片恋方程式。 8
ガラッ。 二人の背後で歯切れの良い音が響いた。 と同時に、廊下とを隔てた戸口が素早く引かれる。 大きく開けられた引き戸。それに続いて中へ入ってくる足音。 二人分の足音が脱衣所へと踏み込んできた。 まだ日も高いこんな時間だというのに、またもや誰かが風呂を使いにやって来たのだ。 呆然と目を見開いたが真上から鷲掴みに押し込まれ、洗濯物の海の底へと身体が沈む。 ふぐうぅぅっ、と、強烈な香ばしさにむせた彼女は瀕死の呻き声を漏らし、じたばたと手足を暴れさせた。 「あれっ、副長。どうもお疲れ様です、副長もこんな時間に風呂ですか」 「おお。まあ。な、・・・・・・・・・」 「・・・・?おい。なあ。何だぁ?今のは。今、妙な音が聞こえなかったか?」 「はあ?音?何の音だよ」 「お前聞こえなかったのかよォ、今だよ今。 したじゃねーかよ、妙な音がよォ。誰かが喉でも詰まらせたみてーな、呻き声みてーな気味の悪りぃ音だよ」 「「!!!」」 箱の中で異臭に耐えているどころか、隠した女を背にして二人に向き合う土方まで息が止まりかけた。 入ってきた隊士二人は、二人とも頭から爪先まで見事に泥まみれ。 隊服も土方の比ではないほどに、ドロドロに汚れている。まさに濡れ鼠だった。 仲間の隊士に物音の有無を尋ね、今も不思議そうに目を光らせて室内を見回しているのが、先に入ってきた方の隊士だ。 しかし尋ねられたほうの隊士は何も耳に入らなかったらしい。手にしていたタオルを肩に掛け、平然と答えた。 「そーかァ?俺は聞こえなかったぜ?・・・いやァ副長、参りましたよ。見てくださいよこれ。庭で穴に落ちましてねー。 俺もこいつも話しながら歩いてたもんで、揃って引っかかっちまいました。あれァ沖田隊長の仕業じゃねえかって、 今も噂してたんですがねェ」 「・・・・・・そうか。そいつは災難だったな。あのバカには、局長から灸のひとつも据えてもらうように言っておく」 「ははは、よろしくお願いします。あ、いやァ、けど、すんませんが。俺らからってえのは黙っといてもらえませんか」 もう一方の隊士も「お願いします」と、汚れた頭を掻きながら気のいい笑顔で頼んでくる。 いまひとつ動揺を押し隠せていないぎこちない顔で、ああ、と土方は上官らしい鷹揚さと余裕を装って頷いた。 が、背後でもぞもぞと蠢いている気配にぎくっとして身体を固まらせる。 異臭に耐えられなくて窒息寸前のが、洗濯物の山の天辺まで浮き上がってきたのだ。 後ろ手にわしっとその頭をひと掴みにして、下へ下へと無理矢理押し込みながら、不自然に強張った声を張り上げた。 「とっっ。ところで、だな!?お前ら、まだ聞いてねえのか」 「はい?」 「俺もさっきそこで女中頭に聞いたんだが。今日の風呂掃除は三十分繰り上げで早めに始めるんだそうだ」 「はあ。三十分、てえと・・・・・・」 二人が天井近くに掲げられた壁時計に目を向ける。 文字盤が指しているのは、いつも風呂掃除が始められる時間の四十分ほど前。 掃除の予定が土方の言う通りだとすれば、女中衆が総出でここに集まり、 浴槽の湯抜きや床磨きが始まるまでには、あとわずか十分しかないことになる。 ――あくまでも、土方がこめかみから冷汗を流しつつ語ったこの助言が嘘ではなかったら、の話だが。 隊士の片方が、ついてねえなあ、と残念そうにつぶやいた。 「椿さんの決めたことには、局長だって逆らえねえからなあ・・・しょーがねえや。出直しますよ」 「ああ。そうしてくれ」 言いながら足元に広がるバスタオルを拾い上げ、土方は洗濯物の溜まった大きな箱の中へと何食わぬ顔でそれを放る。 ふわっ、と空気を孕んで舞い落ちたそれが、口と鼻を必死に抑え、心臓をばくばくと高鳴らせているの頭を覆い隠した。 「・・・・もういい。行ったぞ」 引き戸を閉める音がして、二つの足音も廊下の向こうへと遠ざかっていった。 