「・・・うむ。どうもこの女では弾避けにならんようだな」 路地から路地へと逃げ回る桂と「謎の生き物」、そしてこの妙な二人組に担がれたあたし。 背後にはバズーカから放たれる爆音と砲弾の雨が迫っている。 地面にモクモクと煙が立ち昇る大穴を次々と穿ち、数秒たりとも降り止むことなく迫ってくる。 「やむを得ん。今日のところは諦めるとしよう、エリザベス」 急ブレーキで止まった二人は、着弾を絶妙なステップでヒョイヒョイ交わしながら、 ひそひそと内緒話を済ませ。桂が「これを土産に持って行くがいい」と、なんとなく得意気な顔で 懐から何かを差し出す。 怪訝さ剥き出しで桂を睨みつけるあたしに手渡されたのものは、というと。・・・・・一本十円の庶民の味方、 うまい棒コーンポタージュ味だ。 いや、たしかにコーンポタージュ味、美味しいけど。定番中の定番だけど。 なんだかんだ言ってあたしも一番好きだけど。 ・・・・・・・・人を弾避けに使っといてお礼が十円ですかコノヤロー。 「おい女。お前は足手まといだからもういい、帰れ」 「・・・・帰れ、だとォ・・・・・・・?」 謎の生き物の肩からひらっと飛び降り、地面にすっくと立ち上がり。 ファイティングポーズを構えながら、足では小刻みな左右のステップを踏み。 最初から潰れ気味だったスナック菓子をさらにぐしゃっと握り潰した手で、あたしは渾身のパンチを繰り出した。 「お前が帰れええええェェ!!!!」 「うごををををっっっっ」 ズシャアアァァ―――ッ、と顔から地面を滑って、桂は派手に吹っ飛んだ。
片恋方程式。 4
「はああァァァァ!!?何よ一本て。何よこれ! 冗談じゃないっつーの、こっっっのドケチロン毛!!人を盾にしといてうまい棒一本だああァァァ!!? なめんじゃねーぞコルアァァ!せめて各味取り揃えた十本入バラエティパックでよこしなさいよぉぉ!!・・・って、え、ひゃっ!」 「謎の生き物」に急に背中を突き飛ばされたあたしを、転ぶ寸前で誰かが受け止める。 「怪我はねえかィ、姫ィさん」 背中を抱きかかえた総悟が、心配そうに手を握ってくる。 無駄に憂いを帯びた大きな瞳をキラキラと潤ませながら、とってつけたような労わり口調でささやいた。 「か弱い女をあんな危ねえ目に遭わせるたァ、まったくひでェ奴等だぜ」 「ちょっとおおおォォ!誰!!?ヒドいの誰!?バズーカ撃ちまくったの誰ェェ!!?」 「まァまァ、そう怒んなって。あとで甘味でも何でもたらふく奢りまさァ。今はそれどころじゃねえんだ」 すぐさま総悟は走り出す。その前を、桂を担いだあの謎の生き物がスタコラ走っていく。 その逃げ足は、ぬぼーっとした見た目に似合わない意外な速さ。しかも走りながらこっちに振り向き、プラカードまで向けている。 『お名残惜しいけれどお別れです お嬢さん またどこかでお会いしましょう』 ・・・・・・逃走中で追われる身、逃げ道も断たれかけた八方塞がりの指名手配犯が。どーしてあんなに余裕しゃくしゃくなんだろう。 「ボケっとしてんじゃねえ!」 降ってきた拳にガツンと殴られ、グイッと襟首を引っ張られる。 副長さまは無理矢理あたしを引きずって走り出し、総悟の後を追った。 「てっっめえは!!何をやってんだこのバカパシリ!桂んとこのバケモンにホイホイ持ち逃げされやがって!!」 「そっちこそ何をしてくれるんですかああ!次はもっと安全な助け方にしてくださいっっ。てゆーかもォ二度と助けないで!!!」 「あァ!?ァんだと!?」 片眉を吊り上げた土方さんが、憎たらしそうにあたしを睨む。 