「・・・ってえ訳でだな。の反応から目星を点けて追ってきた奴を、昨日の出入りで捕らえたんだが。 そいつが今朝、警察病院から消えやがった。しかも消え方が妙でな。上層階の病室の壁面が」 「あー、知ってる知ってる。あのデカい風穴なら俺の執務室からも丸見えだ」 例の男が病室から行方をくらました、その日の午後。 江戸中が分厚く鬱蒼とした秋雲に覆われた、気が滅入るような天候の下。 なぜか土方の姿は、以前にと訪れたあの遊園地にあった。

片恋方程式。 29

「鑑識入れて調べてみたが、あの壁ぁ切断面がおかしいらしい。科研に話通して専門家も借り出してみたが、 前例がねえとか何とか、どうもはっきりしねえ。断面の一部に硝煙反応があるそうだが。…それも微々たるもんだそうだ」 「あー、それも知ってる知ってる。目撃証言もねーし、それらしい工作音もなし。あの馬鹿デカい穴を無音で、 一瞬でぶち抜いたとしか思えねえ、ってんだろ。知ってるって、うちの連中から報告受けてっからよー」 ああ、と浮かない顔で頷きながら、土方の視線は左右を窺う。 半年ぶりに入ったそこは、相も変わらず呑気に間延びした空気が流れる場所だった。 家族連れの多いフードコートは子供たちの声に溢れ、隣のメリーゴーランドではオルガンが奏でる掠れた音色の ワルツが流れ、うんと遠くのジェットコースターでははしゃいだ歓声が上がっている。目に映るのは大人も子供も、 この子供じみた御伽の園を何の疑問も持たずに楽しんでいる顔ばかりだ。平和そうで結構なことだが。 「つーか邪魔すんじゃねーよトシィ。オジさんはなーァ、てめーの長話に付き合ってやるどころじゃねーんだよォ」 「・・・・・・・・・・・」 土方は咥え煙草の口中で小さく舌打ちしたが、言い返すこともなく苦い顔。 これ以上強く出るのがためらわれるらしく、腕組みでじっとその場に控えている。 彼の前には、花壇の植え込みに隠れるようにしてしゃがみ込んだ二つの背中が並んでいた。 お揃いの黒のサングラスにお揃いの迷彩服、手許にはこれまたお揃いのライフル銃。 山中のサバイバルゲームならともかく、子供の集う遊園地からは極めて浮きまくった不審な男たちは 怪しさを隠すための変装が逆に怪しさを際立たせてしまっている、――という残念な事実はものともしていないらしい。 首から提げたお揃いの双眼鏡で、おどろおどろしい雰囲気を漂わせたお化け屋敷の出口付近をじーっと窺っていた。 「いーかトシィ。オジさんはなーァ、このミッションに命懸けてんだよ」 男の片方が顔を上げ、背後で待機する土方をうっとうしげに睨む。 ライフルの銃口を大きく振って、もう帰れ、と指図した。 「なにしろ可愛い娘の人生がかかってっからよー。会議二つすっ飛ばして来てっからよー。 ・・・しかし遅せぇな。出てこねーな。入ってもう30分過ぎてんのによー。あのお化け屋敷に他に出口あったか、将ちゃん」 「片栗虎。今出てきた娘御は栗子殿ではないのか」 呼ばれた白髪リーゼントの男――警察庁長官・松平片栗虎が目つきを変えて振り返る。 松平と出で立ちを同じくした隣の男は、双眼鏡を食い入るように覗きながら興奮気味に続けた。 「おお、例の男も出て来たぞ。手を繋いでおる。しかもあれはいわゆる恋人繋ぎではないか」 「将ちゃん」と呼ばれた男の視線の先には、遊園地デートを楽しむ一組のカップルの姿が。 ターゲットとされているのはお化け屋敷から出てきた笑顔の可愛いショートボブの少女と、彼女の新恋人として 場違いな殺し屋二人にマークされる不幸な男だ。平民の姿に身をやつしてこそいるが、 実は畏れ多くも天下の征夷大将軍――将ちゃんこと徳川茂茂は、見るからに生真面目そのものな顔つきを 微塵も崩すことなく双眼鏡を顔から離す。まるで国の危機でも憂いているかのような重々しさで口を開いた。 