行け。 言い捨てたような声に促されても、しばらくは立ち上がれなかった。 「・・・・・・・、はい、」 急に熱くなってきた口の奥で、泣きたい気分を噛みしめる。詰まった声で返事をした。 畳から急いで立ち上がる。 小走りに戸口を目指して、障子戸を大きく引いたら、そこに人が立っていた。 びくっと肩が飛び跳ねた。部屋で帰省の支度をしているはずの総悟が、目の前にいたから。 「そ、・・・」 呆然と見上げたあたしが呼びかけるよりも先に、総悟は人差し指を口の前に立てた。 「しーっ」と、声を立てずに唇が動いて、口端を上げてやんわりと笑う。 訳がわからないまま頷いたら、手を取られた。こっちに来なせェ、って 明るい色をした綺麗な瞳が目配せで合図してくる。腕をくいっと引っ張られたから、あたしは土方さんの部屋から するりと廊下に引き出されて。 「・・・・・・・、なんだ、何か用か」 「いやぁ、あんたじゃなくてに用があるんでさぁ。向こうに帰ったらしばらく会えねーから、 今日は駅まで見送ってもらおーかと思いやしてね。じゃ、ちょいとお借りしやす」 「――・・・・・」 総悟は部屋の中に向けてにやりと笑いかけていた。 廊下に出されたあたしに判ったのは、障子戸の向こうにいる土方さんの気配がなんとなく変わったことだけだ。 繋いだ手はそのままで、あたしたちは廊下を進んだ。少し歩いてから、あ、と気づく。 ・・・もしかして聞かれちゃったのかな、あたしと土方さんの会話。 「今の、・・・聞いてた?」 後ろを振り返って、障子戸が開きっ放しの副長室をおろおろと眺めてから、 あたしはようやく隣を歩くとぼけた横顔に問いかけた。 総悟は何も言わなかった。まっすぐに前を見つめながら、少しだけ口端を吊り上げてかすかに笑った。
片恋方程式。 45
クリスマスイブの江戸の天気は、この季節にしては珍しいほどの快晴だ。 裏門へと続く車両用の通路を歩いていると、十二月とは思えない陽射しの暖かさが降り注いできて 頬や隊服の肩をほんのりと温めてくれる。乾いた空気は年末らしい冷たさだけど、こんなにいい天気なんだから、 今朝のワイドショーで映していた場所はどこも混雑してるんだろうな。 「ねぇ、駅まで見送りって何のこと。そんなのあたし聞いてないよ?」 「ん?・・・ああ、見送りねェ。」 隣を歩くとぼけた顔が、んー、と唸って、斜め上の冬空を何気なく見上げる。 何か隠していそうな総悟の態度に首を傾げながら、あたしは漠然と朝にテレビで見た夜景を思い浮かべた。 きらきらと瞬く星で飾られた巨大なツリー。賑やかなクリスマスソングの流れるデートスポット。 そういう華やかさに縁がないクリスマスばかり送ってきたあたしにとっては、夢みたいに眩しい光景だった。 でも、たいして行きたいとは思わなかった。 こんな落ち込みがちな気分の時にそんな賑わった場所に行ったら、余計にさみしくなっちゃうだろうし。 「とにかく駅までなんて無理だからね。 近藤さんもあたしもこれから年末の挨拶回りなんだから。ほらぁ、さっきも話したじゃん」 「駅までねェ。いやぁ、そいつはさすがにこっぱずかしーや」 駅のホームで近藤さんに泣かれでもしたらぞっとしねェし。 なんて肩を竦めた総悟の右腕には、小さな包みが抱えられている。 (玄関で待っててくだせェ。) そう言い残して自分の部屋に向かった総悟は、お姉さんの遺灰が入った壺と一緒に戻ってきた。 他の荷物は先に車に積んであるそうで、白地の布に包まれたそれだけを大事そうに抱えてる。 何でも片っ端から壊すのが得意なこの子にしては珍しい、すごく慎重そうな手つきだ。 どこかぎこちないその仕草を見ていると、ちょっとせつないような、何か微笑ましいような気分になった。 「つーかさっきのあれぁ意味ねーんだ。野郎の腹ぁ探りついでに、適当に言ってみただけでさぁ」 「・・・?なにそれ、」 「まぁ挨拶代りのちょっとした冗談ってやつでェ。・・・もっとも、あの石頭の耳にどう聞こえたかは知らねーけど」 フン、と鼻で笑って、総悟が意地悪っぽく目を細める。 蜂蜜色の前髪で半分隠れた目元が、ちろりとあたしを流し見て。 「あんたの前じゃあいかわらずの仏頂面かィ、土方さんは」 「うん。今もね、顔も見たくないってかんじだった」 軽い口調に聞こえるように明るめな声で言いながら、たたっ、と先に駆け出した。 短く助走をつけて、えいっ。足元の小石を高く蹴り上げてみる。 雲のない冷たそうな空に放物線を描いて吸い込まれていったそれを指して、 「ほら、見て!「土方のバカ」って唱えて蹴ったら、あんなに遠くまで飛んじゃった」 総悟に振り返ってけらけら笑う。笑いながら、笑ってる自分が不思議になった。 好きになったひとにあれだけ手酷く避けられてるこの状況。ほんと、笑ってるどころじゃないんだけどな。 