「セクハラ・・・!変態上司にセクハラされたあぁ・・・・・!」 険しく眉を顰めて頬を抑えた土方は、目の前のすべてを蹴散らさんばかりな勢いで 暗い離れの廊下を突き進んでいた。後ろには、うぅっ、ひいっく、とすすり泣きながら歩く女がついてくる。 それは彼が資料倉庫で遭遇した不気味な生首女――ではなくて、倉庫で腐った床板をうっかり踏み抜いてしまったために 不気味な生首女と化していた彼の部下、である。 「何がセクハラだ、俺ぁ穴にハマって泣いてやがったバカを助けてやったんじゃねえか。それをてめえは 暴れるわ殴るわ引っ掻くわ、挙句がセクハラだぁ?どんだけ理不尽な濡れ衣着せる気だ!」 頬にはさっきにぶたれた赤みがまだ残っている。いかに華奢な女の手とはいえ、 お見舞いされたのは容赦のない全力ビンタだ。口内は未だひりひりと、痛みと腫れぼったさを訴えていた。 畜生、まだ口ん中が疼いてやがる。 「殴るにしたって少しは加減ってもんがあんだろぉが。手加減なしに喰らわせやがって・・・!」 「無理いぃっ、無理無理無理いぃっ。だって心臓飛び出るくらいびっくりしたんだもんっっ」 桜色に染まった頬をぷうっと不満げに膨らませたは、唇を尖らせて口籠る。 前を行く土方の背中を睨みつけていたのだが、急に何かを思い出したらしい。 その顔はいきなり、ぼんっ、と発火して真っ赤になった。 「・・・だって、ひっ、土方さんが、い、いいいきなりっっ、後ろ、からっ」 「ぁあああ!?あれのどこがセクハラだ?あれぁお前が「前から来られると顔が近すぎる」とか 何とかわめいて暴れっから、仕方なしに後ろから担いだんじゃねぇか!」 「だ、だからって、あんな、・・・あんなとこ掴まなくても、っっ〜〜〜!」 「てめえが妙な声上げてじたばた暴れっから手が滑ったんだろーが。掴まされた俺の身にもなれ!」 ぴしゃりと言い返された最後には、ちっ、と舌打ちまでついてきた。胸の前で合わせた手をもじもじと動かしながら、 恥ずかしさを精一杯我慢しながら訴えたというのに、返ってきたのは荒げた声と舌打ちだ。 いや、それどころか、肩をいからせ歩く土方が背中から発しているとげとげしい不機嫌さは、こうして何か言えば言うほど いっそう剣呑に尖っていくのだ。真っ赤に染まったの頬は、上司へのさらに募った不満で丸々と膨らんだ。 「・・・〜〜〜〜〜〜っ、ととと、とにかくっっ、 助け方が雑っていうか大雑把っていうか、女の子への配慮が足りないんですよ土方さんはっっっっ」 「知るか。普通の女ならともかく薄気味悪りぃ生首女への配慮なんざ考えたこともねーよ」 背中越しに投げられたのは冷えきった口調だ。むっとして前を行く土方を見上げれば、閉め切った雨戸に 辛辣な視線を投げていた横顔がこっちを向いた。目が合うと、フン、とばかにしきった顔つきで笑い飛ばされる。 ぴたっと立ち止まり、きいいいぃっ、と金切り声で唸ったは歯痒そうにばたばたと地団駄を踏んだ。 ああ憎たらしい。 土方さんってどうしてこうも皮肉好きなんだろ。ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う! 「とにかくあたしっ、土方さんにはもう二度と助けられたくないですからっ。 もしあたしがどこかで死にかけてても絶対に助けないでください。見ないふりして速攻去りやがってください!」 「覚えてろ、次にてめえが穴に落ちたらその空っぽの頭握って引きずり出してやる・・・!」 「はぁ!?