「もはや一刻の猶予もならぬ。これ以上栗子殿が不逞の輩の毒牙に汚されぬよう、早速作戦に移らなくては」 「おーぅ。んじゃーさっき教えた作戦通りにな、よろしく頼むわ。ここで俺の娘に寄生したウジ虫野郎を さっくり仕留めりゃ、会員制クラブで呑むドンペリの味だって格別ってもんよ」 「うむ。なあ片栗虎、余は以前に興じた殿様ゲームとやらをやりたいのだが、その店のおなご達は付き合ってくれるだろうか」 「おーよ、お前がやりてーんなら何でもありよ。今日はあれな、あの店一晩借り切ってな、 殿様ゲームと言わずに栗拾いでもアワビの踊り食いでも何でもアリの乱痴気騒ぎでぱーっといくかーぁ!」 「!!なんと・・・!市井の民の集う「会員制クラブ」とは、そのようなうらやましい行為に耽る場所であったか」 「待てェェェェェェェェ!!!」 我慢の限界を超えた土方が松平の背後から喰ってかかる。べしっと煙草をかなぐり捨て、だんっと地面を踏み鳴らした。 怒りを露わにしながらも、気まずそうに横をチラ見する。いや、実をいえば将軍の顔にドボドボと滝のように溢れる鼻血が 気になって仕方がないのだ。しかしいかに馬鹿げた鼻血であっても、あれは国の最高位に立つやんごとなき御方の血。 将軍ともなれば平民とは血の一滴すら扱われ方が違ってくるのだ。幕臣とはいえ、出は一介の田舎者に過ぎない俺が そこに触れていいはずもない。ここは敢えて無視だ、無視。・・・つーか正直、面倒臭せーから関わりたくねえ。 「いい加減にしろとっつあん!あんた国の象徴に何をやらせてんだコルアぁぁぁ!! 父親代りだか何だか知らねーがなあ、とんでもねーことばっか御教授してんじゃねえ!!」 「ん?何だぁトシィ、お前も来てーのか?混ざりてーのかぁ?俺たちのスペシャルパーチーに」 「うるっっせーよ頼まれたって行かねーよ、てめーらのお守りさせられんのぁもう真っ平だ!」 「安心しろ、もうあの店には呼んでやらねーよ。なんだよおめーはよー、行く店行く店全部で女どもの目線掻っ攫いやがって。 オジさんの憧れ、No.1の茉莉花ちゃんの名刺まで初回でゲットしやがってぇぇぇ」 と、年甲斐もなく口を尖らせたグラサンやくざ顔のおっさんが 「ああ俺は認めねーよ。会員制高級クラブ「ぱぴよん」のモテキング、夜の帝王の座は俺のもんだ! おめーなんかオジさんは絶対認めねーよ!!」 と声を張り上げ、懐から出した短銃を土方の額に突きつけ、 「やかましーわ!俺だってお前を警察庁長官なんて絶対認めねーよ!!」 かぁっと目を剥いた土方が怒鳴り、その背後では将軍が、 「土方、世も帥がモテキングなどとは絶対に認めぬぞ」 とハンカチで鼻血を拭きながらぼそりと告げ、 「うっせーよあんたは黙ってろっっ、話がややこしくなっから!!」 頭に血が上った土方がつい勢い任せに将軍を怒鳴り倒してしまい、 ――はっとして身体を引く。即座にその場に膝をつき、深々と頭を下げた。 「・・・上様、とんだ御無礼を」 「いや、構わぬ。頭を上げるがよい」 鷹揚な許しを得て、面を上げる。 いつになく恐縮した様子を見せる土方の頭上に、くすりと笑う静かな声が降ってきた。 「よいのだ。近藤も土方も、日頃から余の我儘に付き合わせて世話を掛けておるのだしな。 こうして砕けた口を聞かれるのも悪くない。友人になれたようで嬉しく思うぞ」 「は。・・・勿体なきお言葉にございます」 「うむ」 目尻がわずかに下がり、将軍と呼ばれる男は控え目な笑みを浮かべる。見る者にその位の高さを思わせる、整った笑みだ。 あれが社交辞令などではなく彼の心からの笑みなのだということは、護衛役を務めることの多い土方には判っていた。 だが、あの身分の垣根を取り払った誠実な表情を受け止めるのは、どうもきまりが悪い思いがした。 誤解がある。それは彼の意思というよりは、言われて渋々の行為なのだ。