに些細な変化も見逃したくなかった。息をするのも忘れそうになるくらいに夢中で見つめた。 どうしても確かめたかった。 道場の稽古で立ち合ったときみたいに。煙草を噛みしめた口許から漏らされる呼吸の、 ほんのかすかな揺らぎまで掴もうとして。 「お願いです、ほんの少しでいいんです。聞いてください土方さ、」 土方さんが勢いよく戸を開ける。立ち上がりかけたあたしを無視して、暗い部屋に大きく踏み込んだ。 追いかけたけれど間に合わなかった。ふっと鼻先を掠めるほどの近さで、 障子戸が拒絶するみたいにぴしゃりと閉められて。 「・・・やっぱり逃げるんだ。そうですよね。本当のことだから都合が悪いんですよね」 「・・・・・・・・・」 「土方さん、何度聞いても教えてくれなかったですよね。 急にあたしを避けるようになった理由。あたしをお城に行かせた理由。近藤さんに預けた理由。 ・・・そんなこと、どれも言えるわけないですよね。だって理由なんて、ぜんぶ土方さんの私情でしかないんだから」 夢中であたしは喋り続けた。 どれもずっと言いたかったこと。どれもずっと言えずにいたことばかりだ。 息が切れてくるまで、次々と、畳みかけるような速さで喋り続けてから 肺の奥まで満たせるように、すうっと深く息を吸った。 「ずっと考えてました。今までずっと。お城に行く前までのことも、屯所へ戻ってからのことも。 あたしには、土方さんを激怒させるような大きな失敗をした覚えがありません。急に嫌われちゃうようなことを した覚えもないんです。だから何度考えてもわからないんです。どうして。・・・急に土方さんに、嫌われちゃったのか」 最後の言葉をぽつりとこぼして、震える唇をきゅっと噛む。 あたしと静かな部屋とを隔てている障子戸に指先を向けて、そっと触れてみる。 話しているうちに、これまでの一カ月半を――土方さんに遠ざけられてきた毎日のさみしさを、 否応なしに思い出してしまった。思い出しただけで気分が落ち込んでしまう毎日。どうしたらいいのか わからなくて、心細かった毎日を。 「でも。・・・ここに来て、もっとわからなくなりました。 どっちなんですか。あたし。あたし、・・・・もう、土方さんに嫌われてるんですよね・・・?」 口にするまでに少しためらったけれど、意を決して問いかけてみた。 しばらく黙って返事を待ってみても、障子戸の向こうの暗闇は無音のままだ。 このまま無視を決め込むつもりなのかもしれない。 (こいつに答えてやる義理はない。) 土方さんはそう思ってるんだろう。だけどあたしだって、ここで無視されるくらいのことは覚悟の上だ。 「さっきの土方さんの態度、変です。おかしいですよ。目に入る場所に置きたくないほど嫌いなあたしを、 どうして「風邪ひく」なんて心配するんですか・・・?」 さっき感じた小さな疑問を、思ったままにぶつけてみる。 部屋の中から声はない。・・・・やっぱり。そうだよね。土方さんが答えてくれるわけがない。 ――そんなことは判っていたつもりだったのに、途端に胸の奥が重たくなって、小さな痛みがちくりと差した。 冷えきって氷のようになってしまった唇から、ふっと小さな溜め息がこぼれる。 息を詰めて障子に顔を寄せた。薄紙のさらりとした感触の向こうに、感覚を研ぎ澄まそうとして目を閉じる。 この薄い壁ひとつを隔てたむこうに居るひとの気配を感じたい。 知りたい。あのひとの反応をどうしても知りたい。 薄紙一枚を隔てて広がる向こうには、空気が動く気配すらない。けれど、あそこにはたしかに、中に佇むひとの気配があるから。 「おかしいですよ。あたしのことなんかどうでもいいはずなのに、そんなの矛盾してるじゃないですか。 ・・・土方さんて、いつもそうです。あたしを思いきり突き放しておいて、ちょっと優しくしてみたり。 ずっと優しかったとおもったら、いきなり突き放されて、そこからずっと冷たくされたり・・・」 ずっと不思議だった。ずっと判らなかった。 厳しい顔ばかりしている土方さんがたまに見せてくれる、気まぐれみたいな優しさが。 もう大丈夫かな、って安心していると、ある日一転して現れる、手のひらを返したような冷淡さが。 いくら考えても判らなかった。 いつぶつけられるかわからない突然の拒絶。いつ向けられるかわからない、気まぐれな優しさ。 