ぱた、ぱた、ぱた ――― 。 ぽん、ぴん、ぽろん ――― 。 この家のあちこちで鳴っている音。天井から垂れてきた雨の雫が、ぽつぽつとたらいを打っている音だ。 こうして真っ暗な中で耳を澄ましていると、木琴や鉄琴の音色みたいに聞こえてくる。 両腕できゅっと抱えた膝小僧の上に置いたものを、――ぱちん。もう何度も開いた携帯をまた開く。 ぱっ、とまぶしく光った画面で時間を確認した。 部屋の明かりが消えてからもう十分。まだ電気は復旧していない。 雨戸が開かないから外の様子は確かめようがないけど。もしかしたらこの町一帯が停電しているのかな。 「・・・土方さん、遅いなぁ・・・・・・」 早く帰ってきてくれないかな。 雨漏りの様子を見てくるって出て行ったけど、どこまで行ったんだろう。 最初は聞こえていた足音も、ぜんぜん聞こえなくなっちゃったし。 見つめた待受画面では、うさぎのぬいぐるみを抱きしめた美代ちゃんが 太陽を見上げた向日葵みたいに笑っていた。 ・・・この美代ちゃんの笑顔や、細長い液晶モニターがくれるこのちいさな明るさを、 こんなに頼もしく思ったことなんてなかったな。 稲山さんの怪談、聞いたときにはすごく楽しかったんだけど。こんなことになるなら聞くんじゃなかった。 だってあの話さえ聞いてなかったら、・・・あたしだってまさかあんな、我を忘れて土方さんに抱きつくなんて とんでもない真似は。 ・・・・・・・・だ。抱きついたっていうか。 あれはどう控え目に見ても、あたしが土方さんを押し倒したっていうか、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 「っっっ、〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!」 ぱっ、と頭の中に浮かんできたのは、お尻の下に敷いた土方さんがこっちを振り返った時の姿。 怒ってるんだか呆れてるんだかうんざりしてるんだかわからない、複雑極まりなかったあの表情。 かあぁーっ、とほっぺたが燃え上がってくる。耳まで火が点いたみたいに熱くて、ああ、でも、 こんなところに土方さんが戻ってきたらどうしよう。 「ややや、やっぱりいい!あんなセクハラニコ中マヨラーなんか当分帰ってこなくていいィィィ!!」 なんてことを叫んだ瞬間に、後ろから、がぁんっっっ、と派手に何かがぶつかった音が。 「ふぎゃぁああああァァ!!」 あんまり大きな音だったから、びくぅぅっ、と背筋が跳ね上がった。 こわごわと、びくびくと、涙目になりながら背後を振り返る。廊下の暗闇に目を凝らしたけど・・・、 そこには何かが起こった気配もなければ、誰かがいるような気配もなくて。 「・・・・・な、なんだぁ、あ、雨戸に、飛ばされた、何かが、ぶつかった、・・・・・・だけ、じゃん。 や、ゃぁあだなぁぁ、あたしったら」 ははは、あははは、ははははは。 強がって高笑いしてみた。強がっていられるのは口だけだ。 声も唇もカタカタ震えてるし腰は抜けそうだし顔は血の気が引いちゃって、背筋のぞくぞくが止まらないし。 どうしよう。こんなときに限って、思い浮かぶのは怖いことばっかりだ。 例えば、そう、例えば――、もしもここで、ぽん、と後ろから肩を叩かれたらどうしようとか。 びゅーびゅー唸ってる風の音に紛れて、「ううぅ・・・・」なんてかんじで 誰か啜り泣いてるさびしげな声が聞こえてきたらどうしようとか、 ・・・・だめだ、想像力がマイナスな方向にばっかり逞しくなってる。最悪な状況しか思いつかない! 「・・・・・ひっ、土方、さぁーん・・・・・。いますよねー?いるんですよねー?」 まさか、か弱いちゃんを置きざりにして自分だけ本棟に戻るとか、 ・・・いくら性格悪い土方さんでも、まさか、そ、そこまで酷いことは、・・・しませんよねぇ・・・・? 