それは不思議な夢だった。 夢のはずなのに、触れたものすべてに重みや温かみがあって。 目が覚めればすべてが消えてしまうはずなのに、不思議なくらいにたしかな「触れている」実感が身体中にあって。 まるで本当に起きていることのようで。今までに見てきたどんな夢よりも幸せな夢。 幸せすぎて泣きたくなってしまう夢だった。 「・・・・どうして・・・?」 ぼんやりとそう尋ねると、髪を撫でていた手が止まった。 けれど、睫毛を伏せた切れ長の目は、ただじっとあたしを見下ろすだけ。何も伝えてくれなかった。 その隙のなさに困っていたあたしは、たぶん、泣きそうな顔でもしていたんだろう。 ふっ、と土方さんは口端を歪めた。しょうがねえなこの馬鹿は、とでも言いたげな顔で苦笑した。 胸に溜まってきた重たい何かを少しでも苦笑で散らそうとしているような、どこかやるせない表情が近づいてきて。 抑えられた手の甲が畳に擦れる感触も。その手を握り締めている指の硬さも、力強さも。 息苦しくなる身体の重みも、重なった胸から響いてくる、自分のものとは違う心臓の鼓動も。 すべてが息をしているひとの――生きているひとのものとしか思えなくて。 強めに唇を塞いだ二度目のキスも、とても夢だとは思えなかった。 他のことはよく覚えていない。 キスに呼吸を奪われてるうちに身体の力が抜けていって、優しい手つきで頭を撫でられたりしているうちに、 いつのまにかとろんと瞼が降りてくるほど気持ちよくなって。頭の奥がぼうっと熱くなって。 土方さんが抱きしめてくれる。 それがただ嬉しくて。それだけで嬉しくて。 こんな時にどうしたらいいのかも知らないし、何もかもあのひとにされるままになっていたら、ぽつり、と声が降ってきて。 「・・・、」 土方さんが。土方さんに。・・・初めて名前で呼ばれた。 (つい呼んでしまった。) 信じられなくってぽかんとしているあたしに目を見張った顔は、そんな戸惑いに満ちた表情だった。 そのぎこちない顔を見つめていたら、ただ名前を呼ばれただけなのに、全身がかあっと熱くなって。 信じられないくらいに幸せな気持ちが身体中に渦巻いて、もう何も怖いことなんてないような気が一瞬だけして。 それから。 ・・・・・・・・・すごく、身震いするほどに怖くなって。 まだ夢の中にいるのに、夢が急に萎れて終わってしまったような気がして。抱きついてわんわん泣いてしまった。 なんだ。そうなんだ。 やっぱり夢だ。これは欲張りなあたしが頭の中で勝手に紡ぎ出した、あたしだけに都合のいい甘い夢。 だって、こんなの駄目だ。 こんな幸せはきっと許されない。あたしがこんな幸せを望んでいいはずがない。 あたしはもう普通の女の子なんかじゃない。 ここに――ずっと夢みていたこの腕の中にあるのは、普通の女の子じゃない今のあたしが望んでもいい幸せじゃない。 「・・・ごめんなさい・・・、っ、あたし、土方さんを。騙してる。みんなを、騙してるんです・・・ごめんなさい・・・」 泣きじゃくりながらそんなことを言ってしまった気がする。 夢に出てきた土方さんは何も言わなかった。黙って背中を撫で続けてくれた。 夢であたしに触れていた手は、あたしが知っているあのひとの手よりも、ほんのすこしだけ優しかった。 けれど、その慣れない優しさが、逆にあたしには苦しかった。 「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい・・・っ」 もういい、と言われても、涙で声が枯れてくるまで謝った。 だってあたしは、――あたしはこのひとを騙してる。 本当のあたしは、すきなひとにこんなに大事に扱ってもらえるようないい子じゃない。 こんなに優しく触れてもらう資格なんてない身体だ。なのに。夢の中の土方さんは、笑い混じりでこう言った。 「泣いて謝るくれぇなら、笑顔のひとつも見せてみろ」 ――それはこれまでに見たことのない夢で。 きっともう二度と見ることはない、泣きたくなるほど幸せな夢で。 塞がれた唇は燃えるように熱くて。 涙に霞んだ薄目を開けて見上げたひとは、見たことのない苦しげな顔をしていた。

