!!」 群れる子供たちの間を割って駆けつけた土方は、倒れた着ぐるみの肩を抱き上げる。 頭部を外してかなぐり捨てると、はぐったりとうつむいていた。 意識が遠のいているのか、手足がだらりと力無く下がっている。 「!おいっ」 焦った彼は冷たくなった頬をパチパチと叩き、何度か肩を揺すった。と、がようやく目を覚ます。 土方の姿を認めて、わずかに頷くような仕草を見せた。額から幾筋も汗を流した顔は、頬も唇も青く醒めている。 震えながら開いた唇が、苦しげに「土方さぁん」と呼んだ。 「あたし、もう・・・ダメですうぅぅぅ」 「ァに言って・・・おい、っ。しっかりしねえか!」 は力無く着ぐるみの手を伸ばし、彼の胸元をふにゃっと掴む。 涙を一杯に溜めた大きな瞳は、縋るような弱々しさで彼の目を見つめて動かない。 頼りきって縋りつくか弱い姿に不意を打たれてしまい、土方はつい彼女を抱いた腕に力を籠めた。・・・のだが。 「お願いですうぅぅ。昼ご飯抜いたらすっごくお腹がすいちゃって・・・もォ限界なんですううぅぅぅ。 何か恵んでくださいぃぃぃ。猫まんまでもドッグフードでも、何でもいいですからぁ。何か食べさせてくださいぃぃ」 「・・・・・・・・・・・・・・」 涙目の腹ぺこ着ぐるみ女が、まるで命でも懸っているかのような必死さで訴えてくる。 馬鹿らしさに憮然とした土方は、ギリギリと歯を噛みしめて怒鳴りたさをこらえるしかなかった。 無邪気な目を見張って二人を取り巻く子供たちも、取り乱した自分を面白そうに眺めている忍者装束の男も。 どちらの視線も興味津々で、揃ってこの間抜けなコントのオチに注目しているのだから。


薄紅の風 瞬く花

10

「―――で、すまねえが近藤さん。適当に誰か見繕って、迎えに一台よこしてくれねえか」 帰宅時間で混み合ったタクシー乗り場には、長蛇の列がすでに出来上がっている。 夕陽は既にビル街の波間に消えて、周囲の景色も藍色に沈み始めていた。 携帯で話す土方が立っているのは、遊園地の入場口の手前だ。 帰宅の途につく大勢の家族連れ客たちの波を避けながら、彼は入場口を挟んだ向こうに見える タクシー乗り場の様子を眺めている。比較的空いている平日ではなく、今日は週末の夕方。 今から列の最後尾に並ぶよりは、迎えを頼むのが確実だった。 ひととおりの説明を済ますと、通話相手の近藤が聞き返してきた。 『それは構わねえがな。なあ、は大丈夫なのか?何ならこっちで医者を呼んで待たせておくぞ』 「いや、要らねえだろ。あれァただの貧血だ。一晩寝りゃあ治る」 言いながら彼は振り向いた。 ジェットコースターの架線に沿って連なる桜並木と、その傍に立つ外灯の下へと目を移す。 芝生に置かれたベンチで横になっている女を、遠目に眺めた。 服部がどこからか持ち出してきた毛布にくるまれているが、それでもは身体が冷えるらしい。 背中をぎゅっと丸く縮めて、時折、爪先と爪先を寒そうに擦り合わせていた。 「・・・それと。今夜は出掛けずにいてくれねえか。話しておきてえことがある」 問いかけられた近藤は、わずかに沈黙を置いた。土方がここを訪れた理由を、彼だけは知っている。 どこか浮かない電話の向こうの口ぶりからして、良い報告でもあるまいと察してはいるが。 わざと気付かないふりで軽く返した。 『ああ、わかった。たまにはお前と部屋で呑むとするか』 さっき売店で買い与えたハンバーガーと飲み物は、ほとんど減っていなかった。 が寝ているベンチの端に置かれたままで、とっくに冷えてしまっている。 腹が減った、何か食わせろ、とあれだけ泣き騒いだわりに、いざ買い与えてみれば は手にした食べ物をじっと眺めただけだった。