真選組屯所で葬儀が行われた日から、一月半以上が過ぎた朝。 真冬らしい澄んだ寒さと年末の慌ただしさに瞬く間に染まっていった江戸の街は、 クリスマスイブの日を迎えていた。 屯所の会議室に置かれた小さなテレビでは、いつものように朝のワイドショーが付けっ放しにされている。 今朝は年末最大のイベント日の朝に相応しく、イルミネーションも眩しいクリスマスのデートスポットが 紹介されていた。リポーターが夜景を楽しむカップルたちにインタビューしたり、 女性向け雑誌の編集者だという女性が、デートに最適な穴場の夜景スポットをお薦めしていたり。 そんな画面の左上に表示されている現在の時刻は八時五十五分。定例の幹部会議が始まるまであと五分だ。 室内にはすでに各隊の隊長と各部署の責任者が集まっているのだが、そこへ襖戸を勢いよく開け、 二人の隊士が滑り込んできた。 「おはようございます!」 「うーす」 「おう、お早うさん」 「おはようございます」 「はよーっす」 朝の挨拶が飛び交う中に書類一束を抱いて現れたは、声を掛けてきた一人ずつに 長い髪を揺らして頭を下げ、「おはようございます」を笑顔で返していく。 大きな瞳できょろきょろと室内を見回すと、ほっとしたような顔になった。 「あたしたちが最後みたいですね。よかったぁ、ぎりぎり間に合って」 「毎朝ご苦労さん、ちゃん。しかし今朝は危なかったなぁ、局長が来るまであと三分ってとこだぜ」 「今朝はいつもより十分早く起こしたんですよー。なのに総悟がやけにのんびりご飯食べてるから」 「何でェ、全部俺のせいかよ。姫ィさんだってテレビ見ながらちんたら茶ぁ啜ってたじゃねーかィ」 「沖田隊長、今朝も無遅刻記録更新ですねぇ。ここんとこずーっと遅刻なしじゃないですか」 「んぁー、そーだっけ。毎朝眠たすぎてこの時間のこたぁ覚えてねーや」 足を使って器用に襖戸を閉めながら、あまり興味もなさそうに沖田は答えた。あくびで涙の浮いた目を しぱしぱと眠そうに瞬かせ、寝起きでぼさぼさに乱れた明るい色の髪を掻き回しながら室内に入る。 イルミネーション輝く夜景を映すテレビの近くに、二人は並んで腰を下ろした。女性をターゲットにした その番組の話題は夜景のきれいなレストラン特集へと移り、はしばらく興味津々に眺めていたのだが。 「あ、総悟。ちょっとこっち向いて」 手を伸ばし、衿元からはみ出した沖田のスカーフをするりと引いた。もう一度中に戻し、 きれいに整えて入れ直そうとする。目の前まで近付いたの頭をじっと見下ろす沖田の視線は、 彼にしては珍しいほどに和らいでいる。唯一の肉親を亡くしてからというもの表情が曇りがちだった沖田だが、 が傍にいる時は、少年らしさの残る笑みを浮かべることも増えてきていた。 そんな二人を眺める奴らは――主に屯所住まいの淋しい独り者たちだが、一斉に羨望の溜め息を吐くのだった。 「あーあぁ、いーよなああぁ沖田隊長はぁ。ここんとこ毎朝さんに起こしてもらってんだろ? 男臭さで灰色一色の屯所の中で、あそこだけがキラキラ輝いて見えるぜ・・・」 「ひがむんじゃねーよ、イブに会う女もいねえ一人者が」 「うっせえよお前だっていねぇだろーが!」 「俺はいるぜ?今日は九時に会う約束してっからてめーらには付き合えねーや、いやぁ悪りーな」 「ばーか、風俗の予約は女に会うたぁ言わねんだよ」 沖田の耳には届かないようひそひそと小声で言いながら、彼らは互いを小突きあう。 カップルたちの甘い気分も最高潮に高まる日、クリスマスイブ。 この日を一人で過ごす侘びしさが嫌さに、間に合わせの即席カップルも誕生する恋の季節だ。 身も心も凍てつかせる真冬の寒さや、華やかな街並の雰囲気なんかの強力なバックアップ効果により、 普段は恋愛に縁がない奴にまで思いがけない恋のチャンスが訪れる、魔法の季節でもあるだろう。 だというのに、その好機を人々に分配する神様というのは、どうやらいまひとつ公平さに欠けた性分であるらしい。 そんな季節だというのに、屯所は相変わらずに女にさっぱり縁が無い男たちの巣窟だった。 「で、どーすんだお前ら。