「あーあぁ、これは結構いってるよー。切らないとダメじゃないのかなぁ」 手にした一束の髪と、前にしゃがむ女の後ろ頭をしげしげと見比べながら、山崎は残念そうに告げた。 彼の手の中にあるのはの髪。さらさらと触り心地のいいしなやかな髪は、右耳を覆うあたりの一房だけが 肩に届くすれすれの長さでぱつんと断ち切られていた。 「えっ。そんなに目立つの?」 山崎の前でちょこんとしゃがんだが振り向き、眉を下げた困った顔で訊き返す。 彼女と似たような表情で山崎も頷き返し、その隣で煙草を咥え、細い煙をくゆらせていた土方は 表情の薄いその顔つきを微かに変えた。 土蔵が立ち並ぶ黒鉄組の広大な庭。その庭の外れに設えられたあずまやに彼等は居た。 負傷した立て籠もり男を警察病院に向かう救急車に送り込み、現場は落ち着きを取り戻している。 屋敷に居た全員が使用人たちも含めて事情聴取のために屯所へ移送され、残った隊士たちは撤収作業へと移っていた。 黄金色の蔦と葉が絡みついた藤棚を屋根にしたあずまやからは、広い花園も近い。秋も深まりつつある今の季節は 彩りもなく茶色の落ち葉が地面を埋めるだけだが、季節が春であれば頭上には薄紫の花が枝垂れ、 花が咲き乱れる鮮やかな眺めも望めただろう。中央には籐製の長椅子が置かれている。その椅子には三人が居座っていた。 ここに落ち着くなり煙草を取り出した土方は、現場の後始末の手順でも考えているような面持ちだ。 土蔵からの武器弾薬の搬出作業も気になるらしく、荷を詰めた箱を積んだ運搬車が目の前を通って行くさまを しばしば目で追っている。その横に座る山崎は、土方の刀に巻きこまれたの髪がどんな具合になっているのかを、 本人に代って確かめていた。 「あのくらいならごまかせるかなと思ったんだけど。そんなに目立つ?」 「ごまかすにはちょっと、・・・うーん。無理かなぁ。そこの窓で見てみたら」 山崎が蔵を指差す。海鼠塀の壁には等間隔に暗いガラス窓が空いていた。 が土蔵へと駆けていく。土方はなんとなしにその後ろ姿を目で追った。 「バッサリ持ってかれたもんだぜ。ひでーことするなぁ土方さんも」 そんな土方を嫌そうに眺め、長椅子の殆どを占領したもう一人が皮肉を向ける。 屯所で昼寝している時と何ら変わりのないだらけきったポーズで、沖田は自分の腕を枕にごろりと寝転んでいた。 一見して普段と何ら変わりのない姿なのだが、何を考えているのか知れない薄笑いを浮かべた彼の顔には 微妙な不機嫌さが滲んでいる。このひねくれた少年の扱いに慣れている者しか気づかないような、ごく僅かな不穏さが。 よって、彼のちょっとした不機嫌さに勘づいたのは一人だけ。 を助けに走った沖田の足を妨げ、彼の不機嫌の原因を生み出した土方である。 言いたいことを噛み殺したような顔で口端を曲げて、土方は沖田をじろりと横目に睨んだ。 「大袈裟なんだよ髪の毛くれぇで。目の前で小僧にドカンといかれるよかよっぽどマシだろーが」 「まあ、そりゃあそうですけどねえ」 二人の間に口を挟んだ山崎が、蔵の窓の前にぴったりくっついたの後ろ姿をちらりと振り返る。 気の毒そうな声音で言った。 「それにしたってあれはなぁ。元の長さに戻すにも随分かかりそうだよなぁ・・・」 「やれやれ。土方さんのやるこたぁ荒っぽくていけねーや。 あそこで刀ぶん回すにしたって、もう少し上手くやれねーもんですかねぇ」 「無茶言うな。てめえやじゃねえんだ、器用に着物だけ剥がすような曲芸がほいほいと出来るか」 「土方さん。あんた、あの姿を見てもそう言えるんですかィ」 沖田に指された方に視線を合わせ、土方は、うっ、と喉の奥で呻く。つい力が入って指の間に挟んだ煙草がぐしゃっと潰れた。 はただでさえ大きな目を更にぽかんと見開き、まさに呆然自失だった。 斬られた毛束を手に握り、窓に映ったその毛先をぼーっと見つめている。自分の目が信じられない、という顔で。 「あーあー、かわいそうに。ショックで放心してますぜ」 どうすんでェ、と沖田に迫られる。土方はムッとした様子で眉間を寄せた。 