見ているうちに食欲はすっかり消え失せたらしい。 憂鬱そうな顔でぱくりと一口齧りつくと、すぐ袋に戻した。それから彼に「すみません」と謝ってきた。 普段ならば「てめえが食いてえっつうから買ったんじゃねえか」と悪態のひとつも押しつけるのだが。 頭を下げて影になった女の表情がすっかり気落ちしているのが気になって、口を開く気にもなれなかった。 こうして彼女の隣・・・寝ているベンチの枕元に座っていても、いつにない彼女の元気の無さが 彼の居心地をひどく悪くさせる。沈んだの気配がなぜか歯痒くすらなってきて、つい目を逸らしてしまう。 けれどの方は、彼の態度のぎこちなさには気づいていないようだった。 さっきからずっと別のことを気にしているのだ。 何度もちらちらと、申し訳なさそうに眺めているのは、自分が枕代わりに頭の下に敷いている紙袋。 土方がここの売店で買い求めた、土産物の菓子箱入りの袋のほうを気にしていた。 「あのー。いいんですかこれ。枕にしたら潰れちゃうのに・・・・」 「いいから寝てろ」 「でも。これってお土産用に買ったんですよね?」 「煩せえ。寝ろっつってんだろ。具合が悪い時くれえ、素直に人の言うこと聞きゃあいいじゃねえか」 自分だって素直じゃないくせに。 不機嫌そうな荒い仕草で煙草に火を灯す男を眺めながら、は心の中で舌を出す。 土方さんて、こういう物言いがひどく下手だ。また倒れられたら心配だから寝てろ、と素直に言ってくれたらいいのに。 そう思ったが、言えばもっと機嫌を損ねられそうなので黙っていた。 頭の下に敷いた袋を見下ろし、不思議そうに首を傾げる。 甘いものは滅多に口にしない土方が、これを自分用に買うことはないはずだ。誰に渡すつもりなんだろう。 「このお菓子、誰にあげるんですか。近藤さん?それとも、屯所のみんなに?」 「野郎が野郎に菓子なんざ買ってみろ。お互い気色が悪りぃだけじゃねえか」 「えっ。じゃあこれ、あたしに買ってくれたんですか?」 「ざっけんな。さんざん手ェ煩わせやがった馬鹿女に、誰が買うか」 「ふーん。・・・・・・・そうですか。 それじゃあこれは、どこかの綺麗なお姉さんにお土産ですか」 口を尖らせて拗ねた顔を隠そうと、は毛布を顔まで引っ張り上げた。 こんな言い方をするなんてどうかしている。 今のは「嫉妬してます」と言わんばかりな、あからさまに刺々しい口調だった気がする。 「ちが・・・違うんですよ、違いますからね!? べ、別に、あたしっ。土方さんの女性関係に興味なんかありませんからっ! ただ、総悟に教えてあげたらきっと面白いことになるだろーなって思ったからああァ!!」 言葉の裏を読まれたくなくて、つい不自然に声を張り上げてしまう。 モゾモゾと身じろぎして、さらに深々と毛布に潜った。自分で自分に困ってしまって、土方に会わせる顔もない。 訊かれてもいないのに言い訳している自分が恥ずかしくて、みじめな気分になっていた。 土方が、自分といても他のひとのことを考えていたのかと思うと、なんだかさみしくなってしまったのだ。 厭味のひとつくらいはちくりと刺してやりたくて、つい言ってしまったけれど。言ってしまえば、 その厭味に刺さった棘はそっくりそのまま自分に返ってきた。ちくちくと針で突かれるようで、胸が痛い。 たった半日、このひとの恋人になった気分を味わっただけで、あたしはなんていい気になったものだろう。 こんな分不相応な思い違いをして。みっともない勘違い女だ。 「まあ、あれも女に違いはねえな。