「〜〜〜〜〜〜っっ!!」 畳にがばっと伏せる。ひったくった座布団をぼすっと頭に被せて意味なくガードしてみたけれど、 …もうダメ、もう限界、もう無理!!こんな暗い中で一人きりだなんてこれ以上我慢できない! ああ、いっそここを出て土方さんをダッシュで迎えに行っちゃいたい。でも、 ・・・・・何て言えばいいの。土方さんと出くわしたら、最初に何て言えばいいんだろう。 ていうかそれ以前に、今夜一晩、あのひととここで二人きりだなんて・・・・・・、一体どんな顔してたらいーの・・・!!? 「だめぇぇぇ、考えちゃだめぇぇ!考え出すとパニクっちゃうから忘れたふりしてたのにぃ!」 ああもぉわけわかんないっっ。 どっっ、どーしようぅぅ・・・・・、こんなことしてる間に土方さん帰ってきちゃうのに・・・! 起き上がって座布団を抱きしめて、おろおろと室内の暗闇を見回す。 すると、戸口の前で白っぽく輝く、微かな光が目に入った。 ・・・何だろう、あれ。 涙でぽわぁーっと滲んだあたしの目は、墨で塗り潰したようなこの暗さにもだんだん慣れてきていて、 畳に転がるそれのころんと丸いシルエットをなんとなく認識できていた。 「・・・・・・・、」 座布団を放して前屈みになって、ぺた、と畳に手のひらを着いた。 四つん這いになって、のそ、のそ、のそ、と近寄りながら手を伸ばす。 ふと目に入ったそれが「こっちにおいで」と呼んでいる。 部屋の隅っこで身体を縮めてガクブルしていたあたしを、忘却の世界へ誘ってくれる救いの光が――

片恋方程式。 37

あれから――居間を出てから、ゆうに三十分は経っただろうか。 台風の目はそろそろ江戸を通過してよさそうな頃だが、雨音は一向に弱まらない。 ごうごうと屋根を打つ雨音は、まるでこの古い家に濁流を浴びせているような轟音で。そのうちにこの一帯すべてが 水没するのでは、と眉をひそめたくなるほどの騒ぎだった。 ・・・雨音ってのも、こうもデカいと煩せぇだけだな。 外の音なんざ何も聞こえやしねえ。風にガタガタと鳴る雨戸を横目に眺めながら、土方は携帯のディスプレイの明るさを 照明代りに廊下を進んでいた。その足取りは急ぎ気味だ。に抱きつかれて沸騰しかけた頭を冷やそうと、 彼女を居間に置いてきたものの、結局、居間に残したのことが気になってしまうのだ。 それに、・・・・・・・・・――ちょっと。いや、洗いざらい白状するならば、かなり。 ・・・そう、あの涙に濡れた不安げな目や、縋るような表情は、かなり可愛かった。 おそらく場の盛り上げを狙った出まかせだろう怪談話を真に受けて、泣くほど怯えていた。 そんな彼女を土方は、口ではバカにしつつも、心の内では頭でも撫でて宥めてやりたい気分にかられていたのだ。 が暗い中で一人、心細さに怯えながら自分を待っている。その姿を思えば、廊下を行く足も自然速まるというものだ。 しょーがねーな、と照れ臭さに舌打ちしながらも、程なく彼は居間へと着いた。・・・ところが、 「あー、土方さぁん!、おかえりらさぁああいィィ!もぉぉぉ、遅いれすよぉー、 遅れたお詫びにジャンプと焼きそばパン買って来いやぁああこのハゲボケ変態ぃぃぃぃ」 「おいィィィィィ!!!」 べしっと携帯をかなぐり捨てて、土方は家中を突き抜ける怒号を飛ばす。 急いで戻ってみれば、真っ暗な部屋にはビールや缶チューハイの空き缶がごろごろと散乱。 何だ、何事だ、と彼が構えたところへ、奥の台所からのそのそと這い出てきたのは、顔を赤くしてけらけらと 笑いこけて彼を出迎えただった。女の涙にうっかりほだされかけたおかげで憤慨も落胆も一塩である。 ほんの三十分前には泣いて縋っていた可愛い女は、陽気で横暴なただの呑んだくれと化していた。 