それでも、あっけらかんと笑い飛ばしてしまったほうが、ほんの少しだけ気分が軽くなる気がするから―― 「ひっどいよねーあの態度。 一応あたし、土方さんの補佐役なんだよ?なのに口も聞いてくれないんだもん、困っちゃうよ」 「最近は俺のほうがまともに口聞いてんじゃねーかィ。 ・・・、あれっ。そういやぁ俺、ここんとこ野郎に怒鳴られた覚えがねーよーな・・・」 「それは総悟が前よりサボらなくなったからだよ。ずっと無遅刻無欠勤だったしね」 それってほとんどあたしのおかげだよね。 ふざけて得意げに胸を逸らしたら、総悟は、ははっ、とせせら笑って。何か考え込んで黙ってしまった。 「・・・も黙ってねーで、言ってやりゃーいーのに」 「え?」 目を丸くして訊き返したら、笑みのかたちに細められた目があたしを見つめてくる。 女の子みたいに線の細い綺麗な顔には、ちょっとさみしげに見えるあの微妙な表情が浮かんでいた。 「後ろから一発蹴りでも入れて、派手にかましてやりゃあいーんでェ。 いつまでも陰険にシカトぶっこいてんじゃねーよこのニコ中マヨラー、って」 「えーっ、それは無理だって。今そんなことしたら確実に副長室出入り禁止になっちゃうよ」 そんなの無理無理。 顔をちょっとひきつらせて笑いながら、出来るだけ何気なく見えるような仕草でお腹に手を当てる。 かろうじて笑えてはいるんだけど、思わず表情が硬くなった。ここのところあまり調子がよくないお腹の中が きりきりと絞り上がって、小さな痛みを訴えてきたからだ。 「大丈夫だよ、あたしはあのくらい平気だもん。機嫌悪い土方さんなんてもう慣れっこだし。 それにさ。ちょっとこわいんだ。もし次に本気で怒らせちゃったら、屯所まで追い出されちゃいそうで」 「まさか。いくら野郎でもそこまでしねーだろ」 「ううん。今度はするかもしれないよ。・・・今度こそ本当にクビにされちゃうかもしれない」 大きくかぶりを振って、苦笑いで答えた。 絶対にありえないことじゃない。これ以上に踏み込もうとしたら、あたしは今度こそ本当にここを 追い出されてしまうかもしれない。土方さんは――あたしが今まで傍で見てきた、真選組の副長としての 土方さんは、いざとなったら近藤さんの反対を押し切ってでも、そのくらいのことはやってのける人だ。 それを考えたらお腹の痛みが急に増してきて、スカートの上から当てた手にも力が籠った。 「あのね。あたしね。お城の研修に行く前から、とっくに土方さんに嫌われてたらしいんだ」 いきなり屯所を出てけって言い渡された時はすごくショックだった。 荷物を詰めに戻った自分の部屋で、着替えの着物に突っ伏してめそめそ泣いちゃうくらいショックだった。 それでもどこかで楽観してたっていうか、これ以上に突き放されることはないだろうって思ってた。 研修を無事に終えて屯所に戻ったら、少しはあのひとの態度も和らいでるんじゃないかな。 前みたいな関係に戻れるんじゃないかな。・・・なんて、お城にいた頃は虫のいい期待ばかりしてたくらいだ。 だけどいざ戻ってみれば、土方さんはあの通りで。あたしは自分の考えの甘さを嫌になるほど思い知らされることになった。 そう。だから、――たぶん、こういうことだ。 あの頑なな無視の理由は、あたしが自分でも気付かないうちに、あのひとが絶対に許してくれないような 何かをしでかして嫌われちゃったから――、ってことになるんだけど。 ・・・その理由を思うと、いつも心の底から溜め息が湧いてしまう。 「あーぁー・・・どうしてここまで嫌われちゃったのかなぁ。土方さんってたまにすごーく横暴だし、時々 わけわかんないことで怒ったりするけど。・・・でもさ。何の理由もないのにここまで人を無視するような人じゃないよね」 ふぅ、と息を吐きながら、何気なくお腹から手を下ろす。 これまで誰にも話さなかったことを打ち明けたおかげで、少し気が楽になったのかもしれない。 痛みは徐々に引いてきている。今は脇腹にちょっと違和感があるくらいで、ほとんど何も感じない。 ・・・よかった、もう大丈夫みたいだ。 この胃痛、実は屯所に戻ってからずっと続いてるんだよね。土方さんの態度にヘコむだけならまだしも、 そのうちにあたしの身体は、あのひとに無視されるたびに無言の悲鳴を上げるようになってしまった。 心配させるといけないからみんなには黙っているんだけど、――あれからずっと、二、三日に一度の頻度で 胃薬のお世話になっているくらいだ。 「それにね。ミツバさ、・・・総悟のお姉さんのことがあったばかりだから。 あれからまだ二月も経ってないんだから、少しくらい邪険にされても仕方ないかなぁって思うの」 いくら土方さんが何があっても動じないくらい心臓が丈夫なひとだからって、・・・大切なひとを失くしたんだもん。 こんな時に、疎ましがって遠ざけてる部下の扱いまでいちいち気にしてやる気にはならないだろう。 