「・・・・たまげたな。」 最初に切り出したのは近藤のほうだった。 二人を戸口の影から見送った二人――銀時と近藤は、縁先で肩を並べている。 縁先に他の影はない。部屋の中では笑顔の志村姉が落胆する九兵衛を宥め、志村弟のほうは 暴れる神楽に四苦八苦していた。 賑やかな室内に背を向けた二人は、灯篭の明かりが点々と、真珠のように柔らかく点る広い夜景を眺めている。 かといってお互いに、何か話があったわけではなかった。それぞれがなんとなく、すぐに部屋へ 戻るような気分ではなかっただけのことだ。 どこか遠くの座敷から響く淋しげな三味線の音色が、途切れ途切れに続いている。 芸妓や玄人が奏でている、というよりは、素人が戯れに爪弾いているような、どこか拙さの残る調べだ。 近藤が口を切ったのは、その音がふつりと途絶え、奇妙に落ち着いた沈黙が流れてからのことだった。 ようやく思い出したかのように振り返り、ひどく不思議そうな顔つきを銀時に向けた。 「さっきのあれはなァ。意外だったぞ万事屋」 「あぁ?なんだよたまげたってよ。お妙に殴られすぎていよいよ頭がイカれちまってんじゃねーの」 「お前が進んでをトシに渡すとはなァ。俺ぁお前が、まさかここまでお人好しだとは思わなかった」 「あー。まーなァ。つってもてめーほどじゃねえけどな。・・・・・・俺も驚いてんだわ、今」 あの子の前だとつい、いい奴ぶっちまってよぉ。ほんとになにやってんだか。 庭へ足を投げ出して縁先に座る銀時が、きまりが悪そうに銀髪を掻き乱す。それを可笑しそうに眺め、 ははは、と近藤は快活に笑った。暗い庭に背を向けると、ひょい、と挨拶代りに片手を挙げる。 「俺は今回、お前に随分助けられたんだがなァ。そういうことなら礼は言わねえほうがよさそうだな」 「けっ。余計な気ィ回すんじゃねーよゴリのくせによ。いらねーよ、んなもんはよ」 そうだ。礼も詫びもいらねえさ。これでが笑っていられるならな。 あの子のためを思ってしたことで、結果的にはムカつく野郎にもそこそこデカい貸しが作れたわけだしよ。 それによー。泣き止ませてやるまではいかねえでもだ。あの子の慰め程度にはなれたんじゃねーの?今日の俺。 そう思えば悪かねえよな後味は、・・・なんて単純に嬉しがってる自分は別段嫌いじゃねえしな。 まあ、これも誰かにマジで惚れちまった証っつーか。片思いってやつの醍醐味ってもんじゃねーの。いーんじゃねーの別に。 素直にそう認めつつも、胸に沸々とわいてくるのは一抹のさみしさ。これを何と呼ぶものかも、悔しいが認めざるを得なかった。 あーあぁ。惜しいわ。マジで惜しかったわあれは。 あの子が抱きついてきた時には、もしかしてこれでいい線いくんじゃねーかと思ったんだけどよー。 「・・・それでも結局野郎にゃ勝てねーってかぁ、・・・」 軽く肩を竦め、ちぇっ、と舌打ち混じりの苦笑で憂いを吹き飛ばし。 銀時はネオン街からの光をヴェールのように纏った薄明るい江戸の夜空を、笑みに細めた目で見上げた。
片恋方程式。 24
「ああ。まあ要はそういうこった。他の奴等にもお前から適当に言っとけ。あぁ?総悟だぁ?・・・・・・」 パ―――ッ。 信号も横断歩道も見当たらない混んだ車道。そこを横切ろうとしている二人の背中をライトが白く照らし出す。 苛立たしげな長いクラクションを浴びせられ、矢のような音に驚いたは振り返った。目を焼く眩しさに思わず立ち止まる。 携帯で話していた土方がその気配に気づき、彼女を咄嗟に引き寄せる。すれすれに通り過ぎた車の風圧で 長い髪はさあっと肩を流れ。真新しい振り袖の袂が舞い上がった。 「いや。誰か使いにやって店の前の川にでも叩き落としとけ。少しはあれの頭も冷えんだろ。・・・ああ、頼む」 通話を切った途端に閉じられた携帯を隊服の懐に捻じ込んで、土方が歩を速める。 体温の高い彼の手にやたらに強く掴まれ、ぐいぐいと引っ張られていく自分の手首。 赤くなり始めたそこを困惑しきった顔で見つめながら、はその背中を追い続けていた。 夜の歩道の混雑を切り拓くようにして、黒い隊服の背中は振り向かずに進んでいく。 角を折れて小さな呑み屋の並ぶ路地へ入ると、その足はいっそう速まった。 周囲の店から入り混じって流れてくるさまざまな匂い。その匂いと、繁華街特有の雑然とした雰囲気が、そこへ集う人々の 賑やかな喋り声と一体化して道中に立ち込めている。それはここにしかないようでいて、どこにでも見られる 江戸の夜の光景でもあった。 土方の背に隠されるような格好で、酒に酔う人たちの熱気で蒸された、ごった煮のような喧騒の中を突っ切っていく。 「そんなに急いじゃってどこ行くんだい、俺も混ぜてよお二人さぁん」と、焼き鳥屋の軒先に並べられた席で コップ酒を煽る常連風の一団にひやかされ、は耳まで真っ赤に染めた。上機嫌で大笑いする酔っ払いたちの 歓声と野次に目を丸くしながら、その前をばたばたと通り過ぎる。 呑み屋街を抜けたところで土方の歩調が緩み出す。昼間は人気の多いオフィス街は たった今抜けてきた賑やかで開放的な雑踏とは対照的に、どの建物も暗く閉ざされて素っ気がない。 どの窓にも、歩道から見上げる限りでは人影はない。外灯と自販機がぽつぽつと置かれている以外は明かりもなく、 すれ違う人の数も目に見えて減った。