どっちに賭けんだよ」 「そりゃあ当然、沖田さんだろ」 「俺、沖田隊長に五口」 「あ、俺も俺も」 「俺も沖田さんに三口な」 潜めた声で言い合う彼らがこそこそと囲んでいるのは、上を切り取ったティッシュの空き箱だ。 その中には次から次へと、千円札や五千円札が無造作に投げ込まれていく。 師走に突入してからこっち、年末特有の慌ただしさに追われてうんざりしていた男たちは、 せめてもの気晴らしとして、ある賭け事に興じているところだ。 今回の賭けの対象。 それは目の前の二人――沖田とと、今はこの場に居ない男である。 「それにしてもわかんねーもんだよなぁ、女心ってのは。見るからに副長一筋だったちゃんがよー、 沖田さんの姉上さんの葬儀からこっち、ずーっと沖田さんにべったりだぜ」 「だよなぁ。役職が副長附きだってのに、ここんとこ副長とは必ずってくれー別行動だし」 顔を寄せ合った数人がぼそぼそと言い合う。 各隊の行動予定を決めるのは土方の役目だが、ここ最近の土方は、直属部下であるを 自分の職務に同行させることがほとんどなかった。彼女に事務作業を任せる時は一人で外出、逆に自分が 屯所で机仕事に専念する日は、必ずといっていいほど近藤の外廻りにを随従させている。 (副長があからさまに自分の専属隊士を避けている。) それは誰の目にも明白だった。おそらくそこにはミツバのことが絡んでいるのだろう、と影でささやく 者もあった。…が、さすがに事の真相を直接土方に確かめるほどの命知らずは現れていない。 「前は食堂でも必ず隣に座ってたけどなぁ。最近は顔合わせたってちらっと挨拶するだけだろ」 「ああ、お互い寄りつきもしねえもんなぁ。 ちゃんはなんだか気まずそうにしてるし、副長なんか彼女と目も合わせよーとしねーし」 などと言いながら彼らが怪訝そうに首を捻っている間にも、空箱にはどんどん賭け金の札が増えていく。 いったい誰が言い出したのか、会議室に集った殆どの奴らが参加しての大盛り上がりを 見せている今朝の賭け事――『屯所のアイドルを射止めるのは、はたして沖田なのか、土方なのか。』 その賭けの対象とされている三人は、屯所で今一番ホットな話題の渦中にある三人でもあった。 真選組初の紅一点としてが入隊して以来、隊士たちの間でさんざん激論が交わされてきたこの話題。 これまではの役職が副長補佐ということもあり、圧倒的な土方の優勢だろうという見方が主流だった。 ところがミツバの葬儀以降、形勢は一気に逆転している。はあの日を境にして、職務時間外はほぼ付きっきりで 沖田の世話を焼くようになっていた。元々仲がいい二人が屯所内を連れ立って歩く姿は、これまでもそれほど 珍しくはなかったのだが、あの日以降は、これまで以上に親密さを増した雰囲気の二人が 頻繁に目撃されるようになっている。おかげで「ミツバの事件をきっかけにしてが土方を諦め、 沖田へ鞍替えしたのではないか」という新たな見方が、今ではすっかり隊士たちの間に定着しつつあるのだった。 「副長のあれのせいで色々と悩んでそうだもんなぁ、さんも。 本人は普通に振る舞ってるつもりなんだろうが、笑顔がちょっと暗いっつーか」 「あぁそれ、俺も思った」 「そうそう、そーなんだよなぁ、なんとなく元気ねーから気になるよなぁ。少し痩せたよーな気もするしよー」 「おめーら判ってねーなぁ。それこそちゃんが副長から沖田隊長に乗り換えたってぇ証拠だろ? 姉さんを亡くした沖田隊長への同情心がいつのまにか恋心に変わっちまって自分でも戸惑ってる、ってあれだろぉ?」 乙女心ってのは複雑怪奇なシロモノなんだよ。 髪の寝癖を適当に撫でつけながら、遅刻ぎりぎりで会議室に現れた八番隊隊長――藤堂が訳知り顔に断言する。 妙に恐ろしげな実感が籠ったその口調で、周囲がどっと笑いに沸く。その場から一番遠くにいる 沖田とが興味深そうな目を向けてくるので、彼らはその目を気にしながらもしばらくげらげらとむせび笑った。 「そうかしら。あたしにはちゃんのあの態度、恋する女の子の態度には見えないけど」 「って武田、お前は賭けねーのかよ」 「ええ。