実はが煩いのだ。 上様の護衛に附くたびに、は彼の素っ気なさを観察している。最近では生意気にも土方の態度を叱るようにまでなった。 『上様って土方さんと仲良くしたいんじゃないかなぁ。絶対そうですよー、土方さんだって本当は気づいてるんでしょ?』 『どーしてあの構ってオーラを無視するんですかぁぁ。上様はとっても気さくでいい方なのに』 『いいじゃないですかちょっと話すくらい。もう少し愛想よくできないんですかぁ?』 とか何とか、警護の帰りに何度も何度も詰め寄ってくるのだ。そのしつこさとお節介ぶりときたら 「お前は俺の母親か」と頭を抱えたくなるほどで、いつも閉口してしまう。 「・・・おい、トシ」 それまで黙って煙草に火を点けていた松平が、おもむろに口を開いた。 「将ちゃんに免じて、てめーの話を聞いてやる。 悪りーが将ちゃん、こいつは警察内部の極秘情報だ。俺がトシと話す間は耳を塞いでてくれねーか」 「承知した。少し場を外そう」 律儀にこっくり頷くと、将ちゃんこと征夷大将軍は素直に両の手で耳を塞いだ。 話すがよい、と目で合図をすると、ゆったりした足取りでその場を離れていく。 その姿が充分に離れたかどうかを確かめようともせず、土方は性急に口を切った。 「なぁ。そろそろ吐いちゃくれねーか。この件からいつまで俺らを遠ざけておく気だ」 「あー?この件だぁ?なんのこった、そりゃあ」 すっとぼけた調子で訊き返した松平の眉間に、土方は一枚の紙を突きつける。 「これが今朝消えた男だ。が唯一反応した手配書がこいつだった」 その紙――手配書の右上に貼られた写真は、昨日黒鉄組から病院に担ぎ込まれたあの男のものだ。 松平は土方をちろりと眺め、魂胆の読めないサングラス越しの眼差しをまた手配書の写真に戻した。 「だから何だ。おめーんとこに預けて一年半、だって警官のはしくれらしくなってきた頃じゃねえか。 手配書写真の一枚や二枚、組の下っ端務めるチンピラの一人や二人、見覚えがあって当然ってもんだろ」 「・・・・・・とっつあん。あんたいつまでシラぁ切るつもりだ。 俺らがこいつの面を目に焼きつける以前から、あんたはこの手配書に見覚えがあった。そうじゃねえのか」 問いかけへの答えは特になく、土方から手配書を受け取り、一通り眺めた松平は、 その男に対して何も感じていないかのような無関心さで紙を返してきた。 歯痒そうに彼を凝視していた土方は、受け取った手配書を折って上着に戻す。 元から使い込まれていたそれは押し込んだポケットの中で握り締められ、ぐしゃりと潰れた。 「頼む。教えてくれ。あんた、とうに掴んでるんじゃねえのか。 あいつの家出の原因も、家を出て何をしていたのかも。例の兄貴の行方までとは言わねえ、だが――」 「あ、そーだ、おめーに言うの忘れてたわ。来月なぁ、春藻似卯夢星のお偉いどもが来るからよー、 俺の主催で大江戸キャバ巡りツアーすんのよ。おめーも来いや」 「おい。えれぇあからさまに話題すり替えやがったな」 眉を顰めた土方は頭を抑えてうつむき、はぁっ、と荒い溜め息を足元に落とした。 再びポケットの中で紙片を握り潰す。とぼけきって美味そうに煙草をくゆらす松平を軽く睨みつけた。 畜生。判っちゃいたがつくづく喰えねぇ親父だ。 一気に話を詰めるつもりが、この古狸は俺なんぞを真面目に相手するつもりもねえらしい。ころりと話題を変えやがって。 「一晩じゃねーぞ、三日連チャンな。でよー、この前みてーによー、お前も三日連チャンで付き合うってえなら の話も考えてやってもいいぞ」 「・・・・・・。それが最後か」 「あぁ?」 「それでいいんだな。今度こそ洗いざらい腹ぁ割ってくれんだろうな」 「洗いざらいかぁ?んー、どーすっかなぁ。そらぁまぁおめーの出方次第だな」 「・・・・・・・。わかった」 眉間も険しく答えた土方が目を閉じ、唸るようにゆっくりと息を吐く。 