「お早う御座います、土方さん。少しお時間をいただいてもよろしゅうございますか」 「・・・俺に何か御用ですか。鬼河原さん」 「はい、お話したいことがございます」 もうじき梅雨に差し掛かろうかという、日々の気候も幾分湿りを増していたある日の早朝。 道場で起き抜けの一人稽古を終え、首筋に滴る汗を拭いながら歩いていた土方は、 洗面所に向かう途中の誰もいない廊下で、背後からの声に呼び止められた。 磨かれたばかりの古い床を楚々とした歩みで進み出た白足袋の足が、ぴたりと彼の手前で揃えられる。 「・・・いえ、その前に。同じことばかりくどくどと繰り返すようで申し訳ございませんが。 年寄りのしつこさとお笑いください。そしてわたくしのことはどうぞ、椿、とお呼びくださいませ」 落ち着いた声で話しかけてきたのは、若草色の着物と白の割烹着に身を包んだ初老の女性。 鬼河原椿。 娘時分には大奥勤めに出たこともあるという、上品だが気取らず世話好きな屯所の女中頭だ。 使用人の中では一番の古株で、使用人たちをまとめ上げ、屯所で暮らす隊士たちを気遣い、彼らの衣食住を一手に仕切っている。 一見したところは、年を刻んでもなお初々しく柔和な笑顔を保っている、穏やかそうな物腰の婦人なのだが―― いかめしくも可憐、姓と名が滑稽なほどにアンビバレンツな印象を織り成す彼女の名前は、 この婦人の独特な人となりを、実によく体現した名前でもあった。 「あれは数日前のことでしょうか。 土方さんが泥まみれで廊下を歩いていらした、あの日のことでございます。 いえ、ご安心くださいませ。廊下の掃除がひどく大変だったなどと、つまらぬ愚痴を申し上げるつもりはございません」 この時点でとっくに申し上げてるよーなもんじゃねーのかよ。 朝っぱらから早くもげっそりしかけてきた彼の目をまっすぐに見据える。 局長ですら頭の上がらない女中頭 ―鬼河原椿は、柔らかく目尻を下げながら「さんのことでございます」と告げた。 「脱衣所の床に座り込んで泣いておられましたよ。お慰めするのにひどく苦労いたしました。あの日は買い出しに出るはずが、 泣いている娘さんを一人にするわけにもいかず。仕事も予定通りにはかどらず、困り果てました」 はあ、と浮かない声で返事をして手の甲で汗を拭いつつ、土方はその鋭い視線を何気なく庭に逸らす。 楽しげな鳴き声とともに軽やかに羽ばたいて庭に降り、餌をつついては歩き回る雀たちの姿を目で追った。 別に庭の雀を愛でるなどという風雅な趣味があるわけではない。あるのはやましい理由のみである。 女中頭の仕事が予定通りにはかどらなかったのは、予定外な廊下の掃除が増えたせい。 買い出しにも行けずに困り果てたのは、泣きじゃくる女隊士を宥めていたせい。 廊下掃除はともかく、の涙の理由までは椿は知り得ないだろう。だが、結局どちらも土方のせいである。まったくばつが悪い。 しかも、この狸な女中頭を前にすると、どうも自分の身の丈が一気に縮んでしまったかのような錯覚に陥ってしまう。 「子供らしくない悪さに手を出すろくでもないガキ」との悪名が近隣一帯ですでに通り、通っていた寺子屋でも 喧嘩に明け暮れていた頃のことだ。彼の頭を笑顔で容赦なく殴りつけ、一見大和撫子然としているのに 並みの師範代より厳しかった、女教師の姿を思い出すのだ。 要するに少年時の体験からか、この手の女性には刃向かう気になれない。つまるところが苦手だった。 まあ、ほっこりとした微笑の下に棘を隠したこの老婦人を不得手にしているのは、何も土方だけではないのだが。 幾つになっても頭の上がらない母親に小言を食らい続け、それでもぬけぬけと 面倒を掛け倒せる不肖の息子など、ごくごく少数派でしかないということなのだろう。 その二つ名だけで攘夷浪士たちの背筋を震わせる鬼の副長といえど、やはり「母親」の前にあっては弱かった。 どことなく不満そうに口端を下げ、不承不承な顔はしているものの、訴えられたのは直属部下の不始末だ。 適当にあしらって去るわけにはいかない。一も二もなく頭を下げた。 「・・・・・・面倒をかけた。申し訳ねえ、椿さん」 「まあ、いいえ。