「あーあァ。一昨日のあれァ惜しかったなァ。桂の野郎、上手いこと逃げやがって」 「・・・・・・・・・うん。・・・・そーだね。惜しかった。・・・よね。・・・・・・・・・・・・・・」 「聞いたかい姫ィさん。昨日の夜、九番隊がかぶき町の繁華街で奴を見掛けたってえ話だぜ」 「・・・ふーん。そうなんだぁ。・・・・・・・・・・へぇ〜〜。・・・・・知らなかったぁ・・・」 「何でも裏通りを托鉢僧に化けて歩いてたとか言ってたなァ。 向こうもこっちの制服に気づいて、人混みに乗じて一瞬で姿をくらましちまったらしい」 「・・・・・・ふーん。そぉなの。それは。・・・惜しかったね。ほんっと、残念だよね。は。ははは、はは・・・は」 「・・・・・・。そういやあ姫ィさん、聞きやしたかィ。あの野郎が」 「ふーん。そう。あの野郎が。・・・・・・・・・・・・・・・・」 『あの野郎』、って。 ・・・えーと。誰だっけ、あの野郎って言ったら・・・・・・。 ああ、そっか。あれだよね、あれ。 あの野郎って言ったら、あのひとしかいないよね。いつも総悟がいまいましげに、憎たらしそうに呼ぶあのひとのことか。 そういえば、時々不思議に思うんだけど。 いつも澄ました顔を崩さない、人に素の顔を見せたがらない総悟が、 あのひとに対してだけはこんなにあからさまな嫌い方をしてみせる理由って。何なんだろう。 なんだか根が深そうっていうか。よっぽど何か強い恨みがあるんだろうなぁ、土方さんに。 敵対心剥き出しで『あの野郎』なんて呼び捨てにしちゃうくらいに強い何かを、・・・・・・・土方さんに――― ぱちくり、と大きく強張った瞬きをしてから、唐突にあたしは縁側から跳ね起きた。 どこか恨めしげな目であたしを睨みつけていた総悟と目が合うやいなや、ボッと顔に火がついた。 「!!!なっっ、何!?や、やだ、何、今、何の話してたんだっけ!!?」 おたおたとあわてふためき、振り回した手からはマンガが飛び。あやうく障子を破ってしまうところだった。 ていうか、さっきまで読んでいたマンガをまだ持ってたこともすっかり忘れてた。 総悟は持ってきた菓子鉢からあの「誰も食べない激辛煎餅」をひょいと摘み、こっちへ向けて差し出した。 女の子みたいに綺麗な顔は眉が吊り上がり気味だし、隣のあたしへと身を乗り出して強引に迫ってくる。 ムッとしているのは言うまでもない、珍しくわかりやすい反応だ。 なのに、「はい、あーん」と、まるで小さい子に食べさせるような真似をする。 「土方さんの話でさァ。どうもあの人ァ最近、様子が妙におかしくてねェ」 「・・・・・・へ、へぇ。土方さんが。そぉ、なんだ」 困惑しながら、真っ赤なお煎餅をぱくりと咥える。 隊服の上着もスカーフも床に投げ出し、額にいつものアイマスクを貼り付けた総悟は、さっき昼寝から目覚めたばかりだ。 今日が非番のあたし以上にくつろいでいる一番隊隊長は、満足そうに小首を傾げて、表情を変えた。 ふっ、と笑った口許が少し歪む。冷たい微笑みであたしを見据えた。 「なぁ姫ィさん。あんた、何か気付かなかったかィ」 「・・・・・・・・さあ。あたしには、特に、・・・・・・・・」 「そーかねェ。いやァ、そんなはずはねえだろう?」 「そんなはずは、って・・・」 「最近様子がおかしいのは、あんたも同じじゃねーですかィ。 それも揃いも揃って、桂を捕り逃がしたあの日からですぜ。これじゃあ疑うなってほうが無理な話だ」 出た。これが出たらヤバい。 この顔が出たら要注意。これこそドSモード突入時の顔だ。 避難しようとじりじりと後ろへ退がっていると、追って迫ってきた総悟がの手が頬を軽く押さえた。 うっ、と呻いたあたしは凍りつく。まだ少年っぽさの残っている細めな手が、ペチペチと頬を叩いてくる。 柔らかな明るい色を湛えた大きな目は、追いつめた獲物を狩る楽しさを覚えた、ドス暗い捕食者の目つきに変わっていた。 「なァ姫ィさん。洗いざらい正直に吐いちまいなせェ。一体、野郎と何があったんでェ」
片恋方程式。 5
