「次。こいつはどうだ」 ちいさな手のひらをぱっと開いて、幼い少女は差し出された紙を受け取った。 右上に貼られた、頬に傷のある男の厳めしい顔写真に、黒目がちな瞳をじっと凝らす。 柔らかく頭を傾げると、頬にかかる長さに伸びた髪がふわりと揺れる。わずかに開いたその口許まで広がった。 「えーとぉ。・・・・・・えーとねぇ・・・」 うーん、うーん、と考え込んで何度も左右に頭を揺らしてから、少女は勢いよく顔を上げる。 テーブルを挟んで正面に座る難しい顔の男を指し、屈託のない笑顔になった。 「写真のおじちゃんより、ふくちょーのおじちゃんのほうがお顔が怖い!」


片恋方程式。

1

「んなこたァ聞いてねえ。つーか、人のツラのこたァ放っとけ」 頬杖をついた手で顰めた眉間のあたりを抑え、ムッとした土方は少女を睨む。 無機質なスチール製のテーブル上に置かれた菓子箱に手を伸ばすと、 中に並んだ薄く小さな袋のひとつを、指先に挟んでピッと投げた。 一直線に飛んだそれは、笑う少女を膝上に抱いている女の顔へと向かう。 ブーツの足をじたばたさせながら、口を覆って笑い声をこらえていたの眉間に当たって落ちた。 「っ痛たァっっ」 「トロくせー奴だな。そのくれー避けろ」 は痛そうに額をさすっている。彼女を眺めた土方は、フン、と愉快そうに鼻先で笑い飛ばす。 それでもまだ腹の虫が治まらないのか、クッキー入りの薄い袋を箱から取っては投げ、取っては投げを繰り返した。 射的の的にされたは、顔や頭を狙いすまして飛んでくるクッキーを腕で避けながら悲鳴を上げる。 「ちょっっとォ。やめてくださいよー土方さんっ。目に刺さったらどーするんですかぁ。 どーしてあたしにぶつけるんですかあぁぁ。あたしまだ何も言ってないのにぃ!」 「ぶつけてねえ。今のは指が滑って飛んじまったただけだ」 「あぁーーっ、だめぇ!ふくちょーのおじちゃんっ、おねえちゃんをいじめちゃだめぇ!」 「煩せェ。大人の話に口出しすんじゃねえ、小雀が。別に苛めてねえだろーが、遊んでやってんだろーが」 「八つ当たりで部下にモノをぶつける人のどこが大人なんですかぁ。 だめじゃないですかァ副長のおじちゃん。女を苛めるなんて大人のすることじゃないですよ。最低ですよー」 「そーだよだめだよおじちゃん。おねえちゃんをいじめちゃだめなのー!さいてー!」 うつむいた顔を手で覆い、わざとらしくすすり泣く真似をするの頭を抱いて よしよし、と撫でながら、少女は桜色の頬を膨らませて彼を睨む。 少女の名は美代という。先日の法人団体摘発の一件で、に命を救われた少年の妹にあたる。 組織の財源となっていた、人身売買の商品として監禁されていた子供達の一人である。 こうして彼が病院に赴き、テーブルと椅子しかない簡素な面会室を借りて美代と向き合うのは もう何度目になるのだろうか。 最初は無愛想で気配の硬い土方を怖がり、美代は彼に近づこうともしなかったのだが、 毎回欠かさず手土産の菓子を持って来ている甲斐もあってか、今ではすっかり気を許して懐いていた。 ただ、会うたびに「おじちゃん」を無邪気に連呼され、しかも同行する直属部下まで 調子に乗って「おじちゃん」とふざけて呼ぶのには、正直閉口しているのだが。 菓子箱に手を入れ、中から出した袋を美代に与えると、土方は手配書の写真を指す。 もう一度念を押した。 「おい、いいか美代、もう一度しっかり見ろ。 お前らが閉じ込められてたあの倉庫に、この男はいたか。この顔に見覚えはねえのか」 「ううん。知らない。見てないよ。こんなおじちゃん、いなかったよ」 かぶりを振った少女は土方の目をまっすぐに見て、自信たっぷりに言い切る。 今はこの警察病院で兄と共に寝起きしているこの少女は、同じく監禁されていた他の子供たちには無い特技を持っていた。 