通り全体が眠りについているかのように、すべてが無機質に静まり返っている。 昼間よりも少し冷えた風が頬を撫でていく。温かさと湿気に緩んだ夏の夜気の匂いが、身体の中を通り抜けていく。 その感覚は火照った身体にとても心地いいのに、どうしてなのか、なんだか逆にざわついた 落ち着かない気分にもさせられた。 「ったく、どいつもこいつも手間かけさせやがって・・・!」 「・・・あの。ひ、土方さぁん・・・」 答えがない。これでもう三度目だ。 呼びかけるたびに無視される。この距離で、しかも手まで繋がっている。これで聞こえていないはずもない。 は上目遣いに自分を引っ張る男の様子を窺う。しばらく躊躇ってから、もう一度口を開いた。 「・・・総悟が、どうかしたんですか」 「あんの野郎、まっすぐ帰りゃあいいもんを呑み屋でクダ巻いてやがる。女将が電話で報せてきたとよ」 「そっ、そうなんだ、・・・・じゃあ、ついでだから、あたしが迎えに行ってきましょうか。お店って、いつものあそこですよね?」 「お前はいい。あのバカのこたぁ放っとけ」 「え、でも」 不気味なまでの静けさで土方が立ち止まり、ひどくゆっくりと振り返る。 眉間をしかめてを見下ろした男の目は殺気立って荒んでいた。ぎりっ、と奥歯が折れそうなくらいに歯を噛みしめている。 こめかみが激しく引きつった瞬間、 「いいっつってんだろ!」 建ち並ぶオフィスの分厚い窓ガラスを容易く通過しそうな大声で怒鳴り飛ばされ、は全身を縮み上がらせる。 手首を握り締めていた土方の手は今や全力の鷲掴みだ。痛みにたまりかねた彼女は腕を振りほどこうとするのだが、 どれだけ逆らっても土方は放そうとしない。それどころかその抵抗ぶりが却って癪に障ったらしく、 凄まじい殺気を込めた目で威嚇してきた。 「〜〜〜っ!!!」 ひぃぃいい、ぅああああぁぁ、と言葉になっていない妙な悲鳴を漏らし、青ざめたは一歩、二歩と後ずさる。 歩道の端に立っていた道路標識にしがみつき、手や足、唇もぶるぶると震わせ、泣きそうな顔で怯え始めた。 「何が総悟を迎えにだ。おいてめっ、わかってんのかコルああああァァ。 あのバカ以上に俺にたんまり手間暇ぁかけさせてんのは誰だ!?てめーだろーーーがァァァ!!!!」 「っっっひぃやぁああのおおぉ土方さああん」 「何だ!」 「すすっすっごく言い辛いんですけどぉおももももしよかったらなんですけどぉっ、でで出来れば そそその顔やめてもらえないかなぁなんてえぇぇ、こここんな暗いとこで見ると通り魔殺人犯にしか見えな」 「ぁああァ!!?」 かあっと目を剥いて凄まれた。普段でさえ開き気味な瞳孔は今や全開しきっている。 逆らう気すら失くしたは、一度キレたら最後、屯所一危ない男に変貌してしまう上司への 完全降伏の証に、ブンブンと、それこそ貧血が起きそうなくらいの勢いで必死に頭を上下に振りまくった。 「ひっ。土方さんんんん?」 「あぁ!?」 「ああああのおおぉすっごく言い辛いんですけどぉっもももしよかったらなんですけどぉっ、 もう少しその、・・・手の、力を、ゆゆ緩めてもらえないかなぁなんてぇえ、ちっ、ちょっと、痛いなー、・・・・・なんてええぇ」 青ざめた顔で引きつった作り笑いを浮かべ、猫撫で声を震わせながら頼みこむ。 すると土方は無言で、彼女の手首にさらなる馬鹿力を加えてきた。必死の作り笑いに冷汗が滲む。 …気のせいだろうか。今、手首からかすかに、「めきっ」という嫌な響きの音が聞こえたような…。 「わっっ、わわっわかりましたはいっそーです仰るとおりですっっ、今日のことはあたしが全面的に悪いんです!! てゆうかちょっ、土方さんっっ、ねえっ、ちょっと落ちつきませんか、ね!?・・・あ、そーだっ」 は唐突に彼の腕を引いて歩き出した。 上げた腕が数メートル先を指差している。そこに何かを見つけたらしい。 ぱあっと明るく、まるで自分をこの窮地から救ってくれる救世主でも発見したかのように大きな瞳を輝かせる。 「コーヒー!あたし買いますから、あれ飲みましょーよ!」 「・・・・・・・・。いらねえ」 「あれ飲んで酔いを覚ましましょう!ねっ。コーヒーくらいならあたしも土方さんに奢れますからっ」 「工事中」の札が貼られた青いビニールシートを被った、建設中の建物。 その入り口脇に置かれたジュースの自販機は、暗いオフィス街の一角を煌々と照らしている。 何の特徴もない普通の自販機なのだが、今のの目にはそれが砂漠で出会ったオアシス以上に輝いて見えた。 うんざりしきった声で断った土方の声はまったく耳に入っておらず、ぐいぐいと彼の手を引いてそこへ向かう。 見本として照らされているペットボトルや缶の列。そこに真っ黒なブラックコーヒーの缶を見つけると、 土方の手からするりと逃れ、たたっ、と小走りに駆け寄った。 「土方さんはブラックですよね?これ飲んで酔いをさましたら、・・・・・・・え、あ、あれっ、」 衿から手を入れて胸元を確かめる。それから袂の中も。 ・・・・・・・ない。財布がどこにもない。もう一度袂の中を探りながらはっとする。 そうだ、これはあたしの着物じゃない。 九兵衛さまに「着てみせてくれないか」って頼まれて、自分の着物はあの料亭で脱いだから―― 「・・・お財布。着物と一緒に置いてきちゃった・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・あのぉ。