それにあたしも、そんな状態にある人に「少しはこっちの苦労も考えてください」なんて訴える気には到底なれないし。 そんなことを考えながら、あれっと思う。なんとなく不穏な気配を感じてふと隣を見ると、 総悟は眉をひそめて薄い唇を引き結んで、すごーく不満そうな顔になっていた。 車両部の倉庫と通用路を仕切っている木立のほうに顔を逸らして、ちっ、と控え目に舌打ちまでして。 「わかってねーや姫ィさん。あんたがそーやって甘えさせておくから野郎がのうのうとつけ上がるんでェ」 「・・・は?甘えさせておく、って、・・・・・・・・・」 ・・・土方さんを、あたしが? あまりに意外なことを言われて言葉に詰まる。ぱちぱちと瞬きを繰り返した。 えーっ、そうかなぁ。 まあ、確かに最近のあたしがあのひとに対して、腫れ物に触るような遠慮ぶりで接してきたことは認めるよ。 これまで一貫して空気扱いで無視されてきたけど、そういう態度に対して文句をつけたことも一度もないし、 それ以外にも遠慮してきたことは多かったと思う。・・・でも、そんなことが、あのひとを甘やかしてることになるの? 「あはは、何それぇ。てゆうかありえないよねそれ。だって土方さんだよ? 怒ると鬼より怖い土方さんがあたしに甘えるだなんて、ないない、ぜーったいない、」 「・・・・・・・・・・」 「いーの、あたしね、何言われてもめげないで図々しく居座るって決めてるから。土方さんはいい顔 しないだろうけど、それでもあたし真選組が好きだし、ここにいたいんだもん。だから追い出されないように頑張るよ」 「・・・・・・。違うだろ」 「え?」 「それでも野郎が好きだからここにいてーんだ、あんたは。そうだろ姫ィさん」 総悟はまるで当たり前のことのように、さらりと口にした。 身体に溜まった不満全部をぶつけるような勢いで足を繰り出して、目の前の小石を思いきり高く蹴り上げる。 遠くに見える裏門よりも遥か高くまで上がったそれを首を伸ばして見上げるうちに、あたしの頭はようやく 総悟の言葉の意味を理解しはじめて―― 「・・・・・・・・・・・・・えっ、・・・」 呆けきった顔をのろのろと横に向けて、まじまじと総悟を見つめた。 ちょっと面白くなさそうに口を尖らせた総悟がじいっとこっちを見ている。ううん、瞬きもしないで睨みつけてる。 どーなんでェ。 そう問い詰めてくるような強い視線を浴びせられて、足が止まる。全身が竦む。その場の空気に縛られた。 「好きなんだろ。あの野郎が」 「・・・・・・え、・・・・・・・・・・・な、・・・んで、」 吐息程度の声でつぶやいた口の中で、呼吸がぴたりと静かに固まる。 一瞬、回りからすうっと音が引いて。まるで時間が止まったみたいに感じて―― どくん、と胸を突き破りそうな強さで鳴った心臓の響きが、全身をびくっと震わせて。 「ぇ、ええっ、なっ、どっっっ」 「あぁ、んなこたー前から知ってたけど」 そんなの心底どーでもいいや、なんてことを思っていそうな、醒めきった目つきの上目遣いで睨まれた。 ・・・・・・たらーーーーり。 背中を変な汗が伝っていって。頭からすーっと血の気が引いていって。 「い、いいいついいつか、らっっっ」 「さーねェ、いつからだったっけなぁ。もう忘れちまったぜ」 「そっっっ〜〜〜〜、そんなに前から!!?」 「いやぁ、気づいてんのぁ俺だけじゃねーし。うちの連中の70パーは勘付いてんじゃねーのかィ」 「多っっっっ!!!」 ぎゅーっと耳を押さえて、眩暈がするほどブンブンと激しくかぶりを振りまくる。とはいえ、今さら耳なんか 押さえたって、すべてが手遅れだってことは間違いない。あぁお願いもうやめて、これ以上追い打ちかけないで! てゆうかそんな死ぬほど恥ずかしい現実、死ぬほど知りたくなかったんだけど!!? 急激に上がった体温のせいで顔どころか全身が燃え上がって、まるで地面から生えてるみたいに足が動かなくなって、 膝からすーっと力が抜けていく。最後には立っていられなくなって、あたしはへなへなっとその場にへたり込んだ。 「な、70って・・・どうしよう、どーしたらいいの、これからあたし、どんな顔してみんなに接したらいーの?」 どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。 さしあたって今日の夜はどう凌げばいいの?どんな顔して食堂に行けばいいんだろう。 それを考えただけで汗が止まらない。恥ずかしさで沸騰した血液が熱湯になって逆流してくる!!! 「へーぇ。まさかここまで自覚がねえとはねぇ。さすがは俺の姫ィさんだ、鈍感にもほどがあらぁ」 「おねがいやめて!その憐れなモノを見る目つきやめて、呆れ返ったよーな口調で誉めないでぇぇ!!!」 「呆れ返るっつーか驚きだぜ。あんたの目ときたら一体どーなってるんでェ、よくまぁあれでバレてねーと思えたもんだ」 「違うのっ。