記憶力が飛び抜けて高いのか、一度目にした者の顔は忘れないと言う。試しに、あの倉庫戦で捕えた 連中の写真付きの手配書を、この件とはまったく関係の無い容疑者のそれと混ぜて見せたところ、美代は 監禁されていた間に目にしていたほぼ全員の顔だけを選び、すらすらと指摘してみせたのだ。 「よし、じゃあ次だ。こいつは見たか」 「・・・えーとねえ。えーとぉ。・・・・・・ううん。知らないおじちゃんだよ」 少女が手配書の写真を覗き込み、「知らない」と首を横に振れば、それを受取り、また次の一枚を差し出す。 この小さな協力者のおかげで、真選組は、あの深夜の襲撃時には現場にいなかったものの、 慈善団体の裏の顔に関わりがあると見られる過激派浪士たちに、すでに数人目星をつけていた。 しかし、いくら幼い年の割にしっかりしているといっても、美代が集中力を保てる時間は大人のそれよりも限界が早い。 一度の取調で目を通せる枚数は限られていたし、間に何度も休憩を入れ、時にはを付き添わせて 病院の庭へ出し、気晴らしをさせる。事件の解決は急ぎたいところだが、子供が相手では無理はさせられない。 通常の取調や事情聴取に掛ける数倍の時間を費やしているし、普段の彼等の仕事とは違った根気や気遣いも必要だった。 美代は元からに懐いていたし、子供が相手の事情聴取であれば、男よりも女性の方が適しているともいえる。 実は土方が自ら出向く必要はあまりなく、彼女一人に任せても良い仕事ではあった。 だが、それでも彼は毎回こうして美代の面会に同席している。そこにはの知らない事情が隠されていた。 三度目の休憩に入ると、美代はの手を引いて、まだ病室から動けない兄を見舞いに行った。 しばらくしてから、自販機で買った飲み物を持って帰ってくる。 思ったよりも早く快方に向かっている兄の病状を話しながら、二人は笑顔で面会室のドアを開けた。 どうぞ、とは彼に紙カップを差し出した。頼んでおいたコーヒーが中で湯気を上らせている。 ああ、と土方は目も向けずにそのカップを握る。と、偶然に、二人の指が重なり合った。 コップを持った手を土方に上から握られるかたちになってしまい、その硬い手の感触に驚いたが びくっと手を奮わせる。コップの中でコーヒーが跳ねた。思わず顔を上げ、土方はに目を見張った。 「きっ、今日も結構はかどりましたねっ。さっきのあれで八人目ですよ?凄いですよね、美代ちゃんの記憶力っっ」 上擦った声で言いながら、じわじわと、の頬が赤く染まっていく。 大きな目はおろおろと目線を空に泳がせ、手はカチカチに固まっていた。カップから跳ね上がったコーヒーが テーブルに琥珀色の雫を落としているのだが、その汚れには気づいてもいないようだ。 ばつの悪いことに、こうして目を見張り、を眺めているだけで、なぜか土方まで落ち着かない気分にさせられた。 この取り乱した慌てぶりが伝染してしまうのか。それとも、この直属部下が自分を相手に慌てる理由に とっくに勘付いているからなのか。 そそくさと目を逸らした彼は、奪うようにしてカップを女の手からもぎ取った。 頼んだコーヒーには口もつけず、手にした手配書を意味無くめくりながらボソボソと口籠る。 「あ、あァ。・・・・・まあ。だな。 ・・・。お前、戻ったら昨日の取調で洗い直した奴等の手配書も合わせて、各隊に回しておけ」 「はいっ」 散々目線をうろうろさせたが、テーブルの上へ視線を落とす。 が、これから目を通す手配書の、一番上に置かれた写真を目にした瞬間。その表情が変わった。 生まれつきに大きな、猫のように釣り上がった瞳が、食い入るように写真を凝視している。 まるで、その写真に身体ごと引き込まれていきそうな顔。 突然思い出した何かに、思考や感覚をすべて吸い込まれていくような表情だ。 