「――よくも残ってたもんだな。こんな色街のど真ん中に、こんな幽霊屋敷が」 土方が眼前の建物を見上げて抱いた感想は、どれだけ良く言おうにもそれ以上に格上げ出来そうにないものだった。 松葉杖を支えに車を降りた坂の街。ここは昨夜の連続爆破テロでは五番隊が駆けつけたラブホテル街だ。 目の前にある建物の周囲――狭くて急な坂道沿いに連なる街並みには、 明るく小綺麗な色合いの、女性受けの良さそうな小さめのホテルがずらりと立ち並んでいる。 かつてのこの街は色を買う街だった。 着飾った女郎たちの艶姿で華やぐ遊郭や、ぽつりぽつりと佇む連れ込み宿が沿道を占めた街。 しかし、この急な坂沿いをみっしりと埋めていた花街の面影も今は無い。 若者向けな明るい印象に整備された、近代的だが特徴の薄いホテル街と化している。 そんな中、一昔前のこの通りに漂っていた妖しさの名残を残し、時代の波にすっかり取り残されているのがこの廃屋だ。 異国の娼館風に造られた五階建ての建物は、当時こそ洒落た連れ込み宿としてもてはやされたのかもしれないが 今となっては前代の遺物。そのしっかりした造りや剥げかかった外壁の派手な色合いは、 ホテル街に突如として出現するこの廃墟のおどろおどろしさや古めかしさを引き立てていた。 「・・・・・?」 立入禁止と書かれた黄色いテープを跨ぎ、右脚を引きずりつつ廃屋へと進む。 玄関口までの短い石畳を松葉杖の先でこつこつと打ちながら歩けば、 黒いブーツの先に何か硬い感触がかつんと当たった。見下ろした足元には潰れかけたアルミのバケツが転がっている。 雑草が伸びて荒れ放題な玄関周りはよく見ればゴミも多く、隅には雨ざらしになった段ボール箱が重ねられていた。 こんなもんが転がってるのも、昨日の爆破の影響なのか。怪訝に思いながら足元のバケツを眺めた。 しかし玄関口から出てきて彼を迎えた山崎によれば、この荒れようは今に始まったものではないと言う。 「十数年も昔の話らしいんですがね、ここで心中事件があったんだそうです。 そのおかげで客足が落ちて廃業に追い込まれて、以来買い手がつかないまま放置されてたらしいですよ」 去年はホームレスが住みついてたそうで、これはそいつらの置き土産らしいです。 脚元に転がるバケツを横へ蹴り飛ばし、近所のホテルの従業員から収集してきた情報を 他にもあれこれと語りながら、山崎は観音開きの硝子戸を開ける。先に中へ入った土方の目に飛び込んできた 玄関ホールは暗く狭い。現場保存のために配置された隊士たち数人の挨拶を受けながら、 埃が数センチは積もっていそうな澱んだ匂いがする廊下を進んでいく。大理石風の白っぽい 石材で出来た狭い階段を上がる。一段、一段と杖を先導させて階段を昇るうちに、普段は表情に乏しい 土方の顔が苦痛に歪むようになる。包帯に覆われた右脚の傷口が、みしみしと痛みに軋んでいた。 「屯所はどうです、首尾は上がってるんですか」 「首尾もなにもありゃしねえよ。どいつを叩いたってしみったれた検挙歴しか挙がりそうもねえ」 途中の踊り場で足を止め、箱の側面を弾いて出した煙草を咥えながら土方は答えた。 屯所では今朝から手の空いた奴を総動員し、昨夜起きた爆破テロ事件での逮捕者聴取に当たっている。 昨夜は各隊とも現場に現れた不審者ほぼ全員を捕縛している。唯一逃がしたのは荻園地区の路上に現れた 正体不明の集団だ。覆面を被った謎の一団は八番隊との応戦中に突如として後退、統率のとれた動きで 煙幕を張ってその場から車で逃走している。それ以外の数十名を屯所の独房で拘束中なのだが、 ほとんどは金に困った攘夷浪士崩れ、もしくは街のチンピラらしい。 「割のいい日雇い仕事、…なんて嘘臭せぇ謳い文句を真に受けて、テロに加担させられちまう奴らだ。 いちいち聴取するのも時間の無駄だが、・・・まぁ、そこそこで切り上げるしかねえだろうな」 「奴らに話を持ちかけたっていう元締めどもの線はどうなんです。何人かは根城が割れたって聞きましたけど」 「ああ、昼前に三件。どこも揃ってもぬけの殻だ」 (ほんの数時間で大金を手に出来る、旨い儲け話がある。) そんな甘言で逮捕者たちに話を持ちかけてきたという元締めたちは、土方が現在聞き及んでいるだけでも数人に昇るが 爆破騒ぎからすでに一夜が経過していることを考えれば、どいつもとっくに姿を消していると推測された。 