身体中の息を吐きつくす勢いで、ひどく長ったらしく。 仕方がない、いつものことだ、と諦めをつける時間を稼ぐためだ。・・・まあ、これも含めていつものことなのだが。 そう、松平の言うがままに宴席に顔を出し、機嫌取りに努めるのは、何も今に始まったことではないのだ。 実情を知っているのは隊の中では近藤と山崎くらいのものだが、土方はこれまでにも 頻繁にキャバクラだの高級クラブだのといった松平の馴染みの店に通い詰めてきた。 このあらゆることに破格な親父が夜の蝶と楽しく戯れるための小道具――つまりは、黙って呑んでいるだけで 女たちの目線を惹き、場を盛り上げてくれる便利なお飾りとして、渋々ながらも付き合ってきたのだ。 ・・・それにしてもあの三夜連続はきつかった。 最後の日はどう布団へ潜ったのか記憶がねえ始末だ。勘弁してくれ。あれを二度は御免だ。御免だが―― 握った拳に力が籠る。ある顔が彼の瞼の裏をよぎっていた。 いつも傍に居る見慣れた女の、彼女らしくもない翳った笑顔。陽が落ちかけた夕暮れの遊園地で ――半年前のこの遊園地で、たった一度きりだけ目にした顔だ。 土方はわずかに頭を下げる。自分の影の落ちた地面を睨みながら答えた。 「三日でも一週間でも付き合う。あんたの言いなりでいい、どこへなりと牽き回してくれ。その代り、」 「あー、冗談だ冗談。そうマジになるなって」 これだから若けぇ奴は。 それは呆れて叱っているようでもあるが、どことなくおかしそうな声でもあった。 土方が顔を上げると、煙草を持つ手で口許を覆った松平の目は苦笑いを浮かべていた。 何を眺めているのかよくわからない目つきでしばらく土方の表情を観察してから、煙と一緒に言葉を漏らす。 「おめーもまだ甘めぇな。世渡りは多少上手くなったがよ。そういう下手さは昔のまんま、さっぱりマシにならねえな」 煙草の先で土方の目をひょいと差し、 「あのバカゴリラの尻拭いで狡賢さは身についてきやがったようだがなぁ。何かに腹ぁ括って目の色変えりゃあ、 いつもそれじゃねえか。悪い癖だ、早く治せ。今のまんまじゃ、その融通の利かなさがてめえに仇ぁ為すぞ」 きつめの口調で咎めるのだが、その表情は空とぼけていて掴みどころがなかった。 「・・・・・・。やっぱりあんたぁ、知ってたんだな」 「ああ。俺の調べがこいつに行き当たったのは一年前だ」 どうも口の軽い男らしくてよう。 松平は付け足して、その時の様子を軽く語った。 男の出入り先に狗を潜入させ、そいつに誘わせて酒を呑ませ。ちょっと酔わせてやっただけで、 すんなり男は吐いたのだという。 「それ以降もたまに周囲を張らせてはいたがな」 「・・・・・・」 「だがな。それだけだ。あのチンピラが根城で見聞きしたあいつらの様子だの、千影の奴がどこへ売り渡されただの、 その程度のこたぁ知っちゃあいるがよ。お前らに事の次第を筋追って語れるほどには、俺も掴めちゃいねえんだ」 深くゆっくり吸い込んだ煙を溜め息のように吐き出すと、松平は声を落として続けた。 例の男によると―― と兄は口数が極めて少なく、周囲との接触を避けている節があったらしい。 男が「旦那」と呼んでいたそこの主からは特別扱いを受けて、専用の部屋を貰っていた。ただし中の様子は判らなかった。 兄妹以外は立入禁止で、たまに来る上客以外の出入りは許されなかった。兄の方はその部屋から出ること自体が稀だった。 主の男も二人の素性などに関しては口が固く、他の奴から伝え聞くこともなかった。 ゆえに、そこへ住み込んでいたその男にしても「得体のしれない奴ら」という印象が強かった。そう話していたという。 「千影は、東雲で起きた何かで責を問われて姿を消したってことになってる。その千影についても家を出た。 は千影を匿った奴らの世話になる代りに、そこの用心棒めいた真似もしていた。