―――やっぱりこんなひとについてくるんじゃなかった。 前話で固く誓った決意が、普通であればそうあっさりと冷めるはずもないその十分後。 早くも湧いた激しい後悔に、はどんよりとうなだれて肩を落としていた。 「・・・もぉっっ。もうやだァ、重ぉォォいぃぃ・・・・・・・」 心が重い。肩が重い。いや、全身が重い。 しかも暑苦しくて、道場に置いてある防具と同じ臭いがむさ苦しかった。 もっさりと頭から自分を覆っているコレのおかげで、歩くだけで息まで苦しいというのに。 なぜ。どうして。心弾む遊園地に来てるのに、あたしはどうして、こんな目に遭わなくちゃいけないの。
薄紅の風 瞬く花 9
『いっやー、悪りィなァ。いつもは出演者と裏方が交替で配ってるんだが 昨日アクションシーンで怪我人が二人出ちまって、ビラ撒きまでは人手が回らねえもんだからさ。よろしく頼むわ』 ノルマは一人百枚だからな、と手渡された分厚い束は お子様に大人気の変身ヒーローアニメ『ちゅら海戦隊ごーやちゃんぷらー』の園内イベントショーの宣伝用チラシ。 そしてこれをに手渡したのは、彼女の「初カレ」でもあり昔馴染みでもあるフリーター忍者、服部だ。 今日はこの遊園地でバイトに励む彼は、イベント広場で上演中のヒーローショーに出演している。 『遅かったな。まあ入れや』 ヘビ革のような模様入りの悪役怪獣の着ぐるみから頭だけを出し、よお、と片手を上げて 気楽そうに挨拶を一言。相変わらずのとぼけた態度で、服部は土方とを出迎えた。 招き入れられたのは「ごーやちゃんぷらー 出演者控え室」。 ・・・一部屋しかないプレハブの建物の中には、乱雑に積まれた舞台用の大道具、小道具とともに ついさっきまで出演者の汗を吸っていた、強烈な芳香と湯気を放つ着ぐるみが数体置かれていた。 物珍しそうに室内を眺めながら部屋に入ったは、その中の一つを突きつけられた。 全身ベビーピンクでフヨフヨと柔らかい、天真爛漫な笑顔を浮かべたブタの着ぐるみは の目から見てもなかなかの可愛らしさなのだが。 『・・・ちょっと。全ちゃん。何これ』 『こいつは「らふてーちゃん」っつってなー。正義のヒーローごーやちゃんぷらーのマスコットキャラだ。 普段は非戦闘員だが、ちゃんぷらー達が敵の猛攻に遭ってピンチの時には、自らの顔を引きちぎった得意技 「みみがーブーメラン」や足を引きちぎっての必殺技「ちびてーアルティメットランチャー」で仲間を救う。 捨て身の攻撃が泣かせる、まあ、いわゆる健気キャラだな』 渡された愛くるしい着ぐるみの、満面の笑顔と目を合わせる。 子供たちが釘付けになったお茶の間のテレビ前で繰り広げられる、いたいけな子ブタのハードな解体ショー。 和やかな一家団欒の光景には不釣り合いな過激食育アニメを想像してしまい、は何とも言えない 強張った表情になった。 『そ・・・そーなんだ、この可愛い子がそんな惨い目に・・・・・・・・、 いや、全ちゃん?そーじゃなくて。そーいう話じゃなくてぇ、あたしが訊きたいのはね』 『だろォ?なかなか可愛いだろ?そーかァそんなに気に入ったか、らふてーちゃんが。 いやァ良かった良かった、気に入ってくれてよー。俺もな、お前にはこいつが一番似合うと思ったんだよなァ』 『えっ。似合うって、・・・・?』 ぽかんとしたが問いかけ、数秒の沈黙が空き。はっとした時にはもう遅かった。 涼しい顔の土方と薄ら笑いを浮かべた服部に左右から腕を掴まれ、着ぐるみの中に押し込まれた。 「撒き終わるまで戻るな」と睨みを効かせた上司の厳命つきで控え室を閉め出され。 