もしかしたらとは思ってたの!バレてるかもしれないなぁって、たまに思ってたよ!?それくらいなら まだいいのっ、まだ平気なのっっっ。だけど完全にバレてるって知っちゃったら、も、ももも、もう、・・・〜〜〜っ!」 「ふーん、そーいうもんかィ。まぁ俺には何が違うのかさっぱりだけど」 女心ってのが色々と面倒が多くて、それなりに大変らしいってこたぁわかったぜ。 涼しい顔してくくっと笑うと、総悟は目の前ですとんとしゃがみ込んだ。 「さぁて。それじゃあひとつ、俺も姫ィさんに白状しよーかねィ」 地面にぺたんとお尻をついていたあたしは、何かいたずらでも企んでいそうなその視線から ぷいっと赤い顔を逸らした。耳を押さえていた手を渋々で離す。すーっ、と大きく息を吸って深呼吸する。 もうこうなったら何を聞いたって同じだ。どんな羞恥プレイでもどんと来いってかんじだ。 「いいよさあどうぞ!こんなに驚かされた後だもん、もう何聞いたってびっくりしないからね!?」 「俺の姉上と婚約者の男の話。姫ィさんも大方聞いてんだろ」 「・・・・・えっ。う、うん、・・・近藤さんから聞いたけど」 「そーかィ。じゃあ、もうバレちまってんだろーけど」 総悟が何か苦い思い出に浸っているような気まずそうな笑いを浮かべて、長い睫毛をふっと伏せる。 一呼吸置いてからあたしを見つめて、ゆっくりと口を切った。 「いつだったかは忘れちまったけど。野郎に届けてくれって、あんたに手紙を頼んだだろ」 「――・・・・・・・」 「姉上からの手紙。表書きが俺宛てになってるやつだ。覚えてねーかィ、姫ィさん」 「・・・、覚えてる、けど、」 「あれぁ違う。あれぁただの、俺宛ての手紙だ」 総悟は腰のポケットから財布を探り出して、そこから一枚の写真を出した。 総悟と同じ蜂蜜色の髪をポニーテールにした女の子が、今よりも少し幼い顔をした総悟や、 武州の道場の門人らしい道着姿の人たちと一緒に笑っている。 あたしよりも少し年下に見えるミツバさん。まだ頬がふっくらしている頃のミツバさんが映ってる写真。 「こっちも見覚えがあんだろ、姫ィさん」 「・・・、う。うん」 その姿は、あの時あたしが目にしたものと同じだった。 (土方さんが姉上の写真を隠し持っている。) 総悟から聞かされた話がどうしても気になって、土方さんが留守の時に机を探ったら出てきた写真。 あれと同じ写真だ。 言葉に詰まってしまって写真に目を凝らしていたら、総悟が先に切り出してきた。 「手紙のこたぁ全部嘘だ。引き出しに入ってたこいつもそうだ。どっちも俺が仕込んだだけで、 土方さんはてめえの部屋にこんなもんがあったなんて気付きもしてねえだろうさ」 「・・・・・そ。そっか、あれって。な、何だ、そうなんだ、ふーん、・・・・・・・」 はは、ははは、は。 焦ってごまかそうとしたらやけに高い笑い声が出てしまった。ああもう、なんてわざとらしい空笑い。 ・・・これじゃ70%の人にバレてたって当然だ。残念すぎる自分の態度にがっかりしながら、それでも 「そっか、そ、そういう、こと、だったんだぁ」なんて意味なく繰り返して、しどろもどろに押し通そうとしたら―― 「目がキョドってますぜ」 「えっっ」 「っとに嘘がつけねー顔してんなぁ、姫ィさんは」 「〜〜っ。あ、あたし、・・・どんな顔してた?」 「とっくに気づいてたけどそんなこたぁ言い出せねーしどーしよー、って顔してたぜ」 ぷっ、と吹き出した総悟に、すごく可笑しそうに言われたから気になっちゃって。 再びわかりやすくうろたえたあたしは、引きつりが気になる頬やこめかみのあたりをぺたぺたと、 何度も何度も繰り返し触った。 だめだ、意識しちゃう。どこを見たらいいのかわからないよ。ずっと向こうに見える裏門や 枯れて茶色くなった落ち葉の残る足元に視線をうろうろさせる。 かあっと火照る頬を覆って気恥ずかしさを紛らわせながら、おずおずと答えた。 「・・・・うん。なんとなくね。そうじゃないかって思ってた」 その不思議さに気づいたのは、ミツバさんが亡くなってから。 近藤さんの口から、ミツバさんに婚約者がいたと聞いてからだ。たった一度しか会ったことがない人だけれど、 あたしが出会ったミツバさんは、婚約者が居るのに他の男の人にも手紙を送るような人とは思えなかった。 だから、・・・もしかしたらあれは、総悟が何か悪戯するつもりであたしに嘘を教えたのかなぁ、なんて思ってたんだけど。 「俺が知る限り、・・・俺たちが江戸に出てからこっち、あいつが姉上に会おうとしたこたぁ一度もねぇ」 長い睫毛を伏せて表情に陰を落として、どこかすごく遠いところを見つめているような顔をして。 ひとことずつを喉の奥から絞り出すように、総悟は言った。 「姉上は。・・・俺の姉上は、野郎とのことを弟の俺に聞かせるような人じゃなかった。 