酔いの回ったよろよろした手つきで空き缶を投げてきたり、冷蔵庫から引っ張り出したらしい柿の種を 土方の顔にぺちぺちと投げつけてくるのだ。怒りと呆れにブルブルと肩を震わせている彼の脚元は、 おかげで柿ピーと空き缶だらけである。 「ああっ、なんれすかぁ。なんれすかもぉ怖い顔しちゃってぇぇ。だめれすよぉ、か弱いちゃんをこんな淋しい場所で 放置ぷれいして喜んでたくせにぃ!やーだなぁもぉぉどんだけ悪趣味なんですかぁぁあこっのへんたいニコ中まよらーがぁぁ」 「・・・!」 口端に咥えていた煙草を噛みしめ、土方の全身が固まる。頬をぽーっと赤らめた酔っ払いが、 首を左右にふらー、ふらー、と揺らしながら、子供のように甘えかかってきたのだ。 隊服をちょこんと握り、彼の膝に「おかえりらさぁーい」とおでこを擦りつけ、えへえへ、と嬉しそうに 笑いかけてくる。こめかみにびしりと浮いていた青筋もすーっと萎えていき、土方は青ざめんばかりに慄いた。 こいつ。このバカ。最悪だ。緊張感に耐えかねて自爆しやがった・・・!!! 気まずさと自制心と責任とその他もろとも、すべてひっくるめて俺に押しつけ、てめーだけとっとと酒に逃げやがって。 完全なる丸投げじゃねーか。いや、丸投げどころか、柔道家のキレの良い背負い投げくれーの勢いじゃねーか! 「〜〜〜っ、冗談じゃねえ・・・!冗談じゃねえぞ馬鹿野郎、台風が止むまであと何時間あると思ってんだ!?」 「あぁ〜、だめれすよぉ土方さぁん、噛みしめすぎて煙草折れちゃってますよぉぉ、てゆうかぁ、変な顔〜〜!」 「てめーこそ何だその赤ら顔は、茹で蛸じゃあるめーし!おいコラ言えるもんなら言ってみろ、 上司が真っ暗れぇ中雨漏り探し回ってんのに、パシリのてめーがへべれけになってんのぁどーいう訳だ!?」 「ぇえ〜〜〜、そんなに呑んでませんよぅぅ。缶ビールのちっちゃいの、ほんの一本くらいれすよぅ」 「おいィィ、よく言えたな!?そこいら中に空き缶ゴロゴロ転がした奴がよく言えたな!?」 かぁんっっ。八つ当たりに空き缶を蹴飛ばし、土方はを睨んでぎりぎりと歯噛みする。 畜生、とことん人を振り回しやがって。たらいの雨水に放り込んで頭冷ましてやろーか、この野郎。 「えへへへへぇ。だーってぇぇぇ。素面でなんていられませんよぉ。土方さんと二人っきりなのにぃぃ〜〜」 「っ!!」 煮え滾る怒りでわなわなと震えていた右の拳を、はし、とに掴まれる。 彼の指にするりと回って包んだのは、ひどく頼りない柔らかさ。そして芯から燃えているような素肌の熱だ。 「ねぇねぇ。土方さぁん。ひーじかた、さーん・・・・・・・?」 甘えきったの呼び声が、顔や手が触れている膝のあたりから伝わって身体を上ってくる。 思わずどきっとして手が震え、足元に跪くに目を向けると、 「さぁさぁ呑んでくらさい土方さんもぉぉ〜〜〜!」 酒臭い女が頭をふらふら揺らしてコップ酒を勧めてくる。呂律の回らない口調にがっかりして、額を抑えてうなだれたくなる。 すっかり出来あがっているの目はとろんと呆けていた。口紅など挿さずともほんのり紅い唇は半開き。 薄桃色の赤みが差したその顔はなかなかに色っぽくもあるのだが、短時間で一気に呑んだためか ひっく、ひっく、としゃっくりが止まらず、それに合わせて肩まで小刻みに揺れているから台無しだ。 「ほらぁぁ、いーじゃないですかぁ、一緒に楽しくなりましょーよぉ、レッツパーリィぃぃ!しましょーよぉぉ!」 「出来るかァァ!色んな意味で出来るかァァァ!!」 「まぁまぁまぁ、堅いこと言わずに、ねっ!これなんかどーですかぁ美味しいですよー、ぐいっと景気良くいきましょー!」 「っておい、ちょ、待っ、な、何しやが、・・・ぐほ、ぉっっっ!!?」 笑顔を真っ赤に染めた酔っ払いが唐突で強引な怪力を発揮、止める間もなく土方は腕を引かれ、 どたっと尻餅をつき、酒瓶をぐいっと押しつけられる。