屯所の独房を埋めている逮捕者、およそ数十名。その全員がおそらく雑魚だ。 奴等からの新たな情報は期待できそうにない。話を持ちかけてきた元締めからの線も、どうやら見込めそうもない。 となれば、昨夜遅くに組織のトップである警察庁から「この件に関しては一切の情報を提示出来ない」と 通達されてしまった真選組が、他に為す術など無いに等しい。事件の全貌を把握することもなく、 このままお蔵入りとなってしまう可能性が高かった。 せめてもの救いは昨夜の爆破による犠牲者が一人も出なかったことだが、 ・・・それもこの事件の妙なところでもあるんだよなぁ。 山崎は怪訝そうに眉をひそめる。踊り場で煙草に火を点している土方を見上げつつ、首を傾げた。 爆破テロの被害を受けた十件の現場。そのどれもが爆破当時は無人だったのだ。 ――人口の少ない郊外の地ならまだしも、人々が数多に、有象無象にひしめいているこの江戸で。 「・・・妙な事件ですよねぇ。電話で予告してきた奴が犯人だとしたら、そいつは一体何がしたかったんですかねぇ」 「さぁな。この手の犯行にありがちな線は、派手な騒ぎで俺らを間抜けに躍らせるため、ってやつだが」 「そういや副長、昨日車で言ってましたよね。これは何かを隠蔽するための陽動じゃないかって」 土方は山崎の問いに答えることなく、窓辺から自然光の注ぐ二階を見上げて煙を吐いた。 何か考え込んでいるような、納得がいかなさそうな顔つきだ。 眉をしかめてこつんと杖を突き、白い階段を億劫そうに進んでいく。 松葉杖を鳴らしながら先を昇る背中を、山崎はちらりと見上げる。真選組の頭脳と例えられる怜悧な男が この不可解な事件をどう捉え、限られた情報からどんな思索を張り巡らそうとしているのか。 ――もちろん興味はあるのだが、それは一介の監察でしかない彼には想像のつかないことだった。 だが、このヤマを巡る状況の厄介さならば、その身をもって感じている。副長からの命令でこの現場に向かう前に、 山崎は他の爆破現場にも三つ四つ、自ら足を向けてみた。そこでまず不思議に思ったのは、どこの現場にも 報道車が一切姿を見せないことだ。ゆうべはあれだけの騒ぎだったってのに、一台もだ。 ・・・何なんだろなぁ、不気味さすら漂うこの徹底された報道規制は。 昨夜だって、急行した劇場の上空にはTV局の取材機とおぼしきヘリが旋回していた。 なのに、空から撮り放題だったはずの火災現場の映像が、今朝のニュースでスクープ映像として 取り上げられることはなかった。あの劇場での爆発は、火器の不始末から起こった火災として小さく短く扱われただけ。 新聞もテレビも ――影響力の大小を問わず、どのメディアでも、江戸で爆破テロが多発したという気配すら 伝えようとしていない。 つまり、幕府の圧力によって事件は黙殺されたってことになる―― ぴぴっ。ぴぴぴっ。ぴぴっ。ぴぴぴっ。 ぼんやりと考え込んでいた山崎が、軽快に鳴り続けるその音にびくんと身体を揺らして反応する。 鳴り響いたアラーム音には聞き覚えがあった。音が漏れているのも明らかに自分の隊服のどこかからだ。 「何だ、この時間に目覚ましかけてんのかお前」 「いや違いますってこれはぁ、・・・あれっ、ケータイどこに入れたっけ?こっち、じゃなくてぇえ」 おたおたとあわてた仕草で携帯を出し、手早く操作して音を止める。 鳴り響いたアラームは今朝セットしたものだ。画面の時計は三時ちょうどを示している。 今日の屯所では、隊士たちを総動員した取調と併行して葬儀が行われていて、 朝に食堂で耳にした予定によれば、間もなく出棺の刻限となるはずだった。 山崎がこんな昼間にアラームをセットした理由は、ミツバの棺が屯所を離れて火葬場に向かう時間を迎えたら、 せめてその場でわずかながらの黙祷を捧げようと思ったから、・・・なのだが。 「・・・副長。いいんですか。もうじき三時ですよ」 小さくひそめた声で、山崎は控え目に問いかける。 葬儀の予定はこの人だって知らされているはずだ。しかし山崎の目に映る土方の姿はといえば、 彼の言葉がまったく聞こえていないのか、それとも聞こえないふりをしているのか、 ――それすら見る者に悟らせようとしない、普段通りに冷徹そうな無表情だった。 (・・・ったく、頑固な人だよなぁ。) それまでは、ここ数日で目にしてきたことなど忘れたふりで土方に接してきた山崎だったが、 思わず足が止まる。眉が八の字に下がる。 階段を昇りきって二階の廊下を急ぐ土方を見上げ、つい困りきった顔になってしまう。 ――まぁ、困り顔の理由の半分は、この上司の梃子でも動かない頑なさに呆れてもいるせいでもあったのだが――、 あの埠頭での土方の姿を思い出せば、今、目の前で黙り込んでいる男の様子を茶化すことも、見過ごすことも出来なかった。 二晩前のあの夜。ミツバの婚約者が居る武器密輸現場に殴り込む直前の土方は、 内に秘めた怒りと殺気を全身から滲ませていた。あの殺気立った姿から土方の本音を垣間見てしまっただけに、 山崎は一見非情そうなこの反応を責める気にはなれなかった。しかし、口より手が早い上司に一発殴られるのを覚悟で 「本当に戻らなくていいんですか、後で後悔したって知りませんよ」としつこく念を押したくなるくらいの やきもきした思いもある。 だが今は職務中だ。複雑な気分を溜め息ひとつで切り替えて、次の報告を口にした。 「それとですね。現場に妙なもんが散乱してまして」 軽い足取りで階段を上がり、振り返った土方の元まで走り寄る。 隊服の腰ポケットから山崎は小さく透明な袋を探り出した。 「こいつです、これが例の部屋の床に散乱してました。 ぼろぼろの粉状になっちまったやつが殆どで、これは比較的形を留めているほうです」 その中に収まっているものに土方の視線が止まる。 薄い破片。幅が数センチにも満たない、何かの破片だ。 暗い光沢を帯びた黒い欠片。まだらに入った青や白の紋様から見て、これは蝶の羽ではないのか。 しかし季節は秋も深まる十一月。常識的に考えて、これが江戸の空を舞っているような時候ではない。 「この季節に蝶か」 「ええ、こんな時期外れなもんが大量に、しかも廃屋の中で飛んでたってだけでも妙な話ですけどね。 ちょっと触ってみてください」 一欠けの羽が入った袋を受け取る。指紋を残さないよう、白い手袋を嵌めてから手に取った。 指に挟んだ途端に土方の表情が変わる。目の高さまで持ち上げ、食い入るような視線でじっと見つめた。 ――蝶の羽にしては硬すぎる。 ぴんと張りつめた手触りは、まるで強化プラスチックをうんと薄く伸ばしたような具合だった。 本物の羽であれば指先に感じられるはずの、細かな繊毛に覆われているような感触もない。 「えらく凝った造り物だな」 「そのようで。ここの最上階でも同じもんが見つかってます」 「・・・・・・・、もう鑑識は着いたのか」 「はい、この階と最上階で破片を採取済みです」 山崎が薄暗い廊下を先導し、狭い廊下の突き当たりのドア前で足を止める。 遠目からでは判らなかったが、近寄ってみればそのドアは、ほんのかすかに震えていた。 かたかたかた。 何かに揺らされているかのように、ほんの小刻みに揺れている。 「この部屋です」 錆びたドアノブをがちゃりと回せば、ぎいぃっ、と耳触りな音を上げてドアが開く。 山崎の背後に立った土方は、きつく眉間を寄せて目を細めた。 目を焼くほどに眩しい光が、突如として眼前に差し込んでくる。それと同時に、周囲を冷えた風が吹き抜けていく。 隊服の裾や髪が軽く躍る程度の勢いだが、急な風音が起こした耳鳴りのせいで、山崎の声は幾分霞んで聞こえていた。 「すぱっと刃物で切ったような断面が、警察病院で起きたあれと酷似しているそうです。 硝煙反応が無いところも、破壊された瞬間に音がしなかったあたりも同じですね」 二人の目の前に広がる光景。 それは十数年の長きに渡って放置されてきたホテルの一室ではあるのだが、ある一か所において異常な様相を呈していた。 部屋の壁一面が半壊している。大きくぶち抜かれていた。 直径2メートルを越えるほどの大きさで、丸くぽっかりと穴が空いているのだ。 大穴からはラブホテル街の景色を見渡せるし、冷たく乾いた風を運んでくる秋の青空を望むことも出来る。 穴のせいで風が通り放題になった部屋の中には家具が元々残っていなかったようで、がらんとした室内には 煤けて端が破れたカーテンがはたはたと揺らめいているだけだった。 