今ァともかく十年後なら、器量もなかなかのはずだ」 ・・・・・・・十年後? ぱちりと目を見張り、は被った毛布をそろそろと引き下げた。 半分顔を出して見上げると、土方は暮れていく桜越しの夕空を見上げたまま訊き返してきた。 「名前は何て言ったか、あのガキ。人質にされたのをお前が助けた、あの娘だ」 「・・・?美代ちゃんのことですか?」 「ああ。昨日あれと、斬られた兄貴の調書を取りに行ったが。・・・あんのガキ。 俺の面見たとたんにびいびい泣きやがって。看護師の影に隠れて、出てきやがらねえ」 「・・・・・・・・じゃあ。これで、美代ちゃんを釣るつもりだったんですか」 「まあな。女への土産の相場ったら菓子か花だろ。嫌がる女も滅多にねえしな」 宛がっといて外れはねえ、と、煙を吐いた土方は確信深そうに言い切る。 その自信ありげな顔はどこか得意気にも見えて、かえって子供っぽく映る。 は意外に思った。こういう表情を見るのは何か新鮮な気がする。 仕事上の付き合いから土方に近づいたには、この何気ない表情が、彼が普段に見せる 厳しく隙の無い顔の下に隠していた、女に対しては意外と無邪気で単純な一面に思えたのだ。 その一方で、このひとでも女のひとの機嫌を窺うようなことがあったんだなあ、と ちょっと妬きたくもなるのだが。 「なんだ。・・・そっか。土方さんでも簡単に落とせない女はいるんですねぇ」 「ったく。こっちはガキ一人にかまけてる時間なんざねえってぇのに」 美代に泣かれたことでも思い出したのか、眉間を寄せて黙々と煙草をふかし始める。 彼を見上げてくすりと笑ったは、その横顔の向こうで風にそよいでいる桜の枝葉へと視線を移した。 時折、急に季節が冬へと逆戻りしたかのような、枝に残された花を一瞬で薙ぎ散らす 冷えた突風が吹きつけてくる。桜花が散る季節になっても、頬を撫でる春の夜気はまだまだ冷たい。 寝ているベンチの板は硬くて、毛布で覆われた背中も少し肌寒い。だから寝心地はあまり良くないけれど、 今のにはそれも気にならなかった。 園内の医務室に行くか、と言い出した服部の申し出を断ったのは、土方と二人きりでいられる時間を 少しでも長く引き延ばしたかったからだ。――それに。このひとに訊いてみたいこともある。 小さく息を呑み、呼吸を落ち着かせてから、はさりげない口調を装って切り出した。 「土方さん。どうして全ちゃんに会いに来たんですか」 来たか、と土方がわずかに眉をひそめる。 どうせ訊かれるだろうとは思っていたし、答えはあらかじめ用意していたのだが。 口から外した煙草を挟んだ手で、じっと見上げてくるの視線を遮ってから口を開いた。 「仕事の依頼だ」 「仕事・・・?全ちゃんにですか」 「ああ、近藤さんに言われてな。 ・・・俺ァどうも奴とは合わねえが。うちの大将は、お前の昔馴染みが気に入ったらしい」 「ふーん。そうなんですか。・・・それで?本当は何の話だったんですか」 顔を半分出した毛布の端を掴み、は大きな目を細めてくすくすと笑い出した。 彼女を見下ろした土方は、彼女とは対照的に嫌そうに目を細め、ふてくされたように口端を大きく下げる。 最近のこいつはどうもやりづらい。 たった一年傍に置いただけで、すっかり俺の癖や仕草から隠し事を見抜くようになった。 ふとした時に出るツメの甘さや、隙の多さは相変わらずだし、 上官の俺が何を思って自分を見ているのかにも気づかないらしい。 人を疑うことをしない性格ゆえの鈍さも相変わらずだ。そのくせに、俺の些細な変化は敏感に読み取ってくる。 「すみません。・・・じゃあ、土方さん。全ちゃんと、他には何の話をしてたんですか」 土方の表情が可笑しかったのか、は毛布に包まれた肩を揺らして笑い続けている。 