片恋方程式。 15
少し歩けば屯所前に通じる、車が絶えない大通り。 その路肩で待っていた車から、ミツバさんの姿を認めた運転手さんが降りてきた。 真っ黒に艶光りする立派な車だ。 運転手付きの車なんて、総悟の仕送りだけで賄えるのかな。 不思議に思いながら見ているうちに、運転手さんがドアを開ける。軽い会釈で微笑んだミツバさんは 慣れた仕草で後部座席へ乗り込んだ。 「送ってくださってありがとう。ごめんなさいね、いろいろと心配させてしまって」 「そんな。あたし、何も、・・・あ、そうだ」 「はい?」 「ミツバさん。あの、さっきのハンカチなんですけど、・・・」 洗って返せばいいのかな。それとも、新しいのを買って返した方がいいんだろうか。 どうしようかと迷いながら、開けられた窓越しに話しかけると、ミツバさんがぱちり、と大きく目を瞬かせた。 「まあ。嬉しい」 「え?」 表情を明るくほころばせながらこっちへ寄ってきて、開いたガラスの上辺に手を添える。 傾げた笑顔をのぞかせて言った。 「私の名前、覚えてくれたのね。ふふっ、嬉しい」 「・・・・そんな。だって。総悟の、・・・総悟くんの、お姉さんですから」 「私ね、月に一度、ターミナル近くの大学病院に通っているの。 だから、もしさんが良かったら・・・またいつか、私と会ってくださる?ハンカチはその時に、ね」 そのうちに屯所に伺うつもりだったの。その時にお会い出来るといいんだけれど。 嬉しそうに笑って、車が走り出して離れても手を振っていた姿は、あっという間に見えなくなった。 歩道から手を振り返していたあたしは、車が見えなくなっても同じ場所で立ち尽くしていた。 しばらく経ってからようやく屯所の方へ振り返る。ふぅ、と肩を落として息をついて、 自分の影を落とした歩道のアスファルトを見つめながら、気抜けした気分で歩き始めた。 なんだか拍子抜けだ。 もしもあのひとに会うことがあったら、もっと嫉妬したり、張り合いたくなったりするのかと思ってた。 だけど、実際に会ってみたらぜんぜん違った。 あのひとと居ると、そんなみじめな気分に浸れる気がしない。あのひとが向けてくるのは全部、あたしへの好意。 総悟の手紙を通して知ったあたしのことを、・・・会ってもいないあたしに、あんなに好意を持ってくれて。 打ち解けた態度で接してくれたり、濡らした着物を気遣ってくれたり。喋りかける表情も、 見つめるまなざしも、まるで本当のきょうだいみたいな、掛け値なしの愛情や優しさで一杯なんだもの。 重い足を一歩ずつ引きずりながら、物思いに耽りながら歩いた。 揺れている自分の振り袖の袂にふと気づいて、じっと見下ろす。 ひんやりしていて柔らかかった。 今はあたしの袂に入っている、あの白いハンカチも。ミツバさんの手も。 ミツバさんの袂から匂ったのと同じ、石鹸みたいなほのかで懐かしい香りがした。 「あーあ。やんなっちゃうなぁ。もう、・・・・・」 ミツバさんがもっといやなひとならよかったのに。 そうも思ったけれど。・・・わかってる。そんなのありえない。そんなはずがないんだ。 あのひとがいやなひとのはずがない。たとえ会ったことがなくても、そんなことは疑いようがなかった。 総悟を一人で育てたひとだもの。もてるだけに女のひとを見る目も厳しい、あの土方さんが選んだひとだもの。 きっと素敵なひとなんだ。立派な女性に決まってる。 でも。疑いようがないって判っていても、それでもあたしは。・・・まだ、どこかでいじましく期待していたんだ。 実際に会って話してみたら、それほど素敵なひとじゃないかもしれない。 思ったほどのひとじゃないよね、このひと。なーんだ、って、・・・心の底で意地悪くつぶやけるんじゃないかって。 自分の浅ましさが嫌になる。 妬んだりできないよ。あんなに素敵な、愛情いっぱいな優しいひとを。 かなわないよ。 たった一人の家族と離れていてもさみしくないなんて笑える、強いひとには。 だってあたしは言えない。義父さんと兄さんに会えなくてもさみしくないなんて、どんなに強がっても言えない。 そう口にしたときに自然とこぼれた、ミツバさんの曇りの無い笑顔だって、家族と離れたさみしさを 今でも乗り越えられずにいるあたしには真似できそうにない。 あれはたぶん、心からの笑顔だ。 胸に抱えたさみしさを隠すために、咄嗟に装った強がりなんかじゃなくて。 ・・・そんなひとだから。身体はあんなにか細いけれど、見た目以上に凛とした、芯の強いひとだから。 だから土方さんは、ミツバさんに惹かれたのかな。 今でもずっと、一途にあのひと一人だけを。忘れずに思いつづけているのかな。 とりとめなく考えながら歩いていると、道程はすごく近くなる。 いつのまにかあたしの足は、屯所のほんの少し先まで辿り着いていた。 正門はもう目の前、ほんの数十メートル先だ。 門前に見張りで立っている二人の隊士は九番隊の人たち。 あたしの姿に気付いた片方の人が軽く手を挙げている。こちらからも手を振って応えた。 それから足を止めて。足元から伸びる長い影を見つめながら、浮かんだ答えを口にした。 「・・・・・うん。・・・そうだよね。だめだよね、やっぱり。」 ――うん。そうだよ。これはいい機会なのかも。 ここで思い切ろう。ここまでにしよう。もうそろそろ終わりにしよう。 これからもずっと、真選組で働くためにも。自分のためにもそうしたほうがいいんだ。 あたしは今から少しずつ、あのひとをあきらめる準備をしておいたほうがいい。 もう涙が枯れちゃうくらいに泣いたもん。育ち過ぎたこの片思いも、少しずつ枯らしていくんだ。 そうやって少しずつ、少しずつ。時間をかけて、あのひとをあきらめる準備をする。 ・・・だって。これは負け惜しみや言い訳じゃないけど、実際会って話したらわかったもん。 少なくともミツバさんは、「バカ女」のあたしより、ずっと土方さんの隣がふさわしい。 だって、あのひとの立場を気遣って屯所に姿を見せないなんて・・・そんなの、あたしだったらさみしくて我慢できないよ。 ああいう奥ゆかしくて慎み深いひとなら、あのひとを怒らせることもないんだろうな。 一日一度は日課のよーに鉄拳制裁で、バカなこと口走ってガツンと殴られて目から火花が散る、とか、 絶句するほど呆れられたりとか、バカにされてからかわれたりとか、「ガキかお前は」って鼻で笑われて子供扱いされたりとか、 ・・・・・・・・挙句の果てには素っ裸で飛びついて困らせたりとか、・・・・・・。 ・・・ミツバさんの慎み深さには程遠い。これじゃあ告白させてもらえずに玉砕したって当たり前だよ。 ああもう、なんであんなことしちゃったんだろ。 今でもあの瞬間の自分を思い出すと、いてもたってもいられないくらいの、顔が燃え上がりそーな恥ずかしさに襲われる。 意味なく「ぎゃーっ」と叫んでジタバタしたくなる。だけど仮にも真選組隊士が往来で奇声を上げて暴れるわけにもいかないから、 あたしは握り拳に血の気がなくなるくらいぎゅーっと力を籠めて我慢して、それからがっくりとうなだれた。 ・・・うぅぅ。バカみたいだ。てゆうかバカ確定だ。なんだか情けなくなってきた。 足元から屯所の方へ向かって伸びている、ひょろっと細長い灰色の影法師まで、こっちを見て笑ってる気がする。 本当にあたしって何なんだろう。 小菊姐さんはまだ望みがありそうな予言をしてくれたけど。実際は望みなんてどこにもなさそう。 自慢じゃないけど女扱いされたことなんて無いに等しいし、こんなあたしがあのひとの目に留まるはずない。 それどころかきっと、世界中の女のひとの中で、あのひとから真っ先に外される恋愛対象外第一候補。 うん。間違いないよ。そこだけは自信がある。・・・すっごく虚しい自信だけど。 じっと立ち竦んでいるうちに、色を濃くした陽射しのまぶしさに気付く。 振り向いて空を見上げると、そこには頭の上を横切っていくカラスたちの群れが。 みんな同じ方向へ向かって飛んでいく。その群れが目指す方向には、発光するオレンジ色の夕陽がぽつんと浮かんでいた。 もう夕方なんだ。この陽の傾き具合だと、夕御飯の時間を過ぎているのかもしれない。 「――そーだ。急ごう。急がないと。早く行かないと。もたもたしてると、おかずがなくなっちゃうじゃん。・・・」 急がなきゃ。 動きたがらない自分の足に言い聞かせるように、繰り返して何度もつぶやく。 屯所の夕飯時はちょっとしたサバイバル戦だ。もしかしたら一日で一番の激戦が起こる時間かもしれない。 一日の任務で疲れたみんなが腹ぺこで帰ってくるんだから、好きなおかずの奪い合いも日常茶飯事。 特大の炊飯器三つで炊かれる大量のご飯も、九時を過ぎればすっかり空になることも。