土方はやや足を引きずり、松葉杖を使うことすら煩わしいと思っていそうな顔つきで速足に進んだ。 黒髪が風に躍る下で眩しげに細められた目が、刺すような視線の強さで大穴の断面を確かめる。 なめらかに――実になめらかに、わずかな凹凸すら残すことなく何かに削がれた壁の断面。 爆破されたとは思えないなめらかさだ。かといって、建設工事用の強力なカッターで切断されたのかというと、 ・・・いや、それも違うだろう。 そもそも、切り落とされたら残るはずの大きな壁面自体が、この付近のどこにも残されていないときている。 「たしかに似てやがるな。あれと」 「はい。さっき来た鑑識の責任者も、痕跡は同一と見て間違いなさそうだと」 隣に並んだ山崎が、土方の様子を横目に窺いながら告げる。 土方は口端に挟んだ煙草を噛みしめ、ふっ、と苛立ちを混じらせた溜め息とともに煙を吐いた。 異様な現場と眼下に広がる街並みを、二人は風に吹かれながら黙って見つめる。 その表情はそれぞれに違っていたが、互いの脳裏に浮かぶ人物の姿は同じだった。 大量の手配書の中でが唯一反応を示し、黒鉄組の出入りでようやく捕らえた男。 怪我を負って担ぎ込まれた警察病院の一室で、土方にの過去をほのめかしてきたあの男の姿だ。 奴が病室から忽然と消え、あたかもその代りであるかのように、セキュリティの厳重な警察病院に残された謎の破壊痕。 あの不可思議で大きな空洞が、この廃屋の一室にもそっくり同じに出現していた。 しかも今回は前回と違い、建物が破壊された瞬間を目撃した者が居るのだ。 派手な爆発音が轟いた昨夜のホテル街には、狭い路上に大勢の見物人が詰めかけていた。 そんな野次馬たちを建物の上階から見下ろしつつ、炎上する爆破現場を不安な思いで見つめていた人々が ――この界隈のホテルで働く従業員たちからの目撃証言が、今朝から次々と上がっている。 似たような外観の小綺麗なホテルが連なる坂の中腹には、 そこだけ頭が飛び出した高層ホテルが建っている。 この廃墟が佇む位置からは坂の上方に当たるその建物を指し、山崎は告げた。 「あそこです、あのホテルの十階。 あそこから爆破されたホテルを見ていた掃除係のおばちゃん達が、全員揃って証言してます。 ここの壁が一瞬でぱちんと、まるでしゃぼん玉でも弾けるみたいに消えちまったって」 

片恋方程式。 43

ホテル街の現場を山崎に任せ、土方は車で折り返し屯所に戻った。 白菊の花輪が並ぶ門前を潜り、次第に強まっていく線香の香りを感じながら玄関を抜ける。 すれ違う隊士たちの視線に普段とは違う気遣いが含まれていることには気づいてたが、目礼を受けながら 平然と廊下を進んだ。葬儀が行われている広間の方向を避け、遠回りをして自室へ戻る道を辿る。 自室のある棟に入り、角を一つ曲がれば部屋に面した廊下に出る、というところで床を打つ松葉杖の動きが止まった。 そこで彼を待ち受けていた姿を認め、煙草を噛みつぶしてしまうほど苦い顔になってしまう。 華奢な身体はいつものミニスカートの隊服ではなく、漆黒の喪服に包まれている。 長い髪はうなじのあたりで纏め上げられ、普段の彼女とは違う大人びた印象をもたらしていた。 口端を曲げたむっとした顔で土方はその姿を見つめていたが、がこちらへ近づいてくるうちにあることに気付いた。 大人びて映るのは服装のせいだけではなかった。しばらく見なかった間にこいつがやたらと痩せたせいだ。 「どこ行ってたんですか」 土方はと目を合わせることもなく、無言で横を擦り抜けようとする。 ところがすれ違った瞬間に隊服の肘のあたりを掴まれ、逃がさない、とばかりに袖をぐっと引かれてしまった。 やめろ、と言おうとして彼が振り向くと、はすかさず口を開いて。 「広間の祭壇、明日片付けるそうです。その前に一度くらいお焼香に来てください」 憂いを帯びた大きな瞳が真剣な目つきで見上げてくる。 見る者が惹き込まれそうになる強い視線を、はまっすぐ土方にぶつけてきた。 拒絶するタイミングを逃してしまった土方は、不服そうな顔つきで口籠る。 視線をすっと庭に逸らし、何か模索しているような間を空けてから、眉根を寄せてぼそりと言った。 「そっちは終わったのか」 「・・・終わりましたけど。あの、土方さん。