いつもと変わらない屈託のない笑顔に、楽しげに弾む笑い声。 彼女を横目に見下ろした土方は、自然と表情が和らぐような安堵を覚えていた。 だが、その和らぎを態度には現せない。感情の揺れを出すまいと意識しながら、訊かれたことにただ淡々と答えた。 「お前に真選組を辞めさせて、家に帰したい。普通の娘に戻してやりたい・・・・まあ、そんなところだ」 「・・・普通の娘、・・・かぁ・・・・・」 独り言のようにぼんやりとつぶやきながら、が笑う。その表情を目にして、土方ははっとした。 首筋を冷えた夜風にかすめられたような、わずかな寒気を覚えた。 浮かべた笑みは、普段の彼女が浮かべる屈託のないそれとはかけ離れていて、見慣れないものだった。 どこか冷えていて、悲しげで。 藍色から漆黒へと暮れかけた空を見上げる瞳が、見上げた空の色よりも暗く沈んで見える。 「全ちゃんには悪いけど。もう戻れませんよ。だって、・・・・・・。 あたしが。まだ、他の生き方を選べるなら。普通の娘に戻るのにも、まだ間に合うなら。 あんなむごい真似が、出来たんでしょうか」 はいつになくのんびりとした喋り口調で話す。 ぽつぽつと、言葉の合間に欠伸のひとつも紛れていそうな、眠たげな声で言葉を繋いでいた。 しかしその笑顔は晴れない。土方の目には、無理をして笑っているようにしか見えなかった。 「土方さん」 「ああ」 「土方さんは、自分が今までに何人殺したのかなあって・・・考えること、ないですか」 「無えな」 「ふふっ。やっぱり。じゃあ、そんなこと考えて眠れなくなったりしないですね」 面白そうに目を瞬かせて、は土方を見上げる。 目を合わせた男は口籠り、わずかに驚いたような顔になる。 屯所で顔を見た時のこいつは、いつもと変わらず元気そうに見えた。 ジェットコースターでは呆れるほどはしゃいでいたし、さっき突然倒れたのも、 重たい着ぐるみのせいで起きた貧血と空腹が原因と思っていたが――― 「寝てねえのか、お前」 「寝てますよ?謹慎になってからは、毎晩九時にはお布団に入ってますから」 被った毛布をポンポンと叩き、は自慢げに言い返す。 「でも眠れないんですよね。昼間は部屋でじっとしてるだけで、やることもないし、もォ、暇で暇で。 夜も全然眠くならなくって。屯所の中は静かだし、目を閉じてるとつい余計なこと考えちゃうんですよねー」 「馬鹿が。んなこと考えてっから着ぐるみの中でくたばっちまうんだろうが」 「!ぃたぁっ」 いきなり眉間をぴしっと弾かれ、は悲鳴を上げた。 弾かれたあたりを両手で押えて「何するんですかあぁ」と、土方に文句をつけるのだが、 手の影から覗いた彼女の目は、決して不満そうではない。むしろ嬉しそうなのだ。 この半日で、彼女は身に染みてわかっていた。 こんな乱暴さも、この男が表には出したがらない心配の裏返しなのだと。 「そうなんですよねー。お酒で頭空っぽにして寝ちゃおうかなあとも思ったんですけどねー。 さすがに謹慎中の人間が部屋で酔っ払ってるのはまずいかなあって。あっ、そうそう、あたしね、 朝まで羊を数えたのなんて、子供の頃、遠足の前日に興奮して眠れなかったとき以来ですよォ」 嬉しそうに目を輝かせて、は柔らかく彼に微笑む。 その表情を眺めた土方は、煙草を地面に落とす仕草に紛らわせて顔を逸らした。 まだ十分に吸えそうな長さのそれを、腹立たしげに大きく踏みつける。 「お日さまが出てる昼間は結構平気なんです。でも、・・・日が落ちて暗くなり始めると どうしても思い出しちゃうんです。あのとき、自分がしたこととか。