片恋方程式。 34

戸締りを終えて最後に道場を出ると、見上げた空には夕暮れが迫っていた。 東の空の端はもう蒼い。道場の黒い屋根瓦が夕陽に照らされてまぶしい。 真上を見上げれば見渡す限りに淡い紫色だ。暮れていく空の色の変化がすごく綺麗。 玄関前で立ったまま眺めていたら、汗を掻いた背中が冷えてきた。 肌寒さに追い立てられて、あたしは本棟に向かう砂利道を歩き出した。 庭中に漂う調理場からの匂いが香ばしい。 嗅いだだけで食欲をそそられる、主張の激しいスパイシーな匂いだ。 今日のメニューはカレーかなぁ。カレーだよね。ていうかこの匂いでカレー以外ってありえないくらいなカレー臭だよね。 「はあ。疲れたぁ、・・・・・おなかすいたぁああ・・・・・」 気の抜けた声で独り言をつぶやきながら歩く。 ちょっと甘めなカレーがいいな。じゃがいももにんじんもおおきめがいい。 薄暗い砂利道を行く足はだるくて、ずりずりと地面を引きずり気味だ。 半日がかりで十七人を二回ずつ立ち合ったから、脚や腕は棒みたい。肩も二の腕も脛のあたりも、どこの筋肉もぱんぱんだ。 こうして庭を歩いていても自分の部屋がある棟が妙に遠く感じる。疲労感で身体が重たいせいかな。 でも楽しかった。疲れを疲れと感じない、清々しい疲労感でいっぱいだ。 いいなぁ、こういう感覚って。総悟の代理の指南役、大変だったけどそのぶん遣り甲斐があったよね。 土方さんいわく「俺たちはきりがねえドブ浚いやってんだ」なんて例えられちゃう、日々泥試合な警察のお仕事では こういうすっきりした気分になれる体験って珍しい。ありそうでないっていうか、実は貴重な体験なんだよね。 新人さんたちと剣を交えるうちに、入隊直後の初々しい緊張感や初心もすこし取り戻せた気がする。 最初は総悟の代理っていう立場に緊張したけど、山崎くんが助けてくれたおかげで 大きな失敗もしなかったし。うん、色々と勉強になった。教える立場だったはずなのに、逆にこっちが学んだ気分だ。 ・・・ううん、「学んだ」なんて言ったらおこがましいくらいだよね。 学ばせてもらった。そう言ったほうが合ってるんじゃないのかな。 人に教える。それは自分の弱さを知ることに繋がり、ひいては自分の弱さを鍛えることにも繋がる。 義父さんもよくそんなことを言っていた。 『人を知らんとすれば必ず己が見えてくる。自分の弱さが見えてくる。師と呼ばれるに相応しい者は、 常に己を見極め、己の弱さに厳しくあらねばならない。 よいか、教えを乞われる側に立つのは生易しいことではないのだぞ』・・・なーんて。 あの堅苦しい口調で食事中まで懇懇とお説教してくるから、夕飯時はよく喧嘩になったっけ。 ――義父さん。今頃どうしてるのかな。 ちゃんとご飯食べてるのかな。一人で夕飯食べるのが面倒になって、お酒ばかり飲んでたりしないよね。 そんなことを考えながら歩いていたら、普段思い出さないようにしていることまで浮かんできて。どんどん気分が重くなる。 気持ちにつられてしまうのか、足まで重さが増してくる。気づいたら、砂利道の足元を見つめて立ち尽くしていた。 ・・・何してるんだろうあたし。 こんなところで一人で、すっごい悩みを背負ったような暗い顔して立ち止まっちゃって。 昼ご飯は緊張してあまり食べられなかった。おかげで今はお腹が空きすぎちゃって、今にもぐーぐー鳴り出しそうなのに。 可笑しくなって一人でくすっと笑った。口端を引きつらせただけの、まるっきり空元気な笑いだったけど。 あーあ。だめだなぁ。 これってあたしの悪い癖だ。ちょっと追い詰められた気分になると、すぐに家のことばかり思い出すんだから。 これじゃ駄目だ。いくら土方さんに認めてもらえたって駄目なんだ。 自分で自分を認めてあげられないと、あたしは駄目なあたしのままだ。 ・・・なんて、今なら冷静に言い聞かせられるのに。そんなことにすら、午前中のあたしは気付けてなかった。 時間を置いたら頭が冷えてきたのかな。 それとも、一日中木刀を振っているうちに目が醒めたんだろうか。 あの時はわからなかったことが今ならわかる。 うん。もう認める。大きな声で断言出来る。