「何だ、お前もいたアルか。地味すぎてわからなかったアル」 と、すれ違いざまに声を掛けられた。 左足ギブスの怪我人沖田を後ろに乗せてスケボーで廊下を爆走していたのは、真っ赤なチャイナ服の少女だ。 「あれっ。山崎くんじゃん。え、いつからいたの。ずっといたの?いやー地味すぎて気づかなかっ・・・ え、今帰ってきたの。あっそォ」 と、障子戸を開け放した客室からも声を掛けられた。 そこでドライバー片手に壊れた扇風機を修理しながら女中たちと談笑していたのは、怪しげな風体の銀髪の男。 そして、そんな彼等に出くわし、目をぱちくりさせて歩いているのが、任務を終えて戻ったばかりの真選組監察。 山崎退である。 「・・・今日は珍しいお客が来てるなぁ」 昼間は燦々と光を降り注いでいた太陽も街並みの向こうに沈みかけて、屯所の庭が薄紫色に深まった夕暮れ時。 彼が目指しているのは土方の部屋。今日の偵察任務で得てきた情報を報告するためだった。 現場の黒鉄組では、火急な報告を要するような異状はなかった。 さしあたって今日のところは、些細な打ち合わせを終えてしまえば任務は無事終了の予定だ。 まあ、その予定は予定なのだが。緊急事態に対処するのが本分な彼等おまわりさんの 職務性質上、一日の予定が決められた通りに運ぶことのほうが稀なわけで。山崎が実際に今日の夜を 気楽に過ごせるかどうかは、この先の副長室で紫煙を量産中の人遣いの荒い鬼に、急な任務を仰せつけられるか どうかにかかっている。それでも副長室へ向かう足は自然と軽くなった。人目がなければ スキップして鼻唄でも歌いたい気分だ。 黒鉄組での極秘の調査対象を明かされているのは、監察に身を置く奴の中でも自分ともう一人だけ。 そのためにここ二月ほどの山崎の任務内容は、そいつと交代で毎日黒鉄組に張り付いていることだった。 局長と副長に呼び出されて密令を受けて以来、休みはほとんどなかったのだ。朝から晩まで黒鉄組の門前を見張るか、 情報収集のために市中を飛び回るかの忙しない毎日。そのおかげで、屯所でゆっくり食事を取った覚えすらあまりない。 つまり彼にとって今夜は、随分と久しぶりの暇な夜。 多忙な任務を忘れて自由を謳歌できる、久しぶりのお気楽な楽しい夜なのである。 ・・・うーん、でもなァ。 忙しさに慣れちまったせいかなあ。暇な時間が出来るとなんだか変なかんじだよなァ。 自由なのが嬉しいようなさみしいような、物足りないような気楽なような。 いやまあ、そうは言っても、今日を逃したら次はいつ羽根伸ばせるかわかんねーし。 非番の奴らでも誘って呑みにいこうかな。あ、そーいえば。今日はさんも非番だって言ってたよなァ。 屯所のアイドルを囲んでの楽しい夜を頭に描き、にまにまと笑って夕空を眺めながら、副長室に辿り着く。 閉め切った障子戸の向こうには人の気配があった。山崎は廊下に膝を突き、普段通りの気楽そうな口調で声を掛けた。 「失礼しまーす。副長、今戻り――」 「副長さんなら留守だぜ」 即座に応えてきたその声は、土方の声色とは違っていた。 しかし屯所の連中のものでもない。どこか他で聞いた覚えもない。 はっとした山崎は表情を硬くする。ぱん、と部屋の障子戸を跳ね開けた。 彼が立った障子戸の前から部屋の奥まで。 どこにも足の踏み場がないほどに、副長室の中には、事件の調書や捜査資料が広げられていた。 その中央に、一人の男が胡坐で陣取っている。深くうつむいているその男は、 手にした捜査資料を熟読している最中らしい。 顔を上げることもなく軽く手だけを挙げて、ぼそっ、と小声の挨拶を投げかけてきた。 