そのどっちもが、このひとの少し気難しくて判りにくい性分から生まれるものなんだとしたら、 ――そういう極端さは、どうしてあたしだけに向けられているんだろう、って。 「・・・・・・あたし。ずっとそう思ってました。ずっと不思議でした。だけど、そういう態度を取られる理由を 訊きたくても、怖くて訊けなかったんです。そんなこと訊いたら、土方さんに嫌われちゃうんじゃないかって・・・」 そう。だから訊けなかった。 あたしを拾ってくれたこのひとに―― 誰よりも一番、信じているひとに。 他の誰よりもすきな、特別なひとに拒絶される。それはいつだって、あたしにとっては何よりも怖いこと。 自分を全部否定されるのと同じこと。すべてを頭ごなしに否定されるのと同じことだ。 だから訊きたくても訊けなかった。 どうして急にあたしをお城に行かせたんですか。 あの台風の晩、何があったんですか。あたしが何かしたんですか。 土方さんの気に食わないような、何をしたんですか。 研修を中断して戻ってきたことには何も言及しなかったくせに、どうして副長室から追い出したままなんですか。 それってミツバさんが亡くなったことと何か関係があるんですか。どうして。どうして―― 知りたいことは山ほどあるのに、訊きたくても訊けなかった。 ずっと思い続けてきたミツバさんを――大事な人を失くしたばかりのこんな時だ。 そんなことを迂闊に言い出して、もし土方さんの逆鱗に触れでもしたら。それが原因で ここを追い出されるようなことになったらどうしよう。 考えるとすごく怖くなった。特に、お城から戻ってからの一カ月半は、あたしはいつもおびえていた。 そう。だから。・・・・・だから総悟の世話ばかり焼いてたんだ。 お姉さんを失くした総悟を元気づけるためだって、自分で自分に言い聞かせて。毎日、付きっきりで傍に居た。 勝手にあの子を理由にしてた。何も言ってくれない土方さんから逃げるための理由。 あたしの臆病さが無意識に作り上げた、逃げの理由。あたしの弱さの現れだ。 そうだ。あたしは弱い。弱いから、あのひとにぶつかっていけない理由を、全部、自分以外の何かのせいにしてた。 土方さんが冷たいからとか。ミツバさんを失くしたこんな時に、あたしのことなんか構っていられないだろうとか。 そうやって土方さんを遠巻きにして怖がって、それ以上には立ち向かおうとしなかった。 あのひとに無視される毎日が辛くて、その辛さを隠して、総悟の世話ばかり焼いて、普段通りの自分を装うだけで精一杯で。 ・・・それだけで頑張ってるつもりになってた。あたしにはこれが精一杯。だから仕方がないんだって。 これでいいんだって、落ち込む自分を宥めて、自分に言い聞かせようとしてた。ずっと同じ場所で立ち竦んだままで。 ――違う。違うのに。それって結局、逃げてるのと同じことだ。 あたしが思っていたことは。必死になって縋っていた、あのひとにぶつかっていけない理由は。 ――どれも全部、全部そうだ。 怖気づいちゃってる自分を正当化するための言い訳。自分の勇気のなさを隠すための言い訳ばかり。 土方さんに嫌われるのが怖くて、これ以上傷つかなくても済むようにって、いろんな気持ちを無意識にすり替えてた。 笑いたくないのに笑ってた。必死で自分を守ってた。――そんな自分には気付きもしないで。でも。 「――でも。総悟に言われたんです。土方さんのところに行けって、・・・・・・・」 さっき総悟が教えてくれた。あの子の言葉で目が覚めた。 総悟は言った。土方さんがあたしを避けるのは、このひとがあたしに甘えてるからだって。 あたしがやりたいようにやってみろって。土方さんのところに行って、うんと困らせてやれって。 笑っているのにどこか悲しげな声がそう言ってた。 あの子がどうして急にあんなことを言い出したのか。自分でも気付けなかったあたしの臆病さに、いつから気付いてたのか。 どうして土方さんがあたしに甘えてる、だなんて思ったのか、・・・どれもあたしには判らなかった。 あれからずっと考えていたけど、それでもやっぱり判らない。 でも。だけど、あの総悟が。普段は人のことなんておかまいなしなあの子が、あたしを勇気づけようとしてくれた。 逃げてる、って言葉にして責める代わりに、行け、って言ってくれた。 ――あんな辛そうな、どこか無理をした声で、それでも笑って送り出してくれた。 土方さんにぶつかってみろって。