潔く認めちゃう。 今朝のあたし、おかしかった。どうかしてた。 全然いつものあたしじゃなくなってた。 (何があってもこの手紙を開けない。二度とこの引き出しを開けない) 今朝のあたしはそのくらいの覚悟を決めて、ミツバさんからの手紙を文机に仕舞った。 忘れよう。全部なかったことにしよう。 手紙が届いたことを――ミツバさんに会ったこと自体を、なかったことにしてしまおう。 あの時はそう決めていた。そうするつもりだった。 だけど。・・・今のあたしには、それがどれだけ愚かしいことかが判ってる。 だって無理だ。忘れようだなんて、そんなのどうしたって無理な話だ。 あたしが土方さんの傍にいる限り――あたしがあのひとを好きでいる限り。ミツバさんを意識しないでいるなんて無理なのに。 なのに。・・・そんなことすら判らなくなって、隠しちゃうなんて。馬鹿みたい。子供みたいだ。 これじゃ点数の悪かった答案用紙を親に見られたくなくて、 隠しちゃう子供と同じじゃん。そんなことしたって忘れられるわけがないのに。もっと後ろめたくなるだけなのに。 そんなことも判らなくなっちゃうほど、今朝のあたしはミツバさんの手紙に動揺してたんだ。 ・・・・・。よっぽど頭に血が昇ってたんだなぁ。 一度あれを目にしてしまった以上、捨てたって燃やしたって忘れられるわけがないじゃない。 もしもあれを誰の目につくこともなく処分出来たとしても、ミツバさんへの罪悪感まで消せるはずがないんだから。 それに、…あれを開けて自分と向き合わない限り、あたしはずっとミツバさんへの引け目を引きずったままになってしまう。 ――何でも顔に出るってみんなに言われちゃうくらい単純なあたしが、そういう後ろめたさを抱えたまま 知らん顔で土方さんの傍にいられるだろうか。 …無理。無理だよ。きっとあたしはおかしくなる。到底耐えられるとは思えない。 だけど。怖い。あの手紙を開けるのは。・・・怖い。 あの手紙を読んでしまったら、あたしの大事なものを全部壊されちゃいそうな気がするから。 あたしは今の土方さんとの距離が大事で。他のものは全部犠牲にしてもいい。薄暗い心の奥では、そんな身勝手なことを 思っちゃうくらい大事で。――そうだ。だから怖いんだ。ミツバさんが怖い。 あたしが大事にしているものを、何の悪気もなく簡単に奪ってしまえる人。あたしにとってのミツバさんはそういう存在だから。 でも。 ――じゃあ、どうするの。 あの手紙を開けるのが怖い。だけど手紙の存在は忘れられない。・・・・・・・じゃあ、どうしたらいいんだろう。 「・・・・・。こんなこと、誰にも相談できないよ。・・・・・・・」 唇をきゅっと噛みしめる。眉を曇らせてつぶやいた泣きごとは、 言葉にしてしまったらかえって口の中に纏わりついてくる気がした。 頭上の色合いが数秒単位で変わっていく。淡い紫から藍色へと移っていく。空が暮れていく。夜に呑まれていく。 頭上を見上げていてもうっすらと感じる、身体を取り巻く薄闇の肌寒さが嫌だ。何か得体がしれないもののようで嫌だった。 見上げた空の果てのない広さが、今までに見たことのない、なんだか途方もないもののように思えてきた。 あれはいつも見ている夕空と何の違いもない。なのに怖い。 ・・・そんなことを思ってしまうのは、それだけあたしの気持ちが不安定になってるって証拠だ。 じゃり、じゃり、じゃり。 足下の小石が擦れる音をぼうっと聞いているうちに、物音や人の声の近さに気付く。 顔を上げて前を見ると、いつのまにか本棟は目の前だ。 暗くなった気分を切り替えよう。そう思い直して、歩幅をこころもち大きくして。その途端に足が止まった。 目に入ったのは、屯所の中でも外れにある小さめな棟。 中には会議室や大広間があるけれど、この時間には誰も使っていないはず。 灯りのない建物は暗がりに沈んでいる。建物そのものが息を潜めているみたいな静けさだ。 その軒先にはなぜか梯子が掛けられている。屋根の端には黒いブーツの爪先が見えていた。 「・・・・・・、総悟?」 梯子の下まで寄って行って、暗い屋根を見上げて声を掛けた。 