「・・・来ないね、タクシー」 車道を流れる車の列を眺めながら、思いきって話しかけてみた。 松葉杖に寄りかかった総悟は、向かいの歩道沿いにあるコンビニに目を向けている。 蜂蜜色の髪は車道からの風にさらさらと靡いている。目の前を車が通り過ぎるたびに白く浮き上がる、 いつもよりすこし固い表情。薄い唇はずっと閉じたまま。何も答えてくれなかった。 急に席を立った総悟を追って料亭を出て、あたしたちは大通りでタクシー待ちをしている。 「空車」が来ないかなあと背伸びして遠くを確かめてみたけど、見えるのは表示の消えた車ばかり。 停まってくれるタクシーはいなさそうだ。 昼間は買い物客が詰め寄せる大通りは、帰宅ラッシュの時間帯に入って車でごった返している。 どの車もスピードが緩まない。白っぽいライトが目の前を眩しくしては、光の尾を引いて流れ過ぎて行く。 「総悟。一人で大丈夫?やっぱり誰か呼んだほうがよくない?迎えに来てもらったほうがいいよ」 「しつけーなァ姫ィさんも。迎えなんかいらねーや。さっきからそう言ってるじゃねーですかィ」 「だって。脚だってまだ治ってないし。・・・・・」 ・・・このまま一人で帰したら、総悟がふらっとどこかに行っちゃいそうで心配なんだよ。 本音を言うと、脚のことよりそっちのほうが心配だ。だけど、そんなことを言ったらまた総悟の機嫌を損ねそう。 ただでさえ苛々してるこの子をもっと怒らせちゃいそうだもん。子供扱いすんじゃねーや、って。 困って途中で口籠ったあたしを、総悟は皮肉っぽく横目で流し見た。 「安心しなせェ。心配しねーでもまっすぐ帰って大人しく寝てまさァ。どっか行こうにも金持ってねーし」 「!?・・・言ってないよ、そんなこと!」 「その顔見りゃあ誰だって判らァ。言いてーことがそのまんま書いてあるんでェ、姫ィさんの顔は」 くすっ、と思い出し笑いで顔を崩すと、総悟は意地の悪い表情でこっちを覗き込んできた。 ・・・そんなに顔に出やすいのかなあ、あたし。 目を細めてにやついている隣の悪戯好きを軽く睨んでから、ほっぺたや目のあたりを むにむにっと引っ張って解した。こんなことをしても何の効果も無いのはわかってるけど、なんとなくやらずにはいられない。 育ててくれた義父さんにも、小さい頃からよく道場で注意されてきたことだ。 あたしの感情は、いつも表情からすべてが丸見えというかシースルーというか、判りやすくお見通しになってるらしい。 そのこと自体はそんなに嫌だと思ったことはない。逆に感情が一切顔に出なくて、周りの人を混乱させるよりは いいかなあって思う。あたしみたいな子が少しはいたっていいはずだ。もしも皆が皆、大抵のことは無表情と無愛想で 済ませる土方さんみたいだったら、それこそケンカが絶えない殺伐とした世の中になっちゃうだろーし。 だけど、言いたいことが顔に書いてある、なんて言われちゃうくらい判りやすいっていうのはどうだろう。 ――普通の女の子としてのあたしにとっては、何も問題はないかもしれない。 でも、おまわりさんとしてのあたしにとっては違う。それは決して良いことじゃない。致命的な欠点でしかないはずだ。 そう思ったら、また胸の中がきゅうっと縮んで冷たくなった。 さっきも感じた感覚によく似ている。左胸の中に氷のかけらをぽつんと落とされたみたいな、あの感じ。 「・・・。ねえ。ほんとに?まっすぐ帰ってくれる?」 「ほんとでさァ。俺ァあんたに嘘つけねーんでェ。だからそんな顔しねえでくだせェ、姫ィさん」 にっこりと綺麗に口端を吊り上げた総悟が、ソツなく澄ましきって笑う。あたしの頬をふにっと摘んで、 楽しそうに何度も引っ張った。 この態度はかえって怪しい。ほんとかなぁ。 