『あー、こちら二番隊!今消防が到着した! 倉庫から銃撃してきた不審者どもが十数名。殆ど捕らえたが三人逃した。逃げた奴らを第一小隊が追跡中!』 ノイズの多い旧型の無線機から飛び出てくるのは、二番隊隊長、永倉の自棄になったような怒鳴り声だ。 車のフロントガラスを通した目の前では、のろのろと道を塞いでいた大通りの渋滞がたちまちに左右に割れていく。 甲高いサイレンで夜の街を裂き、回転灯の真っ赤な光を撒き散らしながら進むパトカーは、 数百メートルほど先に見える、この通りの突き当たりに建つ建物を目指していた。 車内からも視認できる近さに迫ってきた、洋館風な造りの劇場施設だ。暗い上空に鉛色の煙と渦巻く炎を噴き上げている。

片恋方程式。 41

『従業員は俺らが着く前に避難したとよ。死人も怪我人もいねーみてぇで何よりだけどよー、 んだよこれよー、一体何箇所仕掛けてんだぁ!?敷地中がドカドカと鳴り放題で、うるせえったらありゃしねーぜ』 「お疲れー。仕事早ぇーじゃん、二番隊」 『おぅ、その声は山崎かぁ?どーよ、そっちは』 「うちはそろそろ現場に着くとこ。ああ、こっちはとっくに消防が到着してるけど」 手にした無線のマイクに喋りかけながら、運転席の山崎は握ったハンドルに身体を寄せて前屈みになる。 そこから覗き込むようにして、すでに放水を始めている二台の消防車と、劇場の真上の夜空を焦がしている炎を見上げた。 公衆電話からの犯行声明が届けられてから既に四時間半。 湾岸に広がる廃工場地帯を皮切りにした無差別爆破騒ぎは、市街地のあちこちへ飛び火している。 「早く見つけてね。君たちがぐずぐずしていると、江戸が火の海になるかもしれないよ」と 悪戯を楽しむ子供のようにけしかけてきたという、犯人らしき男からの犯行予告。 その予告通りに、かなりの広域に渡って爆発が起こっていた。 仕掛けられた爆弾はどれも時限式のようで、それぞれの爆破現場によって、仕掛けられている個数にひどく偏りがあった。 例えば、永倉のいる町外れの建築資材倉庫では爆音がひっきりなしに鳴り続けているのに対して、今、山崎が向かっている 繁華街にある劇場での爆発はたったの一回だけ。この劇場は十件目の現場で、最後の爆破現場となった地点でもある。 もっとも、犯人らしき電話の男は、爆弾を何箇所に仕掛けたのかを口にしなかったのだから、 これからまた違うどこかで、新たな爆発騒ぎが起こる可能性もあるのだが。 戦力を江戸中の至るところに分散させられた真選組の隊士たちは、夜の市中を文字通り東奔西走させられていた。 爆破の被害を被った場所には、今のところ何の関連性も見出せていない。おかげで犯人の目的が特定しづらく、 これから爆発が起こるのではないかと予想される現場に、前もって先回りすることも出来ずにいた。 爆破現場となった場所は実にさまざまだ。 倒産して使われなくなった廃工場だったり、誰もが名前を知っている食品大手企業のビルの屋上だったり。 夕方までは子供たちが野球を楽しんでいた川沿いの草野球場もあれば、人口が密集した住宅地のど真ん中でも起こっている。 幕府の公的機関や交通機関を狙うような、政治的テロである可能性は薄い。特定した企業や組織の 利益損失を狙っての犯行でもなさそうだ。増え続ける爆破地点に右往左往する警察を 嘲笑っているような、一見して何の共通点も見られない爆破地点の選択。それが結果的には真選組の 現場への到着の遅れを招き、また、現場へ赴く隊士たちの混乱も招いていた。 車を走らせる山崎の目の前では、黒い爆煙が劇場周辺の夜空を濛々と曇らせている。 見通しはやや悪くなっているが、ここから眺める限りでは、広々とした劇場前に混乱はあまりなさそうだ。 爆発騒ぎに集まってきた野次馬の人垣は消防隊によって整理されているし、地上から放たれた水が 建物の屋根を舐めている灼熱の炎を徐々に消し止めようとしている。あの爆破によって、 劇場は最上階にある「出演者控え室」を木っ端微塵にされたらしいが、幸いなことに、ここにも人的被害は出ていない。 