忙しいのはわかりますけど、一度くらい手を合わせに・・・、」 土方の目線がに注がれる。隙を与えない厳しい目つきが、まっすぐに彼女を睨みつけてきた。 はっとしての口が止まる。すぅっと背筋に寒気が走って、声が出なくなってしまった。 こんな顔をするこのひとを前にも見たことがある。お城での研修行きを命じられたあの朝だ。 「随分と思い上がったもんだな」と突き放すようにぴしゃりと言われて、直後に屯所を追い出された。 あの時と同じ表情だ―― 「・・・だめ、ですか」 化粧をほとんど施していない顔がさらに顔色をなくし、淡い色の肌はいっそう白く褪めていく。 は自分を恥じているかのような表情で深くうつむく。小さく震えた唇がきゅっと噛みしめられた。 「終わったんだな」 「・・・・・・・・・。はい。 さっき御親戚の方とお友達が、武州からお別れに来られて。今、近藤さんが客間でお相手してます」 そうか、と土方が低く落とした声音でつぶやく。 その何気ない響きに含まれた感情の重みを感じて、はいたたまれなさそうに喪服の肩を竦めた。 何か言いたげな目つきをして、握った隊服の袖を見つめる。それからゆっくりと顔を上げ、彼の目をじっと見上げてくる。 不安げに瞬いたその瞳を、土方は煩わしそうな表情で眺めた。 痩せたの顔はいくぶんやつれて見える。 こいつがこうも痩せちまうほどに思いつめた原因が誰にあるのか。 ――そんなことは問うまでもなく明らかで、こうして見ていると自分に対する歯痒さが募る。 と同時にその歯痒さは、に対する苛立ちにも変わっていくのだ。そんな自分の身勝手さにも反吐が出るが―― 「今日明日はこっちに構わねぇでいい。お前は近藤さんの手伝いしながら総悟についてろ」 「え、明日もですか?で、でも、」 「命令だ。いいな」 抑えきれなかった感情は仕草の勢いに現れてしまう。表情を硬くした土方は腕を振り、 ばっ、とやや乱暴に、隊服の袖に取り縋っていた手を払う。 悲しげに瞳を潤ませてその場に立ち尽くしているを残し、急いた動きで松葉杖を突きながら 振り返ることなく自室を目指した。 武州からの弔問客を門前まで出て見送ってから、近藤は祭壇の設えられた大広間へと戻ることにした。 戻る途中で受付役を務めた勘定方の隊士たちとの打ち合わせを済ませ、出動がなく手の空いている隊に 催事後の片付けを命じる。それから食堂に寄り、客人用の食事を用意してくれた調理場の女性たちに礼を言う。 女中頭の元まで赴き、普段の倍は忙しかった女中たちの労を労うことも忘れなかった。 「まあそんな。わたくしたちはほんのお手伝いをしたまででございます。 局長こそお疲れさまでございました」 女中たちとともに葬儀後の片付けに奮闘していた女中頭は、深々と頭を下げて逆に近藤を労ってくる。 屯所に住まう隊士たちの生活を取り仕切っている初老の女性は埃避けに覆っていた手拭いをするりと解き、 かすかに眉をひそめて尋ねてきた。 「沖田さんはどうしていらっしゃいますか」 「いやぁ、相変わらずです。俺ももしつこく寝ろって言ってんだけどなぁ・・・」 「今朝方早くに、わたくしが仏前にお邪魔した時も起きておられました。 あのご様子ではいつか倒れてしまわれるのではと心配で」 「まあそのうちにばったり寝ちまうでしょう。 あれはガキの頃からそうなんです。眠くなったらどこでも勝手に寝ちまう奴ですから」 笑って答えると、女中頭の小皺が刻まれた目元にも安堵したような微笑みが浮かぶ。 それから細々とした打ち合わせを済ませ、その場を離れて広間へと向かった。 大股に廊下を進む近藤は、はぁー、と大きく背伸びしながら息を吐く。 すうっと深く息を吸い込むと、今日一日の気疲れも少しは吐き出せたような気分になった。 これで葬儀のひととおりを無事に終えたことになる。ようやく一息つきながら、香の匂い漂う廊下を戻っていく。 名目上の喪主は当然のことながら沖田なのだが、実質的な喪主役を務めたのは彼だったと言っていい。 姉が亡くなる以前から不眠気味だったらしい弟は、昨日今日と棺の前にぼんやりと座したままだ。あの様子では おそらく一睡もしていないだろうし、近藤としてはそんな沖田にこれ以上の負担を掛ける気にはなれなかった。 加えて沖田は年も若く、葬儀を仕切った経験もない。