「土方さん。訊きたいことがあるんです。ちょっと一緒に来てもらえませんか。・・・とか?」 はぁあああぁぁ。だめだぁ・・・ 投げやりな溜め息をついてうなだれる。頭を下げたはずみに、ごつんとおでこが柱にぶつかった。 九兵衛さまたちのいる部屋は目と鼻の先だ。あたしが柱の影に隠れてる廊下の角から二つ先の部屋。 隙間が空いた灯り色の障子戸からは、ちょっと拗ねているような神楽ちゃんの騒ぎ声が。 まあまあ、とそれを宥める新八くんの声も聞こえる。 障子戸にもたれかかる誰かの背中が大きな影になっている。あれは万事屋の旦那かな。 その隣にいるはずの、あのひとの姿は見えなかった。 急いで戻ってきたのはいいけれど、あの部屋の前に立つ勇気がどうしても出ない。 ・・・だって。どうしよう。どう切り出したら来てもらえるんだろう。 今日の土方さんはただでさえご機嫌ななめなんだもん。 なんだか面白くなさそうな顔して怒ってたし、お銚子は水でも飲んでるようなハイペースで空けてたし。 あの調子じゃ、いくら頑張って拝み倒したって腰を上げてもらえそうにないよ。でも、みんなの前じゃ言えないし。 「・・・・・・みんなの前じゃ言いにくい話だからこっち来てください、とか?」 ぼそっとつぶやいて、柱にしがみついた置物みたいに固まったまま数秒が経過。 塵一つなくてピカピカな料亭の廊下に、がばぁっ、と頭を抱えてしゃがみ込む。 「〜〜〜ばっっっっっっっっっっっっっっ、かじゃないの・・・・!!」 息の続く限りに長くタメてから吐き出した。それでも収まりがつかなくて、近付くと顔が映っちゃうくらい ピカピカな床をベシベシと殴る、殴る、殴る。本当なら廊下をゴロゴロと悶えながらのたうち回りたいくらいだ。 ああ、誰もここを通りかからなくてよかった。たぶん今のあたしって、高級料亭の雅やかな夜には最高に不釣り合いなお客だ。 どこかのお座敷に呼ばれた芸妓さんだろうか。離れのほうからはしっとりと爪弾く三味線の音が流れついて、 あちこちに建つほのかな灯篭の灯りが暗い庭を彩っている。 そんな静かで趣ある中をゴロゴロと、奇声を上げて廊下を転がる怪しい女、 ・・・ダメだ。ありえない。 土方さんを部屋から引っ張り出す前に、あたしがここから近所の番所に引っ張り出されちゃう。 今のはとにかくダメ。ない。絶対にない。ありえないよ。 こんな切り出し方して、あのひとが「そうか」ってすんなりついて来てくれるわけがない。 だってあたしは「前科犯」。はっきり態度に出すことはないけれど、屯所のお風呂場で鉢合わせたあの時以来、 土方さんはあたしをどこか警戒してる。もしもあたしがあのひとの前で、ちょっとでもおかしな様子を見せたらどうなるか。 警戒レベルは最高値まで跳ね上がること請け合いだし、今後はあたしと二人きりになるようなことは断固避けるだろう。 だからこれはダメ。今までに考えた中で一番ダメ。ダメ以前に問題外。ダメ回答の模範例になっちゃうくらいに問題外。 「〜〜〜〜ぁああぁっ、もうやだあぁ・・・・・・・」 きゅっ。きゅっ。しゃがみ込んだ廊下に指で「の」の字を書きまくる。 一度座ったら身体が怖気づいてしまった。自分の足で立ち上がる気力すらなくなってる。 もうやだ。もう逃げたい。てゆうか泣きたい。土方さんにどんな顔されるかと思うと怖くて足が竦むし、 頭の中身は身体以上にびくびくと怖気づいてるみたいで、こんにゃくゼリーか何かになっちゃったみたいに役立たずだ。 あーあぁ。今頃後悔したって遅いんだけど。・・・こんなことなら戻ってくるんじゃなかった。 さっきのタクシーに乗って、総悟と一緒に帰っちゃえばよかった。 ――いや、じゃなくて。そうじゃなくて。 「だめだ。だめだよあたし。ここで怖気づいてどうするの・・・!」 訊くなら今しかない。あれだけうじうじ悩んでたあたしが、やっと、ようやく、ついに決心したんじゃない。 この勢いを逃しちゃだめ。ここで逃げたら最後、あのひとを前にして言い出す勇気なんてもう二度と出せっこないよ。 しっかりして。落ちついてあたし!こういう時は一度頭を冷やして、すこし冷静にならないと。 「そうだよ、こういう時は一回全部リセットしてぇぇ・・・」 さあ深呼吸して。呼吸を整えて、心臓を静めて。 背筋を正して立ち上がって足を少し開いて、ラジオ体操第一いぃ、よぉーーーーい・・・・・・・・、 いや違う。それ違う。そうじゃなくて。 「・・・、ボケに走って現実逃避してる場合じゃないんだってばぁぁ!」 ぶんぶん頭を振りまくる。――そうだよ。ここはうんと気合いを入れなくちゃ。 ここはいっそ、あの永遠の14歳になったくらいのつもりで頑張らないと。 人という種の進化を託された選ばれし少年になったくらいの気構えで立ち向かわないと! 「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだあぁぁぁ!!!」 「・・・。おい」 「そっ、そーだよねっ!何を深刻になってんだろあたしっ。何も使徒を相手に人類の存亡かけて戦ってるわけじゃあるまいし!」 「・・・また訳のわからねえテンパり方しやがって。おい、使徒だか何だか知らねえが、んなもんと戦う前に人の話を」 「違うもん怖くないもん。ちっとも怖くなんてないんだからっ。別にあんな奴のことなんて、ぜんっぜん怖くなんかないんだからねっっ。 相手はちょっとキレやすいだけの瞳孔開いた陰険ニコ中マヨラーだもん!絶対怖がってなんかやらないんだからぁぁぁぁ!!」 「誰が陰険ニコ中マヨラーだこの野郎。つーかてめっ、何だコラ、その間違ったツンデレ三段活用は」 くいっ、くいっと髪が引かれる。さっきから何度も、頭が後ろに引っ張られてる。 いつのまにか後ろに立ってた誰かに、髪を掴まれてしつこく引っ張られてるからだ。 ああもうっ。誰。