「わかってるの、あたしも。 あれはただの事故だって。わかってるんだけどね。・・・・・・・・でも。その、やっぱり。・・・気まずくて」 時々言葉を支えさせながら、桂に逃げられるまでの顛末をざっと話し終えると。 眠たげな目を庭に向けていた総悟は、眉を微妙に吊り上がらせてあたしを横目に眺めた。 「そういうことかィ。・・・・・・あの野郎とキス、ねェ」 「・・・総悟ぉぉ。そんなにはっきり言わないでよぉ〜〜〜!」 両手で耳を塞いで、八つ当たり気味な恨みごとを言った。 うつむいて自分の膝ばかり見つめているのは、赤くなってきた顔を隠したかったからだ。 どうしてだろう。 人の口から言われると、自分で言うよりもうんと生々しく聞こえる。 なるべく思い出さないようにして頭の奥の方に閉じ込めて、やっと薄れかけてきた記憶なのに。 自分以外の誰かの口を介して出てきた言葉に刺激されるのか、あの時のことがやけに鮮明によみがえってくる。 突然口の中に広がった煙草の香りとか、唇から伝わった体温とか。肩に回された腕の重さまで。 いたたまれない気分になってなんとなく唇を噛んだら、あの時に出来た口端の傷が引きつった。 ぴりっと痛む口の中の感触につられて、身体を火照らせる生々しさがさらに湧き上がってくる。はぁ、と思わず溜息が洩れた。 「土方さんもね。・・・きっと気まずいんだよね。あれから全然目を合わせてくれないし。 昨日も一昨日も、必要最低限しか話しかけてくれなくて。・・・・・・ねえ。あたし、どうしたらいいのかなぁ」 「忘れちまえばいい。気にするこたァねーよ。んなつまんねェことで悩むだけ無駄だぜ」 「そ・・・・。そりゃあ、総悟から見たら、どうでもいいことかもしれないけどさぁ。・・・・・・でも」 「たかがキスに、そこまで気に病むこたァねーだろィ。 だいたいそいつは、桂にまんまとしてやられただけのことじゃねーか。そんなもんキスたァ言わねーや」 そう。多分総悟が正しい。 あれから何度思い返してみても、同じ答えが出てくる。あれはただの事故でしかなかった。 何の意味もない偶然の衝突で、偶然にそうなってしまっただけのこと。ただそれだけだ。意味なんて何もない。 意味なんてない。・・・・・・・・あたし以外には、誰にも。 「いいかい姫ィさん。 相手は仕事しか興味のねえトーヘンボクですぜ。どうせ野郎はそんなもん、何とも思っちゃいねーんだ。 あんたが気にしてやるこたーねーや。犬に噛まれたとでも思って、さっさと忘れちまえばいいじゃねーですか」 「・・・そう、・・・だよね。うん。あたしもね。そうするのがいいのかなって思ってたんだけど、・・・・・・・・・・。」 「姫ィさん」 珍しく強い口調で呼ばれて、あたしはつい顔を上げた。 上げた途端に、向けられた視線の強さに気圧されそうになる。総悟の瞳が、じっと、あたしだけに凝らされていた。 「あんた、何か忘れられねー理由でもあるのかィ」 動揺ぶりを面白がっているような、笑い混じりな口調でそう言われた。 あたしは黙ってやり過ごした。じっと見られているのがもどかしくて、笑ってごまかしながら目を逸らす。 『ううん、何も。』 そう返せばいいだけだ。なのに、何も言葉が出て来なかった。 ふぁーあァ、と腕を空へ伸ばして大きく欠伸をすると、総悟は額から外したアイマスクを上着の裏にへ放り込む。 涙目でけろりと空を見上げる顔は、すっかりいつもの飄々とした表情に戻っている。 「昼寝にも飽きたしなァ。しょーがねーから見回りでも行ってくるとするかァ。・・・あ、そーだ」 立てた人差し指の先をヒョイヒョイと動かしてあたしを呼ぶ。 近寄ると、総悟が顔を寄せてくる。低めに落とした声で耳打ちしてきた。 「これは俺しか知らねーんだが。姫ィさんにも、土方さんの弱味を握らせてあげやしょう」 笑い混じりで注がれた声は、どことなく思わせぶりな言い方だった。 耳に触れる吐息のくすぐったさに身体を竦めて離れようとすると、総悟はあたしの腕を取る。 少し強引に引き戻して、どんな微かな音でもしっかりと耳に入るくらいの近さから囁いた。 「あの人の文机の左の引き出しだ。奥にある封筒に、姉上の写真が入ってる」 総悟の声が耳を打つ。 いつも通りの緊張感がどこにも感じられない声なのに、聞いた瞬間、氷の針を呑み込まされたような気がした。 あたしが息を詰めて不審な気配を見せても、総悟の表情は揺らぐことがなかった。 ただ愉快そうに、邪気のあまり感じられない自然な微笑を含んでこっちを見ている。 