「私ね。 以前江戸に出た時に、そーちゃんと歩いているさんを偶然に見掛けたことがあるの」 小さな鈴を震わせるような軽やかで楽しげな声で、そのひとは笑った。 蜂蜜みたいな色のさらさらした髪が、細い路地を抜けていく温い風にそよいだ。 明るい色をした澄んだ瞳が、にっこりと細められる。 汗が引いたばかりの白い肌は、暗い軒下にいても透き通って見えた。 あたしが副長室の写真で見たのは、たぶん、数年前のミツバさんだったんだろう。 今よりも背が小さな総悟の肩に手を置いて、微笑んでいた女の子。あたしとそう年の変わらなさそうな、髪の長い女の子だった。 あの姿と比べると、今、あたしの前で笑っているひとの身体は、格段に細くなっている。 写真ではふっくらして薄桃色に色づいていた頬も、顎も、今は痩せて頼りなげで。痛々しいくらいに儚げだった。 「そーちゃんがとっても楽しそうに話していたから、すぐにわかったわ。 ああ、いつも手紙に書いてある「さん」は、きっとこの方なんだって。・・・それでね。あの、・・・」 なぜか申し訳なさそうに、控え目な視線であたしを見上げて。 ほんの一呼吸ぶん、何か迷っているような間を置いてから、困ったような顔で微笑んだ。 「あの。実はね。・・・こんなことを打ち明けたら、さん、気を悪くされるかしら。 ・・・今日、私ね、本当はそーちゃんの顔を見に来たんだけれど。屯所の門前であなたが出てくるのを見たの。それで、つい―― いつもそーちゃんの手紙で、さんのことを聞いていたから、なんだか知らない人とは思えなくて。 ごめんなさい。あなたに会えたのが嬉しくって、こっそり後をついて歩いていたの」 ごめんなさいね。 済まなさそうに声音を落として、もう一度繰り返した。 あたしが黙ってかぶりを振ると、その表情が和んでいく。 少し硬くなっていた口許に微笑みが浮かび、ゆっくりと元の柔らかい表情に戻っていく。 「でもね。本当に楽しかった。まるで探偵さんになって尾行しているみたいで。 あなたが鍛冶屋さんから出てくるのを待っていた時も、少し離れて見失わないように歩いていた時も、 子供に戻っていたずらをしているみたいにドキドキしたの。さんには悪いけど、とっても楽しかったのよ?」 口許をハンカチで抑えながらくすくすと、思い出し笑いにたっぷり浸ってから、ミツバさんはこっちを見上げた。 華奢な手がしなやかに伸びてくる。 汗が伝っていたあたしの頬を、ハンカチでつつむようにふんわりと抑えた。 すぐには声も出ないくらいに驚いた。 返す言葉が見つからないくらいショックだった。 写真でしか見たことのないそのひと――沖田ミツバさんが、今、ここにいる。 打ち解けた間柄の友人に向けるような柔らかな表情で、あたしに笑いかけている。


片恋方程式。

14

「そーちゃんがね、毎月たくさん治療費を送金してくれてるんです。そのおかげで私、すこしずつ良くなってるみたいなの」 ・・・ぱさっ。ぱさっ。 「以前は発作を起こして入院してばかりいたから、こうして江戸の街を歩けるなんて本当に夢みたい」  ぱさっ。ぱさっ。ぱさ、ぱさっ。  「それでね、毎月のお金と一緒に手紙も送ってくれるの。 その手紙にね。ここ一年、必ずさんのことが書いてあるのよ。おかげで私、さんの好物まで覚えちゃった」 ぱさっ、ぱさっ、ぱさぱさっ、ぱさっ。 そのかすかな音が繰り返されるたびに、ミツバさんの手許に置かれた無色透明のあんみつのシロップが赤く染まる。 寒天や果物が浮かんで涼しげだったガラス鉢の中が、今や真っ赤な唐辛子の海。グツグツと沸騰しそーなマグマ色だ。 あんみつって。・・・甘さを楽しむためのものだよね。 ごくり、と息を飲んでガラス鉢に目を剥きながら、かなり真剣に考える。 あまりに自然に、さりげなく「マイ一味唐辛子」の小瓶を取り出し、上品かつ流れるような仕草で(しかも笑顔で) 真っ赤な粉をあんみつにドバドバと、惜しみなく投下し始めたミツバさんを見ていたら、 なんていうか、その、どう考えてもありえない錯覚に陥りそうになるんですけど。 『あれっ、あたしが間違ってる?あんみつに唐辛子、これって常識だっけ?最近流行の激辛トッピングだっけ?』 ・・・・・・いや。