片恋方程式。 39

――あったかい。 温かい何かに包まれている。 外の雨音が止んでいる。 風の音も。 腫れて重たい瞼を擦りながら薄目を開け、は周囲の気配に耳を澄ました。 部屋の中には音がない。古い雨戸の向こうでにぎやかにさえずる雀たちの鳴き声が、やけにはっきりと耳に届く。 もう朝になったみたいだ。 身体を柔らかく包んで拘束している温かい何か――触れて確かめるとそれは毛布だったのだが、 そこからもぞもぞと這い出してみれば、昨日の夜と同じ、真っ暗な天井が見えた。 物音もしない。何の気配もない。土方さんがいない。あたし、ここに一人きりだ。 そう気づいてがっかりして。――唇を噛んでこらえていないと泣きそうになるくらいがっかりして、 もう一度毛布に潜って目を閉じた。暗い温かさにしがみついて、泣きそうな自分を噛みしめてこらえる。 それと同時に、いつまでもいじいじと布団に籠って、幸せだった夢の余韻に浸りたがっている自分を叱った。 ばかみたいだ。あれはただの夢なのに。本当にあったことじゃないのに。 あたしはあたしの日常に戻ってきただけ。ただそれだけだよ。どうしてここまで落ち込まなくちゃいけないの。 毛布に泣きそうな顔を埋めて、なんとか自分に言い聞かせようとした。 けれど本当は判っているのだ。自分がここまで落胆してしまう理由が。 夢だと判っていた。それでも心の奥底では「もしかしたら」と期待に胸を膨らませずにはいられなかったからだ。 ついに我慢をやめてぽろぽろと涙をこぼし、ただでさえ腫れ上がっていた瞼をさらに赤くしながら、 は毛布から跳ね起きた。目元の腫れは気になるけれど、時間もあまりなさそうだし、すぐに本棟へ戻ることにする。 乱れた髪や隊服の裾を撫でつけながら玄関へ向かうと、昨夜は板で補強されて開かなかった扉がひとつ外され、 蹴り壊されたような跡が残っていた。 ・・・・・あたしが眠っていた間に何があったんだろう。 不思議に思いながらも急いで戻れば、すぐに土方に呼び出された。 土方からの伝言を運んできた隊士の話からは、何やらにしか出来ない、 しかも緊急の任務が入ったらしい、とだけしか判らなかった。 何だろう。女性の出入りが多い場所への潜入捜査かな。もしくは偵察とか、そういう類の任務だろうか。 緊張気味に副長室に出向くと、朝の挨拶をする間も与えられずに切り出された話は―― 「今日から当分城詰めだ」 「・・・は?」 お城。 江戸城。 ・・・つまりはこの国の本丸だ。 予想を越えた任務地に、思わず目を丸くした。 「お城、ですか」 「先週、本庁から通達があってな。姫様の警護要員に欠員が出た」 「姫様って、・・・・・そよ姫様の専従SPですか?」 あらゆることに耳聡い副長の補佐役に就いているわりには本庁の事情にいまひとつ疎いでも、その役職に ついては聞き覚えがあった。単身でも公務を務められるお年頃となられた将軍家の末の姫、そよ様警護のために 近年結成された、ほほ全員が女性で構成される特殊部隊だ。警護対象が将軍の妹君とあって、 庁内でも特に選りすぐりの優秀な人材ばかりが登用されているのだが、先日、そこに若干名の欠員が出た。 土方の話によると、今回の空席は二つ。空いた席が埋まるまで、本庁の各部署から選抜された女性候補生たちが 姫様のお傍仕えの役目を実際に体験しながら、身辺警護の訓練に当たることになっている。 要は実地訓練を兼ねての新人SP選考会なのだが、土方は今日からそこにも加われというのだ。 えっ、と小声でつぶやいたきり、は表情を硬くした。 「・・・あたしが、ですか?・・・・・、で、でも、だって、通達があったのは先週なんですよね。