「総悟!起きろ総悟! てっめええいつまで寝呆けてやがんだ、今日は十時からだっつっただろーが!」 床板をドカドカと踏み鳴らしながら、袴をつけた稽古着姿の土方は縁側沿いの廊下を突き進んでいた。 今日は先月の隊士募集によって新規入隊したばかりの隊士たちに、屯所を代表して沖田が稽古をつける日だ。 道場にはすでに総勢17名の新入り隊士が揃い、気合いの籠った素振りを始めている。あとは沖田の到着を 待つばかりなのだが、肝心の指南役がいつまで経っても姿を現そうとしないのだ。沖田の助手役を務める 一番隊の隊士は、そういえば今朝の食堂で彼を見た覚えが無いという。しびれを切らした土方は、自らここまで 沖田を呼びに来たのだが。 「お前が遅れてどうすんだ!いいか、あんまり仕事舐めてっと今月の給料減俸すんぞこのやろ・・・」 閉め切った戸をすぱぁんと、力任せに跳ね開ける。しかし暗い部屋には人影すら見当たらない。 いつ見ても泥棒が入った直後にしか見えない散らかり放題な室内に踏み込み、ぐるりと視線を巡らせる。 土方は邪魔な足元の障害物(主に沖田の私物やゴミだが)をガツガツと蹴散らし、ズカズカと奥まで乗り込んだ。 ほとんど敷きっ放しの布団をがばっと剥いでみたり、押入れに駆け寄って開けてみたりもした。 別に闇雲に部屋を荒らしているわけではない。見ていると妙に腹の立つあのふざけたアイマスクを被って 熟睡しているクソガキを、この辺りで発見できる場合があるからだ。 しかし今日は当てが外れた。どこにも沖田はいなかった。 屯所一のサボリ魔の代りに見つけたのは、脱ぎっ放しの隊服の上に置かれた習字用の半紙だ。 くるくると巻かれた細長い紙には、こんな文面が綴られていた。 『土方さんへ ちょいと出掛けてきます あ、探さねえで下せぇ、あんたのうぜーツラ見たかねーんで 沖田』 短い手紙の文面はそれで終わりで、沖田の署名の下からは一直線の矢印が引かれている。 矢の向きが下向きだ。他に何の示唆らしきものもないので、「この下を見ろ」ということなのだろう。 「・・・?」と鋭い目に疑問を浮かべて眉を寄せた土方は、トイレットペーパーを巻き取る要領で ぐるぐると紙を手繰り寄せる。半紙の端まで辿り着き、不愉快そうな視線をつーっと下げていくと ――そこに紙幅一杯の大きさで「死ね土方」なんて墨痕も鮮やかに殴り書きされていたものだから―― 「ぁんの野郎ぉぉぉぉぉ!!」 半紙をぐしゃっと握り潰してべしっと畳にかなぐり捨てて、土方は廊下に飛び出した。 「どこ行きやがったぁぁあクソガキっっ、昨日あれほど言い聞かせたってえのに・・・!」 いや、正確に言えば昨日どころか、一昨日もその前も言い聞かせたのだ。 局内の代表として選ばれた剣術指南役と、入隊したばかりの隊士が立ち合う場。 それが今日の立ち合い稽古だ。指南役は軽く稽古をつけながら、その隊士の腕前がどの程度なのかを計り、後に 土方に報告することが義務づけられている。ここの隊士になった者なら誰でも一度は通る、 恒例の通過儀礼でもあるこの稽古。その指南役は真選組結成以来、局内随一の使い手とされる沖田の役目になっていた。 どんな奴が入隊して来ようとその人間性にはあまり興味を示さない沖田だが、新入り隊士たちの腕前にだけは そこそこに興味があるらしい。自分と同等の強さを備えた奴にしか興味を持てないこの少年は、 局内に面白く戦り合えそうな奴がいるかどうかを、常に把握しておきたがるのだ。 屯所一のサボリ魔でもある沖田が、珍しく何の不平も言わず、新入りたちに教えを乞われ ても面倒がらず、自ら刀を握って指導する場。