それ以外に、あいつらが 何をしていたのかは不明だ。・・・の様子から見て、何か汚ねぇ真似もさせられたと見て間違いねえがな」 おそらく松平の読みどおりだろう。 入隊して一年半が経った今も、は家出中の話には触れたがらない。白石の家にも一度も戻ろうとしない。 家に戻れないのはなぜか。兄と連れ立って家出したことを悔いているから。それもあるだろうが、それだけとは思えない。 義父には二度と顔向け出来ない。 が頑なにそう思い込み、その考えに囚われてしまうような、重苦しい引け目を背負っているからではないのか。 ではその引け目とは何なのか。 ・・・黒鉄組で捕らえた男が病室で語った、あの話に繋がるのか。それとも――。 「千影の方だが、こいつぁ機密事項に関わってくる。上からの圧力が強ぇえ話だ、俺からてめえらに言えるこたぁ何もねえ」 無言で土方は頷いた。 兄貴の件にはそうくるだろうと予想して、元より期待は掛けていなかったのだ。 聞き終えて改めて思う。松平の言葉通りだ、と。 情報を得ただけではたいしたことは見えてこない。知り得たすべてを繋げ、二人の辿った道筋に何があったかを知るには、 二人の出奔に纏わる理由や動機がどこにあったのかを、多少なりと知る必要がある。そこに加えて、 白石家との付き合いの長い松平はおそらく勘付いているだろうことが、土方には一つも見えて来ない。 今までの調べから得た情報でおおよその当たりをつけて「こういう具合だったんじゃねえのか」と 頭の中に描いてはいるが、所詮はどれも想像にすぎない。 に直接問い質すことが出来ない以上、彼女の行動にも兄の行動にも、動機づけが出来ずにいるからだ。 兄が家を出るに至った理由。が兄についていった動機。二人が誰にも告げずに消えた訳。 どこぞの根城で二人を飼っていた男の、――そいつが兄妹を匿うに至った動機。 その男の話も、とっつあんの口から追々明らかになりそうだが、・・・裏社会の住人だろうそいつは、 兄妹とどこで知り合い、どんな縁があったのか。二人にどんな利用価値を見出していたのか。 兄貴の行方や東雲絡みの話その他を抜きにしても、ざっと見渡してこれだけの不明が出てくる。 それらすべてが、真選組とは桁違いの情報源を持つはずの松平の調べでも解けなかったという。 ――いや、解けなかったとは思えねえ。 とっつあんの情報網から浮かび上がってきたネタが、たったこれだけで打ち止めってこたぁねえはずだ。 「今話せんのはこの程度だ。あとはてめーで探れ。 お前らはお前らで好きにしろ。これまで通りに裏で嗅ぎ回るもよし、に直接当たるもよしだ」 まぁ、がお前を信用して、腹ぁ割って話すかどうかは知らねーがよー。 松平は懐をがさごそと探り出し。古びた革の手帳から一枚の写真を抜き取った。 「無粋な手土産の礼だ。おめーにいいもん見せてやろうじゃねーの」 そう言われて差し出されたのは古い写真。女の写真だった。 白黒の世界から微笑みかけてくる細身の女は竹刀を携え、長い髪を一つに結えている。 「・・・・・・・、とっつあん。おい、こいつは、」 じっと覗き込んで土方は言葉を失くした。 化粧を施していなさそうな飾り気のない顔は、穏やかに微笑んでいた。秘めた芯の強さや落ち着いた物腰が、 その和らいだ笑みからもしっかりと伝わってくる。纏っているのは質素そうな着物に袴。顔同様に飾り気がない。 だが、実物を見れば殆どの男は思わず見蕩れるだろう。清々しく凛とした、しかも優美な稽古着姿だ。 これはどう見ても松平の奥方の若かりし頃ではない。そのあたりに多少は引っかかりを感じたが、 そこを確かめるのは二の次でいいと一目で思ってしまうくらいに、土方は彼女の顔立ちに目を奪われていた。 特に目元だ。この大きな目。輝石のような光を持つ瞳。わずかに吊り上がった、気高い気性の猫を思わせる目元。 