どうするもこうするもあるか。つーかあれを俺にどうしろってんだ。しょーがねーだろ、切っちまったもんは。 俺だって何も感じてねえ訳じゃねえ。こいつに言われるまでもねえんだ。かといってあの時は他にどうしようもなかった。 瞬速を誇る総悟の剣や、素早さと巧みさを備えたあいつの腕前なら、あんな場面で女の髪をかわすなど容易いだろう。 だが、俺の腕にそこまでの器用さは備わっていない。女の髪も野郎の腹も何も爆弾ごと無粋にぶったぎって、 テンパった立て籠もり小僧を我に返してやるくれえがせいぜいだ。 「え、あ、・・・あははは、すいません!・・・、実際に見たらちょっと。びっくりしちゃって、・・・」 たっぷり一分間は窓に釘付けになっていたは、ようやく我に返った。 くるりと振り向いて笑ったのだが、・・・その笑顔がどうにもぎこちない。ショックを引きずっているのは目に見えていた。 素直で感情豊かな彼女は何でも顔に出るのだ。あれでは屯所のどんな奴が彼女を見ても 「落ち込んでんなぁ、ちゃん」と一目で見抜くことだろう。 浮かない顔で頭を掻いていた山崎が、はぁ、と短い溜め息をついた。何か言いたげな上目遣いで土方を眺める。 椅子から起き上がった沖田は土方をじろりと睨み、持っていた刀の先でトンと小突いた。 「土方さん。あんたに一言謝んなせェ」 「はぁ!?なんで俺が」 「えっ。そんなぁ、いいよーこのくらい、」 がぱたぱたと駆け戻ってくる。 鞘の先で土方の肩や肘を小突いている沖田と、向かってくる鞘先をうっとおしげに払う土方を面白がって、 彼女は華奢な肩を竦めて笑うのだが。その表情はまだ硬く、どこか晴れないものだった。 「どうってことないですよ、こんなの。髪なんてすぐ伸びるもん」 そう言いながら、伏せた目でちらりと右を流し見た。 土方に斬られた髪のあたり。右耳の下あたりだ。 たぶんにしてみれば、まるで無意識な視線の動きだったのだろう。ほんの些細な、何気ない仕草だった。 だというのに、土方の目はそんな些細な仕草すら見逃すことなく捉えてしまう。 舌を噛みたいような気分にさせられながら、吸い終えた煙草を足元に落とす。 朝露に湿った濃緑の芝生に転がったそれを目で追うようなふりで、から気まずそうに目を逸らした。 始末が悪りぃ。 喉の奥で彼はつぶやく。自業自得とはいえ煩わしい。がではなく、自分がだ。 もやもやと胸を埋める霞のような煩わしさ。つまりは罪悪感だが、それをいちいち気に掛けてしまう自分が煩わしかった。 そもそもだ、今がそんなことを気にしている場合か。それどころじゃねえだろう。 撤収作業の指揮。だだっ広い屋敷中をひっくり返しての、攘夷浪士どもとの密な繋がりを示す証拠の捜索。 それと同時に、すみやかな現場の保存と警護も徹底すべきだ。 本庁からの鑑識部隊もそろそろ到着し始めた。近藤さんとも打ち合わせが必要だ。例の野郎もここの何処かで確保されたはず。 頭ぁ冷やして周りを見ろ。この屋敷の中だけでもやっておくべきことは山積みだ。女の機嫌を伺ってやるどころじゃねえ。 「それに、あそこで土方さんが防いでくれたからみんな無事だったんだし」 「ちっともよかねーや。野郎の髪ならともかく、あんたが斬ったのは女の髪ですぜ。 ちったぁ悪りーと思わねーんですかィ」 「そうですよ、髪は女の命とも言いますしねー」 「知るか。原因はこいつの判断の甘さだろうが。こいつが火種より先に小僧を抑えてりゃあ、俺だって」 真っ赤な残り火をブーツの爪先で苛立たしげに揉み消すと、土方は山崎にきつい視線を向けた。 「つーかおい、お前は何しに来た。向こうはどうなってんだ」 「!そ、そうでしたっ、」 はっとした山崎はあたふたと土方の耳元に寄り、小声で何かを告げる。 土方はその言葉に眉を曇らせると、傍らに置いた刀を掴んで立ち上がった。 「何かあったんですかィ」 「いや。たいしたこたぁねえ。、」 「はいっ」 「お前、今日は近藤さんに同行しろ。母屋のどこかにいるはずだ」 はい、と答えながらも不思議そうに目を瞬かせたと、不満げな視線を投げてくる沖田を残し 山崎を伴ってその場を離れる。 庭を急ぐ隊士たちや本庁から到着した鑑識科の一団とすれ違いながら、土方は肩越しに一瞬だけ振り向いた。 後始末に追われる奴らに紛れて、の姿も目に入る。 遠目にも目立つ唯一の女隊士は、斬られて短くなった部分の毛先を目先まで持ち上げ、 失くしたものを惜しんでいるような残念そうな顔つきで見つめていた。