けど。たぶん。野郎は手紙一通寄越さなかった。何の音沙汰もなかったはずだ」 「・・・、そう、なの?」 「ああ。野郎の口から聞いたわけじゃねーが、どーせそうに決まってらぁ」 そーいう馬鹿な野郎なんでェ、あの人ぁ。 そう言うと、はっ、と馬鹿にしたみたいに笑い飛ばした。なのにその口調には険がなかった。 あのひとのことを語るときの総悟の口ぶりにいつも混ざってる、不愉快そうな響きがない。 黙って話を聞いていたら、なんだか不思議な気持ちになった。 可笑しさと悲しさが半々に混ざり合った、どこかやるせないような気持ち。 総悟が抱えてる土方さんへの複雑な思いが、あたしにまで伝わってきてしまう。 ――この一月半、ほとんど口に出そうとしなかったお姉さんの話を、総悟はどんな気持ちで語ってくれたんだろう。 それが土方さんのことが絡む話となれば、尚更に口にするのはためらわれたはずなのに。 地面を見つめて深くうつむいた明るい色の頭を、ほんの少しだけ離れた距離からじっと見つめる。 何を思い出してるのかな。考え込んでいる総悟の沈んだ表情を見つめていたら、 なんだかもっとせつなくなってしまった。ミツバさんが亡くなった直後のことをつい思い出してしまう。 あの頃のこの子は広間に置かれた遺影の前から動こうとしなくて、いつもこんな暗い表情ばかりしていたから。 「・・・だめだよ総悟。元気出してよ。らしくないよ。ぜんぜん総悟らしくないよその顔」 「ぁんでェそりゃ。つーかどんな面してんでェ、俺は」 「どんなって、・・・・・どんな女の人が見ても慰めずにはいられないよーな顔、かなぁ」 お姉さんの写真を握っている総悟の右の手に触れる。 体温が低めな手の甲に自分の手のひらをそっと重ねて、きゅっと強めに握りしめた。 すると総悟は不満そうにぷーっと頬を膨れさせた。 その表情が子供っぽくて、男の子なのにすごく可愛い。見ているだけで嬉しくなって、 ちょっとくらい怒られてもいいからあのさらさらした感触の頭を抱きしめてしまいたい、なんて思ってしまった。 「・・・またこれだ。姫ィさん、俺をガキ扱いすんのぁいい加減にやめてくだせェ」 「えー、違うよー」 「違わねーだろ。あんたが可愛がってるあのチビの扱いとどこが違うんですかィ」 「チビって美代ちゃんのこと?えーっ、違うよー。ぜんぜん違うってば」 女の子みたいな綺麗な顔を覗き込んで、小さく、へらっと笑いかけた。 こんなことが総悟の慰めになるなんて思わない。だけど、あたしが総悟のために出来ることなんて、 落ち込みそうな時のこの子を傍で見守ってあげることくらい。いつも傍にいて、こうして声を掛けて、笑いかけて、 沈みがちな気分をほんのちょっとだけ浮上させてあげられたらいいなって思う。 総悟にしてみればこんなの要らないお節介なのかもしれないけど。だけどあたしには他に出来ることなんてないから、 せめてそれくらいはしてあげたい。 「・・・訊かねーのかィ」 「え。何を?」 「俺ぁ手紙だ写真だといちいち仕込んでまであんたを騙そうとしたんだぜ。 普通は妙だと思うだろ。何でそんな嘘ついた、何のために、って」 「何でって、・・・だからあれでしょ。土方さんたちが付き合ってるってあたしに思い込ませて、 何かからかってやろうと思ってたんでしょ。違うの?」 不思議に思って尋ねたけど、すごーく醒めきった目でじろりと冷たく睨まれてしまった。 総悟が不機嫌そうに眉をしかめる。 ミツバさんと一緒に映ってるあの写真を、ひらひらとあたしの目の先で振ってみせた。 「まだわかんねーのかィ姫ィさん。俺ぁこの写真を、わざわざ土方さんの部屋に忍び込んで仕舞っといたんだぜ。 手紙もこいつも、あんたに姉上の存在を見せつけたかったからやったんでェ。あの野郎を諦めさせるためじゃねーか」 「・・・?ねえそれ、どういうこと?あたしが、その、・・・土方さんを諦めたら、総悟は何か得するの?」 ねえ、と手を引っ張って返事を催促したら、つんと澄ましきった態度で無視されてしまった。 ここ半月くらいでまた見せてくれるようになった、いかにも総悟らしい、ちっとも可愛くない態度だ。 この可愛くなさも今は嬉しい。以前は当たり前のように眺めていられた、いつもの総悟だ。 ――可愛い見た目に反して中身はふてぶてしくって、あんまり可愛気がない男の子。いつもの総悟が、やっと戻ってきてくれた。 「でもよかったよ。総悟が嘘ついてくれて」 「何がいーんでェ。あんたを騙してたんですぜ、俺ぁ」 「うん。でもね。知らなくてよかったんだよ。だって、土方さんとミツバさんがずっと音信不通だったって知ってたら、 ・・・もし知ってたら。あたし、そこからずーっと落ち込みっ放しだったと思う」 握った手を左右に振って遊びながら、口許だけで笑った。 自分じゃ見えないからわからないけど、なんだか歪んだ笑顔になってる気がする。 