片恋方程式。

11

バサバサッ。 砂利道の足元を見つめながら、あたしはつくづく自分にがっかりしていた。 こうやって地面に這いつくばって拾い集めるのは、もう何度目になるんだろ。・・・三回目、いや。四回目かも。 腕一杯に積み上げて運んでいる資料ファイルは、表紙がやたらに滑りやすい。 ちょっと気を抜いて傾ければバサバサと落ちてしまう。 半分拾い終えたファイルを抱えて、ぺたんと地べたに座り込む。はあぁ、と、まっすぐに続く砂利道に散らかった 数の多さに肩を落とした。 古い事件の資料や勘定方の帳簿類、その他の事務的な書類なんかを収めている倉庫はとても遠い。屯所の敷地の端にある。 資料室がある本棟からはうんと離れている。道場や拷問部屋よりももっと奥だ。 左右を並木に挟まれた砂利道が延々と続いた先にある。本棟とは隔てられて建つ、離れの一番奥にあるのだ。 腕いっぱいのファイルを抱えたあたしはのろのろと、けれど慎重に、一歩ずつを踏みしめながら砂利道を歩いている。 離れの建物はまだ見えない。道のりはまだまだ遠い。せめて台車で運んでくれば、ここまで苦労しなかっただろう。 そんなことにも気づかないなんて。・・・やっぱりどうかしている。 「・・・・・・はぁー、・・・・・・」 深々とした溜め息をついて足を止め、空を見上げた。 梅雨時の江戸の空は、今日もどんよりと重い色をした雲の向こうに隠れている。青空の隙間さえ覗かせていない。 甘かった。三日かけてやっと整理が終わって、これですべて片付いたと思ったのに。 全部運びきるまでにあとどれくらいかかるだろう。 土方さんはどうしてるだろう。もう黒鉄組に着いたのかな。 近藤さんに話していた感じでは、現場で大きな動きがあったような気配はなかった。でも、帰りは夜中と言っていた。 黒鉄組以外にも、どこか他に寄るところがあるんだろうか。 そう言えばこの前も一人で夕方に出て行って、やっぱり帰りが遅かった。 もしも今日、土方さんが夜遅くに帰ってきて、あたしがまだファイル運びに苦戦していたら。 どんな顔をするだろう。やっぱり呆れるかな。「ちったァ頭使え、頭を!」って叱られそう。 もしかしたら、渋々で手伝ってくれるかもしれないけれど。 そこまで考えて、ふっと笑った。 可笑しかったんじゃない。自分がみじめに思えたからだ。 ずれてきたファイルを、ぎゅっと力を籠めて抱え直した。 危ないところだった。気を抜くとすぐにファイルが崩れる。気を抜くとすぐに泣きたくなる。 そんなはずがない。きっと、見ないふりで通り過ぎるのがいいところだ。 「落ちるな落ちるな」と唱えながら歩いていくうちに、離れの別棟がついに見えてきた。 客人用に広間や寝室を設けてある小造りな建物は、普段はまったくの無人。庭に面した雨戸は閉め切られている。 ここまで来たらゴールは目の前だ。ほっとしながらそろそろと一歩ずつ、足元の砂利を鳴らしながら歩く。 すると背後から、ザッ、ザッ、と大きく砂利を蹴散らして、下駄履きらしい足音が近づいてきた。 「さん。どうした、えらくヨタヨタ歩いてるじゃねえか」 「あ。原田さん、お疲れさまで、・・・」 挨拶にぺこっと頭を下げる。その途端に、バサバサッ、とファイルが滑って足元に落下。あたしは呆然と見下ろした。 ・・・もう落ちたのが何回目かなんて数える気にもなれない。 砂利の上に散らばったファイルを拾う気にすらなれずに立ち竦んだ。ブーツの足先に乗ってる灰色のファイルを じっと見下ろしていたら、・・・なんだかひどくささくれ立った、投げやりな笑いがこみあげてくる。 自分の間抜けさに呆れすぎたのかも。呆れを通り越したら、かえっておかしくなってきた。 