ポン、とタオルの上から頭を叩かれたのを合図に、はおっかなびっくりに顔を出す。 洗濯物の波の狭間をもぞもぞともがきながら、埋まっていた肩や腕、半分埋もれた胸元までが中から現れる。 土方は慌てて顔を逸らした。 とてもではないが正視できたものではない。あらためて我に返って眺めてみれば、どうにもこれは目の毒だ。 しなやかな首筋の曲線から続くふんわりした膨らみに。肩から腕にかけての淡く透き通る肌の色に、目を焼かれる思いがした。 タオルを身体に巻きながら、立ち上がったが泣きそうな顔をふにゃっと歪める。 誰から見ても無理をしているのは明らかな、泣き笑いのような作り笑顔を浮かべていた。 かなわねえ。 その表情を横目に確かめた土方は眉を顰め、悔しそうにぼそりと吐き出したのだが。の耳には届かない。 「そ、・・・・そっかあ。あははっ、総悟の悪戯にひっかかるのなんて、あたしだけかと思ったけど。 同じ目に遭う人がいるんですねえ。実はあたしも庭で山崎くんとミントンしてたら、ついつい夢中になっちゃって。 ひどいですよねぇ。頭から泥被っちゃいましたよー。でね、落ちたあたしよりも山崎くんのほうがうろたえちゃって・・・ とにかくお風呂に入って!って、ここに押し込まれたんですけど」 その場を占めた微妙な雰囲気に耐えられなかったのか、は恥ずかしそうに頬をぽりぽりと掻きながら ペラペラと裏返った声で喋りまくる。土方はというと、困惑気味に眉を寄せてがしがしと後ろ頭を掻きながら、 黙って彼女の話に耳を傾けていたのだが。数瞬後に素早く振り向き、驚きも隠さずに目を見張った。 「なっっ、土方さんっ、驚きすぎですよぉ!どーしてそこまで驚くんですか!?」 言い返されてもしばらく固まっていた彼だが、やがて虚しい脱力感に襲われ。 苦々しく口許を噛みしめた顔を深々とうなだれさせて、がっくりと肩を落とす。 しまいには軽い頭痛にまで襲われて眉間を抑えた。 驚いた。ああ、確かに驚いた。 こいつにじゃねえ。頭を煮え滾らせて山崎への嫉妬にとち狂っていた、自分の馬鹿さ加減にだ。 「だ、だって・・・・・仕方ないじゃないですかあ! 足元なんて、ちっとも見てなかったん・・・・・・だ・・・、も・・・」 うつむいたは口籠り、語尾は頼りなく弱って喉の奥で消えた。ろくに身体も拭かずにいたのだから すっかり身体も冷えたはずなのに、今にも頭から煙を立ち昇らせそうに頬を染めたのぼせた顔で、目を白黒させている。 「・・・戸口の札は。「男湯」だったぞ」 「そ、そうなんです・・・か。山崎くん、替え忘れたのかなぁ、鬼河原さんにあたしの着替えを出してくれるように 頼んで来る、って、すごい勢いで飛び出して行っちゃったから・・・・・・あはは、や、やだなぁ、もうっ」 「・・・・・・まあいい。おい、早く出たほうがいいんじゃねえか」 「は?」 「お前なぁ。いつまで野郎どもの小汚ねえ匂いに浸かってる気だ。・・・まあ、そこで二度風呂するってぇんなら止めねえが」 憮然とした顔で目を逸らし、土方は手を差し出す。はそろそろと手を伸ばした。 硬い指にちょっとだけ触れて、遠慮がちにその力強い手に掴まってから、あ、と小さく声を上げる。 よく見ると、土方の手や爪の先はうっすらと何かの汚れを染み込ませている。 目線を下半身に落としてみれば、茶褐色の泥がところどころに染みていた。 「もしかして。土方さんもはまったんですか。総悟のあれに」 「うっせえ。人のこたぁ放っとけ」 ムッとして言い返してはくるものの、土方はを見ようとはしなかった。 顔を逸らしたままで握った手をぐいと引き寄せ、ここへ彼女を入れた時にかかえ上げたのと同じようにして 首と肩を抱き、バスタオルを纏った身体を腰から持ち上げる。ぐらり、と大きく傾いた揺れにあわてふためいて、 は土方の首に腕を伸ばした。