・・・すっごく言い辛いんですけど。も。もし、よかったら、なんですけど」 「・・・・・・・・・・・・」 「貸してください120円」 「絶ぇっっっっっっっっ対ぇえ貸さねぇえええ」 冷えきった声で土方に凄まれる。は顔中がぴくぴくと引きつりまくった力ない笑いを浮かべ、 じりじりと後ろに引き下がった。 泣きたい。てゆうかもう泣きそうだ。逃げ場がない。ついさっきまでは救いのオアシスに見えていた自販機が 今は逃げ道を塞ぐ壁になっていて、べったり背中に張り付いている。 背中を覆った機械の固い冷たさに背筋を固まらせ、大股にドカドカとブーツを鳴らしながら自分に向かってくる 男の剣幕ぶりに肝を凍らせ、は全身を縮み上がらせて固く目を瞑った。 瞑った途端に、だんっ、と思わず身体が飛び上がるほどの強い振動が起こる。 「――っっ!」 伝わってきた衝撃で、土方が自販機を――自分の頭の横あたりを殴ったのだと判った。 恐る恐る薄目を開け、目の前を見上げる。 ぱちっ、と大きく瞬きした。数秒黙って見つめても、それでも理解できなかった。自分の目に映っているものが。 「・・・・・ひ。・・・ひじか、た。さん・・・・・・・?」 うなだれた土方の黒髪の頭が目の前を塞いでいる。視線が逸らせないほどにその姿が近かった。 気配が近い。体温が近い。胸元に触れた吐息も近い。そこに混ざっている酒の匂いも、煙草の匂いも。 自分に覆い被さるようにして迫っていた身体に驚いて、は固唾を呑んだ。 彼女が目にしているのは。隊服の腕が自分の肩に回されようとしている、まさにその瞬間だった。 「ざっっけんな。・・・てめえは本当に、・・・・・・・・」 腹の底から絞り出したような低い声がそう言った。 温かくて硬い腕。土方の腕に背中を引き寄せられ、力強く肩を抱きしめられる。ごつん、と耳元に頭をぶつけられた。 かと思えば肩を掴まれ、ぐいっと身体を引き放され。力の抜けた彼女の背中は、どん、と自販機に押しつけられた。 覆い被さってくる身体のせいで、の視界の狭さと暗さは相変わらずだ。そんな中で、自分の頭の両横に肘を突き、 横を向いて表情を隠した男の口元が見える。口端がやけに悔しそうにひん曲がっていた。 「・・・・・・・・っ、」 「・・・なんだってえんだ。この、馬鹿女」 前髪の影が落ちたその横顔を見つめながら、は後ろの冷たい感触に身体を預けて呆然としていた。 胸が破れそうな勢いで、ばくばくと大きく心臓が脈打ち始める。声にならない悲鳴が頭の中を走り抜けた。 「ひ。・・・・・・・ひ、ひじか、た、さ・・・・?」 「人の忍耐散々逆撫でしやがって・・・・・・・・!」 「へ?」 黙っていたのも束の間、いきなり攻撃に出た土方に首をホールドされる。 間抜けな声を漏らしたのと同時に羽交い締めされ喉を抑え込まれ、うぐぅっ、と息を詰まらせたところを 後ろ頭をべしべしと平手打ちされ、 「間違ってんだろ泣きつく相手がァァ!」 と、鼓膜を突き抜ける怒鳴り声で叱り飛ばされる。肩を掴まれ、背中をまた自販機に押しつけられた。 もうわけがわからない。すっかり怯えて涙目になり、はおろおろと土方を見上げた。 わからない。あたしは今、何のことを叱られてるの。 ううん、何がどうなってるの。何があったの。どうしてこのひとは。・・・どうして。 頭の中を疑問の嵐が吹き荒れる。眩暈がしてきた。度肝を抜かれた状態からの回復すらままならないのに―― 「・・・何で言わねぇ」 「・・・・・・・・・。は?」 「嫌なら嫌だとはっきり言やぁいいんだ。柳生には行きたかねえって泣きついてみせろ」 「え、・・・・・」 「てめえにぐずぐずと泣かれるくれえなら、俺がどうにかしてやるって、・・・・・・そう言ってんだ!」 途中で言葉を詰まらせながらも、土方が激しく言い放ち。二人はぴたりと押し黙った。 土方はから目を逸らさず。はその目に射抜かれたかのように身体を固まらせている。 明るく賑やかだった飲食店街ほどではないのだが、街暗い歩道にはぽつりぽつりとそれなりの人通りもある。 二人の背後をスピードを落とした自転車が通り過ぎ。それに続いて、物珍しげな視線を向けてくる腕を組んだ男女が通る。 自販機との間に女を挟んだ恰好で立つ隊服姿の男の背中を、道行く人々は好奇心を剥き出しにしげしげと眺めていく。 ところが、普段は誰より目敏く人の気配を察するこの男は、往来での人目を気にすることすら忘れていた。 自分の背中に刺さってくる視線はそれなりに感じていたのだが、そっちに注意を払うどころではない。 目の前で黙り込んでいる女の反応が気になって気になってたまらなくて、彼女だけに全神経を集中させていたのだ。 ・・・こっっの女ぁぁぁ。いつまで黙ってんだこの野郎。畜生、気まずいじゃねーか。 どういうこった。日頃は一人で三人前は喋り倒す奴が、んな時に限ってうんともすんとも言いやがらねえ。 二人の周囲の空気だけが止まってしまったかのような奇妙な沈黙の中。が石のように固まったままで、 いったい何分が過ぎたのか。彼女の気配にじっと神経を澄まし、今か今かとその反応を待ち構えていた土方だったが、 困ったことに腕の中に囲った女からは何の反応も感じられない。いつもは人一倍豊かな表情は まるで人形並みの無表情だし、小さな身じろぎひとつしていない。