もしそうだったら、それはきっと、あたしの心が狭いから。 あたしの嫉妬や妬みが――どうしても消せないミツバさんへの見苦しい気持ちが、そのままそっくり顔に出ちゃってるせいだ。 ああ、やだな。 亡くなった人に嫉妬しちゃうなんて最悪だ。自分で自分が嫌になる。 ふふっ、と声を出して笑ったら、あたしを見つめた総悟の目は、不思議そうに瞬いていた。 だってかなわないよ、そんなの。 結婚を控えていたミツバさんは 土方さんのことなんてもう忘れてしまっているかもしれない人。 江戸に出てからは会うこともなかった、すごく遠い人だったんだよ。 それでも土方さんのミツバさんに対する思いは変わらなかった。 婚約者だった人の企みを阻止するために、命賭けで取引現場に乗り込んでいっちゃうくらいだもん。 あのひとはそれだけ一途に、ミツバさんを思いつづけてきたんだ。 (そーいう馬鹿な野郎なんでェ。) 総悟は土方さんを馬鹿にしきってるみたいにそう言った。馬鹿馬鹿しくって軽蔑する気すら起きないってかんじで笑って、 ――でも、その表情はどこか辛そうにも見えた。 あの時の総悟がどんな思いを、あのひとことに籠めたのか。 あたしにもなんとなく判る気がする。 ・・・本当になんて馬鹿な人だろう。あのひとはすっかり忘れたようなふりをして、ずっとあの 冷静そうな表情の奥に隠していたんだ。ちっとも忘れてなんていなかったんだ。 遠く離れていても、ずっと。会うことがなかった長い長い時間も越えて、ずっと。今までずっと、 変わらずにミツバさんのことが好きだったんだよ。 そして――たぶん土方さんも知らないところで、その思いはひそかに通じ合っていたんだ。 「・・・?どーしたんでェ姫ィさん」 「うん。・・・・・・ううん。何でもない」 急に黙りこくったあたしの態度を妙に感じたのか、総悟は訝しげに目を凝らしてこっちを眺めた。 ちょっと首を傾げた総悟の顔をぼんやり眺めて、ううん、ともう一度かぶりを振る。 今、あたしの頭の隅に浮かんでいるもの――それは手紙だ。 二か月以上前にミツバさんから届いた、淡い水色の封筒。あたしが読むのを怖がっていたあの手紙。 あの中には、土方さんの名前なんてただの一度も出て来なかった。 封筒とお揃いの水色の便箋にしたためられていたのは、婚約しましたという短い報告。 たった一度会っただけのあたしへの親しみが籠められた、優しい労わりの言葉。 一番長かったのは、離れて暮らす弟を思いやるお姉さんとしての愛情に溢れる言葉だった。 (さんがそーちゃんと仲良くしてくださっていることが、姉としてとても嬉しいです) 総悟を心配する気持ちを控え目に綴った後で、最後にそう締めくくっていた。あとは近藤さんや 永倉さんや井上さんや――ミツバさんとはお馴染みの、武州の頃から付き合いのある人たちの 名前が連なっていた。 (みなさん怪我などされていませんか。元気で任務に励まれていますか。) 筆運びからも伝わる温かな気遣いは、なぜか土方さんにだけは向けられることがなかった。 あの手紙で名前が出て来なかった人は土方さんだけだ。だからあたしは、――土方さんとミツバさんの仲を 気にしているあたしは、そのささいな不自然をどうしても見逃せなくて。そこからある想像を思い起こしてしまった。 ミツバさんは土方さんの名前を一切手紙に出さなかった。 それはあたしの役目が副長附きだと、総悟からの手紙で知っていたから。 あたしの口から迂闊にミツバさんの名前が飛び出て、あのひとの耳に入ることを望まなかったから。 あの奥ゆかしい人は、遠くからずっとあのひとを気遣っていて。でも、そういう自分の思いが あのひとの邪魔になるんじゃないかって心配もしていて。だからあたし宛ての手紙にも、 そんな思いが小さな配慮として現れていた。 土方さんの近況には触れようとしないことが。 遠く離れて誰にも見せずに秘めておくことが、ミツバさんのあのひとへの思いだったんじゃないのかな。 ・・・・・だから。そう、だから―― (野郎は手紙一通寄越さなかった。何の音沙汰もなかったはずだ。) 総悟からそう聞かされても、あたしの目には、あの二人の思いがずっと通じ合っていたようにしか見えなかったんだ。 「・・・うん。何でもないの、気にしないで」 胸に靄のように溜まったもどかしい気分を振り払って、もう一度繰り返した。 精一杯の笑顔を総悟に向ける。 やめておこう。あたしがこんなことを口にしたら、総悟の顔色はもっと複雑そうなものに 変わってしまうかもしれないし。 「ありがとね、総悟。ちゃんとほんとのこと、教えてくれて」 自分だって辛いくせに、あたしのことまで気遣ってくれた。ありがとう。 感謝の気持ちをきゅっと握った手に籠める。するとなぜか総悟の表情が、ほんの少しだけ曇った。 「礼なんか言われるよーなこたぁしてやせんぜ、俺は」 「いいの。