そう何度も落ちませんよ、土方さんじゃないんだからっ」 「けっ、抜かしやがる。てめーだって総悟が庭に掘ったアレにまんまとハマってたじゃねーか!」 「あれは一度だけですっっっ」 なんてことをぎゃあぎゃあと口やかましく言い合いながら、離れの玄関先まで戻った二人だったのだが。 そこで彼らを待っていたのは、目を疑う事態だった。先に三和土に降りた土方は玄関の扉を引き、眉をひそめた―― 「・・・・・、開かねえ」 「え?」 扉はしっかりと閉められ、鍵までかけられていた。いや、それだけならば問題はない、 鍵なら内側から開ければ済むのだから。問題は扉の外にあった。土方が鍵を回して扉を引いても、 曇り硝子の入った扉はいっこうに動かない。ガタガタと上下に揺らそうとしても同じだ。 怪訝に思って白っぽく透けた外の様子に目を凝らすと、扉に対して縦横斜めに走る、まっすぐな何かが見える。 あれは、――表の奴らが打ちつけていた補強用の板じゃねーか。 一瞬唖然とさせられた土方だったが、すぐに扉に飛びつき、ガンガンと叩いた。 「おい、誰かいねえのか!ここ開けろ!」 古い家をみしみしと不気味に揺らしている風の音に消されないよう、土方は声を張り上げた。 すると硝子戸を通してうっすらと見えていた一人の影がこちらに振り返った。 「ええっ、その声は、副長ですか!?困ったなぁ、まだこちらにいらしたんですか」 「困ってんのぁこっちだ。お前ら、どーして閉める前に中の様子確かめねーんだ!」 「打ちつける前に声は掛けたんすけどねー。何も聞こえなかったんで、先に戻られたもんだと、 ・・・いやー参ったなァ。今から外すわけにもいかねーしなぁ。これは一晩そこで辛抱してもらうしかないっすねー」 「はぁああああ!!?」 愕然として土方が叫ぶと、その隊士は、あァ、と思い出したようにつぶやいた。 「そーだ副長、食い物の心配ならありませんよ。この前ここで宴会やったんすけどねー、 そん時に余った酒とつまみが冷蔵庫にごっそり入ってますからー」 「ぁあ、宴会だぁ!?何やってんだてめーら、人の目ぇ盗んでこそこそ酒盛りやってんじゃ・・・!」 と、怒鳴りかけてからはっとした。土方はおそるおそる振り返る。 背後に立っている女の存在を思い出したのだ。 ただでさえ大きなの目は真ん丸に見開かれ、魂が抜けたような呆然っぷりで閉め切った硝子戸を見つめていた。 かぱーっ、と顎が外れそうなほどに大きく口が開いている。たまに腹話術の人形のような間の抜けた動きで ぱくぱくと動くのだが、ぁう、ぁうぅ、と、言葉にならない奇声を発するのがせいぜいだった。 ――このこぢんまりした家の縁側沿いを、ぐるりと取り囲む古い雨戸。 それらのすべてが外側から補強用の木材で打ちつけられて開かないことは、もたった今目にしてきたばかりだ。 外は吹き荒れる暴風雨。 雨戸も開かず玄関も開かず、完璧な密室と化した屯所の離れ。 そんな中で脱出も出来ず、他の誰かの助けも望めず、土方と一晩中二人きり。 ・・・という、信じられない事態を突きつけられて言葉もなく、ショックのあまり呆けている。 そんな彼女の様子を目にした土方の焦りと冷汗もいよいよ倍増、ぐぐぐ、と歯噛みして唸りながら扉を殴った。 「おいィィィ!行くな待てェェ!!ここ外せ、ここォォォ!!!」 「そんなー、今言われても無理っすよォ。外はすげえ風なんすよー?」 聞こえないんすかこの音、と焦った口調でその隊士は返してくる。 玄関扉一枚を挟んだ外は、風音も物音もひどくうるさい。