いやいやいや。間違ってない、間違ってない。どう考えても錯覚だ。 甘ぁーいあんみつに、見ているだけで口の中がヒリヒリ痛くなってくる激辛トッピング。・・・非常識以外の何物でもない。 「あ。・・・あのぉ。・・・」 「はい?」 「いえあの。ですからその。ええと・・・も、もうそのくらいにしておいたほうが」 「あら、何を?」 にっこりと笑顔で尋ね返されてしまい、たちまちに怯んだあたしは目を逸らす。 奢ってもらった冷やし汁粉の白玉をつつきながら「い、いえ、何でも」と、ゴニョゴニョっ、と口の中でつぶやいた。 ああ、辛(から)い。じゃなかった、辛(つら)い。なぜか、奇しくも、同じ字だけど、どっちも今のあたしにぴったり当てはまる。 この甘味屋(小菊姐さんと入ったばかりのあの店だ)の店員さんも、近くの席に座ってる人たちも 全員が全員こっちを見てる。全員が全員目を剥いて、ミツバさんの奇行に度肝を奪われてるんだもん。 理解を越えた怖ろしいものに怖れ戦いてるよーな不安そうな視線が、ビシバシと背中や顔に突き刺さってくる。 冷房が効いてて暑くもないのに、おでこは汗でダラダラだ。 「さんもいかが?こうするととっても美味しくなるの」 「は!?い、いえっっ、あたしは!!!・・・・・おっ、お気持ちだけで!」 「そう?残念ね、とっても美味しいのに・・・」 さっきの方たちにも教えてさしあげたんだけれど。辛いものはお嫌いだったみたいなの。 ひどく心を痛めたような表情で眉をひそめたミツバさんは、ひどく残念そうにとんでもないことをつぶやき ほとんど空になっている真っ赤なラベルの小瓶に蓋をすると、品良く揃えた指先で袂に押し戻した。 あはは、とあたしは顔を引きつらせて笑った。…胸の中で、さっきのチンピラ兄さん二人に心からの同情を送りながら。 「よかったら他のものも召し上がってね。助けていただいたお礼ですもの」 「は、はい、・・・」 しどろもどろに口籠って、目の前の冷やし汁粉のお椀と手に持っているスプーンの間で、視線をふらふら泳がせた。 ・・・・・どうしよう。 とりあえずどこかで休んだほうがいいと思って、屯所よりも近かったこの店まで戻ってきたんだけど。 向き合ってるだけで緊張しちゃう。どうしよう。ここはやっぱりあたしから話を振るべきだろーか。 だけど何を?まずは奢ってもらったお礼から?それとも総悟のことを話すとか?それともミツバさんのことを聞いたほうがいいの? 江戸にはよく来られるんですか、とか?江戸の夏は暑いからお身体に障りませんか、とか?それともそれともそれとも―― ・・・しーん。 あーでもないこーでもないと悩んでる間に、あたしたちが挟んで向き合ってるテーブルの上には微妙な沈黙が。 ミツバさんは微笑を口許にたたえながら真っ赤なあんみつの一口目を堪能してるけど、あたしは ――ああダメっっ。こーいうのダメ、耐えらんないっっっ。 「あっ。あのっ」 「はい?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、いえっ。なっ、何でも、ないんですっ」 ・・・あああああっ、わかんないよォォ!! もう目が回りそうだよ、会話の糸口がつかめない。ていいうか焦りすぎて頭が真っ白になりそう。 こういうときってどのへんから、当たり障りのない会話の糸口を引っ張ってくればいいの? それともあたしだけ?この何気なく続く沈黙が気になって気になって仕方ないのって、あたしだけなの!? と、ヤケになって白玉をパクパクと口に放り込んでいたら、ミツバさんがくすっ、と笑う。 顔を上げたあたしと目を合わせてにっこり微笑むと、先に口を開いた。 「近藤さんたちはお元気かしら。私ね、ずっとみなさんにお会いしていないの」 「はっ、はい。みんな元気です。あ、でも、この前は三人で。 総・・・そっ、総悟くん、と、近藤さんと。ひ――」 ばちゃっ。 だーっ、と熱いお茶がテーブルの真ん中に向かって広がっていく。 あたしはアゴが外れそうなくらい口をかぱーっと開いて絶句した。 「土方さん」と言おうとしただけで動揺してしまって、置いてあった茶碗に肘がぶつかって倒してしまったのだ。 「す・・・すみません!」 