「あ、どーもォ。お邪魔してまーす」 「はぁ。・・・どーも」 緊張感の欠片もない、気の抜けた口調の挨拶だった。おかげでつい、つられて返事をしてしまった。 ・・・誰だこいつ。見覚えのない奴だ。山崎は目を点にした。 しかし男は悪びれた態度も見せず、畳に広げられた調書を手近なものから手に取り、次々と目を通していく。 「念のため確認しとくけど。あんた、ここの人だよな?」 「そういうあんたはどこの人ですか」 「どこの人、ねえ」 とつぶやき、考えているような間を置いてから、その男はようやく顔を上げた。 何の敵対心も警戒心も無さそうな気配。どちらかといえば間延びした、だるそうな気配が、男の周囲には漂っている。 いや、だからといって油断は禁物。どんな気配を振り撒いていようと、この男が怪しい侵入者であることに違いはない。 男を睨みつけた山崎は足を半歩引いた。腰をわずかに落として構えを取りながら、後ろ手に刀の鞘を探る。 「そうだなァ、昔はあんたらと同じ幕府の狗だったが、 今はどこにも附いちゃいねえな。まあ、強いて言えば・・・無所属の人?」 とぼけた口調で言いながら、男の手が何かを放つ。その何気ない動作の速さに驚いて山崎は息を止めた。 男の手から何かが放たれたのはわかった。だが、その放たれたものが何なのか、 彼の目ではその残像すら捉えられなかったのだ。 放たれたのは一矢のクナイ。鈍い鋼色が鋭く飛び、トスッ、と障子戸を穿つ。山崎の首筋を掠めて突き刺さった。 「悪いな。そーいうもんは向けねーでくれるか」 平然とした様子で笑って、男は告げた。 飛び込んできたクナイが起こした風圧が首筋を冷やし、肌がざっと粟立つ。 嫌な感触に背筋を固まらせた山崎は、近寄ってくる男の表情に固唾を呑んだ。 顔を半分覆うほど伸びた前髪の奥。そこにあるはずの見えない目が、自分を見つめて不気味な光を放った気がしたのだ。 「いや、違うよ?俺にはここの奴らと遣り合う気はねえんだ。だが俺の身体は違う。こいつは俺の意志とは別物だ。 だからそーいうやる気を向けられると、どーもいけねえ。この通り、手が勝手に反応しちまうんでね」 まるでお手玉で遊んでいるかのような気軽さでクナイを放り投げては受け止め、片手で易々と操りながら 山崎の目の前で立ち止まる。目を逸らせずに固まっている彼の顔を、顎髭を弄りながら覗きこんできた。 「ところで用件なんだが。今日は副長さんにひとこと伝えに来たんだがな、・・・どーやら留守らしいな。 あんた、行き先を知らないか?近場なら案内してくんね?」 「・・・・・。はぁ。居そうな場所に見当はつきますけどね」 「そうか、そいつは助かるな。早速だが――」 「お断りします」 強張った声は緊張を隠せていなかったが、それでも精一杯の薄笑いを浮かべて山崎は即答した。 「副長なら、俺を仕留めてから自分で探しに行ったらどうです。まあ、こっちもそう簡単に殺られる気はないけどさ。 ・・・それに。名前も名乗らない不審な侵入者に抜け抜けと応えるようじゃ、幕府の狗は務まらないしね」 「はは、それもそうだ。すまんね、まだ名乗ってなかったな」 乾いた笑い声をたてながら一歩下がると、男はクナイを腰のあたりにすっと収めた。 それでも警戒を緩めようとせず、山崎は今にも飛びかかりそうな目つきで彼を睨みつけている。 睨まれた男は頭を掻き、やれやれ、とでも言いたげな、困ったような顔で口端を歪めて笑った。 「服部全蔵だ。ここのとは昔馴染みでな。まぁ、以後宜しく」





片恋方程式。

16