そんな唯一の場がこの立ち合い稽古のはずであり、 土方もこの新人稽古だけは「総悟に任せて難はない」と安心して見ていられた。…はずなのだが。 ――秘かに掛けていたあいつへの期待を、あえなくざっくり裏切られた気分だ。 総悟の野郎、いまだにてめえの立場を判っていやがらねえのか。 範を示すはずの隊長が堂々サボりやがって。近頃は隊長格としての自覚も出て、ガキっぽい我侭も ちったぁマシになったと思っていたが、ムラっ気の多さは相変わらずか。まあ、あれぁ実際にガキなのだから 仕方がねえといえば仕方がねえが。 土方は険しい顔で廊下を曲がり、曲がった直後に足を止めた。軒先に長梯子が立て掛けられている。 それを見た瞬間に庭に降り、勢いよく梯子を駆け上がった。以前に屋根の上で昼寝する沖田を発見したことがあったからだ。 ギシギシと梯子を軋ませながら屋根に近づいていく。 半分ほど上った土方は、ちっ、といまいましげに舌打ちした。案の定だ。頭上に人の気配がある。 「総悟!てっめえ、我侭も大概に・・・」 上りきって声を張り上げれば、そこに居た奴が振り向いた。 しかしそれは沖田ではなかった。さらに言えば、居たのは一人ではない。二人だった。 片方は前髪で目元を隠した髭面の男。もう片方は髪の長い眼鏡の女。どちらも忍者装束だ。 女はレンズ越しに値踏みするような一瞥を土方に与え、淡い色の長髪を翻らせて屋根から飛び立つ。 ひらり、と空に躍ったその身体は、ふわりと着地した屯所の塀を爪先で蹴った。重さを感じさせることのない 跳躍を何度も繰り返して、大きな屋敷ばかり続くこの界隈の屋根の波間にあっという間に姿を消した。 (・・・何であれが、ここに?) 女が消えた方向を目で追いながら、土方は眉間を曇らせた。 あの女なら何度か目にしたことがある。 とはいえ顔見知りと呼べるほどの親しさはなく、ある奴を介して同じ場に居合わせたことがある、という程度で まったく馴染みは薄いのだが。それに、その時の記憶を追っていくと、妙に気に食わない野郎の姿まで 芋づる式に浮かんでくるので、あまり思い出したくもないのだが。 不審に思いながら瓦に手を掛け、屋根に上る。そこでにやつきながら彼を待っていた男に問いかけた。 「うちの屋根を忍びの溜まり場に貸した覚えはねえんだが」 「おいおい、久々に会ったってえのに随分な挨拶だなぁ副長さん」 相変わらずつれねえな。 忍者装束の男――服部全蔵は視線を悟らせないとぼけた笑みを土方に投げた。 傾斜の緩い屋根瓦の上にしゃがみ込む。そこには大きな三毛猫がこんもりと丸くうずくまっていた。 赤い首輪をつけた近所の屋敷の飼い猫は、小春日和の陽だまりの温かさを一人で満喫しているようだ。 服部が慣れた手つきで頭を撫でると、逃げることもなく心地良さげに喉を鳴らした。 「んだよー、そう睨まねえでもいいだろうがよー。ここでぐうたら昼寝してる猫じゃねえんだ、 俺は用さえ済めばおいとまするぜ。それとも何かい、屋根貸す代りにみかじめ料でも寄越せってえのか?」 「そうしてもらうとするか。野良の昼寝ならともかく、てめえらみてえな性悪猫に居着かれんのぁ迷惑だ」 「ははは、まぁそうカリカリすんなって」 猫は服部が気に入ったのか、地下足袋履きの彼の足元に擦り寄ってきた。白い鼻先をぴくぴくと動かし、 しきりに匂いを嗅いでいる。 服部は長めの毛並をのんびりした手つきで撫でながら、気安げな口調を土方に向けた。 「たしかにここは警察の建物だけあって人目もそう届かねえし、俺たち忍びの溜まり場としては結構な穴場だがな。 