どこかの飲み屋に乗りつけて、山崎くんでも呼び出して奢らせるつもりじゃないの。 疑いの眼でじぃーっと見つめてあげたら、総悟はソツのなさをがらりと崩して「何でェ」と、とぼけた顔で睨みつけてきた。 途端に子供っぽくなるその落差が可笑しい。くすくす笑うと、拗ねたような声で訊かれた。 「ちぇっ。どーせ姫ィさんも思ってんだろ。一人でムキんなっちまって、まったくガキくせェ奴だぜって」 「思ってないよ。あたしだって総悟と変わんないもん」 あーあぁ。 ぴょこん、と爪先立ちして腕を夜空にぱあっと伸ばす。 うーん、と目を閉じて唸りながら背伸びしたら、自分を取り巻いている雑踏の騒音がなぜか遠く感じた。 さっき初めて袖を通した着物が、さらさらと、肌を滑るような感触の良さで衣擦れしている。 これは九兵衛さまに貰った着物。四年前に九兵衛さまに贈った物のお返しにって、わざわざ誂えてくれたものだ。 凝った金糸の刺繍はすごく上品で、あたしには勿体ないくらいに綺麗。着慣れない上等な生地は、うっとりするくらい着心地がいい。 でも。だけど。・・・九兵衛さまには申し訳ないけれど、上等過ぎて息が詰まる。 お腹に締めた、きらきらと光る紅い帯留めを眺め下ろす。 これもきっと高価なんだろうな。お値段を訊いたら目を剥いちゃいそうだ。ふう、と自然に溜め息が漏れた。 「あーあぁ。・・・お腹すいたあぁ。ラーメン食べたいなぁ。とんこつとかいーなぁ。がっつり食べたい」 「柳生んとこに戻ればいーじゃねーか。あそこならラーメンといわずに何でもがっつり食い放題だぜ」 「あそこじゃ食べる気しないんだもん。九兵衛さまは色々と気を使って下さるし。・・・土方さんは何だか怒ってるし」 腕を頭の後ろで組んだまま、たっぷり三回深呼吸した。 陽が沈んで少し気温の下がった空気が、喉の奥まで入ってくる。それだけでなんとなく気分がすっとした。 ここに総悟しかいないから、なのかな。すごく解放された気分。何でも素直に認めてしまいたくなった。 すこしここで気を抜いておこう。たぶん、何でも無理に大人ぶって我慢したって、きっとどこかでボロが出るだけだ。 あたしにはまだまだ早いんだろう。 ミツバさんみたいに我慢強くて優しい、大人の女の人のように振る舞えるようになるまでには。 「あのね。今日ね。九兵衛さまのこと以外にも、色々と考えちゃうことがあったの。それで、このままでいいのかなあって ・・・自分のことなのに、どうしたらいいのかわかんなくなってるんだ。・・・ダメだよね。まだまだ子供なんだよ」 総悟は小首を傾げてこっちを見ていた。明るい色の瞳がまっすぐに、不思議そうにこっちを窺っている。 あたしが話し終えると、ほんの少しだけ眉を寄せる。可笑しそうなのにどこか淋しげにも見えるあの表情で、ふっと微笑んだ。 その顔は、昼間に会ったひとの面影によく重なっていた。思わず息を呑みそうになるくらいに。 あのひとも。――土方さんも。 総悟のこんな顔を見るたびに、ミツバさんを思い出すんだろうか。 そんなことを気にしてしまう、心の狭い自分を頭の中から追い出したい。でも、いつのまにか唇を噛んでうつむいていた。 すると総悟が短い溜め息をつく。耳のすぐ横で、やれやれ、と笑う声がした。 「またそれですかィ」 「・・・それって?」 「その顔、やめてくだせェ。今にも泣いちまうんじゃねーかってくらい困ってる顔だ」 これだから敵わねーや、姫ィさんには。 そう言いながら一歩車道のほうへ出て、身体を支えていた松葉杖の先を高く上げた。 その先に吸い込まれるように向かってきたタクシーが、総悟の前でぴたりと停まる。無音でドアが開いた。 「・・・本当は。判ってんだ」 「え?」 「俺が騒げば騒いだだけ、あんたが板挟みになっちまうことも。