片恋方程式。 28
街灯も車の通行量も少ない屯所近くの裏通りに降り立った土方は、バン、と後ろ手にパトカーのドアを閉めた。 電子錠をロックし、路肩に停めた車の周囲を一通り見回してから、背後の歩道を左右に見渡して眉根を寄せる。 「・・・どこ行きやがった、あいつ」 先に車を降りたがいない。 歩道に入って遙か先まで見渡すと、黒い隊服姿の女は閉まった商店街の角にあった。 閉まった金物屋のシャッターの前にぽつんと出された、露店らしきものに吸い寄せられている。 「・・・?」 こんな人気のない静まった路地で出店か。 不思議になったが、角の先に続く街並がどうなっているのかを思い出せば疑問は解けた。 あの通りには呑み屋が並んでいる。そこから流れてくる、酔いが回って財布の紐が緩んだ客足を狙っての場所だろう。 露店の店主らしき男に声を掛けられたは幾度かこくこくと頷き、びっしりと並ぶ細かな品物を熱心に眺めている。 しばらく眺めれば気が済むだろう。 そう思って声を掛けずに待ってみたが、これがなかなか動こうとしない。 諦め半分に煙草を取り出し、火を点けながら、品物のひとつを手に取った彼女の姿をなんとなく見つめる。 見つめるうちにあることを思いつき、露店に向かって踏み出した。 夜道を店へと近づくごとに、緋色の布が敷かれた折り畳みの台に並ぶものが見えてくる。 小さな裸電球からの暖色の光に照らされているのは、女性用のアクセサリー。 指輪にネックレス、ピアスにブローチ。櫛に簪、髪飾り。帯留めなども揃って昔風に言えば小間物屋のようだ。 背後まで寄って行くと、気配に気づいたが髪を翻して振り返る。頭に留まった大きなピンクの蝶々結びも 長い髪と一緒にひらっと躍った。 「欲しいのか」 「欲しいっていうかぁ、・・・考えてたんですよ。明日からこの髪、どうしようかなあって」 「何だ。今日限りか、そのガキくせえ頭は」 「そのつもりですけど何か。てゆうか、バカ丸出しとか言われて誰が続けると思うんですか」 「そいつぁ助かる。明日も七五三が続くようじゃ、並んで歩くにも憚られるからな」 「なんですか七五三って。失礼なっ」 意地の悪い表情を作ってひやかすと、彼をじとっと睨んだ女の頬は風船のように膨らんだ。 土方は意外そうに目を細めて肩を引く。軽くからかったつもりが、は存外気にしていたらしい。 「もう話しかけないでください」と言わんばかりの仕草でぷいっとそっぽを向かれてしまった。 紅い唇の先はつんと尖り、頬もぷーっと膨らんだまま。 本人はそれなりに本気で頭にきているのだろうが、――怒っていてもいまひとつ迫力足らずな姿だ。 拗ねたガキにしか見えねえな。 意地になって彼を無視、手に取った髪飾りを膨れた顔で弄り回している女を可笑しそうに見つめて、 土方はふっと表情を緩めた。煙草を挟んだ手の指先が、頭の天辺の蝶々をトンとつつく。 「どれでも選べ」 「え?」 「髪切っちまった詫びだ。一つ買ってやる」 素っ気なく言い捨てたようなその言葉に、は勢いよく振り返った。ぱちっと互いの視線がぶつかる。 っ、と声にならない呻きをごくりと飲み干し、土方は思わず手を引いた。 自分へ集中した視線のあまりの強さと、何か信じられないことに遭遇しているかのようにぽかんとしている の態度にたじろいだのだ。 「いや。まあ。あれだ。欲しくねえなら別に」 「ほしい!」 逃げていく彼の袖端をがはしっと捕らえた。 あわてて飛びついてきた女の手にたじろぎ、土方は瞬きもせずに彼女を見つめた。目を逸らせなかった。 大きな目が最大に見開かれたの表情が、少しずつ、ゆっくりと変わっていく。 ふんわりと柔らかく頬が色づいて、口許が嬉しそうにほころんでいく。まるでつぼみだった花が咲き開いていくかのように。 「・・・・・・・買ってもらっても。いいんですか。・・・ほんとに?」 澄んだ瞳が熱を帯びてぽうっと輝いている。 彼女の勢いに呑まれた土方が言葉もなく頷き返すと、は恥ずかしそうに目を伏せる。握った隊服の袖をじっと見つめた。 