片恋方程式。 26
黒鉄組を離れた土方と山崎は、警察庁のビルからわずかに離れた場所に建つ警察病院の廊下を歩いていた。 消毒液の匂いでも相殺できないかすかな死臭と、辛気臭さの籠った薄暗い廊下。 看護師が行き交うそこを急ぎながら、状況の確認を進めていく。 ここへ着くまでの車内で話せるものならよかったが、生憎とすべてが秘匿事項だ。 運転手を務める隊士の耳に入れるわけにもいかず、乗車中は捜査中の別件の情報の遣り取りに時間を潰した。 「食い止める暇もありませんでした。踏み込んできた俺たちに驚いて、奴が脚を滑らせたんです。 あっという間に開いた窓から屋根へと転がり落ちちまって。俺らが窓に駆け寄った時には、もう庭に倒れてました」 「落ちた直後は。奴ぁ意識はあったのか」 「ええ、救急車に乗せた直後も頭抱えて、痛てえ痛てえとわめいてましたから。あの苦しみようからして 肋骨くらいは折れていそうでしたがね。外傷は額が切れた以外にありません。ただ、――」 ふと口を閉ざし、山崎は隣を歩く土方に視線を合わせた。 「妙なことをしきりに口走ってました。死神が、と」 「・・・死神?」 「はい。あの死神のせいだ、とか、見ちまった、とか。呻きながら何度も繰り返してましてねぇ」 首を捻って考え込んでから、思い出したように顔を上げる。 「後はですねぇ、これもうなされたみてーにブツブツと口走ってたんですがね。 なんとかって旦那に報せねえと、とか、あの野郎にひと泡吹かせてやる、とか、あの野郎がどーのこーのと悔しそうに」 「ぁんだ、なんとかの旦那ってのは」 「さあ。そこまではさすがに聞き取れませんでした」 「聞き取れませんでした、じゃねえ馬鹿野郎。首でも締めて頭揺すってでも吐かせてやりゃあいいだろうが」 「ぇええ、勘弁してくださいよォ。副長じゃあるまいし、頭打った怪我人相手にそこまで出来ませんって」 苦笑いした山崎が、ここです、と駆け出す。とある病室の前で立ち止まった。 扉の横に貼られた白いプレートの室名は1823号室。18階の23号室だ。 何の愛想もないスチール製の扉を引いて中へ踏み込む。次いで土方も室内に足を踏み入れた。 ベッド前には二人の姿があった。眼鏡に白衣姿の医師と、看護師の若い女性。 先に顔を上げて会釈をしたのは、既に何件かの事件を通じて彼等とは顔馴染みになっている医師のほうだった。 二人も同じように無言の会釈を返す。ちょうど診察を終えたところなのか、 医師がこちらへ向かってきた。看護師も診療器具を収めたワゴンを押してついてくる。 「詳しい診断は検査を行ってからになりますが、脳内出血を起こしている可能性があります。 ここへ来て意識が混濁しはじめたようです。患者に負担を与えないよう、聴取は手短にお願いします」 「はい、了解しました」 「それと、落ちた時の状況をお聞きしたいのですが――」 医師の質問に答える山崎を残し、土方は窓際に置かれた医療用のパイプベッドまで足を進める。 四人部屋としても使えそうな広さのこの部屋の中に、ベッドはわずか一台きり。 聴取内容を漏らさないようにと考慮して、男の病室は一人部屋にして他とは隔離させている。 固く目を閉じて横たわる男の皺の刻まれた額には、傷の消毒用らしきガーゼが貼り付けてあった。 年は見た目には五十絡みといったところ。だが、実年齢は見た目よりも十は若いはずだ。 がこの警察病院で、幼い子供相手の聴取中に顔色を変えて以来――そう、あれは確か、まだ梅雨の前だった。 あの日以来幾度も睨んできた調書の覚え書きが、土方の脳裏には自然と浮かんでいた。 「――おい。聞こえるか。訊きてぇことがあるんだが」 話しかけてやや待ってみたが、男が目を覚ましそうな気配は感じられない。