近藤さんがどういうつもりで 柳生の申し出を受けたのかも。・・・それでも嫌なもんは嫌なんでェ。俺ァ、あんたに出てってほしくねーんだ」 ちょっと悔しそうな、睨んでいるような顔つきで、タクシーの中へ目を逸らしたままで総悟は言った。 乗った途端にドアが閉まって、車はすぐに車線に横入りして走り出した。 総悟を乗せたタクシーが遠ざかっていく。 数え切れないほどの灯りが流れていく暗い車道を―― 見えなくなりかけた車の行方を目で追っていたら、心細さがじわじわと染みだしてくる。 踵を返して、信号へ向かう大勢の人たちの流れに逆らいながら料亭に急いだ。 人混みを避けながら左右に揺れて歩く。たまに思い出したみたいに生温い風が吹く大通りは、湿った夜の匂いがした。 ずっと訊いてみたかったことがある。 ずっと訊けなかったことが。訊いてみたくても、怖くて言い出せなかったことが――

片恋方程式。 21

「戻って来ないですねぇ、さん」 障子戸のほうをちらりと確かめながら尋ねてみたが、新八が問いかけた男はうんともすんとも言わなかった。 何かといい加減な銀さんにしては珍しい。と、新八は眼鏡の奥から怪訝そうに目を見張る。 答えが返ってこないのは、食い意地の張った銀時がガツガツと意地汚く料理を貪っているから、ではなく。 万事屋の居間兼事務所でもそうしているように、満腹になった途端にごろんと横になっているからでもない。 どうやら銀時は、何かを考えている最中らしいのだ。行き当たりばったりが信条としか思えないこのだらしないおっさんが、 いったい何をそこまで思い悩んでいるんだか。こうして覗き込んでも反応がないあたり、わりと真剣に考え込んでいるらしい。 口にカニの足を咥えたままで組んだ脚に肘を突き、前のめり気味な姿勢でぼんやりと、いまいちピントの合っていない 視線を畳のあたりに投げかけていた。 「どーせあのクソガキがゴネてるアル。に構われたくってわざと出てったネあいつ。けっ、これだからガキは嫌ヨ」 口を尖らせ答えてきたのは、船盛りにされた刺身を片っ端から消化中だった神楽だ。 銀時と新八の間にひょいっと顔を挟み、鯛のお頭を箸先でグサグサ突きながら不満をぶつける。 「ふん、ドSのくせにまだ乳離れできてないネ。キモいネ最低ネ、死ね」 「いや死ねって。厳しいなぁ、・・・」 そこまで言うんだ、と新八が顔を引きつらせる。 「沖田さんには特別厳しいよね、神楽ちゃんは」 「当然ネ。あいつのせいで私、に怪我させてしまったヨ。私も悪かったネ。でもあいつも許せないアル」 あの怪我が治ったら、今度こそタダじゃおかないネ。 ぷりぷりと怒りながらも箸を止めない少女の様子を横目に微笑みながら、新八は手にした吸い物を口に運んだ。 「・・・うん。でもさ、僕にも少し判るよ。さんが離れて行っちゃうのが淋しいから、怒ったんじゃないのかなぁ。 あのひねくれた沖田さんにしては珍しく、さんとは素直に仲良くしてるみたいだし」 「まーな。銀ちゃんと同じで完全な片思いアルけどな。あくまであいつの片思いアル。の本命は私ネ!」 ふふん、と自慢げに鼻を鳴らして神楽が息巻く。 ・・・うーん。それ、たぶん違ってるんだけどなぁ。 宴席の端に座る男をちらっと眺め、再び刺身を食べ散らかし始めた少女を苦笑いで見つめた。 「どうするんだろうねさん。辞めちゃうのかなあ、真選組を」 独り言のように新八がつぶやいた、ちょうどその時。 彼等のすぐ横では、銀時がぼそりと小声で切り出していた。 「・・・おーい。土方くーん。当ててやろーか?今のてめーが、何を考えてやがるのか」 船盛りをつついて騒いでいる子供二人には聞こえないような、低めた声。 