今現在、は着せられた着ぐるみの足をひきずりながら遊園地のメインストリートを歩いている。 後悔の念といっしょに、悲しさの滲む疑問がふつふつと湧き上がってくる。 謹慎中に遊園地まで駆り出された理由。つまり、土方が言っていた「あたしでないと務まらない仕事」とは、 着ぐるみ姿でのヒーローショーのビラ撒きだった、ということになる。 ・・・情けない。これのいったいどこが真選組隊士の仕事なのか。 実のところ、こんな自分でも真選組に属する「警察官」と名乗ってもいいものなのか。 いや、それとも土方に餌を与えられ、調教される「警察犬」として、首輪付きで飼われているようなものなのか。 とぼとぼと歩けば歩くほどに疑念は膨れ上がり、一方、疑念の高まりとは反比例して なけなしのプライドはへなへなと萎れて衰えていく。 うなだれながらイベント広場前を通り過ぎたところで、着ぐるみ姿の彼女の足がドカッ、と横から蹴られた。 驚いて振り返ると、足元には少年が二人立っていた。二人とも、縁日で売っていそうなお面を頭の上に被っている。 濃い緑の地色に赤や青のポイントカラーの入りのお面は、表面を覆う先の丸い棘がどことなくゴーヤを連想させる。 も実物を見たことはない。が、たぶんこれがお子様に大人気のヒーロー「ごーやちゃんぷらー」なのだろう。 「らふてーじゃん!らふてー!!みみがーブーメラン見せろよォ!ほらァ早くう、やれよォォーー!!」 足元にまとわりついた二人の子供が、無邪気な笑顔でガツガツと蹴りを繰り出してくる。 子供ならではの容赦のない蹴り。これでは今日一日で腕だけではなく、脚にまで青あざが出来てしまう、と たまりかねただが。相手が子供だけに、ここで反撃するのもどうかと思う。それでは大人気が無さすぎる。 しかも今、自分は彼等の憧れの戦隊ヒーローのマスコットキャラに扮しているのだ。 遊園地で子供の夢を壊すわけにもいかないし…、と、着ぐるみの下では困りながらも、猫なで声で宥めに出た。 「ちょっ、痛いよっ。痛いってば、ボクっっっ。ねえ、良い子だからやめてくんないかなあ、ねえっ」 「ちぇーっ。弱っちいマスコットキャラなんかつまんねーよォっ。ごーやれっど連れて来いよ、れっどォーー!!」 「あのねおれねっ、ぶるーに会いたい!ぶるーも連れてきてええェ!!」 「ごーやれっど!ごーやれっど!ごーやれっどォォ!!!」 熱いれっどコールを送る少年にしこたま足を蹴られながら、は投げやりな気分で一杯になっていた。 分厚く重い着ぐるみのおかげで、身体のだるさが増している。食欲がなくて昼食を抜いたせいでお腹もかなり空いていた。 だけどこの分厚い束を配りまくってあの横暴上司を納得させないかぎり、無一文のあたしは ご飯にも満足にありつけないし、屯所に帰れさえしないのだ。 土方さんの鬼っっっ。全ちゃんのバカっっっ。 ヒーローショーの出演者でもないただのチラシ配りのあたしが、どーしてこんなモノを着なきゃなんないのよっっ。 心の中で、飼い主に逆らえない我が身を嘆き、昔馴染みに当たり散らし。 チラシを両手に高々と振り上げて、ヤケクソになったは叫ぶ。 にっこり笑うブタの着ぐるみに隠されたその顔は、すでに涙目だった。 「ちゅら海戦隊ごーやちゃんぷらー、イベント広場で絶賛上演中ですううぅぅーーー!!! よいこのみんなーっ、見に来てねーーーっっっ!!」 「何もあんな暑苦しいもん着せなくてもよー。結構色々揃ってるんだぜ、女物の舞台衣装も」 その頃。控え室に残った服部は、壁にずらりと掛けられたヒーローショー用の衣裳に目を向けていた。 