そんなの一言も」 「うちは人手不足を理由に辞退するつもりだったからな」 「・・・?だったら余計おかしいですよ。どうして今になって、」 「話はまだ終わってねえぞ」 冷然とした声にぴしりと遮られ、はわずかに身体を竦めた。 屯所中から集まるあらゆる書類で雑然とした山が出来ている文机。その前に胡坐で腰を下ろし、 今朝上がってきたばかりの報告書に黙々と目を通している咥え煙草の横顔を、気遣わしげな視線で見上げる。 最近は滅多に聞くことがなくなった声。どこかよそよそしい、他人行儀な響きの声だ。 ・・・ううん。声だけじゃない。態度も微妙によそよそしい。それに―― 今朝の土方さん、全然こっちを見ようとしない。意識してあたしを視界に入れないようにしてるみたい。 「それとだ。当面ここには戻らねぇでいい。とっつあんの屋敷から城に通え」 「・・・・・・は?」 向こうのほうが何かと都合がいい。 ぱらりと手許の書類を捲りながら、土方は何か考えているような顔つきでつぶやいた。 「三十分後に近藤さんと出発、着いたら向こうで顔合わせだそうだ。部屋に戻って荷物詰めて来い」 「さ、三十分って、・・・」 突然にあれこれと、しかも予想外なことばかり。 唖然としたは身動きも出来ないほど混乱していた。聞きたいことがありすぎだ。 疑問符が頭の中をめちゃくちゃに飛び交っていて、どれから先に質問すればいいのかすらわからない。 何で。どうして。こんなに急に。だって、あたしがお城って。SPの研修って。いきなり松平さまのお屋敷に行けって・・・! 「待ってください土方さん。そんな、・・・なんなんですかそれっ。 研修はともかく、松平さまのお屋敷に行けって、・・・どうしてですか。どういうことですかぁ!」 「先のこたぁ追って連絡する。他は行きがけの車内で近藤さんに聞け」 「土方さん!」 ふっ、と土方は軽く煙を吐いた。の存在など感じていないかのように平然と、 顔を上げることもなく文書を目で追い続けている。対して、身を乗り出して彼に迫るは見るからにうろたえていた。 スカートの裾を握り締めた手にはかすかな震えが走っているし、血の気が引いた表情は今にも泣き出しそうだ。 「あたし、昨日、何かしましたか。何があったんですか・・・!」 「聞こえねえのか。いつまでもぼさっと居座ってねえで支度して来い」 「じゃあどうして。どうしてですか・・・?」 どうして。どうして。どうして、どうして、どうして。 ・・・・・・どうして? 同じ言葉ばかりが頭の中で、ひたすらに繰り返されて鳴っていた。 ついさっきまで温かな毛布の中で浸っていたのは、思い出すだけで泣けてしまうくらいに幸せな夢。 『ずっと一緒にいたいです』 そう言って泣きじゃくったあたしを抱きしめてくれたのは、目の前にいるこのひとで。 なのに今はそのひとに、同じ口で「ここから出て行け」って言われてる。信じられない。 まるで悪い夢でも見ているみたいだ。 座っているだけなのに上がってくる息を落ち着かせようと、呼吸を深く切り替える。 涙の滲み始めた目でまっすぐに土方を見つめ、やっとの思いで口を開いた。 「土方さん、さっきから一度もあたしのほう見ようとしませんよね。どうしてですか。 変です。こんなのおかしいですよ。だって急すぎます。何かあったとしか思えないです。 ・・・あ、あたしに非があったなら、謝りますから・・・!昨日のことはちっとも覚えてないけど、でも、」 「随分と思い上がったもんだな」 「え、・・・」 「てめえにも最初に言ったはずだ。命令にも従わねぇような驕った奴には、俺ぁ用はねぇんだ」 これ以上の詮索は無用だ、とばかりの、冷えきった声の最後通告。 呆然と目を見開いてそれを聞き届け、は目の前が真っ暗になった気がした。きゅっと唇を噛みしめる。 自分の脚しか見えないくらいに深くうつむいて、泣きそうに崩れた表情を隠した。 けれど、どうしても肩が震えてしまう。