強張る頬を歪ませて、あたしは笑顔を取り繕った。 「ふーん。そうなの。土方さんが。写真を。・・・・・・そうなんだぁ」 「ああ。土方さんもこそこそと、柄にもねえ真似するもんだぜ。 あれァ江戸に出てくる少し前の写真だろうなァ。今よりも髪が長くてね」 「そう。・・・・・そう、だよね、写真くらい。持ってるよね。・・・・あ、あははっ、そっかあ、 そうだよねー、土方さんらしくないよ、全然似合わないよね?恋人の写真をこっそり隠し持ってるなんて」 「まったくでェ。明日、そいつをネタにからかってやりなせェ。気まずさなんて一編に吹っ飛んじまうぜ」 そう言って、刀や上着を掴んだ総悟が立ち上がる。ポン、と軽く励ますようにあたしの肩を叩いた。 上着を羽織りながら、こっちへ向けて上げた手をヒラヒラと振って縁側を去っていく。 動揺を隠したい一心の下手な笑顔で押し通しながら、その背中を見送った。 総悟の姿が見えなくなると、お腹の底から溜息をついた。強張った肩から力を抜く。 塀を挟んだお隣の家の背の高い桜の木に目を向けて、床に残された菓子鉢から視線を逸らした。 胸をしめつけているもやもやした気分が、重苦しく喉の奥を塞いでくる。 これって去年のクリスマスや、この前の遊園地とまるで同じだ。あの時とそっくり同じに、 懲りずにふわふわと浮足立って宙に漂っていたのを、総悟の言葉に足を掴まれ、元から居た所まで引きずり戻されただけ。 ただそれだけなのに。 総悟のお姉さん。沖田ミツバさん。 会ったこともない女のひと。 声を聞いたこともなければ、写真で顔を目にしたこともないあたしには、遠いひと。 たまに誰かに話を聞かされたり、今も武州で暮らしているんだとは知っていても、現実味をあまり感じない。 何かの小説に出てくる登場人物みたいに、存在の捉えようがないひとだ。固くそう思い込んできた。 ずっとその名前から耳を閉ざして、ずっと遠ざけてきた。 誰に話を聞かされても、そのひとが総悟のお姉さんだという事実以上には、何も感じないようにして。 あたしとはかけ離れた、遠い遠い場所にいるひとなんだと思い込みたかった。これ以上は、ひとつだって知りたくないから。 認めたくなかった。今だって認めたくないし、知りたくもない。 あのひとが誰よりも大事に思っている女のひとが、どんなひとなのかなんて。 「あ、いたいたァ、さぁーん」 急に呼ばれて、びくっと肩が震えた。強張った顔を隠せずにそのまま振り向く。 縁側の端から顔を出して声を掛けてきたのは、私服で袴姿の山崎くんだった。 この時間に私服なんだから、多分山崎くんも非番なんだろう。 笑顔がいつになく伸び伸びしているし、腕にはミントンのラケットが二本抱えられている。 「今日は非番なんだって?俺もなんだよねー。 いやー、部屋にも食堂にもいないから、ずっと探してたんだ。もし暇だったらさー、この前のミントン勝負の続きをと思って」 ラケットを少し手前に差し出して、どうかなあ、と上目遣いな笑顔で遠慮気味に訊いてくる山崎くん。 ラケットと山崎くんの手を無言で、何も考えずにぼんやりと見つめた後で、あたしは張りのない声で答えた。 「・・・・・・うん。いいよ。やるよ。やろーよ。何なら今から朝まで一晩中でもいいよ」 「へ?ひ、・・・・・・一晩!?」 「うん。そう。・・・今日は何時間でもいいよ。山崎くんがしたいだけ、好きなだけ何でも付き合ってあげる」 「な・・・何でもってェ!そっ。それはどーかなァ。ってゆーかさぁ、えっ、さん?ど、どど・・・・・・・どーしたの? 何だか変だよ、今日のさん。大胆すぎない・・・?だ、だってさぁ、副長とか沖田隊長の目があるしさぁ!!」 「・・・何で?いいじゃん、別に。山崎くんもあたしも非番なんだから。二人で何したって、土方さんも総悟も関係ないじゃない」 首を傾げながら、ラケットを一本、勝手に引き取る。ついでにガットに挟まれていたシャトルも貰う。 でもさあ、と繰り返し拒む山崎くんはなぜか顔を赤らめていて、もじもじとガットの穴に指をくねらせている。 変なの、自分から誘ってきたくせに。何をうろたえてるんだろう。 「いや、だからさァ。そーいうことなら・・・他の奴らならともかくさァ。さんと、ひ・・・一晩なら。