――と、そんな遣り取りが自室で交わされていたなどとは露知らず。 それからしばらく経ってから、土方が部屋に戻ってきた。 手にはコンビニの袋が提げられている。どうやら煙草を切らして近所に買いに行ったらしい。 障子戸を開けてすぐに、畳に散らされた書類の海に目を見開き、ボトッと袋を落とす。 中からカートン買いした煙草が飛び出した。 畳を覆って部屋一面。攘夷浪士の手配書や事件調書、過去の捜査資料の波が入り口まで散乱し、押し寄せている。 誰もが目を見張るこの散らかしぶりは、留守の間に泥棒に入られたわけでもなければ、部屋の中で突然変異的に 小型の竜巻か何かが発生したからでもない。彼の留守中に天井裏から忍び込んだ、一人の忍者の仕業である。 しかし彼が驚いたのはそこではなかった。その書類の大半に落書きされた、大きな一筆書きの「○」と「×」に唖然としたのだ。 障子戸の前で苦笑いを浮かべていた山崎には目もくれず、土方は途方に暮れたような、 あっけにとられたような顔で部屋中を見渡した。踏み場の無い畳を怒りの目で睨みつけ、 「・・・ぁぁあっっっの野郎ォォォ・・・!」 紙一杯の大きなバツ印を墨で書き殴られた調書を畳から引っ掴む。 悔しげにギリギリと、歯噛みしながらそれを睨みつけた後は、散乱する紙片の中から バツ印が付けられたものだけを選び取り、不服そうな顔をしながらも黙々と拾い集め始める。 そんな土方を眺めていた山崎は、へえ、と感心したように目を見張った。 服部が山崎に託していった言付け。それは二つあった。 そのうちの一つがこの、部屋中に散乱した調書や手配書――の兄、白石千影の行方を追うため、 彼等が内密に進めている捜査の資料に、墨で大きく書かれた印だ。 これを印した本人は「まあ、あれだな、要は添削みてーなもんだな」と、笑い混じりに言い残し、事情を知らない山崎は その言葉を怪訝に思うだけだったのだが、まだそれを山崎から聞いてはいないというのに、土方は このふざけた置き土産の贈り主を見抜いているようだ。調書に印されたマルやバツにも、何らかの意味を見出したらしい。 出すぎた説明は無用そうだな。 そう判断した山崎は、足元から一枚の調書を持ち上げる。 バツを点けられたそれを土方に「一つ目はこれなんですけど」と示してみせた。 「つい数分前までここにいたんですけどねぇ。部屋中飛び回って、熱心に添削してましたよ。 何でもあの人が言うには、バツ印を点けてある奴等のアジトは既に調べがついてるから、捜査対象から外してくれ、と。 で、マル印が「残念、惜しい、もう少し頑張りましょう」だそうで」 ぴたっと手を止めた土方が山崎に振り向き、凄みを利かせた目つきで片眉を跳ね上がらせる。 「ァあ?ぁんだそりゃ。残念って何だ。 ふざけやがって、あっっの野郎ォォ。・・・人が寝る間も削って調べ進めてるってのに、何が頑張りましょうだ!?」 「い、いやァ、おおお、俺に言われてもぉぉぉぉ」 山崎は託された伝言をそのまま伝えただけ。だが、その些細な一言は、上司の負けず嫌い体質をしっかり刺激してしまったらしい。 強張る顔を大きなマルの書かれた手配書で隠し、怯えた山崎は心中で嘆いた。 嫌なとこに来ちまったなあ。あーあ、あの不機嫌の矛先がこっちに向くのだけは勘弁してほしいんだけど。 「そこは俺も訊いてみたんですけどねぇ。あの人、訊いてもニヤニヤ笑うだけで それ以上は一切教えてくれなくてですねー。いやー、食えない連中ですよねえ、忍者ってのは。 まあ、俺も任務としては似たようなことやってますけどね。どいつも腹の中が読めないっていうか、底が見えないっていうか」 「フン。何かととぼけて手の内晒そうとしねえのが、あの野郎の得意技だからな。 ・・・ったく。兄貴の行方なんざ見当もつかねーよーなような素振りでいやがったが、 こんだけしっかり目星がついてんじゃねーか。ここまで絞り込めてんなら、はぐらかさねえで洗いざらい教えろってんだ」 「ははは、まったくですよ。協力してくれるつもりなんだか、俺らの捜査を撹乱するつもりなんだか」 まあ、あの男はあの男で、さんやその兄貴を心配してるんだろうけどさ。 そこだけは信用してやってもいいかな。ああも易々と屯所に忍び込まれたんじゃ、監察としていい気はしないけどね。 このマルバツ添削のおかげで、俺の仕事も格段に減るわけだし。 そう思いながら、手配書の攘夷浪士を何気なく眺めていると、土方が書類の束で、パン、と軽く畳を殴った。 ・・・まだ虫の居所の収まりがつかないらしい。山崎は愛想笑いをひきつらせた。 「で。二つ目は何だ」 「ああ、はい。それが―― 二日前らしいんですが。さんの兄貴らしき奴が、幕府のチャーター便で入国したかもしれないと」 閉めた障子戸をちらりと見遣り、暮れかけて影の落ちた廊下に人の気配がないことを確認する。 それから土方へと寄ると、声音を潜めて続けた。 「別件でターミナルを張ってた、あの人の仕事仲間からの情報だそうなんですけどね。なんでも そのチャーター便ってのが、東雲財団が外交と技術支援のために送り出してる、医療系の科学技師団らしいんです。 で、要人専用の到着ロビーで目撃された技師団の一員に、その白石って奴に酷似した背格好の奴がいたとかで」 険しくなった表情で山崎を見据えていた土方は、黙って畳に散乱する調書に目を落とした。 何か思い浮かべているような目つきで考え込んでから、声を低く静めてつぶやく。 「幕府絡みで派遣された東雲の技師団、か。行方不明の研究者を紛れさせておくにはうってつけじゃねえか」 「はい。ただ、ほんの一瞬の目撃で、確証はないとは言ってましたがね。あの服部って人には何かひっかかるもんがあるらしくて。 向こうから接触してくるかもしれないから、念のため、さんから目を離さないようにしてくれ、と」 「・・・・・・」 「副長、どうしましょうか。俺らが交替でさんに付きますか」 「・・・となると、あいつも黒鉄組の見張りに回すしかねえな」 「ええ。まあ、あちらさんは今のところ、動く気配もなさそうですしね。例の奴も相変わらずですし、 あそこには俺たち以外にも見張りの奴らがいますから。もし兄貴が接触してきても、大事には至らないかと」 「ああ。――そこはひとまず保留だ。明日ぁとりあえず俺が見ておく。お前らは予定通り動け」 はい、と山崎が頷いて返すと、土方はふたたび手を動かし始めた。 散らかった室内をぐるりと見回していた山崎は、ふと一点に目を留める。 襖戸の手前まで歩いて、そこで資料に埋もれかけていた一枚の写真の前で膝をついた。 内密に進めているこの捜査の対象を写した、たった一枚きりの写真。 接待ゴルフ五回目でホールインワンを出した松平が、行きつけのクラブで機嫌良く呑んでいるところを 今にも土下座せんばかりな低姿勢で泣き落とした近藤が、ようやく手に入れてきた代物だ。 数年前に撮られたこの写真は、松平の手許にあった唯一の白石家の家族写真。撮影された場所は古い道場の前。 木刀を携えた厳めしい表情の父親。そのすぐ隣で屈託なく笑う娘は、さっき山崎が廊下で会った少女と同じ年頃で、道着姿だ。 そして、その二人から少し離れて佇む細身の男。 少年ぽさの残ったその体躯や、どこか翳りのある微笑をたたえた顔は、こうして見る限りは今の沖田と同世代にしか見えない。 