スカートを握りしめた指が震えてしまう。 「おい。返事はどうした」 「・・・・・・違います。そういうことじゃなくて。理由を聞きたいんです。そういうことじゃ、」 「行くのか、行かねぇのか。さっさと決めろ。まぁ、行かねぇんならここでのてめえの席次も取り消すことになるが」 それまでは必死に涙をこらえていただが、その一言で、きっ、と目つきを一変させた。 手近にあったものをわしっと掴む。畳の端にぽつんと置かれた、コーヒーの黒い空き缶だ。 振り上げた缶を憎たらしい上司の頭に思いきりぶつける、・・・つもりだったのだが、 力が入りすぎたあまり手許が狂い、土方の肩先すれすれを掠め、畳にぶつかって跳ね上がった。 「〜〜〜〜〜もういいですっ。、ご命令通り出発しますっっっ」 がばっと立ち上がり、自棄になって震える声で叫んだ。 投げつけた空き缶はさらに襖にぶつかって跳ね返ったりしていたが、それでも土方は こっちに目をくれようともしないのだ。 瞼の縁一杯に涙を溜めた大きな目で、螺旋を描く細い煙を上らせている黒い隊服の後ろ姿を睨む。 彼女が他の誰よりも見慣れている均整の摂れた背中の輪郭は、あっという間にぼんやりと滲んで霞んでしまった。 ――傍にいてもいいんだって。 何があってもそれだけは許されてるんだって、思ってた。 ・・・信じてたのに。 「・・・、失礼、しますっ」 ぽたり、ぽたり、と落ちた大粒の涙が、畳目にすうっと吸い込まれる。 唇が切れそうなほどにきつく噛みしめ、隊服の短いスカートをひらりと翻して、は部屋を飛び出した。 ぱたぱたと軽い足音は風のような速さで廊下を遠ざかっていく。消えていく女の足音と入れ違いに、 ぎ、ぎ、と一歩ごとに床板を鳴らす重めな足音が近づいてきた。 「・・・、泣いてたぞ」 戸口の合間に顔を出したのは、眉を曇らせた近藤だ。 書類を捲る手が一瞬止まった。だが、止まっていたのはほんの一瞬だけのこと。 土方は眉ひとつ動かすことなく、平然と次の頁に目を通す。 困りきった顔で近藤が頭を掻いていると、ふっ、と面白くもなさそうな笑い声が聞こえた。 「まだ不服そうだな」 「不服ってぇ訳じゃねえよ。判ってるさ、これが服部殿の忠告を重視してのことだってぇのはな」 が走り去った廊下を振り返り、誰もいないそこを複雑な思いの籠った目で近藤は眺める。 それから部屋へと視線を戻し、顔も上げずに報告書の吟味を続ける土方を見つめた。 ――をしばらく他へ預けてほしい。―― それは先日屯所に出没したの昔馴染み、元お庭番の服部からの忠告であり、彼のたっての頼みでもあった。 数日前、屯所の屋根にひょっこりと現れ、そこで土方と顔を合わせた服部。 彼は土方に自分の不在を告げに来たのだ。 (京で大がかりな仕事が入ったもんでね。しばらく江戸を離れることになった) 出立は一週間後。期間は一月ほど。その間、服部はこれまでのようにの身辺を見張れなくなる。 そこで万全を期すために、をここよりも警備の厳重などこかへ預けてほしいのだと言う。 いつもの掴みどころのない口ぶりで飄々と言われ、土方はむっとして眉を吊り上げた。 急に何のつもりだ。俺たちだけでは護りが事足りねぇとでも言いに来やがったのか。 (おっと、誤解しねえでくれよ。別にあんたらを信用してねぇ訳じゃねえんだ) 納得いかない様子の土方ににやりと笑った服部は、しばし逡巡するような間を置き。やがてこう切り出した。 (の兄貴を匿っている一団が西へ向かう動きがある。 奴らが江戸を出るまでおそらくあと半月だ。その前に、千影はに接触を仕掛けてくるかもしれねえ。 いや、特に根拠はねえんだ。こいつは俺の取り越し苦労かもしれねえ。だが、もしも千影が姿を見せれば。は、・・・・・・) 淡々と語り続けていた服部だが、そこでふと何かを思い浮かべたらしい。 前髪に隠された両の眼が、土方をじっと見つめる気配があった。