誰よあたしのゼーレより崇高な一人作戦会議を邪魔するのはっ。 「うるっさいなぁもおっっ。やめてくださいよぉっっ、忙しいんですからねあたしはぁぁっ。 …が、頑張ってれ、れれ冷静に考えればっ、ままっマヨラーの上手いだだだ騙し方のひひひひとつやふふたつ! ぃぃよよよ余裕でおぉ思いぃぃつくんだからぁああああァァ!」 「どこが余裕だ。声までブルってんじゃねーか。バイブ機能でもついてんのかてめーは」 「ブルってないし!これは武者震いだしっ。ちょっ、少し黙っててくださいよ土方さんっ。話なら後に、・・・・」 振り返って、きっ、と睨みつけてから首を戻す。それから思わず二度見した。 ようやくはっとして、ざざっと後ろに飛び退いてしげしげと見上げる。 ポケットに手を突っ込み、廊下に立ち塞がってこっちを見下ろす人に、あたしもしげしげと眺められていた。 引きつり気味に上がった咥え煙草の口端が言っている。てめえにはつくづく呆れ返った。呆れすぎてもう言葉もねえよ、って。 「ひぃぃい、土方、さ!!」 「・・・やっと目ぇ覚ましやがったな。おい、いつまでそこで座り込む気だ」 「いいいいつまでって!いっ、いつから、そこ、に、っっ・・・、ひぁああああぁぁあぁぁ!!!」 今やあたしの身体機能は滅茶苦茶だ。顔は熱い、でも背中は震えがくるほど寒い。 目が合っただけで顔はかあっと火照って、背筋はぞわあーっと粟立って凍りついてしまったのだ。 どうしよう。一番聞かれちゃいけない人に聞かれちゃった。ど、どどど・・・どうしよう! 驚きすぎて訳がわからなくなったあたしの頭は、とにかく逃げろ、と命令を出したらしい。その命令を一体どう受け取ったのか、 焦るあまりに恥ずかしさも理性も忘れたあたしの身体は自分でも信じられない行動に出た。足のみならず手まで使って バタバタと床を四つん這いで逃走しようとしたのだ。必死も必死、ポーズ的にもスピード的にも、まさに脱兎の勢いだ。 「!!〜〜〜〜っっ、待てコルァァっっっ」 ところが背後で怒鳴ったひとに着物の衿首をむんずと掴まれ、ぐいーっと後ろに引っ張られ。 捕獲された兎(=あたし)は、すとん、と尻餅をつかされて床に転がされた。勢いでころんと後ろに転がりかけたら 何かに支えられて。背中が温かくなって、煙草の匂いがふわっと香って。 えっ、と目を点にして振り返ると――目が合った。 「ったくてめえは・・・!何考えてんだ!?」 眉間を寄せて、気まずそうに細めた目との距離は10センチ以下。 右肩が大きな手で掴まれている。床に膝をついて座り込んだひとの腕に、背中から抱き止められていた。 「すすすいませ、っっ、ちが、違うんですっ、違いますよ今のは!?ににっ逃げようとしたとかじゃなくてぇぇ!」 「せめて立って逃げろ、みっともねえ!見えんだろーがあァァ!」 「へ?み、・・・見え、って、なっっ。なにが?」 「そっ、――」 なぜか一瞬絶句してから、土方さんはかあっと瞳孔まで見開いて言い放った。 「そのくれー自分で考えろ!」 怒鳴られてびくっ、と肩が震えて、煙草の香りと煙たさを直に吸い込んでしまった。 おかげで急に喉が詰まって、胸の奥まで息苦しくなって。ほんの一瞬だけ、ありえないことを本気で心配しそうになった。 もしこのまま、この腕にぎゅっと抱きしめられたら。それだけであたしは息が止まるんじゃないかって。

片恋方程式。 22

「お前。あいつとは、・・・」 何か言いかけてからふいっと顔を逸らして、土方さんは立ち上がった。 「いや。何でもねえ」 肩を覆っていた手が離れていく。 あたしは後ろの人の気配を気にしながら小さく息をついて、自分の右肩を触った。 まだここに、指の感触が残っている。緊張で背中まで強張ってる。 ・・・びっくりした。こんなに近付いたことなんて、あの時以来一度もなかったから。 「部屋に戻れ」 「・・・・・、え、・・・はい、あの」 「柳生の若様がお呼びだ。お前に話があるらしい」 咄嗟の返事も思いつけずに見上げると、土方さんはとっくに背中を向けて廊下を歩いていた。 九兵衛さまたちのいる部屋とは逆の方向だ。――そうだ、今言わないと。 腰を上げて膝立ちになりながら、足早な背中に慌てて声を掛ける。 「土方さんは、戻らないんですか」 「先に戻ってろ。俺ァ屯所に連絡したら戻る」 「・・・・・、あのっ。土方さん。今、ちょっとだけ、いいですか」 「急ぎの用か」 「・・・・・違います。・・・けどっ」 「なら後にしろ」 「え、後って、でも、・・・・・・」 受け答えをする間にも、距離はどんどん離れていく。 あああぁっ、もうっっ、なるようになれっ。 かなり自棄っぱちな気分で唱えながら立ち上がって、床を蹴って走った。 「ひっっ。土方さんっ」 追いついて隊服の背中を引っ掴む。ぐいっと力任せに引っ張る。 すると、振り返った土方さんと、ばちっ、と音がしそうなくらいぴたっと目が合った。あっけにとられて立ち止まる。 「・・・・・・・・・・」 「あ、あのっ。あたしっ、・・・・・」 近い。またこんな近さになっちゃった。 どきん、と心臓が大きく鳴った。音の強さに驚いて肩が飛び跳ねかけて、思わず半歩後ずさる。 また危うく息が止まりそうな、心臓に悪い距離になってしまった。ここまで近寄るつもりじゃなかったのに。 でも、あっけにとられたのは、あたしだけじゃないみたいだ。 土方さんは目だけじゃなく口までぽかんと半開きになっていて、煙草が今にも落ちそうになっている。 「や、あの、待って。待ってくださいっ、ち、ちょっとだけ、あの、だから、ええと、」 どうしよう。引き止められたのはいいけれど、ぱくぱくと口が空回る。 だって今、頭の中はこんにゃくゼリーどころじゃなくなってる。この状態じゃ何も考えられないよ。 突然大きくなった心臓の音と、「どうしよう、どうしよう」が大音量で渦巻いてる。 