『よいか、。 大人になっても忘れることのないように、心してよく聞きなさい。 私は縁あってお前の父母と出会い、お前と出会い、故あって父となった。 これからも親としてお前を見守ってゆくが、ここでの私は違う。ここを潜れば私はお前の父親ではない。 今日から私はお前の師だ。たとえ幼くとも、女であっても、お前はここではひとりの剣士だ。 この先どんなことがあろうと、お前はここで弱音を吐いてはならない。何があろうと、決して剣の道を捨ててはならない。 ・・・・・・そう言われても、今のお前には掴めぬだろう。 だから今はこれだけでいい。よいな、すぐには判らずとも覚えていなさい。 今日からお前は我が道場の門弟となる。 ここでは心を無にして、弛まず修練に励む。今はただそれだけを誓いなさい』 私にではない。己の心に誓いなさい。 それがいつだったのか忘れてしまったくらいに小さかった頃。 義父さんはいつもの堅苦しい口調でそう言って、それまでは 「入ってはならない」と禁じていた、小さな道場の玄関先にあたしを招き入れた。 静かな声だった。静かな表情だった。 手を伸ばして甘えるといつも抱き上げてくれる「とうさま」の顔じゃなかった。 能面のような表情を消した顔。それまでに見たことのない怖さだった。 おびえたあたしは「よいな」と念を押されても、返事を促されても声が出なかった。 あれから何年経ったんだろう。 あの時の義父さんの教えは今でもあたしの中に生きていて、道場の前に立てば自然と気持ちを切り替えさせてくれる。 弱いあたしを叱ってくれる。助けてくれる。 あの時のあたしの竦んだ心が。竦んだ身体が。あの声の重みを刻みつけたままで、あたしの中に生きている。 苦しい気持ちにもがいているときほど、すうっと記憶の海面まで浮かんできてくれる。静かな響きで教えてくれる。 ここへ来る途中に何があったとしても、神聖な道場に持ち込んではならない。 惑いを捨てられないあたしなら、この境界を踏むことは許されない。 うつむいた心ではここに入れない。背筋を伸ばして踏み出せと、あの声が竦んだ背中を押してくれる。 ――はい。義父さん、―― 「お願いします!」 天井近くに祀られた神棚と、その上に掲げられた大字の書をまっすぐに見つめて、腰からの深い一礼。 開け放たれたままの道場の戸口を抜けて、あたしは一歩踏み出した。
片恋方程式。 33
百人越えの大所帯だけあって屯所の道場は広い。横並びなら数組が一度に手合わせ出来る広さだ。 中へ入ると、十七人の新人さんたちは整列で待ち構えていた。 それぞれの手には木刀が。その指南役を務めるあたしの得物も木刀、…かと思ったら、なぜか竹刀にしろと言われた。 手応えも重みも一振りの威力も違う得物だけど、一対一で五分間の立ち合い稽古。 そのルールはというと、指南役と――つまりはあたしと打ち合いながら「剣先でも鎬でもいいから身体に触れる」が 出来たら勝ちで、すぐに次の人と交替。逆にあたしに剣で触れられた人は、制限時間を待たずに負けになる。 負けた人、五分間で勝てなかった人には何もないけれど、勝てた人にはご褒美が出る。 研修期間が他の新人さんよりも短縮されて、即戦力として早めに現場に出してもらえる、という、 …果たしてそれで得したと言えるのかどうか、よくわかんないなぁと不思議になっちゃうご褒美だ。 妙に変則的な指示はすべて土方さんから出たものだ。 先週入隊したばかりの新人さんの中には、ちょっと胡乱げな顔つきの人や、お互い顔を見合わせる様子も見られた。 「。時間がねえ、すぐに始めろ」 神棚の真下に腰を下ろした土方さんが、隣に立ったあたしを見上げる。 眉間に皺が寄ってるし、むっとした顔は「遅せぇぞ」と言いたげだ。 ・・・・・うわぁ、まだ怒ってる。からかわれたのがそんなに悔しかったのかな。 壁に設えた竹刀置き場を顎で指すから、あたしは一も二もなくそこに向かった。 