落ち着いた印象こそあいつとは違っているが、似て見える。いや、どう見てもこの顔はあいつそのもの。生き写しだ。 「じゃねえぞ。あいつの母親だ。どうだ似てるだろ。いい女だろ」 今のはまだまだ娘っぽさが勝るが、数年経ちゃーこうなるってわけよ。 そう語る松平の声音は、なぜか自分の娘を語る時のように自慢気だ。 もっとよく見ようと手を伸ばしてきた土方から、ひらりと写真を遠ざけた。 「おーっと、お前な、には内緒にしとけよ?言うんじゃねーぞ?俺があいつの母ちゃんの写真こっそり持ってるってのは」 「はぁ?何だ。この写真のこたぁ知らねーのか、あいつは」 「知られたら照れるだろーがァァ。年頃の娘にパンツ見られたみてーじゃねーのォォ。そーいうの恥ずかしーんだよおじさんはぁ」 「そーかよ。そういうことなら黙っておくが、・・・俺はあんたの照れどころがわかんねーよ」 「まーこの人ぁあれよ、おじさんの綺麗な思い出ってやつでよー。若けー頃に通ってた道場で会ったのよ。 野郎だらけのムサい道場に咲いた一輪の花、年上のマドンナってやつよーォ」 それは当時のの母親の美しさを思い出しているかのような呆けた声だった。 サングラスに隠れた目を細めて鉛色の空を見つめる松平に、土方は、はぁ、と気の抜けた相槌を打った。 片や道場のマドンナ。片や屯所の紅一点。 巡り合わせってのは妙なもんだ。 あいつの母親も、娘時分には今のと似たような境遇にあったらしい。 「物静かで凛とした女でよー。俺がちょっとバカやらかしたって、笑って許してくれる懐の広い姉さんだった。 優しくて、常に奥ゆかしくってなぁ。同門の奴等はこぞって彼女に夢中になったもんだ。俺もその一人だったってわけよ」 物静か。凛とした。懐の広い、優しい、奥ゆかしい。 その後も次々と並べ立てられる手放しの称賛に、つい土方は苦笑しそうになった。 ・・・成程。見た目こそ母親に瓜二つだが、あいつの中身は父親似だってえことか。 俺が拾った頃の――猫を被っていやがった頃のあいつならいざ知らず、今のには縁遠い美辞麗句ばかりだ。 「でよー、そのマドンナを射止めたのが俺のダチでなァ。こいつが婿に入って一清流を継いだ。 仲のいい夫婦でなァ。・・・最後まで仲が良すぎてな。が生まれて間もなく、二人揃って逝っちまった」 ひでー火事でなぁ。だけが無事だったのよ。 いつになくしみじみと語る松平の声を聞きつつ、話の途中にさりげなく挟まれた言葉を反芻する。思い返して首を傾げた。 待て。今、たしか、火事がどうこう以前に、継いだとか何とか、・・・聞き慣れねえ話が混ざってなかったか。 ん?と眉を寄せた土方は顔を上げた。 「――おい。とっつあん、」 「ぁあ?」 「何だその、、一清流?ってのは。聞いてねえぞ」 「ありっ。そういや言ってなかったなァー」 「ありっ、じゃねーよ。婿に入った父親が流派を継いだ、・・・ってえこたぁあれか。あいつは」 一門の継承者。 浮かんだ言葉を飲み干して黙り込む。しかし土方は、あまり驚いてはいなかった。 逆に「これで腑に落ちた」と得心するところがいくつかあった。 の義父は幕臣の地位を捨てて自ら町道場を開くような、剣の道に一生を捧げた人物だと聞く。 幼いにも厳しい稽古をつけていたと聞いている。それはに父母が成せなかった道を歩ませたかったためなのだろうし、 を白石籍に入れて養子に迎えることをしなかったのは、おそらく、の姓を絶やしたくなかったということだろう。 それと――屯所の道場で手合わせするたびに、いつも思っていたのだ。こいつはどうも妙な型だと。 の剣技は独特だ。局内には道場剣術を修めた奴らもそれなりにいるが、の型は奴らの誰とも異なっていた。 江戸に出てからというもの、実践でも稽古でも方々の流派の型を見知ったつもりでいた。 ところがに関しては見当がつかなかった。