驚いて固まってたみんなの顔とか」 まるで他人事のように気楽な口調で、からからと笑いながらは話す。 自分のことで土方に心配をかけたくない。それだけの一心で、明るく笑ってみせた。 そうして明るく振舞えば振舞うほど、隣の土方が苦さをこらえるような表情になっていくことには 少しも気づいていなかった。空々しいまでに明るいその笑顔が、見る側にはかえって痛々しく映ることにも。 ただ精一杯だったのだ。なんだかひどく疲れてしまって、頭の中がぼんやりしていたし、 瞼が重くなってきて、目もとろんと潤んできた。握った手の甲でごしごしと、目元を擦る。 すると、ずっと黙って聞いていた土方が「もういい」と、たまりかねたように口を挟んだ。 彼にしては珍しく、ひどく言い辛そうに言葉を絞り出す。 「もう喋るな。・・・今日のてめえは、なんつーか・・・やりづらくて敵わねえ」 「えぇー。何ですかそれ。全部あたしのせいにしないでくださいよー。 ・・・やりづらいのはあたしだって同じなんですから」 目に疑問を浮かべた土方が、をじいっと見下ろした。 くすっ、と笑った彼女は、可笑しそうに「ほらぁ」と指摘してみせた。 「それですよ、それ。仕事中なんてほとんど目が合わないのに。 今日に限ってそんなに見るから、こっちは緊張しちゃうじゃないですかあぁ」 「うっせーバカ。自惚れんな。お前なんざ誰も見やしねえよ」 思わず一息に、強い口調で否定する。それから土方は、しまった、と舌を噛みたい気持にかられた。 きつく鋭い返事になったのは、自分でもそうとは知らずに態度に出ていた不自然さを ぴしりと言い当てられてしまい、動揺したせいだったのだが。 ぱっちりと見開いたの目は、彼女が傷ついたのだと正直に語っていた。 猫のそれにも似た大きく澄んだ瞳が、悲しげに曇っていく。表情は笑っているのに、目は今にも泣き出しそうだった。 「ひっどいなァ。言われなくたってわかってますよォ、そんなこと」 「・・・いや。だから、・・・その。・・・・・・お。俺ァただ、細かいこたァ気にすんなって言ってんだ。 つーか、あれだ、その、あれだろ。んなもん、偶然何度か目が合っただけじゃねーか」 「あー、はいはいはい、もういいですっ。わかりましたよっ。 ・・・そんなに必死で言い訳しなくてもいいですからっっ」 は掴んだ毛布をあわてて頬まで引き被り、顔を隠して寝たふりに入った。 そうするしかなかったのだ。これ以上口を開けば泣いてしまいそうだったし、ここで泣くわけにはいかない。 あんなことを言われた後でも。 ・・・いや、あんなことを言われた後だからこそ、一粒の涙も零すわけにはいかなかった。 涙も悲しさも、虚しさも。黙って気付かれないようにこらえるしかない。 だって仕方がない。いつだってそうだ。あたしといても、他の誰といても、 いつだって他の女のひとのことを思っているんだから、このひとは。 そんなことはわかっていたし、それでもいいと思っていたはずなのに。 あたしはこのひとの些細なひとことで、どうしてこんなに悲しくなるんだろう。 好きになってもらえなくても、このひとの傍を離れたりしない。 だからどんなことがあっても挫けない。 そう誓って、ただ懸命に、しっかりと建てたはずの覚悟の壁は、ふとしたことで何度も 舌先で融ける砂糖菓子のようにほろほろと崩れ落ちそうになる。そんな脆さが自分でも嫌になってしまう。 とっくに覚悟を固めたはずの心は、ほんのちょっとした失望を味わっただけであたしを裏切ろうとする。 思いを隠し立てしようがないくらいに、不安定にぐらぐらと揺らぐのだ。 が涙をこらえながら、ずっと溜め続けていた眠気にゆるゆると引き込まれていったその頃。 