袴をつけた稽古着姿の原田さんが、大股にこっちへ走ってくる。 さっき通り過ぎた道場の窓からは、掛け声と竹刀の音が響いていた。あの中で稽古していたんだろう。 「どれ、貸してみな。あんた一人じゃ大変だろう」 「あ、いえ、でも、・・・大丈夫です。倉庫までもうすぐですから」 「まあまあ、いいからいいから」 四方に散ったファイルを手早く拾い集めると、数冊だけあたしに手渡し、残りを抱えて原田さんは歩き出す。 いいのかな。うんと格上の十番隊隊長に、こんな雑用を手伝ってもらうなんて。 少し戸惑った。けれど、せっかくだからお言葉に甘えることにした。 ザッ、ザッ、と大股に砂利を踏み鳴らしていく足に、あたしも並んだ。 「なぁ。俺の気のせいかもしれんが。最近どうも、あんたは元気がねえように見えるんだが」 「え。・・・そう、ですか?」 「おぉ。ここへ来た頃に逆戻りだな。あの頃のあんたも、よくそんな顔して歩いてたよなぁ」 そう言った声には、どこか懐かしそうな響きがあった。 青々した葉を茂らせたモミジの木が並ぶ玄関前へ目を向けると、原田さんが先に歩き出す。あたしもその後を追った。 「日がな一日道場に張り付いて。幽霊みてえな血の気のねえ面して、黙って俺たちの稽古眺めてよォ。 いや、実はな。あれを最初にやられた時はなあ、ここまで無愛想で気味の悪い女がいたもんか、さっさと出てけ、 くれえには、どいつもこいつも言ってたんだがなあ」 「あはは、そう、ですよねぇ。・・・あの時は。ほんとにどうかしてたんですよね、あたし」 きっと稽古の邪魔になってたんだろうな。出てけって陰口叩かれても当然だ。 今さらだけれどなんだか申し訳なくて、困りながら笑い返した。 でも、今となっては、あの頃のこともほんの少しだけ懐かしい気がしてくるから不思議だ。 「それがなァ。・・・今じゃまるで逆だな。んなこと言った奴ァ、即吊るし上げ喰らうだろうよ」 横に追いついたあたしをちらっと確認すると、原田さんはもっと足を速めた。 ザッ、ザッ、と大きく砂利に踏み込んでいく。 「いや。その、なァ。事を詮索するつもりはねえんだが。・・・元気出せよ。 あんたが笑ってくれねーと、屯所は火が消えちまったみたいでいけねえよ」 気負いなく訥々とした口調で言いながら、原田さんは先を急いだ。 歩幅の違いが大きすぎて、あっという間に差が空いた。 元気出せよ。 そう励ましてくれた声が、まだ頭の中で鳴っている。 わざわざ道場から追いかけて来てくれたくらいだ、余程あたしを見兼ねたんだろう。 原田さんからこんな励ましを受けるのも、考えてみたら初めてな気がする。 じんわりと素直な嬉しさが湧いてきた。 でも、同時に、それだけ心配掛けてたんだ、と気づかされる。 ・・・そっか。もしかしたら。原田さんと同じ理由だったのかな。 近藤さんがたこ焼きを口実に、わざわざ資料室まできてくれたのも。 「っと。そういやぁ、鍵までは持ってねえなあ」 鍵はあるか、と聞かれて、走って玄関前に着いた。借りてきた鍵で玄関を開ける。 原田さんがガタつく扉を横に引き、薄暗い中に踏み込もうとする前に、あたしは声を掛けた。 「あの。・・・ありがとうございます、原田さん」 ぺこっと頭を下げると、原田さんは困った顔で口籠る。 スキンヘッドのおでこをぱしりと叩くと、まいったな、とボソボソと唸った。 「そうかしこまられるとなァ。いやいやァ、まいったな。そうじゃねえんだ」 「え?」 「俺ァどうも見ていられなくてよー。・・・いやー、あんたはさっぱり気づいてねえようだがな?」 そう言うとなぜか苦笑して、今来た砂利道へくるりと振り返った。 