二の腕をぎゅっと巻きつけてぴったりと抱きついてしまってから、ふと我に返る。 自分のうっかりすぎる大胆さを後悔した。 あわてて煙草の香りが漂う首筋から顔を離せば、ほんの数センチ先に目を伏せた土方の顔がある。 恥ずかしすぎていたたまれない。けれど他に目の遣り場もない。 迷ったけれど他にどうしようもなくて、赤らめた顔を思いきり深くうつむけた。 「あ、・・・・・ありがとう、ございます」 「・・・ああ」 無愛想に答えた土方が、箱から抱き上げた女を床に下ろす。 タオルの胸元をぎゅっと掴んで彼を見上げているは、夢の中にいるかのような、ぼうっとした目をしている。 熱っぽく潤んだ、澄みきった大きな瞳。未だについ見蕩れてしまいそうになる輝石のような瞳が、彼だけを見つめている。 濡れそぼったままの長い髪からひとしずくが伝い落ち、ぽたっ、と淡く染まった二の腕に垂れた。 小さな波乱が通り過ぎてしまえば、そこに待ち構えていたのはぎこちなく強張った静けさだった。 隊士たちは大方が任務で出払い、廊下を歩く者も少ない時間だ。広めに作られた脱衣所には、誰の声も届かない。 風呂場の天井から落ちた露がぱしゃっと床を打つ水音が、たまに思い出したかのように響くだけ。 開けっ放しの風呂場から流れてくるのは、湿りを帯びた温かな空気と、湯の香り。 それに混ざって、風呂上がりの女の身体からはほのかに甘い香りが漂ってくる。石鹸の香りだ。 から目を逸らしたところで避けようもない。彼を追いつめようと迫ってくる、身体に絡みついてくるような香りだった。 はあっ、と土方は苛立ち紛れの荒い溜息を吐いた。息を詰めて自分を見つめている女へ向けてのものではない。 彼女をそうさせてしまった自分への歯痒さからだ。 過度な期待を持たせてしまった。 しかもその原因は彼女にはない。すべてが自分の気の迷いからだ。 やりきれなかった。 小さく舌打ちした彼はつっけんどんな態度で彼女の頭を押しやり、その視線を払おうとした。 するとその目は途端に光を失い、子供のように頼りなげで今にも泣き出しそうな、縋るような目つきに変わっていく。 どうしてこいつが俺に押しやられただけで、そんな萎れた目を向けるのか。 その心当たりなら事欠かない。うんざりするほどに思いつく。こいつに対しては不甲斐無いばかりの自分が嫌になるほどに。 ようやく土方は口を切ることに決めた。 ここ数日、ずっと彼を苛立たせていたことに。 いや、胸に燻っていた苛立ちすら軽く吹き消してしまうほどに、彼を迷わせ、戸惑わせていたことについてだ。 「・・・・・・・・・。一昨日の」 「・・・はっ。・・・・・・・・・はい」 「あれァ、なかったことにしろ。」 籠り気味な声を耳にしたは小さく息を呑む。その顔からふっと表情が消えた。 取り囲むすべてを――硬い表情で立つ土方も、どこからか聞こえる遠い物音も、湯気混じりの湿った空気も、ほのかな温さも― 全身ですべてを拒んでいた。すべてからその身を遮断して閉ざし、自分を覆うすべてを拒んでいるような顔をしていた。 瞳は一瞬にして生気を失い、片腕がだらりと力無く垂れた。薄紅に染まっていた頬の色が、すうっと白く冷めていく。 胸元でバスタオルを掴んだ手が、徐々にか弱い揺れを起こし。やがてその揺れは、小刻みな震えへと変わっていった。 「・・・お前も忘れてくれ。俺も忘れる」 無表情に土方を見上げた彼女の唇が、弱々しい震えを起こしている。 震えをこらえようと噛み締められたそこだけが、赤く血の気を灯らせている。 裸足の爪先が小さく前に出た。ふらり、と前に倒れ込むかのようにもう一歩踏み出し、そして。 正面からは向き合おうとはしない土方の腕に触れ、肩に顔を埋めて縋りついた。 「離れろ」 「いや」 「おい」 「嫌です。・・・・・・・・いやっ」 激しくかぶりを振ったの、冷えきった髪が強く押しつけられた。 