気が滅入ったかのような表情で口を閉ざし、それから、 (――いや。まぁ、悪りぃが副長さん、とにかく頼むわ。あいつを兄貴に会わせねぇでくれ) 軽く肩を竦め、口が過ぎた、とでも思っているような失笑を浮かべたその後は、 いくら土方が問い質しても、のらりくらりとはぐらかされるばかり。 そいつらの動きに合わせて服部も西へ移るのか。それとも彼の言う大掛かりな仕事とは、 まったくの別件を追ってのことなのか。そのあたりにもコナをかけはしたが、仔細は一切明かされなかった。 自分の置かれた状況を言葉の端々から匂わせることもしないあたり、忍びとしての守秘義務とでもいうべき何かが そこにはあるのだろうが。 「姫さんの警護は渡りに舟だ。あいつの兄貴を囲った奴らの手がどこまで回っていようと、 さすがに城内までは届くめえ。近藤さん。あんたもそこには頷いたじゃねえか」 「ああ、それぁ確かにそうだが」 どっ、と畳を揺らして文机の脇に腰を下ろした近藤は、書類と向き合う土方を眉を曇らせて眺める。 とはいえ俺にも異論を挟む気はねえ。トシが言うとおり、おそらくこれが最上策だ。 昼は分厚い城壁の包囲で隔絶された城内。そして、夜は警備が厳重な松平の邸宅。 警察庁長官の自宅だけあって、広大な松平の屋敷には最先端のセキュリティが二重三重に網羅されている。 あそこなら服部殿も文句のつけようがないだろう。 近藤が渋々ながらもそう認め、土方の提案に頷かざるをえなかった理由は、松平の不思議なまでに柔軟な対応にもあった。 (を一時自宅で預かってほしい。) 電話で彼がそんな話を向けたところ、松平は一切の事情を詮索せず、二つ返事で了承したのだ。 ・・・いや。あれぁまるで、の身柄を俺が頼み込んで来ると見越していたかのような口ぶりだった。 「…つまりはとっつあんも何がしかの情報を耳に入れて、自分がを預かるのが最善と判断してたってぇことか」 「ああ。そういうこったろうな」 「いや、だがよー、何もお前、城にまで行かせるこたぁねえだろう。あの様子だ、は自分がここから 追い払われたもんだと思ってるぞ。姫様のSP候補生の話、あれぁ一旦は断った話だろ。それをどうして」 「どうもしやしねえよ。あの胡散臭せぇ髭面の頼みを入れて策を練り直したまでだ。 問題ねえだろう。どこが不都合だ?・・・つーか近藤さん。あんた、あのバカを甘やかしすぎなんだよ」 醒めた顔つきで淡々と土方は語るのだが、話しながら吸いさしを灰皿に押しつけた手つきはどことなく荒い。 机に置かれた箱を掴むと、そこから取り出した煙草に早々と火を点けた。カチカチとライターを打つ手つきも どことなく普段よりも気忙しい。 ・・・そうかァ?お前ほどじゃねえと思うがなぁ。 ぱちくりと目を見開いた近藤はつい正直な感想を述べそうになったが、そこはぼりぼりと顎髭のあたりを掻きつつ 黙って呑み込むことにした。 「まぁ、昨日の今日だ。仕切りが性急すぎたのは認めるがな。 あんたにも急な面倒押しつけちまって悪かった。とっつあんにもよろしく言ってくれ」 「いやぁ、んなこたぁ構わねぇがなぁ。なあトシ、」 「あぁ?」 「と何があったか知らねぇが、あまり振り回してやるなよ」 気遣わしげな中にもとぼけた響きの混ざった声に、土方が、ぐっ、と喉を詰まらせる。 ぽろりと煙草を口からこぼし、煙にむせてゴホゴホと咳込み、それでも咳が収まらず、 しばらく背筋を丸め、書類に突っ伏して喘いでいた。 そんな土方をにやにやと眺め、ははは、と楽しげに笑った近藤が、 「いやぁ言ってみるもんだなぁ、まさかお前がここまでうろたえるとはよぉー」 いよいよ裏を知りたくなったぞ。 土方の肩をパンパンと愉快そうに叩く。うひひ、と目を細めて笑う子供のような顔はいかにも興味津々だ。 には隠し通せた動揺をあえなく見破られてしまい、土方は、フン、と悔しげに口端を曲げてそっぽを向いた。 この狸が。