「アレとかどーよ」と彼が顎で指した服は、身体のラインにぴったりと沿うような細身で ミニスカ付きの白いボディスーツだ。それを冷やかに眺めた土方が、気に食わなさそうに眉をひそめる。 「そいつをあれに着せたとして。群がる雑魚どもの始末は、あんたが請け負ってくれんのか」 「はァ?」 「・・・んなもん着せた日には、こっちの面倒が増えるだけだって言ってんだ」 窓の外へと目を逸らした彼は「冗談じゃねえ」と独り言を漏らす。煙草の煙を深々と吐いた。 群がる雑魚ども・・・平たく言えばナンパ男たちの、を巡る乱闘騒ぎを 強引に割り込んで終わらせたのは、ほんのついさっきの話だ。 ガキの喧嘩にみっともなく割り込まざるを得なかった自分に、内心いささか辟易し、それでも私服姿のを これ以上男の目に晒したくない土方にしてみれば、ぴったりした薄地のボディスーツなど言語道断。 それこそ水着同然の大胆さだった。まったく冗談ではない。たった数分目を離しただけで ナンパ男が群がるスキだらけの女に、こんな目につく衣装を着せられるものか。入れ食い状態に拍車をかけるだけだ。 「まァ、そうだろうなぁ。こいつじゃあんたのお気に召さねーだろうなァ」 ははっ、と鼻先で笑った服部は、腕に嵌めていた長手袋を引っ張って外す。 ぽい、と部屋の中央に置かれたテーブルに投げ捨てる。乱雑に積まれた舞台用小道具の上に、 もう片方がふわりと落ちた。 「男の妄想を掻き立てるためにあるような服だもんなぁ、こういうもんは。野郎の食い付きも良くなるよなぁ。 鬼の副長さんともあろうお人が、そうそう雑魚ばかり相手しちゃいられねえだろうしよ。なあ?」 身体に張り付くヘビ革模様の衣装を身を捩って脱ぎながら、服部は何度かちらちらと振り返った。 その顔には相手の反応を試しているかのような、とぼけた含み笑いが浮かんでいる。 土方は目を細め、悔しそうに煙草を噛みしめた。 「・・・てっめえ。どこから見てた」 「なあに、気にしねえでくれ。たいして見ちゃあいねえさ」 脱ぎ終わった着ぐるみを肩に掛け、服部は何か思い出したかのような顔をした。 「そーいやあ、俺もよー」と、天井を見上げる。 「遊園地なんて一度も行ったことねえっつーから、あいつを連れて来てやったことがあったのさ。 いやー、あの時は散々だったなァ。コーヒーカップは思いきりグルグル回すのが正しい乗り方だ、とか ジェットコースターは天辺で万歳して叫ぶのが正しい作法だ、とか適当にでっち上げて教えたら、 あのデカい目ェキラキラさせて全部その通りに実行しちまうもんだからよー」 面白れーから放っといたけどよー。 顎のあたりを撫でながら思い出し笑いに耽る服部を眺め、一方の土方は苦い顔になる。 の度を越えたあのはしゃぎっぷりは、どうやらこいつのふざけた指導の賜物だったらしい。 「はしゃぎすぎて転ぶわ迷子になるわ、乗物から落ちそうになるわ、しまいには疲れて寝ちまってよー。 帰りは負ぶって帰ったんだよなァ・・・、いやー。あんたも散々だったんじゃね?」 「ああ。おかげさんでな」 苦笑混じりに尋ねられ、土方は押し殺したような声でぼそっと返した。 そうかい、と可笑しそうに肩を竦めて返すと、服部は壁際に向かう。 並ぶスチール製のロッカーのひとつを開け、脱いだ着ぐるみを中へ押し込んだ。 そこから取り出した私服に着替えていくうちに、それまでの飄々として緩んでいた服部の気配は 次第に静かに変わっていった。 着替え終わった彼は、音も立てずに扉を閉める。声音を抑えて話し始めた。 「あれから考えたんだが。悪いな。あんたの依頼は引き受けかねる。 