どうやら俺は浮き足立っているらしい。 遊園地に松平を訪ねたあの日から、そんな自覚が土方には芽生え始めていた。
片恋方程式。 30
しくじった。どうして俺は昨日のあれを、右から左へ聞き流して済ませなかったのか。 …まあ、そんなこたぁ、今頃思っても後の祭りだが――、と、土方は横を歩くの気配を感じながら、 いたく複雑な気分になるのだった。 今日は二人揃っての非番の日。二人揃っての非番になるのは、さほど珍しくもないことだった。 これまでもずっと、土方が非番の日はも休みを取っていた。休みを合わせたほうが職務効率が上がり、 何かと都合がいいという、ただそれだけの理由からである。いつもの黒い隊服ではなく、それぞれに 私服の着物で身を包んだ二人は平日の昼の街を歩いていた。真選組屯所からは数駅離れたその街は 女性向けのブランドショップやデパート、ファッションビルが目抜き通りに林立してひしめく、 いわゆるお買い物スポットとして知られる街だ。大通りを埋めるのは大方がショッピングバッグを提げた若い女性で、 ざっと見ても女性率七割以上といったところか。過剰な女臭さも人混みも避けたかった土方は パトカーを使う気でいたのだが、「ええー、パトカーで行くと悪目立ちしちゃいますよぉ」とが眉を曇らせて 抵抗感を示したので、数年ぶりで電車に乗ってここまでやってきた。 駅から街に出た二人は、この界隈で一番の老舗百貨店「偽勢丹」に向かっているところだ。 そこで待っている警察病院の職員から二人の子供を預かり、玩具を買い与えながら三時間ほど過ごす。 それがこの外出の目的だ。いや、少なくともにとってはそうだった。 「よかったー、土方さんが来てくれて。ほんとはね、一人で預かるのは不安だったんです」 彼を見上げて微笑むをちらりと見ると、土方は、ああ、と気の無い声でつぶやいた。 目を逸らした通りの先で、彼の目にはいつ見ても金の無駄遣いとしか思えない、白と金の流線で飾られた 豪奢な西洋風の建築様式が目に入る。鋭い視線がその建物――偽勢丹の正面口沿いに向いて、 大きな額縁のようなショーインドウがずらりと並ぶ前で一往復した。 警察病院から担当の婦警に連れられて来るはずの子供たちの姿は、まだそこには見当たらない。 時間はちょうど待ち合わせの時刻を切ったところ。まあ、こっちは電車だが向こうは車だ。道が渋滞しているのだろう。 「二人ともデパートは初めてだって言うし、小さい子ってちょっと目を離すとすぐいなくなっちゃうじゃないですか。 だから小菊姐さんに一緒に行ってほしいってお願いしたんです。姐さんもね、子供の相手をするのは好きだから 楽しみにしてるって言ってたんですけど・・・」 予定していた買い物に芸妓の小菊が来れなくなり、来れなくなった彼女の代わりに土方が付き合うことになった。 どちらも偶然が引き起こした産物だ。どうしても断れない得意客から直前で誘いが入ってしまい、 小菊はに断りの電話を入れてきた。が彼女からの電話を受けた時に、土方がたまたまその場に居合わせていた。 一方的に喋り続ける通話相手の話を聞くうちに、は困ったような顔になっていった。電話を切ってからも 考え込んでいたその表情がなんとなく気になり、つい「どうした」と尋ねてしまった。そこが今日の外出のきっかけであり、 今日の土方が調子を狂わせている原因にもなっている。 かち、かち、かち。 口許に寄せたライターを続けざまに三回磨ってから、土方は嫌そうな顔つきでそれを見下ろす。 ライターは三日前に換えたばかり。油切れしているはずもないのだが、なぜか妙に火の点きが悪い。 躍起になって十度ほど磨ってからようやく煙草に火が灯り、彼は周囲を見渡すふりでそれとない視線を隣へ向けた。 隣を歩いている見慣れた女は、ほのかな恥じらいを滲ませた笑顔で嬉しそうにこっちを見ている。 並んだとの距離は普段よりもほんの少し遠い。その遠さが却って気になるというか、見下ろす景色の微妙な違いが しっくりこなくて落ち着かない。おそらくこいつは俺に遠慮をして、こうして離れているんだろうが―― ・・・要らねえ気ぃ遣いやがって。却ってやりづれえじゃねえか。 喉の手前あたりに湧いた戸惑いを、紫煙と混ぜながら噛みしめる。 頻繁にこっちへ向けられるあの視線を感じていると、口に含んだいつもの味まで、何か慣れない、 これまでに味わったことのない銘柄のように感じてしまうのは何故なのか。 ライターを黒の着物の袂に戻しながら、放り投げるような素っ気なさで口を開いた。 