このひとを足止めできそうな上手い理由なんて、きれいさっぱり浮かばない。 「土方さんに、・・・・・訊きたいことが。あって、・・・・」 怖い。土方さんの目の色が変わっていくのが。明らかにさっきまでとは、あたしを見る目が違ってる。 怪訝そうな目。あの目から見て取れるのはあたしへの不信と、かすかな驚きがないまぜになった失望だ。 その変化を目の当たりにしただけでもう泣きたくなった。隊服の裾を握った手にうんと力を籠めても、 口を引き結んで我慢しても、表情が少しずつ歪んで崩れていく。どんどん情けない顔になっていくのが自分でもわかる。 勘付かれた。きっと今ので完全に警戒された。 だめだ。もう何もかもおしまいだ。ここまでしてしまったら、もう元には引き返せないのに。・・・・・・・って、あれっ。 「・・・・・っ、」 「・・・?ひ、・・・土方、さん?」 無言で見つめ合っていたひとを見上げ、えっ、と首を傾げた。 なぜか土方さんの表情に急激な変化が起こったからだ。 「ど。どうしたんですか?・・・」 ダメだ。呼びかけても反応がない。本当にどうしちゃったんだろう。 何か絶対に見てはいけないものをいきなり目の前に叩きつけられて、思考も身体もフリーズしちゃったような顔してるし。 「土方さぁーん。・・・え、やだ、ちょっ、どうしちゃったんですかぁ。ね、見えます?見えますかこれっ」 目の前で手のひらをひらひらさせてみる。それでも答えが返ってこない。 ・・・うわぁ。ここまで固まっちゃった土方さんなんて初めて見たよ。 何があったのか知らないけど、これはかなりの重症だ。 「土方さんっっ」 「・・・・・・、っ!!」 十秒は全身を固まらせて黙り込んでからようやく解凍された土方さんは、ざっ、と大きく片脚を引いて後ずさった。 ひどく引きつっている切羽詰まった顔であたしを見つめて、げっ、と首を絞められた鶏みたいな声で呻いた。 え。なに。どうしたの。何が起こったの。 きょとんと眺めているうちに、ばっ、とあたしの手が隊服から振り払われ、くるりと踵を返されて―― びゅんっ、と風を巻き起こして目の前から走り去った。てゆうか逃げた、はっきりと! 「ちょっっっ。なっ、何で!?なんで逃げるんですかあああぁぁ!!」 「逃げてねええ!っってめっ、ついてくんな!こっ、これはそのほらあれだ、かっ、厠だ!!」 「トイレ逆方向だし!!なんで逃げるんですかぁぁ!?てゆーかトイレ行くのに全力疾走って!!!」 「うっせえ!逃げてねえっつってんだろォ!?つかっ、てめえが人のこと言えんのか!? 人のツラ見るなりミミズみてーに這いつくばって逃げやがった奴が!」 たまにこっちを振り返り、焦りまくった形相で怒鳴る土方さんが 力が入りすぎて記録が出せないスプリンターみたいな大振りかつぎくしゃくしたフォームで廊下を爆走。 それでも凄い馬力が出るのがこのひとの怖いところだ。…なんて、妙なところに感心しながら、あたしはひたすら後を追った。 「ひぃ!っきゃぁあああぁああ!!」 「おっ、お客さま!!そんなにお急ぎになると危険ですっ、廊下はどうかゆっくりと、…ってお客さまぁああ!!?」 「よよよ、ヨシコさんんんんん!!フゴッ、フガゴボ、ぼ、僕っ、泳げなゴボボボボっっ」 「きゃああああ!!!!ヨシオさんが池にいいぃ!!誰か!誰か助けてえぇぇぇ!!」 「すいませんすいませんすいませんんん!!全っっ部あの瞳孔開いたおまわりさんのせいですうぅぅ!!」 「あァ!?んだとコルァァァ!!!ってっめええ、誰のせいで必死こいて走ってっと思ってんだぁぁ!!?」 積み重ねたお膳を運ぶ仲居さんを跳ねそうになりながら、甘ーい雰囲気でいちゃいちゃ歩いてたカップルを庭に突き落としながら、 途中で衝突しそうになった人たちに謝りながら、廊下の角を峠のヘアピンカーブ状態で曲がったりしながら、 一目散に逃げようとするひとを目指して走り続けた。・・・ああっ、なんて意味のないデッドレース! だってこれって悲惨だよ。文字通り目の前で逃げられてるんだもん、好きなひとに。 情けなさのあまりに涙ぐんで、それでも必死で追いかける。 けれど、正直こうやって追っかけることに意味があるのかないのかすらわからない。 あたしは土方さんが逃げるから必死で追う。ところが土方さんは、あたしが追うから必死で逃げているのだ。 馬鹿らしい。悪循環もはなはだしい。そして皮肉なことに、この構図は計らずもあたしの不毛な片思いそのものだ。 なんて虚しいんだろ。虚しすぎて逆に笑えてくるほどぴったりくるよ。 ・・・まあ、そんなことに気付いたっていいことは何もない。それどころか余計泣けてくるだけなんだけど! 「〜〜〜っ、待てぇええいいいいぃぃっっ!」 「う、おぉっっ!!?」 「とうぅぅぅっっっ!!」 と叫びながら全力で床を蹴る。ぴょーーーん、と土方さんの頭上まで高々とジャンプ、 自分めがけて飛び込んでくる涙目の女にぎょっとしているひとがスローモーションで近付いてきて、 あっという間に近すぎて見えなくなって、どんんっっ、と衝撃が身体いっぱいに走って―― 「っっってえええ!」 「〜〜〜〜!!ったぁああぃいいいっ〜〜〜!!」 痛いっ。〜〜〜〜痛い痛い、痛いぃぃ!! 土方さんに頭からぶつかって床に落ちて、眩暈はするし身体は揺れっぱなしだし頭蓋骨は割れそうだし、 痛みのおかげで拭いても拭いても涙が勝手にぼろぼろ流れ落ちてくる。おまけに目の前で頭抱えて激怒してる ひとはいるしで、…痛い。とにかく痛い。どこもかしこもあらゆるところが痛すぎる。いろんな意味で!! 「っ、・・・ふぇええっ。土方さんの・・・バカあぁぁ!ぃたいよぅぅうぅぅ!!!!」 「・・・はぁああ!?てめえでやっといて泣いてんじゃねえっ、っっの野郎ぉぉぉ・・・・・・、この馬鹿女がァァ!!」 「ってええぇ、ひ、ひじか、た、さんがぁっ。