一度は閉じた唇がかすかに動いて、またきゅっと閉じて。ためらっているような間を開けてから、もう一度―― 「ほ、・・・ほしい、ですっ」 「・・・そうかよ。なら、その。俺ぁ腹減ってんだ、さっさと選べ」 はいっ、と声を弾ませたが満面の笑みになる。露店の台の上を再び熱心に物色しはじめた。 彼女の背後に引いた土方はややうつむき、頭の後ろをがしがしと掻いた。上げた腕にその顔は隠れている。 隠されたその顔は、視線のやり場に不自由して戸惑っているような、けれどその不自由さを別段厭ってもいないような、 複雑そうな表情に変わっていた。 いつまで経っても慣れねえもんだ。 こいつが見慣れねえ表情をするたびにこうもまんまと引っかかり、女に見蕩れる自分など。 「あのっ。これ、つけてみてもいいですか?」 「いいよー、どれでも好きに試してよ」 鏡もあるからね。 店主は野太い声で言いながら、台の下でごそごそと何かを探し始めた。出店の親父、というよりは どこかの組の用心棒、といった強面だが、表情や口調には気さくそうな雰囲気がある。 片手で掴んでどんと置いた古い鏡は、顔が映る程度の大きさだった。 まあゆっくり見てってよ、とでも言いたそうな愛嬌のある笑みでに目配せすると、折りたたみの小さな椅子に 大きな背中を埋め、悠々と競馬新聞を広げて読み始めた。客からしてみれば商売っ気のないことだが、 それだけこの店主がこの時間に相応しい客あしらいに慣れている証拠にも思える。 は一番手前にあった髪飾りを手にして、台の端に置かれたそれの前で腰を屈めた。 選んだ髪飾りには大粒のビーズと白い花の飾りがあしらわれていて、裏側にピンがついたもの。 右耳のあたりにかざすと、じいっと鏡面を覗き込んだ。 土方はしばらくその姿を眺めていたが、少し疲れたような表情で目を伏せる。 時折冷えた風が吹く。足下に散っていた街路樹の朽ちた枯葉を巻き上げ、荒れた風は車道へと流れていった。 凍てつく季節の到来を思わせる北風だ。咥え煙草の口元からも、途切れ途切れな白線を夜空へと舞い上がらせていく。 閉まった商店街の夜景へと視線を流す。茫洋とした意識を視線の先に集めながら耳を澄ました。 それは、人通りのまばらな夜の裏道を包んだかすかな雑音や、大通りから流れてくる車の音ではなかった。 彼の耳の奥に留まって、忘れられない記憶の一部として残っていた声。昼間に立ち寄った警察病院を出た時から 身体の内側で鳴っていた声。――どことなくさみしげな女の声だ。 『土方さんは、自分が今までに何人殺したのかなあって・・・考えること、ないですか』 今日一日で幾度となく彼の脳裏を巡っていた女の声。それはいつかの遊園地で聞いたの声だ。 あの日とよく似た冷えた風が頬を撫でる夜は、あの時の彼女を思い起こさせた。 あの時のことが忘れられない。たしか、はそんなことも言っていた。 美代とその兄を盾に使おうとした、卑怯な男を斬り刻んでしまったことが忘れられない。 気が違ったような自分を見ていた仲間たちの、驚きに固まった表情が忘れられない。そう言っていた。 自分のしてしまったことに怖れを覚えて、謹慎中の三日間を眠れずに過ごした。 その手の弱音を吐いたのはあの日限りで、次の朝にはけろっとした様子に戻っていたが ・・・もしかするとあれからも、しばらくは眠れない夜が続いていたのかもしれない。 無理をして笑ってみせているのは一目瞭然だった。 空元気の貼りついた不自然な笑顔。隣で見ていた土方には知りようもない、遠いどこかを見つめているような沈んだ目。 本人はいつも通りに振る舞おうとしているのに、見慣れない影がつきまとっていた。その表情を彼は今でも憶えていた。 そうだ。あの日の俺には知りようがなかった。 散り際を風に煽られ、白い桜の花弁が吹雪のように舞っていたあの日。 暮れていく空の向こうに。沈む夕陽を見送って訪れる暗闇の淵に、こいつが何を見ていたのか。 「・・・、」 「はい?」 軽やかに髪を躍らせて振り向いた無邪気な表情に、あの日目にしたような暗さは欠片も見当たらない。 