わたくし、そのようなつもりで申したのではございません。 屯所の台所をお預りしている身として、当然のことをしたまででございます。どうぞお気になさいませんように」 気にしろ、と言わんばかりの気迫漂う微笑を浮かべ、女中頭はしずしずと去って行った。 いや、去って行こうとしたのだが、途中でなぜかその足が止まる。 きゅっ、と白足袋が強く床を擦って、彼女は振り返った。きつめな音が静かな早朝の庭まで響き渡る。 皺を刻んだ柔らかな微笑みには、微細なりとも崩れがない。が、片眉だけが矢尻のような勢いでぴしっと高く跳ね上がった。 「ただ。よりによってお風呂場で、あのような乱れたお姿で、 煮え切らない馬鹿な殿方に袖にされた娘さんの痛ましさは、どうか重々お気になさってくださいませ」 障子に目あり、だ。 いったいどこからどうやって見ていたのか、あの時のあれを。 額に新たな汗を浮かべてたじろぎ、固唾を呑むどころかぐうの音も出せずにいる土方に小さく会釈をすると、 初老の婦人は何事もなかったかのように背を向ける。楚々とした流れるような足取りで、音もなく歩み去っていったのだった。 さて。時を同じくした頃のこと。 女の怖さに肝を冷やした土方が廊下で棒立ちになっていたその時に、当のがどうしていたかというと ――彼女はいまだ布団の中で、瞬きもなくぼうっと天井を見つめていた。 起き上がってすらいなかった。しかし目が覚めたばかりではない。部屋の障子戸を陽射しが照らす前から目は醒めていた。 朝食前に道場で一汗流そうかとも思ったのだが、なぜか起き上がれない。 身体が動かなかった。起きようとは思っても、朝稽古に向かう気力がどうしても湧いてこないのだ。 部屋で布団を深く被り、腫れた目で眠たげにぼうっと天井を見ていた。 あれからもう数日経っているのに、ショックはまだしぶとく尾を引いている。 いや、日を追うごとに脱力感は強まり、虚しさで身体は蝕まれ尽くしていた。 よかった、やっと朝だ。最近夜が長く感じる。もしかしたらこのまま太陽が出ないんじゃないかと不安になる。 夜は嫌い。夜なんて来なくてもいい。 考えなくてもいいことまで考えてしまって、自分がもっとみじめになるだけの憂鬱な時間だから。 今は何時だろう。障子戸の向こうの気配が少しずつにぎやかになってきた。 頭がすっきりしない。こうして寝ているだけでも腕や脚が鉛みたいに重たく感じる。 そういえばあたしは昨日、何時で寝たんだろう。ご飯はろくに食べなかったはずだ。だけど、お腹が全然減ってない。 食堂から戻って、明かりもつけずに部屋で缶ビールを開けたまでは覚えている。だけど、その後のことは――。 どうして隊服のまま寝てるんだろう。どうやって布団に入ったんだろう。布団を敷いた覚えもないのに。 ・・・ああ、そういえば。お風呂に入った覚えもないや。 起きたくない。あのひとにも、誰にも会いたくない。 このまま一日中、布団に籠って泣いていたい。 全部どうでもいい。何もしたくない。もう何がどうなったっていい。 こんな身体、いっそこのまま布団の中で、日向に置いたアイスクリームみたいに溶けちゃえばいいのに。 心の底からそう思ったけれど、は仕方なしに起き上がった。 しっかりしなきゃ。どんなに落ち込んでいても、投げやりになったら駄目だ。与えられた任務だけはしっかり果たさないと。 感情に振り回されて仕事がおろそかになるような隊士なんて、あのひとの傍には必要ない。 ずるずると畳を這うように移動して、鏡台の前でぺたんと腰を据えた。 肩を丸めてうんと猫背になった、幽霊みたいに生気のない女の子が、鏡の中からこっちを見ている。 頬に触れると肌はかさついて荒れているし、瞳はどんより暗く沈みきっている。瞼は赤くぼったりと腫れていた。 最低。ひどい顔。 鏡を見るのが嫌になるような顔。化粧でもごまかしきれないくらい酷い顔だ。 まずお風呂に入ろう。 そう決めて力無く立ち上がり、箪笥から引きずり出した着替えやタオルを手にして、だるそうに歩いて障子戸を開ける。 障子戸を開けてすぐに、はなぜか足を止めた。 ぼんやりと不思議そうに下を見下ろす。踏み出したら爪先に何かが当たったのだ。 「・・・・・・何、これ、・・・・・」 床に手を伸ばしながら、無感情な声でつぶやく。 そこには一輪の花が ――黄色のリボンで飾られた淡いオレンジ色の薔薇が、ほっそりとしたつぼみをほころばせていた。