だが勝手に使っちゃいねえよ。最近は俺もそこそこに忙しくてね、仲間とゆっくり落ちあう時間もねえんだ」 今のは俺が無理言って、急遽ここまで飛んできてもらっただけさ。 と、服部は何のこともなげに言うのだが、――土方にしてみれば頭を抱えたくなる独白だ。 結構な穴場だと、抜け抜けと言いやがって。屯所を預かる立場としては聞き捨てならねえ話じゃねえか。 眉を顰めてうなだれた土方が最新鋭の探知システムを導入すべきかどうかを本気で考えていると、 服部は猫を両腕に抱え上げる。すっ、と衣擦れの音すら立てずに立ち上がった。 「てえことでだ。時間もねえし、早速本題に入らせてもらうが」 視線を察して土方は顔を上げる。猫を抱いた男の見えない目が、まっすぐに注がれている気配がした。 彼の背後には薄雲を被った青空と、隣町まで続く屋根の波が広がっている。青い忍者装束の袂をふわりと揺らして、 ざあっ、と乾いた秋の風が渡っていった。 「今日はあんたに話があってな。まぁ、こいつは俺からの頼みごとだと思ってくれていい」
片恋方程式。 32
「ここでしたか、さん」 勘定方で経費の報告書を提出した帰りの廊下で、後ろから声を掛けられた。 出くわしたのは通信室の室長さん。ここの隊士としては珍しく、幕府のエリートなお役人さんの見本みたいな人。 きっちりと撫でつけられた髪型の見た目通りに几帳面で、責任感豊かな頼れる人だ。土方さんが言うには、 九兵衛さまに料亭に連れて行かれたあの時、あたしはこの方にも陰でお世話になったんだそうだ。 屯所に戻ってお礼をしたら「いえ、私は何も」と悪戯をした子供に向けるような苦笑で返されたのを 今も覚えている。 「本庁からの書類を届けにきたんですが。副長はお留守ですか」 「土方さんなら道場ですよー。新規入隊した皆さんの稽古に付き合うそうです。それ、あたしが預かりましょうか」 分厚い茶封筒に向けて手を出す。持っていた捜査資料の束と受け取った封筒をもぞもぞと重ね合わせていると、 「ああ、そうでした。さんにも届いてますよ。郵便が」 そう言われて差し出されたのは、花の模様が入った淡い水色の封筒だ。 それを見つめ、室長さんの目を見つめ、思わず「えっ」とつぶやいてしまった。 誰からだろう。あたしに手紙だなんて珍しい。義父さんとは音信不通にしているし、筆マメな友達を持った覚えもない。 たまに、病院暮らしが長引いている美代ちゃんに絵葉書を貰うことならあるけれど。でも違う。 葉書じゃなくて封筒だし、この伸びやかで綺麗な筆跡は、どう見ても子供の字には見えないし。 中央に記された宛名をもう一度眺める。 ・・・どこかで見たような字だ。でも、どこで見たんだっけ。 不思議になって首を傾げながら、くるりと裏を返して―― 「・・・・・・・・・、」 ほんの一瞬だけ息が止まった。 頬やこめかみから血の気が引いていくのがわかる。 このまま見つめていると、目の前の景色がすうっと色をなくしていきそうだ。 「さん?どうしました」 「・・・え、・・・。あの、大丈夫です、何でもないんです。どうもありがとうございました」 ぺこりと頭を下げて横をすり抜け、足を速めて廊下を進んだ。 目指しているのはまっすぐに戻るはずだった副長室じゃない。二つ離れた棟にある自分の部屋だ。 室長さんとは目を合わせなかった。お礼も普通に言えたつもりだ。 けれどそれは、自分で思う以上に固く強張った声だったのかもしれない。 逃げるようにして廊下の角を曲がるまで、あたしを追っている不思議そうな視線をずっと背中に感じていた。 二か所目の渡り廊下を前にしたら、普段通りの歩調で歩くことすらもどかしくなった。 