片恋方程式。 42

鞘がない。 腰に提げていたはずのものがいつのまにか消えていることに気付いたのは、 握っていた刀の鍔からぽたぽたと、大粒の雫が垂れ落ちるようになってからだ。 消火剤の薬品臭さがほのかに混じった、スプリンクラーの雨が降る室内に彼は居た。 三つほど離れた部屋で今も燃え上がっている爆破火災の高温と煙。その異変を火災センサーが感知して この雨が降り始めたのは、おおよそ何時頃からだったのか。 それをもしここで誰かに問われたとしても、彼は答えられなかっただろう。 沖田は覚えていなかった。 三十分ほど前からだろうか。わからない。もっと前から降っていたような気もするし、ほんの数秒前だったのかもしれない。 壁面の一つを占めた大きなガラス窓の向こうには、空を切るプロペラの爆音を響かせているヘリが一機。 近隣のビルの上を、炎の光に誘われた羽虫のように旋回している。 銀の機体の側面には何か赤いロゴが入っていたが、視界が暗すぎてその字が読めない。 熱風に巻かれて飛んでくる火の粉や炎の赤い眩しさがたまに窓から差し込んでくるが、 照明の落ちた室内は闇と水音に沈んでいる。 あれは消防隊の放水だろうか。 建物全体を揺らしている小刻みな振動――この階のどこかに強烈な水圧をぶつけている振動以外には、 何の物音もなければ人の声もない。この階には俺以外に誰もいないはずだ。 刃向かってきた賊は目についた端からすべて片付けた。それに、少し前に、 大勢が階下へ駆け降りていく足音がしていた。もう誰かがわざわざここまで上がって来ることもないだろう。 沖田は大振りに右腕を上げる。ぶん、と必要のなくなった刀を放り投げた。 くるくると回転した刀は床に落下し、ぱしゃっ、と暗い飛沫が跳ねる。 ヘリが方向を変え、ライトの眩しさが窓を貫く。部屋の中を強い白光が照らし、 殺風景でずぶ濡れなこの部屋の光景を、ほんの束の間だけ浮かび上がらせた。 がらんと広くて何もない部屋。ここに立っているのは彼一人だけ。 他にも人が居るには居たが、どいつも二度と動くことはない。どれも沖田の手に掛かって血を撒き散らし、 床に転がる屍ばかりだ。こんな血生臭い光景が広がっているのはこの部屋だけというわけではなく、 彼が一人で最上階まで駆け上がってきた道程―― 地上階からこの四階に至る階段と、そこから伸びる 柔らかなカーペット敷きの通路に沿って、真っ暗な劇場内には倒れ伏した屍の道が出来ている。 目の前に立ち塞がった奴らを何も考えずに斬り捨てては進み、何も考えることのないままに最上階まで辿り着き。 そこで目に入った奴らを片っ端から仕留め終えると、彼はぴたりと歩みを止めた。 ――寒い。 消火水のシャワーを浴び続けている頭が痛いほどに冷たい。じっとりと水が染み込んだ隊服の肩がずしりと重い。 関係者の控え室として使われているがらんと広い部屋を、均等に、無機質に濡らしていく人工の雨の 細かく軽い感触が、深くうなだれた彼の首筋をやわらかく刺してくる。 沖田は床の一点をただじっと見つめて立っていた。 足元の浅い水溜まりからは、鉄錆のような血臭が匂い立ってくる。床の屍体から流れ出たり、室内の四方八方に 飛び散って、そこかしこにこびりついていた赤黒い血の飛沫。冷えて固まりかけていたその赤を、 スプリンクラーの霧雨は淡々と洗い流していた。 ひどく機械的に、そっけなく、すみやかに。 床にしがみついていた命の痕跡はその無慈悲さに抗えず、流れに溶けて跡形もなく消えていった。 肩が重い。隊服が重い。脚が重い。身体が重い。   