彼女の隣に座る男は、所在無さそうに足を組み変えてみたり、煙草とライターを出し、 しかし火を点けずにまたそれをしまう・・・といった無駄な動作を繰り返し、 珍しい落ち着きのなさを見せていた。 ついには煙草を諦めた彼は、袖の袂に手を突っ込んで腕を組み、頭上にぼんやりと暗く漂っている春の夜空を あまり力の無い目で見上げた。 自分でもわかっているのだ。まったくどうかしている、と。 は眠っているだけだというのに、なぜか居心地が悪い。どうにも居辛いのだ。 全てはあの男が現れてからだ。 あの男――服部が現れて以来。彼はどんな顔をしての隣に居たらいいのかが、すっかりわからなくなっていた。 直属の上官でもあり、拾って連れ帰った経緯上、土方はずっとの保護者役でもあった。 身内とは絶縁状態にある彼女にとって一番近しく、かつ一番頼りにされる役目。 何かあるたびに頼られるのも、泣きつかれるのも、常に自分だけの役目だった。 そこへあの男が現れた。屯所上空から突然降ってきたあの忍者、の昔馴染みが。 文字通り「降って湧いた」その男。 服部の存在は、今までに感じたことのない苛立ちを土方に覚えさせるのに十分だった。 突然現れた彼は、仮の保護者を続けてきた土方をあっさりと追いやって、 それこそ彼女のことなら一から十まで知り尽くしているかのような訳知り顔で、彼女と土方の間に ドスンと居座ってしまった。しかしその様子をよく眺めてみれば、服部がに向ける 表情や気遣いには、意識せずともきょうだいや身内に向けるような、自然な暖かさが含まれている。 自分が彼女に向けている感情とは違う。時には嫉妬を覚えてみたり、急に抱きしめてみたくなったり。 時にはそんな自分が嫌さに、いっそを突き離してしまいたくなったりもする。 そういった不安定に揺らぐ感情や態度とは、明らかにあの男は無縁なのだ。 ただ妹のような存在として彼女を可愛がり、庇いたいとも思っているのだろう。 服部がに注ぐ親愛の情と、自分がに抱いてしまった思いは違う。 彼女を女として求めている、男としての独占欲とは。 彼はその差を、服部の登場によってはっきり見せつけられてしまった。 しかも、突然空から降ってきたその男に「あー悪りィ悪りィ、そこ俺の席だからァ」と いとも容易く押し出され、今まで居心地良く座っていたの保護者の座まで奪われてしまった。 中途半端だが誰よりも彼女に近しい、仮の保護者という役目。 その役目をずっと独占し続け、心地よく思っていただけに、その椅子を追われたのは厳しかった。 押し出された先に椅子はない。間に合わせに自分で言い訳がましい新たな椅子を組むか、・・・・・あるいは。 いっそここで、を突き離せばいいのか。 そうだ。こいつのためを思えばそれが最善だ。 うちを辞めて普通の娘に戻るのも、今ならまだ間に合うかもしれない。 こうして傍に置き続けたところで、俺にはこいつにしてやれることなど何もないのだ。 こいつが心の内では俺に望んでいるようなことなど、何も。 の思いを受け容れ、女として手に入れたところで。 どんな女とでも距離を置くと決めている彼には、彼女が望むような幸せは与えてやれそうになかった。 受け容れても何もしてやれない。いや、何もしてやれないどころではない。 それどころか、一人の娘がひたむきに預けてくるすべてを、我が物面した自分がのうのうと 無残に食い荒らし、果てには見殺しにするようなものだろう。 服部の言い草ではないが、普通の娘として暮らせたはずのを 行き掛かり上とはいえ、血生臭い世界に引き込んでしまったのが自分だという負い目もある。 