にっっ、・・・逃げるからぁあ!」 「っせえな!これァ条件反射だ!しょーがねぇだろ、逃げたくなんだよその泣きっ面が!」 「・・・っ、な、・・・・なんで。なんで顔見ただけで、逃げたくなるって・・・・。 なにそれっ。あたしが、べそかいて、何が、わるいのっ。何が、ひ、土方さんを、困らせるっていうんですかぁああ!」 「全部だ!・・・ちょっと見りゃあなぁ、その足りねえ頭が何考えてっか判るよーに出来てんだ、てめえのバカ面は!」 びしいっっ、と指先を突きつけられて断言される。 …それ、さっきも総悟に同じようなかんじで言われたけど、土方さんにまで言われるなんて。 「そっ、その面ぁあれだ、・・・どうせまたっ、何かとんでもねえ真似しでかす気だろーが!?」 「・・・・・・・・・・・・・」 「・・・危ねーんだよ。んな顔してるお前に関わっちまうと、こっちはろくなこたぁねえ。 その手の、・・・何だ、その、ぐずったツラしてる時は!!大体なぁ、風呂場で出くわした時ぁ、」 はっとした土方さんが息を呑み、しまった、という顔で口を抑える。 「・・・・・っ。とにかく、その、あれだ、九兵衛んとこにさっさと戻れ。いいな!」 「・・・・・・・・・・・・・」 目の前のひとを、ぽかんと口を開けて見上げた。 ショックだ。何か言い返す気になれないくらいショックだ。どかっと胡坐で居座って廊下のど真ん中を占領、 眉の吊り上がった苦々しい顔を庭に逸らし、物凄い勢いで煙草の煙を吐き出し続けてるひとに目を見張る。 ・・・そんなに?そこまではっきり言われちゃうくらい見え見えなの、あたしの態度? えっっ。てことは・・・ってことは、 ・・・・・・今の全力疾走って。もしかして。 あのお風呂場でのことを思い出して、あたしにまた告られるんじゃないかと誤解した土方さんが あまりの嫌さに死に物狂いで逃げ出した。 ってこと、・・・・・・・・・・じゃないの? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ が――――――――ん。 するはずのない音がした。 ピアノの低い方の鍵盤を両手で目一杯叩くと出る、歪んだ音。あのお腹に響く重たい音が頭いっぱいに轟いた。 さーっと血の気が引いていく。 さっきの衝突の痛みなんてすっかり消えちゃった。代りに襲ってきたのは、頭に岩を落とされたくらいの衝撃だ。 「・・・・・〜〜〜〜っ。そ。そんなにいぃ・・・・・・・・?・・・そこまで、嫌、がられ、て・・・っ」 次の瞬間、こわごわとこっちを向いたひとも、その後ろにある料亭の庭も、全部が涙で潤んで流れた。 何も見えない。目の前が滝だ。ぎゅっと目を瞑ると、ふぇえ、と抑えた口からひっくり返った泣き声が漏れた。 「ふぇぇぇえええんんんっっっ」 「っっっなっ。泣くなバカ!その面やめろっつってんだろーがァァ!!」 「わっ。忘れるって言ったくせにっ・・・」 「ぁあ!?」 「言ったあぁ。言いましたあっ。あ、あたしにも、忘れ、ろって。俺も、忘れるからって、言ったくせにぃぃ・・・」 「〜〜〜〜〜っっ。そーだ畜生っ、認めてやるから黙れ!俺が言った。言ったな!だから泣き止め!」 ぶんぶん首を振る。涙で潰れた声しか出ない。喋りたくても喋れない。 泣き止めって・・・そんなこと言われても。どうやって泣きやめばいいのかわからない。 わからない。あたし、どうしてここまで――土方さんを困らせちゃうくらい泣きじゃくってるの。 どうしたら涙が止まるの。自分でもわからないのに。どうしてこんなに悲しいのか、泣くのを我慢出来ないのかわからないのに。 「・・・フン、あれをどーやって忘れろってんだ、・・・・・・・・・建前に決まってんだろ、んなもんは!」 歯痒そうに負け惜しみをつぶやく声がした。 ぱんっ。指を目一杯広げた手が頭を掴んで、あたしの頭をがくんと沈める。乱暴な勢いで真上から押してくる。 掴んだ前髪をぐしゃぐしゃに掻き回しながら土方さんは言った。 「・・・だからお前は馬鹿だってんだ。んなこたぁ、ちっと考えりゃあ察しがつきそうなもんじゃねえか。 っ、その、あれぁつまり。あれじゃねーか。・・・・・・・・・・・・・・つーかいつまで黙ってんだっっ、何とか言え!!」 ・・・なんて横暴な。てゆうか誰。誰ですか、ついさっき黙れって言ったばかりのひとは。 ぐしゃぐしゃぐしゃっ、わしゃわしゃわしゃっ。あたしの毛根は逆ギレしたひとの思いのままに引っ張られた。 ひどい。前髪抜けちゃう。そこだけハゲちゃう。 野生のクマと戯れるムツ☆ロウさんだって、もう少しく優しく手加減してくれるんじゃないだろうか。 ・・・それとも。このひとにとってはクマ以上に有害な、容赦無要な生き物なんだろうか、あたしって。 「・・・・・・・・、ふっ。なんだぁ。・・・・・ふふっ。そっかぁ、」 「〜〜っっのぉぉ、何を笑ってんだてめえはあああ。ちゃんと聞いてんのか、聞いてねえだろ人の話を!?」 「・・・じゃあ。お風呂で、あんな格好で。・・・あんなに必死になって告白する必要。なかった。かなぁ、・・・」 ぐすぐすと啜り上げながら言ったら、ぎゅっと髪を握ったままで手が止まった。 涙を袖で拭って、かあっと熱を持った瞼を少しだけ上げた。黙り込んでしまったひとを見上げてみたけれど、 目の前が暗い。ぼやけた影の中に見えるのは、あたしの頭を抑えている黒い隊服の腕だけだ。 真上から抑えつけてくる、ずしりと重たい手の感触。 ・・・懐かしいな。この匂い。 いつもと同じなのに少し違う匂い。うんと近くなった時にだけ感じる、吸い込むとむせ返りそうな煙草の香りだ。 この重みも。おでこを覆った、硬い手のひらの肌触りも。ちょっと高めなこの体温も。 すごく懐かしい。土方さんにこんなことされるのは久しぶりだ。 「・・・やだなぁ。あたし。・・・・・・・ばかみたい。」 