今夜は何の公演予定も組み込まれておらず、ほぼ無人の状態だったからだ。 警備員たちの避難も終わり、今、あの建物の中にいるのは、警備を突破して最上階に立て籠もっている 攘夷浪士らしき一団と、この騒ぎを収めに向かった一番隊の隊士だけ。 危なかったよなぁ。もしもこの騒ぎが起こったのが今夜じゃなくて、 ここで一週間後に行われる、人気アイドル寺門通ちゃんの全国ツアー最終日の夜だったら。 ・・・そんなことはあんまり想像したくないな、と山崎は眉を曇らせた。 『あーあーちくしょー、うるっせえなぁもぉ!!鼓膜が破れちまいそーだぜ』 無線機の向こう――二番隊からの通信の音声には、今も絶え間なく轟く爆音が混じっている。 無線を通せば花火の打ち上げ音のように聞こえなくもないが、現場では、どぉぉぉん、と 地を揺らして鈍く鳴り渡っていることだろう。 「いいんじゃないのー、賑やかでさぁ。季節外れの花火見物だと思って楽しめば」 『よかねーよ、どこが楽しいんだよ、こんな風情のねえ花火大会』 隣に浴衣の別嬪さんでもいるならともかく、居るのは見慣れた野郎どもだしよー。 半ば本気でうんざりしているような愚痴の声。 侵入した交差点でハンドルを右車線に切りながら、山崎はくすりと笑って表情を和らげる。 とはいえその顔つきはげっそりと疲れきっているし、目の下にはくっきりした青黒いクマが浮かんでいた。 顔のやつれは完全に寝不足のせいだ。おとといの夜なら多少なりとも眠る時間があったのだが、 とある事情で呑気に眠る気にはなれなかった。昨日は浪士崩れのゴロつきどもとの斬り合いで夜が明けて、 結局一睡もしていない。 『っと、そうじゃねえや、おい五番隊、聞いてるか!』 永倉が声を張り上げて呼びかけてくる。 無線は屯所の通信室を経由して、全車両が繋がった状態だ。 『お前らよー、そっちが片付いたら応援に来てくんねぇか?』 『悪いけどねぇ、こっちもあんたのケツ拭きにいくどころじゃないわ!うちだってこの有り様よ!』 間髪入れずに野太い声が応えてきた。 ドスの利いた声音の男性的なイメージに反して、言葉遣いは女性的。ヒステリックで感情剥き出しなその声は、 三番目の爆破現場となったホテル街にいる五番隊の隊長、武田のものだ。 声に続いて爆発音が何重にも重なる。無線に飛び込んでくる他の隊士の肉声を、すべて掻き消してしまうほどの轟音が。 『どう、聞こえた!?これだけじゃないの、百メートル離れたラブホの屋上でもこれと同じ花火が上がってるわ!』 『聞こえる聞こえる。そっちもドカンドカンと賑やかなこったなぁ、夏はとっくに終わったってえのによ』 「そっちも状況は悪そうですねぇ、武田さん」 『おかげさまで人手不足のてんてこ舞いよ。何なのよっとにもうっ、攘夷浪士って奴らの趣味を疑うわ! 時季はずれの花火の醍醐味ってのはねぇ、もっとこう、情緒たっぷりに、しっとりしのびやかに打ち上げてこそじゃないの。 それを金に物言わせてバカスカドカドカ、ところ構わず打ち上げやがってよぉ!』 『ええ、そのお怒りには私もおおいに同意しますがねぇ。言葉遣いが男に戻ってますよ、武田さん』 そこへクスクスと笑いながらたしなめる、落ち着いた声が割って入った。 荒っぽいことで有名な真選組の隊士とは思えない、のんびりと穏やかな口調の主が。 『あー、あー、聞こえますかァ、こちら六番隊の井上です。萩園一丁目とその周辺の住民避難は解除されましたよ』 六番隊が向かったのは住宅街が広がる人口密集地だ。 「爆発音があった」と市民からの通報が入ったのは、地域の住民が通う公営のスポーツセンター。時刻が平日の夕方 とあって、中に居たほとんどは水泳や武道などの習い事に通う子供たちと、その付き添いの保護者たちだった。 館内に響き渡った爆発音が爆破テロによるものらしいと知り、震え上がった母親たちの混乱ぶりたるやすさまじく、 避難の際には職員の誘導があったにも関わらず、それでも出入口に殺到した。 