片恋方程式。 38

すぐには言葉が出て来なかった。 それはこれまでにも幾度か見てきた表情で。幾度見せられても胸が痛む表情で。 そう、ほんの数日前――つい最近も、これと似た表情を目にした覚えがある。 新入りどもに稽古をつけるはずの総悟が不在で、が代理を務めたあの日だ。 場所は屯所の廊下だった。呼び止めた俺に驚いていたこいつは、何かをこらえているような、泣きそうな顔で笑っていた。 「なーんてね、冗談ですよぉ。あれっ、もしかして本気にしましたー?」 「・・・・・、」 「えーっ、ちょっとー土方さぁん、顔固まってますよー?どーしたんですかぁ変な顔しちゃってぇ」 ふざけてぱしぱしと彼の肩を叩き、あはは、と笑ったの表情は、これ以上ないほど晴れやかなものに変わった。 緩やかに弧を描いた唇は鮮やかに笑っている。なのにどこか不自然で、痛々しくさえあった。 笑う女をきつい視線で斜に見据えて、酔った自分の体たらくぶりが歯痒くなる。 を見慣れた土方には一目で判った。これはこいつが必死に繕った、精一杯の笑顔だと。 ・・・・・俺の一言がこいつを傷つけたのか。 じわりじわりと襲ってくる後悔を噛みしめ、彼は声もなく腕を伸ばした。 「・・・!」 細い手を捉えようとすると、は驚いた表情でその手を見つめた。いつもとはどこか違う気配で 自分を見つめてくる鋭い目から、おびえたように目を逸らす。唇をきゅっと噛みしめ、腰がじりっと後ずさり、 ばっ、と彼の手は振り払われた。何の躊躇もなく彼はその手を追った。 ・・・不思議なことに、他のことは一切頭になかった。にあんな顔をさせてしまったことが悔やまれて、 ずきずきとしつこく鳴り響いている頭痛さえどうでもよくなっていた。さっきまではどうあっても貫くつもりでいた 自制心だの責任だのが、最早頭から消え去っている。 逃れた先で浮いていた指を捕まえて、今度こそ振り解かれないようにと、固く、強く握りしめる。 するとは困惑に揺れる瞳で彼を見つめ、――逃げ切れないと観念したのか その腕から徐々に力が抜けて下がっていく。ふっ、と細い肩からも力が抜けていって。 「どうして・・・?」 ぽつりと、放心したような声で問いかけてくる。表情が今にも泣き出しそうに崩れていった。 じわじわと潤んでいく大きな目が土方を責めている。 震える唇から絞り出した問いかけ。わずかひとことに籠めたその問いかけの、本来の意味。 それはおそらく、このひとに届くことはない。 そう判っていても、は言わずにはいられなかった。 「・・・・・・・・、」 問われた土方も答えようがなかった。これから自分が何をしようとしているのか、自分ですら理解しえないのだ。 ただ身体が動く。触れたい、という思いが強く高まってくる。握った手を解いて、途方に暮れている曇った顔へと伸ばした。 指の背で頬を軽く撫でると、は硬い手のひらに頬を寄せてうつむいた。 はぁ、と悩ましげで弱々しい吐息が紅い唇からこぼれる。 細い指がこわごわとした手つきで触れてきて、手首のあたりをそっと握られた。そこから伝わってくる、 火照ったの体温が心地いい。手のひらを埋めたすべらかな肌の質感は、土方の手に吸いつくようだ。 潤んだ目を伏せてうつむいた表情を見つめながら、荒くなりかけた息遣いを秘かに呑み込む。 こうしての手や頬に触れていると、今度は、その手を自分の方へと引いてみたくなった。 頬に掛けた指に力を籠めてゆっくり導いてみると、は引かれるままに身体を傾けてきた。 さらに引くと、細身な身体が倒れ込んでくる。土方が何も考えず、無意識に広げた腕の中へと―― 「・・・・・、土方、さん、・・・・・・」 眠りに落ちる間際に出すような、ぼうっとした声でがつぶやく。 飛び込んできた頼りなくて柔らかな重みが両腕に収まる。