片恋方程式。 7
ドカドカと猛々しい足音を庭や縁側沿いの廊下に響かせながら、土方は屯所の風呂へと向かっていた。 彼の通ってきた廊下に一直線に引かれているのは、ナメクジの通った跡のようにズルズルと引かれている泥の線。 いや、その足だけではない。彼の全身が土砂まみれだった。無論、沖田の仕掛けた落とし穴のおかげである。 逃げた沖田を追うことも叶わず、なんとか自力で落とし穴から這い出した土方は、 晴らすどころか倍増してしまった鬱憤をギリギリと噛み締めながら自分の部屋へと戻り。 そこで着替えを持ち出し、泥まみれの背中に怒りの炎を噴き上げながら風呂へと向かった。 途中で会った女中頭に驚かれ、軽くたしなめられはしたが、庭の穴に落ちるに至った事情は訊かれなかった。 屯所で働く使用人たちを一手にまとめ上げ、隊士たち全員の生活をまるで母親のような心遣いで取り仕切っている、 女中衆でも一番の古株だ。おおよその事情は、彼の姿を見ただけで察したらしい。 呆れ気味な溜息をひとつ、控えめに品良く漏らすと「後始末はわたくしどもがいたしますので、 どうぞ湯を使っていらして下さい」と、あっさり放免してくれた。 「ったく。風呂なんざ浸かってる暇がありゃあ、雑務のひとつふたつは軽く片付くってえのに・・・」 うんざりしきって一人つぶやく。 しかし風呂に入らないわけにもいかない。今日は例の「会員制高級クラブ豪遊」のまさに当日。 頭から土埃を被ったのに風呂にも入らず、松平に要らない恥をかかせるわけにもいかなかった。 この先を考えてもたっぷりと機嫌をとっておくべき相手に、逆に機嫌を損ねられるようでは意味がない。 思い直して足を速める。 辿り着いた風呂場の前で「男湯」の木札が掛けられているのに目線を送り、戸を引いた。 街の銭湯なみに広い脱衣所には誰の姿もない。ここの掃除が始まる時間が近いからだ。 あと一時間も経たないうちに、大きな湯船の栓を抜き、女中頭の指揮のもとに女中総出の風呂掃除が始められる。 湯気の湿り気を残した床板を軋ませて奥へと進み、脱衣所を縦二つに割って並んでいる 腰の高さの棚の中へと着替えやタオルを放った。とりあえず洗面台で顔や手だけを洗い、 泥のおかげでずっしりと重みを増した上着を脱ぎ、首元に巻かれたスカーフをするりと引き外し。 ベストの前を開け、シャツのボタンも外しかけた頃だ。 脱衣所と風呂とを隔てた曇りガラスの扉の向こうに、何かが動く気配を感じた。 先客がいたか。 何の気もなく目を向けた扉が、横にすうっと引かれる。土方の手がびくりと震えて固まった。 「先客」が桜色に染まった爪先で敷居を踏み、風呂場から脱衣所へ出てきた。髪を拭きながら何気なく顔を上げる。 ほわほわと立ち昇る湯気を白く煙らせて姿を現したのは――― 小さなタオルひとつを手にしただけの、一糸纏わぬ女。屯所の風呂を使う唯一の女。彼の直属部下だった。 濡れた長い髪がしっとりと、張り付いている。 頬や肩に。細身の身体には意外なほどに豊かな膨らみを描く胸に、艶めかしく乱れて張りついている。 淡い色の素肌はどこもかしこもほんのりと色づき、滑らかな曲線を帯びた肢体は、 至る所で光り輝く温かな雫を、爪先まで無数に滴らせていた。 「・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・・・」 どうにか声にして呆然と呼んだはいいが、目を逸らせなかった。 いや、逸らそうと思っても、釘付けになった視線が動かせない。 恍惚と見蕩れたその視線だけではない。身体まで彼女に縛られている。どくん、と、心臓が大きく波打った。 派手な音で脈打ち始めた心臓の鼓動は、彼の意志などまるで無視して、早鐘を打つ勢いで高まっていった。 ぱっちりと目を見開き、呆然と立ち竦むの、ふわりと緩んだ唇に。 薄い桜色に染め上げられた、柔らく温かそうな濡れた素肌に。 濡れたタオルを押しつけた胸元や、腰から太腿にかけての、引きしまった中にも女らしい丸みを湛えた曲線に。 想像以上に官能的に彼の目に訴えてくる。 春の霞のような湯気を纏った、桜色に染まる肌身の思いがけない美しさに、ただただ目を奪われ、見惚れてしまう。 