呆然と目を見開き、手配書から目を逸らせなくなっているに気付き、土方はわずかに片眉を上げる。 探るような目つきでを見つめ、それから、わざと美代に向ってクッキーの袋を投げた。 「そろそろ始めるぞ。座れ」 彼の声に引き戻され、はっとしたは椅子を引き、さっきと同じように美代を自分の膝に座らせる。 貰ったクッキーを袋から出し、桜色の頬を膨らませて食べながら、美代は神妙な顔つきで 差し出される手配書に次々と目を通していく。 が妙な反応を見せた一枚目には、美代は反応を示さなかった。「知らない」とかぶりを振っただけだ。 一枚、そしてまた一枚。 土方が差し出す手配書を眺め、美代は「知らない」を繰り返した。 今のところ、この幼い少女の苛酷なまでに鮮明な記憶を揺り動かす顔は出て来ないらしい。 滞りなく差し出された数枚目を、美代が「知らない」と返し、また次の手配書を受け取った。 美代はその目をぱちり、と大きく瞬かせる。貼られた写真に何か気になる点を見つけたのか、 引き込まれるような表情で見つめた。手にしたそれを土方へ向け、写真の男を指して見せる。 「ねえおじちゃん。このおじちゃんはどうしてお顔にグルグルしてるの。お目々に怪我してるの?」 手配書をテーブルに置いた美代は、自分を抱いているの腕を心細げにぎゅっと握る。写真をじっと覗き込んだ。 「兄ちゃんのおなかにグルグルしてるのと同じだよ。・・・あのね、兄ちゃんね、 美代がグルグルにさわったら痛い痛いって言うの。動くとね、すごく痛いんだって。かわいそうなの」 曇った目を悲しげに伏せて、その写真を指先で何度も何度も、繰り返し撫でる。 傷を負った兄が感じているだろう痛みを、兄と同じように包帯を巻いた写真の男の姿に投影しているのだろう。 「このおじちゃんも痛いのかなあ、お目々。・・・・・かわいそう。」 ああ、と抑揚のない声で答え、吸い終えた煙草を灰皿に押しつけながら、土方は何気なく視線を移した。 少女の背後に座るを、射抜くような鋭い眼でじっと見据える。 ついさっきまでは美代と一緒に笑っていた彼女は、椅子に座ってからもずっと上の空だった。 今は深くうつむき、顔を逸らしている。表情は見えなかったが、その腕は、不安を紛らわそうとしているかのように 膝に抱いた幼い少女をぎゅっと抱きしめている。 「・・・・・いや。痛みなんぞ感じちゃいねえだろうよ、この面は」 「えぇー?お目々痛くないの、このおじちゃん。ねー、なんでー?どうしてー?」 「そいつはな。お前の兄貴を斬った野郎とは比べようもねえ大悪党だ」 吸い殻を押し潰したばかりの灰皿からは、白い煙が立ち昇っている。 細くゆるやかに揺らぐ煙越しに、彼はテーブルに置かれた手配書の男を透かし見た。 鮮やかな色柄が目を惹く女物の羽織。頭に巻かれた包帯が、左目から頬にかけてを覆い隠している。 長めに伸びた前髪からわずかに覗く、もう片目の乾ききった眼差し。 口許は嘲笑うかのように微笑み、眺める者に挑発をかけてくる。 「そういう奴等は感じねえのさ。痛みなんざとうの昔に忘れちまってる。自分の痛みも、他人の痛みもな」 何かを考え込んでいるような、どこか上の空な様子で土方がつぶやく。 それを聞き、美代はいっそう心配そうに黒目がちな目を曇らせた。 この男の写真を目にする度に、土方は思う。これこそ狂者の面構えだ、と。 過激派浪士の中にあって、特に突出した傑物と称される男たちの手配書に混ざっていても、この男の面構えは極めて異色だ。 憂国の士を気取った輩の聖人君士ぶった面には程遠い。かといって、攘夷論を振りかざしつつも、一方では 欲に狂って凶事に及ぶ悪人の面でもない。どちらにも属さず、それぞれを突き放したところを、一人淡々と歩いているような顔だ。 奇妙さ、という点ではさらに際立って映る。