その結果、二次災害的な数人の怪我人が出てしまったらしい。 『こちらは明らかに戦力分散を狙った陽動のようです。屋上に残っていたのは爆発音を偽装した音響機材と、束になった 発煙筒だけでした。人っ子一人いやしませんよ。後は消防の到着を待つだけですから、このまま六丁目方面に向かいます』 『あら、六丁目は源さんたちの管轄じゃないでしょ、八番隊の管轄でしょ? だらしないわねえ藤堂の奴!何をチンタラやってんのよ』 『それがですねえ、さっき応援要請が入ったんです。現場まであと一区画ってとこで、 目の前に横入りしてきたワゴン車から武装した覆面集団が出てきたとかで。路上で足止めに遭ってるそうですよ』 いやぁ、困りましたねぇ。 局内最年長の隊士である井上は、年長者としての余裕を感じさせる、言うほどには困っていなさそうな 淡々とした感想を漏らす。その後に、はぁー、と疲れの滲んだ溜め息を付け加えた。 『おかげで六丁目上空はド派手な花火が咲きまくりです。ここからも見えますがねぇ・・・ いやぁ〜、これも年のせいですかねえ。最近はあの手の派手さが目にまぶしくっていけません』 『俺なんて今夜は花火どころかネオンサインすら目に染みるね。虚しくってたまんねえや・・・』 喋っているうちに何かがこみ上げてきたのか、永倉の声は涙声に変わっていった。 聞き取れないほど小さくなった声はやがて止まり、ずずっ、と鼻を啜る音が無線の音声に紛れ込んでくる。 『神も仏もありゃしねーなぁ・・・』 悔しそうに永倉がつぶやく。 誰も口を挟む者はいなかった。これを聞いている者全員が同じ思いでいるのだろう。 全員が無言で同意しているかのような、しんみりとした沈黙が流れた。 『女一人で慎ましく生きてきた人が、やっと幸せになろうってぇとこでよぉ・・・』 『まったく同感です。けどねぇ永倉さん、ここはひとつ踏ん張りましょうよ。 今、本当に辛い思いをしているのは、決して私たちじゃありませんからね』 『そうよ。一番気の毒なのは沖田隊長よ。あの悪徳商人のおかげでひどい贖罪背負わされちゃって・・・』 あんまりよ。腹立たしげにぼそっと言い、武田が野太い声を詰まらせる。 無線からは人の声がふつりと途絶え、流れてくるのはざぁざぁと降る雨音のようなノイズだけになった。 最初は三人の会話に笑っていた山崎も、唇を噛みしめ、黙ってその声を聞いていた。 おそらく今、この通信を聞いている全員の脳裏には、同じ光景が浮かんでいるだろう。 祭壇が設けられた屯所の大広間。その一面を飾る白い菊の波。そこに置かれた白木の棺の中。 その中で白装束に包まれて眠っている、ほっそりとした沖田の姉の姿が。 長い睫毛が影を落としたミツバの顔は、痩せ衰えてはいたが美しかった。 うっすらと微笑みを浮かべていた。生前のほとんどを病苦に蝕まれてきた女性の最期とは思えない顔。 幸せそうで満ち足りた、とても安らかな表情だった。 線香を上げに来た隊士たちは、一様にその表情を見つめて言葉を失くした。 昨晩の彼らが追っていたのは、この女性の婚約者だった男。誠実で優しい婚約者という仮面の裏で、 彼女を騙し、利用しようと目論んでいた男だ。ミツバを通して真選組との内通を得ようとしていた その男は、彼女の実の弟である沖田の手によって葬られた。 残酷なその事実を現場で目の当たりにしていた彼等は、ただ黙って手を合わせるより他になかった。 『お姉様が亡くなられてまだ一日経ってもいないのよ。ご遺体の傍を離れるような気分じゃないでしょうに』 『家族との別れを惜しむ時間すらないんですからねぇ。どうも因果な商売についちまいましたねえ、私たちも』 『ったくよぉ、・・・こっちは泣きてぇ気分だってのに、ド派手にバカスカ鳴らしやがって。少しは気を遣ぇってえんだ』 『あぁ嫌っっ。ほんっっっとに嫌!!空気の読めない男ってほんっとにやぁね! よりによってこんな日に同時多発テロなんか起こすんじゃねーってのよ!沖田隊長がかわいそうよ・・・!』 ずずーっ、と鼻を咬む派手な音が響く。 