いつまでも立ち止まってないで前に進めって、背中を押してくれたんだ―― だから。だからあたしはもう逃げない。 あたしは信じる。あの子が信じてくれたあたしを。総悟がくれた言葉を信じてみる。 ――こんな押しつけ、土方さんには迷惑にしかならないって判ってても。それでもぶつかってみようって―― 「・・・・・・・・・あの。聞いてくれてますか。土方さん、・・・」 障子戸の向こうは暗いまま。気配は少しも変わらない。 だけど土方さんの気配はすぐそこにある。聞いてる。あたしの話、聞いてくれてるんだ。 少しためらって、うつむいて目を閉じる。心臓をとくとくと弾ませながら、 落ち着かなきゃ、落ち着かなきゃって自分に言い聞かせながら考え込んで。 それから薄暗い障子戸を見上げて、凍えて硬くなってしまった唇を大きく動かそうとした。 顔を見て話せなくても、ここで伝える。今伝える。伝えなきゃ。 その時、指先にかすかな冷たさが灯った。肌に触れたそれがじわりと溶ける。 「・・・あ・・・・・、」 ――雪だ。 初雪だ。 庭へ振り向いて夜空を仰いだ。 ふわり、ふわりと揺れながら落ちてきた白い粒が目の前をかすめていく。 庭を挟んだ隣棟に灯された温かそうな光を背景にして、舞い落ちてくるちいさな白は、ちらちらと瞬きながら舞っていた。 軒先のさらに上に広がる暗闇を見上げる。 見つめていたら血が昇った頭の中がすうっと冷えていく感じがした。自然と視線が夜空に吸い込まれていく。 目の前に落ちてくる冷たいかけらたちが、冷えきった頬や肩、足元をじわりと小さく濡らして溶ける。 雪の冷たさ。寒さで手足が痛いほどに痺れてくる感覚。 ぼんやりとその感覚を味わっているうちに、去年の今頃のことを思い出した。 一年前のクリスマスの頃。あの日もすごく寒い日だった。 きらきらと目映かった輝く夜景。立っているだけで足も手も凍りつきそうだった、真冬の外での護衛任務の寒さ。 かじかんでいた手を温めてくれた土方さんの体温。 肩に掛けてくれたあのひとの上着の重み。それまでになく近く感じた煙草の匂い。 好きなひとに触れられる。たったそれだけのことに感じる、胸がきゅうっと締めつけられるような嬉しさ。 ・・・それから少し後に知らされた、ミツバさんの存在。 泣かれる理由も判っていないくせに、それでも抱きしめて宥めてくれたひとの優しさを、あのひとの手を。 どうしても、何をしてでも、絶対に手放したくないと思った。 誰よりも近くに――片時も離れることがない部下として、傍に居られるだけでいいって決めた。 それだけでいい。そう思ってた。なのにそう思うたびに、どうしようもなく胸が痛んだ。 あれからも色んなことがあって。 一度は土方さんから離れようなんて思ったりもした。なのに結局、あたしはこのひとの傍に居続けてる。 嬉しいことだってあったけれど、辛いことも多い一年だった。 そんな日々を土方さんの傍で過ごしたあたしの中には、たくさんの思いが積もってる。 一年前よりもっと、もっと。たくさんの思いが。 目の前で静かに降り積もっていく、この雪みたいな思い。このひとを思う気持ちが。 あたしの中で一番純粋な、何にも穢されてない真っ白な思いが。 ・・・自分でも気付かない間に、こんなに。胸の中から溢れ出しそうなくらいに積もってるんだ。 「・・・・・・土方さん。あたし、やっぱり土方さんが好きです」 いつのまにか口から流れ出ていた声が、ぽつりと暗闇に響いていた。 独り言みたいな頼りない声で、いつしかあたしは告げていた。 ふわ、と唇から漏れ出た吐息が、目の前を一瞬だけ、白く曇らせる。 言っちゃった。あたし。言っちゃったんだ。 そう思ったら目の奥が急に熱くなって、潤んだものがじわりと目尻に浮かんできた。 「ここに居たいって思う理由はいっぱいあります。どれも土方さんに呆れられるような理由ばかりだけど、 ・・・拾ってもらった恩返しがしたいとか。真選組を出たら他に行くあてがないからとか。困ってる人を助けたいとか、 ここの仕事が、真選組のみんなが好きだからとか・・・」 お姉さんを失くした総悟を元気づけてあげたい。 あの子のお姉さんになったつもりで支えてあげたい。 一度会っただけのあたしを信じて「そーちゃんをよろしく」と伝えてくれた、ミツバさんの気持ちに報いたい。 どれもほんとの気持ち。ひとつだって嘘じゃない。心からの気持ちだ。 でも。だけど。