こうして扉越しに話すにも、 お互い声を張り上げてやっと届くほどの騒々しさだ。何かがメキメキと裂けるような乾いた音。 あれは庭の植木が風で軋んでいる音だろうか。たまに何かがゴロゴロと転がったり、ガチャン、パリン、と 何かが割れる音も聞こえていた。さっき近藤の顔を直撃したバケツのように、この強風に煽られ、 近所からあらゆるものが飛ばされてきているのだろう。 「無茶言わないでくださいよ副長、今は非常事態なんすよォ」 「こっちも非常事態だァァァ!!」 冗談じゃねえぞこの野郎。雨風という自然の脅威に阻まれ、都会のど真ん中だというのに孤立無援の逃げ場なし。 つまりはこの嵐がやむまで、この密室で、こいつと二人きりの陸の孤島だ。 ・・・・・・冗談じゃねえ、いや、つーかこれは何の冗談だ!!!? 「とにかく開けろォォォっ、開けねーなら叩っ壊すぞ、コルァァァァ!!」 「いやいや勘弁してくださいよォ。俺らも身体寄せ合って飛ばされねーよーにするのがやっとなんすから。 風がおさまったら戸板外しに来ますから、それまで我慢して下さ、・・・・・・・・・ってうわぁぁぁ、 局長ォ、局長ォォォ!!」 「おいぃぃぃ!局長に、局長に!飛んできた木材が直撃したぁぁぁぁ!」 「!!?」 その声を皮切りに、外の様子がにわかに騒然となった。 土方も思わず黙り込み、戸を殴って抗議するのも忘れ、呆然と耳を傾けていたのだが―― 「おいこれやっっべーよ、釘が頭に刺さってんぞォォォ!」 「ど、どーすんだよ、血が噴き出て止まんねーぞ・・・!?」 「とにかく担げ!本棟まで運んで手当てだ!」 「俺っ、先に戻って知らせてくる!」 「急げ!医者も呼べ!」 「局長、聞こえますか局長っ、しっかりしてくださいよぉっ」 意識を失ったらしい近藤に呼びかけるあわてふためいた隊士の声。 倒れた局長を担ごうとしているらしい数人の掛け声。ばしゃばしゃと雨水を蹴散らす足音と、 集団の気配とうろたえ気味な怒鳴り声は、あっという間に玄関前から遠ざかっていった。 ――灯りも点けていない薄暗い家の中。 すさまじく焦った形相で互いを見つめ、絶句した土方とは、心の中で異口同音に叫んだのだった。 ( ・・・ぇええええええええええええええェェ!!!?? )
片恋方程式。 36
「ひ。土方さあぁん・・・」 「何だ」 「どーにかならないんですかあぁ、この状況・・・・・!」 「・・・・・・」 無茶言いやがる。台風ったら天災だぞ。 攘夷志士だのやくざ者だの相手ならいざ知らず、天災相手にどうこう出来るわけがねえだろが。 居間の畳に胡坐で腰を下ろした土方は、仏頂面で煙を吐いていた。 目の前にはがぺたんと座り込み、眉をへなあっと下げた困りきった顔で 延々と畳に「の」の字を書き続けている。座ると一層短さが際立つ隊服のスカートからは、しなやかに伸びた太腿が。 …見せつけやがって。こうして間近で座り込まれれば、否が応でもあれが目に入ってくるのが恨めしい。 睨むようなきつい視線を浴びせると、は何を思ったのか、あたふたと顔の前で手を振った。 「え、あの、ちがっ、違いますよ!?違うんです、ひ、土方さんと二人きりが嫌とかじゃなくて・・・!」 「・・・・・・」 そんなからふいっと顔を逸らし、土方は灰皿に煙草を下ろした。はっ、と苛立ちも一緒に吐き出すかのように、 短く荒く煙を吐く。この居間に隣接する台所へと目を向ければ、玄関先で交わした隊士との話を思い出した。 奥にある冷蔵庫に視線を留める。 