ぐるりと室内を見回す。 天井も床も青白い。白いベッドに白いシーツ。その周囲に沿って天井から吊るされた目隠し用の白いカーテン。 パイプ椅子、引き出し付きの小さなテーブル、小型テレビ。必要最低限のものしかない殺風景な室内。 警察病院の中とはいえ、病室としてはごくありふれた眺めの部屋だ。 ただし、窓は通常の病院よりも小さめで、すべての窓に逃亡防止用の鉄格子が嵌まっている。 いかにも警察病院らしい点といえばこの窓くらいのものだろうか。 鉄格子越しに見えるのは、間近に建つ警察庁の高層ビル。遥か向こうには、塔のようにそびえ建つ ターミナルも見えた。曇り空には雲を透かした薄明るい太陽が輝いている。 陽の高さからして、もうじき昼時か。 立て籠もり男の騒動に右往左往させられて以来、一度も時間を確かめていなかった土方は空を眺めながら思った。 窓のひとつが喚気のためか開いている。鉄格子の向こうに見える細い手摺りには鳥が数羽留まっていた。 こんな高層階の窓辺まで雀が飛んで来るのか、と思いつつなんとなく眺めたが、よく見れば雀とは違っていた。 羽色は黒っぽく、雀よりも一回り大きい。武州の野原や川辺で見掛けたヒヨドリやムクドリといった類に似ているが、 それよりは少し小さかった。街中ではあまり見かけない野鳥だ。 「んん、っ・・・・・・・・」 くぐもった声が聞こえ、毛布を掛けられ横たわる男の腕がぴくりと動いた。 土方はベッドへと視線を下げる。うぅう、と掠れた呻きが半開きの口から漏れていた。 男は痛みに顔を顰めて目を開けた。意識がはっきりしているのかどうか、左右に頭を揺すっている。 その枕元まで近寄った土方は、やや硬い表情で深く息を吸い込む。 呼び慣れた女の名を口にするだけ。ただそれだけのことだ。だというのに、なぜかある種の覚悟を迫られていた。 「お前。って女に覚えはあるか」 「・・・・・・・?・・・・・誰だぁ。そいつは、・・・・・・・・」 朦朧とした喋り口調で男が訊き返してきた。 うっすらと開いた黄ばんだ目が、ぼんやりと天井を見つめている。 しばらく黙っていたが、急に思い出したような様子でぱちりと瞬きを打った。 「・・・あぁ。そういやぁ。・・・・・・・・そんな名だったな。あの女ぁ、・・・・・・」 多少の生気が戻った男の目が、土方へと視線を流してくる。 てめえは誰だ、とでも言いたげな軽い猜疑心を浮かべながら、ぼそりと答えた。 「あの野郎や。うりゅうの、旦那ぁ、・・・別だが。下っ端の俺たちぁ、・・・・・・あの女を。名前で呼んだこたぁねえ」 「・・・・・・・・・。お前はあいつを、どう呼んでたんだ」 あの野郎。「うりゅう」の旦那。 ――山崎が聞き逃したのはこの名前か。 土方は男を眺めながら、膨大な量の調書から得た記憶を辿ってみたが。該当しそうな人物名に覚えはない。 仕方がねえ。あの量を当たるのは酷でぇ手間だが、今夜からもう一度洗ってみるか。 そう思いながら隙の無い表情で男の様子を窺う土方に対して、男のほうも彼を遠慮のない目でじろじろと見つめていた。 医師はこの男の意識が混濁し始めたと言っていた。しかし今は調子が良いのか、口調も態度もしっかりと覚めつつあるようだ。 「あんたぁ誰だ。・・・・・・・。いや。その制服。そうか、さっきも見た、・・・なぁ、」 「俺のこたぁいい。ここは警察病院だ。お前は黒鉄組の二階から落ちてここへ運ばれた」 「そうか。てこたぁ、・・・またムショに逆戻りか。ちっ、へまやっちまったなぁ・・・・・・・」 男は遠い目で天井を見つめながら黙り込み、目を閉じる。 そのまま眠ってしまいそうに見えたが、ちっ、と軽く舌を打った。 身体のどこかが痛んだらしい。苦しげに歪んだ男の顔に、諦めきったような笑いが浮かぶ。 「答えろ。知ってるんだな、を」 「・・・・・・。ああ。知ってるも何も。・・・あの女のこたぁ、忘れようがねえ」 弱々しく呻きながら薄目を開けると、男は土方に視線を向けた。 口端に浮かぶ下卑た笑いはどことなく薄気味が悪く、この男の送ってきた半生を想像させるものだった。 