喪主などという立場に向いていないことも、 彼を子供の頃から見守ってきた近藤はよく知っていた。 疲れ気味な苦笑を浮かべ、堅苦しい紋付袴姿の衿元を緩めながら廊下を急ぐ。 羽織を脱いで肩に引っ掛け、辿り着いた広間の障子戸に手を掛けた。 すっ、と半分ほど戸を開けたのだが、そこでふと手を止める。 中央に遺影が飾られた祭壇。その前に座る女の姿を眺め、不思議そうに目をぱちりと瞬かせた。 長い睫毛を伏せ気味にして、やわらかく微笑んでいるミツバの遺影。 初対面が葬儀の場となってしまった女性を見上げたは、ぽつりぽつりと何かを話しかけていた。 数十畳もある広い部屋での話し声は、入口前に立つ近藤の耳には聞こえない。彼女が遺影の女性に 何を話しているのかは判らなかった。しかしその声音だけは彼の元まで流れてくる。 近藤が来たことには気づいていないのか、は話し続けていた。喪服の胸の前で握り締めた 両手には、何か白っぽいものが――封筒らしき薄いものが納められていた。 たまに声を詰まらせ。たまに泣きそうな笑顔になり。はミツバに語り続けている。 まるで長い間交友を温めてきた友達に話しかけているような、親しみを籠めた様子で―― 「・・・、?」 邪魔をするようでためらわれたが、近藤はがらりと障子戸を開けて中に入った。 びくっとの肩が揺れ、声が止まる。手にしていた封筒をあわてて衿元に押し込んだ。 「おっ、お疲れさまでした・・・!あ、あのっ、お客様はもう帰られたんですか」 「おう、どの人も電車で日帰りだっていうからな、駅まではうちの車を使ってもらったよ。 ・・・ところでお前、今、何か話しかけてなかったか?」 「い、いえあのっこれは、え、ええと、・・・・・・あたしも総悟のお姉さんにお別れをと、思って、・・・」 は顔を赤くしながらごにょごにょと口籠る。 その反応を不思議に思いながらも、近藤は広間に進み入った。 祭壇の端に置かれた火鉢とその前で丸くうずくまっている姿に気づいて、おっ、と驚きの声を上げる。 「ようやく寝やがったなぁ、この頑固者が」 「はい。お客さんたちの目がなくなったら、とたんにころっと寝転んじゃって」 広い部屋の隅に置かれた火鉢に寄りそうようにして、沖田はぐっすり眠っていた。 熟睡しきっているのか寝息すら漏らさない。寝不足のために青白く醒めた横顔は、 瞼がぎゅっと固く閉じられていた。毛布を被って顔だけを出した身体はころんと丸く、 まるで昼寝中の猫でも見ているようだ。 足音を立てないようにゆっくりと近寄り、眠る沖田の目の前で膝を折ってしゃがみ込むと、 近藤は可笑しそうに目尻を下げた。 「ははっ。こいつ、ガキの頃と同じ顔してやがる」 抑え気味な笑い声が広間に響く。 温かいその響きにほっとしたのか、も表情をほころばせて小さく笑った。 近藤はどさりと畳に腰を下ろす。肩から降ろした羽織を沖田に掛けてやると、 ぽんぽん、と毛布の上からその肩を叩きながら言った。 「いやぁ参った参った。代理とはいえ気疲れが多いもんだなぁ、喪主ってぇのは」 はい、とが笑ってうなずく。 祭壇前から立ち上がり、脚を崩してだらりと座った近藤の横までやってきた。 ・・・総悟もそうだが、こいつも痩せたな。 見慣れない喪服姿から伸びる首筋の細さを眺め、近藤はすまなさそうに目を細めた。 「お葬式ってすごく大変なんですね。あたしなんて総悟の隣に座ってただけなのに疲れちゃいましたよ。 遺族側に座るのも初めてだったし、お悔やみを言われるのも初めてだし」 「そうか、俺は武州のじいさんがぽっくり逝っちまった時以来だなぁ」 言いながら祭壇に目を向ける。しばらく無言で遺影を見つめた。 急に黙り込んだ近藤が心配になったらしい。は遠慮気味に声を掛けてきた。 「近藤さん。近藤さんもほとんど寝てないですよね。あの、夕飯まで休んだほうが」 「なに、俺は二日三日寝なくたって心配ねえよ。・・・ただなぁ、まだ夢でも見てんじゃねえかって気がしてな。 最初の喪主役を務める場が、まさかミツバ殿の葬儀になるとはなぁ・・・」 しみじみと感慨深げな声が、独り言のようにつぶやいた。 近藤は再び黙り込む。 ゆらりゆらりと立ち昇る線香の煙で淡く霞んでみえる遺影に向かって、胸の中で話しかけているような顔をしていた。 