「あの影で、こそこそと気を揉んでるあの馬鹿どももなァ。つまるところがそう言いたいはずなんだがよー」 「・・・馬鹿ども?」 きょとんとして繰り返すと、原田さんが桜の木立に挟まれた道のずっと向こうを指す。 そこをじいっと見つめて、あたしは、あっ、と目を丸くした。 誰もいないはずの並木の合間に、人が隠れてる。それも一人二人じゃなくて、大勢が。 しかもなぜか、あたしと目が合った全員が一様にびっくりして、途端におろおろと慌てうろたえざわめき始めた。 ・・・「だるまさんが転んだ」の鬼でもやってる気分だ。 「・・・・・みんな、・・・・・・・・・どうして」 「へ!?どど、どーしてって、・・・いや、ち、違う、違うよ!?俺たちは別に、ちゃんを尾けてきたんじゃ! ただほらっ、資料運びが大変そうだったからよー、気になって!なっっ!?そーだよなお前らっ、なァ?」 「っっ、そっ、そうそうっ、さん一人じゃ、たっっ、大変そうだったから!なァ!!?」 「・・・でも。だって。・・・いったいいつから」 「いつからって、・・・・・いやぁ〜〜、そのっ、おっ、俺たちいっっ、暇だったからっ、なぁ!?」 そうそう、そうなんだよ!と、口々に賛同し、大慌てで頷いている数人が、桜の木蔭からこっちへやってくる。 しどろもどろになりながらも笑ってごまかそうとしてるみんなの顔は、どの人もどの人も微妙に赤い。 全員で十人近く、・・・じゃない。ここからは見えないだけで、実はもっといるみたいだ。 桜の幹や青葉の合間から、半分隠れるようにしてこっちを伺っている人たちの身体が見えている。 しかも、目の前で空々しく笑うみんなも、その人たちも、それぞれが腕に大荷物を抱えている。 全部、あたしがこれから離れに運ぶはずだった資料ファイルだ。 「・・・・・・・えぇえええ!?」 バサバサッッ。 驚きすぎてまたファイルが落ちた。確かこれで六回、・・・いやもうそんなことよりも。 目を丸くして叫んだら、原田さんがははは、と声を上げて笑う。 「そうそう、あんたはそうでないと。その調子だよ」と、ぱん、と肩を叩かれた。 ファイルは次から次へと運びこまれ、あっというまにすべてが倉庫に収められた。 こんなに早く終わったのは、桜並木に隠れていたみんなが協力してくれたおかげだ。 だけど・・・「ありがとうございます」と頭を下げても、どの人にも「いやいやいや!俺たちは別に!気にしないで!!」 と断られ、半分以上の人にはちゃんとお礼も言えないうちに逃げられてしまった。でも、そんな中で 逃げずに声を掛けてくれた人もいる。「元気出しなよ」とか「頑張って」とか、戻り際にぼそぼそっと 励ましてくれたり、「これ食べて」とお菓子をくれる人までいた。どの人も一様に照れくさそうで、 それ以上は何も言わなかったけど、あたしにはそれでようやくわかった。 あの「謎のお菓子たち」が、なぜあたしの前に積み上げられていたのかが。 倉庫の軽い整理を終えて玄関に戻ると、思ったとおりで誰もいなくなっていた。 人気のない静かな玄関で待っていてくれたのは、鈴蘭の花束だ。 花屋さんで見掛けるような、綺麗に包装されたブーケとかじゃなくて、一目でわかる素人の手作り。 淡い桃色の鈴蘭が紐で雑にグルグル束ねられて、ブーツの手前にぽつんと置かれている。 呑気に手に取って、可愛い、誰が置いていってくれたのかな、なんて思いながら眺めてるうちに その花がどこから来たのかについての心当たりにはっとする。つーっ、と、額を嫌ぁーーな汗が落ちていった。 鈴蘭にしてはあまり見掛けない、珍しい色だ。 だけどあたしはこの鈴蘭を毎朝庭で目にしている。たぶん、覚え違いでなければ。 ・・・いや、まさかね、違うよね。いやでもこれって。・・・女中頭の鬼河原さんが庭の隅で丹精してるアレじゃ、・・・・・・。 目を点にして花束を見つめるうちに、喉の奥にむず痒さがこみあげてきて。 「・・・・・・・・ふっ。ふふっ、っく、・・・・・もォっ、・・・っっ、あははははは!!」 駄目!もう駄目、我慢できない。可笑しくてたまらなくなって、お腹を折り曲げて爆笑する。 だって、これを持ってきてくれた人は、何も知らずにこれを切ったに違いない。 鬼河原さんの花だって知ってたら、屯所の人間は誰一人として手出ししないはず。 虫も殺しそうにないほっこり笑顔がトレードマークだけど、ある意味土方さん以上に畏れられてるお方なんだから。 「局長。わたくしの鈴蘭を御存知ありませんか」なんて鬼河原さんに笑顔で詰め寄られたら、きっと近藤さんは平身低頭で 「っとにすんませんんんんん!!」と謝り倒すに違いない。犯人でもないのに・・・! ああ可笑しい。笑いが止まんない。どうしよう、きっと明日は屯所に雷が落ちる。 後で謝りに行ったほうがいいかな。鈴蘭泥棒はあたしがヘコんでたせいなんです、って。 切った犯人が名乗り出なくて鬼河原さんにストライキでも起こされたら、それこそ屯所中が機能麻痺して大停電だ。 笑いすぎたらお腹が痛くなり、さらに息まで苦しくなり。それでもあたしはくくくくく、と床に突っ伏して笑い転げた。 ゆうに五分はそのまま笑い続けていたら、さすがに酸素不足で疲れてくる。はあああ、と、涙目を擦って起き上がり、 小さな花を爪先でちょん、と押してみた。 淡く色づいた花がゆらゆらと頭を傾げる。ちりん、と可愛い音が鳴りそう。 これを届けてくれた人の好意や、揺れる花の可憐さに顔をほころばせながら、ぼんやり思った。 こんなふうに花を眺めて「可愛い」なんて思えたのは、何日ぶりだろう。 ――だめだなあ。あたし。ダメダメだよあたし。 土方さんの態度ばっかり気にして、ヘコんじゃって、すっかり周りが見えなくなってた。 この花も。部屋の前に置かれてた花も。食堂で積んであったお菓子も、資料室のプリンも。 どれも全部、あたしの元気の無さを気にかけてくれた誰かの気持ちだったのに。 もう少しで、気づかないままで通り過ぎちゃうところだった。 貰った花束を顔の前まで寄せてみた。甘くて鮮やかな鈴蘭の香りが胸に詰まる。 ぎゅっと、潰れそうなくらい抱きしめて、目を閉じた。見ているだけで涙が出そうだ。 知らなかった。 あたしにはこんなに、様子を気に掛けてくれる人がいるんだ。 元気がないのを心配してくれる人がいるんだ。 最初は気味悪がられるだけの、屯所の嫌われ者だったはずなのに。 今は仲間として受け容れてくれて、見守ってくれる人がたくさんいる。 『あんたが笑ってくれねーと、屯所は火が消えちまったみたいでいけねえよ』 そう言ってくれた原田さんも、これを持ってきてくれたひとも。みんながそう思ってくれてるんだろうか。 だったらあたしはしっかりしないと。 早く元気にならないといけない。 土方さんに避けられてるからって、いつまでもぐずぐず泣いてる場合じゃないみたいだ。 一人で塞ぎこんでたあたしに、いろんな人がこんなに嬉しい気持ちをくれたんだから。 とても物や言葉だけじゃ返せそうにないよ。だから今すぐにでも、一秒でも早く立ち直らなくちゃ。 まだ自分のためには笑えなくてもいい。 今は、心配してくれるみんなのために笑おう。 みんながくれた嬉しさを噛み締めて、心の底から元気になって、いっぱい笑おう。少しでも早く元気になろう。 ――なんて、玄関先で涙ぐんでいたら。突然、頭の上から声が響いた。 