どうにかしている。 初めて女の裸を目の当たりにした、色気づきはじめたばかりのガキでもあるめえし。 そうは思っても立ち尽くすに目を見張り、まんじりともしない土方。 しかし、まんじりとも出来ず釘付けにされているのは、なぜかの方も同じだったらしい。 つい一昨日、偶然の事故によって唇を重ねてしまった時とまったく同じにまじまじと、たじろぎながらも二人は無言で見つめ合った。 「ひ。・・・じかた、さん。・・・・・・・お。・・・疲れ、さま。・・・です。・・・・・・・・・・・」 「お。・・・・・・おう。・・・・・・・・・・・・・・・」 わずかに吊り上がった目をぽかんと大きく見開いたが、半信半疑に頭を下げ。 こめかみに汗を浮かべた顔を引きつらせ始めた土方が、くぐもったはっきりしない返事を返す。 何とも言えずに静まり返った奇妙な間と、風呂場から流れ込む温かな湯気が、微動だに出来ない彼らの間に押し寄せる。 お互いを呆然と見つめ合った二人の顔は、やがて同じような驚愕の表情へと変わっていき。 やがて、わなわなと半開きの唇を震わせたが両腕で抱いた身体をぎゅっと竦め、う、ぁ、ぅあ、と、泣きそうな顔で 意味不明な声を漏らし始め。やばい、と顔を青ざめさせた土方が、震える唇から大声が飛び出す寸前で彼女に飛びつく。 羽交い締めにして慌てて口を抑えた。 「ふ!!!☆◎ふぐ●△ご★○!!☆◇☆★☆★!!!!」 我を失くしたの耳をつんざく絶叫は、塞いだ口の中にどうにか押し戻された。 間に合った、と冷汗まみれでほっとした土方だが、胸を撫で下ろす暇などありはしない。 パニックに陥ったはじたばたと彼の腕の中でもがき続けている。 声も無く陶然と見蕩れていたのが一転、打って変ってげんなりする。が、それでもを離すわけにはいかなかった。 ここで声を上げられてしまっては終わりだ。硬派を自任する彼にとっては致命的なのだ。 もしここでの悲鳴に誰かが駆け付け、副長が女の風呂を覗いていた、などとあらぬ誤解を受けたなら。 いや、それで済むならまだいい。果ては嫌がる全裸の女――それも直属の部下を無理やり手籠めにするところだった、などと 言いふらされる破目になったなら。この先の進退問題どころの騒ぎではない、まさしく身の破滅だ。 「×××フガっホゴ×★☆◎っっっ!」 「ばっ、・・・!おいっっ、お、落ちつけっっっっ、動くんじゃ・・・・っっ」 暴れるの身体が、何の隔たりもなく直にぶつかってくる。 二の腕やシャツの胸元に思いきりぶつかって弾む。柔らかで張りのある胸が、服越しに当たる感触からも、 目の前で揺れている様からも、彼の欲情や後ろめたさをこれでもかと掻き立てまくる。 風呂上がりの肢体から広がる甘い香りや温かさに、頭を掻き毟りたくなるような歯痒さをひしひしと噛み締めながら、 彼はひたすらに耐えた。あまりのショックに我を忘れて暴れるの頭を、自分の胸元に押しつけ。 甲高い悲鳴を殺し、一秒でも早くこの嵐が過ぎ去ることだけを一心に祈る。 いや、全身に気味の悪い冷汗をダラダラと大量に流しながら耐える。ひたすらに、一心に。 憮然としながらも黙りこくって天井を睨み据え、懸命に耐える。 悲しいかな、彼女をアイドル扱いしている屯所の連中にしてみれば垂涎ものだろうはずのこの状況にも、毛程の嬉しさも感じない。 こうなってしまうと色気も役得感もお楽しみも何も、あったものではなかった。 そんな甘美さなどどこにもあったものではない。一体この状況のどこを喜べというのか。 特別に思っている女――しかも裸の、柔らかく無防備な女を、したいように思うままに抱きしめることが出来たとしても、 それ以上には決して手が出せない、などとは。彼にとって、・・・いや、微生物レベルから大型哺乳類、種の起源を辿るならば 古代恐竜に至るまで――オスと分類されるこの世のありとあらゆる生き物にとって、すべからくそれは拷問だ。 俗な言葉を引き合いに出すとしたならば、「生殺し」というやつである。いっそひと思いに殺ってくれ、と懇願せずにはいられない。 「っ、く、ひ、・・・・っ、や、ぃやあああ!どどどどどーしてぇ!!?ひ、土方さ、こ、ここにぃぃぃ!?」 「それぁ俺のセリフだ!