それから心中の湿り気を振り払うかのように数回頭を振ると、くるりとに振り向いて。 「で、――。やっぱ来ねぇか、トシの奴は」 「すみません。さっきも呼びに行ったんですけど、・・・」 「いやいや、お前が謝るこたぁねえさ」 「・・・また余計なことしちゃった。あたしの言うことには耳を貸してくれないって、判ってるんですけど」 何かきついことを言われたのかもしれない。 気落ちした様子ではうつむく。温かな火鉢にかざした自分の手を、潤んだ瞳がじっと見つめていた。 近藤は軽く眉を寄せ、そんなこたぁねえさ、と宥めるように答えた。 そんなはずがない。こいつの言い分がトシにとって余計なことであるはずがねぇんだ。 今日は素気無く拒まれたのかもしれない。それでもこの娘が一度はあいつを動かしたのだ。 怪我をおして現場へ赴こうとした奴の元へ駆けつけ、一度決めたら頑として動かないあの馬鹿の足を止めてみせた。 火災の煙が充満しつつあったあの劇場から、姉を失くして呆然としている総悟を連れて戻ってきた。 他の誰でもなくがしたことだ。山崎を始めとする他の隊士たちも、俺ですら成し得なかったことを はしてのけたのだ。 ・・・そのことがどんな意味を持つのか、トシの態度に落ち込む本人はちっとも気づいちゃいねぇようだが。 「近藤さんからも言ってあげてください。お焼香しろって」 「俺かぁ?・・・うーん、そいつぁ駄目だな。俺が言えばあいつは聞かざるをえねぇからな」 やれやれ、と頭を掻きながら、苦笑気味に近藤はつぶやく。 その言葉を聞いては目を丸くしたが、次の瞬間には嬉しそうに微笑んだ。 ――俺が言えばトシはそれを局長命令と取るだろう。それではあいつがミツバ殿の仏前に向き合う意味がない。 には近藤がそう思っているように聞こえた。 それは何かとても近藤らしい、包容力の深さを感じさせる言葉に聞こえたのだ。 近藤は身じろぎすらなく眠り続ける沖田の横にごろんと寝そべり、少し苦しげなその寝顔を見つめながら言った。 「どうしたもんかなぁ。いくらヘコんだってよー、あの頑固さはそうそう変わるもんじゃねえんだよなぁ・・・」 「・・・ほんっと頑固ですよねー、土方さんて。一度決めたら誰に何言われても動かないし。 たまに変なところで真面目すぎっていうか、なんだか偏屈なとこもあるから困っちゃいますよ」 「そうそう、そーなんだよなぁ。 俺も人のこたぁ言えねえけどよー、あいつだって俺のこたぁ言えねーくらい困った奴なんだよなぁ、実は」 ごろん、と畳に仰向けに転がって頭の下で腕を組み、ははは、と近藤はおおらかに笑い飛ばす。 つられたようにも笑う。何か土方のことで思い出すことがあったのか、 喪服の袖で口許を覆ってくすくすと、心から楽しそうな顔で笑い続けた。 久しぶりに眺めるの笑顔を嬉しく思って、近藤も表情をさらに緩める。 重なり合った笑い声に場が和む。葬儀の慌ただしさで凝り固まっていた気分がほぐれる。 そのせいで彼は、自分でも驚くようなことを口にしてしまった。緩んだ気分に乗じて、つい、 口のほうまで緩んでしまって。思ったことをそのままに―― 「はそれでもトシが好きか」 何気ない口調で言い終え、数秒経ってから、寝転んでいた近藤はがばっと畳から跳ね起きた。 自分がうっかり口にしてしまったことが、じわじわと背筋に染みてきたのだ。 (何言ってんだ俺は!仏前で、しかも、よりにもよって、ミツバ殿の仏前で!) 気づいてしまえば背中がざわざわと騒いで全身にだらだらと汗が噴き出て、とても寝てなどいられない。 はっとしてに振り向けば、ついさっきまでは屈託なく笑っていた彼女は ――瞬きもなく彼を見つめていた。ぱちりと見開いたままの目がすっかり放心しきっている。 「・・・、いや!いやいやいやいや!!わわっ、悪かった、仏さんの前で訊くことじゃねえな!?」 近藤があわてふためいて正座する。手を突いて畳に額がくっつきそうなほど頭を下げて、 「いやすまねえ、まったくえらい失言だった。こういうところがどうしようもねぇんだなぁ俺って奴は・・・!」 「・・・はい」 へ、と土下座状態で頭を下げた近藤が気抜けした声でつぶやく。 おそるおそる頭を上げ、眉を下げた困りきった顔での様子を伺った。 はそんな近藤をはにかんだような、少し困ったような笑顔で見つめる。 