いい女はね、男どものガキっぽい遊びには乗らないものよ」 醒めた口ぶりで答えたのは、オールバックに眼鏡の頑強そうな男。五番隊隊長の武田である。 部屋の上座から縦一列並びにされた長机になよっとした姿勢で肘を付き、つやつやと輝くピンクのネイルを 注意深い手つきで塗っている。すべての指を塗り終えた左手をしげしげと眺め、ふう、と 女らしい仕草で爪先に吐息を吹きかけた。その姿に吐き気を催した数人が口を押さえ、 「うぷっ」と苦しげな呻きを漏らす。それでも当の武田は涼しい顔だが。 「そーいやぁ沖田さん、今日からしばらく出張なんだろぉ?さんが同行しちゃったりしてぇええ」 「いやいや、期待を裏切るようで申し訳ありませんがね、沖田さんの同行者は私ですよ」 真選組の隊長というよりは、役所の生活相談課の窓口で老人の愚痴でも聞いているほうが様になりそうな細身の男 ――四十路も間近な六番隊隊長、井上が笑顔で名乗りを上げる。その手には例のティッシュ箱が収まっていた。 賭けの胴元役を最年長者の井上が務めるのも、この会議前の即席賭場では恒例だ。 「へ?源さんが?」 「ええ、局長から直々のお達しでしてね。今日から年明けまで武州に里帰りしてきます。 四十九日の法要は済みましたけど納骨はまだですし、家も墓地も管理する人がいませんからねぇ。 沖田さんは家を処分するつもりのようですから、私が売却の手続きや片付けをお手伝いすることになりました」 おかげで年末は妻と子供たちも一緒に、田舎でのんびり過ごせそうです。 穏やかな口調で説明を終えると、井上は隣の男に声を掛けた。 「いかがです、室長さんもたまには一口」 「いえ私は。賭け事は好みませんので」 黙って書類に目を通していた通信室の室長は、折り目正しい口調で答えた。 そうですか、とにこやかに井上が頷く。 それからやや声を張り上げ気味にして、財布を片手にわらわら集まってくる博打好きたちをけしかける。 「そろそろ局長副長が来られる時間ですからね、締め切りますよ。さあさあ、他に一口乗ろうって方はいませんか」 「はいはいはい俺っ、沖田さんに五口!」 「だよなー、どー見たってあの流れは沖田隊長にきてるよなぁ。俺も三口」 「じゃあ俺、副長に三十口」 何気ない声とともに、一万円札がひらりと箱に着地する。 ティッシュ箱に次々と、ぱらぱらと落とされる三万円。本日の賭け金の最高額だ。 気配もなくひょっこりと現れ、惜しげもなく金を投入した小柄な隊士――山崎に、否応なくその場の注目が集中する。 おや、と井上が目を丸くして山崎を見上げる。胴元の井上とティッシュ箱を囲んでいた奴等からは 「うおぉっ!?」と驚きのどよめきが起こった。 目を剥いた永倉ががばっと山崎に飛びつき、さらに長身の藤堂が人を押し分けて寄って来て、 後ろから彼の首を羽交い締めにしながら叫んだ。 「さんじゅううぅぅぅ!!?ぁにをフカシこいてんだてめっ、山崎のくせに生意気じゃねーか!」 「おいおいいーのかよぉ、お前まだ寝惚けてんのか?それとも昨日の酒でも残ってんのかぁ?」 「別に寝惚けてねーよ。酒も入ってねーっての」 憮然として眉をひそめた山崎が、興奮しきりな二人をうっとおしそうに押し返す。 胴元を務める井上は、持参したメモ帳にすらすらと名前と金額を書き留めた。 「副長に三十口・・・、と。いやぁ珍しく豪気に出ましたね、山崎さん」 「俺も副長に三十。と言いてぇところだが、五だ」 そこでぼそりと低く、どこかとぼけた響きのある声がして、箱に分厚い手が伸ばされる。 五千円札が一枚、新たに万札の上に重ねられた。土方を本命と見て賭けに出たもう一人は、 さっきから目を剥きっ放しの永倉の横に現れたスキンヘッドの男だ。 「今月はこれが目一杯だな。来月温泉行く約束しちまったもんだから懐が淋しくてなぁ」 「あらぁ、温泉ですって?あんたまだあの美人と続いてたの?」 山崎同様に土方を本命と見ているらしい原田の言動に驚き、永倉たちは二度目のどよめきを上げた。 右手のネイル塗りに余念がなかった武田が、へーえ、と驚いた顔を上げる。 