まさか息まで止まっちまってんじゃねえか、と 疑いたくなるほど微動だにしないのだ。見慣れないその様子を確かめる間に、彼の背筋にはじわじわと うすら寒い汗が浮かび始めていた。 「・・・お。おい」 「・・・・・・・・」 「・・・・・・。いや。あ。あれだ。違う、そう重たく捉えんじゃねえぞ。いっ、今のは、だな・・・・・・・・・・」 ・・・駄目だ。これ以上は限界だ。 気まずい静けさ。背中に湧き出る冷汗の量。こいつのデカい目にまじまじと見据えられる圧迫感。 どれもこれもが耐えきれない。 どかっ。土方が自販機に拳骨で一発喰らわせる。あまりのきまりの悪さと恥ずかしさといたたまれなさゆえの八つ当たりである。 それでも行き場のない鬱憤がおさまらなくて、もうたいして怒ってもいないのに女をぎろっと睨みつけたのだが ――はまるで言語を絶する信じられないものでも見たかのような表情のなさで、いまだに放心しきっている。 こっっの馬鹿女ぁぁ!と叫びたい衝動にかられたが、土方は喉から飛び出そうな腹立ちを歯ぎしりひとつでどうにか収めた。 いや。まさか。まさかたぁ思うが。何を言われたのかすらわかってねえんじゃねえか、こいつは。 ・・・・・・それとも無視か?え。マジでか。これをガン無視しようってのかこいつは!? を睨みつけている土方のいまひとつ迫力の欠けた目に、じわじわと嫌な焦りが募り始める。 すると、ふっ、と微妙に彼女の唇が動いた。 そこからぽつりと飛び出したのは、まだ驚きから抜け出せていないような硬い声だった。 「・・・・・・。や。そーゆーの。いいです。い、・・・いりません。」 ぎこちなく言い終えたが口をつぐむ。やや目線を上げた土方が、ひどく遠い目をして虚空を見つめる。 二人の間になんとも間の悪い沈黙が降りた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ それから三十秒後。 ちりーん。 びくりとも動かない二人の背後で一台の自転車がベルを鳴らし。 男の声が鼻唄を口ずさみながら通り過ぎ。 そしてまた沈黙が流れた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さらにその一分後。 「・・・・あれぇえええっ。あんたぁ、さっきの兄ちゃんじゃねーかぁぁ。あの子はぁ?あのお嬢ちゃんはどーしたのぉぉ。 あれええ〜〜、逃げられちまったかぁぁ?そいつは気の毒になぁ、がはははは!」 「やめとけーってお前ぇ、あれァおまわりさんだよぉ、真選組のぉ。いやぁすんませんねぇ兄さん、こいつ酔っ払いだからよぉぉ」 「そーかぁぁ逃げられちまったかぁぁ、どうにも淋しいねえ兄さん。ぎゃはははははは!」 と、その「逃げた女」の一言に硬直している真っ最中の土方にぐさりとトドメを刺し、陽気な酔っ払い二人組が通り過ぎる。 さっき焼き鳥屋の軒先からをからかってきた連中らしい。どちらも看板を蹴飛ばしたり躓いたり、よたよたと乱れた足取りである。 おっさん二人の笑い声が角を曲がって遠ざかっていった時、土方の怒りは果てしなく長い時間差を経てピークに達した。 わなわなと肩を震わせ、ついに叫ぶ。まさに渾身の叫びだった。 「はァあああぁあああ!!!!?」 「・・・・・・・・・・・・・・。だって。もう。いい。・・・あたし。いらないんです。なにも」 表情の消えた顔で土方を見つめながら、は蚊の鳴くような声でつぶやいた。 「土方さんがあたしのために、・・・・・・・・これ以上、何かしてくれるなんて。 いいんです。もう。いらないんです。だって。・・・・・・・引き止めに。来てくれたじゃないですかぁ」 切れ切れにつぶやく間に、彼女の目元に光るものが生まれ始めた。 少しずつ涙が溜まっていく。あっというまに大粒の水滴になったそれは、彼女が喋り終えるのを待たずに溢れ出した。 「・・・・・あたし。もう、いっぱい。してもらったから。だから。 これ以上何かしてもらうなんて。・・・もういりません。何もしてもらわなくても。いいんです」 桜色を帯びてきた頬を伝った涙が、雫になって足元へ落ちる。 ぽつり、と乾いたアスファルトに染みをつくった。 「土方さんが。・・・近藤さんや、旦那や、みんなの前で、あたしがいないと困るって、はっきり言ってくれたから。 だって。ほんとは・・・あんなこと、したくなかった、・・・ですよね? 土方さんは、そういうの、すごくいやなんだって、知ってます。なのに。・・・引き止めに、来てくれた・・・」 上がった口端が、今にも泣き出しそうなかたちに歪んでいく。またゆっくりと、ぎこちなく口角が上がる。 は必死に笑おうとしていた。 涙ぐんだ目を苦しげな表情に細めて、手は帯に縋りつかせて。泣きじゃくらずに我慢するのが精一杯な様子をしているのに。 「あ。あたし、が。っ・・・・じか、たさ、・・・から、離れ・・・、わけ、ないって。・・・言って、くれた・・・・・」 震わせた声が涙に詰まる。 は手のひらで顔を覆い、こらえきれずにわっと泣きじゃくった。 足から自然と力が抜けていく。ぺたんと地面にしゃがみ込む。 昼間は足元を焦がすような熱さだったアスファルトは、さっきまで頬を切っていた夜風と似た心地良い温度だった。 