片恋方程式。

6

一方その頃。 同じ屯所内の局長室では、二人の男が顔を突き合わせていた。 床の間の掛け軸を背にした上座に腰を据え、渡された手配書に難しい顔で目を通しているのが局長の近藤。 そして、その向かいに座り、似たような厳しい表情で近藤を見ているのが副長の土方。 「しばらく誰も入らないように」と言い渡して障子戸をぴたりと閉じ、念を入れた人払いをした二人は 普段よりも幾分潜めた声で話を続けていた。 話題に上がっているのは、近藤が手にしている手配書の男についてだ。 「そうかぁ、・・・今のところこいつだけか、写真を目にしてが血相変えたのは。 で、どうなんだ。兄貴か東雲に繋がりそうな手掛かりは、こいつから掴めそうなのか」 「さあな。監察方にも張らせてはみたが。叩いたところで埃も出そうにねえ奴だ」 慈善団体の施設に監禁され、真選組の手入れによって発見された子供、美代。 一度目にした顔は誰であろうと忘れない、という稀な特技を持った幼い少女だ。 彼女の事情聴取を続ける中で、毎回土方に同行しているが唯一、その顔写真に吸い込まれるかのような顔で 我を忘れ、呆然と写真を見つめた男。それが今、近藤が写真を見据えている手配書の男である。 何度も幼い事件関係者の許に出向き、膨大な量の手配書写真を一枚一枚、手間と時間を割いて確認させる作業。 特に手練手管を要するわけでもない。一人に任せても何ら問題の無さそうな、子供相手の事情聴取。 そこに毎回土方が同行していた理由こそがこれだ。美代の反応を直に伺うためではなく、 手配書の顔写真を目にしたの反応を、一枚一枚に措いて彼がその目で見極めるためであった。 の昔馴染、服部からもたらされた彼女の義兄の話。 家を出奔し、今もどこかで攘夷浪士に与しているのではないかとみられる、その男――白石千影の行方は ごく僅かな、必要最低限の人員のみで今も探られている。家族のには明かすことなく、内密に捜索は進められていた。 身内に、幕府に背いた咎人がいる。 それだけでも人に話したくはないだろう。言わずに秘めておきたいことなのだろうとは察せられる。 さらにの過去を思うと、本人に事情を聴くのも躊躇われた。 何が起きてのことなのかは今も不明だが、突然家を飛び出した末に行き倒れるような、無鉄砲なうえに弱いところのある女だ。 もし近藤や土方が直接に兄について仔細を問い質したとしたら、彼女はどうなるか。 それで何事もなければ問題はない。だが、もしそれが彼女を心境的に追い詰めることに繋がるとしたら。 動揺したはすぐさま屯所を飛び出し、再び姿を消してしまうのではないか。 自分は真選組に――近藤や土方に拾われたのだという恩義をいまだに通しているような、あの義理堅くて ひたむきな性分を考えると、やはり兄のことを必要以上に負い目に感じて、行方をくらます可能性は否めない。 そんな予想が、彼女の兄のことを知った二人が真っ先に抱いた危惧でもあった。 今のの扱いは、古くからの知人である松平を介して、真選組が一隊士として預かり置いているようなものでもある。 ここで彼女が再び行方不明になれば、頭を悩ますことになるのは彼等だけではない。彼女の身元引受人を 買って出ている松平への申し訳も立たないし、妹だけではなく、兄にも出奔されている義父の心痛も増すだろう。 故に二人は、に対しては何ひとつ気づいていないふりを通し、やその兄についての情報を遣り取りする時にも 念を入れた人払いをかかさず。これ以上には誰かに話を漏らすことのないようにと、示し合わせているのだった。 「デカい組織の末端を渡り歩いて日銭を稼ぐ、シケた小者らしい。今は黒鉄派本体の下っ端に潜り込んでるようだが」 「だが、調書の中でが反応を見せたのはこいつ一人なんだろう。どうする、一度別件で引っ張ってみるか」 「ああ、そのつもりだ。あれァたいした役割は負っちゃいねえようだし、黒鉄派もじきにお払い箱になるだろう。 ・・・あそこの情報もまだまだ不足してるからな。どうせならその時を狙うつもりでいたんだが」 そうか、と軽く頷き、近藤は「ところでなあ、トシ」と前置きした。 「お前の考えを一度訊いておこうと思ってな。のことだ」 「・・・・・・・。ああ」 「いや、俺もな。あれから考えてみたのさ。とりあえず一線からは退かせて、しばらく勘定方に預けるか、 とっつあんの側近役ってえ名目で本庁に預かってもらうかと思ったんだが。どうだろう」 実はな、とっつあんにはもう話を取り付けてあるんだ。 顔色を伺っているような注意深い目つきで見つめてくる近藤から、例の手配書を差し出される。 土方はわずかに表情を固め、面食らったかのような間を空けた。だが、無言でそれを受け取った。 「今はまだ俺の杞憂にすぎねえがな。兄貴が攘夷浪士に与していると知れたなら、あいつもここでの立場に困るだろうしなァ。 家へは帰りたくねえって本人の意志も、今までは自由に通させてきたが。これからはそうもいくまい。 何とか言い含めて、少なくとも一度は家にも戻すつもりだ」 「近藤さん。あんた、あれを説得する気か」 「ああ。どう思う。お前から見れば、お節介が過ぎるか」 「そうは言わねえが。・・・家のことにかけちゃあ意固地な奴だからな。骨が折れるぜ」 「ははっ、そうだなぁ、・・・・・・だがなァ。このまま放ってもおけねえだろうよ。 捕らえなきゃいけねえ奴が、血は繋がらねえとはいえ、長年共に暮らした家族ってえのはなあ。 酷な話だよ。身内だってえだけでも、赤の他人を捕らえるのたァ訳が違ってくるってえのに・・・・・・・」 真選組を結成してから数年来、近藤や土方は多くの隊士たちを迎えてきた。 殆どの者が屈強な荒らくれ者たち。血気盛んで無鉄砲な時を経て隊士の道を選び、今も脛に何かしらの傷を 残している輩も少なくはない。そんな彼等が、過去には友と呼んで共に悪さをし、共に泣き、笑いあっていた仲間や、 安らげる身内として信じていた者を、何の因果か自らの手で捕らえざるを得なくなってしまうことがある。 稀にではあったが、そういった皮肉な運命の導きもあるのだ。今までに前例がないわけではなかった。 それでも彼等は捕らえなければならない。 たとえそれが心を預けた友であっても。 長い時間を互いに分かち合ってきた、温かな情を分けた身内や肉親であったとしても。 とはいえ、身を切られるような辛さを負った隊士たちの苦しみようを幾度か目にしてきて、それでも他人事として 「仕方のないこと」と一言下に切り捨てるには、近藤という男は優しすぎた。 仲間の苦しみを。いや、仲間であろうとなかろうと、目の前で苦しみに耐えている者の姿を 他人事として放ってはおけない性質なのだ。 ましてやは、実の父母を亡くし、血の繋がりのない義父に引き取られた娘。育ててくれた養家に恩義を抱えてもいるだろう。 そこで共に育った義理の兄を、国に背いた逆賊として追う苦しみとは、にとって如何ほどのものか。 それはつまり、義父への恩を仇に曲げて返すこと。 ひいては家族と家から一生の決別を余儀なくされることに、他ならないのだから。 もしも義兄を追わざるを得なくなった時に、あの義理堅いが背負うことになる重い苦しみ。そして悲しみ。 その辛さは、けして彼の想像に難くなかった。 胡坐を掻いた両脚の膝をそれぞれに、大きく広げたその手でぐっと握り。 畳を見据えながら近藤は話し続ける。決意をすでに固めた者の、きっぱりとした声だった。 「これはにとっては辛れェ道だ。荊の道さ。俺はな、止められるもんなら止めてやりてえと思ってる。 こんな取り越し苦労は、俺だってしたかねえが。もしも、どこかで兄貴に出くわしたが、 兄貴を我が手に掛けざるを得ねえ状況に追い込まれちまったら、と思ってよ。・・・・・なあ。ひでェ話じゃねえか」 野郎にだって堪える話だ。 