自室が見えてきたら知らず知らずのうちに足が駆け出していて、細く開けた障子戸の隙間から飛び込んだ。 背中を障子に押しつけて隙間から外を覗く。それから部屋の中に目を移した。障子戸越しにしか光を透さない 部屋の中はうっすらと暗い。そのぼんやりした暗さと、人気を感じない沈殿した空気にほっとして溜め息が出た。 息が微かに弾んでいる。…たいした距離も走ってないのに。 眩暈がしているわけでもないのに、足元が軽く揺れている気がした。伏せた視線を左へずらすと、 濃い影の落ちた壁際に小さい文机がある。その引き出しのひとつを、あたしはこの夏から意識的に開けていない。 急いで文机の前で膝を折る。すうっと息を吸い込んで呼吸を整えてから、引き出しを大きく引いた。 中にあるものは一つだけ。一番奥の隅っこにある、萌黄色の刺繍糸で縁取られたハンカチ。 折り畳まれたそれだけがぽつんと置かれている。 あの日屯所に戻ってからすぐに手洗いしたけれど、甘味屋で吸ったお茶の染みは白地に薄く残ったままだ。 あたしはハンカチの上に封筒を重ねて入れた。手の中にある薄い感触を、そうっと奥まで差しのべる。 ぱたん。引き出しを両手で押しつけて閉めてしまうと、ほうっと深い溜め息が胸の奥から漏れて出た。 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。 閉めた引き出しから手を離せない。呪文のように何度も繰り返したお詫びが、出口を探しながら もやもやと身体の中を渦巻いている。 しばらく放心してしまってそこから動けなかった。遠くで誰かの声がして、それを聞いてようやく我に返った。 のろのろと立ち上がって、部屋を出た。障子戸を開けたとたんにまぶしくなって、ほんわりした昼間の温かさと、 四方から流れてくる声に包まれる。物干し場からの笑い声は女中さんたち。庭の奥から聞こえるのは、 …あれは道場から。新人さんたちの素振りの掛け声だ。 音のするほうから目を逸らして、廊下の床だけをぼうっと見つめながら歩いた。 さびついた色の古い床板も陽射しに照らされてちらちら光ってる。 さっきまでは何も意識していなかった明るさが、今は目に痛いくらいまぶしい。 角を何度か折れて、副長室に戻る渡り廊下に出て、余計なことを考えないように急いでそこを歩いていたら、 「!」 「・・・!」 後ろからの強い声に呼び覚まされて、肩が勝手にびくりと揺れた。 あたしを苗字で呼び捨てにするひとはこの屯所には一人しかいない。 速足で近づいてくる今一番会いたくないひとを、呆然と見つめるしかなかった。 「どこをうろついてやがった。部屋で報告書まとめて近藤さんに上げとけっつっただろうが」 「・・・土方さんこそ何でこんなとこをうろついてるんですか。道場じゃなかったんですか」 「うるせぇ、お前と一緒にすんな。俺ぁ道場に来るはずのバカが何処にもいねえからこうやって、・・・ つーかおい、まさかてめえまで人の目ェ盗んでサボってたんじゃねえだろうな」 早口にまくし立てていた土方さんがふと口を止めた。 急に憮然とした顔つきになってうなだれて、前髪のあたりに手を入れて頭をぼりぼりと掻き出す。 どうしたんだろう。何かすごく疲れきったような、げんなりした様子だ。溜め息までついてる。 「・・・、おい」 「はい?」 「またあれか」 ・・・あれって? ぽかんとさせられたあたしは目を丸くした。 副長附き隊士になって一年半。