立て掛けられた中から特に軽めな一本を選んで、握り具合を確かめる。 すると、はっ、と嘲笑う声がした。目の前で整列している新人さんたちの一団からだ。 「・・・贔屓かよ」 中央列の最後尾。この場の全員が、不服そうな声がした方に振り向いていた。 土方さんが無言で冷えた視線を向けても、一見してあたしよりも年上だとわかるその人に 物怖じした様子はない。肝の据わった人みたいだ。土方さんのきつい視線を真っ向から受け止めている。 「女には竹刀持たせて俺らは木刀だ。どこが贔屓じゃねえって言うんです」 「・・・・・・」 静電気を纏ったようなぴりぴりした声。それを聞いて、入隊間も無い新人さんたちにも動揺が走った。 じわじわと、微かなざわつきと強い緊張感が、埃っぽさの染みついた道場の空気に蔓延していく。 屯所内で最も畏れられている「鬼の副長」の前だ。みんな言動には注意しているみたいで 刃向かってきた新人さんに同調したり、不用意な言葉を発するような人はいなかった。 でも、そのうちの数人は天井を仰いで「あーあー、あいつ余計なこと蒸し返しやがって」って顔をしている。 口端をわずかに歪めた土方さんは、フン、と鼻で笑い飛ばすだけ。別に気を悪くした様子もなく、 うっすらと笑ってすらいた。真っ向から反抗的に出た命知らずな新人さんを面白がってるんだ、このひとは。 反発の理由も、それ以上追及したりはしなかった。まあ、「贔屓かよ」と一笑された裏に何があるのか、 「お前はどーしてそう人の悪意に鈍いんだ!?」と叱られるのが日常茶飯事なあたしにだって、もう想像はついてるけど。 土方さんの睨みは受け止めても、あたしの視線は頑として受け付けない。あの新人さんの表情から見て ――つまりこの人は疑ってるんだ、あたしの実力を。指南役がどうしてこんな女なんだ、 どーせ間に合わせに連れてきたただのお飾りなんじゃねーの、そんなもん認めてやらねーよ、って。 『こいつが間に合わせのお飾り指南役だから、軽い竹刀を持たせた。技の速さで優位を与えたいんじゃないのか』 …で、あたしの実力が疑わしいから、疑わしいあたしを連れてきた土方さんまで疑われてる、と。 「」 「はい?」 「てめえも舐められたもんだな」 「えー。そうですかぁ?」 こんな氷河期みたいな凍った雰囲気の中でこっちに話を振らないでほしいなぁ。なんて思いながら肩を竦める。 『この新人さんに舐められてるのは、たぶん土方さんも同じですよ』 …とは言わないでおこう。好戦的なときのこのひとにそんなこと言ったら、もっと喜ぶだけだもん。 目の色が少し変わって妙に楽しそうな横顔に心の中では慄きつつ、あたしは引きつった苦笑いで口を開いた。 「そうでもないですよ?家の道場手伝ってた時は、あたしと組まされただけで怒って帰っちゃう人もいましたから。 もっとあからさまな門人さんもいましたね、俺は小娘とチャンバラごっこしに来たんじゃねえぞ、って怒鳴られたり」 そういう人たちは純粋に剣技を習いに来るんじゃなくて、たいていは義父さんの昔のコネ目当てで 幕府への士官を目指したがっている浪人さんたちだった。あたしは十三になった年から義父さんの助手役として 道場に立っていたから、そんな見え透いた下心でやって来るおじさんたちにムッとした覚えは星の数だ。 それでも一度も口答えはしなかった。「すみません」って笑って我慢するしかなかったんだよね。だって、もしそこで あたしが口答えなんかしたら「あそこには生意気な小娘がいる」なんて悪い評判が立つかもしれない。 いい噂はそうそう広まらないけれど、悪い噂はびっくりする速さで伝わるものだ。あっというまに広がって、 うちに通ってくれている門人さんまであっというまに減ってしまうかもしれない。 毎月の食費のやりくりだってカツカツだった貧乏道場だもん。そうなったらすごーく困ったことになっちゃうし。 