何でてめーがここにいる!外の札は男湯に、・・・・・・」 焦燥を隠せない彼の目にふと浮かんだのは、さっき目にしたばかりの戸口の木札だ。 ぐっと固めた拳骨でグリグリとの頭を小突き回し、普段より七割は潜めた声で耳元に怒鳴る。 「てっっっめえ、戸口の札ぁ直さずに入りやがったな!?」 「ふ!?札!!?そんなのし、知りませ・・・! だってえぇぇぇ、札も何も、先にお風呂に入って全部綺麗に洗ってからにしようって、山崎くんがああああ!!」 まだ混乱しているは雫の散る髪をはらはらと振り乱しながら、大きくかぶりを振った。 涙の溜まった目で彼を見上げ、今にも泣き出しそうな真っ赤な顔をして、心細いのか全身がガチガチに強張っている。 「だあァァァ!!」と腹立たしげに怒鳴り、土方は持ってきたバスタオルを引っ掴むと、 肩からグルグルとガムテープでも巻くかのようにをその中に閉じ込め、動きを封じてしまった。 さらに上から、がばっ、と抱きつき、シャツの胸を押しつけての口を塞ぎ、護りを固める。 今にも降りかかりそうだった二次災害をあっというまに食い止め、彼にとっては可能な限りに万全な、膠着状態にまで持ち込んだ。 だが。ところが、だ。 傍目にはより数段落ち着いた行動をとっているように見える彼も、しかし内心では平素の冷静な彼ではなかった。 すでにこの時、沸騰寸前に煮えくりかえった彼の脳裏では、「山崎」という、彼にしてみれば「なぜここでその名が出る」と 訝しさに眉を顰めてしまう男の名をキーワードに、思考がとんでもなく飛躍した、かつ、悶々とした嫉妬がらみの、 まったく的外れな婉曲ルートをたどり始めていたのだ。さて、それがどんな風にかというと。 ――嫉妬にかられて暴走寸前な男の、不合理で突飛な妄想だ。 女性の目からしてみれば、男という生き物の思考がいかに憐れな短絡さで出来ているものかと、呆れ返るだけの馬鹿馬鹿しさ、 かもしれない。なので、読み飛ばしていただいても一向に差支えはないのだが――まあ、さしずめこんな風に、であった。 * * * * * ――山崎だぁ? 何のことだ。何の話だ。聞き捨てならねえ。 どうしてそこで山崎の名が出てくる。一体山崎がこいつに、何を。どうしたというのか。 この時間に、風呂に入れだと?なぜ山崎が、こいつに。 ・・・・・いや。まさか。それはねえ。 ・・・・・・・・・・・・いやいやいや。いくら何でも、まさかそれはねえだろう。 こっちの事情をすでに薄々察していそうな、抜けた面の割には抜け目のねえあいつに限って、 まさか。ありえねえ。いや、あってたまるか。絶対にあるはずがねえ。 いや。だが。・・・・・しかし。 男と女の仲は所詮水物だ。「絶対」なんてこたぁ、・・・・・・・・ ・・・・・・・・もしや。考えたくもねえ話だが。 こいつとあれは、曲がりに曲がって。 俺や総悟の目まで易々と掻い潜って、いつの間にかそういうことになっちまっていたのか。いや、まさか。 あの小心者に限っては、俺を謀ってこいつに堂々手を出してくるような破目外しはするはずがねえと決め込んできたが。 山崎の奴。あっっっの野郎。 こいつを風呂に入れてから、陽が落ちるまでの間にたっぷり楽しもうと。さてはそういう魂胆か――!!? * * * * * 「・・・あんの野郎ォォォ・・・・・・・!!」 「・・・はぁ?」 「あの野郎」って、・・・誰。 誰のことだろう、少なくともあたしのことじゃなさそうだけれど。 ぽかんと大きく口を開け、自分の姿の無防備さも忘れかけたは訊き返したのだが。返事はなかった。 いつも冷然と構えている土方の、突然の異変。自分のことなど目に入ってもいない様子で眉を吊り上げ天井を睨み、 湧き上がる怒りをブスブスと活火山のように噴き上がらせている男の、今にもここを飛び出して行きそうな憤慨ぶり。 彼がここまで怒りも露わに、物騒なセリフを殺伐とした声で漏らした訳が、当然ながら彼女にはさっぱりわからない。 「あ、あのーぉ。ひ・・・土方さ、・・・?」 その火力があれば「焼き芋くらいは余裕で焼けるだろ」と推察されるほどに激しく、 背中に背負った嫉妬の業火を噴火寸前にメラメラと燃やしている土方。 