「はぁ!?「バカみたい」じゃねーだろ。バカそのものだテメーは」 ぱん、と広げた手が頭を叩いて覆った。 ぐっと押されてまた頭が沈む。あたしの身体、このまま萎れて床にのめり込みそうだ。 ・・・そっか。その通りかも。ばかみたいじゃなくて、本当にばかだ。 あのときこのひとが見逃してくれたのをいいことに、あたしはいい気になって甘えてたんだ。 土方さんの気持ちも考えずに一人で浮足立って、一人でグルグル空回っちゃって。 本当にばかだ。毎日このひとの傍にいながら、少しも気づきもしなかったんだから。 そうだ。今頃になってやっとわかった。どれだけ一所懸命になったって ――ううん。あたしが一所懸命になればなるほど、このひとにとっては迷惑にしかならなかったんだ。 そうだよね。当然だ。 今、この場で思い出せる限りを思い返しても、迷惑がられることばかりしていた気がする。 一所懸命になりすぎて、自分のことしか考えられなかった。そういうあたしは、このひとにとっては頭痛の種でしか なかったんじゃないのかな。・・・だって、迫られたら逃げ出したくなるほど嫌だったんだから。 「・・・なぁんだ。・・・・・・・そっかぁ。」 口の奥でつぶやくと、真冬の雨粒みたいな、凍りかけた何かがぽつんと胸に落ちていった。 ひやりと溶けて、水をたっぷり吸ったみたいに重たくなった胸の底へ。つうっと伝って染み込んでいった。 「土方さんは。平気なんですよね。・・・あたしが。いなくなっても。」 土方さんは静かに息を呑んだ。 あたしとは滅多に視線を合わせたがらないひとが、鋭い視線をこっちに奪われたままだ。 視線を逸らすのも忘れて、次に出てくるあたしの言葉を待っている。 ・・・ううん。ためらってるんだ。急には言葉が出ないくらいに迷ってるんだ。 ここではっきり突き離すべきかどうか、困ってるのかも。そうなのかもしれない。 普段はバカバカ言って、厳しい顔しか見せてくれないひとなのに。肝心なところでこのひとは、いつもあたしに甘くする。 「・・・そっ。・・・そっかぁ。・・・・・・。そうですよね。・・・・・」 続く沈黙が怖くなって、あわてて口を開いた。 返事はなかった。けれど答えは貰ったようなものだ。 まだ躊躇いを隠しきれていない、このひとのぎこちない態度。迷った挙句に口を引き結んでの、重たい無言。 そのどちらもが確かすぎる肯定だ。 ふふっ、と小声で笑った。笑い声にも力が入らない。妙に空々しくて浮いた笑いになった。 なんだか寒い。肩をきゅっと抱く。季節はもう夏だ。陽が落ちて外が暗くなっても、庭に面したこの廊下に 漂う空気はぬるくて柔らかい。なのに、なぜか急に背中を風に冷やされたような気がした。 着慣れない着物の胸元に目を落とす。 きらきらした刺繍の入った華やかな着物。今のあたしの気分には晴れやかすぎて、見ているとなんだかみじめになる。 「・・・ごめんなさい。今の、なかったことにしてください」 ぺこん、と頭を下げた。顔が上げられない。まっすぐに見つめてくる土方さんの視線が辛い。 深くうつむいたそのままの姿勢で、廊下に向かって笑顔の練習をしてみる。・・・だめ。やっぱり上手く笑えない。 「全部、忘れてください。お風呂のときのあれと一緒に」 「・・・ぁんだそりゃあ。・・・・・・・勝手ばっか言いやがって」 「・・・そうですよね。ごめんなさい。・・・・・・でも。忘れてください。・・・全部」 頬から唇へ、唇から口の中へと、涙がつうっと零れた。広がったほのかなしょっぱさを、どこかほろ苦く感じた。 かすかな苦さを口の中に残しながら、一粒の水滴が喉の奥まで落ちていく。 どこまでも落ちていきそうだ。足元よりももっと深く、途方もない深さまで。自分の身体に底がなくなったような錯覚までした。 「・・・・・・・それで全部か」 「・・・え?」 「それで終わりか。お前の言い分は」 「はい。・・・・・・・訊きたかったことは、これだけです。ごめんなさい。すみませんでした。・・・困らせるようなこと訊いて。」 目元に溜まった涙を指先で拭いながら、下げっぱなしだった頭を上げる。 土方さんと顔を合わせて、つい、ふっ、と吹き出してしまった。 まだ困ってる。腕を組んだ前のめり気味な姿勢でこっちを睨んでる顔は、眉間に寄った皺がびしっと固定されたまんまだ。 「・・・・・・やだなぁ、もう、・・・、ふっ。っ、ふふっ、くくっ」 「ぁあァ!!?んだとテメっっ」 だってなにそれ。そんなに真剣に気にしてたんだ。そこまで困ってたなんて。・・・予想外すぎて笑っちゃうよ。 ああ可笑しい。お腹を折り曲げてケラケラ笑っているうちに、ぽろり、と涙が転がった。 指先で拭きとろうとしたらまたぽろっと落ちて、それを拭う間もなく次の涙が。 あれ、・・・・・・やだ。どうしよう。止まらない。涙腺が壊れちゃったのかな。どんどん勝手に溢れてくる。 「〜〜〜っっ。またそれかよっっ。おいっ、せめて笑うか泣くかどっちかにしろ!」 「ひっ。・・・・ひじか、た、・・・さん・・・っ」 「あぁ?わっかんねえよグズグズすぎて何言ってんだか。喋る前に止めねえかそれを、・・・ったく」 焦れて眉を吊り上げた土方さんが、呆れきった顔でうつむく。 はぁぁ、と嘆かわしげな溜め息をつくと、閉じた目の眉間を抑えて黙り込んだ。 「な。なんですかぁその嫌そうな、・・・あっ。あたしだって。泣きたくなんか。・・・勝手に、出て、きちゃ、・・・・っ」 「ああそーかよ、フン、悪かったな。〜〜っ、もうあれだ、とにかくてめえは何でもいーから泣き止め。説教はそれからだ」 なんて無愛想に言いながら、手が伸ばされた。煙草の匂いのする袖が目を塞いで、ごしっ、と目元を乱暴に擦った。 「このツラで宴席戻る気か?お前なぁ・・・いつも言ってんだろぉが、少しは俺の立場ってもんをだな、」 硬い隊服でゴシゴシされるたびに、嗅ぎ慣れた煙たさが目に染みる。 