あれに似た剣技には未だお目に掛かれていないのだ。 「一清流、・・・・・聞き覚えのねえ流派だな」 「ああ、若けー奴ぁそうだろーよ。 戦前どころか大昔から続く一子相伝の流派よ。古武術の流れも組んだ、ちょっと変わった流派でなァ」 あいつの動きも変わってんだろォが。 松平は刀を構えた真似をする。土方に向けて踏み出した足捌きは、の独特な動きをよく掴んでいた。 「間合いを詰めたと思やぁするりと逃げて、ひらひらひらひら。まるで蝶みてーだろ」 「ああ。・・・蝶っつーか。剣術ってえより舞に近けぇ、珍しい体捌きだとは思ってたが」 「のあれぁなァ。あれァ白石が――の義父が仕込んだんだ。指南書だけでも残ってりゃあよかったんだが、 全部火事で燃えちまった。あの頑固者が方々探し回って古い文献集めて調べて、一からにあの流派の型を仕込んだのよ。 琴音さんの太刀筋を思い出しながら、どの型も見よう見まねでなァ、・・・・・・」 珍しくしみじみと語っていた松平は、ふと我に返ったかのように口を閉ざす。 澱んだ空を仰ぎ、独り言のようにつぶやいた。 「あれァなぁ。忘れ形見なんだよ。白石にとっても、俺にとってもな」 白石が男手ひとつで育ててみせるって譲らねーから、手は引いたがな。 奴が言い出さなかったら、俺ぁを引き取るつもりでいた。 ついでのように付け足された独白に土方は眉をひそめた。 ・・・何の気紛れだ? 近藤さんや俺がいくら問い質しても、のらりくらりとかわすだけだった狸親父が。 「・・・素面でしんみり昔語りたぁ、あんたも年だな。そろそろガタがきたんじゃねーか、とっつあん」 「うるせーな、人をジジイ扱いすんじゃねえ。俺ぁまだまだ現役だっての。 おらおら、今日はここまでだ。が車で待ってんだろォ、俺らの娘を待たせんじゃねーよ」 いつものすっとぼけた態度にころりと戻った松平が、行け、と背後を顎で指す。 フードコートでソフトクリームを買い、男と仲良く戯れるショートボブの少女に双眼鏡を向けたが、 何か言うべきことを思い出したらしく、双眼鏡を一旦下げた。疑わしげな目で土方をじろりと睨みつける。 「いーなトシぃ」 「あぁ?」 「父親代りの一人として言っておく。あいつはおめーみてーなヤクザ者にはやらねーぞ」 打って変わった刺々しい口調に内心ぎくりとさせられる。 しかし表面上は何食わぬ顔を作り、土方はすらりと返した。 「ぁんだそりゃ。勘弁しろよ。まさかもう酒が入ってんのか、とっつあん」 つーかヤクザ以上にヤクザな面したおっさんに、ヤクザ者たぁ言われたかねーんだが。 そう言うと、松平はさらに気に食わなさそうな顔つきになって迫ってきた。 「フン、こーいう時のてめーの口は信用ならねーよ。俺ぁなートシ、前々からお前の態度を怪しんでたんだよ。 おめーよー、直属隊士なのをいいことにに手ぇつけてんじゃねーだろなぁ」 「はぁ?」 「近藤の奴ぁ誤魔化せても俺ぁ誤魔化せねーぞ。実はもうちゅーしちまってる仲だとかじゃねーだろーなぁぁ」 「・・・・・・・・・」 「ちゅーだけならまだしも実はもうアレがアレで、裸なんかとっくの昔に見ちまってるとかよー」 「・・・・・・・・・」 「いーなてめぇ、わかってんだろーなァ。に手ぇ出しやがったら――」 ガチッ、と銃の撃鉄を起こす音が鳴り、眉間にびたっと冷たい銃口を当てられる。 背筋に妙な汗が湧いてきた。やましさと後ろめたさが全身を痒みのように駆け回り出す。 やばい。顔が勝手に引きつりやがる。 ここで俺が何かにとち狂って、「どっちもやった」と白状したならどうなるか。 …きっかりジャスト一秒後、俺の眉間には間違いなく風穴が空くだろう。 「おいトシ。何だお前、言い返さねーってこたぁまさか、おい。 屯所でこそこそ隠れて逢引きだ夜這いだとふざけた真似してんじゃねーだろなぁ。