その中でも他とは違う、うんと特別で、何があっても消えることがない強い思いは―― 「どれも本当の気持ちです。でも、一番は、・・・何があっても、いつだって土方さんなんです」 とん、と暗い障子戸におでこをぶつける。 冷えきった手を細い桟に重ねる。ありったけの勇気を振り絞りたくって、ぎゅっと掴んで力を籠めた。 「自分でもどうしようもないなって思うんです。嫌われてるってわかってるのに、それでも離れたくないんです。 嫌われてもいいです。迷惑がられても傍にいたいです。自分でもどうしてそこまでって思うけど。迷惑なんだって判ってるけど。 突き詰めていくと、ここに居たいと思う理由、・・・あたしが、今のあたしでいられる理由・・・・・・土方さんしか、なくって」 このひとのためになれたらと思った。何か出来たらと思った。 一度は死んだはずのあたしが見つけた光。もう一度生きようと決めた理由。 それがあたしの、隊士としての存在理由。 ・・・ううん。それはもう、今はもう、ただの理由だけじゃなくなってしまった。 このひとのために何かが出来る自分になりたい。 このひとが護ろうとしているものを、あたしも一緒に護りたい。 その望みはあたしそのもの。あたしが生きていくための、何にも代えがたい存在理由は、 総悟が望んでくれたあたしを、たしかに支えてくれていた。 かけがえのない光だ。他の何かじゃ心が埋まらない。何よりも大切な希望なんだと思う。 だから何があってもこのひとから離れたくない。 元のように笑えるあたし。あたしらしく笑えるあたし。 ぜんぶ、ぜんぶ、このひとから始まった。ぜんぶ土方さんの元にある。 総悟があたしに取り戻せっていったものは――あたしが取り戻したいものは、 生きる理由も、笑顔も、嬉しさも、幸せも、全部。どれもこのひとの傍に居なければ取り戻せないものばかりだから。 「だから。だから、どんなに嫌われても、あきらめません。あたし何でもします。悪いところは全部直します。 死ぬ気で頑張ってここに居続けます。あ、・・・あたしでも、土方さんの役に立てるって。証明してみせます・・・!」 途中で何度か言葉を支えさせながら、それでもどうにか言い切って。 涙でぼんやりと霞んできた目を閉じて、ゆっくり口を開いた。 これから言おうとしている言葉を選びながら。 冷えきった肌の内側で今にも壊れそうな勢いで鳴り続けている、心臓の熱とざわめきを全身に感じながら。 「お願いです。・・・これから何があっても。あたしは絶対に土方さんの傍を離れません。 嫌がられて追い出されても離れません。近藤さんや松平さまに泣きついてでも、必ずここに戻してもらいます」 「・・・何がお願いだ」 「・・・・・・!」 押し当てていたおでこをぱっと離して、灰色の障子戸に目を見張った。 土方さんの声。 この薄い隔たりの向こう側から聞こえた、初めての言葉だ。 縋っていた戸の桟をきゅっと握り直す。驚きに染まった目で呆然と前を見つめた。 ・・・・・・答えてくれた。 たったひとことだけど。完全にあたしを突き放そうとしてる口調だったけど。 それでも土方さんが答えてくれた。・・・あたしを無視してばかりいた、土方さんが。 「とっつあんまで引き合いに出してんだ、立派な脅迫じゃねえか」 「は、はいっ。・・・・う、受け容れてもらえるまでは、脅迫でも、何でもします・・・!」 うろたえながら答えたら、ほろりと一粒、頬を生温い何かが伝っていった。 その感触が首まで伝い落ちた後で、ああ、今のは涙だったんだって。 嬉しくって、気が緩んで出た涙だったんだって、ようやく気付いて。 冷えきっていた頬に燃えるような熱が差してくる。胸の中にじわりじわりと、泣きたくなるような温かさが広がっていく。 「もう一度チャンスをください。もう何があっても泣きごとは言いませんから。 だから。だから、・・・・・・・傍にいさせてください。土方さんの傍に、いさせてください・・・!」 それだけでいいんです。他には何もいらないの。 土方さんは一度失くしたはずのあたしの命を、もう一度拾い上げてくれたひと。 真選組に連れてきてくれたこの恩人が、いつしかあたしが真選組に居る理由、そのものになった。 変わってしまった兄さんを取り戻すことが出来なくて、抜け殻みたいになってたあたしに 生きる理由を取り戻してくれたひと。何があっても嫌いになれなくて、何があっても一緒に居たいと願うひとだ。 