片恋方程式。 9
「・・・・・・何、これ、・・・・・」 その一時間ほど後のこと。 屯所の食堂でお茶の入った湯呑を手にしたは、さっきと一字一句違わない台詞をつぶやいていた。 目の前のテーブルの上に出来た小山を曇った目でぼんやりと見下ろし、不思議そうに首を傾げる。 食べかけの朝食のお盆を置いた手前に、小さな箱やら袋やらが積み上げられていたのだ。 誰が置いていったのかはわからない。ちょっとお茶を貰いに席を外していた間に、なぜかこんなことになっていた。 色とりどりの箱や袋をでこぼこに重ねた山は、ほとんどお菓子で出来ているようだ。 形も大きさもまちまちな積み木を重ねたような見映えである。一つずつの大きさがまちまちなら、そこに積まれているお菓子の ジャンルもまちまちで、値段もピンからキリまで。まとまりがないというか、それぞれに多種多様だった。 近所のコンビニでも売っている新製品のポテチや駄菓子、がしょっちゅう買って食べている好物のチョコレートやクッキー。 豆大福が有名な駅前の和菓子屋の包みに、近所のケーキ屋の箱。三駅先の百貨店のデパ地下まで行かないと 手に入らなさそうな、光沢のある赤いリボンで飾られた黒い箱まである。 「」 背後からだるそうな声に呼ばれる。 振り向くと、首筋をボリボリと掻き、いかにも眠そうに目を瞬かせながら、沖田が欠伸をしていた。 やっと目が覚めたばかりらしい。例のアイマスクで抑えられた前髪は、寝癖でぴょんと跳ねたまま。 隊服の首元にはスカーフが無いし、シャツの襟元のボタンも外れているし、上着は肩に引っ掛けただけ。 寝惚けて持ってくるのを忘れたのか、腰に提げているはずの刀も無い。ご飯とおかずがてんこ盛りにされた 朝食のお盆は、しっかりとその手に持っているのだが。 「・・・おはよう、総悟」 「どうしたんでェ、この甘ったりい山は」 隣の席に着いた沖田は、横にある小さな箱の山を胡乱げに横目で眺める。 が、あまり興味もないのか、すぐに箸を手に取り、湯気が昇る味噌汁のお椀に口をつけた。 彼に続いても椅子に腰を下ろす。持ってきたお茶の湯呑には口をつけたが、箸は手に取ろうとしない。 盛ってもらったときにはほかほかと温かかったご飯やおかずも、味噌汁の椀も、中身がほとんど減っていない。 どれもすっかり冷えきっていて、湯気も昇らなくなっていた。 「食後のデザートにしちゃあ量が多すぎるんじゃねえかィ」 「・・・うん。そうだね。でも、あたしのお菓子じゃないし」 「へえ。ってえと、こいつは誰のもんです」 「さあ。誰の、・・・かなぁ。お茶貰ってここに戻ってきたら、お盆の前にいっぱい積んであったの」 薄くて大きな黒い箱を手にとって、顔の前まで持ち上げる。中からうっとりするような甘い匂いがした。 中身はたぶんチョコレート。この濃厚な香りからいっても間違いなく美味しいだろう。 絶対美味しいはずだ。一粒口にしただけで、憂鬱さなんて吹き飛んじゃうくらいに。 甘味マニアの勘がそう言っている。なのに、箱を開けたくなるような興味がちっともわかなかった。 「お早うございます、沖田隊長」 「おう」 卵焼きを頬張った沖田が短く返す。 挨拶してきた一番隊の隊士は、軽い会釈でテーブルの横を過ぎて行った。 そのすぐ後を十番隊の数人と、その隊士たちよりも頭ひとつ分ほど背の高い、隊長の原田が続いて通った。 原田はうつむいている涼音をちらりと見ると、沖田と目礼を交わし、二列ほど離れた席に着いた。 テーブルとテーブルの間を通り過ぎる隊士たちは、空いた席を探して食堂中を見回し、きょろきょろと目線を彷徨わせている。 食堂にずらりと並んだ椅子席のほとんどが埋まり、この食堂が一番混雑する時間。一日のうちで最も活気のある時間に入っていた。 夜勤明けで疲れ気味な隊士たちもいれば、朝稽古を終えて汗だくで腹ごしらえに駆けつけた隊士たちも姿を見せ始めて、 どのテーブルでも大きな声が飛び交い、ざわざわと煩いくらいの賑わいぶりだ。 