掴んでいたあたしの手を乱暴に振り払った。 「言ったなコルァ。言いやがったなこの野郎。偵察役もロクに務まらねェ足手まといが、偉っっそうに「助けるな」だァ? 覚えてろ、次はぜってー見殺しにしてやるからな。泣いて詫び入れて頼んだって知らねーからな!」 「はァあ!?いいですよ別に、土方さんに助けてなんて頼みませんから!あんたに頼むくらいならバケモンに頼みますからァァ! あのバケモンのほうが土方さんの百倍優しいしジェントルマンだしっっ、・・・・・」 ふと思いついて、土方さんの袖を引っ張る。総悟の前を逃げる謎の生き物を指差した。 「ねえ土方さん。誰なんですかあの「バケモン」は。あたし、あの人に屋根から落ちた所を助けてもらったんですけど」 「あれァ桂のペットだ」 「はぁ?ペットぉ?あの大きいのが、ペットなんですかぁ!?」 「ああ、どこかの星から来た宇宙生物らしいんだが。ああ見えて並の攘夷志士より厄介でなァ」 そこへ背後から声が届いた。 後ろに追いついた近藤さんは、悔しげに眉をひそめて「桂のペット」の背中を見据えていた。 「ついに奴を追い込んだ、ってえところで、決まってあれが助けに現れやがる。おかげで何度桂を取り逃がしたことか」 「そうなんですかぁ。・・・でも、桂はどうだか知りませんけど。あの人、そんなに悪い人じゃないですよ」 「はっ。だから甘めえってーんだ、てめえは。女なんざ浚う善人がどこにいる」 「だってぇ!助けてくれたし親切だし、なぜか初めて会う気がしないんですよ。 なんかこう、懐かしいカンジがするってゆーか。どこかで嗅いだよーな懐かしい匂いがするってゆーかぁ。 うーん・・・何だろ、なんか覚えのある匂いなんですよねえ、どこかで嗅いだんですよ、あれとよく似た匂いを・・・・・・・・」 どこだっけ、と空を見上げながらひた走る。 突然ぱっとひらめいて、あたしはぽんと手を打った。 「ああっ!そっか!そーだァ!あの人、近藤さんの枕と同じ匂いがするんですよォ!」 「姫ィさん。そいつァいわゆる加齢臭でさァ」 澄ましきった口調で総悟に返され、はっ、と気付いた時には遅かった。 えぐっっっ、うぅう、うぅぐぐぐうぅぅっ、と後ろから悲しげな嗚咽が聞こえてくる。しまった、地雷を踏んでしまった。 おそるおそる後ろを向くと、そこには肩を震わせ、袖で涙をゴシゴシ拭いながらすすり泣きで走る近藤さんが。 隣を走る無言の土方さんは、引きつった顔で不自然に前方の一点だけを見つめ、「俺は何も聞いてねえ」と態度で主張している。 気まずさで頬がビクビクと強張るのを感じながら、あたしは脇目もふらずに前を見つめて突っ走った。 「桂あああァァ!!」 桂を抱えた「謎のペット」の姿が、細い路地の通る角の向こうに吸い込まれる。 その直後に総悟が飛び込み、あたしたちもその後を追った。暗い路地は狭くうねっていて、人がぎりぎりで すれ違える程度の幅しかない。土方さんと近藤さんが先に飛び込み、あたしが最後に駆け込んだ。 路地に入るとすぐに、両側に続く石塀に庭掃除用の竹箒が立てかけてあるのが目につく。ふと足を止めた。 履いた足袋の留め具を、パチパチ外して脱ぎ捨てる。 辺りに素早く目を走らせ、目の前の家の石塀沿いに設置されたゴミ置き場を見つけた。 その上に飛び乗り、弾みをつけてさらに高く飛び上がり、結構な高さのある石塀の天辺にはしっと掴まって 分厚い塀に飛びつく。 裸足になったおかげで滑らなくなった足裏をめいっぱい使って、上までよじ登り、 そこからさらに、すぐ目の前にある屋根の廂に手を伸ばす。 