居間や廊下は灯りが点され明るいが台所は真っ暗だ。客人用として置かれている小さな冷蔵庫は、ドアの隙間から 細い光をぼんやりと輝かせていた。 「だってこんな天気だしっ、もしも緊急の出動が入ったら、とかぁ、そそっ、そーいうことを心配して!!」 「」 「はいっ?あっ、もしかして!もう何か名案でも思いついたんですか!?」 さすが土方さん!とは身を乗り出し、ぱあっと表情を輝かせた。 彼の前で跪いて頼りきった目で見上げてくるその姿、まるで飼い主からのご褒美を尻尾を振り振り待っている飼い犬である。 きらきらと潤んだ羨望の眼差しをまるっきり無視しながら、土方はぼそりと切り出した。 「一つも手がねえこたぁねえぞ」 「!!・・・あるんですか!」 「ああ、ある。ただし最終手段っつーか、奥の手だ」 「えっ」 「実行するにはリスクがデカすぎてな・・・」 目を伏せて眉間を抑え、はぁ、と苦々しげに溜め息をついた土方は、 自分の携帯をに向けて言った。 「方法は一つ。お前がこいつで総悟に電話すりゃあいいだけだ」 「へ?」 「俺と二人で離れに閉じ込められた、迎えに来いって言やぁいい」 「・・・、はぁ?」 「あいつのこった、五分もかからずに車両部から装甲車持ち出して飛んでくるだろうよ。 開かねえ玄関に砲弾ぶっ放して、下手すりゃ俺たちまでこの家もろともお陀仏だ」 「そんなのいやぁあああああ!!」 だーっと両目から涙を流し、は畳に突っ伏した。ばしばしと畳を殴り出す。 一方、すでに完全諦めモードに突入している土方は重苦しげな様子で煙を吐いた。 目の前で丸くなって錯乱している女を、醒めた半目で見下ろしている。 「ど。どどどっ、どーにかならないんですかぁぁあああぁ!?」 「ならねぇな。まぁ、今日のところは諦めろ」 短くなった煙草を灰皿に揉み消し、土方がすっと立ち上がる。 は不安そうな目で彼を見上げた。 「・・・?土方さん、どこ行くんですかぁ」 暗い台所に向かい、奥まで入って冷蔵庫を開ける。狭い庫内には酒やつまみが豊富に詰まっていた。 冷えた中から缶ビールを二本取り出す。別に呑みたくはないのだが、まぁ、これはせめてもの気休めというやつだ。 まったく虚しいことに、今晩はたとえ何本呑もうとさっぱり酔える気がしやしねえ。 「方々で雨漏りの音がしてんだろ。あれをどうにかしてから倉庫に行く」 ぐるりと室内を見渡し――、吊り棚の上段に重ねられた、洗濯などにも使えそうな大きめの金たらいが目に入る。 台風はいよいよ最接近の時刻を迎えたのか、外の風は渦巻くような轟音をたてて荒れ狂っていた。 縁側沿いの雨戸の揺れはガタガタと激しさを増していて、その音に混じって、ごく小さく―― ・・・・ぽたっ、・・・ぱたっ、と何かにぶつかって跳ねる水滴の響きが耳に届いている。 数が足りるかどうか知らねえが、あれでも置いて雨漏りを凌ぐしかなさそうだ。 下ろした金たらい数個とビールを片腕に抱え、土方はの前を横切った。 「どーせ時間は有り余ってんだ。普段目ぇ通さねー資料でも漁りながら寝るとするか」 「じ、じゃあ、あたしも」 「お前はここにいろ。俺ぁ戻らねぇから、一晩好きに使え」 そこに布団が入ってんだろ。 いまだにおろおろとうろたえ気味な部下に、素っ気なく押入れを指し示す。土方は廊下へ向かおうとした。 ところが、居間を出ようとしたところで―― 「い、行かないで・・・!」 がばっっ。 硬直しきった表情で足元を見下ろし、土方は我が目を疑った。 が後ろから彼の脚に抱きついてきたのだ。