思い出し笑いにへらへらと顔を緩めながらそう言ったら、土方さんは短い溜め息をついて呆れていた。 「呑気に笑ってんじゃねえ。意地ってもんがねえのかお前は」 「はぁ。ないこともないんですけどー、・・・」 目を細めてにやつきながら答える。これでも気を遣ってるつもりなんだけどな。 せめてあたしがへらへら笑っておけば、少しはここの空気も和らぐかなと思ったんだけど。 それに、――これを言ったら土方さんはもっと呆れるだろうけど、 あの新人さんに腹を立てられてもやむを得ないかなっていうか、…なんだか仕方ないような気もするんだよね。 きっと期待してたんだろうな、あの人は。局内最強の看板背負った総悟の代理なら、きっと凄い猛者に違いない。 やる気たっぷりでわくわくしながら待ってたら、そこにひょこっと顔を出したのが、毎日屯所をちょこまかと 走り回ってる副長の使い走り小娘なんだもん。 これじゃがっかりもするだろうし、厭味のひとつも言いたくなるんじゃないのかな。 「おい。まさかここでも言いてぇ放題に言わせておく気じゃねえだろうな」 「まさか。そういうわけにもいきませんよ」 土方さん以外に聞こえないように口許を手で隠して、ぽそぽそと小声で断言する。 もちろんそんなつもりはない。使い走りのあたしはともかく、土方さんまで舐めさせておくわけにはいかないもんね。 そう思いながら横をちら見すると、目元を細めたその顔は珍しく可笑しげに変わった。 土方さんは壁際を顎で指した。あたしはたたっと駆けていって、元の位置に竹刀を戻した。 いつも稽古に使っているマイ木刀が近くに立て掛けられていたから、それを手に取る。 右手で軽く握り直してから腕を上げて、ひゅん、と縦に一振り。 うん、やっぱりこの子がいいな。重みと柄の太さが一番手にしっくりくる。 「それじゃあ贔屓なしでいきましょう。あたしも木刀にしますから」 にっこり笑って振り向くと、新人さんたちの緊張感溢れる視線があたしにざあっと集まった。 こういう時はもう笑うしかないよね。「なんか空気重いですねー、あははは」と、空々しく声を上げて笑ってみる。 笑い続けるうちにぽつぽつと、少しずつ笑顔が増え始めた。最後には新人さんたちのほぼ全員が和んだ笑顔になった。 そっか、みんなもこの凍った空気が気詰まりだったんだ。・・・肝心のあの新人さんだけは完全無視だけど。 「・・・は、はは。そっか、そんなに嫌ですか。声掛けても無視されるとは思わなかったなぁ。あはははは〜」 静まりかえった道場に、あたしののほほんとした一人笑いだけが虚しく浮いていた。 こうして見るとなかなか気難しそうな人だ。据わった目つきと太い眉が頑固そうっていうか真面目そうっていうか、 ちょっとやそっとの手並みの良さじゃ俺は動かないぞ、女相手なんて納得してやるもんかってかんじだし。 うーん、困ったなぁ。こういうプライドの高そうな男の人を相手に稽古するのって、 あたしみたいな小娘にはちょっと荷が重いんだよね。どうしようかなあ。 眉間を寄せて視線を右往左往させていたら、意地もプライドも天井知らずな人に声を掛けられた。 「おいィィ。いつまで待たせんだ、何度言わせたら判んだこのザル頭ぁぁ、 俺ぁ時間がねえんだっつってんだろぉがぁあああああ」 冷蔵庫の野菜庫くらいの温度まで緩みかけていた道場内の空気が、その低い唸り声で氷河期まで巻き戻された。 背中が粟立つ不吉な気配におそるおそる振り向く。腕組みして構えている土方さんの眉が、 びしっと急角度に吊りあがっていた。トントントントントン。がっちり組んだ右腕の人差し指の先が、 黒い稽古着の袖をひっきりなしに打っている。 「はいぃっっ」とあわてたあたしは転がるように進み出た。あたしに続いた新人さんも、 のっしのっしと重い足取りで前に。実際のところ、ここにいる間も惜しむくらいに忙しいのだ土方さんは。 何を調べているのかは教えてくれないけど、過去の事件について何か気になることがあるらしい。 