「ああもぅ空になっちゃったわ、この箱っ。もっとティッシュちょうだいっ」 傍にいる隊士に言っているのだろうか。泣き声でわめいた武田は、ぐすぐすと鼻を鳴らしている。 『ちょっとぉ野郎どもっ、全車両聞いてるわね!』 言いながら鼻を咬み、おもむろに怒鳴る。 口調はかろうじて女言葉だが、声はすっかり男に戻って、しっかりとドスが効いていた。 『いいわねっ、残った打ち上げ花火は全弾屯所に持ち帰るのよ! しょっ引いた奴ら全員を拷問部屋でひんむいて、全員もれなくケツに大筒ブチ込んでやるわ!』 『穏やかじゃありませんねぇ武田さん。ケツにブチ込んでやるだなんて、とても淑女の御業じゃありませんよ』 『まったくだぜ。つーかよー、警察のやることでもねーよなぁ』 『そうですねぇ。いやぁ、それにしても、あの花火の風情の無さときたら。 ・・・あれは確かにいただけません。スポンサーがどこの誰だか存じませんが、 これだけ豪勢に打ち上げられる組織です。余程の大物と見ていいんでしょうが・・・』 言いかけた井上が、何か考え込むように声をひそめる。 江戸中の十か所に巡らせた爆破地点。それぞれの現場に配分された、攘夷浪士らしき男たち。 これだけの人数を用い、決して安価ではない爆弾を惜しみなく打ち上げられる組織とえいば、 その数はかなり限られたものになってくるはずだ。 「・・・高杉の一派でしょうか。奴らが京からこっちへ戻ってるって噂もありますからね」 信号を一つ越えればいよいよ現場へ到着だ。 目前で続いている消防隊の消化作業を見つめながら、山崎は後部座席に問いかける。 頭上のミラーに映る同乗者を見つめ、不安げに表情を曇らせた。 シートの背もたれに深く身体を沈めた姿は、頭に包帯が巻かれている。 加えて右脚も負傷しており、松葉杖無しには屯所の中すら歩けもしないはずなのだが。 「・・・、副長、」 遠慮がちな呼びかけにも返答はなく、山崎は小さく溜め息をついた。横目に背後を眺めてみる。 暗い車内に差し込んでくる街の灯りが土方の表情を映し出していたが、フラッシュのような断片的な光に 照らし出される横顔は、一見、いつも通りの無表情と何ら変わりないようでいて、 夜景を見ながら何かを考え込んでいる鋭い目に、隠しきれない疲れがずっしりと重く滲んでいた。 視線の先にある街の光景も、目に映ってはいるのだろうが――。 いつにも増して声を掛けがたい雰囲気だ。視線を後ろから前方に戻し、ためらいながらも山崎は口を開いた。 「副長。やっぱり戻りましょうよ。その脚で現場に出るなんて、無茶ですよ」 「・・・高杉か。遣り口の小狡さは、いかにも奴らしく奇を衒ってやがるがな」 感情の一切が消えた声で土方がつぶやく。 車に乗って以来、ずっと何か言いたげにしている、気遣うような視線が自分に向けられている。 その視線には最初から気付いていた。だが、気付いただけだ。応えてやるような気分にはなれなかった。 「だが、今のところは高杉の野郎だってぇ決定打もねえ。江戸中にばら撒いた花火で 派手ったらしい金の掛け方を見せつけるあたり、そこいらの小者の仕業とも思えねぇが」 現場を取り巻く状況も妙だ。ここに限らずどこの現場もそうらしいが、駆けつけるのは爆発で炎上した建物の 消火に当たる消防隊だけ。これだけの大騒ぎになっているというのに、本庁の特殊部隊どころか、 町同心も見廻組も顔を見せない。 ・・・てえこたぁ、だ。とっつあんが出動を許可したのは俺たちだけ、ということになる。そこがどうもキナ臭せえ。 「まあ、こいつが野郎の仕業だとしたら。・・・そうだな。今夜の騒ぎ全部が陽動って線もあるか」 「・・・・・・・・・」 眉を寄せた困り顔で背後の様子をちらちらと伺いながら、山崎はブレーキを徐々に踏み込む。 すでに現場は目前だ。焦げ臭い煙の匂いと爆薬の硝煙の匂いが、細く空けた窓の隙間から漂ってくる。 忙しく回っていた回転灯を止め、空いていた路肩に車を寄せた。山崎の様子はいよいよ落ち着きをなくしていき、 額にはじわーっと冷汗まで湧いてきていた。 