笑いかけてくるを眺めていて、いまだにふと考えても詮のないことを思うことがあるのだ。 拾ったのが自分ではなかったら、こいつは今頃どうしていただろう。 江戸のどこかで、もっとまともな男と巡り合って。今よりはまともな暮らしをしていたはずじゃねえか、と。 こいつを拾って一年経った。しかし、まだたった一年だ。 今ならまだ間に合う。こいつをこれ以上深く傷つけることなく、追い出してしまえばいい。 めまぐるしい日々に追われて、考える余裕がないふりをして、先伸ばしにしてきた答えを出すのは 今が潮時なのかもしれなかった。 俺が決心さえ固めれば、後は容易いはずだ。元々、憎まれ役には慣れている。 騙されやすいこいつを手酷く突き離して、泣いて屯所から飛び出したところを、あの服部に拾わせればいい。 ただそれだけだ。たったそれだけで、こいつは元の暮らしに戻れる。 だが、俺は。こいつを手放し、手元からいなくなったところで。戻れるのか。元の自分に戻れるだろうか。 そう考えると、急に胸の奥がすうすうとざわついた。 まるでそこにいきなり、埋めようのない大きな空洞が開いたかのような 風通しの良さに全身が襲われて、ひどく虚しくなる。と同時に、自分で自分に呆れてくる。 いや、こんな自分は傍から見れば、目も当てられないほど馬鹿げているに違いない。 まさか、女一人が身近からいなくなった想像だけで、ここまで女々しい淋しさを覚えるとは。 肌を擦るような尖った北風が、彼の背後から吹き荒れた。 ベンチに零れたの髪を舞い上がらせ、淡い桜の花びらを巻き込みながら くるくると渦巻いて突き抜けて。見上げた夜空の向こうに掻き消える。 それを合図に、風向きが変わった。 東から柔らかに流れて、わずかに樹に残った花をそっと撫でていく、ぬるく乾いた春の風へと。 見下ろすと、目を閉じたの表情はすっかり緩んでいた。 耳をすましてみれば、微かにだが深い寝息も聞こえてくる。試しに眉間を軽く弾いてみても、何の反応もなかった。 「・・・すっかり気ィ許しやがって。」 苦々しく吐き出した溜息と一緒に口をついて出た言葉は、まどろみかけていたにも届いたらしい。 ぴくり、と閉じた瞼が動き、長い睫毛が揺れた。薄目を開けて彼を呼んだ。 「・・・・土方、さ・・・・・」 「ああ」 「・・・いま。何か、・・・・言っ・・・・・」 「言ってねえ。いいから、もう眠れ」 ほっとしたかのように顔をほころばせて、小さく頷くと、は眠気に引き込まれて目を閉じる。 毛布に埋もれて眠る女の顔を、彼は複雑な思いでじっと見下ろす。 見つめるうちに、ベンチに零れた長い髪にいつの間にか手が伸びていった。 一束を手に取って持ち上げると、しなやかな流れはさらさらと、途端に彼の手のひらからすり抜けてしまう。 そのあっけなさが物足りなく思えて。つい彼は、もう一度手を伸ばした。 額の生え際に指先で触れてみた。流れに沿って、ぎこちなく髪を梳いてみる。 彼女が目を覚ましてしまわないように、壊れ物にでも触るような用心した手つきで頭を撫でた。 大事そうに女の頭を撫でるその穏やかな仕草に反して、彼の表情は苛立たしげに曇っている。 どこかやりきれなさそうにも見えた。 実際その時の彼は、呆れ果てていたのだ。多少辺りが暗いとはいえ、こんな人目につく場所で 眠る女にそんな真似をする自分に。 なのに、勝手に動く手を抑えられなかった。 毛布に半分潜った女の顔に、ためらいながら手を伸ばす。 土方はの瞼に指先で軽く触れ、うっすらと涙の滲んだ彼女の目元をもどかしく眺めながらしばらく待った。 何の反応もなく、よく眠っているのだと確かめてから、その頬を広い手のひらにすっぽりと包み込む。 