「・・・・・んんっ、よっ、とォ」 足の裏はすでにジンジン痛むけど。大丈夫、このくらいの高さならなんとかよじ登れるはずだ。 足腰の鍛錬は小さい頃から徹底して訓練されている。 教え込まれた剣の型は他の流派よりも少し独特で、身体の重心をいかに据えるかが難しい。 足腰を鍛える以外にも、長刀や薙刀を水平に構えて高所を平均台のように歩く修練も、 嫌になるほどよくやらされた。だから高い足場には慣れているし、平衡感覚にも結構自信があったりする。 さっきは足袋履きだったせいで滑り落ちたけれど、これさえ脱いでしまえば地上と同じに走れるはず。 それに、この狭い道だ。屋根を走ったほうが自由がきくし、こうして上から見下ろしているほうが目標を捉えやすい。 「えーと。向こうがラーメン屋で、あっちが橋で。桂が走って行ったのは・・・・」 屋根の上まで辿り着いて、見下ろした路地をきょろきょろと探す。 偶然見回した先に、長髪の男の姿が目に入った。 いた、あれは桂だ。 近藤さんが奴の後を追っている。 なぜか土方さんの姿も、総悟の姿もない。謎の生き物の姿も。・・・途中で二手に分かれたんだろうか。 それとも、謎のペットにどこかで巻かれたんだろうか。 「って、違う違う。とにかく走らないと!」 ここでこうしていたって仕方ない。姿が見つかっても、追いついて捕まえられなければ意味がないのだ。 考えるのもそこそこに、桂を目指して屋根の上を走り出す。 狭い路地一杯に腕を伸ばして立ち塞がった近藤さんと、袋小路に追い込まれた桂の姿が見える。 二人の間合いがじりじりと詰まっていく。互いに構えて睨み合った末に、一瞬早く近藤さんの足が動いた。 地面を蹴って飛び上がり、上から奴を抑え込もうとした。ところが、一歩遅れて桂も高々と飛び上がる。 なんて身軽なんだろう。飛び上がった足先が、ちょうど近藤さんの目の高さと同じにあるのが信じられない。 頭上を遥かに抜いて跳躍した桂の脚が、近藤さんの顔に回し飛び蹴りを食らわせる。 直撃を避けられなかった大きな身体が横に飛び、壁に激しく叩きつけられてずずっと落ちた。 「こ・・・!近藤さあぁん!!」 女性的で細身なあの容貌からは想像できない強さだ。 身体の大きな近藤さんを、たった一撃で沈ませるなんて。 焦りながら目を戻すと、桂は細い路地の角を曲がって逃げて行く。 あの方向なら、ここからそう遠くない。急げば先回り出来るかもしれない。 喉から上がってきた飛び出しそうな緊張感をまた押し込めて身体に戻して、屋根を走りながらぐっと手に力を籠めた。 握り締めているのはいつも腰に携えている刀じゃない。ただの竹箒。だけど、何もないよりはいくらかマシだ。 土方さんも総悟の姿もない。他の援軍もあてに出来そうにないけれど。 ・・・・・・・あたしはまだ間に合うはず。いける! 高速で走り抜ける車が絶えない大通りがすこし遠くに見える。 あれが古い民家が隙間なく建ち並ぶ住宅街と、真新しい大きなビルが立ち並ぶ商業地区との境目だ。 あたしの周りには確かにふんわりと漂っている下町風情が、あの道一本と排気ガスの匂いで 情緒のかけらもなくすっぱりと断ち切られている。 その一種異様な光景を見ていたら「天人が来る前の江戸は」と、よく嘆いていた義父さんの口癖をなんとなく思い出した。 全力疾走で屋根を駆けてきたあたしは、民家の屋根から小さな土蔵へと大きく跳ねる。 勢いづいた脚に任せて土蔵の屋根から垣根の上へ、さらに細い路地へ飛び降りた。 