「あーあァ。っとにうちの奴等ときたらどいつもこいつも、・・・本当、筋金入りの馬鹿どもだよ」 ムグムグと、口に何か詰まらせてるような声だ。 その声に驚いて顔を上げると、開いた玄関扉の前に山崎くんが。口いっぱいに何かを頬張っている。 いつからいたの、と目を見開いて訴えると、山崎くんは何かを出した。 「食べる?」とその手が差し出したのは、あたしがよく買いに行く鯛焼き屋さんの紙袋だ。 「ここで食べちゃってよ。ちょっと冷めてきたけど、まだ焼きたてだからさ」 「・・・うん、ありがと。ありがとう。・・・・・・・ねえ。山崎くん」 「うん?」 「あたし。・・・・・・みんなにどうやってお返ししたらいいのかな。 ・・・・・こんなに励ましてもらって、どうしたらいいのかわかんないくらい嬉しいのに」 どうしたら返せるんだろう。 こんなに嬉しい気持ちにさせられたら、ありがとうの気持ちはどうやって返したらいいんだろう。 たくさん貰いすぎちゃって、とても一度には返せそうにないのに。ああ。もう。どうしよう。みんなみんな、大好きだ。 鯛焼きの袋と山崎くんを交互に見つめていたら、いよいよ感極まってきた。 自分でもおかしいと思うけど、出された鯛焼きの袋を見てるだけで目が熱くなってくるから困ってしまう。 ところが山崎くんはそんなあたしに、実にけろっとした顔で即答した。 「いいんじゃない、何もしなくて」 「・・・山崎くん。少しは真剣に考えてくれてる?すっごい適当に答えてない?」 「いやいやぁ、ちゃんと考えてるよ?真剣に答えてるって」 そう言いながら残っていた鯛焼きの尻尾をぱくりと咥え、袋からもうひとつ出してあたしに渡す。 受け取った鯛焼きは狐色。尻尾と頭の端に焦げ目がついていて、あったかくて。 甘くて香ばしい、美味しそうな匂いがした。 「いーんだってお返しなんて。俺たちはね、毎日さんからいろいろ貰ってるんだからさ」 「・・・・・・・?」 「さっき原田の奴も言ってたでしょ。俺たちはさんが笑っててくれればそれでいいの。それだけで十分だよ」 「・・・山崎くん?いったいいつから、どこで見てたの」 訝しげな目でじいっと見るあたしにぎくっとして、山崎くんは「え?いやまあその」と目をきょろきょろと泳がせた。 「いやー、だからさ。っとに男なんて単純っていうか、馬鹿な生き物なんだよ。まぁ、俺も含めてだけどね?」 ややうろたえ気味に誤魔化しながら玄関先に腰を下ろし、袋の中をガサガサと探り出す。 どうやらさっき訊かれたことはまるでなかったことにしたいらしい。何食わぬ顔で二個目の鯛焼きをパクつき始めた。 「自分じゃ気づいてないのかもしれないけどさ。俺たちはみんな、さんに励まされてるんだよ」 「・・・・あたしに?」 「うん。どんなに大仕事が重なって、激務続きで全員がくたくたに疲れきってても、さんは会えばいつでも笑ってくれるでしょ。 屯所のどいつにでも分け隔てなく、会えば必ず、誰にでも「お疲れさまです」って笑ってくれる。 それだけで俺たちは、ああ、今日も頑張ろーって思えるんだよ。ほら、どいつもこいつも単純だからさあ」 そう言って笑いかけ、山崎くんは鯛焼きを頬張りながら話を続けた。 あたしは鯛焼きを食べるのも忘れ、目を丸くして見つめていた。 「うちはさ、普通のヤローだってキツくて辞めてくよーな現場だらけだよね。なのに、俺たちより体力もスタミナも 無いはずの華奢な女の子がさあ、・・・本当は俺たち以上に疲れてるはずなのに、それでも必ず笑顔で声掛けてくれるんだよ。 「おかえりなさい、お疲れさまでした」って、いつでもにっこり笑ってくれるからさあ。