ゆうべは戸板を喰らって一晩伸びてやがったくせに、俺の顔色だけで昨日の騒ぎを見通しやがって。 ・・・まったく、付き合いが長げぇのもこういった時は考えもんだ。 「・・・悪い。とにかく今は駄目だ。しばらくあれは使えねぇ」 落とした煙草を摘み上げながら土方は切り出す。投げやりな手つきで灰皿に放った。 丸く小さな焦げ跡を作った報告書を、睫毛を伏せた目でじっと見つめた。 「いや。違う。駄目になってんのは俺だ。今の俺は手前のやることが一番信用ならねえんだ。 しばらく頭を冷やしてぇ。・・・あいつはまだゴネるかもしれねえし、俺の私情であんたを手古摺らせちまう勝手も承知だが、・・・」 黙りこくって考え込み、また口を開き、の繰り返しで、どこか要領を得ない独白は続いた。 指先で煙草の箱を弄びながらのばつの悪そうな土方に、近藤が目を丸くする。 こいつが言い訳たぁ珍しい。しかもここまでの歯切れの悪さだ。トシの奴、よほど混乱してやがるな。 ひどく言い辛そうに最後の一言を絞り出すと、土方は近藤に向き直った。 「頼む」とぼそりと一言告げ、せめてもの詫びに深く頭を下げる。見下ろした畳目を睨んでいるうちに、 急に拍子抜けしたような、胸に風穴でも開いたような空虚な思いがした。 はじきにここを出ていく。城詰めになった後の仕切りを近藤さんに任せてしまえば、 当分、あれの顔を見る機会はおろか、声を聞くことすらないだろう。 散々だ。 頭を上げ、障子戸の合間に輝く台風直後の晴れ上がった空を、呆れ果てたような遠い目で見上げる。 実際、つくづく自分の甘さに呆れ果てていた。 たった一晩。たった一晩だ。 たったそれだけで、を前にして、これまで通りに振る舞える自信がなくなっている。 自分を律する箍の強さにはそこそこな自信があるつもりでいた。 それが、たかだか一本の酒に酔い潰されただけであれだ。よもやああまで脆いとは。もしもあの時、 ――抱きすくめたの衿元を広げ、そこから覗いた淡い色の首筋に、唇を這わせる寸前だったあの時に ―― 狙いすましたようにぽたぽたと、雨漏りの雫が頭に垂れてこなかったら。 冷えた雨粒の感触に火照った頭を警められることもなく、一時の勢いに任せてあれを抱いていたら。 ・・・今頃は一体どうしていたことか。 あれから東の空が蒼く明るんでくるまで、土方は一睡も出来ずに夜を明かした。 酔いが回ってすぐに眠ってしまった女は毛布に押し込めて部屋に残し、自分は玄関先に居座って、 風雨の唸る音を聞きながら一晩をすごした。自分の不甲斐なさに腹を立て、嫌気が差すには十分な時間だ。 夜明けを迎えてまずは一番に戸を蹴り壊し、離れを脱出して本棟に戻るや、彼は一晩かけた計画を行動に移した。 一度は断った姫君護衛候補の件は、電話の向こうの松平に頭を下げて呼び戻し。方々に連絡をつけて手を回し、 この短時間でを預ける手筈をつけ。何も知らない彼女を呼び出し、理不尽を押しつけて屯所を追い出す。 持って生まれたぬかりの無さはここぞとばかりに発揮され、すべてが彼の思いのままに片付いた。 ――しかし、だからといって、昨夜から持て余しっ放しな昂った感情までが、そうそう上手く片付くはずもない。 今も彼をからかおうとしているかのようにじりじりと、胸の内で燻っていた。 煙草を挟んだ右の手をふと見つめる。 見つめるうちに、昨日感じていたものと同じ熱が胸の内で高まっていく。 何をやってんだ、と自分のぎこちなさに目を覆いたくなったほど、不慣れで硬かったキスの瞬間。 まるで女を知らないガキの頃にでも戻ったようなあの緊張。どれも消えることなく身体に残っている。 こうして自分の手を眺め、ああ、俺はこの手であれに触れていたのかとぼんやり思っていると、 あの時、手のひらにすっぽりと収まっていたの頬の温かさや、柔らかな素肌を撫でた感触が甦ってくるほどだ。 今は煙草を挟むだけの手の内側に広がっていく、熱を伴ったむず痒さと昂揚感。 