これが例の白石千影だ。 重なった書類を掻き分けて写真を手に取った山崎は、首を傾げ気味にしげしげとその男を見つめた。 いやあ、局長室に呼ばれてこれを出された時には、さすがに驚かされたよ。 さんの兄貴が行方不明で、その背後にはあの東雲科研や過激派攘夷浪士の組織がちらついてるってんだからなぁ。 ・・・それにしたってさあ。おかしな話だよなァ。 どうしてだ?どうしてあの服部って男は、その兄貴がさんに会いにくるかもしれないなんて思ってるんだろう。 だってその兄貴は、自分から家を飛び出したんだろ。 普通さあ、家を飛び出した奴って、後ろめたくって家族には会いたがらないもんだよな? しかもその兄貴とさんの場合、普通の家出人とその家族よりも、事情はさらに複雑だ。 町道場の後継ぎ娘に過ぎなかった頃ならともかく、さんは今や真選組の隊士。 一方兄貴は、過激派攘夷浪士の一派に関わってる疑いがある。そんな奴が、警察に身を置いた妹に会いたがるもんなのか? それにさぁ。どうも妙じゃないか。そいつとさんは、どっちかといえばぎこちない間柄の義理の兄妹なんだろう? まあ、いくら疎遠だったとしても、妹が家を出たと耳に挟めば、その行方を気にするのが兄妹ってもんかもしれないけどさ。 だけど、・・・これは俺の思いすごしなのかなぁ。 あの服部って男の言い草は、明らかに義理の兄貴がさんの今の居所を知っていて、 おそらくはさんの前に現れる。そうなると踏んでいるようにしか聞こえなかったんだよなぁ。 「・・・うーん」 「ああ?何だ。まだ他に何かあんのか」 「いえ、伝言はそれだけです。ああ、マルは俺が集めますよ」 おう、と愛想なく返した土方に背を向けて膝を折り、書類を拾い集めながら山崎は肩を竦める。 ・・・・・・・やっぱり食えない連中だよ、忍者ってのは。 あの服部って男も例に漏れずだ。 つまりあの男は、俺たちがまだ知り得ない情報を隠しているんだ。 その情報を元に、確信してるんだ。行方不明の兄貴が、何がしかの理由でさんに会いたがっている、って。 もしくは何か、まったく別の理由から、その「白石千影」の動きを警戒してる。・・・そんなところか? 俺が気づくくらいだ、副長もそこには気づいてるんだろうけど。 そのへんどう見てるんだろ、この人は。気になった山崎は、ほんの一瞬だけ背後を振り向く。 集めた書類を順番に揃え直している土方の横顔に、さりげなく目線を向けた。 ・・・うーん。わかんないなァ。感情が顔に出るほうじゃないからなぁ、この人。ここは遠回しに探りを入れてみるか。 「まあ、でも、あれですねえ。依頼を断ったってわりにはあの忍者、意外と親切じゃないですか。 情報は報せてくれるし、こうして狙い目な組織を絞り込むヒントもくれるし」 そこで、チッ、と苛立った舌打ちが鳴った。 はっとした山崎が息を詰めて固まり、部屋の中が水を打ったように静まる。 室内には自分を含めて二人だけ。今の舌打ちが誰の口から出たものなのかを辿るまでもない。 ・・・うわぁ、しまったあァ。やべーよ、ますます不機嫌になってるよォォォ。 一歩後ずさってたじろぐ山崎に背を向けたまま、土方は畳にぼそっと低い声を落とした。 「フン。それだけ俺を急かしてえんだろ」 「せ、急かすって、その、早くさんの兄貴の調べを進めろってこと、・・・ですか?」 「ああ。こーやってたまに発破かけにきやがる。あれァ、暗に俺を追い立てに来てんだ」 そう言いながら土方の手が止まる。 荒い仕草で胡坐で畳にどかっと腰を下ろすと、頭の横まで振り上げたバツ印の紙束を、パシッ、と畳に叩きつけた。 「何の腹積もりがあるかは知らねえが。