ここのところ、朝、副長室に入ってまず目につくのは、前日の夜に眺めていたらしい捜査資料の山だ。その横には 必ずといっていいほど灰皿が置かれていて、たった一晩で消費するには多すぎる数の吸殻が山積みになっている。 「――始め!」 向き合って数秒も経たないうちに、審判役の新人さんから合図がかかった。 お互いに蹲踞の姿勢から立ち上がる。 かつん、と軽く剣先を合わせた。こっちに目は向けてくれても、新人さんの表情は依然むすっとしたままだ。 ・・・まあいいか。嫌われたって仕方ないよね。喧嘩を買うのは好きじゃないけど、買わないわけにはいかなさそうだ。 そりゃあ義父さんの道場では、何があっても笑って受け流していた。いくら向こうから売られた喧嘩でも、 養子のあたしが揉め事を起こすわけにはいかなかった。だから何を言われても笑って我慢していたけど、ここでは違う。 副長附きを務める今のあたしが、女だという理由だけで何もしないうちから謗られる。 そんな不名誉を笑って見過ごすわけにはいかないんだ。 何より「えへへ、そうですねえ」なんてのほほんと受け流したら、開始五秒で気を失う強烈なヘッドロックが待っている。 こうして間近で向き合って判るのは、――まず、背は思ったほど高くないんだなあってこと。 身体に厚みがあるし腕も太いし、なんとなく大きく見えるんだけどな。印象としては、長時間戦えるスタミナを 充分蓄えていそうな体つき、かな。鍔迫り合いになって至近距離から見下ろされたら、壁みたいな圧迫感を感じそう。 そう思いかけたのも束の間、新人さんは、どっ、と柵を開けた瞬間の闘牛みたいな勢いで踏み込んできた。 まず喉元に鋭い突きが。下から振り上げた木刀でそれを左へ払えば、払った刀を上段から抑えつけられる。 最初から鍔迫り合い。やっぱり相当な圧迫感があったし、押してくる力そのものも強い。 隙を伺ってぱっと飛び退いたら振り上げた腕が追ってきて、勢いも荒く乱打された。 止めても止めても木刀の勢いは止まらない。なるほど、と思う。 土方さんにも動じない堂々とした態度は、はったりでも何でもなかったんだ。それだけの自信を持ってもいい人だもの。 うちのみんなと立ち合っても、三度に二度は勝てるはず。足の運びもしっかりしてるし、下半身の伸びがいい。 剣筋は雑っていうか滅茶苦茶だけど、その割に正確に隙を狙ってくる。いくら防いでも、木刀で押し返しても、 体幹にブレが生じない。身体の軽いあたしにはやりづらい相手、かな。 ・・・なんてことも、思ったんだろうな。 一年半前――あたしがここに入隊したばかりの頃なら、間違いなくそう思っただろうけど。 ガツガツと振り下ろされる木刀を受け止め、右へ左へと流して力を分散させながら、 何度かちらちらと足元を見下ろす。 そこが気になって仕方ない。そんな素振りを装って、足元にもうひとつの集中点を作ってみた。 三回、四回、五回。 回を追ううちに、打ち込みの手は止めないながらも、頑固そうな新人さんの目は あたしの仕草を無意識に追うようになってきた。 わざと視線を下げること六回目。その隙に出来た、ふっと緩んだ一瞬の間合いを掴む。 今だ。 たん、と床を蹴って鋭く飛び込む。最初にあたしが受けたのとまったく同じに、がら空きな喉元を目指して―― 「・・・っ!」 ぎりぎりで後ろに首を逸らして防がれた。 木刀の風速で総髪にした髪が崩れて、汗が滲んだ新人さんのおでこにぱらぱらっと落ちる。 …まあそうだよね。 こんな子供みたいな引っ掛けじゃ、さすがに一度で討ち取らせてはくれないか。 体勢を立て直す間は与えなかった。たたらを踏んだ新人さんの鼻先に、目の前でぐんと伸びる突きを繰り出す。 しゅっ、と大きく風を切って、身体の両脇を削ぐように切り上げる。新人さんがあたしに繰り出してきた以上の手数を、 自然と足が後退してしまうくらいに浴びせる。