雨のようにぽろぽろと、強く閉じた熱い瞼から涙が溢れ出す。 拭いても拭いても滴り落ちてくる。 きっと顔がぐちゃぐちゃだ。見られたくなかった。こんな顔、土方さんには見られたくないのに。 手を引かれて走る間に、ずっと真剣に考えていた予定はもうめちゃくちゃだ。予定じゃこんなふうに言い出すはずじゃなかった。 明日の朝。副長室で。ちゃんと畳に手をついて。きちんと頭を下げてお礼をするつもりだったのに。 このひと附きの部下として、正しい距離を置いた態度で言うつもりだった。ありがとうございますって。もう充分ですって。 子供みたいに泣きながらじゃなくて。こんな拙くて甘ったれた言葉でじゃなくて。 もっときちんと伝えたかった。すごく嬉しかった、って。聞いただけで涙が出そうになるくらい嬉しかったって。 あの瞬間。土方さんの声以外は何も聞こえなかった、あの瞬間だけで幸せだった。 あたしは嘘みたいに幸せになれた。だって、叶わないと諦めていた夢のひとつが、いきなり叶ったんだもの。 あの日からずっと引きずっていた硬いしこりまで、あの一言ですうっと溶けてなくなった。 土方さんが認めてくれた。あたしの気持ちを。 なかったことにされたあの告白が戻ってきた。土方さんのほうから、あたしの前に差し出してくれた。 ここにあるって。覚えてるって。手のひらを広げて見せてくれた。認めてくれた。 「・・・だから、・・・・・っ。もう。そ、れだけ、で、う、うれし・・・て、もう、これ、以上、・・・・」 こわい。期待。したく、ない。 土方の耳に届かないよう、口の奥で漏らした密かなつぶやき。かすかな声。それを完全に閉じ込めようと、 はきつく唇を噛みしめた。口にした途端に湧き上がってきた、息苦しくてたまらなくなる辛い感情も噛みしめて殺す。 そう。土方さんのあの言葉は泣きたくなるほど嬉しかった。けれどその嬉しさに我を忘れて、 これ以上に自惚れてしまいそうになるのがこわい。 期待しすぎるのがこわい。優しさに甘えるのがこわい。 もうあんな思いはしたくない。 ミツバさんのことを知った時のように。屯所のお風呂場で突き離された時のように。 あんな暗闇に突き落とされたような、苦しくてさみしい思いを味わうのはもういやだ。だから。 「・・・・・・っ。・・・から。もう、いい。いいです。もう、なんにも、」 「しるか。知ったこっちゃねえ」 はっ、と面白くもなさそうに笑う声が頭上で吐き出される。 ふと息を呑み、は口から出かかっていた嗚咽を喉に留めた。 「お前が泣こうが困ろうが知るか。俺ぁもうてめえのやりてえようにするって決めたんだ」 一息に言い切ると、土方は一歩進み出てとの間を詰める。 近くなった靴先に怯えるかのように、は身体を固くした。 「そんなの。勝手すぎ・・・・」 「ああ。こっちはこっちで勝手にさせてもらう。だからお前も、手前勝手に吐いてみろ」 強められた土方の語気と迷いのない声色に戸惑いながら、ゆっくりとが顔を上げる。 すると、土方の手が目前に差し出されていた。 節くれ立って硬そうな長い指の先がひらりと動く。ほんの軽く、手招きしたような動きだった。 「うちに残るか。柳生に行くか。結局お前はどうしてえんだ」 静かだが厳しい、どこか突き放したような響きのある声だった。 最後の選択を迫られている。は半開きになっていた口をきゅっと閉ざした。 差し出されたままになっている手を、眉をひそめた辛そうな視線で見つめた。 彼女にとっては他の誰とも違って見える手。特別な手。 手のひらや指先に残った刀傷のひとつひとつの位置を、詳しく思い浮かべられるほどに見慣れてしまった手。 命も。心も。これまでに何度この手に救われたのかしれなかった。 一心にじっと見つめるうちに、はひどく追い詰められたような、どこか絶望的な気分になっていった。 この手を取ればどうなるか。 それを思うと、この手を向けられたことは嬉しいのに、見ているだけで胸が苦しくなる。 そうだ。あたしにだってわかってる。 どちらか一つだ。また同じことの繰り返しになるか。もしくはそれ以上の辛さを味わうことになるか。 そのどちらかだ。ただ楽しくて、毎日が幸せで穏やかで――なんてことはありえない。だけど。・・・だけど。 目の前まで差し出された長い指の先に、ぽつりと涙のしずくが落ちる。 温かなその水滴が指を伝って流れていくさまを、縋るような目で見つめ。は大きくかぶりを振った。 この手を取れば。このひとの許に残れば。 きっと今まで以上に辛い思いもする。またいっぱい泣くことになる。 一人で勝手に空回ったり、些細なことで傷ついたりして。またこのひとを困らせることになるかもしれない。 そんなことはわかってる。こんな気持ちには見切りをつけて、きっぱり諦めたほうがいいんだってことも。 なのに。どうして逆らえないんだろう。 あたしは振り回されてばっかりだ。 胸の奥から溢れてくる、泣きたくなるようなこの気持ちに。 差し出されたこのひとの腕の中に、今すぐに飛び込みたがってる。どうしようもなく弱くて困った自分に。 「どこにも。行きたく。ないぃ。・・・ひっ。土方さんの、傍が、・・・いい、っ・・・・・・・・・・・・」 「・・・遅せぇんだよ。馬鹿が」 溢れ出した涙に目を潤ませながら、が苦しげに答える。 がっくりと肩を落とし、土方が荒れた溜め息を放つ。