そんな耳慣れたざわめきの中で、ご飯を掻き込む箸を止め、沖田はちらりと横を見た。 が箸を取ったところを見ていない。隣に座って食べ始めてから、まだ一度も。 「もう食わねえんですかィ」 「うん。お腹一杯なんだ。・・・あ、総悟。卵焼きも残ってるけど。食べる?」 弟のように可愛がり、毎日、毎食のように並んで食事をしている仲だ。 週に一度はメニューに入っているこのだし巻き卵が沖田の好物だということは、もちろんも知っている。 気兼ねのない弟扱いを内心微妙に思いながらも、はい、と差し出された皿から、沖田はひょいと手掴みで卵焼きを摘み上げる。 甘めに味付けられた黄金色の一切れをすぐに口に放る。モゴモゴと、何食わぬ顔で頬張りながら、左右に視線を動かした。 こういう時はいつも、どことなくそわそわした視線を四方八方から感じる。 羨まれているのだ。食堂で当然のようにの横に座り、こんな遣り取りを彼女と自然に交わせるのは あの男か自分くらいのもの。せいぜいが彼女と年が近くて一緒の任務が多い山崎、といったところか。 しかしこの食堂で、誰が彼女の左右に陣取るかを争って小競り合いが起きるようなことは、たった一度もなかった。 隊士たちの間で暗黙の了解が出来ているからだ。 右に座れば、そこを密かな指定席にしている土方に無言で睨まれる。左に座れば座ったで、沖田に冷えきった笑顔で凄まれる。 沖田と競うかのように土方が居座っていた右隣は、ずっと空席が続いている。 桂捕縛のための出入りがあった日から、この席の主だった男はを避けるようになった。 彼女を挟んだ自分の反対側を――の右隣を占有している男の、素っ気なく余裕ぶった態度が疎ましかった沖田にしてみれば それは言うまでもなく良い兆しである。今朝も邪魔な男は姿を見せず、この席の居心地は悪くなかった。 だが、それでもは時折、ぽっかりと空いたままのその席に、ふと思い出したかのような顔をして目を向ける。 誰の姿もないその席をじっと見つめると、うつむいて影の落ちた横顔はいっそう暗く、沈んだものになった。 頬にかかった長い髪に隠れたの横顔に、もどかしい苛立ちを感じながら。沖田は何気なさを装って口を開いた。 「」 「うん?」 「後でこいつを土方さんに渡しといて下せェ」 土方に、と聞いて、は途端に眉を曇らせた。 封の開けられた白い封筒は、避けようもなく目の前に差し出されている。 目の前を遮るように出されたそれに、仕方なく手を伸ばす。 細長い封筒の中央には、ほっそりと整った美しい字で「沖田総悟様」と綴られていた。 「土方さんに?でもこれ、宛名が総悟に―――」 左下に綴られている名前を目にして、封筒に触れる寸前だった指はびくりと竦んだ。 左下には差出人の名前が記されている。ほっそりとした、しかし伸びやかな筆運びで、「沖田ミツバ」と。 「俺宛ての文は抜いておきやした。中にあるのはあの人宛ての文だけでさァ」 動揺の色を浮かべた目を大きく見開き、はもう一度、封筒の表書きに沿って視線を走らせた。 上から下へと字を追っていくごとに、元から曇っていたその表情が凍りつき、生気を失っていく。 その様子を横目に確かめながらも、気づかないふりで彼は付け加えた。 「必ず俺宛てにして送ってくるのは姉上なりの気遣いらしいんでェ。まァ、女からの文がこうもしょっちゅう 届いてたんじゃ、土方さんも他の奴らに顔が立たねェ。鬼の副長の威厳もズタボロだ」 「・・・・・・い、・・・いいのかなぁ。あたしが、・・・・・預かっても」 「ああ、なら構やしねーさ。俺ァ渡すたびにあの野郎の喜ぶツラ見せられてるから、実はもううんざりしてんだ。 そーだ、これからも頼まれてくれるんなら、三丁目の甘味屋であんみつでも奢りますぜ。どうです姫ィさん、明日でも」 は、ううん、そんなのいいよ、とぎこちなく笑った。 沖田から手紙を受け取り、膝上に置いて目を伏せる。この手紙を渡す苦痛と引き換えにしたあんみつの不味さを想像した。 きっと、ひどく味気ない、虚しい味になるだろう。 じわじわと胸を焼き始めた焦燥を追い払うかのようにかぶりを振って、は瞼にうっすらと赤みの残った目を開いた。 