塗り終わった指を乾かすために手をひらひら振りながら、意外そうに原田を眺めた。 「付き合い始めた頃はどーせすぐにフラれるだろとか言われてたのにねぇ。 よかったわねぇ物好きな子が見つかって」 「ああ、まぁおかげさんで。ところでおめーら、いいのかよ。こいつは山崎の一人勝ちになっちまうぞ」 原田は井上のメモ帳を覗き込み、納得いかなさそうに首を捻った。 沖田さんを本命扱いするお前らが不思議で仕方がねえよ、といった顔で周囲を見渡す。 「はぁ?一人勝ちだぁ?」 「いやぁねーだろそれはぁ、ちゃんのあの姿が見えてんのかよぉお前ら」 「見えてるに決まってんだろ。毎朝あれだけ一所懸命世話焼いてんだ、そりゃあ目に入るさ」 「いーんじゃねーのあれで。さんが沖田さんを起こしてくれれば、副長が毎朝雷落とす手間も省けるしさ。 だけどいーよなぁ、沖田さんはぁ。あーあぁ、俺も一度でいいからさんに起こしてもらいたいよ」 首に巻き付いた藤堂の腕を外しながら、山崎はうらやましそうに沖田を眺める。 二人を中心にしたざわめきはじわじわと室内に広がっていったが、山崎も原田も 自分たちの見立てによほどの自信があるらしい。部屋中の視線が集中しても、至って平気そうな顔をしていた。 「ぁんだよお前らどーしたんだよ、えらく余裕じゃねえか。あっ、あれか?何か裏でも取れてんのか!?」 どーなんだよ、ずりーぞ、と目つきを変えた永倉に真正面から迫られる。 その勢いに面食らって引き気味になりつつ、二人は何か含みのありそうな顔つきで互いに目を見合わせた。 「裏っていうかぁ、まあ、あれだよな、色々とね。なぁ?」 「ああ、まぁな」 山崎が指先でポリポリと頬を掻き、原田が眠たそうに欠伸をしながら同意する。 何の気負いもなく答えた二人に、今度は山崎と原田以外の全員が顔を見合わせた。 間もなく襖ががらりと開き、近藤と土方が姿を見せる。 部屋に入ってすぐに、土方は井上が手にしたティッシュ箱を目敏く見据えた。 しかし鋭い目つきで箱と井上に一瞥を与えただけ。そこに入った大量の札は目に見えていただろうに、 金の出所を追及することはなかった。規律に煩い鬼の副長も、屯所でこっそり横行している 隊士たちの賭け事については、ささやかな息抜きとして黙認しているらしい。 「おい、てめーらも席につけ。始めるぞ」 部屋の隅にいた沖田とを眺めることもなく声だけを掛け、土方は近藤の隣にどかりと腰を下ろして席を取る。 何の御咎めもなく通常通りに会議は始まり、最初に数件の通達事項が申し渡された。 その後で発表された本日の予定はといえば、やはり土方とが別行動を取るように組まれていた。 予想どおりな行動予定が咥え煙草の口元から出た瞬間、山崎は隣に座った永倉に 「ほらみろ」と言わんばかりな顔をされ、ごつんと肘鉄を食わされたのだった。
片恋方程式。 44
「失礼、しまぁーす、・・・・・・」 部屋の中に人影がないことを確かめて、その場でゆっくり深呼吸して。それでもどきどきしながら戸を開ける。 三日ぶりに入る副長室には誰もいない。 畳に散らされた報告書が数枚。文机には目を通しかけているらしい手配書の束と、携帯と、煙草の箱。 吸殻がうず高く積った大きな灰皿。一番上の層にぐしゃりと突っ込まれた吸殻には、小さな残り火がかすかに灯ってる。 ・・・今日は一日屯所にいる予定のはずだけど。どこに行ってるのかな。 廊下を気にしながら障子戸を閉めると、ぼんやりした暖かさと部屋中に染みついた煙草の香りに囲まれた。 ふぅ、と胸を撫で下ろしたけれど、なんだか物足りない気分で文机を見つめて、もう一度溜め息をつく。 誰もいないことにほっとした。だけど、誰もいないからがっかりしてしまう。どっちも本音だから複雑だ。 机の前で膝を折って、頼まれていた来月の各隊の勤務表を机の端に揃えて置いた。 そそそ、と遠慮がちに歩いて部屋の隅に向かう。 あたし専用の小さな折り畳み机が、すっかり埃を被って待っていた。 「・・・そっか。お城に行ってから一度も使ってなかったんだっけ・・・」 独り言をつぶやきながら、かたん、と机の足を起こす。