それは身体中の空気を吐き出してしまいそうなほど長く続いた。 「最初っからそれを言えってぇんだ、・・・・・・」 疲れきった時に漏らす独り言のような、ぶっきらぼうで気抜けした口調でつぶやくと 地面に座り込んで泣きじゃくる女の前にしゃがみこんだ。 短い着物の裾をぎゅっと掴んでいるの手。淡い色をしたその肌に指先で触れる。 華奢で細い女の指をじっと見つめた。手荒に扱えばすぐに折れてしまいそうなその感触に戸惑いながらも 上から覆うようにして包み込む。深く睫毛を伏せて視界を閉じると、手の内に閉じ込めた柔らかな温度を そっと握り締めて確かめた。握っているうちに、身体中の力が一斉に抜けていきそうな安堵感に襲われる。 戻ってきた。どうにか留められた。手離さずに済んだんだ。 ようやく湧いてきた実感は、率直すぎて自分でも「らしくもねえな」と思ってしまうものだった。 ・・・まったくてめえには呆れたもんだ。女の手ひとつでこうも単純な、 今日一日の胸くその悪さをすべて水に流したっていいような気になっちまうんだからよ。 持て余し気味な苦笑を浮かべた土方は、が泣き止むまでその手を握り、黙って見つめ続けていた。 「美味しい・・・すごーい。すごく美味しい・・・!」 湯気の昇るスープをレンゲで口許に流し込み、がしみじみと漏らした。 きらきらと目を輝かせて彼女が絶賛したのは、たかだか街中のラーメン屋のスープである。 値段の割にはなかなかに旨い。とはいえ、贅を尽くした高級料亭の味とは比較するまでもない。 それをこいつは、なんなのか。生まれて初めて味わった美味に感動しているかのようなこの表情。 可笑しくなった土方は、影でこっそりと忍び笑いを浮かべた。 「土方さん。すごいですこれ。すごく美味しくないですか。ねぇ」 「当たり前ぇだ。これだけ腹減らせてんだ、猫まんま出されたって今なら旨く感じんだろ」 降って湧いた災害のような騒ぎに揉めて多少時間を費やしはしたが、まだ時間は宵の口。 これから屯所に戻ってすぐに部屋に籠れば、例の件の資料にも多少は目が通せるだろう。 そう考え、タクシーを拾って屯所へ直帰するつもりでいた土方だが、なぜか寄り道に時間を費やしていた。 高級料亭に招かれたというのにほとんど飯にありつけず腹ぺこだった女にせがまれ、とんこつラーメンの店で 奢らされているのだ。タクシーを拾おうとして大通りへ向かう途中、交差点前で見上げた「とんこつらーめん」の大看板に 目を止めたなり、はそこに釘付けになって動かなくなってしまった。「あれを食べないともう動けませんんん」と ひもじさのあまり泣き出しそうな、恨めしそうな顔つきで土方の上着の袖をグイグイと引いてくるのだ。 仕方なく彼は折れた。まあ、実は「仕方なく」の体を装った、というのが正直なところだったりもする。 と二人でいる時間をもう少しだけ引き延ばしたい。だが、それをこいつに感づかれるのはどうも悔しい。 造りは新しく小奇麗だが、十数人の客が入れば満席になる狭い店のテーブルを挟み、と向き合う土方の態度は 彼女に何を言われても視線を合わせず、とってつけたような無愛想に終始していた。 しかし肝心のはやっとありついたラーメンの味に夢中で、そんな彼の態度の硬さにはおかまいなしに すっかり機嫌を良くしているのだから拍子抜けだ。 「・・・でも。違いますよ。いつもより、すごく美味しい。かなあって・・・・・・・」 「気のせいだ」 顔を上げたは黙って麺を啜り込む土方を見つめ、心細げに眉を曇らせる。 視線をラーメンの丼に戻し、麺を箸で持ち上げ。口に運ぶかと思いきやまた土方を見上げる。 落ち着かない態度でそれを何度も繰り返した。不安そうに何度も、彼の顔色をちらちらと窺う。 「土方さん」 「・・・お前な。少しは黙って食えねーのか」 「・・・ごめんなさい。あの。土方さんはあんまりお腹すいてないんですよね。 てゆうか。・・・・・・・・あたし。駄目でしたか。一緒に食べたら。・・・だって。なんだかすごく不味そ」 「しつけーぞ。もう黙れ。黙って食わねえと」 こうだ、と無言で掴んだマヨネーズを構える。 ぎゃあっ、と裏返った色気のない悲鳴を上げたが、あわてふためいて丼を持ち上げた。 「ちがっ、違うんです、・・・ごめんなさいぃ!」 「あぁ?」 「・・・・・嬉しかったから。嬉しすぎて、何がなんだかわからなくて。こういうの、・・・あたしが一人で 浮かれたら迷惑ですよねっ。ち、ちがっ、違うんですよ!?、わかってますからっ。そんな、そこまで自惚れてないですからっっ」 よほど焦っているのか、はぺらぺらと夢中で喋り続けている。湯気が昇る丼の影に半分隠した顔が、ふにゃふにゃと 泣きそうに萎れていく。眉が下がり目が潤み、ぎゅっと噛みしめた唇からは今にも湿った嗚咽が飛びだしそうだ。 振り上げた手を戻し、片眉を軽く吊り上げた土方は荒い溜め息をこぼした。 だから違うってぇんだ。今の間をどう読んだらそうなるのか。 つくづく判っちゃいねえなてめえは。こっちはきまりが悪すぎて物を言う気がしねえだけだってえのに。 つくづく惚れる甲斐のねえ女だ。これだからお前には、本気でものを言う気が失せてくるんだ。 あれだけ本音を晒してやったってえのに、何だそれぁ。逆じゃねーか。逆だろうが。 俺ぁこの道すがら散々お前に言っただろーが。せめて少しは自惚れろって言ってんじゃねえか。 