肌や髪から漂ってくる甘い香りが鼻孔を塞ぐ。 広がった長い髪に手を這わせ、胸元に顔を預けたっきり動かない、小さな頭を掻き寄せる。 細い腰のくびれあたりをぎゅっと強く抱きしめると、はその感触で我に返ったらしい。 びくっ、と小さな肩を震わせた。 「・・・あ、や、やー、ちょっとー、せ、せくはらー。せくはら反対ぃー! やーだー、悪ふざけはやめてくらさいよぉぉ。さっきのー、せくはらのー。つづきぃ、ですかー・・・?」 「・・・そんなんじゃねえ」 「あー。じゃあー。ストレス解消にぃー、からかってー、面白がってやろー、とかぁ?」 「・・・だから違げぇってんだ」 イラついた表情での頭を見下ろし、両腕にぎゅっと力を籠める。 隊服の上からでも引き締まっているのがわかる硬い胸板に荒く押しつけられ、はさらに身体の自由を奪われた。 急に抱きしめられてどうしていいのかわからないのか、それとも照れ隠しなのか。耳まで赤く染めて けらけらと、ぎこちない表情で彼女は笑った。睫毛を深く伏せた目は決して彼を見ようとしない。 笑っているというのにどこか悲しげな、複雑そうな表情に戻っていた。 ――唐突に手を引かれ、煙草の匂いが染みついた腕の中に閉じ込められ、強く抱きしめられた。 そのどれもが彼女の目には、酔った土方の悪ふざけとしか映らなかったのだ。 そう、これと似たことは前にもあった。 お風呂場でも。急な雨でずぶ濡れになったお祭りの夜にも。 酔っ払ったこのひとに夜道で偶然出会った、いつかの夜も。九兵衛さまに再会した日の帰り道でも。 あれはどれも、あたしにとっては一大事で。でも、女慣れした土方さんにとっては、・・・こんなことくらい。 きっとたいした意味はないんだ。そんなことわかってる。 なのに心臓はとくとくと波打ってくるし、熱くなった身体には、ほのかな期待が生まれ始めてる。 ・・・馬鹿だなぁ、あたし。 どうして期待しちゃうんだろ。わかってるのに。どうせこれも、土方さんの気まぐれなんだって。 熱いものが瞼の裏でじわりと滲んで、目元が勝手に潤んでくる。 は笑っていた唇を力無く歪め、きつく噛みしめて泣きたさをこらえた。 土方の上着の端を掴んでいた手に、つい力が籠る。 自分を抱きしめている男の目も忘れてわあっと泣きじゃくりたいくらい、無性に泣きたくなっていたのだが―― 「おい」 「は。・・・はい?」 「お前、また何か早合点してねぇか」 「・・・・・・・・・、」 ・・・・・・、早合点? その一言が頭の中で繰り返し鳴った。泣きたくなっていたのも忘れ、赤くなった目をぱちくりさせる。 口がぽかんと開きっ放しだ。困惑がピークに達しているのだ。これまで彼女に対する本心らしきことは 滅多に口にしなかった土方なのに。それが急に堰を切ったようにあれこれと言われ、意外な発言に どきっとさせられたり、嬉しくなったり悲しくさせられたりしているうちに、あげく唐突に抱きしめられ。 しまいには「お前、また早合点してねえか」だ。 しかも、ひどく不満そうな、苛立ちの籠った低い声で、問い質すように言われたのだ。 「つーか。どんだけ酒が入ってようが。こんなこたぁ、・・・・・・・・・・ ・・・冗談じゃねぇ。悪ふざけや酔狂でてめえに手ぇ出せるほど、俺ぁ小器用に出来ちゃ、・・・」 言い辛そうに眉を顰め、土方は半端に言葉を濁した。 呆然と、瞬きしながら隊服の胸元を見つめていると、また力ずくで抱きしめられる。 あまり力の加減をしてくれないから、腰に掛けられた手の指が肌まで食い込んできて痛いくらいだ。 ・・・・・わけがわからない。 だって。これが悪ふざけじゃなかったら、・・・・・・・・何なの。どうして。 おろおろと視線を彷徨わせてうろたえながら、自分自身に投げかけた疑問。 