被っていたほこりをさっと払う。 薄明るい障子戸の近くに置いてから、壁際の書棚に向かった。 傾きかけた古い棚から、未整理分らしい報告書の束を探して引き抜く。 棚上に放られた未処理の経費報告書も気になったから、そっちも手に取って机に戻った。 二か月前まで――あたしがお城の研修に行かされる前までは、この手の書類の処理は全部あたしの仕事だった。 これは今月分だけど、先月と先々月のぶんはどうしたんだろう。たぶん、土方さんが片付けてくれたんだろうけど。 「・・・そのくらい、任せてくれればいいのに。」 うつむいて書面を見つめるうちに、なんだか悔しいような、悲しいような気持ちになってくる。 そりゃあ先月は怪我のせいでほとんど屯所にいたけれど、それでも毎日机に向かっちゃうくらい忙しかったくせに。 なのに土方さんは、あたしをほとんど部屋に入れてくれなかった。 入隊して以来ずっと副長室だった仕事場は、近藤さんと土方さん、二人の話し合いで局長室に変更された。 言い出したのはもちろん土方さんだ。あのひとの考えをなんとか変えさせようと奮闘してくれた近藤さんは、 三十分の説得の末に結局あたしを押しつけられてしまって「どうしたもんかなぁ。ああなっちまうと 手に負えねぇんだよなぁ・・・」と、頭を抱えて困っていた。 それからは、あたしは滅多にこの部屋に出入り出来なくなった。 部屋に入れてくれるのは、処理が終わった書類を渡しに行った時だけ。 長めに口を聞いてくれたのは、事務仕事のことについて質問した時だけ。 そういう時以外は全部、障子戸越しの報告だけでいいって言う。 だからこの二カ月、副長附き隊士のはずのあたしは、ほとんど土方さんの傍に居られなかったんだけど―― 「・・・、」 部屋の外に気配を感じてはっとする。 廊下を誰かがこっちに歩いてくる。足音の速さで誰なのか判った。 とくん、と心臓が高く鳴る。あわてて回りを見回したけど、ここでどこかに隠れたり、 見え透いた言い訳なんかしたってあんまり意味が無さそうだ。 いっそ開き直ろう、くらいのつもりになって、報告書を胸に抱きしめながら障子戸が開く瞬間を待った。 勢いのある足音はあっというまに近付いてきた。がらり、と躊躇なく戸が引かれる。 廊下からの勢いのままに部屋へ入ってきたひとは、あたしを見つけると目を見開いて、驚いた顔をして足を止めた。 けれど、そんな判りやすい表情なんて、ほんの一瞬で消えてしまった。 鋭い目に浮かんでいた感情の色まで一瞬で消して、土方さんは視線をすっと畳に逸らした。 黙って机に向かうと、手にしていたファイルをばさりと放って。 「何やってんだ。午後は近藤さんと本庁に挨拶廻りだろ」 「はっ、はい、そうなんですけど、・・・出掛けるのは総悟を見送ってからでいいって、近藤さんが」 あたしはぎこちない笑顔を作って答えた。 目元がちょっと引きつったけど、これでも精一杯なんだから仕方ない。 文机の前に腰を下ろした土方さんは、新しい煙草を咥えながらこっちを見上げて。すぐに視線を逸らした。 視線が合っただけで笑顔が凍りつきそうになった。 屯所に戻ってきて以来、あたしに注がれるこのひとの視線はいつも冷たい。 「まだ屯所にいるのか、あいつは」 「支度が出来てないんです。さっき見に行ったらもうしばらくかかりそうだったから、 ・・・あの、あたし、ちょっとだけ時間が空いてるんです。その間にこれ、まとめておきますね」 何か言おうとしているのか、煙草を差した口許が薄く開きかける。 あたしは勝手に騒いでる心臓の音に困りながらどうにか息を潜めて、全身を竦めて指示を待った。 かちり、とライターが小さく鳴る。煙草の先に真っ赤な火を点けてから、抑揚の無い声が言った。 「そいつは来週でいい。別段急ぐようなもんでもねえ」 「・・・・そうですか、でも、・・・・・・ええと、じゃあ、お茶。お茶、淹れますね」 急いで部屋の奥まで行って、置かれたお盆に積まれたお茶碗や急須を手に取る。 「こ・・・今年は、去年の年末ほど忙しくないんですねっ。