だのにこいつときたら。少しは安心させてやったはずが、相変わらず的外れで不安げな見当違いばかり見繕いやがって。 ・・・ったく。なんだってえんだ。どこまで行っても平行線だ。本当にこいつときたら。・・・・・・とことん人を笑わせやがって。 自然と表情が緩んた土方が、腹の底からせり上がってきた笑いをこらえながらうつむく。 ついには口まで抑えたが、結局こらえきれずに肩を竦めて震わせた。 「・・・はっっ。ったく。なんだってえんだ。てめえときたら」 「なんで笑うんですかぁああ!あたし、真剣に反省して。だって」 「反省だぁ?笑わせんじゃねえぞ。つーか、誰が反省しろっつった」 「・・・・・・それは。・・・・・・言われてない。ですけど」 が箸を置いてうつむき、しゅんとする。 髪に隠れたその表情が沈んでいる。 「・・・・・・すみません」 「馬鹿。いちいち真に受けてヘコんでんじゃねえ」 「でも、・・・」 「謝るくれえなら笑ってろ。詫びなんざいるか。・・・こっちが詫びなきゃなんねえってえのに」 「え?」 勘弁してくれ。 そう呻いて気分の重さにうなだれたくなるのは、おそらく俺がいっぱしに、良心の呵責とやらに襲われているからだろう。 とはいえ始終こんな態度でいられた日には、呵責どころかしつこい頭痛にまで責め立てられそうだ。 ――こいつはどこまで判っているのか。 いや。どうせ判っちゃいねえんだろう。だからこそこんな信頼しきった、隙だらけの表情を向けてくる。 俺に騙されてんのも知らねえで。 俺はこれからもお前を泣かそうとしてんだ。 傍に置く以外は何もしてやれねえくせに。 他の野郎にはお前を渡したくねえ。たったそれだけの理由で、命まで取られかねねえ、危険な目にも遭わせようとしてんだ。 お前を一人で苦しい思いの上に立たせて。どっちつかずの宙ぶらりんな立場に置いて。 こいつには関係のねえ拘りやら身勝手さを、――あいつにも押しつけた身勝手を。判っていても無理強いする。 手は出さねえ。一線は越えねえ。 ガキじみたままごと遊びにこいつがいくら焦れても、そうと判った上で押しつける気でいるんだ。 飼い殺しだとあの服部は言ったが。そう言われても何の異存も出ねえ。・・・我ながら、なんとろくでもねえ屑野郎っぷりか。 「・・・・・てねえ。」 「え?」 「思ってねえ。一人で食いてえなんて誰が言った」 それを聞いたの表情が少しずつ変わっていった。不安げだったその顔が、満ち足りた笑みにほころんでいく。 狭い店中のあちこちから昇っている靄のような湯気。ふわふわと漂う蒸気に包まれ、はにかんだような 微笑みを向けてくるの姿。手を伸ばせば触れられる距離だというのに、ひどく遠い姿に思えた。 こうして罪悪感に曇った目で眺めていると、膿が溜まった傷痕のように、胸の奥がじくじくと疼いてくる。 「どうしたんですか・・・・・?」 「いや。」 これも今日のところは忘れておくか。いらねえ杞憂は後回しだ。 重たい気分を振り払い、何気なく口を開いた。 「ところでお前。あいつと何があった」 「あいつって誰のことですか」 「あいつったらあいつに決まってんだろ。柳生の御曹司だ。 ・・・しっかしよぉ。あの忍者といい柳生の若様といい。どうなってんだ。てめえの周りはロクな奴がいねえ」 「えぇーっ、ひどい。そんな言い方やめてください。土方さんはあんまりいい印象ないみたいだけど、 九兵衛さまはすごく優しくって真面目で、奢りがなくって本当に素敵な方なんですよ。悪く言わないでくださいよー!」 「柳生だけ庇うのかよ。あいつはいいのか、服部は」 「全ちゃんはいいです別に。だって全ちゃんだし」 「いいですってお前」 けろりと言い切るに怪訝そうにつぶやき、土方はふと店の天井を見上げた。 ・・・お前は気づいてねえようだがな。 これをこの天井裏から聞いてたっておかしかねえんだぞ、あの胡散臭せぇ忍者は。 「てゆうか土方さんだってそのロクでもない野郎の一人じゃないですかあぁ」 「うっせえ放っとけ。・・・それにしたって柳生のあの態度はなァ。お前に対してえれぇ執心ぶりに見えるがな。 あの悪辣キャバ嬢ほどではねえにしろ、お前を見る目ときたら。まるで、・・・・」 まるで恋でもしてるみてえじゃねえか。 それを声にする直前で土方は口を止めた。ごくり、と大きく息を詰める。 とてつもなく嫌な予感が走ったのだ。いや、悪寒の走る直感、といったほうが正しかったかもしれない。 が頬を真っ赤に染めている。箸を止めてなんだかもじもじと、身の置き所もないというような顔で恥ずかしそうにしているのだ。 ・・・・・・・・・・・。まさか。 彼女の態度を危ぶみながら心中でつぶやいた時に、土方の中で何かが聞こえた。 さぁーっとか、ぞわぁーっとか、一気に温度の下がった自分の血の気が凄い勢いで引いていく音である。 馬鹿な。まさか。それァねーだろ。まさかそれは ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ おい待て。やめろ。なにやってんだコラ。 お前はなんでそこで目ェ逸らす。 ぽわーっと頬染めて言い辛そうに口なんか抑えてオロオロしやがってこの野郎。 いやいやいや、ねーだろ。いくら何でもそれはねーだろ。ありえねえ。だが、まさかあの野郎、・・・・・・・・・・あの女好き小娘、・・・! 