その代り、これからあんたにバラす話の料金は請求しねえ。ってえことで、どうだ」 問われた土方が目を合わせ、黙って頷く。 それに軽く頷き返し、服部は話を続けた。 「あんたには一応説明しとくべきだろうと思ってよ。この前ののあれ、な」 「・・・・・見当がつくのか」 「ああ。あれァよー。おそらくあいつは重ねちまったのさ。あのガキ二人と。ガキの頃の自分と、兄貴の姿を」 服部は部屋の隅からパイプ椅子を引っ張り出すと、背もたれを前にして座った。 腰を落ち着けようとしているところからして、話はおそらく長引くのだろう。 ざっと辺りを見回し、土方も手近に置かれた箱型の大道具に腰を下ろした。 「の養家にはな、一人息子がいるんだ。年は俺やあんたとそう変わらねえはずだ。 こいつが行方知れずになっている。で、その兄貴が姿を消したのと同じ頃に、も家を出たらしい」 「・・・行方知れず・・・・・・おい。それは、今も兄貴のほうは行方がわからねえ、ってことか」 「ああ。今もだ」 眉を曇らせた土方は、視線を低く落として床を睨んだ。 服部の「説明」が、彼が得ていたの身元に関する情報とは食い違っていたからだ。 入隊当初にはひた隠しにしていたの身元は、彼女の義父の友人である真選組の親玉、 警察庁長官の松平との再会によって明かされた。その直後に、近藤と土方はと義父の一家についての調書を 松平から直接に手渡され、彼女の身元についての仔細をひととおり確認している。 が、そこに記載された兄の情報はごく僅かであったし、行方知れずであることなどまったくの初耳だった。 調書によれば、兄の経歴は「学問所を卒業後 某企業の工学研究所に所員として就職 現在も実家暮らし」と されていて、幼い頃に母を亡くしていること以外、その兄の生い立ちには後ろ暗い痕などひとつも無さそうだった。 近藤と彼とが揃って首を捻ったことといえば、どういった事情なのかはわからないが、 実質的には養子のはずのの戸籍が、義父の籍には移されず、実父の姓のままになっていたことだけで それより他の仔細には、特に目についた覚えもない。 こいつはいったい、どういうことなのか。 あの調書が嘘で、この男の言質が真実だとすれば、・・・・・いや。 こっちを真実と取って間違いはないはずだ。 内実ともに胡散臭そうな男ではあるが、目の前のこいつはのために動いている。 身内同然にを案じて、関わったところで自分には何の利もないというのに、 兄のことにまで手を尽くして調べようとしているのだ。そういう男が、ここで俺を欺く理由が見当たらない。 それに、この男が何らかの目的を隠して俺を謀るつもりであれば、もっと遠回しに、かつ確実な手段を弄じて 小狡い手を仕組んでくるだろう。 となれば、松平の父っつあんが寄越したあの調書は、俺たちが目を通す以前に ある程度の改ざんで別物に塗り固めれていたことになる。 そうであれば当然、あいつの家の事情には詳しいはずの父っつあんが、俺たちを何らかの理由で謀っていた、 ということにもなるわけだが。 「・・・そいつがなァ。まあ、愛想はすこぶるいいし、ガキの頃はそう悪い奴でもなかったんだが。 なんつーかまァ、ちょっと変わった、内に籠ったところのある奴でよ。 剣術嫌いで学問好きで。道場の跡取りにはなれそうもねえ、女みてーに細っこい野郎さ」 「それァあれか。あいつの義理の兄貴ってえことでいいのか」 「ああ。兄貴の方はあの親父さんの実の子だ。だが実の子のほうが、親父さんと折りが合わずに不仲でね。 しかも、兄貴にゃからっきしねえ剣術の才が、養子のにゃ有り余ってる。