あの爆破テロの後は大きな事件もないし、 催事も少ないからスケジュールが緩くて少しは楽できるって、会議の後で永倉さんたちが、言って、・・・」 何か。何か話さなきゃ。 どうやって話を繋ぐか、それだけで頭の中を一杯にしながらあたふたと手を動かす。 だけど気が動転していたから、摘み上げた急須の蓋を、かちゃん、と湯呑の中に落としてしまった。 もっと慌てたら急須まで落としそうになって、手が滑ってお盆にぶつけて、今度は湯呑が倒れて―― がちゃ、がちゃん。けたたましい音が部屋中に響いた。 「〜〜っ。・・・・・すいません、手が、滑って、・・・・・」 土方さんはそれでもこっちを見てくれなかった。何も言ってくれなかった。 机の上の何かを探しているみたいだ。がさがさと、掠れた紙の音を立てながら腕が動いてる。 お盆に置き直した急須から手を放す。深くうつむいて、潤みかけた目で茶器を見つめた。 ずっと続いている沈黙が気になる。こんな時にはいつも怖気づいてしまう自分がすごく情けない。 きっともう、このひとは、あたしのこんな真似に付き合うつもりがないんだ。 何か音が鳴ったくらいじゃこっちに目を向けようとしないくらいだ。あたしにすっかり厭気がさしているんだろう。 ――そう思われても仕方ないと、自分でも思う。 あたしは一カ月前にもこれと同じことをした。二週間前にも同じことをした。 だけど結果はいつも同じ。いつも決まって、無言の背中で拒まれる。 だからあたしは、これからどうなるのかも知ってる。土方さんはそのうちに振り向いて、あたしの顔から 目を逸らしたままで、面倒なことをする部下を追い払うのに都合のいい何かを、どうでもよさげに言いつけてくるんだ。 「こいつを勘定方に届けろ。終わったらあいつんとこで荷造りでも手伝っておけ」 腕だけをこっちに向けて、局長と副長の連名で認印を押した書類をすっと畳に滑らせた。 深く伏せた目線は机の書類に向けられたまま。ほんの一瞬すらこっちを見なかった。 ―― ほら。やっぱり今日も同じ。 胸の奥がざわついて落ち着かなくて、膝の上でスカートを握りしめた。 無理に笑った目元が微かに引きつり始める。笑顔が少しずつ引っ込んでいくのが、なんとなく自分でも判った。 ・・・判ってるんだけどな。避けられてるって。 土方さんのこの態度も、さっきの命令も、「出てけ、もう来るな」って言われてるのと同じだって。 「・・・・・・・・っ、あはは、ええと、・・・あたし、ここにいたらだめですか?」 笑いながら、ちょっとふざけた口調で言うつもりだった。 なのに、出てきた声はおかしいくらい緊張していた。 「だってあたし、最近ずっと近藤さんにつきっきりだったじゃないですか。土方さんのお手伝いは 全然してなかったから、経費報告の上げ方とか、他の仕事の手順とか、わ、忘れちゃいそうで・・・!」 「・・・・・、他に、お前に用はねぇな」 土方さんは、ふっ、と短い溜め息のように煙を吐いた。白く細い螺旋がゆらりと部屋を昇っていく。 行け、と低めた声に告げられて、それっきりだった。持って来たファイルを開く。机に頬杖をついた。 一瞬でそっちに集中したんだって、黙ってページを捲るあの背中を見ているだけで判る仕草だ。 取りつくしまもなく無視されて、部屋には紙を捲る音だけが響くようになって。 ぱら、ぱら、とその掠れた音が鳴るたびに、土方さんの気配がよそよそしく、剣呑に張り詰めていく。 あたしはただ、あたしを遮断して仕事に没頭していく隊服姿の背中を、何も出来ずに困りながら見つめるだけ。 そのうちにまるで、自分がこの部屋に漂う空気にでもなってしまったような気がした。 ・・・ううん。空気のほうがまだましだ。 だって、もしもあたしが空気なら、黙ってこの部屋に居ることくらいは許されるんだから。
「 片恋方程式。44 」 text by riliri Caramelization 2011/12/04/ ----------------------------------------------------------------------------------- next