命懸けでもこのひとの役に立ちたい。そのためなら何でもする。何だってしてみせる。 だって、もう逃げないって決めたから。何があっても逃げないって―― 「俺がお前に何をしようと。・・・何があろうとそう言い切れんのか」 すっと、音も無く戸が引かれて。 ほのかな温かさを感じる暗さの中から現れた、咎めるようなきつい視線に射竦められた。 土方さんが一歩踏み出す。 煙草の香りが染みついた手があたしの頭の上まで上がって、半分開けた障子戸をしっかりと掴んだ。 土方さんは怒ってる。 これまでにないくらいの激しさで、ただでさえ険しく見える切れ上がった目が、静かに怒りを燃え立たせながら あたしだけに視線を注いでいる。 怒ってる。すごく怒ってるんだ。 これまでにほとんど見たことがない表情なのに、なぜかあたしは直感した。 目の前に立ったひとを見つめているだけでこわくなって、身体がどんどん竦んでいく。 こわい。注がれる視線に気圧されて、こわくて、呼吸すら上手くできない。視線を逸らしたくても、 そんな目でまっすぐに見つめられたら、視線を逸らすなんて出来るはずがない。 喉が詰まって息苦しくて、どうしたらいいのかわからない。今すぐにここから逃げ出したい。 だけど。だめだ。逃げちゃだめ。ここで逃げたらもう最後だ。 ここでおびえて逃げ出せば、この扉は二度とあたしに開かれることはないかもしれないんだから―― 「・・・はい。何があってもいいんです。 だってあたし、最初から命懸けなんです。土方さんが入隊を許してくれた日から、ずっと」 動かない口端をどうにか上げて、やっとの思いで笑って答えた。 寒さで震えてばかりいた声が、その時だけは震えを止めてはっきりと響いた。 ずっと土方さんの傍にいたい。何をしてでも、どんな目に遭っても傍にいたい。 こんな馬鹿なことを思って、利口なやり方なんて何も考えられなくて、 自分で自分に呆れるくらいに好きになった。こんなに捨て身になっちゃうくらいに好きになっちゃったんだもん。 ・・・これから何があったって、いまさら嫌いになんかなれそうにないよ。 「・・・、そうか」 「は、はいっ・・・!」 「そこまで言うからには覚悟があんだろうな」 ひとかけらの情も感じられない声。 このひとの怒りの底から這い出してきたような、低くて冷やかな声に尋ねられる。 それを聞いたらなぜか身体が動かなくなった。あの声に縛られたみたいだ。 どこにも触れられてなんかいないのに、全身が目の前のひとに支配されてる。 ぞくりと寒気が走って、背筋がすうっと粟立って。 放心しきった顔でぽかんと土方さんを見上げたままで、自分でもわけが判らないままにこくりと頷く。 静かな怒りを浮かべた表情に、周囲の闇と同じ色をした前髪が濃い陰を落としている。 その下からこっちを窺っている鋭い目がわずかに細められて、寒々とした眼光を点してあたしを睨みつけた。 何だろう。どうしてだろう。何かがこわい。こわいと思った。・・・ああ、でも、多分、 ・・・・・・・・・・・・・・・・そう。そうだよ。これは多分、驚いたから。 今までに聞いたことのないこのひとの声色に驚いて、身体が自然にひるんだせいだ。 「なら、来い。・・・試してやる」 「っ・・・!」 戸の隙間を抜けて伸びてきた腕に、手首をぐっと鷲掴みにされた。 痛い。ぎりっと絞られたそこがすごく痛くて、声にならない悲鳴が飛び出る。 それは知らない痛みだった。 あたしが知っているこのひとの乱暴さには、感じたことのない怖さで。 どんな抵抗も許そうとしないひとの手。力ずくでいうことをきかせようとしている時の手。 ――男のひとの、そういう時の、手だ。 「・・・・・・・、ひ、土方さ、・・・」 身体を引かれて足をもつれさせながら、高くうわずった声で呼びかける。 室内の暗闇に溶けていく黒い隊服の背中は、振り向かなかった。 何も答えてくれなかった。 今までに奮ったことがない強引さで、あたしを闇の向こう側へ引きずり込んだ。

「 片恋方程式。46 」 text by riliri Caramelization 2011/12/18/ -----------------------------------------------------------------------------------       next