「まあ。大丈夫?火傷しなかった?」 お店のおしぼりを引っ掴み、こぼしたお茶をあわてふためきながら拭いていると、おっとりと声を掛けられた。 ミツバさんがこっちへ腕を伸ばす。訪問着の袖に軽く手を添えて抑えながら、自分のおしぼりをテーブルに広げた。 おしぼりに添えた手が、端からお茶を拭き取っていく。手慣れて無駄のない、女らしい手つきで動いていた。 あたしは思わずその手に――きちんと揃えられた細い指先に目を留めた。 「・・・あら。さん?」 「!ははは、はいっ!?」 「大変。着物の袖が」 「は・・・?」 目を丸くしたミツバさんに指され、右袖を見下ろして唖然とする。 腕を持ち上げたら、袂からぴちゃ、ぴちゃ、と、雨だれが。滴り落ちる水滴に目を見開いた。 気が動転していて気づかなかったけれど、お茶はあたしの手許にもこぼれていた。ちょうど袂が浸かってびしょびしょだ。 「・・・!」 絶句してあたしは口をパクパク震わせた。袖の次は目とほっぺたがびしょびしょになりそうだ。 零れたお茶をきっちり吸った白い花模様が、うっすらと緑色がかった花模様に変わっている。 な。泣きたい。これ高かったのに。まだ二回しか着てないのに。 偽勢丹でボーナス払いで衝動買いした着物が!これ一枚で普段着のプチプラ着物が三枚は買える、新品が!!! 「大変、しみになっちゃうわ。今すぐ洗ってきて?」 「い、いえ、いいんですっ、これはあの、・・・使い古した着物ですから!こっちを拭いてからで充分ですからっ」 大丈夫ですから、とおしぼりでゴシゴシとテーブルを擦りながら断る。けれど声はバカ正直に、しっかり半泣きになっていた。 ・・・バカ。あたしのバカあぁ。 何で意地なんか張ってんの。遠慮しないでお礼を言って、すぐに洗いに行けばいいじゃない。 しかも何が「使い古し」だよ、要らない見栄まで張っちゃって。 すみませんすみません、と泣きべそ顔で謝りながら拭いているうちに、二人分のおしぼりはびしょびしょになってしまった。 それでもまだテーブルの中央には、小さな水溜りが残っている。その水溜りに、ミツバさんは手にしたハンカチをすっと沿わせた。 白いハンカチに緑色がじわっと滲んでいく。あわててあたしは手を伸ばした。 「・・・やだ、ごめんなさい、ハンカチが・・・!」 「いいのよ、あわてないで?はい、これはさんが使ってね。そのままじゃ着物がしみになっちゃうわ」 「で、でも・・・」 手に乗せられたハンカチとミツバさんを順番に見つめておろおろしているうちに、 ミツバさんは着物の袂から淡い水色のハンカチを取り出していた。 両手で持ったそれを顔の前に出して、見て、とでも言いたげな目配せをこっちに寄越す。 「私、何でも用意がいいのが取り柄なの。だから気にしないで使って。ね?」 ちょっとだけ得意そうにミツバさんは言った。目尻を下げて細められた目が親しげに笑いかけてくる。 悪戯の成功を友達に自慢している小さな女の子みたい。子供っぽくて可愛らしいその表情は、 なんとなく総悟に似て見えた。あの子の悪戯に騙されて頬を膨らませたあたしを、可笑しそうに見つめるときの総悟の顔に。 「・・・すみません。ありがとうございます」 すっかりヘコんでしゅんとしながら、ぺこりと頭を下げる。 受け取ったハンカチを濡れた袂に当てて、ぽんぽん叩いて水気を拭った。 かなわない。素直にそう思った。 きっと見抜かれてるんだ。あたしがつまらない意地を張ってるのは。 テーブルの下で重ね合わせた手の中に、水気を吸ってふにゃっと萎れたハンカチが収まる。 気づかれないようにこっそりと、小さな溜め息をつきながらそれを見下ろした。 女らしさって、こういうところにも出るんだろうな。 ・・・あたしなんて、ハンカチ持ち忘れちゃう時だって多いのに。 「あ、そうだわ。さっきのお話の続き、聞かせて?」 「は、・・・・はい。」 ええと。さっきの話って、何を話そうとしてたんだっけ。 ――、あ、そうだ。この前の。総悟が怪我して帰ってきた日の話だ。 「ええと、総悟くんと、近藤さんと、・・・ふ。副長と。三人で、急に消えちゃって。 その日はケータイも繋がらなくて、一日中行方不明だったんですよ。