稽古をすっぽかした一番隊隊長の名前を呼んだのは、他の人の名前が思い当たらなかったから。 あたしが知っている限り、こんなところに梯子を掛けて上るのは、この屯所ではあの子一人きりだ。 梯子から少し離れて、屋根の上が見える位置まで戻ってみる。もう一度「総悟」と呼んでみた。 数秒待つとブーツが動いた。むくっと起き上がった人影が、こっちを見下ろす仕草を見せた。 「・・・・・なんでぇ。誰かと思やぁ、姫ィさんか」 やっぱり。 聞こえたのは起き抜けに目を擦りながらつぶやく時のような、少し掠れた総悟の声だ。 細身な男の子の姿。真っ黒な隊服の輪郭が、前髪のあたりに手を入れながら屋根の上に現れる。 じっとこっちを眺めているらしい表情は、茜色の逆光を背負っているから見えなかった。 「なんでぇじゃないよ。稽古すっぽかしてどこ行ってたの?」 「・・・・・・・・・・・・。病院でさァ」 「・・・、病院?・・・え。総悟、またどこか怪我したの?」 夏に折った右脚ならもう完治したはずだ。 …知らなかった。いったいどこを痛めたんだろう。 黒鉄組のガサ入れ以来大きな出入りはないし、あの時だって総悟に怪我はなかったはずだけど。 不思議がりながら問いかけて、しばらくそのまま待ってみた。結局、総悟は答えてくれなかった。 梯子をぎしぎし揺らしながら、無言で屋根から降りてくる。 地上まであと数段、というところで軽く梯子を蹴って、ひらりと砂利道に飛び降りた。 ざっ、ざっ、と砂利を浅く散らしながら歩く姿が、腰ポケットに手を突っ込んで近づいてくる。 「・・・・、総悟?」 不思議になって呼びかけた。 深くうつむいているから表情は見えない。 いつも人を食ったような視線であたしを見つめてくる総悟の目元は、明るい色の前髪に覆われている。 表情はちっとも見えないけれど、――どうしたんだろう。気配がやけに硬い。張り詰めている。 「どうしたの病院って。どこが悪いの?駄目だよ、そういうことはちゃんと報告してくれないと。 ・・・総悟?ねえ、聞いてる?」 問いかけても答えはなかった。無言で砂利を踏む足はさらに速まって、 たった一回の瞬きをしている間に目の前に立っていた。 あたしは「どうしたの」と訊こうとした。唇を動かそうとした時、細長くて冷たい手が肩を奪って、―― 「ぇ。・・・そ、・・・・・・っ!」 瞬きするにも満たない、ほんのわずかな時間。 前髪に隠れた総悟の目元が見えた。 瞳が光を消した顔。影に呑まれたような暗い顔が、あたしの肌をざあっと逆立てた。 暗い表情。――ぞっとするほど暗い。小さな灯すら見えない、何もない闇の中をたった一人で歩いてきたような表情が。 隊服の袖をぐいっと引かれる。突然肩を掴まれた、その驚きで背筋が跳ねた。 「悪りぃ。」 「・・・!わ、悪いって、ぇ、・・・・そ、総、っ」 押しつけられたのは首筋を騒がせるあったかいくすぐったさ。それと、肩に預けられた頭の重さだ。 あたしを引き寄せて一気に距離を詰めた総悟は、肩に頭を預けて寄りかかってきた。 昼間の太陽の下に立つと光に透けてしまう総悟の髪。その柔らかい毛先が、 首筋にさらさらと広がっている。肩を覆った温かさと重さは、あたしに体重以外の何かまで預けようとしているみたいだった。 苦しそうな息を吐いて。おでこをぎゅうっと押しつけて。 表情を決して見せようとしない総悟は、消え入りそうな儚い声で――今までに聞いたこともない声でつぶやいた。 「・・・・・・・・少しだけ。ほんのちょっとでいいんでェ。陽が暮れちまうまででいーから、このままでいてくだせぇ」 「・・・・・。ねえ。どうしたの」 「別に。・・・何でもねーや。調子に乗って遊びすぎちまって、ちょいと疲れただけだ」 「うそ。だって。・・・・・・。変だよ総悟。どうしたの。ねえ。おかしいよ。ねえ、何かあったんでしょ」 「・・・別に。何もねーって言ってんだろ」 ちょっと姫ィさんに甘えてみたくなっただけでェ。 乾いた笑い声をあたしの肩に押しつけると、総悟は急に黙り込んでしまった。 どうしたの、と尋ねても、背中を軽く叩いてみても同じだ。何も言ってくれない。 ・・・本当にどうしちゃったんだろう。 