土方は口を閉ざした。 これまでにも何度も口から出かけた言葉。 訊こうにも訊けずじまいになっている吐き出せない息苦しさが、彼の喉を塞いでいた。 「土方さぁん?どうしたんですか」 言い澱んだ彼を物珍しそうに見上げて、は不思議そうに目を丸くする。 表情を厳しいものに変えた土方は、喉のあたりを浮遊している問いかけを腹の中まで引き戻す。 訊けるはずもない。もしがこの先を追及してきたとしても、何があった、とは。あの頃のお前に何があったのか、とは。 何故家を出た。お前は何処にいた。平凡に、幸せに暮らしていたはずの娘がどうして家を出て、どうやって暮らしていた。 何故、やくざ者が集まる根城に出入りしていた。例の兄貴と何があった。 どうして十数人の野郎をぶち殺すような真似をした。どうしてお前は―― 「あっ、だめですよー?今頃になって「やっぱやめた、自分で買え」とか言うのはナシですから」 笑いながら言うとくるりと背を向け、は鏡を覗き込む。 どっちがいいかなぁ。 髪飾りを頭にかざして、あれでもない、これでもないと熱心に選ぶ姿は、どこにでもいる普通の娘でしかない。 ここで笑っているお前と、あの日のお前。いったいどれが本当のお前だ。 俺が拾う前の、やくざ者十数人を一手に斬り殺したお前。死神なんて大層な呼びかたをされ、周囲に畏れられていた娘。 ――いや。おそらくどれも、偽りのねえ姿なんだろうが。 どうしてそんな真似をした。 殺意に憑かれた自分を悔いて、眠れなくなっちまうお前が。どうして今はそんな、何も無かったような顔で、笑って―― 「いや。」 口からこぼれたのは、無意識のうちに声にしてしまっていた否定の言葉。 土方は目を見張り、ふっと息を呑む。 思わず口にしてしまったことに、自分でも軽い驚きを覚えていた。 ふと目線を下げると、ぽかんと口を半開きにしたが自分を見つめている。その姿を見つめるうちに―― 「・・・え、・・・・・土方、さ、・・・・・・・」 大きく見開かれたの目は、自分の頭上に影を作った腕に釘付けになった。 大きな手のひらがしなやかな髪に触れて、頭の天辺を覆う。髪の流れに沿ってそこを何度か撫でた。 乗せられた手の重みに頭をかくんと揺らして、はくすぐったそうに肩を竦める。 上目遣いに視線を上げた、どことなく頼りなげな、子供のような表情が土方を見つめてくる。 落ち着かない様子で隊服の衿元を握って、周囲を気にしてふらふらと視線を泳がせる。薄紅色に肌を染めていく。 土方さん、どうしたんだろう。・・・あたし、何かおかしなことでもしたのかな。 ちっとも視線の定まらない大きな瞳は、そんなことを思っていそうなの混乱ぶりをありありと映し出している。 土方はふっと口許をほころばせてを見つめた。その笑みは苦渋をしのばせた、どことなく重たげなものになった。 いや。そうじゃねえ。苦しまなかったはずがねえんだ。 どうせ今だって、忘れようにも忘れられねえでいるんだろう。 忘れられるはずがねえ。――てめえが手に掛けてきた奴らの数を、いちいち数えて覚えてしまうこいつが。 相手がどんなに下衆な野郎であっても、それを斬り刻んだ自分を心底思いつめて、人知れず倦んじまう馬鹿な奴が。 そんな自分に苦しまないわけがない。 苦しんだはずだ。思い返すたびに死にたくなるような思いをしたはずだ。苦しまなかったはずがねえんだ。 「・・・、ひ。土方、・・・さん?」 眉をひそめた困った顔で呼ばれても、彼には掛けてやれる言葉はなかった。 どうにかしてやりたい。なのに何もしてやれない。何も言ってやれない。 もどかしく溢れ始めた感情を抑えつけ、舌打ちひとつでやり過ごす。ままならなさに歯痒い思いをしながら見下ろすと、 は困りきっているのか、深々とうつむいて身体を縮み上がらせていた。 うっすらと頬が赤らんでいる。焦りを浮かべてきゅっと引き結ばれた唇も紅い。 惹きつけた男の視線をあしらうことにまるで慣れていない表情やしぐさだ。 男を操る駆け引きに長けた同じ年頃の女たちと並んだら、えらく子供じみて映ることだろう。 ・・・まったく。これのどこが死神だ?似合わねえ通り名つけられやがって。 「何があったんですか。なんだか今日、すごく変ですよ。・・・でも。ええと。・・・普段もかなり変だけど」 「誰が変だ。つーか、てめえにだけは言われたかねえんだが」 「じゃあ今のはなんですか。おかしいですよ、急に黙ったり考え込んだり。てゆうか何が?何が「いや」なんですか」 「切るのか」 「え?」 手の先をの髪の内側に入れて、長い髪の一房をさらりと掬う。 髪を捉えた手が彼女の耳を掠めた。指の腹で感じた女の耳たぶは柔らかく、夜の空気に冷やされてしっとりと冷たい。 指の感触に驚いたのか、が胸をどきっと高鳴らせたかのように息を呑み。同時に竦めた肩が、びくん、と大きく竦んだ。 「え、あ、・・・はい。つ、・・・次のお休みに、美容院に行って揃えようかなって」 指に挟んだ髪の先を伏せた目でじっと見つめてから、土方はするりと手放した。 まん丸に見開いた目で彼の仕草に見蕩れていたは、赤らめた顔をあたふたと逸らす。 傍にあった鏡を引っ掴み、鼻先がくっつくほどに覗き込み、自分の髪をしきりに引っ張ったり撫でつけたりしながら言った。 「どっ、どーしよーかなぁ。どのくらい切ろうかなあって、迷ってるんですよねー。 あんまり短くしたことないから、思い切って顎の高さまで切っちゃうのもいいなあって」 「やめとけ」 「え?」 「俺ぁ、長げぇほうがいい」 ・・・・俺ぁ何を。 何だ今のは。口から勝手にこぼれてきやがった。 思わずぽろりとこぼしてしまい、彼は口端で煙の糸を昇らせていた煙草まで 思わずぽろりと落としてしまいそうなほど唖然とさせられた。それは勿論、他の誰にでもなく自分にだ。 何を言ってんだ俺は。それがこいつを部下として扱う立場の奴が言うことか。 付き合い始めて間もない男がさも言いそうな、いかにもな独占欲が透けて見え―― 「―――!」 数秒後にはっとして我に返り、黙りこくっていた女を見下ろすと――は妙にぎこちない顔で固まっている。 半開きの口こそ物を言わないが、まじまじと見開かれた大きな目が口の倍以上に彼女の思いを物語っている。 色んな疑問と驚きが押し寄せた頭の中が処理容量を大幅に上回ってしまい、わけもわからず凝り固まったような顔だ。 「しまった」と舌打ちしたくなったが、土方は何食わぬ顔をどうにか装い、車道まで視線を逸らす。 煙草を仕舞い込んだ隊服の胸のあたりではきまりの悪さに心臓が騒いでいるのだが、こんなの前で バカ正直に動揺を晒すのだけは避けたかった。 危ねぇ。 喉の奥でひそめてつぶやきながら、口端に含んだ煙草を噛み締めた。 大通りよりもスピードを落とした車がちらほらと抜けていく細い道に、睨むような目線を据える。 とはいえ、どれだけ見つめたところでそこには静まった街並み以外の何があるわけでもなく、 心臓のあたりをつんつんとつついてくるきまりの悪さとこめかみに沸く冷汗は、じわじわと増すばかりなのだが。 「・・・・・・・。そう。ですか」 「・・・。ああ。まあ。・・・・・その。何だ。別にたいした意味ぁねえ、気にすんな」 「やっぱり。変ですよ。・・・今日の。土方さん、・・・」 もじもじと、消え入りそうなか細い声が後ろでつぶやいている。それ以上の言葉はなく、 十数センチほどを空けて背中合わせになった二人の間には、お互いがお互いを気にしながらも その存在に困り果てているような、なんとも微妙な空気が訪れた。 土方は肩越しにこっそりと、気づかれない程度の視線を背後に向けてみる。 ただでさえ華奢な後ろ姿は、肩がぎゅっと小さく縮められていた。 頬どころか耳まで真っ赤にした女は、髪飾りを胸元で握りしめてうつむいている。 ・・・あの紅潮した横顔がどことなく嬉しそうにみえるのは、俺の気のせいってわけでもねえんだろう。 そう思うと、複雑でもどかしい気分にさせられた。 今まで味わったことのない甘ったるさを無理に口に押し込まれて、否応もなく飲み込まされているような。 