こうして眺めていても、その表情からは この男が普段に何を考えているのか、これまでに何を目にして、これから何を手にしようと目論んでいるのかが見えてこない。 遠景に撮られた不鮮明な写真とはいえ、顔を眺めればある程度は当たりがつくはずの この男が息づいている周囲の背景やその匂いが、ほとんどと言っていいほど窺い知れない。 覗いた右目から漂うのは、血と火薬と焦土の匂いだけ。物騒できな臭い残り香だけ。まったく狂人じみた、得体の知れない面だ。 「ねえおじちゃん。わすれちまってる、って。お目々が痛くてもわからないってこと?」 「まあ、そんなところだ」 「ふぅん・・・・・・そうなの。やっぱりかわいそう。かわいそうだね、このおじちゃん」 頼りなげに動いた柔らかな指が、その写真に触れた。 美代はうつむき、ふたたび手配書の男に目を戻す。 汚れを厭うことも、邪心を恐れることもまだ知らないその無垢な目は、飽きることなくその男の顔を見つめ続けた。 顔半分を斜に覆う包帯の下にある男の何かに、まるで自分のことのように痛みを感じているらしい。 やがて指先が、男を宥めるように写真をそっと撫でた。心底痛々しそうに、同情を込めてぽつりと言った。 「自分のお目々が痛いのもわからないんだね。かわいそう」 「おっかしーなァ。なァーんか違うんだよなァ。勘が戻らねーっつーかァ。五回もバンカー叩いちまってよー」 「武士の魂」のはずの愛刀、名刀虎鉄をゴルフクラブ替わりにスイングの微調整を繰り返している近藤は、 しきりに首をひねり続けていた。先に現場に到着し、周辺各所で待機している各隊を 無線機片手に仕切っている土方に話しかけている彼は、ついさっき、接待ゴルフを終わらせた足で そのままここへ駆けつけたのだった。 ちなみに、彼が早朝五時起きで迎えに行き、米つきバッタも苦笑いするようなへつらいぶりで 機嫌を取り、もてなした相手は、警察庁長官の松平片栗虎。真選組の親玉でもあり、 路頭に迷いかけた彼等を拾い上げ、特別警察という幕府の官職に就けてくれた恩人でもある。 まだスイングの感覚に納得がいかないのか、愛刀を大きく振り上げて動きを止めた近藤は、 瓦張りの屋根に阻まれて細く覗いた路地上の青空を見上げ、やれやれ、と口を深く曲げる。 「そんなわけでよー。大手を振って「任せろ」と言った手前、言いにくいんだがな? こっちもあれだが、の兄貴の話の方もたいした成果は無くってな。いや、すまんなトシ」 「よせよ。何もあんたが謝るこたァねえだろ」 頭を掻く近藤に苦笑いを浮かべて返し、土方は黒の上着の懐に無線機を戻した。 同じ場所に入れてある煙草を取り出し、口に咥えると、両手でライターを覆って火を点ける。 天気が崩れるとテレビの予報で言っていた夕方にはまだ早いが、風が少しずつ強まってきている。 なかなか火が点かず、カチカチと何度もライターを鳴らしてから、ようやく煙草に火が灯る。 彼の口許から細々とした白煙が昇った。 しかし、その頼りない煙はすぐに、彼等が潜むこの細い路地に滑り込んできた強い風に千切られ、掻き消された。 「それがなァ。ハハハ。あるんだなこれが」 「あ?」 「いやその、何だ。俺たちも一度、とっつあんのお供で入っただろう?ほら、例の会員制クラブだ」 「・・・?ああ、あの、一瞬座りゃあ席料十万は下らねえってとっつあんが豪語してたアレか」 「そうそう。アレだアレ。いやー、俺ァさっぱり力になれなかったが、お前なら一晩でイケるだろ。 あさっての夕方、屯所まで送迎車つきで迎えに来るから、朝まで予定は空けておけとさ。 まあなァ、酒が入れば、とっつあんの口も多少は緩むだろうよ。ということでな、後はよろしく頼む」 パシッ、と切れの良い音を響かせて柏手を打ち、近藤が頭を下げ気味に拝み倒してくる。 拝み倒す男を見つめて絶句、咥え煙草が落ちそうなほどにぽかんと口を開けて しばし放心した土方は、我に返って「あァ!?」