こっちから質問しない限りは必要最低限のことしか口にしない 土方さんの秘密主義にも慣れてきて、あたしは少ない言葉数の中に含まれたこのひとの意図が読めるようになってきた。 だけどさすがに「あれ」だけじゃどうにもならない。ヒントが少なすぎて話の方向すら読めないし。 疑問を籠めた目でじいっと土方さんを見つめる。すると勘のいい土方さんは、それだけで察してくれたらしい。 「あれったらあれだ。んな面されっと気になんだろーが。お前のそういう面にはロクな覚えがねえからな」 面白くなさそうにそう言われて。どきっとした。 あまりあたしと視線を合わせたがらないひとが、珍しくこっちに目を据えたままだ。 調べられてる。 騒ぎ始めた胸の中で呼吸を止めて、身体のざわつきを静めて。 落ち着け、と自分に言い聞かせてから、あたしはわざとらしいくらいの笑顔全開で返した。 「何ですかぁ、あれって。ロクな覚えってどんな覚えですか、はっきり言ってくださいよー」 「・・・いや。あれったらあれだろ。あれじゃねーか。いやだから俺があれでお前が勝手に。いや、つーかあれぁお前が、」 そこで何かを思い出したらしい土方さんは、眉を吊り上げて黙り込んで。ぐっと口を引き結んで、 これ以上何も言うか、とでも思っていそうな顔つきになった。だからあたしはわざと背伸びして、顔を近づけて聞いてみた。 「あたしが?」 「・・・っの野郎ぉぉぉ、」 低く唸った土方さんの肩がわなわなと震え出す。浮き上がったこめかみの筋がひくひくと震え出した。 かあっと瞳孔の開ききった目が完全にマジもんのやばい人になっている。あ、これは本気でキレる前兆かも。 はっとして後ずさろうとしたその瞬間、馬鹿力の籠った指にすかさず頬を鷲掴みされぎゅぎゅーっと捩じり上げられて、 「っったぁあああいぃぃぃ!」 「あっただろーが色々と!面倒臭せぇっつーか言いづれーことがなんやかんやと!!!」 皆まで言わせんじゃねえ、と巻き舌で言い捨てて舌打ちして、それでもまだ怒りを発散し足りなかったのか、 土方さんは固めた拳骨をぐっと構えて脅してくる。直視したくない怖さのその顔は、勤務時間中にサボって ミントンの練習してた山崎くんを追い回してる時と同じくらいの凄まじさだ。 しまった。やりすぎた。ここまで怒らせるつもりじゃなかったのに…! あたしは情けない作り笑顔を浮かべながら、じんじん痛むほっぺたを摩る。もう一回抓られたら顔面麻痺になりそうだ。 「ったく、少しは可愛げが出てきたかと思やぁ!ちょっと心配してやりゃあすぐこれだ」 「えぇー。土方さん、あたしのこと心配してくれてたんですかぁ」 へらあっと笑って言ったら、感情剥き出しだった表情がすうっと引いていった。 今度は逆にあたしがむっとした。出た。土方さんの得意技だ。 「無言でゴリ押ししてシラを切るときの澄ました無表情」に戻るまで、ほんの一秒。 ・・・都合が悪くなるといつもこれ一点張りだ。まあ、総悟にしているみたいに 無表情でキレて無言で斬りかかってこられるよりは全然いいんだけど。 「まあいい、急ぎの用だ。このまま道場に来い。 総悟のバカが逃げやがった。お前、あいつの代理で新入りどもに稽古つけろ」 唐突に手が伸びてきて、あたしの頭をぐしゃりと掴んだ。そのまま頭ごと顔の向きを引っ張り上げられて、 っ、と息を詰めて見上げたら、目が合った。こっちを歯痒そうに睨んでいる、ちょっと複雑そうな色を帯びた目と。 「何をくよくよしてんだか知らねぇが、馬鹿が頭使おうとすんじゃねえ。お前や総悟みてえな奴ぁ、 小一時間も木刀振り回してりゃあ大抵のこたぁ吹き飛ぶんだよ。おら、さっさと道場行って暴れて来い」 「・・・・・・・・、」 掴まれたところから煙草の香りが広がってくる。