そんな居心地の悪い、気恥ずかしさのあまりに再びくるりと背を向けて、ふてくされたふりでもするしかないような嬉しさだった。 その翌朝。 江戸の街は天候が悪く、秋の深まりを連れてきたような冷たい野分が吹き荒れていた。 空は重くのしかかってくるような陰鬱な色をしている。一面を雲に閉ざされ、わずかな陽光や暖かみも感じ取れない。 大勢の容疑者や犯罪者を収容する警察病院の中はいつにもまして薄暗く、空調は効いているというのにどこか寒々しく。 高層な建物の三階から上を占めた入院病棟には、特有の陰気臭さが湿気のように漂っていた。 最初に異変に気付いたのは、数人分のカルテを抱えて廊下を歩いていた一人の若い看護師だった。 18階病棟の中央にあるナースステーションに向かう途中で、彼女はふと足を止めた。 自分の担当する病室の閉め切ったドアが、カタカタと小刻みに揺れている。足を止めて凝視しなければ 判らないほどの、ごくわずかな揺れだが。そこはついさっき――ほんの十分前に、患者の様子を伺いに訪れた部屋だ。 1823号室。 無機質な白いプレートを横目に確認して、彼女はドアの前に立った。 「・・・・・・?どうして風が、・・・」 ひゅうっ、と忍び込んできた冷えた隙間風に首筋を撫でられた。 おかしい。奇妙さに眉を曇らせながらドアを引いた。 見回りで入った時には患者はぐっすり眠っていたし、窓が開いていた覚えもないのに。 「・・・・・・!」 カルテを取り落とした看護師はドアに縋りつき、目を見開いて絶句した。 その一瞬で、落ちたカルテが廊下の一部屋先まで吹き飛ばされる。ピンでまとめていた彼女の髪がバラバラと散って舞い上がる。 身体を引きずられる。部屋から彼女に向かって吹きつける風――台風のように渦巻いて荒れ狂う風に、 身体ごと奪われそうになる。ごうっ、と暴力的に鳴った風音が耳を圧倒していた。 肌を切られそうな、剃刀のように鋭い轟音。彼女の身体を呑み込んでしまいそうな風音が。 18階の23号室。 黒鉄組で拘束された例の男を収容した病室は、高層階の気圧と強風に荒らされてすべての物が散乱している。 ベッドを覆っていたはずの布団や毛布は床に落ち、シーツは部屋の隅で風に躍り。枕元に置いてあったパイプ椅子や 可動式の小さなテーブルはなぎ倒され、風圧で壁際まで打ち寄せられていた。 しかし看護師の女性の目を釘付けにしているのはそのどれでもない、他の一点のみ。 入院患者の姿がない。困惑する頭の片隅ではそう感じていながらも、彼女はそこから目が離せず、身動きも出来なかった。 一番大きく、他のどれとも比べものにならないほど目を惹く異様な光景だ。 ガタガタと風に鳴るドアにしがみつきながら、青ざめた彼女は喉から声を絞り出した。 「な。何で、・・・なんなのよ、これ・・・!」 病室から窓のひとつが消えていた。しかも消え方が不気味だ。 強い衝撃で何かに打たれた窓が粉々に破壊されているだとか、窓枠がガラスごと下へ滑落したような 痕跡があるのならまだ理解もつく。そうではなかった。違うのだ。爆破されたような焼け焦げや臭いなどの痕跡もない。 元より、そのような爆音が響けば、今頃この病院は上を下への大騒ぎになっていたことだろうが。 消えている。抜き取られている。 破壊されて失われたのではなく、どう見てもそれは、そこだけが消失したとしか思えない状態だった。 周囲の壁と床の一部も含めて、そこだけがぽっかりと丸く切り取られたような状態で窓が消えている。 人の身長ほどの直径で、球形に穴が空いていた。 閉め切った病室の――それも、厳重なセキュリティを幾重にも敷いた警察病院の中にあって まるでそこだけを巨大な何かに喰われ、えぐり取られでもしたかのように。
「 片恋方程式。28 」 text by riliri Caramelization 2011/03/13/ ----------------------------------------------------------------------------------- next