何でもみんなで どこかの有名な道場に行ってきたとかで、・・・二人はたいしたことなかったけど、総悟はあんなことになっちゃって」 「あら。あんなことって?」 スプーンを口に運びながら、ミツバさんは涼やかな目を不思議そうに瞬かせた。 あれっ、と気づいて、言いかけた言葉を引っ込める。 ・・・もしかしたら。ミツバさんには知らせてないのかな。総悟が足を折って治療中で、毎日屯所に籠っていること。 ああ、でも。足を折ったなんて手紙に書いたら、病弱なお姉さんを心配させちゃうもんね。 そう思い直して、あわてて話題の方向を変えた。 「い、いえ、そっ、それで、夜中に、三人そろってボロボロになって帰ってきたんですけど。 男同士の秘密だ、とか何とか、よくわからないこと言ってて、・・・どこに行ってたのか誰も教えてくれないんです」 「そうなの。みんな相変わらず仲がいいのね。三人で何してたのかしらね、ふふっ」 男同士の秘密だなんて、なんだか子供みたい。 口許を手で覆って、ふふっ、と軽やかな笑い声を上げる。 それから「あ」とつぶやいて、何か思い出したような顔つきになる。入口の格子戸の上に掛けられた時計を見上げた。 「まぁ、もうこんな時間。大変、戻らないと。お迎えの車が来てしまうの」 「・・・えっ。もうお帰りになるんですか」 ええ、とミツバさんがほっそりした首を傾げて頷く。 手荷物の入った薄紫色の巾着袋を手前に置き、紐を解いて、中から財布を取り出しながら言った。 「今日は本当にありがとう。おかげでとっても楽しかった。 思いがけなくさんに会えて、お話も出来て。しかも助けていただくなんて思わなかったわ」 「いえ、・・・あたしは、そんな。」 次の言葉を言いかけて、口が急に重くなる。スプーンを握った手に力が籠っていく。 じわじわと追い詰めてくる嫌な気分を振り切って、あたしはくぐもった声を出した。 「・・・あの。一緒に屯所に行きませんか?少しだけでいいんです。 少しだけでもお姉さんに会えたら、きっと、・・・・。あの。総悟が。・・・喜びます」 自分から言い出したくせに、口が鈍って動かなくなるのが歯痒かった。 他の何よりも言いたくない言葉が、頭の隅にはっきりと、無視しようもなく浮かんでいて、 そのひとことがあたしの邪魔をする。息苦しく喉を詰まらせる。 『きっと喜びます。土方さんが。』 喜ばないはずがない。きっと喜ぶ。誰よりもあのひとが喜ぶだろう。 たぶん、土方さんが誰よりも会いたがっていたひとだ。 突然現れたミツバさんを目にしたら、すごく驚くんだろうな。・・・あたしの前ではそれを顔には出さないかもしれないけれど。 「いいのよ。今日はこのまま帰ります」 ゆったりした動作で立ち上がったミツバさんが、小首を傾げて穏やかに微笑む。 その表情に、心残りはなさそうだった。 「男の子ってみんなそうなのかもしれないけれど、そーちゃんておかしなところを気にするから。 私が屯所まで来て図々しくあなたに会ったって知ったら、どうしてそんなこと、って怒るかもしれないし」 「でも・・・」 「どうもありがとう。・・・でもね」 そう言いながら、この席の傍にある丸い飾り窓へと視線を流していく。 まぶしそうに細めた穏やかなまなざしで、ガラスを透した外の景色を見つめた。 「綺麗ね」 「え?」 「武州の空よりは狭いかもしれないけれど。この空だって素敵だわ。 江戸の空は一年中曇っていて汚い、なんて、そーちゃんは言ってたけど。私にはそうは思えない。 これがあの子が毎日見ている景色だと思っただけで、私には、・・・あの空も。この街も。どれも素敵に見えてくるの」 楽しげに話すミツバさんは、窓の外をずっと見つめていた。 とても温かな、お母さんが子供を見つめるような視線。優しくて愛しげな、大切な何かを見守っているひとの視線だった。 ガラスの向こうに広がっているのはありふれた景色だ。花街が近いだけあって、たまに黒髪を綺麗に結い上げたお姐さんが 艶やかに着飾った姿を見せる。それ以外は江戸ならどこでも見られそうな、あまり特徴のない夕景。 大型スーパーに客足を引かれてあまり賑わっていない商店街と、その通りを静かに、足早にすれ違う人たち。 道沿いに沿ってデコボコと、不揃いな高さで小さな店や住居が並ぶ。