あいつは俺たちが予測しうるよりも、さらに先の事態を見越してやがるはずだ。 ここでモタつかれるような猶予はねえ。さっさとケツまくって追いついて来い。・・・言いやしねーが、そんなとこだろ」 「はぁ。すんません。俺らも手は尽くしてるつもりなんですが・・・」 へらっと笑って頭を掻きつつ、山崎は答えた。 いや、手を尽くしてるのは俺たち監察だけじゃない。局長といい副長といい、この件に関わる誰一人として、 呑気に手をこまねいてるわけじゃない。この人なんてその最たるもんだ。 だいたい副長が、こうもおおっぴらに資料を広げて目を通せる時間は限られている。任務を終えて戻った深夜と、 さんがここに出入りしない非番の日だけ。この人はさんの非番のたびに、一日中屯所に籠りっ放しで あくせくと調べを進めている。だけど、早急に調べを進めるべき事件は他にも続々と、矢の雨のように飛び込んでくる。 その矢の出処すべてに目を向けて、事件の全体を把握して然るべき立場のこの人が、一隊士の個人的な事情に かかりっきり、というわけにはいかない。江戸にいるかどうかすら掴めていない行方不明者の調べが 思うようにはかどらなくたって、当然と言えば当然なんだけどさ。 ・・・副長的には、当然だって胡坐をかいてるよーな気分にはなれないよな。 ことはさんの身に降りかかってくるんだ。あの服部って奴の催促に追いつけない現状を、不甲斐無く思ってるに違いない。 むっとして口端をひん曲げながら書類をかき集めている、いつも冷然としているはずの上司の横顔を、 一瞬だけ目の端で盗み見る。思わずぷっと吹き出しそうになった山崎は、背中を丸めて笑いをこらえた。 あーあぁ、あからさまに悔しそうな顔しちゃって。 こういう時の自分がどんだけ感情剥き出しな顔してるのか、わかってんのかなァこの人は。 さんのこととなるといつもこうだよ。鬼の副長の威厳も何もあったもんじゃないんだから。 「おい」 「はい?」 「お前今笑っただろ。ぁんだ今の「ふっ」てのは」 「は!?いっ、いやあ、気のせいですって、気のせい!!」 引きつり気味な笑顔で場を濁し、そそくさと書類を集めながら山崎は話題を変えた。 「ところで副長、根を詰めすぎだとは言いませんけどね。 もう夕方ですよ。屯所にいる時くらいは、普通の時間に晩メシ食ったらどうですか」 「ああ。後で行く」 「後で、じゃなくて今ですよ、今。どーせ昨日もろくに寝てないんでしょ? せめて食事くらい規則正しく摂ってくださいよ。このままじゃいつか倒れますって」 それでなくても不健康なんですから、あんたの食生活は。 …と言えば「俺の食生活のどこが不健康だってんだ」と不満げに切り返されるのは目に見えているので、口にはしないが。 山崎は文机に置かれたコンビニの袋から覗いている特大マヨネーズの赤い蓋を、醒めた半目で眺めた。 「こいつを片付け終えたら行く。お前は先に行っとけ。俺ァ別段腹も減ってねえしな」 「へーえ。いーんですかねえ、そんなに呑気に構えてて」 「あァ?ぁんだその口調、何が「いーんですかねえ」だ。あんまりすっとぼけた口叩いってっと蹴り出すぞ」 「いやぁ〜、さっきそこで会ったんですよねえ。万事屋の旦那に」 「・・・・・・・・・・・・・・」 「珍しいこともあるもんですねえ、旦那が屯所まで来るなんて。 あれはさんに会いに来たんじゃないかなぁ。旦那がうちに潜り込むよーな理由なんて、他にないもんなー」 「・・・・・おい」 「はい?」 返事と同時に振り向くと、土方の手は宙を掴んで止まっていた。 少し眉を顰めた複雑そうな表情で畳を睨んでいる。 