髪に移っちゃいそうなくらい強くてきつい匂いなのに、 あたしはこれを一度も嫌だと思ったことがない。怒った口調で「判ったか」と土方さんは言い聞かせて、 広げた大きな手であたしをぎゅっと抑えつけた。頑丈な腕の重さで身体が軽く沈んだら、 目の奥が熱くなってきた。なぜか肩の力がふうっと抜けてくる。このまま座り込んでしまいたいくらいほっとしていた。 ・・・・・・とてもそうは聞こえなかったけど。励ましてくれたんだよね、今のは。 黙って見上げた腕からは、いつのまにか力が抜けている。 頭の上で広がっている土方さんの手のひらが、わずかに動いて髪を撫でた。 ――覆われたところがあったかい。ずっとこうしていてほしい。 そんなことを思いながらうつむいたら、じんわりと涙が滲んでくる。 もう少しで泣いちゃいそうだ。唇を噛んでしまいたくなる。 「おい。返事はどうした」 「・・・はぁい」 湧き上がってきた色んな感情を表に出さないように我慢したら、なぜかうんと不貞腐れた返事になった。 涙を我慢しようとしたら表情が強張って、今にも生意気な文句をつけそうな、反抗的な顔になってしまった。 土方さんは口一杯に溜め込んだ不満を爆発させるぎりぎりで噛み殺しているような顔をしている。 「返事が悪りぃ」 と短く叱って、あたしの横を風を切って通り過ぎていった。 ドカドカと床を踏み鳴らす足取りがいつにも増して荒くて速い。 まっすぐ道場に戻るみたいだ。 着物の袂に手を入れて煙草を探っている仕草は肩に力が入っていて、やっぱりどこか不満げだった。 陽の当たる廊下にぽつんと取り残されて、書類を胸に抱きしめる。 わかってない。恨めしすぎて溜め息すら出ないくらいに、あのひとはわかってない。 「・・・ほんとにわかってないんだから、・・・」 気まぐれに差し出されるご褒美みたいに、乱暴な手つきで頭を撫でてもらえるだけで あたしがどんなに嬉しい気持ちになるか。 本人にそんな自覚はなさそうだけれど、土方さんはそういう罪作りなことをするのがすごく得意だ。 そんなこと考えもしないで手を伸ばして、面白がって髪を掻き乱して。心の中まで掻き乱していく。 土方さんが手を引いて料亭から連れ出してくれたあの夜に、あたしは決めた。 このひとの中にミツバさんがいてもいい。あの優しいひとを身勝手に妬む、見苦しい自分のままでもいい。 ずっとあたしを遠ざけてばかりいた土方さんが、やっとあたしを見てくれた。 分厚い壁みたいなよそよそしさが消えた。傍にいてもいいんだって、言いにくそうに教えてくれた。 あれからも態度や口調は相変わらずにそっけないけれど、一緒にいると判るのだ。 このひとの隣に空気みたいな自然さで並んでる近藤さんや総悟みたいに、土方さんの傍には、 あたしがそこに居てもいいって許された場所がある。それがミツバさんの代りとして許されているのか どうかは知らない。昔の土方さんたちを知らないあたしには、いくら考えても判りそうにないことだ。 さっき見た筆書きの文字が、遠くなる土方さんの背中に重なって浮かぶ。 『沖田ミツバ』 目を固く閉じて追い払おうとしたけれど、もう手遅れだ。 水色の封筒に記された文字の残像は、瞼の裏にくっきりと焼きついてしまっていた。 ずっと忘れかけていたひと。ううん、忘れたふりをしていたかったひとの名前。 「ごめんなさい、・・・」 絞り出した声は吐息よりも小さくて掠れていた。 喉まで自己嫌悪で乾ききってるみたいだ。 ――偶然にミツバさんと出会ったあの夏の日。 