と呻いた。 「なっっ。おいっ、俺だけか?俺だけであのおっさんの乱痴気騒ぎに一晩付き合えってえのかよォ!?」 「まァまァ、ここはなんとか我慢してくれ。お前を人身御供に出すのは気が引けるが・・・ 俺がいるとモテ度が確実に下がるから来るなって言われちゃってさー。ひでーよなァ、ウハハハハ!」 「ひでーよなァ、ってよォ・・・・・・・・・ひでーのはあんたじゃねえか、近藤さん」 「すまんな、いや、お前がいい顔しねえってえのはわかってたんだが。 親父も親父で、他の交換条件には首振る気がなさそうだったもんだからなァ」 早くも明後日に迫る狂乱の一夜をどう迎え討つかに頭を悩ませながら、土方ががっくりとうなだれる。 はあぁぁ、と珍しく気抜けした顔で落ち込みの溜息を漏らす彼に、近藤はもう一度「すまん、頼む」と頭を下げた。 周囲には彼等を遠目に眺める隊士の目もあるというのに。 しかも、松平を口説き落としての兄の情報を入手する案を言い出したのは彼ではなく、土方なのに。 それでも心底気の良い近藤は、実に申し訳なさそうに、深々と頭を下げるのだ。 その頭にあるまじき威厳ゼロな姿を呆れた半目で睨み、土方はおもむろに視線を逸らす。 副長に突然ぎろりと睨まれ、彼等を取り巻く形でその様子を眺めていた隊士たちは、それぞれに慌てふためき始めた。 顔に大粒の冷汗を浮かべながら唐突にぎこちないラジオ体操を始めてみたり、頭上の空に速攻で視線を逸らして 調子はずれな口笛を吹いてみたり。それぞれがそれぞれに「何も見ていないフリ」を必死に装うのだった。 「そうか、そんなに気乗りがしねえのか。こっちで勝手に決めちまって、まずかったか?」 土方の顔色を窺う近藤は、よく通るその声を小さく抑え、周囲に聞こえないようにと気遣いを見せる。 対して土方の答えは、珍しいほどにボソボソと、まったくもって歯切れが悪かった。 「いや。違げーよ。いや、あれだ、・・・仕方ねえ。そうじゃねえんだ。だからって、断る必要はねえんだが。 元はこっちが言い出したことだ。あんたで駄目なら勿論俺が行く。行くけどよ。・・・あの店ぁ、駄目だ」 「イヤイヤ、アレだぞ?アレは心配ねえぞ?金の心配はいらねーって言ってたぞ?堂々手ぶらで来いってな。 隣にお前がいるだけで、店中の女の子がフラフラ集まってくるからなァ。とっつあんはいたく気分がいいそうだ」 「・・・そーいうアレじゃねーよ」 「・・・?どのアレだ?」 「近藤さん」 「うん?何だ」 「このこたァ、あいつには、・・・・・・・」 「に、か?」 「このこと」と言われたそれが何を指しているのかも。わざわざ念を押そうとした、その意味合いも察している。 しかし土方の本意がどこにあるかを確かめてみたかった近藤は、素知らぬふりでカマをかけてみた。 「どっちをだ?俺たちがの兄貴の行方を、あいつに知れねえようにこそこそと調べ回ってることをか? それとも、お前の会員制クラブ豪遊をか?」 「んなもん、どっちもに決まってんじゃねーか」 土方はふてくされた顔で近藤を見上げ、察してくれ、とでも言いたげに軽く睨みつける。 以外の奴であれば、別に誰が知ろうと構わない。 だが、自分があの店に行ったとにバラされるのはまずい。 おそらくこの「豪遊」を知ったとしても、は何も言わないだろう。ただ、それでは彼が気まずいのである。 以前に一度だけ、松平に招かれて、彼等はその「高級会員制クラブ」で飲んだことがある。 スポンサーは豪気な松平だし、店のホステスにちやほやと囲まれても黙って呑んでいるだけの土方以外は それこそ呑めや歌えやのバカ騒ぎに終始していたのだが。中でも、松平を凌ぐ滅茶苦茶な勢いで呑みまくり、 騒ぎまくったのはだった。