まだ頼りねえ、若い娘に負わせていいような重荷じゃねえよ。 そう言って眉根を寄せ、軽くかぶりを振る近藤に、深く目を伏せた土方はぼそりと醒めた口調で答えた。 「だとしてもだ。その荊道を選んだのは、あいつ自身だ」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 「まあ、あの馬鹿が兄貴の事をどう考えていやがるのかは、俺にも見当がつかねえが。 俺たち他人が、・・・・・・いや。あんたがそこまで気に負ってやることはねえさ」 「・・・・・・・。トシ」 「あぁ?」 呼ばれた土方が目を上げる。 視線を交わらせた二人はしばし向き合った。無言のうちに互いの思惑を計っているかのように。 常から無表情な土方の、読み取るには難しい微細な表情の変化。しかし、付き合いの長い近藤には探らずとも見えていた。 向き合う男の静まりきって冷えた目。その奥にゆらりと燻っている、ごくわずかに尖った苛立ちの影が。 「お前。本気でそう思ってるのか?このまま続けさせる気でいるのか? をこのまま現場で、総悟の相棒として。先陣切って飛び込む役目を、・・・・・・・」 声を途切れさせた近藤が口を引き結ぶ。ふっ、と軽く吹き出した彼は、表情を柔らかく崩して苦笑をこぼした。 生来の人懐っこさを子供の頃のままに残したその笑顔は、彼のへ対する酷薄さをもう責めてはいない。 ゴホン、と咳払いを打って笑いを納めると、訝しげに眉間を曇らせている土方へと、身を乗り出した。 「いや。今のは間違いだ。・・・・・・いやあ、そうだなァ。俺ァ、最初っから訊き方を間違えたらしい」 違うな。そうじゃねえんだ。 酒を酌み交わしている時によく見せる打ち解けた表情で土方を見据えながら、近藤が独り言のようにつぶやく。 違うのだ。彼がずっと訝しんでいたのは。訊きたかったのは、 『トシがこれから先のの処遇をどう考えているか』そんなことではない。 いっそ自分一人の取り越し苦労に終わってくれたなら、と望んでいる複雑な問題よりも、もっと遥か手前にある疑問だ。 近藤の胸にあるのは、土方に対するごく素朴な疑念。 彼らしい友人への誠実さから浮かんだ疑問。苦労を共にしてきた一番の友に対する、率直な問いかけだった。 「なあトシ。お前がを止めてやらねえのは、それだけが理由か?」 単刀直入に尋ねた近藤は、表情を揺らすこともなくただ黙している男と見つめ合う。 と、そこに答えを被せてきたのは、障子戸をがらりと開けて踏み入って来た男だ。 「訊くだけ無駄ですぜ、近藤さん。 保護者面して姫ィさんの周りを見張っちゃあいるが。実はの事なんざ、一切考えちゃいねーんだ。この人は」 座る近藤に笑いかけている沖田は、じろりと睨みつけてくる土方の視線に臆することもない。 向き合う二人の手前に腰を下ろすと、何の遠慮もない仕草で刀をぽいと放り出す。 その柄が土方の脚に当たって、畳にばたりと落ちる。 ちっ、と不機嫌そうに舌打ちして煙草を取り出そうとしている彼を眺め、沖田はにんまりと笑った。勿論、わざとやったのだ。 「何でェあんたら、狡りぃじゃねーですか。二人っきりでこそこそと、何のご相談ですかィ」 「いや、・・・これはだな。つまり、上部機密を含めた案件でなァ。父っつあんからも緘口令が敷かれてるんだ。 悪りいが総悟。いくらお前と言えども、こればっかりは話せねえのさ」 「へェ。そうですかィ。・・・ああ、土方さん。あんたがこき使ってる直属隊士にも、緘口令とやらを敷いた方が良さそうですぜ」 顔を近づけ迫る沖田を避けるかのように、土方は目を伏せた。 彼の声など聞こえていないかのような落ち着き払った態度で、咥えた煙草にライターの火を灯す。 近藤だけが不思議そうに目を瞬かせた。 「・・・?何だ総悟。がどうかしたのか?」 「ええ。何でも一昨日、性質の悪い野良犬に噛まれちまったそうで。