シャツの肩口が濡れていく。湿った冷たさが布越しに、彼を責めるかのように染み透ってくる。 洗いたての髪から振り撒かれた甘い香りが、身体に纏わりついてくる。 身体の自由を奪う媚薬のようなその香りは、呼吸が浅くなるほどに彼を息苦しくさせた。 「いや。だって、忘れるなんて。無理です。あたし。・・・・・・」 出来そうに、ないんだもの。 そう絞り出して、涙に滲んだ声が懇願してくる。 喉の奥でこらえた女のすすり泣きが、小さく響いて耳を刺す。聞こえるはずもない声なき悲鳴に、耳を塞がれている気がした。 ぽたり、と顔を押しつけられたところに落ちた大粒の温かさが、シャツの肩を刺す。 縋りついてくる震えた手や柔らかな胸元は、とっくに冷たくなっている。 その冷たさに胸が痛む。まるで心臓を直に鷲掴みされているかのようだ。 「離れろ」 「いや!」 「・・・!」 「いやです!!」 取り乱して叫ぶを前にして、宥める言葉をどうにか取り繕い、無理にでも言い含めようとして。 しかし、土方は言葉を失った。 険しく見開いたその眼前に――涙目で彼を見上げて縋りつくの背後に、違う女の姿を見た。 実際に見えたのではない。感じたのだ。 その姿が幻と知ってはいる。それでも彼は不意に打たれて息を呑んだ。 いつもは忙しなさに紛れさせて閉じ込めている記憶の深い水底から、ここに居るはずもない女の姿が浮かび上がる。 ゆらりと透ける、淡く色づいた影のように。水面を目指す泡沫のように。 解き放たれた記憶の底からおぼろげな姿を成して現れて、浮かび上がってくるのを感じていた。 なぜかあの姿に、よく似て見えた。と重なって見えたのだ。 宵闇の静けさと漆黒が足元から忍び寄ろうとしていた、あの懐かしくも粗末な道場の片隅で。 視界一面が燃えるような紅に落ちていくばかりの、夕暮れの庭で。 顔色を失った頬に涙を浮かべることもなく。立ち去る彼の背中に恨みごとを浴びせるでもなく、ただ黙って立ち尽くしていた。 あのほっそりとしてはかなげな姿と。 目の前のこいつとは、まるでどこも似てはいないのに。 目の前にいるのは、男の前に素肌を投げ出して無我夢中で縋りつく女。 溢れる涙を隠そうともしない。無垢で頼りない泣き顔を何のためらいもなく男の前に晒す、子供のように無防備な女。 嗜みも節度も弁えたあいつとは違いすぎる。 なのに、似ている。あの日に見たあいつの姿が、この姿と重なって見える。 それを認めただけで、彼の戸惑いは胸中に乱れた渦を生む。避けようのない息苦しさはさらに募っていった。 何年経とうと色褪せない姿だ。 何年経とうと記憶の底に焼きついたままで、忘れたくても消えるものではなかった。 涙に暮れる女を前にすれば、自然とあいつの姿が浮かぶ。 薄れかけつつある記憶の狭間から、ゆらりと陽炎のように立ち昇る。 そうだ。結局俺を揺らすのはいつも、あの姿だ。 あの日のあいつも、今のと同じような顔をして俺を見ていた。 拒絶の言葉に打ちひしがれ、身じろぎすらせずにあの庭で立ち尽くしていた。二度と揺らぐか、と砂を噛む思いで背を向けた あの日の姿。 去り際に盗み見た、夕暮れに落ちていく紅い庭に立ち尽くしたあいつの姿が、目の前のこいつに被って見える。 「・・・いや・・・・・・・ぃや、ですぅ、・・・・・・」 が土方の肩を強く押す。 戸惑いに囚われて力の抜けた彼の背中は大きくふらつき、背後の脱衣入れの棚に、どん、と押しつけられた。 ぐらり、と重なりかけた二つの身体が大きく揺れて、棚にもたれる。 それすらも気付かずには夢中でかぶりを振り、悲嘆に暮れた声でつぶやき続けている。 いや。いや。いやです。 切れ切れにつぶやく涙声は止まらない。 泣きじゃくる女の頭の後ろに、いつのまにか土方の手が回りかけていた。 自分でも気付かない間に、無意識に、身体は縋りつく女を抱きしめようとしていた。