なんともいえない柔らかさと温かさで覆われた、自分の脚に目を剥いた。 「〜〜〜〜っ!?・・・っ、おい、おま、っっっな、何を、っっ」 「まだ行かないでくださいっ。もっっ。もうすこし、・・・せ、せめて、台風が、遠くなるまでっ」 土方の膝裏あたりにぎゅっと胸を押しつけ、は涙目でしがみついてくる。見るからに必死の様相だ。 どんなに脚を揺すって振り解こうとしても、両腕を彼の脚にがしっと絡みつけて離そうとしない。 しかしその表情はというと、今にもぐるぐると目を回して卒倒しそうなというか、動揺しすぎて パニック状態というか――、 震える唇からは、ふえぇぇぇ、と情けない泣き声を漏らしているし、何かにおびえきっている様子なのだ。 「だって前に四番隊の稲山さんに聞いたんですよっ、この家は夜になると色々と出るっていう、怖ぁああい いわく付きの建物で、おかげでぜんぜん借り手がつかなくって、だから警察の官舎として格安で貸し出されてるんだって!」 「はぁ!?知らねーぞ俺ぁ、んな話、っっ、いやそれよりおいやめろっ」 「やだぁぁ〜!いやですっっ!お願い、一人にしないでぇえええ」 ・・・頼む、俺を一人にさせてくれ! 冗談じゃねえぞこの野郎。こいつを穴から引きずり出した時に掴んじまったあれの感触が、まだ手のひらで 生々しく主張してやがるのに。あの生脚を見せつけられて、さらにトドメで寝顔やら寝姿やらを見せつけられてみろ。 どうしてお前と同じ部屋に居られたもんか! 「〜〜〜〜〜っこっっっの馬鹿女ぁぁっ、は、放せっ」 「いやァァ!こ、ここで一人にされたら、こわいじゃないですかぁああ」 「あぁそーかよ、俺ぁ化け物なんぞよりもてめーが一等怖えぇがな!」 「はぁ!?な、なんですかそれぇええええ!」 「〜〜〜っっ馬鹿野郎ぉぉ、しがみつくんじゃねえ!女がはしたねぇ真似しやがって、人の脚にどこ押しつけ、っっ」 「だって、まだ夕方だし、外はすごい風だしっ。ここでずっと一人でいるなんて、心細いじゃないですかぁああ」 心細せぇだ?ざっけんな、それぁ俺の台詞だってえんだ! いつどこでてめえの理性の箍に限界が来ちまうか、それを思うと背筋に滝の汗が湧いてくるってえのに! 「つつっついて来んじゃねえ!」 裏返り気味な怒号を飛ばし、土方はじりじりと前進しようとするのだが、おびえたは死にもの狂いで喰らいついてくるのだ。 「いやですぅ、置いていかないでぇえ!」と半泣きで土方にかじりつき、タコやイカなんかの軟体生物よろしく、ぺたぁっ、と 彼の脚に身体を巻きつけて離れない。そのうちに隊服の上着をわしっと掴み、木登りの要領で這い上がってきて、 「っておいィィィっっ、上までよじ登ってくんなァァァ!そそっそこ放せ、放さねーとぶった斬るぞコルァァァ!」 「じ、じゃあ他のとこならいいんですかっっ」 「〜〜〜〜!!!!てっめぇええ、どこ掴んでやがんだァァ!!」 ――あたふたとじたばたとお互いを掴み合い引っ張り合い、押し合いへし合いの攻防は続いた。 揉み合ううちにばたっと廊下に共倒れになり、まるで匍匐前進のような体勢になってしまい、 それでも土方は意地と根性で前進を試みようとしたのだが。 「〜〜〜〜っ。な。何を、考えて、・・・やがんだ、てめえって、奴ぁ、・・・・・・・っ」 ぜぇぜぇと息を乱し、首に縋りついてくるに押し潰され、脱力しきって絶え絶えにつぶやき。 ついに前進を諦め、ばったりと廊下に倒れ伏した。 ・・・いや違う。違うぞ、違う。 