顔に傷痕が残ってましてねェ。痛々しいったらありゃしねえ」 嘲笑うような沖田の表情や、挑発的な物言い。 そこに何の揶揄が含まれているのかがさっぱり判らず、近藤はいっそう疑問を膨らませた顔になっている。 「お邪魔しやしたぁ」と飄々とした鼻唄を口ずさみながら出ていった沖田の背中を、黙って見送った。 すると、それを追うようにして土方までもが立ち上がる。沖田の忘れた刀を掴むと、何も言わずに部屋を出て行った。 「・・・・・・・・・?」 疑問がさらに倍に膨れ上がり、一人残された近藤は首を傾げ、腕組みをして考え込んだ。 屯所の縁側を速足に進んできた土方は、廊下が右に折れる角の手前で足を止めた。 陽の射さない曲がり角の影から、ひょい、と沖田が姿を現す。 「俺に何か御用ですかィ」 彼が追ってくることは判っていたのだろう。 澄ましきって尋ねる沖田に、土方は眉間をわずかに寄せて「何を言ってやがる」とでも言いたげな顔を向ける。 「どうも最近、の様子がおかしいとは思ってたが。まさかあんたの仕業とはね。 いやァ、これだから色男ってえのは酷でェや。女の扱いがこうも荒いとは。呆れたもんだぜ」 「緘口令なんざ要らねえだろ。てめえの回りすぎる口は、こいつで塞いだほうが早そうだからな」 フン、と口端で咥え煙草を揺らしながら嘲笑った土方が、高々と沖田の刀を放り上げた。 頭上でぱしりと柄を掴み止めた沖田の返事も待たずに、自分の刀に手を掛ける。 鍔元が鞘からわずかに引かれ、カチッ、と硬質な音を鳴らした時には、すでに、彼の表情や佇まいまでもが切り変わっていた。 組織の要の一端を担う、冷静沈着な局内No.2の顔などとうに脱ぎ捨てている。 ふてぶてしさも露わな笑みで愛刀を引き抜く寸前に構えているのは、ただの喧嘩好きな男。 好物の喧嘩を前に、逸る血の気を全身に滾らせている男だ。すっかり彼生来の顔に戻っていた。 丁度いい。 ここ数日、ぶつけようのねえ鬱憤が溜まってむしゃくしゃしていたところだ。 しかも相手は生意気なクソガキ。 遠慮も手加減もまったく必要がない。これ以上なく格好の喧嘩相手との、願ってもない憂さ晴らしにありつける。 「いいですぜ、今日はとことんお相手しやしょう。真面目くさったその面見てるだけで吐き気がすらァ」 まんざらでもなさそうな様子で沖田が含み笑いを浮かべ、二人がほぼ同時に刀を抜き払う。 二本の白刃がそれぞれに、春も終わりを迎えて暖かに緩んだ午後の陽光を浴びて冴え冴えと煌めく。 保たれた間合いも睨みあう目線もそのままに、縁側へと降りて構えを取った。 互いの動向や静かに放たれる気迫から目を逸らすことなく、間合いを詰めることもなく。じりじりと、擦り足を庭の中央に進めていく。 が、そこで土方がはっと目を見開いた。ちょっとした異変に気が付いたのだ。 とはいえ、してやった、とばかりに微笑む沖田の口許の歪みを目にした時には、もうすべてが手遅れだったのだが。 「っっ!!」 なぜかそこだけが柔らかくなっていた足元が、一瞬にしてぐにゃりと崩れる。 どおぉっっ、と雪崩れた轟音とともに、土煙を上げて彼は足から吸いこまれた。 崩落する地面に引きずり込まれるように。突然自分の周囲を襲った土砂に呑み込まれるように。 ――要するに、落ちたのだ。まんまとしてやられたのだ。 の唇を奪った土方に腹を立てた男が仕掛けた罠に。いや、クソガキの馬鹿げた悪戯に。 つまり、抜いた刀を肩に乗せ、したり顔で口笛を吹いてこちらを見下ろしている沖田が、庭に仕掛けていた落とし穴に。

「 片恋方程式。6 」text by riliri Caramelization 2010/02/03/ -----------------------------------------------------------------------------------             next