薄目を開けた沖田は、ぼんやりと、まるで全身の感覚が麻痺しているかのような関心の薄さで思う。 ここから動こうという気はすっかり失せていた。 全身を覆っている冷たさのせいか、なんとなく息苦しくはあるけれど、息をする必要を特に感じない。 こめかみや頬を伝って口の中まで流れ込んでくる妙な味の水が、舌の上にひたひたと溜まっていく。 不快な何かが入り混じった嫌な味だ。するりと喉の中まで流れ込んでくるその味が気持ちが悪い。けれどどうでもいい。 淡々と顔を濡らしているこの霧雨はいつまで続くのか。 ・・・・・・どうでもいい。このままこの部屋で溺れてちまってもいい。どうなったって構わない。 こんな時にどうすればいいか。どうすれば少しは楽になれるのか。 誰もが本能的に知っていることを、勿論彼も知っていた。 いちいち考えるまでもない手軽さだ。 ただ泣けばいい。気が済むまで泣きじゃくって悲しさに溺れればいい。 ただそれだけで少しは楽になれる。彼は身をもって知っていた。姉が息を引き取ったあの瞬間がまさにそうだった。 炎と爆音が吹き荒れた港から、急いで病院に駆け戻った夜明け前。 あれからまだ一日経ってもいないが、――身体中に巡らされていた管も呼吸器も すべてが取り払われたミツバと、集中治療室で二人きりの最期を迎えた―― あの時だ。 もはや虫の息だった姉が、ほんのわずかな残りの命と引き換えに伝えてきてくれた最期の言葉。 呆然とそれを聞き届け、あっというまに冷え始め、人形のように固まっていく薄い肩に縋って、彼は泣いた。 自分が居る集中治療室が一面ガラス張りになっていて、常に廊下からの視線にさらされていることも忘れて。 人目も意地も何もかも忘れて、子供のように泣きじゃくって。 泣いて、泣いて、泣いて。 一生分泣いて。 そうして身体中の水分が枯れてしまうほどの涙を流しきった後には、心身ともに疲れ果ててはいたが、 気分がわずかに和らいでいた。胸が張り裂けるような悲しみや感情の渦が身体から離れることこそなかったが、 心持ちどこかがすっきりしたような気がしていたのだ。 ところが間もなく弊害は起きた。 涙に暮れれば暮れたぶんだけ、染み込んだ涙で身体が重くなっていく。心が重たくなっていく。 かなしさを涙に変えて浄化したぶんだけ、失くした痛みは骨身に染み込んで迫ってくる。 新たに生まれる悲しみの重さは、泣いて気を晴らした以前のそれよりも、ずっしりと重苦しく比重を増していく。 埋めようにも埋められない喪失感は、空虚な胸を痛みとともに埋めていく。 透明で一点の濁りもないその悲しさや空っぽさは、眠りに落ちて意識を失くしでもしない限りは しつこく俺について回るらしい。どうやったって避けようがないんだろう。つまりどう足掻いても逃れようがないのだ。 自分だけが巨大な水槽に放り込まれ、冷えた水の中で酸素不足であえいでいるような、この寒々しい息苦しさからは。 沖田はうつろな視線を光る窓に移した。 窓の外では空を切る爆音が鳴っている。一度は飛び去って消えたヘリが、いつのまにかまた戻ってきていた。 壁一面に並ぶ大きな窓が、ヘリからの白いライトで照らし出される。 眩しく光ったガラスに見慣れた隊服姿がぽつんと映っている。 濡れた髪を額に貼りつかせたその青白い顔には、失くしたばかりの姉の面影も映っていた。 それまでは頑なに引き結ばれていた彼の唇がぶるっと震える。わずかに開いて小声をこぼした。 「・・・・・姉上、・・・」 ――そうだ。姉上はもう居ない。笑って一人で行っちまった。 俺のやってきたことすべてを許して。 