口では頑なに拒もうとしているというのに。 「離れろ」 「いや。いやですっ」 「・・・聞け、、」 「だって、っ。土方さ、って・・・・、と、は、わかってる、・・・・・で、しょ・・・? あたし。・・・・あたし、は、・・・・・・・・・・っ」 ―土方さんだって。本当は、わかってるんでしょう。あたしは。― わかっていた。 涙で塞がれ、途切れた掠れ声が何を伝えようとしているのかも。何を求めているのかも。 嫌になるほどわかっていた。出来るものならこの身体を支えてやりたいと思ってしまう、自分の本音も。 支えてやりたい。触れてしまいたい。今にも力無く床に崩れ落ちそうな、この背中に。 大粒の豪雨に散らされる寸前に打ちひしがれた、地に倒れかけた野の花のような女に。 もしも今、俺が、ここで。この花に触れて。この手で手折ることが出来るなら。 そう痛切に願いながらも顔を背けて目を逸らし、土方は。横目に盗み見ることさえ二度としなかった。 こんな時だというのに見蕩れてしまう。一度目を奪われてしまえば最後、心が揺らいでしまうのは判りきっている。 なのに、どうしてもを離したくない。 あと少しだけでいい。このままでいたいと願う矛盾した思いを、この期に及んで捨て去ることも出来ない。 こらえきれずに動いた手の指先が、濡れた髪の冷たい流れにわずかに触れた。 洗いたての髪や身体から放たれる甘い香りに痛いくらいの眩暈を憶えて、奥歯を噛み締め、苦しげにぎゅっと目を閉じる。 ずっと思いきり抱きしめたかった。 今だってそうだ。縋りついた冷たい手を握り締めてしまいたい。 香る髪が乱れた額を撫でて「泣くな」と宥めて。抱き寄せて、口吻けてしまいたかった。 いつも笑顔でいさせてやりたかった。泣き顔など見たくはなかった。 だのに、この泣き顔を前にしてみれば、大きな瞳いっぱいに絶望と涙を湛えた、悲痛に沈む表情すらもが愛おしくなる。 これは俺のためだけに生まれた涙だ。俺のためだけに泣いている女だ。 こいつが可愛い。こいつが好きだ。こいつが欲しい。他の誰にも渡したくない。 頬を伝う透き通った雫も、涙ぐむこの身体も。誰にも渡したくない。すべて腕の中に閉じ込めたい。俺は、こいつが― 「・・・・・おーい。誰か、うちの隊長見なかったかぁー?昨日の報告書が、・・・・・・・・・」 くっきりした大きな呼び声と、人の群れのさざめきが耳に届く。 はっとして土方は目を開いた。戸口の向こうに現れた気配に意識を集める。 廊下とを隔てた戸口の向こう。奥へ進めば玄関へと繋がる廊下からだ。 任務から戻った隊士たちの、がやがやと賑やかな話し声が響いてくる。 隊士たちの声に混じって、誰かの静かな足音もこっちに近づいてくる。ざわめきとは逆の方向からだ。 野郎どもの床を踏み鳴らすようなそれとは異質な、ごく軽い足音だ。 床板を擦るようにして歩いてくる。品良くゆったりとした、足裏を小刻みに滑らせるような歩き方で。 ここへ着くにはまだ遠いようだが、誰なのかはもう判った。あんな楚々とした歩き方が身についている者は、 ここにはたった一人だけだ。あれは女中頭の足音だろう。さっきこいつも言っていた。おそらくこいつの着替えを持って―― 永遠に続くのかとすら思われた重苦しい葛藤と沈黙。 それが、外からの耳慣れたざわめきによって、ほんの一瞬で破られ、事切れる。 現実へと引き戻された彼の手はかすかに震え、冷えた髪の流れをその指で握る間際で凍りついた。 「・・・・・・・・・土方、さん、・・・」 不安げなか細い呼び声には応えなかった。 乱れかけていた浅い呼吸を、深く息を呑んで噛み殺す。 惑いに囚われて沈みかけていた目の色は、さあっと、鋭く蒼く醒めていく。 わずかに吊り上がった口端には、やがて皮肉気な自嘲の笑みが灯った。 数瞬前の自分には、今や戻りようもなかった。 我に返った土方は、その手を軽く下げる。 