からかい半分に切り出したような、軽い声音ではあった。だが、尋ねられた土方の耳にちくっと刺さってくる含みもある。 畳を睨みつけていた視線が、逃げるように横へ逸れた。が宴席を出て行ってからずっと彼の存在を無視していた土方の、 初めての反応らしい反応だ。くすりと薄笑いを浮かべた銀時は、ようやく自分へと向けられた鋭い視線をぴたりと捉えた。 「ゴリの奴もたまにはやるじゃねえか。 てめえの胸クソ悪りぃ態度から察するに、あいつ、てめえを通さずに柳生と話進めてたんだろ?」 「・・・・・・・」 「いやー、そらぁ面白くねーわなぁ鬼の副長さんとしては。何でも手の内に置いとかねーと気が済まねえてめーのこった。 ま、何で俺に黙ってんだ畜生、九兵衛の奴まで抱き込んで俺だけ萱の外かよふざけんな、ってくれーには腹は立つわな」 「・・・勝手に決め込んでんじゃねえ」 「けどまぁ。あれだろ。お前よー、どっかでほっとしてんじゃねーの」 まっすぐに土方を眺め、訳知り顔で銀時が言い切る。 土方は何も異論を挟もうとしなかったが、微かに口端を下げた。一段と険しくなった視線を膳の上へ逸らし、無言で通す。 「九兵衛の様子を見る限り、柳生でのあの子の好遇は保証されたも同然だ。ここで円満に真選組から追い出しちまえば、 ムサ苦しい3K職場でを危険に晒すこたぁ二度となくなる。・・・なぁ、どーせそんなところだろ」 すらすらと言い募る銀時の言葉に、土方が尖った気配を鈍らせる。 杯を口に運ぶ手はわずかに止まりかけたが、土方は頑なに無言で通した。 ――そうだ。違っちゃいねえ。少なくとも外れちゃいねえ、こいつの指摘は。 そこそこに腹は立っている。総悟に手こずる近藤さんに、手を貸してやる気が起きねえ程度には。 だからといってムカつく馬鹿にわざわざ頷き、認めてやる気はどこにもねえが。 「おいおいィ。反論しねーってこたぁ図星かよ。そいつがのためだ、とか思ってんのマジで」 「当たり前ぇだ。これァうちの大将が決めた事だ。異存なんざ一つもねえよ」 「ははっ。面白味のねーツラの割には笑わせてくれんじゃねーか」 「笑わせやがるのはてめえだろーが」 「あァ?」 「笑うどころか薄気味が悪りぃぜ。常日頃、どこでばったり会おうと無視を決め込む奴が 人の腹ん中勝手に探った挙句に代弁までしようってんだ。まあ、こっちはてめえなんぞに探られたって痛くも痒くもねえが」 早口に言い切って杯を大きく傾けると、残りを一息に飲み干す。 間を置かずに酒を注ぎながら、土方は剣呑な目つきを銀時に向けた。 どこまでも邪魔な野郎だ。人が頭捻ってる最中に話しかけんな。気が逸れるじゃねえかこの野郎。 今日のてめえは完全に外野だ、好き勝手に呑んだくれてさっさと潰れやがれ。つーかさっさと帰りやがれ、俺の前から消え失せろ。 ・・・ったく、どいつもこいつも白々しくコナかけに出やがって。 九兵衛といいこいつといい、よっぽど人を焚きつけるのが好きと見える。 「そうかよ。てめえはそーやって知らん顔で突き離すってわけだ。・・・そんなら俺が貰っとくわ、」 独り言のような軽い調子で銀時は言った。隣の男に様子を伺うような視線を寄せ、口端を満足げな笑みに緩めた。 期待通りの反応だ。土方は目の色を変え、ぴたりとその手を止めていた。 「てめえんとこと柳生なんて堅苦しい二択で迫られたんじゃ、の荷が重いだろ。うちならその点気楽なもんだぜ。 それによー、知ってんだろ?うちにさっぱり分がねえ訳でもねーんだぜ。なにしろ俺、の命を救った恩人らしいからよー」 笑い混じりに出てきた「恩人」の一語には、やたらな気合いが籠められている。 土方が、はっ、と鼻先で嘲笑った。 「貰うだと?柳生の御曹司ならいざ知らず、貧乏人がよくも言えたもんだな。