「まだ居やがるのか、あの野郎」 「あれっ。まだ、ってことは、副長も会ったんですか、旦那に」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 「いやー、いいのかなー。あれ、放っといていいのかなー。あのぐーたらな旦那が、さんにだけは積極的だしなー。 今頃は食堂で並んでメシでも食ってるんじゃないのかなー。いやいやぁ、メシ食うのもそっちのけで口説いてたりして」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 「あれで案外と女に手が早いんですかねぇー、旦那って。さんも旦那に懐いてるしなァ。あー、そーいやぁ、この前も 万事屋に遊びに行ったって言ってたなー。旦那とチャイナ娘と一緒に夕飯食った、って、楽しそうに話してたよなー」 と、細めた目を愉快そうにニヤつかせながら焚きつける。 口籠った土方の気配がジリジリと焦りを増していく。 手にした紙束は今にも握り潰されそうだし、表情がどんどん固まっているのにも気づいていたが、そこは見て見ないフリをした。 「・・・あんな奴のこたぁどーでもいい。おい、いーからお前、もう行け。先に食ってこい」 「ダメですって。さんの身辺にも目を配っとかなきゃなんないって時に、あんたに倒れられちゃかないませんよ。 ほらほら、これは後でもいいじゃないですか。行きましょうって食堂に!マルとバツを分けるくらいのことなら、 俺だって手伝えますからぁ」 「うっせえ。ぐだぐだぬかしてねーでてめーだけ行って来い。俺ァ行きたかねえんだよ」 「あれっ。何か食堂に行きたくない理由でもあるんですかぁ、副長」 「はぁ!?ぁに言ってんだテメ。ねーよ。あるわけねーだろ! ・・・っておい、山崎っ。何やって・・・てめっ、こらっ、押すな、つーか引っ張んな!何を勝手に」 あからさまに動揺して怒鳴り散らす土方の腕を掴んで引っ張り上げ、動きたがらない背中を押し。 障子戸を開けた山崎は、渋る副長を廊下に押し出す。へらっと軟弱そうな笑いを浮かべてはいるが、態度は珍しく強気だった。 「はいはい、いーから行きましょーって。早く行かないと旦那にとられちゃいますよー、さんの隣の席」 「おっっ。俺ァ別に!あいつがどーだろーと関係ね・・・ってオイっっ、押すなって言ってんだろ、聞いてんのかコルァ!!」 「はいはい」と、小馬鹿にしたようなぬるい笑顔で憤慨する男を宥めすかし、その背中をグイグイ押しながら、 山崎は強引に副長室を出た。傍目には呑気そうな笑顔である。しかし内心では、ちょっとがっかりしていたりもするのだった。 あーあァ。何やってんだか。 これで久しぶりの楽しい夜が消えたよ。 ・・・どうしてこう間が悪いのかなあ、俺って。 いや、まあ。今のは見て見ないフリして、さっさとここから出て行けば済む話だったんだけどさぁ。 たまにぽろりと発揮してしまう、生まれついてのお人良し気質。 そして、本人の意思とはまったく無関係に、しかもたまにどころかちょくちょく発動されてしまう、 この生まれついての運の悪さ。 我が身に与えられた天分の両方を苦笑いで嘆きながら、山崎は嫌がる土方の背中を押して食堂に向かった。

「 片恋方程式。16 」 text by riliri Caramelization 2010/08/07/ -----------------------------------------------------------------------------------           next