この路地を一直線に駆けてきた桂の、目の前に。 やっぱりここへ来た。しばらく上から見張っていた奴の動きは、西へ、西へと進もうとしていたのだ。 死に物狂いで先回りした甲斐があった、と草履を履きながらにんまり笑って見ているあたしに、 呆れ気味に眉を曇らせた桂が声を掛けてくる。 「まだここにいたのか、破廉恥小娘。土産なら先に渡したはずだぞ」 「ああ、あれ?もう食べちゃった」 つかつかと大股に進み出て、桂の前に立ちはだかる。 持ってきた竹箒の柄をくるりと旋回させて、両手に渡して構えを取った。 「てゆうか、ねえ。足りないんですけど。うまい棒たった一本で、誰がはいそうですかって引き下がると思う?」 「そうか。見た目以上に大食らいな女のようだな。ではもう一本やろう」 「いらないわよ。攘夷浪士からの賄賂だなんてお断りだっつーの。 あたしが土産に持ち帰りたいのはねぇ、――手錠かけて拘束したあんたの身柄よ!」 腰を沈めた構えのままに地面の砂利を蹴り散らし、桂の懐に飛び込む。 頼りなくしなる細い竹箒の柄を叩きつける。横っ面に、肩に、脇腹に、背後に滑り込んで背中に――― ところが一つも決め手にならない。動きを速めて狙い定めたあたしの攻撃を、息も乱さずに掌ひとつで受け止めた桂は、 背中を殴打するはずだった最後の一撃で箒の柄を手中に収めた。 びくともしなくなった箒の柄が、逆に大きく、ぶん、と振り回される。力負けして足場を崩した あたしの眼前を、もぎ取られた竹箒の柄が横一直線に塞ぐ。計ったようにぴたりと睫毛の先で止まった。 「退け、女。力の見合わぬおなごと何度も腕比べをするつもりはない」 背後を取られて微動だに出来ない。こめかみを、つうっ、と一筋の汗が伝い落ちていく。 どうして。この男は、一体――― 振り回される箒の柄や切っ先の動きどころか、それを操っているあたしの出方すらろくに見てもいなかった。 背後で静かな気配を放っている、この男。桂は、会ったこともないあたしの動きを知っているとしか思えない。 「言ったであろう。もう剣を交えるつもりはないと。それに俺は、お前の太刀筋などとうの昔に見切っておる」 ・・・・・・・・見切られた?あたしが?いつ、どこで? ううん、そんなはずは絶対にない。 『とうの昔に』見切るも何も、剣を交えた覚えどころか、こいつとは顔を合わせたのも初めてだ。 けれど、頭の後ろでささやかれる悠然とした声のどこにも、嘘は感じられなかった。 竹箒に止められている肩から少しだけ力を抜く。気取られないように息を吸い、じわじわと呼吸を深く整えた。 落ち着いて。ここで桂を一秒でも長く足止めできれば、誰かがこの場に間に合ってくれるかもしれない。 動揺を声に出さないように努めながら、生意気さたっぷりに鼻先で笑った。 「・・・なーんだ。狂乱の貴公子っていうから、どんなに凄まじいお手並みを見せてもらえるかと楽しみにしてきたのに。 案外つまんない、小物な遣り方するのね。そーやってわけのわかんないこと言って混乱させようってつもり? これが初対面のあんたとあたしが、いつどこで剣を交えたって言うのよ」 「いいや、俺とお前は初対面ではない。まあ、どれも短い対面だったからな。それに――ふむ。 口さえ開かずにおれば、物静かで思慮深げな良家の子女にも見えたのだが。こうして話せば賢そうな女でもなし、 品もなし。つくづく残念な、見た目負けな女とでもいうべきか・・・・・・・・・」 涼しげで端正な造りの目元が、ちろりとあたしを横目に見てくる。 