総悟がそんなつもりなんてなくても、あたしは嬉しかったんだから」 「・・・・・・・・」 「ねえ、向こうはすごーく寒いんでしょ。冬の武州の底冷えはすごいって、近藤さんが言ってたよ。 頑張って片付けて早く帰っておいでよ。あたし待ってるから。ね?」 そう言ったら総悟の眉が微妙に寄って、目が大きく瞬いた。 瞳に強い光が灯る。飄々とした表情は変わっていないのに、どこか不機嫌そうな顔つきになって。 「え。どうしたの。あたし何か気に障るようなこと言っちゃった・・・?」 「いいや。別に何でもねーや」 気になって尋ねてみたら、今度はふいっと顔を逸らされてしまった。 もっと近くに寄って横顔を覗きこんだら、目がはっきりと怒っている。 急にどうしたんだろう。あれはどう見ても、何でもねーや、なんてことを思ってるときの顔じゃないんだけど・・・、 「ね、ねえ、ケータイとか、ちゃんと持った?予約した電車って何時発なの?切符は持ってる?」 「・・・・・・、」 「あーっ、ぜんぶ井上さん任せにしてるんでしょ。だめだよちゃんと確かめよーよ。 そーだ、朝の会議がないからって寝坊はだめだからね?朝は毎日決まった時間に、」 「」 「え?」 「笑ってくだせェ」 「・・・は?」 繋いだ手を痛いくらい強く握り返して、総悟は少し怒ってるような声で言った。 (笑ってくだせェ) それがいつになく真剣で熱のこもった口調だったから、あたしは思わず目を丸くして 総悟をきょとんと見つめてしまった。 「見送りはいらねーけど餞別なら貰ってやらぁ。ほら、餞別代わりにちょっと笑ってみせてくれィ」 「う、うん・・・?」 首を傾げながらも頷いた。それでも総悟は睨むような目つきをあたしに浴びせてくる。 一体どうしたんだろう。また何か悪だくみでもしてるのかな。 でも、これから何か仕掛けてやろうってときの澄ましきった顔つきとは違ってる。 ・・・まあいいけど。ちょっと笑うくらいのことなら、いくらだってサービスしてあげられるからいいんだけど。 「えーと。・・・よくわかんないけど、ねえ、これでいいの?」 それにしたって何なんだろう。あたしが笑うと何があるの? さらに首を傾げながらもあたしは笑った。満面の笑みになるように。ぱあっと大きく口角を上げて。 少なくとも自分ではそうしたつもりだったし、結構うまく笑えたような気がした。 だけど―― 総悟は瞬きもせずにひとしきりあたしを見つめ続けた後で、すっ、と立ち上がってこう言った。 「駄目た。ぜんぜんなってねーや」 「・・・・・・、」 「俺の姫ィさんはそんな顔じゃ笑わねェ。何でェその顔、ちっともあんたらしくねーや」 怒りをお腹の奥でこらえているような、静かだけれどきつい口調が頭上から降ってくる。 唖然として総悟を見上げて、あたしは身体を固まらせた。 遺灰を入れた壺を抱えた細い手が、包みの白布をぎゅっと握り締めている。頭上から陽光を浴びて陰になった顔は 硬く唇を噛みしめていて、大きな瞳はあたしを歯痒そうに睨みつけていた。 「城から戻ってからこっち、ずっとこれじゃねーか。どーしてそんな泣きそうな顔して笑うんでェ」 「・・・・・・・・、総、・・・」 眉を曇らせてあたしを睨みつけてくる大きな瞳。その奥にあるのは激しい怒りだ。 めずらしく感情に溢れている総悟の目。その目が灯した感情の強さに言葉もなく呑まれた。目が逸らせなくなってしまった。 「あんたの本当の笑顔は違う。こんなんじゃねーんだ。綺麗な顔が台無しなくれーに顔中くしゃくしゃにして、 ガキっぽい面して笑うんだ。見てるこっちまで笑っちまうくらいに、馬鹿みてーに幸せそーな面で」 「え、ちょ、・・・・・っっ!」 ぐいっ。 掴まれた肘から腕を思いきり引っ張られて、身体ごと引きずり上げられる。 無理矢理立たされたらブーツの足元が左右にふらふらよろめいて、もう少しで転びそうになった。 総悟はそれでもお構いなしで、あたしの腕をもう一度引いた。今度はくるりと向きを変えさせられて―― 「っっ。そ、・・・総っ、」 冷え始めていた首筋が急に冷気から遮断された。驚いて叫びかけた口許を、隊服の腕で塞がれる。 「え、な、・・・」 あたしはぱちぱちと素早く瞬きしながら、背中にぴったりくっついてきた総悟の体温におろおろした。 もうわけがわからない。勝手に方向転換させられたと思ったら、今度は後ろから首を抱きすくめられてしまった。 「っ、ちょ、そ、総悟?どーしたの、」 「・・・もういい」 「はいぃ!?」 ひっくり返った変な声で甲高く叫ぶ。叫んだ直後に人目を思い出してはっとして、 おろおろと辺りを見回した。幸い誰もいなかったから、ちょっとだけ安心したけれど―― ほっとした直後におでこらしき感触があたしの後ろ頭にこつんとくっついてきて、 「っ、ひ、な、ななな、な・・・!」 