頼りねぇ不肖の弟が今際の際に情けなくぶちまけた泣きごとを、すべて大事そうに残さず抱えて。 あっけなく逝っちまった。最期にやんわりと釘を刺して、笑って逝った。 振り向かずにこのまま進めって。 自分のことになんか構わず前に進めって。そっと背中を押して、いなくなった。 「・・・本当にこれでよかったんですかィ。姉上・・・・・・」 力無く声を絞り出し、窓ガラスに映った自分を憎々しげに見つめる。 こいつのどこが自慢の弟だ。とんでもねえや。 それはどう大目に見たって身内の欲目ってぇやつだぜ、姉上。 あんたぁ俺を買い被りすぎたんだ。 こいつはてめえのことしか考えられねぇ馬鹿なガキだ。ほら、見てみろよ。今も情けねぇ面してこっちを睨んでやがる。 硝子に映る自分を大きな瞳が睨みつける。 どこにもぶつけようのない憤りとやるせなさが、沖田の中には湧いてきていた。 誰もいないこんなところで立ち尽くしたまま動けない、自分の不甲斐なさに腹が立っていた。 そうだ。俺だって判ってんだ。わかってる。判ってんだ。 こんな俺を姉上が喜ぶはずがない。 あんたの死に目を見届けたきり、亡骸の前でうずくまって動けなかった憐れな弟。 目の前の敵を斬り伏せてしまえば、あとはここで抜け殻のようになっているだけの不甲斐ない弟。 わかってる。判ってんだ。こんな俺を姉上が喜ぶはずがないってことくらいは。 だけど。 だけどわからねぇ。姉上。どうしても判らねぇんだ。 最期に姉上は言い残した。幸せだったと、微笑んで逝った。 俺のおかげで――俺たちのおかげで幸せだった。何の嘘も偽りも無さそうな目をしてそう言った。 姉上。やっぱり俺にはわからねぇや。 あんたが最期に声を振り絞って言い残してくれたそれが、言われた俺にはどう足掻いたって判りそうもねぇんだ。 そこまできっぱりと言いきれるというのなら、どうかもう一度戻って教えてくれ。 何の見返りも求めず、ただ惜しみなく愛情を注いでくれたあんたに、俺はいつ、いったい何を報いてきたのか。 あんたはあったと言ったけれど、俺にはそいつが見つけられねえ。 判らねえ。そんなもんがどこにあったというのか。 だってそうだろう。俺がやってきたことなんて、あんたの脚を引っ張ることばかりだったじゃねぇか。 俺さえいなければ普通に手に入れられるはずだった幸せを、次々と、無闇に捨てさせてきただけだ。 ・・・そうだろう? 旅立ちの白装束を纏い終えた軽い身体が、粛々と持ち上げられ、そっと棺に納められる前。 薄化粧を施されていく透きとおりそうに白い顔を、ぼんやりと眺めながら考えた。 だけどいくら考えたって駄目だ。一生かけて考えたって判りそうにねえんだ。 俺の進む道に。骨身まで血に染め上げられたこの道の、いったいどこに。 ――儚く散ったあんたの命に報いる何かを。 短くて優しすぎた一生を穏やかに笑って終えることの出来る何かを、俺は、俺のどこに見出せばいいってぇのか。 「・・・・・・教えてくだせェ。姉上・・・・・・・」 噛みしめるようにつぶやいて、沖田はふたたびうなだれる。スプリンクラーのさざめく雨音に任せて 聴覚を遮断し、深い沈黙に籠った。 しかしそれも束の間、ふっ、とその頭が小さく揺れる。 誰かに呼ばれた気がしたのだ。 ひどく遠くから、壁か何かを通して響くようなくぐもった声で。取り乱した女の叫び声に、総悟、と。 ずぶ濡れの頭がのろのろと動き、沖田は重たげに顔を上げる。 額に貼りついた蜂蜜色の前髪からぽたぽたと滴るしずくが、彼の目元へと伝っている。 曇って生気を失くした瞳は、目に映るすべてを拒否しているような暗さだったが、 いつのまにか部屋の戸口に立っていた男の姿を認めて気配を変えた。 ――両手に刀を握り締めたその男は、この犯行に加わっている浪士の一人なのだろう。 しばらくの間、床の死体の一つに目を見張っていたが、沖田を激しい目で睨みつける。 部屋の中へと擦り足でじりじりと迫りながら、昂った声で問いかけてきた。 「・・・おい小僧。お前か?俺の弟を、・・・そいつを殺ったのは・・・!」 「・・・・・」 「答えろよ、幕府の狗が・・・!答えろ!お前かって訊いてんだ!」 沖田はぱちりと瞬きを打った。 どこか遠くを見ているような表情で視線を自分の手許に落とし、さっきまでは刀を握っていたはずの右手を 不思議そうに見つめる。 ひどくゆっくりと、緩慢な動作で、雨に打たれる床を見回していく。 自分がどこにいるのかを今さらながらに確かめようとしているかのように。自分がまだ生きていることに、 今になってようやく気付いたかのように。 「てめえ・・・・・!」 怒りに目の色を変えた男がだっと踏み出し、沖田に向けて躍りかかるべく刀を頭上に振りかざす。 ところが数歩も駆けることなく、その脚元がぐらりとよろけた。 よろける寸前、男の足元で何かが光った。横一線に走ったかすかな光の明滅を、沖田の目はぼんやりと捉えていた。 ぐぉっ、と呻いた身体が膝から沈み、ばしゃっっ、と高い水飛沫を上げて床に倒れる。 男は血の流れる足首を押さえて苦しげにのたうち回った。どうやら足首の腱を切られたらしい。 その背後に刀を手にした細い人影が立っていた。人影は男が握っていた刀をすかさず奪い、遠くへ放り投げると、 ぱっ、と長い髪を振り乱して振り返って―― 「総悟・・・!」 入口から飛び込んできた人影は、声を弾ませて呼びかけてきた。 泣きそうに歪んだその口許がぎこちなく動く。よかった、と一言、噛みしめるようにつぶやいていた。 うつろな視線で彼女を見つめて、沖田はぽつりとつぶやいた。 「・・・・・・、何で」 「総悟。迎えにきたよ。帰ろう・・・!」 ――何でここにあんたがいるんでェ。 沖田が喉の奥から発しかけた小さな声など気にも留めずに、は彼に飛びついた。 だらりと脇に下がっていた右手を取り、ぎゅっ、と温かな両手の中で握りしめてくる。 「だめだよ。・・・こんな時に、こんな暗いところに、ずっと一人で居ちゃだめ。 こんなのぱぱっと終わらせて、屯所に帰ろう。早く帰ろうよ。ミツバさんが。ミツバさんが、・・・」 自然とミツバの名を出してきたが、何かに気付いたような顔で口をつぐむ。 その顔を眺めて、小さな不思議さが――ほんの小さな違和感が、沖田の胸に湧きあがった。 その違和感の正体が何なのかを冷静に追いかけられるほど、彼の意識は鮮明ではなかったが。 「・・・・・っ。お姉さんが。待ってる、よ・・・?」 涙声を詰まらせながら言い終った途端に、の眉尻がへなあっと下がった。きつく噛みしめた唇が震えている。 スプリンクラーの雨を浴びる前から涙に濡れていた顔を、ぽろり、と大粒の涙が伝う。 たちまちにぐしゃぐしゃと崩れていったその表情を、ひどく遠いもののような目で眺めて。 沖田は軽く首を傾げ、無気力な声音で問いかけた。 「・・・何であんたが泣くんでェ」 「〜〜〜っ、・・・・・」 「あーあぁ。こいつはまたガキくせぇ泣きっ面だねィ。綺麗な顔が台無しだ」 「い・・・いいのっ。 あんたが。あんたたちが、素直に泣こうとしないから、・・・っ。だから泣くの。代りに泣くの・・・!」 ――へぇ。そいつはどうも。 けどねぇ姫ィさん。そりゃあお節介もいいところな話だぜ。 