口から溢れるほどの量をゴボゴボと、浴びるほど呑まされてしまった。 しかもタチが悪いことに、が押し込んだのは発泡酒やらビールではなかった。度数が強くて回りやすい 安物の焼酎である。空になった酒瓶がころんと転がり落ちたのとほぼ同時、酔いは急激に回り始めた。 やめろ、と酔っ払いを払い除けた時には、まぶたがどんよりと重くなり、 まるで地面が揺れているような強烈な眩暈がして。うっ、と呻いた土方の身体は、くらり、と大きく傾いた。 やばい。身体が。 ――頭ん中まで、一気に来やがった。 そう感じた時にはすでに遅し、だ。 目の前に靄がかかり、視界のすべてがぐにゃりと歪み。またもやに圧し掛かられ、畳にばたりと昏倒した。 ――さて、それからいったい何時間が経ったものか。 ずきずきと疼く強烈な頭痛で目を覚まし、畳にぐったり倒れていた土方には判らなかった。 ・・・思いのほか重症のようだ。煙草を吸う気すら起こらないのがその証拠か。 手足どころか頭まで鈍っちまって、時間の感覚もすっかりぼやけきっている。 しかし、外の風音や雨が次第に弱まり始めたところから見ても、飯時はとうに過ぎているはず。 そろそろ誰かが――順当にいけば総悟あたりが、の姿がどこにもないことに気付くだろう。 黒々とした天井を睨み、いまだに痛みの引かない頭を抑えながら考える。 やべえな。俺が一緒だと知ればあいつぁ黙っちゃいねえぞ。 あれが装甲車で殴り込んでくる騒ぎになる前に、なんとか向こうへ戻れねえもんか。 そんなことを案じもするのだが、・・・もっとも、騒ぎの種となるはずの本人には、そんなことは一切頭になさそうだ。 さっきからずっと彼の隣に座ったまま、缶ビールをちびちびと啜りながら、ひそかな悩みを語り続けている。 「だからねー、総悟がー、最近なんだか変なんですよー。どこが変かって言われたらぁ、 …わかんない、けどぉ。とにかく変なの。変なんです。なんとなく元気ないしー。ごはんもあんまり食べてないしー」 「…んなことまで俺が知るかよ。つーか別に普通だろ。俺には普通に斬りかかってくんぞ、あいつぁ」 「そうなんですけどー。でもねー、普通に見えるからー、なんかー、かえってー、心配なんれすよー。 何か悩みでもあるんじゃないか、とかぁ。ねー、土方さんだって心配ですよねー?」 不安そうに眉を下げて彼を見下ろすに、くい、と掴まれた袖口を引かれた。 こうして袖を引かれれば、ああ、と気のない相槌を打ってやる。しかし打ち明け話の半分以上は聞いていなかった。 とっくに聞き飽きているのだ。酔った彼女は何度も同じ話を繰り返している。 もういい。話を変えろ。しかめっ面で何度釘を刺しても、延々と沖田の話は続くのだ。 あいつと何があったのか、具体的には言おうとしねえ。だがこの様子だ。余程に総悟の奴が心配らしい。 「ちょ。土方さーん。どこ見てるんですかぁぁぁ。あたしの話、聞いてくれてますかぁ?」 「聞いてねぇ」 「〜〜!真剣に相談してるのにぃぃ!」 ・・・判っちゃいねえ。お前の口から他の野郎の話を何度も何度も、誰が聞きてぇもんか。 不満そうにこっちを見下ろす顔が、ずいっと頭上に被ってきた。薄桃色に染まった頬をぷーっと膨れさせている。 「なんなんれすかぁぁ、もぉぉ〜〜!」と舌っ足らずな声を震わせて殴りかかってくる女の腕を、 ぱしりと掴んで止めた。その腕を見つめて眉を寄せ、微かに表情を曇らせる。 手の中にあるのは、このまま握り潰せてしまいそうなほどにか細い腕の感触だ。 これをこのまま引けば――。 なんてことも思い浮かべてしまう。何の気も無しに触れてしまった迂闊さを土方は悔やんだ。 「なんですかさっきからぁぁぁ、何がそんなに面白くないんですかぁ。 言いたいことがあるなら言ってくださいよぉ。