拭かれれば拭かれるほど、涙の染みた肌がひりひりと痛くなる。もっと泣けてきてしまう。 肩にきゅっと力を入れて、身体をうんと小さく竦めた。やりきれない。このまま小さくなって消えちゃいたい。なのに―― 自分のばかさ加減に苛まれながら、涙声でつぶやいた。 「・・・・・ああ。もぅ。・・・・・・やだなぁ、・・・・・・」 「うっせえぞコラ。どうせ煙草臭せえとか思ってんだろ。そのくれえ我慢しろ、バカ女」 「・・・・・・・。ほんとだぁ。・・・・・・・ばかみたい」 「違げーだろ。みたい、じゃねえ。てめえみてーのを筋金入りってえんだ。正真正銘、まごうことなくめでてぇバカだ」 そうなのかも。あたしって本当にばかだ。筋金入りだ。 硬い隊服でゴシゴシされて肌が痛い。でも、ずっとこうしていたい。 痛いのに懐かしい。嬉しい。久しぶりにこうやって、土方さんから自分から近寄ってくれた。 呆れながらでも宥めてくれた。喧嘩越しな物言いの裏では励まそうとしてくれるのがわかる。 「・・・・・っ。・・・喜んで、くだ、さ・・・・っ。・・・あたし、・・・決め、・・・した、から、・・・・・・」 「いやだから。泣き止めって言ってんじゃねえか。何言ってんだかわかんね、――」 袖口にそっと触ってみた。土方さんは途端にぴたりと黙って、腕の動きまで止めてしまった。 けれど、何も言わなかった。腕を振り払われもしなかった。 それをいいことに、きゅっとそこを引っ張る。両手で手首を掴んで、目の前まで持ち上げてみる。 それでもじっと動かない手のひらに、黙って顔を寄せた。 ・・・直には触れていないのに。それでもあったかい。赤く腫れてしまった目元には熱いくらいの温度だ。 ああ。やだなぁ。やっぱりやだ。・・・言いたくない。 こうしていると実感する。あたしが欲しかったのはこの手。他のひとの手じゃない。 土方さんじゃないと駄目なんだ。他のひとの手じゃ、こんな和らいだ、ほっとした気持ちにはなれない。 この手を取ったとたんに涙の洪水をぴたりと止めた身体だってそう言っている。――痛感しすぎて自分でも嫌になるくらいだ。 あたしはどうして。どうしてこんなにも、このひとのことをすきになってしまったんだろう。 身体中が嫌がってる。全身で拒んでる。 これから口に出そうとしてることを声に乗せようとするだけで、唇が嫌がって小刻みに震える。 からからになった喉も。竦めた肩も、震えの止まらない指先も――石みたいに冷たく固まった胸の中も、 どこも強張って震えてる。そんなこと言いたくない、やめて、って拒んでる。 歯止めのきかなくなりそうな感情が、微かな震えと一緒に背中を這い上がって昇ってくる。 もう待てない。もうすぐ捕まる。今にも心臓を鷲掴みにされそうなところまできている。 駄目だ。言わないと。今すぐに言って、この手を放さないと。 早くしないとあたしは、他のことを言い出してしまう。 土方さんの表情を一瞬で曇らせて、今よりもっと悩ませてしまうようなことを。 「・・・・行きます。」 ぽとり。 顔を寄せた土方さんの手に、雫が落ちる。目元から顎まで転がった涙の粒が、床を濡らした。 煙草の匂いが深く染みついた手。強く掴んだその手に、きゅっとおでこを押しつける。 唇が可笑しいくらいに震える。ちょっと動かしただけで舌を噛みそうなくらいだ。やっとの思いで声を絞り出した。 「柳生家に。・・・・・・あたし。行きます」 固まっている手を放して、さっと横を擦り抜けた。 振り返らないで一直線に廊下を駆ける。 開けた障子戸の向こうに滑りこんで、ぱんっ、と叩きつけるように閉めた。 戸を後ろ手に掴んだまま、全員の目が揃ってこっちに惹きつけられた室内をぼうっと見つめる。 ぶわっと溢れて目の前を包んだ涙で、焦点が合わなくなってる。誰の顔も水中にいるみたいによく見えない。 赤い髪の女の子が――神楽ちゃんが、たたっと身軽に目の前まで走ってきた。口にはスプーンらしきものを咥えてる。 首を大きく傾げると、ぴょこん、と左右の丸い髪飾りが揺れた。 「?どうしたアルか、何で泣いてるネ!?」 「・・・・・・っっ。ふ、・・・・・っ、」 力の入らなくなった身体が、腰から畳に崩れ落ちた。 ――大丈夫。ちゃんと言えた。ここに土方さんはいない。だからもう我慢しなくていい。 唇を噛みしめながら自分に言い聞かせたら、涙腺が再び決壊した。だーっと、蛇口を軽く捻ったくらいの水量が目から流れた。 あたしの身体ってこんなに涙が溜まってるんだ。さっきだって自分でもびっくりしてしまうくらいに泣いたのに。 ふ、ぅ、ぅ、ぅ、と震える涙声が喉の奥から湧き出てきて、物凄い早さで呑み込まれる。悲しいとか辛いとかせつないとかが ぐちゃぐちゃに混ざった、爆弾みたいな感情に。 「・・・ふぇええぇえええんんんっっ。っっく、っっ。ごめっ、な、・・・さ、っ、ひっ、・・・・・・・っ」 その場でがばっと突っ伏して、あたしはわんわん泣きじゃくった。 ごめんなさい。ごめんなさい。ちょっとだけ泣かせてください。すぐに泣き止むから。 びっくりさせてごめんなさい九兵衛さま。こんな場所で号泣しちゃう非常識な部下でごめんなさい近藤さん。 確認するまでもなくいつもの笑顔だろうけど…きっと呆れてますよね姐さん。ほんとにごめんなさい。 「さん・・・?どうしたんだ。一体何が、・・・・・」 「どーしたネ、何があったネ?泣いてちゃわからないヨ」 「おぁあ?お前、顔だけじゃなくて頭までグチャグチャじゃねーか?ここんとこの髪が絡まってるぞォ」 「うわぁ、ほんとだ。まるで台風にでも遭ったみたいじゃないですか」 「さあ、もう泣かないで。顔を上げてこっちへ」 穏やかにそう言いながら、九兵衛さまの華奢な手が肩を抱いた。 ぽん、と背中に添えられた手は、四年前と変わらずに優しい感触だ。 