家には居辛かっただろうよ」 頬杖をついた服部は、天井のあたりを見上げる。十年前を懐かしむような口調で、ゆっくりと語り始めた。 「ああいうのを天才肌とでも言うのかねえ。俺があの家に出入りした当時も、 すでに学者バカの風格っつーかなんつーか。…没頭すりゃあ寝食忘れちまうし、部屋ん中は書物と実験道具だらけだ。 元から奴の研究はその筋でも注目されてて、通ってた学問所でも一目置かれてはいたらしいんだがな。 師事した教授を出し抜いて発表した論文が、学会騒然の出来だったとかで、なんでも・・・・」 そこまで言うと、ああ、とつぶやいて土方に目を移す。 一呼吸置いた後に、声をいっそう低くひそめて言った。 「あんたも幕臣なら、名前くれえは聞き覚えがあるはずだ。 東雲犯罪科学捜査研究所。・・・いや、東雲科研、のほうが通りが早いか」 その名を耳にして、土方の片眉がわずかに動いた。 腕を組み、やや身を乗り出し気味に服部と向き合う。 「名前くれえはな。 東雲の名は飾りもんで、実は天導衆直轄のきな臭せェ捜査研究機関、・・・て、くれえしか聞こえてこねえが」 「らしいな。俺もあそこには忍び込んだこたァねえんだが。 同じ稼業の奴等の間に広まった噂じゃあ、建物どころか外壁からして鼠一匹入り込めねえ伏魔殿ってえ話だな」 仮にも警察組織に身を置いていて、その名も知らないようではモグリと笑われるだろう。 東雲科研。 江戸に、いや、宇宙公易も盛んな今では、空の彼方にまで名を馳せている製薬王、東雲翁による指揮のもと、 江戸でも屈指の巨大財団「東雲製薬」が総出資して設立された、犯罪捜査研究機関だ。 犯罪捜査の科学的検証に立証、犯罪被害の科学的防止策などが主な研究目的として掲げられている。 「あいつはそこに鳴り物入りの研究主任として抜擢されて、たいした活躍ぶりだったらしいんだが。 何をやらされていたもんだか、調べるうちにどうも気になってね。ところがどう調べても尻尾すら掴めねえのさ。 公儀に通じた奴等の間でも、あそこの内情だけはどうしたわけか一切流れてこねえ」 「ああ。だろうな」 真選組副長としての土方が知り得る情報も、服部とそう大差はなかった。 東雲科研が巨額を投じた最先端設備を擁して創設されたのが、わずか数年前。 抱えたスタッフも、各分野で生え抜きの優秀な研究者や学生、犯罪捜査に関わるエキスパートばかり。 豊富な資金にものを言わせて江戸中からかき集められた彼等は、 設立からたった数年で、すでに対テロ犯罪や現場検証に画期的な進歩を遂げさせる機器の開発を 幾つももたらし、捜査効率の向上などにおいて確かな実績も挙げている。だが、そんな実績が 認知されている一方で、東雲科研は、外側から眺める限りでは胡散臭さが拭えない、得体の知れない組織でもあった。 天導衆直轄、という霞みがかった体質上、警察関係者であっても、自らの足で研究所内に踏み込んだことのある者は 上層部のごく一部に限られている。民間にはその存在すら伏せられているし、職員を始め関係者となった者は 家族にさえその存在を明かしてはならず、研究内容についても徹底した守秘義務を強いられるらしい。 ・・・と、いかに警察関係者といえど、知り得る情報はこのくらいである。たとえ真選組のように、対テロ犯罪の 捜査や鎮圧の第一線に携わる組織であっても、耳に入る噂はこの程度。ごくごく限られた、表面的な情報でしかない。 いや、実際には、それ以外に聞こえてくる噂もあるにはある。あるのだが、そのどれもこれもが眉唾ものの、 出来すぎな都市伝説めいた話ばかりだった。 