肩を竦めたいような呆れ気味な気分でそう思うと同時に、沖田は今のの言葉から、違う匂いも嗅ぎ取っていた。 あんたたちが、とは言った。 いかにも俺の「姫ィさん」らしい一言。鈍感で残酷な一言だ。 何の意図もなく、迂闊に漏らされた複数形。が泣くほど案じているのは俺だけじゃないと、 その一言が暗に告げている。ところが、いつもなら聞いただけで胸がじりじりと嫉妬に疼くはずのその一言に対して、 沖田の胸にはたったひとかけらの感情も去来しなかった。 ただ「ああ、もう野郎の顔は見てきたのか」と、ぼんやりした意識のどこかが認めるだけだ。 「総悟。行こう。帰ろう。帰ろうよ。ミツバさんが心配するよ。下で近藤さんが待ってるよ。 一番隊のみんなだって、原田さんたちだって。あたしだって、・・・!」 涙に声を詰まらせたの手が、細長い何かを差し出してくる。 差し出された両手に載ったものにぴたりと目を止め、沖田は苦しげに微笑んだ。 目の前に現れ出たもの。 それは、このビルの何処かに落としてきたはずの彼の鞘だ。 「・・・どうして、・・・」 「え?」 「どーして判ったんでェ。俺のもんだって」 「判るよ」 どうして。 この手の武具の装飾なんて、色も柄も似たり寄ったりで大差はねぇのに。 はっきりしない頭のどこかで不思議に思い、沖田は目の前の鞘を曇った目でじっと見つめる。 はそんな沖田を見つめ、肩を小さく竦めて悲しげに笑った。 「他の人の鞘は覚えたりしないけど、総悟の鞘は判るよ。 いつも後ろから見てたから。あたしが走ってる時は、いつも総悟が前を走ってくれるから。必ずその鞘が目に入るから、・・・」 血に濡れて装飾の色が変わってしまった鞘と、その鞘と同じくらいに汚れた赤黒い手。 その両方を見つめ、ふと気が付いたように顔を上げて、鞘を差し出してくる女の姿に目を見張り。 ――沖田はそこで、今の今まで気付かなかったことにようやく気付いた。の全身が血にまみれていることに。 は一人で駆け上がってきたのだ。 ここへ来る手段は俺が上ってきた階段だけ。足元に死体と負傷者が障害物のように転がっているそこは、 拮抗し合う浪士と隊士で芋洗い状態になっていたはずだ。 そんな中を、はたった一人で駆け上がってきた。 ただ俺が心配だってぇだけの理由で。火の手が上がった最上階まで、自分の身の危険も顧みないで。 自分よりも一回りも二回りも大きな男たちの壁を刀ひとつで切り拓き、浪士たちの抵抗を血塗れになって突破しながら。 息を切らして階段を駆け上がり、ここまで辿り着いた。 何の変哲もない鞘を目印にして。身内を失くして自棄になった馬鹿を追いかけて―― 「・・・・・・・・どーして帰ってきちまったんでェ」 ふっ、と力の無い笑いをこぼし、彼は重たい口をわずかに開いた。 「ちぇっ。これじゃあ計画が台無しだぜ」 「・・・・・・」 「これで少しの間はガキ臭くふさいで拗ねていられると思ったのによー。山崎や他の奴らをイビり倒して、 近藤さんに甘やかされて。堂々と不貞腐れて、毎日サボリ倒していられるはずだったんだぜ。 ・・・けど。あんたに横でびぃびい泣かれてたんじゃ、そうもいかねーや」 頭の片隅にすら浮かべもしなかった言葉たちが、嘘のようにすんなりと流れ出てくる。 しかもその口調が、普段と何ら変わりのないほどとぼけきっている。沖田本人でさえも驚いてしまうくらいの自然さだった。 ・・・案外とこいつが俺の本音だったのかもしれねぇや。 沖田はすっと手を伸ばす。まだどこかで彼の様子を疑っているような、真っ赤な目で見上げてくる女から、 血染めの鞘を受け取った。 「・・・お帰り、姫ィさん」 一歩近づき間を詰めて、空いている手をに伸ばす。 