あーあぁ、もう着いちゃったよ。どーすんだよ。どーすりゃいいんだよぉ、これぇ。 局長に言われた通り、屯所を出る時間を可能な限り引き伸ばしはしたけどさあ、 ・・・ここで俺が何を進言したって、副長は聞いてくれそうにないしなぁ。いや、けど、・・・! 意味なくハンドルを握り締め、おろおろと焦りながらあれこれと迷ったが、意を決してくるっと振り返った。 「ふ、副長。どうしても出る気ですか?・・・おっっ。お願いですっ、やめてくださいィ!」 「あぁ?うっせーぞアフロ。つーかお前、何でアフロなんだよ」 懐から出した煙草を口端に咥えながら、土方が呆れたような目で睨んでくる。 山崎も思わずむっとした。 今さら上司にこの不本意なヘアスタイルを指摘されるまでもない。 それまでは地味で目立たない普通の頭だったというのに、数日前から奇抜なアフロヘアーになってしまった。 これでは隠密活動にも支障が出てしまう。鏡やガラスに映る自分の姿を見ても、この車内のバックミラーを覗いても まったくもって馬鹿馬鹿しいことに、いつ見ても、どこからどう見てもアフロなのだ。 「だからこのアフロは単なるなりゆきですって。ずーっとそう言ってるじゃないですか」 「んだよなりゆきでアフロになるってよ。おい、一体どんななりゆきだ、言ってみろ」 「どーだっていいでしょ、俺の頭のことなんか。ていうか副長!これで話逸らそうったってそうはいきませんよ」 頭に鳥の巣を乗せたようなアフロヘアーの男が顔中にダラダラと汗を流しつつ、やたらと真剣な目つきで迫ってくる。 …何だこいつは。 実は俺を笑わせようとしてんじゃねぇのか?ふざけたナリで深刻ぶったツラしやがって。 本人には微塵もそんなつもりはないのだろうが、見せられる側としては、見ているだけで可笑しくなる滑稽さだ。 うつむいて煙草に火を点している間に、くっ、と気の緩んだ笑いがせり上がってきた。土方の口端がかすかに上がる。 疲れの滲んだ苦笑いが、荒み気味なその表情に一瞬だけ浮かんだ。 ――笑えるもんだな。こんな時でも。 そんなことを思えば、笑いの後で胸に残った後悔の苦さが、ずしりと重みを増してくる。 「山崎」 「はいっ」 「お前、このまま八番隊の応援に向かえ」 「・・・、はいィ?」 「せいぜいそのふざけた頭で悪目立ちして来い。 監察としちゃあ目につきすぎて最悪のナリだが、まぁ、現場で賊の標的くれーにはなれんだろ」 湧き上がってきた微かな感情を振り払い、土方はドアに手を掛けた。 思うように動かない右脚を車内から引きずり出し、松葉杖を突き、パトカーを降りる。ところが、 「副長!!や、やややややっ、やめて下さいィ!」 あわてて運転席から飛び出してきた山崎が、土方の前に立ちはだかった。あわあわと口をぱくつかせる アフロの男に行く手を阻まれる。滝の冷汗を流している必死な監察の形相を、土方は醒めた半目でじとーっと眺めた。 「こっっ、今夜は昨日と違って人手もあるんですよ?なな、何も副長がわざわざ出なくたって・・・!」 「てめえの仕事は他にあんだろ。どこも人手が足りねえんだ、さっさと行け」 「いや、けどぉ・・・!」 「副長!」 背後から掛けられた声に、土方と山崎が振り返る。 劇場前を目指して走ってきた数台のパトカーが、続々と路肩に停まり始めていた。回転灯の忙しない赤光が、 火災現場に集まった野次馬たちの人垣を眩しく照らす。援軍の到着だ。最初に到着した一台が、 停まるや否やドアを開けた。そこから出てきたのはスキンヘッドのいかつい男。隊長の原田を先頭に、 十数名の隊士がこちらへ向かってくる。十番隊は騒ぎが収束した現場を切り上げ、苦戦している一番隊の応援に 駆けつけたらしい。原田は消防隊が梯子を伸ばして放水を続けている光景をちらりと見上げる。 それから劇場の入口前を眺めた。 あの中に居る一番隊からの報告によると、上階への階段を真っ先に駆け上がっていった沖田との連絡が つかなくなり、かれこれ一時間以上が経っているらしい。