そのォ。 ミントンよりも、もっと違うことのほうが、俺としてはァ、い、・・・・・・いーんだけど、ぅごをっっ!」 言い終わる寸前で山崎くんは、呻いて思いっきり仰け反った。 あたしが何の断りもなく目の前で撃ったミントンのシャトルが、おでこのど真ん中をビシッと直撃したからだ。 「山崎くん、何をいつまでモタクサ言ってんの。ほら早く構えて。構えてくれないと次は左目に刺すからね」 「さ!?っっ、刺すのォォ!?刺すって、何でえェェ?」 おでこを痛そうにさすりながら、一歩後ろによろめいた山崎くんが困惑もあらわな顔で問い質してくる。 聞かれて数秒、ぼんやりと思考停止でフリーズしている頭で考え込んでから。あたしは無表情にぼそっと口を開いた。 「何でって・・・・・・・・・・。えーと。ほら、登山家の人の言葉にあるじゃない。 そこに山があるから登るんだ、って。あれと同じだよ。そこに目があるから、――じゃあ、軽ーく刺してみようかなって」 「違ううぅ!軽ーく刺しちゃダメだからあああ!そんな恐ろしげな競技じゃないからあああぁぁ!!」 「そうなの。じゃあ右目で」 「それも違うぅぅぅ!!ていうかあぁ、ねえっ、怒ってる?もしかしてさっきのあれ、セクハラとか思ってる!!?」 「じゃあ百歩譲って鼻の穴に」 「譲ってないィィ!それ百歩どころか一歩たりとも譲ってないからああァ!!狙いがちょい下に下がっただけだからああァ!!」 「そう・・・?そんなに嫌なの。そっかぁ。それなら仕方な・・・・・・・・・・あ、そーだ。じゃあ、ケツのあ」 「下がりすぎ!!色んなものが一気に下がりすぎィィ!!つーか女の子がケツの穴とか言ったらダメだからああァァァ!!!」 どーしちゃったのさ、目を覚ましてよォォ、と悲愴な顔で訴えながら、山崎くんがあたしの肩を揺する。 「ちょっっ、ねえっ、聞いてる?さああぁん!?わかってる!? わかってるよねぇ、俺が誘ってるのはミントン、ミントンだよ?ダーツとか槍投げとかクナイ投法とか暗殺術とかじゃないんだよ!? ミントンはそんな、人の身を危険に晒して楽しむようなドス黒いスポーツじゃないんだよおおおォォ!!?」 「・・・・・山崎くん。あたしね。今ね、もォ、すっごく自分が嫌になっちゃって。何も考えたくないの。すべてを忘れたいの」 バッ、とあたしは乱取りの要領で山崎くんの襟を取って、逆に切々と、悲嘆たっぷりに訴えた。 「へっ、や、あの、さんんん?ちょっ、う、ぐ、苦し、っっ」 「事故とか写真とか口聞いてくれないとか、思い出したくないの!疲れすぎて頭空っぽになるまで何かに打ち込みたいのォォ!!」 さらに首を掴んでブンブンと、激しく前後に揺さぶる。 突然やりたくもないヘッドバンキングをさせられた山崎くんの口からは、頼りない悲鳴がフゴフゴと漏れた。 「ぐ、っ!ぐ、ごっ、、さんっっ、ぐるじ、っっっ〜〜〜〜〜」 「ねえっ、山崎くんんんん!あたし、どうしたらいいと思う!?どうしたらこの嫌ぁ――なドロドロした気分から 脱出出来ると思う!?ねえっっおねがいっ、白目剥いてないで山崎くんんん!教えてよォォォォ!!」 ひどい八つ当たりだって判っていても、腕は勝手に動き続ける。 ああもう、誰でもいいから教えてほしい。 あたしはこれからどうしたらいいの。 どうしたら、この嫌な気分から抜け出せるんだろう。 あのクリスマスイブから始まって、ずっと、今日まで。 ミツバさんの名前を耳にするたびに、心の底にひたひたと溜まっていく暗い色の濁った膿。 『見るに耐えない、醜い嫉妬』。 そう呼ぶ以外に名前のつけようがない、身体に溜まり続けている重苦しくて嫌な気分は いったいどうしたら、あたしの中から出ていってくれるんだろう。 それとも。今もピリピリとひりついてあたしをこらしめようとしている 口端の切り傷が治る頃には、このどうしようもなく後ろめたい自己嫌悪も、少しは収まってくれているんだろうか。
「 片恋方程式。5 」text by riliri Caramelization 2010/01/25/ ----------------------------------------------------------------------------------- next