ばさっ。 軽い音が耳に入る。音のほうへ目を向けると、窓辺に並んでいた鳥たちが黒い羽を騒がせている。 ばさばさっ、と乾いた羽音が連なって、次々と灰色の曇り空へ飛び立っていった。 「あれァなあ。死神だ。」 あの女のことなど口にしたくもない。そんな投げやりな態度で男は言った。 死神。 頭の中で反芻したその言葉に、土方は軽く息を詰める。 彼と男の会話を戸口の前で聴いていた山崎も、思わず目を見張っていた。 彼等の表情の微細な変化を伺ってから、男はふたたび口を開いた。 「・・・・凄まじいもんだったぜ。地獄ってえのはこういうもんかと思ったね、俺ぁ。 旦那の言いつけでちょっと留守にした間に、俺が居たアジトは地獄の沙汰に様変わりさ。血飛沫で真っ赤になってやがった」 あの女のおかげでな。 皮肉めいた口ぶりで付け足し、だるそうな小声で話を続ける。 「使いから戻って玄関開けた時には腰が抜けたぜ。頭から血ぃ被った女が、肝の冷えるような面で立ってやがった。 台所で震え上がってた小間使いのガキと手伝いの女ども以外は、血みどろで廊下に転がってた。斬られた腕だ脚だもな。 女ってえのはこれだから判らねえよ。あんな別嬪な上物が、・・・まあ、話しかけても眉ひとつ動かさねえ高慢ちきだったがなぁ。 あの死神が刀ひとつで、旦那がアジトの護りに置いた奴等を全滅させた。十数人の腕利きを一人でぶち殺したんだ」 淡々と語られる独白を、土方は黙って聞きに回る以外になかった。 男の声が頭の中を占領している。背筋をうすら寒いざわめきがせり上がっていった。 ・・・似ている。 こいつの見たは、あの時と似たようなもんじゃねえか。 総力体勢で例の慈善団体に乗り込み、臓器提供用として売り飛ばされるはずだった子供たちを救出したあの日と。 ――遡ることおよそ半年前。 まるで何かに憑りつかれているかのような残虐さで刀を奮い、美代とその兄を救った。 被った血飛沫に全身を赤黒く染めていた。別人のように凍てついた表情をしていた。 普段のあいつとは掛け離れた姿。禍々しいまでのあの姿と―― 「――副長、」 山崎が背後から遠慮がちに呼びかけてきた。 いつのまにか胸前で腕を組み、視線を床に向けて考えに耽っていることに気付く。顔を上げてふたたび男に問いかけた。 「そこを詳しく聞かせろ。あいつはどうしてそいつらを殺った」 「どうして、・・・・どうしてだァ?ふん、そんなもん知るか。 だがまあ、・・・・・・・・そうさなぁ、虫の居所が悪かったか、・・・血に飢えてたんじゃねえのか」 「違うな」 即座に土方が断言する。 静かな口調だったが、男に向けた目は内心の葛藤を映してきつい眼光を放っていた。 「あれァろくな理由も無しに人を殺める奴じゃねえ。 そこまで仕出かすくれえなら、何かのっぴきならねえ理由があったはずだ」 彼の言葉を聞いた男は薄気味悪く笑ったが、それだけだった。 再度の問いかけにも耳を貸さず、籠った笑いを浮かべるだけで一切答えようとしない。 問い質す土方の様子から、の話が自分の刑を軽減させる取り引き材料になるとでも踏んだのだろう。 そこへ検査準備のために看護師数人が踏み込んできた。患者搬送用のストレッチャーも持ち込まれる。 「これから検査に入ります。聴取は明日午前の検査以降にお願いします、との先生からの伝言です」 さっき医師に附き添っていた看護師の女性が来て、土方と男の間に入ってそう告げた。 やむをえず聴取は打ち切りとされ、土方は渋々ながらもベッド際から身体を引く。 ベッド周りを囲んできびきびと準備を進める看護師たちの姿越しに、男の姿がちらほらと垣間見えた。 痛みに顔を顰めながらも、優越感に浸ったひどく愉快そうな視線を土方に送っていた。
「 片恋方程式。26 」 text by riliri Caramelization 2011/02/24/ ----------------------------------------------------------------------------------- next