一番隊の隊士たちも隊長の後を追おうとしたのだが、 浪士たちは沖田が通過した直後に彼らの侵入に気付いてしまい、階段下に相当数を送り込んで抵抗を続けている。 原田はまぶしげに目を細め、ビル風にゆらゆらと煽られている炎の赤を不気味そうに見上げた。 「随分と勢いよく燃えてんなぁ。あの中ですか、沖田さんは」 劇場の屋根を突きぬけて渦巻く火焔をじっと見つめ、わずかに表情を暗くする。 あんな煙の蔓延した場所に一人で追いこまれては、局内一の使い手といえど消耗は激しいだろう。 しかも昨日の今日だ。病院から遺体の傍に付きっきりで、沖田はおそらく一睡もしていないはずだ。 「裏口は一番隊の奴らが抑えてある。 表口に半分を囮として配置して、裏口から階段経由で潰していくしかねえだろうな」 「了解。おい、第一と第二で表口だ。他の奴は全員、裏ぁ回れ!」 待機していた隊士たちに振り返り、原田は表口を指して指示を出す。 命令を受けた隊士たちが足早に散っていく間に、ほんの二、三秒、何か言いたげに土方の脚元を見ていたが、 特に言葉を掛けることもなく、彼に同行して裏口へと向かった。 「ところでどこ行っちまったんです、局長は」 「さあな。夕方まではいたんだが、ふいっと消えちまった。とっつあんに急の呼び出しでも受けたんじゃねえのか」 本庁からの応援は出せない。お前たちは単独で騒ぎを収めろ。こちらの事情は一切詮索するな。 今頃は本庁で、松平にそんな話でも持ち出されているのかもしれない。 だとしたらこの事件、確実に裏に何かがある。 ここまで派手な爆破テロに本庁が見せている不自然な沈黙の理由は判らないにしても、それなら何かと合点がいく―― こつ、こつ、こつ、こつ。 裏口に続くスロープのコンクリートを叩く松葉杖の先が、硬い音を立てている。 斜め前を歩いている引きずり気味な足元を、原田は眉をひそめて見ていたのだが。 「・・・・・・、副長。なぁ。やめようぜ」 裏口を目前にして、ぽつりと低く切り出した。 「あんたの気持ちは判らねえでもねえが、さすがにその怪我で立ち回りはなぁ。 ここに留まって指揮だけしてくれねえか」 話しながら原田は土方の前方に回り、火事の煙がうっすらと漂っている裏口前を塞いだ。 前を遮られ、コンクリートを打っていた松葉杖の音も止まる。 ・・・こいつもか。 土方の表情に再びの苦笑いが浮かんだ。 困った顔で口を引き結び、前から退こうとしない原田を避け、土方は進路を変える。 横に回って先を急ごうとした。 「心配すんな。見た目ほどたいした怪我でもねえしな。それより時間がねぇ、急ぐぞ」 「いや、けどなぁ、もしここに局長がいたらよー、同じようなこと言ってたんじゃねえか?」 「どうした。珍しく回りくどいじゃねえか」 「いやいや、だからなぁ、そーいうあれじゃなくってよぉ、 ・・・・・・・・・・・・・・・いや。副長。ちょっと待てって。なぁ、待ってくれって!」 ぐいっ。 後ろから隊服の肘のあたりを思いきり引っ張られた。 「・・・・・、」 土方は面食らって片眉を吊り上げた。松葉杖が動きを止め、ぴたりとその場に立ち止まる。 情にほだされやすい山崎と違い、原田は任務と私情を混同しない。こういった真似はすることのない男のはずだが。 戸惑いながら振り向いた。 しかしそこで彼の目に映ったのは、ごつくて大きな男の手ではなかった。 ――見覚えのある女の手。淡い色の肌。 隊服の肘をきつく握り締めた細い指。ちいさく華奢な、女の手だ。 「・・・何やってるんですか」 「・・・・・・・・・・・・・お前。・・・・・・どうして、」 どうしてここに。 自分の目を疑いながら顔を上げた。 すぐ目の前に――ちょっと手を伸ばせば頭に触れられる近さに、深くうなだれた女が立っていた。 左手に刀を握り締め、右手で土方の袖を掴み。頬に垂れてきた長い髪で顔が隠れてしまうほど、深くうなだれた女の姿が。 ぎゅっと力を籠めている手が小刻みに震えている。指先が少しずつ青白くなっていく。 血が通わなくなるほどの力を籠めているのだろう。 