そこから導きだされる答えを――たった一つしか思いつけなくて、は潤んだ大きな瞳をぱっちりと見張った。 ・・・まさか。 ・・・そんなはず、ない。 にとってそれは、思うだけで驚きで息が止まりそうな、信じられない答えだった。 ちっとも自信が持てないその答えを、一旦頭の中から振り払おうとする。 それでもじわじわと膨らんでくる期待は打ち消せない。 とくん、とくん、と心臓が弾んだ脈を打ちはじめる。おずおずと、消えそうに小さな声で呼びかけた。 「質問。しても。いい、れす、かぁ・・・・・・?」 「・・・・・・・、何だ」 「・・・土方さんはー。のことー。好き、なん、れす・・・・・かぁ・・・?」 語尾が震えるほど硬くなった声が、いかにも自信がなさそうに尋ねてくる。 それを耳にした土方はぴくりと片眉を吊り上げ、呆れて物も言えねぇ、とでも言いたげな苦々しい顔になり。 はーっ、と長く盛大な溜め息を吐いた。 ・・・・・何言ってんだこいつぁ。 ここまで来て何を今さら疑ってんだ。んなもん一目瞭然じゃねえか。 どうしてこうも鈍いのか、この馬鹿は。 ・・・いや。前から思っちゃいたが、こいつは何か俺に対して決め込んでやがる節がある。 俺が自分に惚れる、なんてこたぁ絶対にありえねえ。 なぜか勝手にそう思い込んで、疑う余地なんざどこにも持ってねえらしいが、・・・・・・・・・ 「・・・あぁ。そうなんじゃねえか。そうかもな」 ・・・あぁ畜生、 「・・・・・・そうだ。決まってんじゃねえか。見て判らねえのかよ。何でもかんでも言わなきゃ判らねえのか」 「っ!ひ。じかた、さぁ、ま。待っ。ふぁ、これ、くるし、っ・・・・・」 「どうせこれも朝には忘れちまってんだろうがな。・・・はっ、文句も言えやしねーな。ざまぁみろ」 の顔を胸元にぎゅうっと押しつけ、半ば八つ当たり気味に言い募るうちに、無性に歯痒くなってきた。 息苦しくてじたばたと手足を暴れさせている身体をがむしゃらに抱きしめる。 最初は息苦しさでパニックになっていたも、土方の仕草の変化に何かを感じ取ったらしい。 もがいていた手足の力が段々と弱まっていき、やがて動かなくなり。ふっ、と全身の力を抜いて彼に身体を預けてきた。 そのうちにぶるっと背筋が震えて、土方の胸に押しつけた唇からは、小さな声が漏れてくるようになった。 途切れ途切れに聞こえるかすかな声。それは喉の奥でこらえている嗚咽だった。 号泣したいのを必死に我慢しているようなせつない響きに合わせて、弱々しく肩が震え始めて。 「・・・・・・・っ。ひ。土方、さぁん・・・、っ、」 「・・・、」 「もです。も土方さんが好き。・・・だいすき。ずーっと。このまま。いっしょに。居たい、です、・・・っ」 涙声でつぶやく途切れ途切れな声が、抱きしめた柔らかな身体を通して直に響いてくる。 ぽろぽろと零した大粒の涙が、シャツの胸元を熱く濡らしていく。ぐす、ぐす、と何度かしゃくり上げながら、 華奢な手の感触が二の腕にしがみついてきて。隊服の袖をぎゅっと掴んで、涙で詰まった苦しげな声で伝えてきた。 「他には、なんにも、いらないですから。だから。ずっと。ずーっと。一緒に。いて、くらさいぃ・・・・・・・」 子供のように頼りない、舌足らずな声でそう言って。土方のシャツの衿元に顔を押しつけて啜り泣く。 震える背中を抱きしめたまま、土方も眉を曇らせて重苦しい沈黙に耽った。 激しい雨音を伝えてくる暗い天井をじっと見つめた。 が何度も繰り返した、ずっと、という響き。あれが耳にこびりついて離れなかった。 ――やがてが泣き止むと。 彼の胸元には、抱きしめた女の感触と、やわらかに触れてくる彼女の息遣いだけが残った。 こうして抱いているだけで鼓動は高まる。