それでもすべて防がれた。 あ、やっぱりすごいな、この人。顔は呆然としてる。腰はがっくりと引けてる。それでもどうにか受け止めてる。 じゃあこれはどうかな、とたまに肩や首すれすれのあたりにも突きを入れた。 数回に一度、「このへんも狙ってますよ」って動きを混ぜてみる。防戦一方になった新人さんの目が迷ってくる。 視線が少しずつうろうろしてきた。どっしりした構えにも戸惑いが見え隠れしてきた。防御が遅くなってくる。 いくらこの人の動きが速いといっても、総悟ほどじゃない。あの手許すら見せない速さには及ばない。 土方さんほどの鋭さや、手の内を読ませないやりづらさもない。打ち込まれるたびに手を痺れさせる一撃の重さは 近藤さんに似ていなくもない。でも近藤さんのような、正面からまともに喰らったら刀を弾き落とされてしまうくらいの、 大きな石を受け止めたような重みはない。 「・・・はぁぁぁぁっっっ!!」 迷いが増えたら隙も増えた。確かだった足捌きも乱れがちになってる。 ここだ。一気に間合いを詰めて攻め込む。勢いの落ちた木刀の先をがつんと弾いて、開いた真正面に飛び込む。 目指したのは新人さんの太い眉の間。眉間を貫くつもりで全身の勢いを乗せた木刀が、あたしの気合いや声と一緒に ぶんっ、と空気を裂く唸り声を上げて一点に吸い込まれていく。傍から見たらそうは見えないんだろうけど、 あたしの目にはそう見える。尖った先端があと数ミリで肌に触れる、そこでぴたりと止めて、―― 「――っ、・・・!」 「はいっ、終わりです。ええと、勝負あり、ですね」 ちょん。汗まみれで髪の貼りついた新人さんの眉間に、木刀の先を触れさせる。 別にしなくてもいい気もするけど、一応これがルールだし。 つつくと同時で、ひとつにまとめていた新人さんの総髪がばらあっと崩れる。すると、黒い線みたいな 何かが床にぽろっと落ちた。何だろう、髪の毛にしては太すぎ―― あ、失敗失敗。繰り返した突きの風圧で、新人さんが髪を結えていた紐が解けちゃったみたいだ。 ふう、と肩から力を抜くと、隊服の背中にはそれなりな汗を掻いていた。 おでこの汗を拭って、呼吸を整えながら木刀を下げる。目の前の新人さんを見上げて―― あ。そうだ、そうそう、今のあたしは総悟の代役なんだっけ。 一番隊隊長の代理として、助言くらいはちゃんとしておかないと。えーと、えーと、 「あのっ、すごくしっかりしたお手並みでした。右に逸れる足の癖を直して、基本をもっと丁寧に習得されたら、 すぐに現場で通用すると思います。この調子で頑張ってください!はい、それじゃあ次の人と替わってくださいねー」 「ありがとうございました」と腰から折って一礼する。笑顔を貼りつかせた顔を上げると、 さっきまで頑なにあたしを無視していた新人さんは、・・・動かなかった。大きくのけぞったまま岩と化していた。 季節外れのお化けに出くわしてぞっとしているような顔をしてる。目玉が飛び出そうなくらい見開いた目が、 じぃーっとあたしの顔を見つめたままだ。 戦々恐々とした目でガン見されているあたしは「え。…ええと、あのー、そろそろ次の人と交替しませんかぁ、ねっ」と 大きく上げた口端を引きつらせて笑うしかなかった。 ・・・嫌われるのも困るけど。これはこれで困るなぁ。 てゆうかその態度、女の子としては傷つくんですけど。 なにその目、信じられないものを見るようなその目。土方さんたちみたいなバケモノと一緒にしないでほしいなぁ。 そう思ってほっぺたをひくひくさせながら「はいっ、次の方どうぞー」と病院の受付の人のような台詞で振り向いたら、 ・・・・・・・・・・・・・・・新人さんたちは顔を青くしておたおたと、次の番を譲り合っていた。 くぅううううううううぅぅ。なにそれっっ、傷つくなああぁぁぁ。 「判ったか。得物の違いに贔屓だ何だはねえんだよ。 