「非合法の生体実験が日常的に行われている」だとか「毎晩深夜になると、研究所裏口から覆面車が出ていく。 そこに街をうろつく浮浪者を騙して連れ込み、研究所に監禁して実験の材料として使っている」だとか。 胡散臭さを含んだ噂がさらに生臭い噂を呼び集めて、風船のように実もなく膨れ上がっていく。 悪意と畏れを詰め込んで生まれた風船にこそ、架空の怪物は宿るのだろう。 服部が東雲科研を指して伏魔殿と呼んだのは、謎と怪しさを秘めたその呼び名に適っていると 言って良いのかもしれなかった。 「幕府直轄機関のどんな分野で、何をやっていたのか。何を思って、どうそそのかされちまったのか。 そのあたりの事情は謎だが…とにかくあいつは東雲に通い出して一年経たねえ間に、家を飛び出して消えちまった」 「それァ、いつ頃の話だ」 「もう二年近くにもなるらしい。 何、こっちも幕府関係者の噂で小耳に挟んだ以外に、さっぱり情報が無え。 ・・・ああ、失踪当時の話なら、俺よりあの核弾頭みてーなおっさんが詳しいはずだがな」 土方が眉をひそめ、煙草を指に挟んで口から外す。 赤く灯った先が揺れて、長く残っていた白い灰が音も無く落ちた。 「・・・?核弾頭だァ?」 「松平公だよ。おたくらの総大将の。あのおっさんは、白石の親父さん・・・、 の養父とは懇意だろう。俺も昔、あいつの家で何度か見かけたが・・・・・いや、そうか」 椅子の背もたれに腕を組み、うつむいた服部は考え込むような仕草を見せた。 しばらくしてから顔を上げ、口を開く。 「あんたがここまで何も知らされてねえってことは。 あのおっさん、訊いたところで口は割らねえかもしれねえな」 そこで服部は言葉を止めた。 窓の外へと視線を逸らして口を引き結び、どこか難しげな表情になる。 黙って聞いていた土方は手にした煙草の先をすっと動かし、彼を指した。 「おい。もったいぶるのは無しにしてくれねえか。 ここまで聞いちまったんだ。ろくな手土産も無しに帰る気はねえぜ」 「・・・ははっ。そう急かさねえでくれって。いや、どうもあんたとは調子が合わねえなぁ」 服部は後ろ頭を掻きながら、気まずそうな笑いを洩らした。 パイプ椅子を動かし、ガタガタと音をたてながら向きを変えて座り直す。 土方にまっすぐ向き合うと、さっきまでと同じように背もたれの上辺で腕を組む。即座に切り出した。 「千影は。・・・の兄貴はな。過激派浪士の中でも、特に危ねえ連中に入れ込んじまったらしい」 聞いた土方が、鋭い目を光らせる。 過激派、と口の中で低くつぶやくと、頭痛でもこらえるような渋い顔で眉を寄せた。 行方をくらました兄貴に、東雲に過激派。 思った以上に豪勢な手土産じゃねえか、と心中では舌打ちしたのだが。 短くなった煙草を再び口に含み、ゆっくりと煙を吐いた。 「成程な。とっつぁんも口を割りたがらねえはずだ」 「ああ。松平公の一存じゃどうにもならねえ、国の機密でもあるんだろうさ」 「で、その過激派ってえのはどこの組織だ」 服部が薄笑いを浮かべ、黙って首を横に振る。 その曖昧な否定を妙に思い、土方は口を開きかける。が、先に服部に遮られた。 「俺は以前に奴が匿われていた根城を突き止めて、そこは人伝てに当たってはみたんだが。 どうも一足遅かったようでね。仲間と派手に揉めたのが原因で、どこか他の組織に厄介払いされた後だった。 以来、どこの巣でも、奴らしい研究者を飼ってるって話は出て来ねえ。今も行方が知れねえままだ」 自分が目にしてきた何かを確かめるようにして、天井を見上げ気味に語る服部。 