その顔は風呂場の戸口にぷいっと逸らされ、彼の腕の中にいるの目からも、彼の表情は伺えない。 本人以外には誰にもわからなかった。 だが、そんな男の面などは、見ずにおくことをお勧めする。たとえその男の顔の出来具合が著しく整ったものだとしても、だ。 見当はずれな嫉妬にとち狂った男の顔など、どう間違っても決して決して、夢多き女性の観賞に値するものではない。 そんなものは、目の前にダンと姿見用の鏡でも立て、とち狂っている本人と床を這うゴキブリにでも見させておけば充分である。 一方、そんな土方に目を見張っているは、彼のおかげですっかり落ち着きを取り戻していた。 暴れるのも忘れ、自分の姿の大胆さすらも忘れて、グラグラと煮えたぎる怨念のマグマ風呂に一人悶々と浸っている男に しげしげと見入っていた。人は誰しも、どんな窮地に立たされたとしても、自分以外の誰かが自分以上に取り乱し、 我を忘れている様を眺めさえすれば、なぜか瞬時に冷静な自分へと立ち返れるものだ。 「も、もう、いいです、・・・何が何だかよくわかんないけど。とにかく。あのぉ。は、離して、くださいぃ」 しどろもどろに言い出しただが、身体に巻きついた土方の腕はびくともしない。 もぞもぞと身じろぎはしてみるのだが、動くたびに恥ずかしさが増していく。顔から、いや、全身から火が出そうだ。 タオル一枚を隔てた自分の身体が、動けば動くほどに押しつけられた土方の胸と擦れるのだ。 これでは思い切った動きも取れない。どうすればいいの、と眉を下げて今にも泣きそうになっていたところで、 突然土方の腕が動き、タオルの上から両肩を掴まれる。はっとして顔を上げた。 風呂場の扉に顔を逸らしていたはずの男は、なぜか今は、脱衣所から廊下を繋ぐ戸口へとその鋭い目を向けていた。 「・・・・・」 「は、はいぃ?」 「俺がいいと言うまで黙ってろ」 「・・・・・・・・はァ?」 間の抜けた返事をろくに聞きもしないうちに、土方の腕が大きく動く。 濡れた髪を鷲掴みにしながら、の後ろ首を広げた手で抑え込む。腰の下――何も身につけていない 彼女の太腿からお尻にかけてを掻き抱くようにして引き寄せた。 「!!ひ、っっっ、や、やややぁぁ、な、な!!?」 「耳元で叫ぶな。俺ぁ、まだいいとは言ってねえぞ」 ふわり、と、暴れて床を蹴ったはずの足が宙に浮く。足だけではない。全身が持ち上げられ、抱きかかえられていた。 留められていなかったバスタオルが、はらりと彼女の桜色の肢体から滑り落ちた。 身に纏うものを失くしてしまい、寒さと羞恥に震えたの背中がびくんと跳ねる。しかしそれには構うことなく、 土方は彼女を更に高く抱き上げた。落ちたタオルをちらりと一瞥はしたが、言葉も出ないを自分の肩にもたれさせて、 脱衣所の隅へと向かう。角に置かれた、人が三人は入れそうな箱状の「洗濯物入れ」の前に立った。 ここ真選組屯所では、普段着の衣類などは、原則として隊士がそれぞれに自分で洗うのが習わしになっている。 しかし局長と副長、隊長格などの幹部級隊士は、別格として通いの女中衆に洗濯を任せることが許されていた。 汚れ物が出た場合、局長以下幹部級隊士の殆どは、脱衣所の隅に置かれたこの箱にそれを入れておくのだ。 今もその中には、シャツだの浴衣だの下着だのシーツだのが無造作にゴワゴワと突っ込まれ、混沌としたカオスを生んでいる。 こんなところにも男所帯の虚しさが・・・とでもいうべきか。前に立つだけでそこはかとなく汗臭く、むさ苦しい匂いも漂ってきた。 その香ばしいカオスの中に、ぽい、と裸の女が投げ入れられた。 ボスン、と顔から着地して埋まったは、あっけにとられながらもゴソゴソと身を捩って起き上がる。と、鼻先で強烈な匂いがした。 持ち主不明な黒の使用済みトランクスが頭上からぽろりと落ちてきて、ぞわわわわっ、と全身を鳥肌に染めて縮み上がる。 「や!いっ。・・・・・いやあああ!ななな、何これェ!何するんですかあああ!!いやああっ、濡れた犬の匂いがするううう! せっかくお風呂に入ったのにいいいい!!ちょっ、出して!出してくださいよォ!ここじゃ息も出来ませんよォォ!」 「フン、却って好都合じゃねーか。。お前、しばらくそこで窒息してろ」 「な、・・・・なあっ、何で!?