握った上着に皺を作っている、ほっそりした手。その手に思わず目を見張り、固唾を飲んでいた土方は、 じわじわと高まってきた驚きと戸惑いを絞り出すようにしてその名を呼んだ。 「・・・・・・・・・・・・・・・・、、」 「こんな重症の怪我人、現場に居たって足手まといなだけですよ。さっさと車に引っ込んでください」 頭を下げたままで土方を見ようともしないが、どこにも口を挟む隙を与えない早さで言い切る。 邪魔ですから。 掠れた声で小さく付け加えると、彼を急かすようにぐいっと袖を引いた。 「・・・・・・お前こそ何やってんだ。城に戻れ。何でここに、」 「土方さんの命令には従いません。あたしがここにいるのは、局長命令ですから」 きっぱりと言い返してきたに土方は唖然としていたが、ふと気付いて顔を上げた。 二人の言い合いを心配げな顔で見守っていた原田の向こうまで視線を伸ばす。 きびきびと動き回っている消防隊員や隊士たちに紛れて、こっちに視線を送っているらしい近藤の姿が垣間見えた。 ・・・そういうことかよ。 近藤を見つめ、呆れたような口調で独り言をつぶやいた土方の袖が、もう一度、ぐいっと引かれた。 「総悟のところにはあたしが行きます。行かせてください・・・!」 ようやくは顔を上げた。髪が頬までかかった小さな頭がゆっくりと動き、彼を見上げてくる。 青白く醒めた顔は、ぽろぽろと絶え間なく流れてくる涙で濡れていた。 嗚咽を噛みしめて震えている口許も。睫毛を伏せた大きな目も。目元が赤い。ずっと泣き腫らしていた奴の目だ。 「総悟はあたしが連れ戻します。 だから。だから、土方さんは。行かないでください。ここにいてください、・・・」 お願いですから。 震える唇をかすかに動かし、小さな――消えそうに小さな声でがつぶやく。 彼女の後ろに控えている原田の耳には届きそうにない、弱々しい声だった。 か細くて頼りない、けれど強い懇願。濡れた瞳が一歩も退かない決意と覚悟を秘めて、土方をじっと見上げてくる。 その表情に目を奪われ、あっけにとられていた土方が、咥えていた煙草を噛みしめる。 を鋭い目で睨みつけ、急激に燃え上がった炎のような激しい怒りを呑み込み、 「勝手にしろ」 ばっ、と大きく肘を引いた。 突き放すような冷えきった声をぶつけて、袖に縋りついていたの手を振り払った。 そのまま土方は踵を返し、こつ、こつ、こつ、と松葉付でコンクリートを打ち鳴らし、 回転灯が赤光を巡らせている警察車両の列へと、負傷した右脚を引きずりながら戻って行った。 振り払われた瞬間には、手をびくりと震えさせ、傷ついたような表情で唇を噛みしめていただったが、 土方の後ろ姿を真っ赤に腫れた目で見送ると、迷いを振り切ろうとするかのように鞘から刀を引き抜く。 かちゃ、と鍔口を鳴らして刃を返す。 手に合うようにと細めに拵えた柄を、しっかりと握る。そこに自分の意志を籠めるかのように固く握り直した。 「・・・さん。行けるか」 「はい。・・・すみません、大丈夫です。行けます・・・!」 涙を溢れさせている目元を子供のような頼りない仕草でごしごしと拭うと、 は隣で待っていた原田と目線を合わせ、頷き合った。 周囲をきな臭く曇らせている薄い煙が流れ出ている裏口へと、隊服のスカートの裾を翻して まっしぐらに飛び込んでいく。 彼等から充分に離れた場所で振り返り、その華奢な後ろ姿を目で追っていた男の視線には気づくこともなかった。

「 片恋方程式。41 」 text by riliri Caramelization 2011/09/25/ ----------------------------------------------------------------------------------- 「ミツバ編の直後編」です 捏造ばっかの展開です ていうかむしろ捏造しかない できればしばらくお付き合いください orz    …てのを前話で書き忘れたので後出ししてみました       next