あの日は数年ぶりで九兵衛さまに再会したり、連れて行かれた料亭に土方さんたちが現れたり、 まるで台風の目の中に入ってしまったような、目まぐるしい夢を見せられているような一日だった。 『またいつか、私と会ってくださる?』 嬉しそうな笑顔でそう言って、車の中からも手を振ってくれた人とは あれから一度も会っていない。手紙を貰ったのもこれが初めだし、あの暑かった日の記憶は少しずつ遠くなっている。 でも。あの人と話したことや、あの華奢なひとが浮かべる、総悟によく似た不思議な笑顔は なぜか今でもはっきりと思い出せる。 素敵な人だった。可愛い人だった。 ほんの一時間くらいの短い時間を一緒に過ごしただけなのに、 まるで子供の頃から知っていたような、懐かしくて温かい気持ちにさせてくれた人。 病弱でか細い身体一杯に愛情深さや強さを秘めている、総悟のたった一人のお姉さん。 あの人のことはこれ以上知りたくない。 ミツバさんを知れば知るほど、たぶん、あたしはあの人を好きになってしまうだろう。 好きになればなるほど、あたしは苦しくなるだけだ。 だからあのハンカチは目につかない場所へ追いやった。手紙は封を切らずに仕舞うと決めた。 手紙なんて届かなかった。 自己暗示で強くそう思い込むことを、差し出し人の名前を見た瞬間、あたしは即座に選んでいた。 差し出し人の名前を目にした、あの瞬間。 ミツバさんに抱いていた、捨てきれなかったほのかな好意は、――ずっとミツバさんに抱いていた 勝手な恐怖心に掻き消されて、違う感情に一瞬で上書きされた。 『この人は、・・・どうしてこんな時になって、手紙なんか寄越すんだろう』 塗り替えられた感情は、目も当てられない醜さだった。 自分でも胸焼けしそうになるあさましい気持ち。どんより濁った暗闇みたいな色をした、ミツバさんへのうとましさ。 ・・・呆れるほどひどい言い草だ。 自分に好意を持ってくれた人に、どうしたらこんなひどいことを言えるんだろう。 だけどそれはたしかにあたしのもので。――心からの本音だった。 他の誰が言ったのでもない。あたしの本音でしかなかった。 「!」 「――は、はいっっ」 あわてて舌を噛みそうなくらいびっくりした。 顔を上げると、土方さんは廊下の端で足を止めて振り向いていた。 心臓がばくばくと煩い。まさか、さっきの蚊が鳴くような「ごめんなさい」が、あの地獄耳に届いたんじゃ、 ・・・ううん、まさか、いくら何でも、 「いつまでつっ立ってんだ!」 「あ、・・・はいっ、こ、これ、書類、部屋に置いてきます!」 「・・・」 うろたえている部下の様子にまだどこか引っかかっているような目で睨むと、土方さんはさっさと行ってしまった。 古い床を大きく鳴らして離れていく足を見つめながら、スカートの端をきゅっと掴んだ。 くるりと踵を返して副長室に向かう。数室先の部屋を目指して急ぎながら、騒がしく脈打っている胸の中で唱えた。 もう迷わない。全部なかったことにして、引き出しの奥に閉じ込めて忘れてしまおう。 知りたくない。知らないままでいい。 引き出しに押し込んだ手紙に何が書いてあるのかも。ミツバさんがどんな気持ちであの手紙を綴ったのかも。 ・・・あのひとがどんな気持ちで、ミツバさんから届く手紙を待っているのかも。
「 片恋方程式。32 」 text by riliri Caramelization 2011/06/11/ ----------------------------------------------------------------------------------- next