オジさんグレるぞ、オイィィィ」 「いやあんたぁとっくにグレてんだろ。勘弁しろ。してねえって。するわけねーだろ!?」 ここは撤退だ。これ以上居続けても俺の分が悪くなるだけだ。 焦って銃口を振り払い、じゃあな、と土方は軽く手を上げ踵を返す。 木蔭になっている暗い花壇から抜け出し、この園内のメインストリートにあたる遊歩道に出れば、 マスコットキャラの動物たちがにぎやかしくペイントされた白い門が見えてくる。 まだ陽が高い時間だ。続々と入場してくる家族連れやカップルたちと逆行しながら煙草を取り出し、先を急いだ。 途中で何かがちくちくと背中に刺さってきているような気がして、ちらりと後ろを振り返ったのだが ――それが失敗だった。やべえ、と顔を強張らせ、土方は肩を竦めた。 戻ってきた将軍と合流した迷彩服姿の親父は、まだ怪訝そうな疑いの眼をこっちに向けていた。 あわてて首をめぐらせた土方は前にも増して焦った、早い足取りになる。遊歩道をドカドカと一直線に突き進んだ。 出入り口が近づいたところで、数人の少女たちとすれ違った。年頃は沖田と同じくらいか。 明るく華やかな色柄の着物を着た、鈴の転がるような声で笑い合う彼女たちの姿は どことなく普段着姿のを彷彿とさせる。足取りも軽やかな少女たちを、歩調を緩めて横目に眺めた。 白々と煙が昇る先を目で追い、曇り空を仰ぐ。ふう、と軽く吐いた揺れる糸に乗って、独り言が自然と溢れ出た。 「わかっちゃいねえな、あいつぁ、・・・」 親はいない。帰る場所もない。 は今でも、所在なさげな顔で笑ってそう言うが。それはあいつが気付いてねえだけの話だ。 何が帰る場所がねえ、だ。あそこにちゃんとあるじゃねえか。 お前の帰りを今も待っている親が。離れた今でも毎日のように、お前の幸せを願っているだろう親が。 血の繋がりもねえってえのにお前を溺愛している男親が、しかも二人もついていやがる。 毎日の鍛錬を欠かさない厳格な道場主の義父。やることなすことすべてが破天荒で規格外な自称義父。 どちらがどちらも老いなど無縁、我が道を邁進する気力を今なお保った、元気の有り余ったおっさんどもだ。 ・・・困ったもんだ。 あの厄介な頑固親父たちの姿を思うと、今から先が思いやられる。 あいつを貰い受けるには、あの一癖も二癖あるおっさんどもを一挙にお相手するしかねえらしい。 「・・・はっ。骨が折れそうだ」 苦笑混じりなつぶやきを歩道に落としてから、ぴたりと立ち止まる。 ほんの一瞬ではあるが動けなくなった。 ・・・・・・・・・・、何だ今のは。俺は今、何を考えた。・・・貰い受ける、だぁ? 真紅や芥子色の落ち葉を一面に散らした遊歩道を、絶句した土方は呆然と眺めた。 その先にある遊園地の出入口まで視線を伸ばせば、ゲート前に横付けしたパトカーの影には 平穏そのものな平日の遊園地からは幾分浮いた黒い隊服姿の女が見えた。 土方の姿に気が付いたのか、向こうも覗き込むようにしてこっちを見ている。 その姿を見つめるうちに心臓が跳ねて、思わずがっと手で口を抑えた。そうしないと何か叫んでしまいそうな気がしたのだ。 ぁんだそりゃ、とか、マジか、とか、――そういった類の、信じられない驚きを。 足が固まるほど驚いたのだ。口から自然とこぼれた溜め息のような言葉に。 いつのまにか根付いていたその考えに。 ――何時かはそうしての親に許しを乞うのだと、当然のように思っていた自分に。

「 片恋方程式。29 」 text by riliri Caramelization 2011/04/23/ ----------------------------------------------------------------------------------- 「布団にどう潜ったのか覚えがない最終日」の夜=「染みる体温」です       next