「あのガキどもなら放っといたって迷う心配は無さそうだがな。特に兄貴の方。 あれぁ口数こそ少ねえが、ガキにしては肝が座ってやがる。あと五年もしてみろ、お前よかしっかりしてんじゃねえか」 「ええーっ、ひどくないですかそれ。土方さんの中では十一歳の男の子以下なんですか、あたしって」 「へえ。あれぁ十一になるのか」 背丈の低さから見て、まだ寺子屋通いの二年目くれえかと思ったが。 土方は人混みの先を見据え、咥え煙草の煙を深く吸い込みながら考え込む。フン、と鼻先で笑った彼は、 風船のように張った脹れっ面で睨んでくるに、とぼけきった口調でぼそりと告げた。 「そうか、てこたぁお前はあと三年でお払い箱ってえことになるな」 「はぁ!?」 「あいつぁこれから一人で妹を養っていかなきゃなんねえ。そういう奴ってえのは 他のガキよりも成長ぶりがめざましいもんだ。今が十一ならあと三年、 十四にもなればあの手は一人前の面になる。そうなりゃあお前の代りにあれを小姓に雇って、おいおいは・・・」 歩調に合わせて揺れる長い髪が目の端につく。ふと横を見遣れば、の耳の上では白い花飾りのついた 髪留めも揺れていた。土方がの髪を斬ってしまった詫びに、露店で彼女に買ってやったものだ。 あれは彼にしてみればその場凌ぎの安物でしかない。あれを買ってやったそもそもが、単なるその場での 思いつきだったのだ。しかしは気に入ったのか、あの夜以来毎日のように付けていた。 「。それはあれか。なんつーか。・・・どうにかならねえのか」 「へ?」 砂でも噛んでいるような苦い顔つきで土方が問う。 ぽかんと口を開けたは、彼を見上げて大きな目を瞬かせた。 「へ、じゃねえ。こいつだ」 着物の懐に突っ込んでいた片腕を伸ばし、の頭へ指先を向ける。耳元で揺れていた白い花を、 曲げた指の節がとん、と突いた。 「・・・!」 ほんの軽く突いたつもりが、はよほど驚いたらしい。目元を強張らせた焦った顔で彼を見上げた。 え、えぇっ、と裏返った声を発しながら、ぎこちない手つきであれこれと髪飾りを触り始める。 「な、何ですか、変ですか?え、あのっ、出掛けにチェックはしたんですけど、もしかして曲がってますか」 「お前は気づいちゃいねえようだがな、こいつぁ屯所中の噂になってんだ」 「えっ、うそっ。そんなに毎日曲がってたんですか?そんなぁ、そういうことはもっと早く教えてくださいよぉ」 早とちりしたは慌てて髪飾りを外そうとした。あたふたと裏側のピンを抜きにかかる彼女を 「違う、落ち着け」と上げた手で制してから、土方は煙草の先で白い花をひょいと指した。 「そうじゃねえ。あいつらが騒いでんのはこいつの出処のほうだ。 お前の頭で毎日ひらひら踊ってるこいつが何なのか、あれはどこのどいつが贈ったのかってな。 昨日までは陰でこそこそざわめいてたが、今朝はこっそり俺に訊いてくる馬鹿まで出やがった」 「・・・・・、」 話を聞くうちにはあっけにとられた顔になり、表情が変わるにつれて足取りも遅くなり。 最後にはその場に縛られたかのように立ち止まってしまった。 そこを渡れば偽勢丹に着くという横断歩道で、歩行者用の信号がちかちかと点滅を始める。 青から赤へと変わる間に、数人の若い女性がぱたぱたと、駆け足でと土方の間を擦り抜けていった。 渡ろうとしていたその手前で足を止め、土方は煙草を手に取り振り向いた。細めた目元には呆れが混じって、 表情は幾分苦笑気味だ。 「判ったか。お前が思う以上にうちの奴等はお前を見てんだ。そこんとこ少しは自覚しろ」 煙を吐くついでのように諭されて、は頬がかぁっと火照るのが自分でも判った。 知らなかった。そんなことは思いもしなかった。男の人は女の子のアクセサリーに興味なんてないだろうから、 毎日同じでも誰も気に留めたりしないんだと思っていたのだ。第一、これを買ってくれた本人からして ちっとも気付いていなさそうな態度だった。 ああ、でも、だけど。…屯所の誰かにこの髪留めの贈り主を尋ねられた時の土方さんの心境を思うといたたまれない。 何にでも口が堅いこのひとのことだ。まさか「俺だ」とは言わなかっただろうけど、 その時を思うと申し訳なくて、さらに赤面してしまう。 「・・・・・・、すみません。だって、あたしの髪留めなんて、みんなは気にしないと思ってたから、・・・」 は消え入りそうな小声で答えた。口許に指を当て、火照りきった顔を深くうつむかせる。 