そんな自分がいつしか可笑しくなり、土方は、くっ、と低く苦笑を漏らした。 いや、まったくどうかしていた。一体あれぁ何のざまだ? 初めて女を抱いた時だって、ああも硬くはならなかったが。 一方、苦笑いで自分の手を見つめる土方を、近藤は怪訝そうに眺めていたのだが。 ん?と首を傾げて尋ねてきた。 「なぁ、どうする。もしもが姫様附きに選ばれちまったら」 「ああ、そいつは。・・・いや。まぁ、ねえだろうな」 「・・・?」 まっすぐに土方を見つめてくる嘘のない目が、きょとんと大きく見開かれる。 それから何かに気付いた様子で、ああ、とつぶやき、「もう裏に手を回してあるのか」とでも思っていそうな 感心顔で部屋を出て行った。それは単に近藤の買い被りすぎな誤解なのだが、あえて黙っておくことにした。 そう、おそらくが選ばれることはない。 そこをわざわざ断言しようとは思わないが、「無い」と断言してもいい、と思えるほどの自信はある。 ――を研修に向かわせたのは、初めから彼女がSPに選任される道はないと踏んでの判断だ。 ここを追い出されたと本気で嘆いているには悪いが、…放っておいても期限内に戻されるだろう。 何でも顔に出ちまうあいつだ。実力で他に劣ることはなくとも、SPとしての適正はどう見ても低い。 少なくとも俺なら選ばねぇし、教官役は俺より余程に辛い点をつけるだろう。 細めた視線を横に流し、壁に掛けた暦をちらりと見遣る。 研修期間は選考も含めて一月半。その頃にはあの髭面も江戸へ戻っているし、 俺の頭もほどほどに冷えるはずだ。終わり次第、すぐにここへ戻せばいい。 そうだ。何も変わるものか。これまで通りにやっていける。 黙っていてもあいつはここへ戻ってくる。俺は何食わぬ顔で、今まで通りに迎えればいい。 あいつとの適当な距離を計りながら。これ以上の間違いが二度とねえように。冷静に踏み留まれる自分を 俺が保っていればいいだけの話だ。大丈夫、なにしろあれが戻るまでに一月半もある。それだけあれば充分だ。 箍が緩んだ俺の頭も、互いのほとぼりも、自然、時間に任せて修復され・・・・・・・・・・・・・、 いや。・・・それでもあいつは俺にむかっ腹を立てたままかもしれねえが。 はあ、と気落ちした溜め息と混ざり合った煙を吐く。 戻って来てもはへそを曲げたままかもしれない。しかしそれも当然か。 愛想を尽かされて当然なやり方で、俺はここからあいつを追い出そうってぇんだ・・・・・・・・・、 眉を顰めて頬杖を突き、眉間を抑えてみたり、がしがしと前髪のあたりを掻き毟ってみたりしながら、 土方は自分でも「何をいつまでやってんだ」と歯痒くなるような、煮え切らない葛藤に耽った。 いや、そうじゃねえ。いいじゃねえか嫌われようが。むしろそれがあいつのためだ。 いっそこの一方的な冷却期間中に、うんと俺に嫌気がさせばいい。 あれに厭われ、身勝手さを軽蔑されたところで、――それでもまだあれを傍に置けるなら、俺にはまだまだ釣りがくる。 ・・・まあ、そうまでしてもを他へ渡す気がないあたりが、ほとほと救われないというか、・・・ 一人の女にここまで固執し、まどろっこしい真似を繰り返している自分に、ほとほと呆れたくはなるのだが。 そんなこんなで考え込んでいるうちに外廻りへ向かう時刻になり。彼は重たげに腰を上げた。 部屋を出てものことが頭を離れず、浮かない顔つきで正門前へと向かい、待たせてあった車に乗り込む。 車中では彼以上に浮かない顔をした山崎がハンドルを握っており、大袈裟な溜め息をしきりに繰り返していた。 「あ〜〜あぁぁ。つっまんねーなああぁぁぁ・・・・・・・」 ・・・、何だこいつは。 そーやって役にも立たねぇ憂さを吐き出して車内を汚染する暇があんなら、早く出せ、車を出せ。 拳骨と一緒にぶつけてやりたい文句を呑み込み、土方は咥え煙草の口端を大きく曲げて山崎を眺めた。 「そりゃあねぇ、さんがいなけりゃ俺の仕事は減りますよ?」 