ずーっと顔が怒ったままですよぉ」 微妙に表情を曇らせた彼を、はじっと見つめてくる。気まずくなって彼女の腕を乱暴に払い、 表情を読まれたくなかったので顔を腕で隠し、そのまま寝入ってしまうようなふりをした。 はそれを自分への不満の表れと取ったようだ。 もぉー、と唸る拗ねた女の声と、空き缶と柿の種が数個、ぺちぺちと彼に飛んでくる。 痛てぇな、とむっとしているうちに、なんとなく腹立ち具合が増してきて。溜め息混じりで不貞腐れた声が、 ふっ、と喉の奥から湧き上ってきた。 「・・・、ああ。そうだ。面白くねぇな。納得いかねえ。・・・何だってぇんだ、総悟総悟と」 ・・・、おい。俺ぁ今、何を。 ちっ、と悔しげな舌打ち付きで口に出してしまってから、土方は顔を覆った腕の影で目を見開き、息を呑んだ。 何だ今のは。酔いが回って頭の螺子が緩んじまってるとはいえ、今のあれは本当に俺の口が発したのか。 我が耳が信じられない。驚いて固まっていると 「ぇえー。・・・なにが?何がそんなに面白くないんですかぁ」 と拗ねたようなの声に訊かれ、胸の中が戸惑いに揺れはじめる。 「前々から思っちゃいたが。お前、総悟に気ぃ許し過ぎじゃねぇか」 ・・・・・何をぶちまけてんだ。おい。やべぇぞ。おい。 「お前を拾ったのは俺じゃねーか。名目上はとっつあんがいるたぁいえ、実質、てめえの身元を引き受けて やってんのも俺だ。・・・・・・だってぇのに。いや。近藤さんはああいう人だからいいとして。総悟の奴ぁ、・・・」 「・・・?何の話ですかぁ」 おい。やめろ。おい。 自分自身に――自分の内に棲んでいる、誰か別の自分に焦って命じる。 焦るあまりに喉が渇く。今もこめかみのあたりで弱く疼いている頭痛が、混乱に追い打ちをかけてくる。 ところが、あわてて歯止めをかけようとする彼には耳を貸さず、口は勝手に動き続けた。 「・・・あぁ。そうだ。最初っから気に食わねんだよ。 あのクソガキ、最初っからてめえのもん扱いでお前を慣れ慣れしく呼び捨てしやがる。・・・・・・」 急激に溢れすぎてあらぬところから決壊した水流のように、すらすらと、澱むことなく 彼の口から流れ出てきた不満の羅列。 それは、長い間、――そう、長い間、ずっとだ――、腹の底でひそかに溜め込み続けてきた、 益体もない本音に他ならなかった。 ・・・・・・馬鹿か。酔っ払い相手とはいえ、何をいけしゃあしゃあとほざいてんだ、俺ぁ。 顔を隠した腕の下では苦い表情になりながら、に聞かれないように小さく舌打ちする。 しかし自分の迂闊な発言を悔む一方で、この程度ならまあ構わねぇか、とも思うのだ。 はとっくに出来あがっている。ここで何を聞かせたところで、どうせ朝には忘れちまってんだ、こいつは。 半ば自棄になっているようなその予想は、今までの経験則に裏打ちされたものだ。 を拾った一年半前から思い返すと、――入隊時に歓迎会を開いた席でも、 松平に誘われての高級会員制クラブでの馬鹿騒ぎでも、屯所で泥酔したがなぜか暴れ出し、 なぜか宴会が催される運びになったあの夜も――、 酒に弱い彼女は幾度か派手に酔っ払っているが、 本人がその夜の自分の行動を覚えていたためしは一度もなかった。 「なぁんだぁ、土方さんたら、そーんなこと怒ってたんれすかぁぁ。えへへへへぇ、器のちっちゃい男ですねぇぇ」 「・・・フン、悪りぃかよ」 「いーですよぉ。ちっちゃくてもおっきくてもー。はー、そんなことー、気にしませんからー」 弾んだ声を聞かされ、くいくいと袖を引かれる。土方が目元から腕を外し、女の顔を見上げると、 目が合ったはひどく嬉しげだった。頬はほんのりと赤く、少し恥ずかしそうでもある。 えへへへへ、と緩んだ笑いで顔をほころばせながら、ぴょこん、と勢いよく身体を起こすと 手にしたビールを高々と上げ、「かんぱぁーーーいぃ!」