細い手が着物の衿元をきゅっと握る。そこに仕舞われていた封筒がかさりと鳴った。 頬をほんのり染めながら、こくん、と大きく頷く。 ぱちんと軽く炭が爆ぜる温かな火鉢の中に、恥じらいを含んだやわらかな視線をゆっくりと落とした。 そう。だから仕方がない。少しくらい冷たくされたって構わない。 あのひとの気持ちがこれからも変わらずに、失くしたひとをいつまでも思い続けるとしても。 余計なことばかりする馬鹿な部下のことなんて、これまで以上に見向きもしてくれなくなっても―― 「好きです。・・・自分でも困っちゃうんですけど。それでも好きなんです」 それを聞いた近藤は軽く息を詰めた。 の口から土方への思いを打ち明けられるのはこれが初めてだった。 それも、一言ずつに素直な感情を籠めた声で、はっきりと思いを口にしてきた。 少女のように拙くてぎこちない口調ではあったが、 ・・・改めて思いを口にすることで、彼女が自分の覚悟を今一度確かめようとしているようにも聞こえた。 言葉もなく見つめてくる近藤に、はもじもじと帯のあたりを弄りながら恥ずかしそうな照れ笑いを返す。 間もなく驚きから解放された近藤は、我に返ったような顔になった。 深く寝入っている沖田の姿に視線を移して、ぼりぼりと後ろ頭を掻き始めて。 「うん。そうか。・・・・・・・・そーかぁ、・・・」 そーかぁ、と、まだ驚きを引きずっているような上の空な口調で繰り返す。 ぱちぱちと炭が爆ぜるかすかな音だけが広間に響いて、そして。 「ありがとうな。よかったよお前が戻ってきてくれて」 「えっ、・・・」 ぱん、と正座した腿をがっしりと大きな手で掴み、近藤は軽く頭を下げた。 局長に頭を下げられてしまったはあわてて手を振って、「ええっ、そんなぁ、やめてくださいよぉ」と ひどく困った顔になる。じりじりと火鉢の前から下がりつつ小さくかしこまっている彼女を 親しげな笑みで笑い飛ばすと、近藤はようやく足を崩して居直った。 「トシがあの調子だからな。辛い思いをさせちまっただろうとは判ってるんだが。 ・・・それでも俺ぁ本当に助かった。恩に着るよ」 「あはは、いーんですかぁ。そんなこと言ったら高くつきますよ」 「いいさ多少の出費は。で、何がいい、飯でも何でも好きなもんを言ってくれ」 「じゃあ今度お酒奢ってください。総悟もみんなも一緒に」 「おぉ、いいぞ。そうだなぁ、年明けにでもぱーっと、派手に行くか」 明るくそう宣言すると、背後をちらりと見遣る。 祭壇で微笑む遺影に笑いかけながら口を開いた。 「総悟や俺らがいつまでも湿気た面してたんじゃ、ミツバ殿に叱られちまうからなぁ」 あの人ぁそういうひとだ。 独り言のようにそう言うと、微動だにせず眠る沖田の頭に大きな手を置いた。 は黙ってその仕草を眺めていたが、何かに気付いたような顔になる。 黒い着物の裾に軽く手を添え、すっと立ち上がった。 「あたし、総悟の枕とお布団持ってきます」 「ああ、頼む」 たしかに掛けているものが毛布が一枚きりでは、総悟も風邪をひくだろう。 寝ているのが火鉢の傍とはいえ、なにしろ部屋がこの広さだ。 しかもこいつ、この様子じゃ朝まで起きそうもねえしなぁ。 そんなことを思いながら自分も眠気を感じて、近藤は伸びとともに盛大な欠伸をした。 ふたたび畳に寝転びかけたのだが、部屋を出ていくの後ろ姿を見送るうちに、ふとあることを思い出して。 「なぁ」 「はい?」 「お前、さっき、仏前で何を話しかけてたんだ?」 さっきも不思議に思ったことをもう一度尋ねてみる。 するとはほんの束の間、何かを思い出したような顔つきで微笑んだ。 「それはひみつです」 女同士のないしょの話、ですから。 そう答えて、祭壇に飾られたミツバの遺影を見上げる。 微笑もうとしているのか、それとも泣きそうになっているのか、 どちらなのか判らない不思議な表情で目を細めると、障子戸の向こうに姿を消した。

「 片恋方程式。43 」 text by riliri Caramelization 2011/11/22/ -----------------------------------------------------------------------------------       next