大丈夫、と手のひらに尋ねられているみたいで心地が良い。なのにひどく後ろめたい気持ちになった。 顔が上げられない。 返事の代りに頭を振ったら、九兵衛さまよりも華奢で温かい、ちいさな手が背中を撫で始めた。 「そうだ、お茶を頼もう。こういう時は温かいもので気分を落ち着けたほうがいい」 「そうですね、こういう時はお茶のほうがいいですね。さんはお酒にメチャメチャ弱いし」 「そーヨ、そんなに泣いたらダメヨ。泣いてばかりだと女は不幸になるってうちのマミーも言ってたアル」 「・・・・・・・・・・・っ。・・・?」 誰かが恐々と呼びかけてきた。 近藤さんの声だ。ぼそぼそっ、とものすごくぎくしゃくした口調で続けた。 「もっっ。もしかして。アレか?まさかたぁ思うが。・・・ト。トシに何か言われた、のか、・・・?」 「ああっ!マヨにいじめられたアルか!!?」 神楽ちゃんの元気な叫びが鳴り響き、部屋中の空気が止まる。 みんなの視線があたしの背中に集中してるのは気配だけでわかった。 その沈黙を静かに、軽やかに打ち破ったのは姐さんだ。ふふっ、と口に手を当てたような、少し籠った上品な笑い声を漏らした。 「まぁ。そういえば副長さんも戻っていなかったわね」 「・・・さん。差支えなければ話してくれないか。君を泣かせたのが彼だとしたら、僕も黙ってはいられない」 「そっ。そーなの?マジで?やっぱりそーなの?そーなのか!!?・・・・・・どどっ、どーしようぅぅ!!」 「えっ、ちょっと、どうしたんです近藤さん、・・・近藤さん?そんなに強く柱に打ち付けたら頭が割れますよ!?」 「うぉおおおおぉ許してくれえっっ。俺が俺が俺がっっっいらねえ真似したばっかりにィィィ!!」 「邪魔しちゃだめよ新ちゃん、心ゆくまで叩き割らせてあげなさい。そうだわ、なんなら私もお手伝いしましょうか近藤さん」 ゴンッ、ゴンゴンッッ、ゴンゴンゴンゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ、と背後で鳴ってた鈍い打音が16ビートの連打音に変わる。 「う、ご、ぶ、フゴッッ、おおお妙さ、ししし死にます死ぬうぅぅううう」断末魔の喘ぎみたいな近藤さんの叫びが 耳を貫いて、「姉上ェェ!?」と新八くんが絶叫、九兵衛さまの「妙ちゃん、素敵だ…」といううっとりしたつぶやきも重なった。 ・・・・・・・。これはどう聞いても局長が瀕死の危機だ。止めに入ったほうがいいだろーか。 そう思っても頭が上がらない。涙が止まらない。身体を震えさせる嗚咽がとまらない。 涙腺から一気に押し出された涙のせいで、決壊しちゃった感情のブレーキがきかない。ごめんなさい近藤さん。 やっぱりあたしは、自分から辞めるまでもなく隊士失格みたいです。 自分のことでいっぱいいっぱいです。局長がピンチなのに身体を張れそうにありません…! 「こ、近藤さんんん〜〜〜っ。ごめ、なさ、っっ。あたしぃぃ、ひ、じかた、さ、だけ、じゃなくて・・・っ、 みんなに、め、迷惑、かけて、・・・ひっ、っっく、」 「…もう我慢ならないネあの税金泥棒っっ。女の子を泣くほどヘコませるよーな男、には相応しくないアル!!!」 「そうね神楽ちゃんのいうとおりよ。さん、副長さんみたいに頭のキレがよさそうな男性は、あなたに合わないんじゃないかしら。 頭に回る栄養をその目障りな腫れ物に全部吸収されたさんには、もっと頭の軽いボンクラ男がお似合じゃないかしら」 「笑顔で火に油を注ぐ発言はやめてください姉上ェ!それより誰かっ、神楽ちゃんを止めるの手伝ってよ僕一人じゃ無理ィィ!!」 「放すネ新八!女を泣かせる男は最低の屑ヨ、愛の戦士神楽様が月に代っておしおきしてやるネ!!」 「やめとけ神楽ぁ。あんな野郎放っとけばいーんだって。つーかおめーがおしおきされたいんですかこのヤロー」 「てっっ、」 「次暴れたらデコピンじゃ済まさねーからな。一日メシ抜きの刑だからな」 ぃっったぁぁああっ、と神楽ちゃんがわめいて、ドカドカと畳を蹴って暴れる音が止まり。 足音が近づいてくる。とっ、とっ、とっ、とのんびりした足取りでこっちに歩いてきて、 「あー、悪りーけどそこちょっと空けて。はいはい、どーも」 気抜けした声の主は万事屋の旦那だった。大きな手に頭を撫でられた。あたしの後ろ頭をすっぽり包んでしまう手だ。 ゆっくり髪を撫でたその手が肩をぽんと叩いて、脇の下から腕を入れてくる。 「え・・・、!ひゃっ、や、・・・なに、っっ」 よっ、と軽い掛け声と同時で抱え上げられて急に身体が浮いた。みんなの頭を見下ろす恰好になって、ちょっと 手を上げたら天井に触れそうな高さまで持ち上げられた。これってあれと同じだ。赤ちゃんをあやす時の。 「高い高ーい」ってやる時の、まさにあれ。 全員の視線があたしの顔に刺さる。かあっと頬に血が昇ってくる。やだ。なにこれ。みんなに泣き顔見られちゃう。 唖然としすぎて目玉が飛び出そうなくらい大きく見開いた目で、あたしを持ち上げている人を見下ろす。 「〜〜〜〜っっ。下ろしてええぇぇえ!おおっ下ろしてください旦那あぁ!!」 足をばたばた振って抵抗したけど下ろしてくれそうにない。目が合った瞬間から、万事屋の旦那は頬を風船みたいに 膨らませ始めていた。限界まで膨らませてからそっぽを向いて、ぷーっっ、と派手に吹き出す。 くくっ、と笑いを噛み殺している横顔は、心底可笑しそうな屈託のない笑顔だ。 「ははっ。すんげー顔してんなぁ。この顔、なんてぇんだっけあれ。鳩に豆鉄砲?」 「ひいっっ、ぃやぁああやめてぇおねがい見ないでぇえええ!!って九兵衛さまァ!!?何で写メ撮ってるんですかあァァ!!?」 「す、すまないさん。泣き顔があまりに可愛らしくてつい・・・」 「あっ、俺も撮ろーっと。総悟のやつ拗ねてたからなー、あいつ用に撮って送ってやろーっと」 「すっっ、すみませんごめんなさいさんっ。