別にこれは、俺が女相手に根負けしたわけじゃねぇ。 これ以上こいつと大人気なく張り合うなんざ馬鹿らしい。我に返ってそう悟った、それだけのこった。 ・・・というのは建前で。まあ要するに、目を潤ませて「置いていかないでぇえ!」と縋りついてくるの可愛さと 致命的な鈍感さ(と、背中に当たった柔らかい感触)に太刀打ち出来ず、とうとう陥落させられた、・・・というのが 身も蓋もないオチだった。 「お、お願いですっ、一緒にいてくださいぃぃ。・・・・だ、だめ、ですかぁ?」 「駄目も何も、・・・・・・・・・・お前、自分が何言ってんのか判ってんのか!?」 「は?」 「・・・・・・・・・・・」 1ミリたりとも。いや、1ミクロンたりとも判っちゃいねえな、この情けねぇ泣きっ面は。 背中に跨っている涙目の女を心底恨めしそうに眺め、土方は途方に暮れて溜め息をついた。 馬鹿だ。これまでも馬鹿だ馬鹿だとは思ってきたが、とんでもねえ馬鹿だこいつは。 何が「だめですか」だ。訊くまでもねえだろ、んなこたぁ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・駄目も何も、壮絶にまずいに決まってんじゃねえか! ぎりぎりと奥歯を噛みしめて怒声を殺し、眉間に深く皺を寄せる。 もはや何を言い返す気力も残っていない。彼を頼りなげな表情で見つめてくるを 睨みつけてやる気力さえなかった。 最悪だ。これで今夜一晩、何の悪気もない鈍感女を前にして一睡も出来ない 地獄の我慢大会が決定しちまった・・・! 投げやりな手つきでわしわしと頭の天辺を掻き乱してから、目元を抑えてうなだれる。 「・・・・・・畜生。んなことになるくれえなら、本物の生首女でも見つけたほうがマシだったぜ・・・・!」 く、くく、くくく、と不気味な薄笑いを漏らしながら暴言を吐き、とりあえず彼は気を取り直すことにした。 突然不気味に笑い出した上司にあっけにとられているに振り向き、 「とにかくあれだ、判ったから退け」 「ふぇ・・・?」 「判ったって言ってんだ。とにかく離れろ。女がやたらと野郎にしがみついてくんじゃねえ!」 「・・・!す、すいませ、っっ」 自分の行動の大胆さにようやく気付いたらしい。頬をかあっと火照らせたは あわてふためいて後ろへ飛び退き、はずみでどすんと床に尻餅をついた。 「ひぁああ」と叫んで開いた腿をぱちんと閉じ、捲れ上がったスカートをそそくさと引っ張り直す。 ・・・ぎりぎり見えなかった。それがせめてもの救いだが、何だこいつは。俺の忍耐を試してるとしか思えねえ・・・・・・! 「・・・倉庫で資料を探したらすぐに戻る」 激しい頭痛にこめかみを抑えた土方が押し殺した低い声で口にすると、はおずおずと手を出してきた。 たらいはあたしが置いて来ます、という彼女の申し出に任せて、土方は倉庫へ向かおうとしたのだが。 ・・・自分の案外な意志の薄弱さに腹が立ち、荒れた足取りで踵を返そうとした瞬間だった。 何の前触れもなく、ぱっ、と室内が暗転した。次いで廊下が、玄関が。 ―― 停電だ。 そう気づいた時には、暴風にみしみしと翻弄される古びた家は一面の闇に落ちていた。
「 片恋方程式。36 」 text by riliri Caramelization 2011/08/08/ ----------------------------------------------------------------------------------- next