スプリンクラーの雨に湿りかけてきた髪は、毛先や頭の天辺が浴びた返り血で凝り固まっている。 その固まりに指を入れ、梳いて流しながら顔を近づける。からは見えない角度にすっと回り込んで、 指を広げた手で頭を抑えると、耳の真上あたりに軽く唇を落とした。 手とは違う温かさと感触を感じたせいか、はびくっと身じろぎしたが、沖田は揺れた頭を手で抑えて 彼女の動きを封じてしまった。 の髪のしっとりした感触と甘い香りが心地良い。ずっとこうしていたい。 そう思いながら長い髪の流れに頬を寄せ、目を閉じる。 一人で雨に打たれていた時と同様に、消火剤の匂いもわずかに感じはしたが。あの時ほど不快には思えなかった。 「・・・・そ。総、・・・・・・・悟・・・?」 何事もなかったような顔を作っての顔を覗き込めば、瞼が真っ赤な目は、ぱちりと大きく開かれていた。 瞳を丸くして彼を見上げ、たじろいだ様子で隊服の衿元をもぞもぞと弄り、赤くなった顔を引きつらせている。 「い、今、あんた、・・・・・・・・なっっ。な、何か、しなかった?」 「はぁ?何のことでぃ。それよりどーだったんでェ、城の研修は」 「そ。それは、まあ、色々とその、大変だったっていうかぁ。・・・!違うってば、そうじゃなくてぇ」 「聞かせてくだせェ。何でもいーぜ。教官にイビられた話でも、奥女中のお局さまにイビられた話でも」 「イビられたりしてないよっ」 赤い頬を膨らませ、握り拳を振りかざして否定するの、感情剥き出しな子供っぽい顔が可笑しい。 雨に濡れた子犬がやるような仕草で左右に頭を振り、前髪からぽたぽたと垂れ落ちてくる雫を払うと、 沖田はにっと目を細める。意地の悪そうな顔で彼女を覗き込んだ。 「話してくれよ。何でもいいから」 「〜〜っ。言っとくけど、総悟が面白がるような話なんて何もないからねっ」 オチ無しの間抜けな失敗談なら、いくつかあるけど。 口を尖らせて白状したを眺めて、今度は何の偽りも無理もない表情で笑った。 重苦しい悲しさがほんの少しだけ混ざった、泣きたくなるような嬉しさが胸に湧き上がってきていた。 ――面白さなんて求めちゃいねーや。何だっていいんだ。 今は何だっていいから、あんたの声が聞きてーんだ。 「帰ろーぜ。」 ひらりと軽く上げた手を、沖田はの目の前まで差し出した。 差し出された手の先はスプリンクラーの雨に洗い清められていたが、爪先だけは未だ赤く染まったままだ。 その爪先を眉を曇らせて見つめたは、今にも泣き出しそうな顔になった。 「うん」と大きく頷いて、血に濡れた細い手を伸ばしてくる。 沖田は何のためらいもなくその手を取った。 姉上が待ってる。 全身に重く垂れ込めてくる無気力さに邪魔されながら、胸の中で唱えたその一言に縋って踏み出す。 捨てた刀を浅い水たまりから拾い上げれば、黙ってついてきたの手が、そっと彼の手を握り返してきた。 その手が伝えてくる思いに応えて、冷えきった指に力を籠めて握り返す。 今は喪失感に凍りついている彼の心臓。いつしかそこまで辿り着き、時間をかけてゆっくりとその冷たさを 溶かしてくれそうなものが―― 血の通った人の手の柔らかな肌触りや温かさが、握った手の中で確かな熱を生み始めていた。

「 片恋方程式。42 」 text by riliri Caramelization 2011/10/02/ -----------------------------------------------------------------------------------       next