だって、僕も前からほしかったんですさんの写真・・・!!」 「すまない、もう一枚撮ってもいいだろうか。・・・そうだ、この写真を待受画面に」 「ひぃいやあァァ!!なにこの羞恥プレイィィ!?やーめーてぇええこんな顔撮らないでえぇ!」 ピンポロン、カシャッ、パシッ。 あたしに向けられた三台の携帯のシャッター音が無情にも切られる。 「削除!今すぐ全員削除ォォ!!!」と必死で訴えても旦那は猫みたいな目でへらへら笑って見てるし 九兵衛さまと新八くんはお互いに写真の出来栄えを見せ合ってるし、近藤さんはさっそく総悟にメールを打ち始めた。 ・・・鬼だ。みんな鬼だ。特に旦那。さすがドSを公言してるひとはやることが違う。なんかもうあたし、三日は立ち直れそうにない。 がっくりと脱力して死体みたいになっていると、身体が下に下がっていく。 もう下ろしてくれるのかな。何がどうでもいいような気分でじっとしていたら、思ったのとは違う下ろし方をされた。 旦那の髪。柔らかめなふわふわした髪が頬に触れた。と思ったら、ぎゅうっ、と背中を抱きしめられて―― 「っ!!?」 「あーあぁ。俺ぁよー。泣いてる女なんて面倒くせーもんにはぜってー近寄りたくねぇんだけどォ。・・・ま、仕方ねぇか」 あんたに泣かれたんじゃ、さすがに放っとけねーもんなぁ。 はぁ、とかったるそうに一息ついた旦那が、あたしの背中をポンポンと宥めるように叩く。…さっきから何かと赤ちゃん扱いだ。 足は畳から浮いたままだし、びっくりしすぎて腕が半端にバンザイしている変なポーズで、あたしはカチンと固まった。 「なぁ。もぉ引っ込んだんじゃね。涙」 「へ、・・・」 とん、と爪先が畳を踏んだ。 「あの野郎に何言われたんだか知らねーけどよ。誰もを迷惑がっちゃいねーって。 少なくともここにいる奴等はあんたをうとましがっちゃいねーんだ。皆あんたが好きだから、全員で心配してんだよ」 少し身体を離して、ほら、と旦那が目線で周りを指した。 わずかに頷いて、まっすぐに見つめてくる九兵衛さま。目が合ったら、にかっと大きく笑ってくれた近藤さん。 ちょっと照れたような顔で頭を掻いてる新八くん。見つめているうちにつうっと涙が伝っていった。 顔を上げると旦那と目が合う。旦那は目を細めてうっすらと笑っていた。いつも通りの緩んだ呑気そうな笑顔なのに、 どことなく困っているようにも見える。旦那の腕越しに目が合った神楽ちゃんが、心配そうに眉を曇らせて寄ってくる。 その後ろにいた姐さんが頬に手を添え「あら、どうして全員なのかしら」と小首を傾げて「にっこり」した。 ああ。だめ。だめだ。もう神楽ちゃんの顔が水に溶けてぼやけてきた。 「・・・・・・・でも。あたし。・・・旦那ぁ。・・・・・っ」 「大丈夫。大丈夫だから、いつもみてえに笑ってくれよ。泣いて謝るよーなこたぁ何もねえんだから。な?」 「・・・・・・・・・っ、」 「ああっ銀ちゃん!、また泣いてしまったネ!!」 自分から旦那の胸に飛び込んで、着物の衿元に涙でぐちゃぐちゃになった顔を埋めた。 誰かが黙って後ろから頭を撫でてくれた。温かくって小さな手だ。「離せ万事屋、さんを慰めるのは僕の役目だ!」と 九兵衛さまが悔しそうに騒いでる。「どーした万事屋ぁ、背中が固まってるぞォ」と近藤さんが笑う。 「るっせえぞゴリラ、人の幸せ茶化すんじゃねーよ」とぼやいた旦那の腕が、背中を優しく抱きしめた。涙が止まらなくなった。 こんなのいつ以来だろう。優しくしてくれる人に甘えて、安心しきってぐずぐずと泣くのって気持ちいい。 誰かの腕の中にいるのって。誰かの腕の中で慰めてもらうのって。こんなにあったかくて無防備な、 素直な気持ちになれるんだ。 ・・・そうだ。あの時。去年のクリスマス以来だ。こんな気持ちになったのは。 唐突に思い出した感覚が、無意識のうちにあの腕の感触に重なっていく。 重症だ。このままじゃ柳生家に仕えても、あたしの回りで起こる全部があのひとの記憶に繋がってしまう。 これでどうやって忘れられるっていうんだろう。柳生家に行っても毎日泣き通しだったら、九兵衛さまの顔を潰してしまう。 どうして言えなかったんだろう。言えばよかった。どこにも行きたくないって。土方さんの傍にいたいって。 なんて意気地無しだったんだろう。あたしは二番目に言いたかったことに逃げたんだ。 一番言いたかったのが「あたしがいなくても平気かどうか」だなんて。うそ。そんなの嘘だ。 そうじゃない。もうこれ以上傷つきたくないから、――柳生家には行きたくないって拒んで あたしを迷惑に思ってるあのひとに、困った顔をされるのが怖いから。臆病なあたしは自分を騙した。 一番言いたくても怖くて言えないことは背中に隠して、あのひとを試すようなことをした。最後までうんと困らせた。 泣きじゃくりながらでも言えばよかった。いい顔はしてくれないってわかっていても、言ってしまえばよかった。 心の底で燻っていた言葉を。本当の気持ちを。 あの瞬間が、・・・あのひとが何の隔たりも置かずに、まっすぐにあたしと向き合ってくれる最後のチャンスだったとしたなら。 あたしは言わなくちゃいけなかったんだ。思いきって飛びこまなくちゃいけなかったんだ。 勇気のなさも気後れも、ミツバさんに会って生まれたためらいも。全部、全部振り切って。 言えばよかった。どんなに頑張ってもあたしの欲しい答えはもらえないって、判っていても。

「 片恋方程式。22 」 text by riliri Caramelization 2010/11/27/ -----------------------------------------------------------------------------------     next