見下ろした薄く頼りない封筒は、なぜか手にずっしりと重たく感じた。 「お先に」 殆ど手つかずで残した朝食のお盆を片付けると、は沖田の隣の席を離れた。 彼女が手にしているのは託された手紙だけ。あの謎の菓子の山は見向きもされず、手つかずのまま置き去りにされた。 力無くうつむき、手にした封筒を憂鬱そうに見つめて、テーブル間の通路を重たげな足取りで歩いて行く。 そんな彼女の姿を、ちらちらと、盗み見るようにして見守っていた一部の男たちの口からは、 悲しげな落胆の溜め息が一斉に漏れていたのだが。見られている本人に、周囲の気配に気づく余裕はなさそうである。 「・・・副長に文、ねえ。そいつは妙な話だなぁ」 朝食を済ませた隊士たちに混じって出て行く彼女の後ろ姿を、沖田が目で追っていた時だ。 頭の後ろで、ぼそぼそっと声がした。 振り向くと、背中合わせで真後ろの席に座った男がこちらを見ている。 いつからそこに座っていたのか、山崎がひどく眠たそうな顔で味噌汁を啜っていた。 どんよりと重たそうな瞼をしばたかせながら、沖田に軽く頭を下げる。 「おはようございます、沖田隊長」 「ぁんでェ山崎。文句があんなら面と向かって言やあいいじゃねーか」 「いやいや、文句だなんて滅相もない。・・・ただねえ、沖田隊長の姉上様は近頃婚約が調うようだと、 局長から聞いた気がするんですけどねェ。あれは俺の聞き違いだったかと思いまして」 箸で摘んだ沢庵をぽりぽり齧りながら、山崎は首を捻った。 「いやー、妙だよなあ、おかしいなぁ。確かに局長からそう聞いたはずなんですけどねェ。 それともあれは寝惚けて見た夢か何かだったんですかねー」 「・・・へえ。姉上が婚約ねえ。そいつぁ俺も初耳だ」 「ああ、やっぱりそうですか。いやァ、どうも失礼しました。 最近夜中の張り込みばかり重なっちまって、慢性的に寝不足なもんですから」 「山崎」 「はい?」 「余計な口出しやがったらどうなるか、わかってんだろうな、お前」 「はいはい、出しませんって。出しやしませんよォ、言われなくても」 冷やかに睨みつけてくる沖田の目線を避け、慌て気味にテーブルに向き合い、山崎は肩を竦める。 わざわざ釘を刺されるまでもない。誰があんたを敵に回したいもんか。 相手は局内一の使い手で、しかも、サディスティック星からやって来た折り紙つきのドS王子だ。 真っ向から自分に逆らった命知らずや、非力な一般人だろうが女子供だろうが無差別に殺めるような凄惨な賊には、 楽しげなうすら笑いを浮かべながら、肝の冷えるような容赦ない仕置きぶりを見せる、とんでもない上司でもある。 こんな男に目を付けられたら、おちおち屯所で眠れやしない。 「今日は一番隊が黒鉄組の張り込みでしたっけ。あそこはいい現場ですよねェ。 昼時はランチタイムのOLがゾロゾロ出てくるし、近所に女子高もあるし」 「ああ。お前も後で来んだろ」 「ふぁーい。仮眠取ったら合流しますんで、よろしくお願いします」 席を立った沖田を欠伸をこらえながら見送り、残りの沢庵もぽいっと口に放り。 朝食をすべて食べ終わった山崎は箸を置く。湯呑を手に取ると、眠すぎて半目になった涙目は 食堂の入り口から最も遠いテーブルへと何気なく視線を移した。 気のせいかもしれない。だが、沖田と話をしている間に、そちら側から強い視線を感じた気がしたのだ。 窓際の奥まった席に着き、近藤と向かい合って飯を食べている男。 その感情の読めない無機質な横顔を、さりげなく盗み見る。 熱いお茶をごくんと飲み、夜通しの偵察明けで凝り固まっている肩を揺り動かして解しながら、 とぼけた顔で天井を見上げ、ぼそっと独り言を漏らした。 「・・・はいはい、何も出しやしませんって。あんたに言われなくてもね」
「 片恋方程式。 9 」 text by riliri Caramelization 2010/03/27/ ----------------------------------------------------------------------------------- next