大風呂敷もいいところじゃねえか」 「そーかぁ?風呂敷持ってたって広げようともしねえ野郎よりはいいんじゃねーかぁ?」 「・・・てめえに何が出来るってえんだ」 「まぁな。俺にたいしたこたぁ出来やしねーよ。だがよー、今のてめえよかなんぼかマシだ」 行儀良く座っているのも面倒になってきたらしい。背中よりもやや後ろに手を突き、銀時は身体を倒し気味に姿勢を崩す。 さっき土方がしたのと同じように、フン、と鼻先で笑い、四季の花の蒔絵が施された天井を見上げながら口を開いた。 何の気負いも窺えない、だらりと気抜けした態度で、飄々と。 「九兵衛だっておたくのヒネた坊ちゃんだって、うちのガキどもだって判ってることだ。 てめえだけだぜ、判ってねーのは。要はあの子を真正面から受け止めてやれるかどうか。それだけだろ」 徐々に力が籠りつつあった指が、手の中の杯を潰しそうなほど固く握りしめる。 だんっ、と勢いよく杯を膳上にぶつけると、土方はたまりかねたように顔を上げた。 「お、ぁんだ、やんのかてめ」とからかい半分に構える銀時に、やや細めた、うんざりしきった目を向ける。 傍らに置いた刀を掴むと、横でにやついている男の視線を振り切るように立ち上がった。 「ぁんだテメ。図星刺されたもんで尻尾捲いて逃げんのかァ?」 「厠だ」 無愛想に言い捨てて障子戸に手を掛ける。 とそこへ、呑気に間延びした呼び声が飛んできた。 「おーい、トシぃぃ」 振り向いた彼を上座からにこにこと、機嫌良く見上げていたのは近藤だ。 片手を顔前に上げると、拝む仕草をしてみせた。 「悪い、厠のついでにを探してきてくれねえかぁ?九兵衛殿がな、あいつと何か話したいそうなんでな」 「・・・。あんたが行きゃあいいじゃねーか」 「いやぁ俺ァ駄目だ、呑み過ぎちまったようでなぁ。どーも足がふらついちまってよー。なっ、頼む」 上げたお銚子をひらひらと揺らしてみせると、ぱん、と顔の前で合掌する。 頼む、トシ。見るからに人の良さげな苦笑いで見上げ、軽く頭を下げた近藤にまたもや繰り返された。 ぎりっと奥歯を噛みしめた土方は、下げた頭の天辺を何か言いたげに睨みつける。 毎度のことだ。こうやって拝まれてしまえば最後、彼にはこの男の頼みを断る拒否権は一切なくなるのだ。 馬鹿らしい。そうなると知った上で拝み倒すこの人もこの人だ。だが、それを承知であっても断れねえ俺も俺だ。 「ああ。判った」 頷いた土方が、むっとした様子で部屋を出て行った。黒い隊服の背中が閉まった障子戸の向こうに消える。 速めな足音が遠くなっていくのを確かめてから、近藤はほっとしたように一息ついた。 肩を落として丸めた背中のあたりに、ちょっとした違和感があることに気付く。いつのまにか背筋が固まっていた。 ・・・いかんなぁ。どうも昔から、こういったこたぁ性に合わねえんだ俺は。 小さな溜め息を苦笑いとともに吐き出すと、胡坐を組んでいた足を行儀悪く崩した。 とはいえ仮にも自分はこの宴席の主賓。不作法を咎められかねない格好だが、出来るものならいっそ許しを請うて 肩をぶんぶん回したり首を大きく振ったりして、凝り固まった身体をほぐしたいくらいだ。 土方に沖田、そして。この三人の目がないうちに、一息ついておきたかったのだ。 あれが彼なりの正念場だった・・・とは、幸いなことに土方には気取られなかったらしい。 これでいい。俺の役目はここまでだ。少々荒療治になっちまった気もするが、・・・なぁに、後はあいつがどうにかするさ。 「・・・やれやれ。当分は御免だなぁ。やり慣れねえお節介は」 分厚く頑丈そうな手が、ボリボリと後ろ頭を掻く。 まるで誰かにこってりと叱られた直後の、ちょっと気落ちした子供のような面持ちで近藤はつぶやいた。 