「・・・・・・・・・・・」 「この半年というもの、一日交替で偵察、護衛、偵察、護衛のヘビロテでしたからねぇ。仕事が減るのは歓迎ですよ。 ろくに取れなかった休みも少しは取れそうだし、そこも悪かないです。むしろ嬉しいくらいですよ。・・・けどねぇ」 「・・・・・・・・・・・」 「今日から当分、さんの「山崎くーん、お疲れさまー!」が聞けないんだなーと思うとねぇぇぇ。・・・あーあァ。 やってることは同じでも働き甲斐がないっていうかぁ、いまいちやる気出ないっていうかぁ。士気が落ちるっていうかああぁ」 土方は無言で拳を振りかざし、運転席の頭をガツンと殴る。手加減なしに殴られてしまった山崎だが、 懲りた様子も怯えた様子も案外となかった。涙目で頭をさすりながら、ぶーっとむくれて口を尖らせる。 それほどにの不在が――というか、侘びしい屯所暮らしの毎日を癒してくれるたった一輪の花を (内心ではそんなことはしたくないくせに)ぽいっと追い出してしまった、この色々と厄介な上司のことが不満だった。 「ちぇっ。そこまで機嫌損ねるくれーなら、城になんかやらなきゃいーのにぃぃ・・・・」 「んだとコラ聞こえてんぞ。寝言なら寝て言いやがれ」 なんなら一生眠らせてやるが。 ぱちん。刀の鍔口を切って白々と光る刀身をちらつかせ、ぎろりと凄んだ目で脅す。 山崎はたちまちに青ざめた。 慌ててギアを切りアクセルを踏み、すぐさまパトカーを急発進させる。手のひら返しな低姿勢で話しかけてきた。 「そっっ、それよりもですねえっ、去年に密輸の容疑で張ってた北埠頭が、どうもここ最近、違う動きがあるようで」 「埠頭っつーと、・・・あれか、でけぇ穀物倉庫が並んだ、」 「ええ、これまで深夜に数回、国籍不明の不審な大型船の出入りがあったそうです。どうします、そっちも張っときますか」 そう訊かれ、一旦は、ああ、と頷きかけたのだが。 指に挟んだ煙草を軽く揺らしつつ、数秒の間黙考してから口を開いた。 「いや。お前らは例のアジトから目ぇ離すな。埠頭には俺が出向く」 「えーっ。副長が直々ですかぁ、珍しい」 まったくだ。普段の俺なら、一も二もなくこいつに押しつけていただろう。 ところが生憎と今日に限っては、これといった急ぎの仕事もなく、他の奴らの目を盗んでは 食事を口実に連れ出していた女もいない。いや、元より食事だの酒を呑みにだので出掛けるような気分でもないが、 かといって、大人しく部屋で布団に潜るような気分でもないのだ。 ・・・それに、寝たら寝たで、どうせあれのことばかり思い出すに決まっている。 ここは一晩の自省を課したつもりで、刺すような秋の海風でも浴びてくるとするか。 そうしていりゃあそのうちに、箍の緩んだこの頭も少しは冷えてくるだろう。 生欠伸をこらえて眉間を抑えた土方は、徹夜明けの眠たげな目元を軽く顰めた。 ちらりと後部座席に目を向ける。 普段ならそこにちょこんと座っている女の姿がないことが、ただ漠然と物足りなく思えた。 腕を組んでシートに深く身体を埋め、車窓に苛立ち混じりな視線を投げる。 がいない。そう意識しただけで、窓の向こうを流れていく朝の街のまばゆさまで妙に褪せて見えてくる。 味も素っ気もないBGMのように流れている無線のノイズと音声に紛れさせて、隣の山崎にも聞こえない程度の、 ほんの小さな舌打ちを鳴らした。 馬鹿が。どれもこれも手前で決めたこったろうが。・・・今さら後悔に暮れても遅せぇってんだ。

「 片恋方程式。39 」 text by riliri Caramelization 2011/09/03/ ----------------------------------------------------------------------------------- ここと*40の間の総悟番外編は → *こちら*       next