なのに、やけに穏やかな気分だった。 心地良い感触と熱に自分の身体まで同化していくような錯覚が起こって、ともすれば眠ってしまいそうにもなった。 ここだけ時間が止まっちまってんじゃねえか。ついそんな世迷い言をつぶやきたくなるような、 不思議なほどに心地良く感じた沈黙を経て。の肩が小刻みに揺れた。 外を吹き荒れる風雨の音に紛れてしまうくらいにちいさな声で、ふふ、とさみしげに笑って。 「・・・雨。このまま。やまなかったら、いいのに・・・・・・・・・・」 遠慮がちに身じろぎすると、頬をそっと擦り寄せてくる。 それはにしてみれば、ただの何気ない独り言だったのだろう。ぼんやりした声音からもそう察せられた。 だというのにその声が、ひどく痛切に胸に迫ってくる。 (ずっと、一緒に居てください。) が繰り返し口にした願い。彼女のたったひとつの願いが、その何気ない言葉には染み透っていた。 土方はを見下ろして眉間を狭め、軽く息を詰めた。 こうしてじっとしていると、の肌から昇る匂いや、柔らかな胸の奥でひめやかに鳴っている心音まで流れ込んでくる。 胸元に押しつけられた息遣いを肌で感じていると、制御出来ない複雑な感情の洪水が身体の芯から生まれ出てくる。 それらはいつしか、どれがどれともつかないほどに混ざり合い、溶け合っていって。 全身を焦がすような熱さで渦巻いていって―― すっ、と唐突に上半身を起こす。そこから落ちそうになったの肩を掴み、そのまま畳に下ろした。 その間、はきょとんと目を見開いて彼を見上げていた。 土方の胸に身体を預けて寝そべっていたはずが、いつしか肩を掴まれ、畳に倒され、 少し怖いくらいに表情を消した土方に、射抜くような目つきで見下ろされている。 わけがわからず、思わず手を動かして彼の肩を掴もうとする。その手首を土方は素早く抑えた。 握り締めて力を籠め、華奢な腕を畳に縫い付ける。 声もないほど驚いているらしい。は唇をかすかに震わせただけだった。 涙を浮かべた大きな目が、無言で土方と視線を合わせる。ふ、と軽く息を呑んだ表情で顔つきが固まる。 肩がぎゅっと竦んで、隊服に包まれた胸の隆起もわずかに上下していた。 そうだ。 風呂場でこいつを拒んだ時も。 こいつが正体もないほど酔っ払って、屯所の廊下で抱きついてきた時も。 柳生の御曹司からこいつを奪い返して、無性に腹が立って。夜道で抱きしめちまったあの時も ――― 「・・・・・・ひ、・・・じかた、さ、・・・・・・・・」 はぎこちなくつぶやいた。 自分の目が信じられないのか、瞬きも忘れて大きな瞳を見張っている。 涙の滲んだ瞳を見つめるうちに、ひとりでに身体は動いていた。 唇を半開きにして彼を見つめる、まだどこかあどけなさの残った女の顔に近づいていく。 自分を見つめて瞠目している顔の横に腕を突き、姿勢を低めて身体を少しずつ寄せていく。 ごく自然に。無意識のうちに、身体は感情のみに支配されていく。 全身を強張らせていた自制の殻をゆっくりと破り、濁流のような雨音が響く暗闇に脱ぎ捨てていく。 触れるとびくりと震えた唇は蕩けるほどに柔らかく、触れ続けていればそこから溶け合ってしまいそうな 心地良い熱を帯びていた。 畳との間に手を入れて、さらさらと流れ落ちる髪を手の内に握りながら頭を抱いた。 ほのかな吐息が漏れ出すあわいをそっと割りながら思った。 そうだ。 俺はずっとこうしたかった。

「 片恋方程式。38 」 text by riliri Caramelization 2011/08/24/ -----------------------------------------------------------------------------------       next