肌を真っ赤に染めてケラケラと笑い転げ、沖田に抱きつき、近藤の膝に乗り、 彼女の肩を抱いてドンペリ一気飲みに興じる松平の髪をグイグイと引っ張り。 離れて座っていた土方は、彼女がベタベタと他の男どもを纏わりつかせているさまを眺めながら、ギリギリと 怒りを噛み殺していたのだ。抱きついたの背中にさりげなく腕を回し、鼻で笑いながら彼を見据えていた沖田どころか、 女に膝に乗られてもどう対処していいのかわからず、鼻の下を伸ばして照れているだけだった純情な近藤でさえ 一発殴ってやりたい気になった。 ところが。その次の朝、屯所の廊下でに出くわして気が付いた。 あれはなりの虚勢だったのだ、と。 「普段呑めない高いお酒だったから、調子に乗って飲み過ぎちゃって」と後で本人は言い訳していたが、 その顔はどう見ても、二日酔いで目が充血している顔ではなかった。一晩中泣き明かした顔なのだ。 真っ赤に目を腫らして、それでも精一杯に笑おうとする女。そんな彼女を朝一番に、屯所の廊下で目にするのは、 自分がその目の腫れの原因だと勘付いている彼にしてみれば、ばつが悪いことこのうえない体験だった。 黙って煙草をくゆらし、何かを思い返している様子の彼を、近藤はしげしげと眺めた。 「・・・なあ、トシ。お前、いいのか」 「あー?ああ。まあな。交換条件としちゃあマシなほうじゃねえか。あの親父相手に一晩で済むなら、御の字だ」 「いやァ。そっちじゃねえんだ。お前、なあ。そこまでわかってるもんをよォ、・・・・・・」 言いかけて、近藤は不承不承に口を閉ざす。 の気持ちを本人に確かめたわけではない。 それ以前に、女心の機微など、不調法者の俺が測れるものではない、とも思う。 しかし、それでも。 そんな彼の目から見ても、が土方を想っているだろうことも、土方がを想っているだろうことも明らかなのだ。 だのに、なぜこいつは。ここまで見ないふりを続けようとするのか。 こいつはこんな男だっただろうか。と、近藤は腕組みで構え、不思議そうに彼を見つめた。 以前のこいつは、女に対してここまで慎重で、ここまで拘る男だっただろうか。 いや。違うだろう。どちらかといえば淡泊というか、一人の女に固執しない奴だ。 女の側にしてみれば、身体は寄り添ったところで心は一向に寄りつかない、薄情な性質の男だったはずだ。 …とはいえ、それでも例外はある。俺が知る限り、過去にたった一人の例外を除いて、だが。 思い返せば、が隊士になる以前から。元から彼は、不思議に思っていたのだ。 一途すぎるほどに夢中に、ストーカー化してまでお妙を追いかける彼の目には、土方のあの、関係を持った女に向ける 薄情さや拘りの無さが、どこか奇異に映ることがあった。女に対して気が乗らないあまりの奔放さとでもいうか、 女に対して彼が何も求めていないが故の、しかし、無意識のうちに心の渇きを癒そうとしている裏返しに見えていたのだ。 それが今度は一変、を大切に思うあまり、ガラになく彼の手足が縮んでしまっている。 に対して身動きが取れなくなっている。 今になって、自分の中で大きくなりすぎたの存在を扱いかねて、戸惑い始め、迷っているのかもしれない。 立ち止まったそこから先に踏み切れず、かといって元にも戻れず。もどかしく足踏みを繰り返しているのだろうか。 ―――だがまあ、どうなのか。ひょっとしたら、俺が「過去」と決めつけた、あの女性の存在が鍵なのか。 もしやあれは、奴の中ではすでに過ぎ去り、色褪せたものなどではなく。今も息づいている思いなのか―― ふとひらめいた発見を意外に思いながらも、近藤は顔の前で手を振った。 「いや、いやいやいや。悪い悪りィ、今のはなかったことにしてくれ」 そうは言っても結局、俺とて野次馬の一人にすぎない。出過ぎた真似はしねえに限るな。 きっぱり思い直した近藤は、持ち前の陽気さで自然に笑い飛ばした。 