吐息のくすぐったさが首筋をふっと撫でたから、背筋がびくんと飛び跳ねた。 何か尋ねようにも頭がパニくってて何も出て来なくって、あわあわと口籠って絶句する。 ――なにこれっ、わけがわかんないよ。何がもういいなの総悟、とどのつまりが何なのそれ、いいって何がいいの、何が!? ざわざわと髪が擦れる音が耳元を一杯にしている。後ろ頭に総悟のおでこを擦りつけられてる。 隊服の衿元から入り込んでくる息遣いが首筋に当たって、全身がかぁーっと熱くなる。 ・・・そういえば前にも庭でこんなことされたっけ。あの時も急に抱きつかれて困ったけど、どうしたらいいのこれ。 背後を取られて首を抑えられて、しかも総悟の抑え方が巧妙だから横にも前にも動けないし、 どうにか腕を外そうにも、この女の子みたいに華奢な腕ときたら押しても引いてもびくともしない。 てゆうかこれは何なの、あたし、この状況をどうしたらいいの?さっきからおでこの汗が止まらないんですけど!? 「もういい。もういーんでェ。」 「〜〜〜〜〜っっ、だからああっっ、何が!?」 「俺ぁもう大丈夫だ。一人だって平気だ」 まあ、これからは毎朝起こして貰えねーってのはちょっと惜しい気もするけどな。 耳元で言い含めるようにささやいた、その声は――笑っていた。 なのにお腹の奥から絞り出したような、辛そうな声だ。その声色が気になって、あたしは急に我に返った。 「総悟・・・?」 すぐに振り向こうとしたけれど、総悟はなぜかあたしが動くことを許さなかった。 後ろへ向きかけた肩を、首に抱きついている腕にそっと押し戻されて。 「もういいんだ。この一月半、俺ぁもうあんたに充分貰った。あんたが火の中から連れ戻してくれたから、姉上との 約束も守れる。あんたのおかげでどうにか笑えるようにもなった。元の自分を取り戻せた。それだけでもう充分でェ」 「え・・・、」 「だからもう、俺のこたぁ気にしなくていい。俺に気兼ねして野郎に気兼ねして、 そんな苦しそうな顔してまで無理に笑うこたーねーんでェ」 首元を拘束していた力が緩んで、総悟の腕が下がって。ぽん、と肩から押し出される。 言われたことに混乱して呆然としていたあたしは、その手に押されるままにふらふらと前に数歩進んで。 ――その時になって初めて気がついた。 裏門を目指して歩いていた自分の身体が、今は屯所の建屋の方へ向かされていることに。 「さぁ、これであんたはもう自由になった。どこにだって行けるだろ。ここから先は、あんたがあんたを取り戻しに行く番だぜ」 「・・・・・・・・・・」 「行きなせェ、。あんたが行きたいと思ってるとこに」 ほとんど葉を落とした木立の陰に隠れた、古びた屯所の母屋やその玄関先を呆然と見つめる。 今のはちっとも総悟らしくない声。不自然な声だった。 何かをこらえて無理に明るく振る舞おうとしているような声。 笑いたくなんてないのに無理をして笑おうとしているような声だ。 なのにその声は、頭から爪先まで反響した。全身の隅々まで響き渡った。 あたしの身体を硬直させた。 まるで何か呪文でもかけられて、目には見えない何かの力に身体を縛りつけられたみたいに。 「約束してくだせェ。俺が帰ってくるまでに、あんたの本当の笑顔を取り戻しとくって」 「・・・総悟、」 「野郎の都合なんざ気にするこたーねーんだ。あんたがしたいようにすればいい。 行ってやりたいようにやればいい。そんであの野郎をうんと困らせてやって下せェ、俺のかわりに」 「・・・・・・・・。無理。無理だよ、そんな、・・・」 だって違う。そんなんじゃないのに。違うよ総悟。あたしは、ただ―― 自分に向けた独り言みたいに、うわずった声で小さくつぶやいた。 すると耳元で、ふっ、と優しく笑う声がして。 「じゃーな、姫ィさん」 背中に触れていた手の感触が、ぱっと消えて。たっ、と地面を蹴って駆け出す気配がして。 総悟の足音が引き止める間もない速さで離れていく。 首元を覆っていた腕の感触や温度が、少しずつ、少しずつ引いていく。少しずつ、少しずつ、冷めていく。 あたしはどうにか身体を動かそうとした。 総悟を追いかけるつもりだった。 それでも地面に杭で打たれたみたいにその場で固まってしまった足は、やっぱり動いてくれなくて。 ようやく金縛りから解かれて振り向いた頃には、総悟の姿は車が待つ裏門へと消えて見えなくなっていた。 ざわ。ざわ、ざわ。 棒立ちになった足元を、冷えた北風が吹き抜けていく。 すっかり葉を落としてさみしくなった木立の群れを、掠れた音でざわめかせていた。
「 片恋方程式。45 」 text by riliri Caramelization 2011/12/08/ ----------------------------------------------------------------------------------- next