それはねえだろうそれは。と、聞いた土方は顔を逸らし、浮かない顔で煙を吐いた。 どうなってんだこいつは。いったい何がどうなって、ここまで野郎どもの好意に鈍いのか。 お前の一挙手一投足を、あいつらが日々どれだけの食い付きっぷりで見ていることか。いっそ 影からお前を鼻の下伸ばして眺める奴らの映像でも録って、状況証拠として見せてやりてえくれえだ。 「いや。そいつはまあいい。つーかお前、持ってんのがこれ一個きりってこたあねえんだろう」 「・・・・・・それはぁ、」 「猿の一つ覚えじゃねえんだ、他のもんがあるならそいつと交互につけてりゃいいじゃねえか」 「・・・・・・だって。・・・」 「何だ、煮え切らねえ奴だな。そこまでこの安物が気に入ってんのか」 怪訝そうに尋ねても、はうつむいて立ち尽くしたままだ。 まさかこのまま動かねえ気じゃねえだろうな、と黙り込んだに眉をひそめながらも、 土方は周囲に視線を流す。数歩下がって彼女の横に並び、そこからさらに少し下がって、細い女の背中を 庇うような位置を取る。横断歩道前には偽勢丹を目指す買い物客が溜まり始めており、青信号を待つ集団の真ん中で 動こうとしないを邪魔そうに眺めていく目も多かった。 「おい。いつまでここで根ぇ生やしとく気だ。行かねぇんなら俺だけ先に行くぞ」 「迷惑。・・・・・・・ですか」 「あぁ?まあ、こんな気忙しい場で通行の邪魔してんだ。そりゃあ迷惑なんじゃねえか」 「そうですよね。また誰かに訊かれたら。・・・土方さん。困りますよね」 耳元の花飾りに触れたは、柔らかい素材で出来た花びらの一片をきゅっと掴んだ。 不安そうなその仕草や、うつむいた顔の表情を認めて、隙のなかった土方の瞳が僅かに揺らぐ。 が全く別の話をしていることに、そこで初めて気がついた。 「・・・でも。あたし。これがいいんです。だって、・・・・・・」 土方さんが。 そうつぶやいた紅い唇が動かなくなり、戸惑う素振りをみせてからふわりと開く。 ――そこから漏れ出た続きの声は吐息のような淡さで、彼の耳まで届くことはなかったが。 「・・・・・・・・・だめ、ですか・・・?」 絞り出した小さな声に問われ、土方の心臓がとくんと躍る。その一声で、彼までその場に足を縛られてしまった。 問いかけてきた声はか細いながらも芯が徹っていて、土方にうやむやな返事を許そうとしない、強い響きが混ざっていた。 おずおずと顔を上げたが振り向き、まっすぐに彼を見上げてくる。 不安そうな表情ではあったが、輝く大きな瞳には、何か脅かしがたい覚悟を決めたような色がほの見えていた。 信号前へ出ようとする人の波に肩や背中を押されながらも、ただ一心に、ひたむきに彼を見つめてくる。 たじろいだ土方はわずかに煙草を噛み、眉を曇らせた困惑の表情を見せる。肩を引き、から身体を離そうとしたのだが、 「お姉ちゃーん!ふくちょーのおじちゃーん!」 そこへ弾んだ子供の声に呼びかけられ、二人はそれぞれにはっとする。互いにうろたえながら視線を注いだ先では 一台のパトカーが偽勢丹前の路肩に駐車しようとしていて、開いた車窓からは幼い少女がこちらへ手を振っている。 ややすると後部座席のドアが開き、そこから幼い子供は飛びだした。引率役の婦人警官らしき女性が止めるのもきかずに 信号が青に変わった横断歩道を渡って土方たちのほうへ走ってくる。 大人たちの足元を擦りぬけて駆けてきた少女――美代は、腕をぱあっと広げ、まだぎこちなさの残る笑顔で 彼女を迎えたの胸に飛び込んだ。 美代の後を追ってきた婦警がそこへ駆けつけ、パトカーのドアからはもう一人の子供が姿を現す。 土方たちの姿を横断歩道の向こうに認めると、松葉杖をついたその少年は戸惑いを隠せずに立ち止まる。 礼儀正しく頭を下げると、ためらった様子ながらもにこりと微笑んでみせた。 が慈善団体の施設で助けた幼い兄妹――美代とその兄、爽太。 幼い二人は、事件から半年経った今でも警察病院にその身柄を預けられている。 斬られて深手を負った兄の身体は、傷こそ癒えてきたものの、成長途上なその運動機能に 軽い障害を残したままだった。
「 片恋方程式。30 」 text by riliri Caramelization 2011/05/31/ ----------------------------------------------------------------------------------- next