すると彼の膳の上に人影が落ち、置いてあったお銚子に女の手が添えられ、慣れた手つきですっと持ち上げた。 お?と何気なく見上げ、ぎょっとして近藤は目を丸くする。 「初めて見たわ。ただの水で足がふらつくほど酔っ払える人なんて」 そこに立っていたのは他ならぬお妙だ。 持ち上げたお銚子から漂う匂いを確かめると、ひんやりと凍てついた口調で感想を漏らす。 近藤の膳から取り上げた、冷えかけた熱燗。そこからは酒の匂いなど微塵も感じられない。 無論、それをさも旨そうに呑んでいた近藤からも。気まずそうにしている近藤をよそに、お妙はその場に腰を下ろした。 酒ならぬ微温湯入りのお銚子を差し出して「どうぞ」と勧めてくる。近藤はいっそうきまりが悪そうに大きな身体を縮めた。 はぁ、と恥入った様子で杯を手に取る。 空になっていた杯には、どれだけ呑もうと酔えるはずのない液体がなみなみと注がれていった。 「・・・すいませんお妙さん。さっきからお見苦しいところを。いやぁ、申し訳ない。うちはどいつも不作法者ばかりで」 「いいえ。日頃見せつけられているあなたの不作法に比べれば、まったく気になりませんから」 適所をぐさりと刺してくる針のような皮肉。 それもいつものことではあるのだが、なぜかこれが、何度やられても慣れはしない。 どうやら俺は懲りるということを知らねえようだ。・・・悲しいまでに。 引きつった笑いに口端を歪めた近藤が首を竦める。伏し目がちに膳の上を見つめながら、お妙は口を開いた。 「いいんですか。あの人たちの後を追ってあげなくても」 何の興味も無さそうな、素っ気ない口調でお妙に尋ねられてから数秒。 えっ、と驚き、驚いたままで間抜けに口を開けて固まっていた近藤の表情が、見る見るうちに嬉しさと感激で染まっていく。 今にもお妙の手を取り、両手でわしっと握りかねないくらいの勢いで迫った。 「心配してくださるんですか、うちの連中を!」 「あら、困ったわ。今のは通じなかったですか?私はあなたに今すぐ出て行ってほしいだけなんですけど」 「いやぁ〜、感激です!やっぱり優しいなぁお妙さんは!!」 「まぁ、何の皮肉かしら近藤さん。今夜は珍しくお口がお上手ですこと。そう、そんなに目ん玉刺されたいんですか」 これで、とにっこり笑って例の金串を振りかざされる。うっ、と近藤は青ざめた。 他の女性であったら別だが、これまでの経験からいって、この過激な脅しを単なる脅しで済ませないのが妙なのだ。 相変わらずな手厳しさにざざっと身体ごと引き、強張った大笑いでしどろもどろになりながらも、いやいや、と彼は手を振った。 「奴らのことなら何も心配いりませんよ?総悟はですね、結局いつもには逆らえんのです。 今は頭に血が昇っちゃいるが、そのうち冷える。夜中にはふてくされた顔して戻ってきます。だがまあ、トシは、・・・・」 そこで言葉を止めると、隙間から暗い庭園を覗かせている障子戸に目を向けた。 どこかさびしげな、困ったような苦笑を浮かべ、分厚いその手で後ろ頭を掻く。声を落として答えた。 「トシは怒っちゃいねえ。あれァ珍しく拗ねてるんでしょう。ただ、・・・俺に裏切られたとは思ってるんでしょうが」 「・・・副長さんも見縊られたものだわ。」 「は?」 「あなたに裏切られただなんて、あの人は死んでも思うはずがないのに」 膳の上を見据え、長い睫毛を深く伏せたお妙が澱みなく言い切る。 彼女の言葉に目を見張り、固唾を呑んでいる近藤。唖然を通り越して声もない男を前に、お妙はふいと視線を逸らした。 おかしな話だ。この男のことなど目の端にも入れたくないし、何一つ知りたいと思っていない。思ったこともない。 