だから、任務が詰まって 夕飯を食べはぐれた人は、三つの選択肢の中からその日の夕飯を決めて、自力で腹ぺこのお腹を宥めてあげるしかない。 その選択肢三つはというと、一つ目は外へ何かを食べに出かける。二つ目はお弁当とかファーストフードを買ってくる。 そして三つ目、そんなお金もままならないほど金欠で困ってる人の最終手段はというと、 ・・・食堂に備えられているカップラーメンを開けて、料理上手な調理場のおばさんたち特製の おふくろの味にありつけなかった虚しさをかみしめながら、トポトポとお湯を注ぐしかない。 (ちなみにあたしは今週、すでに二回もあのカップラーメンのお世話になっている) ・・・うん。そうだよ。さすがに三回目はいやだし、早く帰ろう。 食堂でみんなとご飯を食べて、総悟に刀を返して、一緒にゲームして・・・ そんなことを考えながら足を上げかけて、あれっ、と気づいて背後を振り向く。 こっちへ急接近してくる車の音が耳に入ったからだ。 その車は曲がり角から現れて、スピードをあまり落とすことなく迫ってきた。 きいっ、と耳に響くきつめのブレーキをかけ、あたしの真横に停車する。 ・・・どこの車だろう。ご近所に住んでる人の車でもなさそうだし。 一目で高級車だってわかる大きな車。下町の細い小路は絶対曲がれそうにない長さで、 窓ガラスはすべて遮光されていて中が見えない。たまに屯所を訪れる松平さまが運転手つきで乗りつける、 ボンネットの先にあの超有名エンブレムがついたピッカピカな車によく似てるけど・・・ うーん。高級車なんて見慣れてないしなあ。平隊士のお給料で細々と生活するあたしには、 こういう高価そうな車の違いがわからない。どれもよく似て見えるんだよね。 真っ黒な車窓を横目にちらりと確かめてから、もう一度屯所の門を見つめる。 えい、と思い切って、大きな一歩で踏み出した。 ――その時。車のドアが静かに開けられる気配と、背後に人が降り立った気配がした。 「――何か悩みがあるのなら。話してくれないかな」 後ろから声を掛けられ、キョロキョロと周りを見回して確認する。・・・半径5メートル、あたし以外に誰もいない。 振り向くと、停まった車の後部座席のドアが開いていた。 そこから降りてきたひとが、こっちを目指して向かってくる。 街並みに迫りつつあるオレンジ色の夕陽を背負って歩いてくる。その顔は影になっていてよく見えなかった。 「変わってないな、その仕草。何か悩んでいるときにはそうやって着物を掴む。昔からの君の癖だ」 そのまぶしい姿をぼんやりと見つめて、暗くて見えなかった顔をはっきりと見定めて。 あたしは手から力が抜けてしまって、預かってきた総悟の刀を落としそうになった。 いつのまにか掴んでいた着物の衿の合わせ目を、きゅっと握り締めていた。 「やっと会えたね。随分探したよ」 「・・・・・・・・・・、・・・うそ、・・・・・・・・」 その言葉も、その人の姿も、どちらもが信じられなくて、呆けた声でぽつりと漏らした。 総悟の刀を両手で握り締めながら、口の中でつぶやく。 うそ。だって。・・・・・・・・どうして、ここに? 「嘘じゃないよ。ずっと探していた。ずっと会いたかったんだ」 抑え気味な声で静かにそう言ったひとは、懐かしそうな目をしてあたしを見つめている。 ゆっくりとこっちに近づいてくる。 「―――うそ。・・・・・・・、どうして・・・?」 その姿をいくら見つめても夢見心地から醒めることがなくて、ぼうっとした頼りない声で繰り返す。 目の前に立ったそのひとは何も言わずに微笑んで、腰に提げられたものに手を掛ける。 無音ですらりと引き抜かれた薄い刀身。迷いなく振り上がった切っ先が、あたしの目先にぴたりと焦点を据えた。 薄紫がかった夕陽を纏って光る銀色と、瞬時に全身から立ち昇った気迫と、厳しい目線に囚われる。 この距離じゃ避けられない。 息を詰めながらあたしは唇を噛んだ。何か考える余裕もなく足が構えを取り、手は刀の柄を無意識に掴んでいる。 ばっ、と背後に払い捨てた刀の鞘が、硬い音を響かせて路上を打った。
「 片恋方程式。15 」 text by riliri Caramelization 2010/07/25/ ----------------------------------------------------------------------------------- next