こんな総悟なんてあたしは知らない。そう。知らない。 あたしが知ってるこの子は、いつも小生意気で、澄ました可愛くない態度が得意で。でも、なんだか憎めなくて。 ここまで弱ってる総悟なんて――見たことがない。誰かに寄りかかろうとする総悟なんて初めてだ。 だから、見ているだけで不安になってしまう。 何も言ってくれないのはさみしいけれど、でも。・・・ううん。違う。 今はそんなことはどうだっていい。そうじゃない。 知り合って一年ちょっとのあたしに言えないことがあるのは当たり前だ。今気になるのは、そこじゃなくて。 ゆっくりと顔を寄せていって、柔らかい髪に隠れた耳元を撫でる。 髪から伝わるほのかな温かさと、毛先のくすぐったさが手のひらを埋めた。 ・・・・・・・ひねくれ者なこの子が、こんなに素直に頭を触らせてくれたことなんて今までになかった。やっぱり変だ。 「ねえ総悟。言えないならいいの。 無理して何か言わなくてもいいよ。でも、でもね。せめて、近藤さんや土方さんには、」 言い終える前に肩をぎりっと掴まれる。鷲掴みにされて痛みが走った。 「・・・っ!」 きつく掴まれたところをぐいっと引かれる。よろけたあたしを総悟は背中から抱き留めて、両腕で囲って閉じ込めた。 ひどく乱暴な仕草だ。胸元に無理矢理押しつけられて、口が隙間なく塞がれて。 あたしは初めて総悟を怖いと思った。 ・・・どうしちゃったんだろう。 ふざけてあたしの手を掴んで好きなように引き回す、いつもの悪戯っ気たっぷりな仕草とはぜんぜん違う。 頭上に潜めた吐息がかかる。荒くなった息を押し殺している気配がする。 鼓動の速さが隊服越しに伝わってくる。拘束されたあたしの背筋は、いつのまにか緊張で冷たくなっていた。 怖い。この手を振りほどいて逃げ出したい。でも、どうして。・・・・・・どうして? 「・・・・・あの。ごめん。ごめんね、総悟、・・・・・・・・余計なこと言ったよね。ごめんね・・・?」 総悟は何も言わなかった。息を詰めて何かをこらえている気配がするだけで、身体は身じろぎすらしない。 強い力に逸らされた背中が痛む。 でも、今は自分の身体の痛みよりも総悟の様子のほうがずっと気になる。 やっぱり変だ。人に感情を見せるのを嫌うこの子が、こんなにかっとするなんて。 ・・・どうしたんだろう。何があったんだろう。 どうしよう。どうしたらいいんだろう。 隊服に塞がれた視界は真っ暗だ。あたし、このままじっとしている以外に何か出来ないのかな。 それ以上は何も訊けずに困っていたら、肩を縛りつけていた腕の力が少しずつ緩んでいって。そして。 「あの野郎の名前は出さねぇでくれ。・・・聞いただけで虫唾が走らぁ」 そう言った総悟は身体を離して、やっと顔を上げてくれた。 ほんのわずかに首を傾げて、いつも澄ましきっているその顔を大きく歪ませる。 あたしを安心させようとしたんだろう。それはどことなく淋しげに見える、いつもの不思議な笑顔だった。 「近藤さんたちには黙っといてくだせェ」 「でも」 「大丈夫でさァ。何もたいしたこたぁねえんだ。そーだ、今のあれはあんたと俺だけの秘密ってことにしてくだせェ」 約束だぜ。 とぼけた口調に戻ってあたしに言い聞かせると、もう一度頭が降りてくる。無言で背中を引き寄せられた。 あたしの肩にゆっくりと額を付けて、頭が何かを「違う」と否定するような素振りで左右に動く。 茜色に照らされた柔らかな前髪を、くしゃくしゃと無造作に擦りつけてくる。 「・・・何でもねーんでェ、・・・・・・・・・」 生気が抜け落ちたような声が。感情を失った口調が。それだけを何度も繰り返した。 きつく抱きしめられて棒立ちになったあたしには、そんな総悟が全身で何かに耐えているようにしか見えなかった。

「 片恋方程式。34 」 text by riliri Caramelization 2011/06/23/ -----------------------------------------------------------------------------------       next