ところがそこだけは――あの土方や、この男を囲む大勢の男たちの熱の籠った心境については、清々しいまでに断言出来た。 ・・・判らない。何故そこまで言い切れるの。どうして私が、こんな迷惑な人のことを。 考え出すと腹の立ちそうな密かな発見については、頭の隅まで追い込んでさっと消し去る。 横目にじろりと、黙りこくった近藤を非難がましく見つめた。それでも唖然とした様子から抜け出せずにいた近藤は、 数秒経ってからふと我に返った。姿勢も表情も正して、口を横一文字に結ぶ。 憑き物が落ちた、だとか、目から鱗が落ちた、という表現がいかにもぴったりくる顔つきだ。 「そうか。・・・いやぁ、そうですなあ。仰るとおりだ」 うん、うん、と深く何度も頷き、口を大きく開けて、ははは、と笑う。 その表情は心の底から嬉しげで、感情を包み隠すということをしないおおらかな人間のそれだった。 喉に何かが詰まったような、なんとなく気まずそうな顔で、お妙はその場からじりっと膝を引く。 だが近藤はそんなお妙の様子に気づかない。後ずさった彼女に無邪気に詰め寄り、膝に手を突き、がばっと頭を下げた。 「ありがとうございます。やっぱりお妙さんは賢いだけでなく、本当に心根の優しい方だ」 「・・・なんですかそれ。薄気味が悪いです。それとも今のも皮肉ですか」 「は?いやいやとんでもない!今のはその、日頃から思っていたことをそのまま口にしたまでで・・・!」 焦った近藤は胡坐から正座に居住まいを正し、大真面目に彼女の目を見つめて言い切った。 悪戯をした子供が母親の小言を待ち受けているような、どこか居心地が悪そうな態度でもある。 お妙さんは本当に心根の優しい方だ。 あの言葉のどこにも嘘はないのだろう。心の底からそう思い、しかしそれを口に出した自分に少し照れてもいるのだ。 誰の目から見てもそう取れる、バカ正直な態度だった。 「・・・・・・・・。あなたのそういうところが嫌いです。バカにしてるわ」 「へ?」 眉根をわずかに寄せ、お妙はまっすぐに近藤を睨んだ。涼しげな瞳が一瞬だけ揺れる。 何かにたじろいで心の表面を揺らしたような、微かな躊躇の色が走った。 しかしそれはあまりに一瞬の変化。人並み外れて女心に疎い近藤には、どう頑張っても捉えきれるものではない。 近藤が目を丸くしているうちに、見逃したそのわずかな揺れは瞬く間に消えてしまう。 ふふっ、と乾ききった声でお妙が笑った。唇の端がゆっくりと、冷えた微笑に吊り上がっていく。 「そうですかわかりました、そんなに刺されたいんですか」 「ぇえ!?いぃぃっいやっ違っっ、違いますよお妙さんんん!?今のはバカにしてなんて!俺は心から褒めたつもりで!!」 顔を引きつらせ、大袈裟に腕を振って否定する近藤。 不意を突かれたお礼と嫌がらせを兼ねて、氷の笑顔でじっくりと彼を眺めつくすと、お妙はすっと席を立つ。 膳の上からお銚子を取り、新八たちの方へと向かっていった。 「え?あ。あのぉー。・・・・・・おっっ、お妙さぁあん?」 無言で背を向けられ、取り残された近藤は、へ、と気抜けした声を漏らした。 金串の十本程度は刺されるものと覚悟して、額に汗しながら構えていたのだ。 そんな彼の視線を背中に浴びながら、普段と全く変わりのない笑みをたたえたお妙は静々と新八たちの元へ向かう。 近藤は見開いた両目いっぱいに疑問を浮かべながら、離れて行くその立ち姿をまじまじと見送ったのだった。

「 片恋方程式。21 」 text by riliri Caramelization 2010/11/14/ -----------------------------------------------------------------------------------      next