この子がこんなに頑張ってんだから、 男の俺たちが滅多な事じゃ弱音なんて吐けねーや、ってさあ。俺だけじゃなくて、どいつも思ってるんじゃないかなー」 「・・・すごいね。山崎くんは」 「へ?」 「何でもよく見てるんだね。あたし、自分がそこまで見られてるなんて思わなかった」 「そ・・・そう?」 「うん。だって、さすが監察っていうか、・・・見ていないようで、実は周りをしっかり観察してるんだなあって」 「そっ。そーかなあ?まあ、これも監察の職業病みたいなもんっていうかァ・・・ 沖田さんには、地味すぎて気配がしねーからだろってイジられるけどね〜〜」 ちょっと照れくさそうに頭を掻いて、残った尻尾をぱくっと咥えると、山崎くんは立ち上がる。 振り返って、いつものどことなく呑気そうに見える笑顔を向けた。 「えっと、だから。とにかくさあ、特別なお返しなんて考えなくていーんだって。 俺らはただ、さんに元気になってほしいだけなんだから」 「あ、それから」と思い出したような顔で付け足した。 立てた人差し指をあたしに向け、よく聞いてね、と念を入れてみせてから、もう一度口を開いた。 「また辛くなったら、振り返って周りを見回してみなよ。意外な発見があるかもしれないよ」 いつになく真剣な口調で言われた、最後の忠告の意味はよくわからなかった。 でも、やっぱり山崎くんはすごい。そう思った。 山崎くんが教えてくれたおかげで、ずっと目の前を漂っていた重たい霧のようなもやもやが、ふわあっと一斉に散らされた。 視界が急に晴れて広がった気分だ。うつむいて手許を見下ろすと、持っていた鯛焼きも花束も、急にはっきりとよく見えた。 鯛焼きのあったかさも、じわじわと、手から身体にしっかり染みていく気がする。 「じゃあ俺、行くね。・・・・・あ。そーだ」 手にした紙袋に気付いて見下ろし、山崎くんは、はい、とあたしに鯛焼きの紙袋を放ってきた。 あわてて受け止めた袋の中からは、まだ甘くて香ばしい香りが漂ってくる。 「残りはさんが食べてよね。俺はこれから黒鉄組だから」 「山崎くん」 「うん?」 「ありがとう」 ぺこっと深く頭を下げてから、ぱっと顔を上げて思いきり笑った。 いやぁ〜〜、と表情を崩して照れくさそうに笑った山崎くんは、うつむき気味に頭を掻いている。 これでうまく笑えてるんだろうか。まだ涙目だし、ちょっとぎこちなかった気もする。 でも。少しは伝わるよね。 ちゃんと笑えているかはわからない。それでも、感謝の気持ちだけは籠められるだけ籠めてるから。 「でも、ごめんね、心配かけて。わざわざあのお店まで買いに行ってくれたんでしょ?」 「へっ!?あっ、ああ、うんっ、いやいやいや!気にしないで!意外と近所の店だったしさあ!」 なぜか焦り気味に、いやいやいや、と手を振りながら後ずさる。 玄関の扉に背中を貼り付け、ちょっと困ったような、情けなさそうな顔であたしに笑いかけた。 「それにその、・・・それは俺が買いに行ったっていうかぁ。・・・買いに行かされたっていうかぁ〜〜、・・・」 「・・・?」 落ち着かない様子で上を向いたり下を向いたり、何が気になるのか急に玄関から顔を出し、 妙におびえながら外を目一杯キョロキョロ伺った後で、浮かない顔の山崎くんは 「口出しすんなって脅されてんだけどなァ・・・」と、溜め息混じりでよくわからない独り言をつぶやいた。 それからあたしに近寄って、玄関の三和土にひょいとしゃがんで。上目遣いに見上げてこう言った。 「さん。褒めてもらったお礼にいいこと教えてあげるよ」 小さくひそひそと囁いてくる声を、パチパチと大きな瞬きを繰り返しながら聞いた。 ・・・なにかこう、煙に巻かれたとか、狸や狐に化かされたとかつままれたとか・・・そんな気分だ。 内緒話のように囁かれたことは―――さっきの忠告以上に、さっぱり意味のわからないものだった。 それから。 離れから本棟に戻り、三日間籠っていた資料室から引き上げて、あたしは土方さんの部屋の前に立った。 この部屋の主はまだ帰っていない。 障子戸の向こうは暗く静まり返っている。同じ棟の部屋はどこも暗い。まだ誰も戻っていないみたいだ。 廊下も暗い庭も、庭を挟んだ隣棟も、どこにも明かりが灯っていない。どこもあまりにしんとしている。 こうして障子戸に向き合っていると、足が自然と竦む。まるで目の前のこの部屋からも、自分が拒まれているような気がして。 資料室の片付けを終えると、もう晩御飯の時間を過ぎていた。 近藤さんにお伺いを立てたら、自分の部屋に戻って休んでいいと言われたけど。あたしはその足でここにやって来た。 灰色に陰った障子戸としばらく睨めっこした後で、すうっ、とおもむろに深呼吸。思い切って戸を引いて踏み込む。 「・・・・・!」 中へ入って驚いた。煙草の匂いがやたらに、いつも以上に濃い。 びっくりしながら部屋の隅に目を向ける。文机の端に置かれた灰皿は、 これでどうして崩れないのかが不思議なくらいの高さまで、器用に吸殻が積み上げられていた。 目を丸くして吸殻の塔と見つめ合ってから、ちょっと呆れた。 副長附きになって以来、これを片付けるのはいつもあたしの役目だった。ということは、 あれ以来吸殻は一度も捨てられることなく、ひたすら溜まりっ放しだったんだ。 ・・・えーと。どうしよう。片付けたっていいんだけど。・・・ううん、やっぱり駄目だ。 ここで片付けたら、あたしが勝手に入ったことを知られてしまう。 文机の前に駆け寄り、持っていた封筒を灰皿の横にそっと並べた。 朝に総悟から預かった、お姉さんからの――ミツバさんからの手紙。 文机の前で膝を折って座る。なめらかな筆使いで書かれた表書きを見ているだけで苦しくなる。重苦しさで胸が潰れそうに痛む。 だけど、・・・まだだ。ここに来たのはこれだけが目的じゃなくて。もっと苦しいことを乗り越えるために来たんだから。 ずっと認めたくなくて、見ないふりで避けてきたことを知るために。 あのひとが今でも思っている特別な人が、どんな人なのかを知るための。 ミツバさんの存在をはっきり認めるための――いつまでもうじうじしている自分を変えるための、最初の一歩。 もう目を逸らさない。少しずつでもいいから認めよう。 そうしないと、あたしはもう一歩も動けなくなってしまう。 このまま見ないふりを続けて、「知りたくない」って目を背けたままで、 あのひとに拒まれたあの日から一歩も動けずに、いつまでも同じところにうずくまっているなんて。 それじゃああたしは何も返せない。折角励ましてくれたみんなの気持ちを、全部無駄にしてしまう。 「・・・土方さん。ごめんなさい・・・・・・・・!」 ぎゅっと固く目を瞑って、頭を下げて謝った。 湧きあがってくるうしろめたさと罪悪感を喉の奥で抑え込みながら、引き出しの取っ手に指を掛ける。 いつか「姉上の写真が入ってる」と総悟が言っていた、文机の左側の引き出しに。

「 片恋方程式。 11 」 text by riliri Caramelization 2010/04/25/ ----------------------------------------------------------------------------------- ※ ここと12話目の間に入る番外編は * こちら * でどうぞ。              next