救いようがない、とでもいいたげな、絶望的な何かを憐れみつつ見放すような目つきで。 「ちょっと。やめてくんないそれ、やめてくんない!?よりによってあんたに残念とか言われたくないんですけど!」 「いいや、お前は見た目負けな残念な女だ。どうせあの時のことなど忘れているのだろう」 「はあ!?忘れるも何も、あんたみたいなムカつく奴、一度会ったら忘れたくても忘れらんないっつーのォォォ!!」 「いや、惜しかった。ことごとく残念な女だ、。 もしお前を我々の元へ連れ帰れたなら、単純なあいつのことだ。二つ返事で俺たちの仲間に加わろうに」 「なっ、ちょっ。・・・・・何言ってんの。弾避けとか言っといて、あんた実はマジであたしを連れてく気だったの!? てゆーか誰。誰よ、あいつって!」 「・・・?何だお前、わからんのか。物覚えにも問題があるようだが、察しの悪さもかなりのものだな。 あいつと言ったらあいつに決まっておろう。お前もよく見知っているあの男だ。我が盟友、さか―」 「桂ああああァァァ!!」 聞き慣れた怒声に耳を打たれて振り返る。 土方さんだ。抜刀してこっちへ駆け込んでくる――よかった、間に合った! ところが背後の桂は、のほほんとした何の緊張感もない口調で、おお、とつぶやいた。 「そうだった。今日はお前と遊んでやるには、ちと時間が足りんようだ」 「はあァああ!?どんだけ自惚れてんのよ!この細い道で二人相手にして、まだ逃げる気でいるわけ!?」 「さらばだ、破廉恥小娘。 ―――いずれまた、どこかで会う機会があるやも知れん。伝えるべき事は、その時に話すとしよう」 「人を破廉恥破廉恥言うなァァァ!桂小太郎っっ、大人しくお縄につき―――っ!」 桂は片手で竹箒をとん、と軽く突いた。柄がくるりと回って、身体が急に箒ごと一回転させられて。 わけもわからないうちに前のめりに押し出され、さらに、どんっ、と、力一杯に突き飛ばされる。 突き飛ばされた目前には、刀を構えて駆け込んできた土方さんの驚きに不意を突かれた顔が――― ぶつかる!てゆーか斬られる!! 「ひ!ぎゃあああァァァ!!」 「っっ!!!?」 咄嗟に刀を避けた土方さんの石頭と、ゴン、と頭からの正面衝突。 頭が鐘のようにぐわぁんぐわぁんと鳴り響き、目の奥で火花が弾けて身体が揺らぎ。 周りの音がすうっと消えて、目の前が淀んだ紫からしだいに真っ暗になって、意識が遠のいて――― 「・・・・・・・・・・・んん。・・・・・・・・・・・っ?」 いつのまにか倒れてる。温かい何かに身体が乗っている。 ううん、尻餅をついた土方さんの上にあたしが抱えられてるんだ。 肩に回った腕から煙草の匂いがする。顔からも。口からも。隙間なく塞がれて息が出来なくて、苦し・・・・・・ 「・・・・・・・・・・ふ、・・・・・・ぇ?」 じわりじわりと、うすら寒い汗と供に募ってくる嫌な予感にたじろぎながら目を開けると、そこには。 最大限に目を丸くしたあたしに負けず劣らず驚いて冷汗を流している、動揺を隠しきれずにいるひとの目があった。 深く重なっていた唇が、慌ててぱっと離れる。唇の裏側のどこかがぴりっと痛んだ。 十秒たっぷりはまじまじと、あたしたちはお互いの間の抜けた表情を至近距離で見つめ合った。 土方さんが先に気づいて顔を逸らし、手首のあたりで口許をぐいっと拭う。手首には赤い血の跡がうっすら滲んだ。 「おい。・・・どっっ。退け!」 「・・・・・!っ、は、はっっ、はぃいぃぃ!!!」 腕を振り回して意味なくもがきながら、土方さんの上からあたふたと転がり落ちる。 