その服部を見据えながら、土方は彼の姿を透かして別の何かを見つめているような顔をしていた。 目の前で語る男の言葉は耳に入っているのだが、脳裏には別の男の姿と声が浮かんでいる。 浮かんできたのは、あの出入りの直後。 事後処理で現場に残った沖田の姿と、彼の隣で考え込みながら漏らした訝しげな声だ。 『ガキを人質にしたあの野郎の懐に、が飛び込んで行く直前だ。 あの時のは人が変わったみてえにぼんやりしちまって、俺の声なんて耳にも入っちゃいなかった。 けどねェ土方さん。姫ィさんは確かに言ったんでさァ。一言だけ「兄さん」と』 何気なく耳にして、特に気に留めることもなく忘れかけていた言葉。 それが数日後の今になって唐突に頭に浮きあがってきたのは、の様子を訝しんでいた沖田と同様に、 彼女があの緊迫した場で、なぜかうわ言のように兄を呼んだことに 土方も無意識のうちにひっかかりを感じていたからに違いなかった。 松平からの調書によると、の家族は二人とされていて、そこには話に出ている嫡男の存在も記されていた。 いたのだが、紙面に記された兄の身上は、良く言えば染み一つなく、悪く言えば平凡で特徴のないものだった。 今思い返して、改めて重箱の隅でもつつくようにして疑念を掘り起こそうとしてみても、あの調書に 怪しむべき点は見つけ難い。唯一浮かぶ疑念といえば、その経歴が出来すぎなほどに凡庸であったことくらいだ。 人目を惹くことなく凡庸に見せかけるために作り込まれた、偽の経歴。幕府にまで隠匿されている、兄の行方。 そして、その兄が家を出奔した背景には、松平が口をつぐむ幕府の機密や、の過去にも繋がる何かが隠されている。 そこだけは、この男のもたらした情報と身元調書の内容がこれだけ食い違っていることからして 間違いがないと見ていいはずだが。 たった一度、それほど注意も払わずに目にしただけの調書や、そこに貼られていた兄の顔写真。 それらを隅々まで思い返そうと、土方はじっと部屋の床を見据えて黙り込む。 服部もそれ以上は口を開くことはなく、部屋の中は自然と静まり返った。 窓の向こうを行き交う子供たちのはしゃぎ声が、部屋の中までさざ波のように打ち寄せては通り過ぎていく。 やがて外から、重たげな足音が二つ、こちらを目指して向ってくるのが聞こえた。 引き戸が開かれ、着ぐるみを着たヒーローショーの出演者が、一人、二人と入って来る。 バイト仲間と短く挨拶を交わすと、服部は土方に目配せして顎で外を指した。「表に出てくれ」と言いたいらしい。 指先程度の短さになっていた煙草を床に揉み消し、土方が椅子にしていた大道具から腰を上げる。 二人は控え室を後にした。 「じきに桜も終わるなあ。」 桜並木から流されてくる花びらの吹雪を頭上に眺めて、服部が淡々とつぶやく。 出てきたばかりのプレハブ小屋を背に、二人は前後して歩いている。 園内で着ぐるみを被ってチラシ配りをしているはずの、の様子を見に行くためだ。 「花なんぞに興味はなさそうだな、副長さんは」 「ああ。少なくとも野郎と花を語る趣味はねえな」 「そうだな。俺もあんたとじゃぞっとしねえ。かといって他に話題もねえし、…あいつの話でも続けるか?」 とぼけて返した服部が振り向き、その口がにやりと大きく笑う。 その顔が癪に障った土方は、口端でムカつきを噛み潰した。 忙しい最中になぜ俺がここまで足を運んだのかを判った上で、この態度だ。 ふざけやがって、と前を行く男の背中を睨みつけた。 いたって呑気な足取りで、花びらの散り廻らされた周囲を見渡しながら歩く服部と、その背中を 不機嫌そうに睨んで歩く土方。