片手で目の上に庇を作り、路地の向こうを首を伸ばして仰ぎ見る。 「ところで、現場はどうなってんだろうな?総悟も店の裏手に着いた頃じゃねえのか」 「ああ。そういやそろそろ、定時連絡の時間か」 黒地の隊服の懐に手を入れると、土方は無線機を取り出した。 側面にあるスイッチを切り替えながら、低く抑えた声で呼びかける。 「。状況報告しろ」 この路地を抜けた先に見える商店街を見据えたその顔は、普段通りに表情が薄い。 だがよく見れば、そこはかとない緊張と昂揚感とが、鋭く光るその目の色には現れていた。 今日の捕り物は危険性こそ低い。が、一瞬たりとも気の抜けない、癖の強い野郎が相手ときている。 追い詰めるべき魚はデカいのだ。今回こそみすみす逃すものか、と、内心では意気込んでいた。 監察方の独自調査だけではなく、外部からも捜査協力を得ている真選組は、彼等が懇意にしている情報筋から 指名手配犯のとある攘夷浪士が、ここ一か月、この場所に頻繁に出入りしているらしいという噂を得た。 以来、交替で近辺を張り込み、この場所の監視を欠かさなかったのだが、ついに今日、 奴がその姿を現わした、との一報が入った。局長が不在だったために、報せを受けた土方の指揮のもとに 全局員の半数に当たる一番隊から五番隊までを集中動員。現在、各隊が数名ごとに分かれて現場を取り囲み、 二十三重の包囲網を敷いて、近辺を厳重に警戒中だ。 現場の裏手を縦横に走る細い路地沿いには、古い長屋や洒落た造りの木造家屋がみっしり建ち並び、 下町情緒溢れるゆったりとした時間が流れていた。軒下には季節の花を施した鉢植えが並んで彩りを与えているし、 五月の暖かな陽気の中、陽だまりで昼寝を楽しむ野良猫たちが点々と、仲間同士でたむろしていたりする。 しかし今日は、その場のそこかしこに、下町情緒には不似合いな、いかめしい隊服姿の男たちが息を詰めて潜んでいた。 相手は何度も取り逃がしている重要指名手配犯。出没するたびに市中を追い回し、毎回寸でのところで 包囲網を突破され、その度に悔しい思いを繰り返してきただけあって、各所で待ち構えている隊士全員が ネズミ一匹逃さない意気込みで闘志を燃やし、この絶好の機会に挑んでいるのだった。 そんな中、は攘夷浪士が立ち寄るとされているその内部に一人で潜入し、状況偵察の任務についていた。 ザッ、と耳につく大きなノイズがよぎり、無線機を介してからの通信が入る。 『はい、です』 「おう、どうだ。何かめぼしい成果はあったか」 土方から無線機を受取った近藤が、かすかに緊張感が漂う声で問いかける。 路地で待機中の彼や土方、二人を囲む隊士たち全員が黙り込む。 物音ひとつ立てずに、空気を張りつめさせてその返答を待っていた。 『はいいぃぃぃ。大発見ですぅ。すっごく美味しいですうぅ』 溜息混じりにうっとりと語尾を伸ばして答える、呑気なの声。 近藤と土方は怪訝そうに眉を顰め、顔を見合わせ。気の抜けた声で、揃って無線機に訊き返した。 「「あァ?」」 上空で強い風がはためき、ぽかんと口を開けた男たちの髪を翻す。 静まり返ったその場に、彼等が潜んでいる路地を挟んだ民家の屋根上から、猫たちの声が聞こえてきた。 猫同士の熾烈な縄張り争いでも起きているのか。それとも、普段は平和な下町の一角を 勝手に占拠した人間どもの、強張った気配に気づいたからなのか。 喉を震わせて唸りながら、やかましく殺気立ってぎゃーぎゃーと鳴き騒いでいた。

「 片恋方程式。1 」text by riliri Caramelization 2009/11/20/ -----------------------------------------------------------------------------------           next