その上に広がる空はまだ青々としている。 もっと遠くの西の空には、茜色に染まった細長い雲がたなびいているけれど。 ・・・武州の空は、どんな青さで広がっているんだろう。江戸にしか住んだことのないあたしにはわからない。 「私ね。今日はあの子に会えなくてもいいの。ここに来た目的はもう果たしてしまったから」 「・・・?何か別のご用事が、あったんですか」 「いいえ。知人の紹介で治療してもらっている病院の帰りに寄っただけ。ご用事、なんてたいしたことは何もないの。 ・・・でも。今日はね。私にとっては、大冒険の一日なのよ。ずっとやってみたかったことを実現出来た、素敵な日なの」 窓に伸びた細い指先が、丸いガラスにふわりと触れた。 そんなミツバさんの姿を、吸い込まれるようにしてあたしは見ていた。 ミツバさんはガラスの向こうに、そこにあるひとつひとつを、丁寧に確かめているような目を向けている。 「本当はね。お医者様に止められているの。江戸は空気がよくないから、長い外出は控えるようにって。だけど。 だけどね、私、一度でいいから歩いてみたかった。そーちゃんたちが暮らしている街を。あの子が感じている空気を、・・・」 自分で感じてみたかったの。 かすかな声でつぶやいて。当てられていた指先が、ガラスをわずかに撫で下ろした。 「本当に夢みたいだわ。ずっと病院のベッドを離れられなかった私が、一人で、自分の足で江戸を歩いて、 自分の目で、そーちゃんの住む街を確かめられた。手紙の中でしか知らなかった人にも、こうして会えた」 そう言うと、ミツバさんはあたしに嬉しそうな目配せを送ってよこした。 「それだけで胸が一杯になるくらい満足なの。だからね。 そーちゃんには悪いけれど、あの子の顔が見れなくてもちっともさみしくないのよ。・・・それに。」 ふと声を途切れさせると、目線を空へ戻す。 ほんのわずかな間だけ、小首を傾げて、黙って何かを思いめぐらせた後で、可笑しそうに目を細めた。 総悟によく似たあの表情。笑っているのにどこか淋しげにもみえる、あの不思議な表情になった。 「あそこには、私が気楽に押しかけたら迷惑しちゃうひとがいるもの」 穏やかな声でひっそりと、独り言のようにミツバさんが言う。 何も言えずに見上げていたあたしに気づくと、澄んだ目でじっと見つめた。 「さん」 「・・・、はい」 「私が来たことはそーちゃん達にはないしょにしてね。そうだ、今日のことは女同士の秘密にしましょう。ね?」 唇の前に人差し指を立てて、いたずらっぽく目を細めたミツバさんが笑う。 約束よ。 鈴を震わすような、軽やかな響きの声でそう言うと、あたしの前に手を差し伸べた。 ちょん、と差し出された小指を見つめて、可笑しくなって頷いて。あたしはミツバさんと指切りをした。 他愛のない秘密を共有した、小さな女の子同士みたいに。 不思議なひとだ。 雰囲気も仕草も柔らかく整った、落ちついた大人の女性なのに。たたずまいがどこか少女っぽくて可愛らしい。 初めて会った人なのに、初めて会った気がしない。どうしてだろう。 涼やかに笑うあの瞳を見つめていると、心が自然とほぐれていく。 小さかった頃に仲良くしていた、ずっと会っていなかった幼馴染みに出会ったみたい。なぜか懐かしい気分になる。 その懐かしさの訳が、この年上のひとの不思議な可愛らしさや、総悟を思う温かい気持ちに親しみを覚えたあたしが、 いつのまにかこのひとに好意を持ってしまったからなのか。 そうでなければ、この儚げなひとの面影が、弟みたいに思っているあの生意気な子と重なって見えるからなのか。 それともあたしが、このひとを通して、あのひとの、――土方さんの気配を感じてしまうからなのか――。 魔法にかけられたようなその懐かしさの理由が、あたしには最後までわからなかった。

「 片恋方程式。14 」 text by riliri Caramelization 2010/07/20/ -----------------------------------------------------------------------------------           next