やっ、やだぁ!出してえぇぇ!だってえ、あたし、・・・も、戻らないと。山崎くんがああ」 「・・・・・・・・はっ。山崎だあああああああ・・・・?」 「へ?」 が呆けた顔で訊き返す。 ふっ、と、暗い笑いを浮かべた土方が、口端を片方だけ吊り上げる。地を這うような低い笑い声を漏らした。 「・・・聞きたくもねえ。口開きゃあ山崎山崎山崎と。 ・・・・・・・・おい。てめえらがどんだけ深い仲かは知らねえがなぁ。そこまで野郎が気になるか」 「は?・・・・・え。ひ、土方さん?深い、って・・・何のことですか。何言って」 言いかけたの顎から頬にかけてを、広げられた土方の手が力任せに抑えつける。 箱の中のへと身を乗り出し、お互いの顔がぐっと間近まで寄せられた。 驚いたがびくんと肩を震わせ、困惑もあらわな泣き顔になる。 片腕で揺れる胸を覆い隠し、じりじりと身を引き、耳まで真っ赤に染めながら、洗濯物の海に溺れそうになりながら後ずさった。 それを拒んで、土方は彼女の背中に腕を回した。ぐいっと自分の目の前まで、額と額がくっつくほどに抱き寄せる。 「黙れ。山崎なんざ知るか。黙らねえならこの口塞ぐそ、バカ女」 「――え、・・・・・っ」 ごくわずかに笑いの混ざった、どこか可笑しそうに昂揚した声。 しかし何かを押し殺してこらえているようにも聞こえる、耳慣れない声だった。 土方の声の複雑さにいっそう戸惑ったは、どんな顔をしていいのかもわからなかった。 抱かれた背中と抱いた腕から、隔てるものをすべて取り払って感じる互いの素肌の熱さ。 同じ温度が、こつん、と軽くぶつかってきた額からも、あとわずかで触れるまでに迫った唇からも、吐息と一緒に伝わってくる。 「土方、さ、・・・・・・・・・・・・」 小声で呼ぶと、口端にまだ残っているあの切り傷が、ぴりっ、と彼女を呼び起こすかのように痛んだ。 心臓がひどくうるさい。飛び出しそうなくらいに大きく鳴っていた。 この男の目の前に素肌を晒している自分の姿を思い浮かべると、消えてしまいたいくらいに恥ずかしい。 けれど、逃げたいなんて思えない。 苛立たしげに見つめてくる射抜くような目も、額から伝わる熱も、背に回された引き締まった腕も。強く香る煙草の匂いも。 泣きたいくらい困っているけれど、逃げたくはならない。ただこうしているだけで、肩の力が抜けていく。 鋭く見つめられても怖くはなかった。目の前で、何か苦しげな色を浮かべて自分を見つめている男の表情すらもが嬉しい。 土方に腕を伸ばし、抱きついてしまいたい。このまま身体を預けてしまいたいくらい心地が良いのだ。 懐かしいような、嬉しいような、泣きたくなるような気分で身体が満ちていく。 こんなに近くで見つめられ、触れられているのが信じられない。夢じゃないんだろうか。 土方さんがあたしを見ている。土方さんがあたしを抱きよせて。あたしに触れている。 こうなったらいいのに、と自分でも知らないうちに心の奥底で願っていた、叶うはずの無い儚い夢でも見ているような気がしてしまう。 肌を滑って動いた土方の親指の先が、無造作に、歯痒そうにの唇を撫でる。 切れた口端まで届いた指先が、傷に気付いてふと止まる。それからそっと、労わるように優しく傷口を滑った。 その動きに誘われたかのように、瞳を潤ませたは切なそうに薄く唇を開く。ほのかな吐息を漏らした。 どこから生まれたともない張りつめた静けさに、二人の身体が包まれる。 時折苦しげに漏らされる微かな息遣いも。高鳴った心臓の音も。 お互いの身体から生まれるすべての音が、身体を通して鼓膜に直接響いてくる。 土方が困ったような目をして何かを言いかけ、口をわずかに開く。 はゆっくりと睫毛を伏せる。ぎこちなく目を瞑った。 薄紅に色づいたその表情は、心地良いまどろみの中に溶けていくかのようだった。
「 片恋方程式。7 」text by riliri Caramelization 2010/02/07/ ----------------------------------------------------------------------------------- next