こいつの竹刀は、要はこいつがてめえらを無駄に痛めつけねえためのハンデだ」 と、嫌になるくらい冷静な土方さんの声が道場中に鳴り渡る。 数秒ほど間が空いて、そこから話が始まるのかと思ったら、スタスタと誰かが近づいてくる。 「――んぁ?」と怪訝そうにつぶやく声が、傷心のあまり床に突っ伏したあたしの上に降ってきた。 「おいどーした。つーか何の真似だコラ」 「・・・いいえいいんです。別にどうってことないんです。いーえいいんです気にしないでください。 普通の女の子としてのアイデンティティがガラガラ崩壊しちゃって泣きたくなってるだけですからぁぁぁ!」 「・・・。つーことでだな。おい、いいな、判ったなそこのお前。 てめえは筋は悪かねえんだ、の剣技は盗めるだけ盗んでおけ。生意気ぶった口叩くのはその後だ」 「あれっ、無視ですか、ばっさり無視ですか。フォローしろとまでは言いませんけど、 ここはちょっとくらい考える間を空けてくれたっていいとこじゃないですか!?」 べしべしべしっ。床を叩きながら半泣きで主張する。 すると土方さんがこっちを見下ろした。 え、何ですか。もしかして、上司らしく何か励ましのお言葉でも下さるんですか。 と思ったら、土方さんは取るに足らない虫でも見つけたように眉をひそめて。何事もなかったような仏頂面で ぐるりと全員を見回して、 「おい他の奴等も聞け」 「それだけ!!!?」 「んだとコラ。てめえが煩せぇから間ぁ空けてやっただろーが。貴重な時間を三秒もくれてやっただろーが」 と無表情で舌打ちしながら言って、あたしの頭を平然と掴む。道場の外まで響きそうなよく通る声を張り上げた。 「あー、いいなお前ら。こいつは腕こそ立つが頭はザルだ。まぁ、この面見りゃあ一目瞭然だとは思うが」 「ちょっとおおぉぉぉ!!!?」 「これは腹黒い一番隊の沖田と違って、騙し打つにもそう難しかねえぞ。 この馬鹿頭をお前らの得物が一度でも掠ったら、来月の有給休暇を認めてやる。休みの欲しい奴ぁ根性見せろ」 「いやいや、そう簡単に言いますけどねー。さんに打ち込める奴なんてうちには数人もいませんって」 俺なんか十回死んでも無理っぽいですけどねぇ。 なんてことを言いながら戸口にぐったり縋りついた姿を見せたのは、仮眠中だったのに副長から呼び出された人。 潜入捜査で二日間の徹夜明け、無精ひげすら剃っていないボロボロの山崎くんだ。 薄い灰色の稽古着に木刀を携えているけれど表情は疲れきってるし、眠たそうに擦っている目の下には 「え、それ、マジックで書いたの?」と驚くくらいに青黒いクマが出来ている。朝に食堂で会ったときには 「いやー、潜入捜査が長引いちゃってさぁ・・・」と笑いながらご飯にお醤油をドバドバ掛けていたり、 急にがくんと首を垂れて、お盆に乗っていたお味噌汁にぼちゃんと顔を突っ込んだり。 ご飯もそこそこに部屋へ切り上げちゃうくらい、体力も眠さも限界みたいだった。 なのに土方さんからのご指名を受けて――というか、容赦のない非情な鬼に電話で叩き起こされてここへ来た。 十七人を一度に相手する指南役が「バカパシリ」のあたしじゃ頼りないから、せめてもう一人の使い走りを サポート役として付けておくか、・・・なんてことを土方さんは考えたみたいだ。貴重な睡眠時間を 根こそぎ剥奪された山崎くんにとっては、迷惑もいいところな話だろうけど。 「部屋に戻る。後はお前が仕切れ」 「えっっ。仕切るって、え、ちょっ、」 土方さんは早口に言い残すと、足取りがよろよろしている山崎くんと入れ違いに出て行ってしまった。 三和土に降りて足に下駄を引っ掛けている後ろ姿を、ぽかんと見開いた目で追う。 ・・・・。え。土方さん。今、何と? あたしの聞き違いでなかったら「お前が仕切れ」って言わなかった? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え。ちょっ。 