とはしゃいだ調子で音頭を取った。 ごくごくと喉を鳴らす勢いで呑み始める。 美味そうに呑みやがる、と呆れつつ、土方は苦笑気味に眺めていたのだが―― 「・・・いや待て、おい。そいつは今晩何本目の酒だ?」 気づいて瞬時に手首を掴み、表面に水滴の滴る冷えた缶を取り上げた。 「馬鹿、もうやめとけ。人一倍弱ぇえくせに」 「えぇ〜!大丈夫ですよぉー。まだまだいけますってばー!」 「ほざけ。つーか、てめぇの「大丈夫」ほど信用ならねえもんはねえんだよ。おら、そっちも寄越せ」 ぱぱっ、と他の酒も取り上げられ、彼女の手が届かなさそうな部屋の隅へごろごろと転がされる。 名残惜しそうに酒の行方を見つめ、口を尖らせたは至極不服そうにしていたが、 ――彼女の周りから危険物を撤去してほっとした様子の土方に気付くと、少しずつその表情が変わっていった。 「ぁんだコラ、人の面見てにやつきやがって。何がそうまでおかしい」 「えー、違いますよー」 目を細めたは小さく首を傾げ、幸せそうににっこり笑う。蕩けそうな声をこぼした。 「嬉しいんですよー。・・・土方さんが心配してくれるから」 細めた瞳が輝いている。柔らかそうな唇は、笑みを模って半開きのままだ。 ・・・・・・・いや。実際にあれは蕩けるような柔らかさだった。 あれは桂を捕縛しようとして偶然ぶつかっちまった時だ。あん時ぁ痛みが先行して判らなかった。 だが、後になってあの感触を思い返すたびに、舌打ちしたくなるような歯痒さに揉まれて―― 「・・・判らねぇ奴だ」 「はい・・・?」 「・・・・・・・お前。俺なんかの、どこが。・・・・・・」 「・・・・・・。」 小声でつぶやくうちに、どうしようもない気恥かしさが差してきた。 結局、はっきりと、どこがいいんだ、とは訊けなかった。しかし、にその意図は伝わったようだ。 彼を見下ろす女は身じろぎもなく、息を詰めて固まっている。 土方の言葉に驚きすぎて、目を釘付けにされているかのような顔をしていた。 「・・・、いや。今のは忘れろ」 ばつの悪さのあまり口をきつく引き結び、土方は怒ったような表情で視線を畳に逸らす。 彼を見つめる大きな瞳には、困った色が浮かびはじめた。そのまましばらく口を閉ざしていたのだが、 ――やがて目許をふわりと緩め、はにかんだ少女のような笑顔になる。 それでも黙って土方を見つめるだけ。ふふっ、と小さく笑いはしたが、答えらしい答えはひとこともなかった。 暗い部屋にぎこちない沈黙が訪れた。 耳につくのは、古びた小さな家の外を渦巻き、かたかたと雨戸を揺らす風の音。 ざぁざぁと屋根を打つ、濁流のような雨の音。 あれはどこの部屋からの音か。天井から伝う雨漏りの雫が、ぽた、ぽた、とたまに思い出したように金たらいを打っている。 お互いの息遣いまで聞こえそうな密度の濃い静けさが、暗い室内を埋めている。 の気配が近すぎて、息苦しさすら覚えるほどだ。 土方は寝返りを打とうとした。少しでも彼女から離れて、息が詰まりそうな居辛さから逃れたかったのだ。 すると、その寸前に―― 「そんなこと訊くなんて。・・・ずるいです」 その声は、くすくすと可笑しそうな笑い混じりだった。 なのにどこか淋しげで。感情の揺らぎを表に出すまいと耐えているような、苦しげな響きで。 「・・・、」 へと振り返り、土方は目を見張る。 声色から想像出来たとおり、は押し寄せる辛さをこらえているような、悲しげな笑顔でそこに座っていた。

「 片恋方程式。37 」 text by riliri Caramelization 2011/08/24/ -----------------------------------------------------------------------------------       next