縋るの肩を乱暴に掴むと、否応なく自分から引き離す。 泣きじゃくっていた女の声が息を止めて消える。それでも、その顔には決して目を向けようとはしなかった。 「・・・・・・・・や。・・・やだ。待って。・・・・・・・ひ、土方さん、っ」 「湯冷めして風邪でもひかれたら面倒だ。パシリが使えねえようじゃ、こっちの仕事にも障りが出るからな」 言い含めるような口調を装おうにつれて、皮肉な可笑しさだけが増していく。 言葉の端に乗せるような感情などすっかり消えてしまっているというのに、喉の奥には冷えた笑いが沸々とわいてくる。 毒のように身体を痺れさせるその暗く濁った笑いが、腹の底へとうっとおしく溜まっていく。 器官をつまらせている冷たい塊を呑み下せずにいるような後味の悪さに、吐き気がしそうだ。 何だ、このざまは。 誰の口から出た声だ、今の情けねえ宥め声は。たったこれしきのことに揺らぎやがって。 仕事に障りが出るだと。よくも言えたもんだ。 女の涙にすっかり溺れかけて、腑抜けた私心も押し隠せねえような奴が、よくもまあ。 笑わせやがる。埒もねえこった。てめえは一体、どの面下げて望むつもりか。 手を伸ばすな。諦めろ。 てめえはこいつの自由を奪うだけの男だ。胸糞の悪い足枷にすぎねえ。 ましてや女を人並みに幸せにもしてやれない俺が。 情の欠片も与えないような酷い真似をどの女とも重ね続け、贖罪ばかりを溜め続けてきた奴が。 笑わせやがる。てめえがどうして、どの面下げて手を伸ばす。 どうしててめえが望めたものか。 この脆くて柔らかな、触れかたひとつで容易く壊れてしまいそうな女が欲しいなどと。 「今のは聞かなかったことにする。お前も忘れろ」 荒れては奔る感情を一つずつ無理矢理に手繰り寄せ、すべてを胸の内に収めきると、土方は静まった声で言い渡した。 こうしている間にも小刻みな足音は近付いてくる。躊躇を覚える暇はなかった。 棚に置いた着替えを片手に掴む。 に背を向けて脱衣所の出口へと向かう。 ―諦めろ。手離せ。突き離せ。何を迷うことがある。この花を手折る資格なんざ、てめえには始めからあったものじゃねえんだ― 着替えを掴んだ拳を硬く握って、さっきから同じことをひたすらに唱えている自分が、 なぜか他人事のように遠く虚しく、滑稽に思えた。 「・・・・・・じゃあ。どうして・・・?・・・・・・・さっきのは。何だったんですか・・・?」 呆然とした問いかけには応えず、横開きの戸を静かに閉めた。 ざっと辺りを見回したが、まだ女中頭の姿はない。 壁に掛かった「男湯」の木札を裏返して直すと、彼はすぐさまその場から立ち去った。 重く鈍る足を無理矢理に速めて、苦しげに歪めた表情を隠しもせずに。脇目もふらずにただ歩いた。 風呂場から漏れて耳に縋りついてくる、悲鳴のような掠れた泣き声を振り切りたかった。 だが、あの声をどうにかして拒み、振り切ったとしても。 胸を占めたこのもどかしい葛藤と痛みからは逃れられそうにもない。 の泣き声を振りきったところでなす術もない。もうひとつの真摯な声が、頭の奥で彼を待ち構えているからだ。 ―なあトシ。お前がを止めてやらねえのは、それだけが理由か― ついさっき、そう問われた。 咎めるでもなく穏やかに問い質してきた、あのまっすぐな声が。今も頭の奥にこびりついていた。 その声の響きを思い出せば、身体までもが重くなる。 歩く足が軋む床板にめり込んでしまいそうな、ずしりと耳に堪える荷重で、彼の身体を埋めていた。
「 片恋方程式。8 」text by riliri Caramelization 2010/02/11/ ----------------------------------------------------------------------------------- next