「・・・・・・・九兵衛さまは、その、つ、付き合ってたって、いうかあぁ。二番目の彼氏・・・?」 「九兵衛さまがうちにいた間だけ、なんですけどね?・・・もう最初っから一目惚れでえぇ・・・」 「今もすごくお美しいですけど、四年前の九兵衛さまって、女の子みたいに可愛い美少年で・・・!あっ、そーだ、そういえば 土方さんにも話しましたよね。あの頃の九兵衛さまって、あたしの好きなあの小説の主人公の男の子と瓜二つのそっくりさんでえぇ」 「義父さんに知られると九兵衛さまにも迷惑がかかっちゃうし。だからあの。誰にも内緒で、東城さんにもバレないように・・・」 「ちょ、ちがっ、違うんですよ!お付き合いっていってもそんなっ、一緒にいるだけで楽しくって!」 「ほんと、清いお付き合いですから!何もなかったんですよ!・・・・・・・・・・きっっ。キス。されたくらいで、・・・・・・」 は恥ずかしくてたまらないらしい。喋りながら丼を意味なくつつき続け、 白濁したスープをジャブジャブと波立たせている箸先は、さっきから一秒たりとも止まっていない。 箸先をに向け、黙りこくって固まっている土方とはまったく正反対の反応である。 おい待て。ちょっと待て。 「の最初の彼氏」を自任しているあの胡散くさい忍者は、こいつを単なる年の離れた妹扱いしていただけ。 と、いうことは。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 カラン、と手から箸が転がる。背筋に得体の知れない怖気が走った。 例えるならば、背中でミミズの団体がうろうろと徒競争でもしているような感触だ。気味は悪いのにどこか間が抜けている。 何も知らずに照れているを前に、土方は気が遠くなりかけた。 いや、今日一日は、彼にしても衝撃やら馬鹿げた艱難辛苦やらが一度に押し寄せた怒涛の一日ではあったのたが、 最後のシメにこの手のむず痒い衝撃が待ち構えていたとは。つーか、これがある意味今日一番の衝撃じゃねーか。 「なっ、何を言わせるんですかああぁあ!つい喋っちゃったじゃんんん!」 「言わせるも何もてめえが勝手にペラペラと吐いただけだろーが!ちっ、誰が美少年だ?気色悪りぃ話聞かせやがって・・・!」 「はぁあ!?ちょっとおおっ、ひどくないですかそれっ。人の大事な恋の思い出にケチつけないでくださいようっっ」 「あァあ?恋だぁァ!?そこの認識からして間違ってんじゃねえか!そいつは恋じゃねえ「変」だ!!」 「〜〜いいですもぉっ、もぉ黙ってくださいっっっ。あたしだって、綺麗な思い出を大事にしたい女の子の気持ちを 土方さんに理解してもらえるなんて思ってませんよっっ。なんでもいいですけどっ、絶対誰にも言わないでくださいね!?」 これあげますから。そう言ってチャーシューを摘み上げては、土方の丼へとせっせと移す。 マヨネーズに溺れた憐れなラーメンに、新たに三枚の憐れなチャーシューがトッピングされる。 的にはこれが口止め料のつもりらしい。「これで大丈夫」と一人で納得しているようなあの顔つきからして、 誰の財布のおかげでこのラーメンにありつけたのかはすっかり忘れているようだが。 「・・・・・・・・・。」 「え。ダメですか。 チャーシューじゃ不満なんですか?仕方ないなぁ、じゃあ特別サービスでメンマもあげますね。あとはナルトとぉ、・・・」 と恩着せがましくメンマを摘み上げた瞬間、はっとして口籠る。箸が手からぽろっと落ちた。 「・・・!もっ・・・、もしかして。煮卵まで寄越せとか!?」 これはだめですっ。絶対絶対、あげませんからねあたしの煮卵ちゃんはっっっ。 がばあっと自分の丼を腕で囲い、非難がましく睨みつけてくる。 「この人でなしぃぃ!鬼いぃぃ!」とでも叫び出しそうな、壮絶に悲しそうな顔である。 そんな彼女を土方は氷点下まで温度の下がりきった白い目でしげしげと眺めた。はぁ、と呆れきった溜め息を漏らす。 安心しろ。むしろ念を押されるまでもねえ。 お前の初キス相手が実は女だという間抜けでふざけた事実なら、俺が墓場まで道連れにしてやる。 とはいえこれは難題だ。どう切り出してこいつに衝撃の真実を教えてやるべきなのか。 いや、それ以前に。そもそも本当にあいつとはキス止まりなのか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あっっの野郎ぉぉぉ。 「ウブそうなツラしてあんのガキいぃぃ。まさかそれ以上の妙な真似しちゃいねえだろーなぁぁぁ!?」 「?誰ですかガキって。なんですかぁ、妙な真似って」 「〜〜〜てめえにゃ関係ねーよ、こっちの話だ。お前は黙ってそれ食ってろ!」 「・・・・・・・・?」 伸びかけたラーメンを不思議そうな顔で啜る女を、眉を吊り上げたどことなく恨めしそうな目で眺める。 突然の窮地は切り抜けたというのに、窮地を脱しても眉間を抑えて頭痛に苦しむ羽目になったその夜の土方であった。
「 片恋方程式。24 」 text by riliri Caramelization 2010/12/23/ ----------------------------------------------------------------------------------- next