夜風に冷やされた淡い色の肌は、滑らかで柔らかい。彼の手の内に添うようにひたりと吸いついてくる。 顎の下に指を這わせて、ゆっくりと撫でてみた。それでもは目を覚まさない。 ふっくらとした唇が、わずかに緩んで笑うだけだった。 「・・・・・少しは警戒しろってぇんだ。この、馬鹿女」 ふいに風が止んだ。 春めいて乾いた空気が静まっていく余韻を肌に感じながら、どこか重苦しい気持ちでつぶやいた。 乾いた弱い風が桜を薙いでは白い欠片を舞い上がらせ、静まり、また思い出したかのように巻き上がり。 散っていく花と戯れるかのように、幾度もそれを繰り返すうちに、夜気はしだいに冷たさを増していく。 夕暮れの名残を西の空に紅く留めていた景色も、いつしか深い黒に沈んでいた。 遊園地の二人を探しに現れたのは、明らかに機嫌を損ねた態度の沖田だった。 土方を敵愾心剥き出しの冷えた目で睨むと、黙ってを抱き起こす。 熟睡しているはそれでも目を覚まさなかったので、彼はそのまま車まで彼女を抱いて運んだ。 車が屯所へ向かう間も、後部座席に並んで乗り込んだ二人の間で、は沖田の肩に身体を預けて眠り続けていた。 一言の弁明もせずに暗い車窓の外を眺める土方には、沖田は一瞥もくれようとはしなかった。 車を降りた沖田は、起きないを抱きかかえたまま玄関を上がった。 屯所の廊下をまっすぐに彼女の部屋へと急ぐ。少々気まずい顔で三人を出迎えた近藤にも、挨拶をしない。 彼の背後で、小さく白い何かがちらちらと、粉雪のように踊りながら落ちて行く。 床に数片広がったそれは、桜の花びらだった。 の髪に紛れてここまでついてきたのか。それとも、着物の衿にでも挟まっていたのが落ちたのかもしれない。 沖田の背中を見送ってから、近藤は言いにくそうに切り出した。 「いやァ、俺は他の奴に行かせるつもりだったんだがなぁ。 お前とが二人で出掛けたってえのを、総悟がどこからか聞きつけちまってよー」 「それのどこを、あんたが気にすることがある」 「いや。まあ、わかってはいるのさ。お前にとっちゃ、こいつは要らねえ世話焼きなんだろうってな。 だがよォ。つまりなあ、そのー。あれだ。・・・・・水を差しちまったんじゃねえかと思ってな」 言葉を選びあぐねて口を鈍らせ、頭を掻く近藤をじっと眺める。 土方はふっと表情を緩めた。困ったような顔でかぶりを振り、薄く笑った。 「いいや。あいつで適任だ。おかげで助かったぜ」 「・・・?そうなのか?」 「ああ。ちょうど、誰かに水を差されてえ気分だった」 聞いた近藤は、眉間のあたりに微妙な戸惑いを浮かべた。 黙って彼の横を通り過ぎ、廊下の奥を見据えて速足に向かう男の背中。その見慣れた背中を眺めて立ち尽くす。 何か考え込むような顔で口を引き結んだ彼は、腕を組んで深く首を傾げた。 に連れて来られた薄紅の小さな花びらは、ちらちらと低く廊下の床上を踊っている。 通り過ぎた男の足捌きで生まれた風を受け流し、ひらりと跳ねて舞い上がった。

「 薄紅の風 瞬く花 」end text by riliri Caramelization 2009/11/08/ ----------------------------------------------------------------------------------- この少し後の話が番外の「もうすこしだけ、このままで」です 次はまた過去/長編で ↑ のつづき。 ×××編直前直後捏造を含みます。登場他数で元カレその2とかあの人とかあの人とか あの白い何かとか            next