「・・・そんなぁ、いきなり、仕切れって、そ、・・・・、そんなぁぁあああ、」 早くも庭を突っ切り、本棟を目指している黒い稽古着の背中を呆然と見送る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嘘でしょ。 土方さんじゃなくてあたしなの?あたしが、この場を、仕切るの!? 「・・・・・・ど、どどっ。どうしよう山崎くん!」 「いやいやいや、そうじゃなくてさぁ」 土方さんの姿は庭木の向こうに消えてしまって、あたしはあたふたと山崎くんに飛びついた。 どうしよう。家の道場ならともかく、ここではそんなこと一度もしたことないのに! ははは、と力無く笑っている山崎くんはよほど足腰が立たないのか、 床に突いた木刀でふらつく身体を支えてる始末だ。 ああっ、この姿見てると面白いくらい不安が増してくる・・・!ていうかあたしまで足腰が震えてきそうなんですけど!! 「もっと喜ぼうよ。さんはさ、認められたんだよ副長に。ここは任せても大丈夫だって」 「・・・・・・・!」 「こういう時は言葉が足りないんだよなぁ、あの人ってさぁ。叱るのは慣れてても誉め下手っていうかさぁ。 俺らにデカい任務預ける時も、いつもあんな感じだもん」 そう言いながら壁にもたれかかった山崎くんは、はあぁ、と脱力しきっただるそうな顔であたしを見る。 「よかったね、さん」 嬉しくて頬が染まってきたあたしを笑っているのか。それとも、疲れきった顔が惰性で笑っているのか。 どっちなのかよく判らないとぼけた表情で、それでも山崎くんは祝ってくれた。 「・・・、うん、・・・・・・・・」 じわじわと嬉しさがわいてくる。胸の奥をあったかくする嬉しさだ。 自然と両手が隊服の胸のあたりを握り締めていた。とく、とく、とく。弾む鼓動が隊服を通して伝わってくる。 口から飛びだしそうな嬉しさを噛みしめて、喉の奥で押さえてもう一度頷く。 「うん。ありがとう。あたし、頑張る・・・!」 調子の外れた、落ち着きのない声だ。声にも自然と気持ちが溢れてしまう。 「じゃあ始めようか。えーっと、俺が審判だよね」 「うん、お願いします。もうあんまり時間はないけど、昼までに一巡するようにしたいの。 それでね、順番待ってる間に・・・」 土方さんを追って出てきた玄関口から、新人さんたちのところまで相談しながら戻る。 嬉しい。嬉しい。人一倍厳しい土方さんが認めてくれた。あたしを認めて、任せてくれた。嬉しい。 ――でも。それ以上には喜べなかった。 すごく嬉しいのに。この嬉しさを、手放しで喜ぶ気にはなれなかった。 さっきまで手にしていた水色の封筒。そして、そこに記された差し出し人の名前。 こうして山崎くんと話していても、綺麗に綴られたミツバさんの文字が目の前にちらついてくる。 ――義父さん。ごめんなさい。―― ごめんなさい。無心どころか邪念だらけだったみたいだよ。あたし、義父さんの教えを破ってしまった。 道場に入る前に忘れたつもりでいたけど、実はちっとも忘れていなかったんだ。 嬉しいのに、嬉しくてたまらないのに。 喜びたい、とはしゃぐあたしを、あの文字の残像は追いかけてきて、頭から冷水でも浴びせたみたいに こうしてすうっと冷やしてしまう。 何処からの手紙も正確に迅速に届けてくれる江戸の郵便事情が、ちょっと恨めしくなってきた。 これがもし、あの手紙を手にする前だったら ――そう、例えば。もしもあの手紙が届くのが、今日じゃなくて明日だったら。 今のあたしは人目も忘れて飛び跳ねちゃうくらいに、嬉しくなれたはずだったのに。
「 片恋方程式。33 」 text by riliri Caramelization 2011/06/20/ ----------------------------------------------------------------------------------- next