ほぼ顔から着地して鼻を打った。痛い。当然だ、地面で打ったんだから痛いはずだ。ああ、でも。痛さなんてちっとも感じない。 正面衝突で頭に残った衝撃と恥ずかしさと、突然バクバクと鳴り出した心臓が煩くって、もう、目が回りそうだ。 どうしたらいいの。こんなときってどうすればいいの。あああああ、何をどうしろっていうの!? 土方さんは「やっちまった」って思ってるのが丸わかりな苦々しい顔で眉を顰めて、ちっとも目を合わせてくれないし!!! 「・・・・・・ま。まったくいかがわしい・・・・・・・破廉恥な・・・!」 ゴホンゴホン、と、わざとらしい大きさの咳払いに続いて、頭の上から誰かの声が。 はっとした土方さんが素早く上を振り仰ぎ、あたしも我に返って顔を上げる。屋根の上だ。 そこには、下ろされたロープに捕まっている桂と、「飼い主」を屋根の上からグイグイと引っ張り上げている「謎の生き物」が。 ぽっと頬を赤らめた桂が顔を逸らし、ゴホン、とぎこちない咳払いを打つ。 「公序を護るべき警察ともあろうものが、公衆の面前でけしからん!」 「・・・てっっっ。テメーに言われたかねええええ!!!」 上擦った気迫の籠っていない罵声を轟かせる土方さんの足元に、ドスッ、と黒く大きな何かが突き刺さった。 瓦だ、屋根瓦だ。謎の生き物が土方さんめがけて瓦を剥いでは、これでもかと投げつけている。 あの白く指の無い手から豪快にドスドスと連射される屋根瓦。すごい、コントロールの精度が恐ろしく良い。 あっけにとられて固まった土方さんの足元を、グルリと取り巻いて瓦が突き刺さった。 フン、と鼻息も荒く息巻く(・・・鼻って、どこに!?)謎の生き物は、見た目に合わないブラックな殺気を 燃え上がらせながら、例のプラカードを頭上に掲げた。心なしか、字がさっきよりも荒れている。 『お嬢さんに不埒なマネしやがって!! 死なすぞこのボケチンカスゴミハゲクズ』 「あぁんだとぉぉ!!?てっめこのっっ、降りて来いやこっっっのバケモンがあああ!!」 瓦の囲いをドカッと蹴散らし、土方さんががむしゃらな勢いで走り出す。 背を向けて屋根上に消えようとしている逃亡者たちを追いながら、無線機に何かを怒鳴っている。 しばらくぽかんと呆けていたあたしは、その背中が角を曲がって見えなくなったところで ふらふらと立ち上がり、力の抜けた足で後を追った。 「!」 呼ばれて振り返ると、駆けてくる近藤さんと総悟の姿が。 「桂は!奴はいたか!?」 「あ、・・・・あっちですっ、土方さんが追ってます!」 路地の角を指している間に、あっという間に二人から追い抜かれた。 微かに口に広がっている何かの味に気づく。 これは血の味だ。唇の端が浅く切れている。あのひとの歯が当たった、唇の裏も。 「・・・・・・・・っ!」 握った拳にぎゅっと気合いを入れて、ブンブンと頭を振って雑念を追い払う。 駄目だ、そんなこと気にしてる場合じゃない。 今は追わなきゃ。もっと気合いを入れて走らないと、桂の足には追いつけない。でも。ああ。――どうしよう。 途方に暮れながら追いかける近藤さんと総悟の背中は、どんどん遠ざかっていくばかりだった。
「 片恋方程式。4 」text by riliri Caramelization 2010/01/22/ ----------------------------------------------------------------------------------- next