正反対な表情の男二人は、ベンチに座る親子連れの前を横切った。 母親の膝に抱かれた幼い娘が、足をじたばたと動かして甘えている。 何かをねだっているようなその仕草を眺めながら、服部は口を開いた。 「ガキの頃のは、剣の腕前こそ大人顔負けだったが。他は普通の、どこにでもいる子供だったぜ」 の昔を思い出し、懐かしさでも覚えたのだろうか。 傍からは表情を窺い知れないその顔は、母親に抱きつこうとしている幼女に向けられたままだった。 「普段はやたらと人懐こい、誰かの後ばかりついて歩く甘えたガキでね。 俺もなぜか懐かれちまって、あの家にも出入りしたクチだが。思えば俺は、あの兄貴の身代わりだったんだろうよ」 舗道沿いに数脚並んだベンチの前を通り過ぎ、イベント広場の前にさしかかる。 古びて塗装の剥げかかった椅子席や通路には、が配り歩いているのと 同じヒーローショーのチラシが、飲み物のカップや食べ残しのゴミなどと一緒に点々と置き去りにされている。 人気のない、がらんと空いた空間を横目にしながら歩くうちに、聞き覚えのある女の声が近づいてきた。 二人はほぼ同時に足を止め、声のするほうへ目を向ける。 淡いピンクのブタの着ぐるみは、少し離れたお化け屋敷の前で数人の子供に囲まれていた。 その光景に服部は吹き出し、逆に土方はムッとして睨みつけた。 「・・・・・ぁにやってんだ、あのバカが」 と、怒りをこらえて低い声を絞り出す。 荒い仕草で袖に手を突っ込んだ彼は、煙草の箱を力任せに握りしめて取り出した。 は着ぐるみの脚や背中をぐいぐいと引っ張られ、腕にも鉄棒のように子供をぶら下げている。 「子供と遊んでやっている」というよりは、むしろ「子供たちに遊ばれて、おもちゃにされている」といった 体になっていた。そんなが気に食わない・・・のではない。 気に食わないのは、を取り囲んでじゃれついている子供たちが、なぜか揃って男ばかりなことである。 とはいえ、ナンパ男どもの集団ならともかく、 邪気もなさそうな幼い子供が相手では、さすがに「雑魚の始末」ともいかない。 無言の怒気と煙草の煙をたちまちに噴き出し始めた、見た目にそぐわず大人気の無い男を尻目に 服部はのんびりと構えながら話を続けた。 「まあ、兄貴ったって、あいつにとっては義理の兄だし、傍目にはそう仲が良くも見えなかった。 だが、には違ったんだろう。ガキなりに思うところはあったのさ。 年端のいかねえあいつが気ィ遣って、何かあるごとに兄貴を立てようと必死だったな」 頭にお面を被った小さな男の子が二人、嫌がる着ぐるみの脚に抱きつき、よじ登ろうとしている。 それを眺めて口許を歪ませ、服部が声もなく肩を揺らして笑う。 「あいつもなァ。見た目には随分変わったが、兄貴への遠慮ぶりは今も変わっちゃいねえな。 ガキの頃に身についちまった悪い癖ってえのは、十年経ってもそう簡単に変わりゃしねえもんらしい」 前髪に隠され、どこを眺めているのかはっきりしないその目は、子供の扱いに四苦八苦する に何を思って眺めているのか。顎髭を指先で弄りながら、感慨深げな声で言った。 「・・・・・兄貴のこたァ振り切って、忘れりゃあ楽にもなれるだろうに」 やれやれ、と呆れたような口調でつぶやいた服部が踵を返す。 その背中を仏頂面で見送る土方に、軽く手を上げた。 「喋りすぎたな。いや、こいつは内緒で頼むわ。」 じゃあな、と挨拶をして、そのまま立ち去ろうとした。 が、数歩進んでから足を止めた。言い忘れた何かを思い出したらしい。 あのよォ、と指を差しながら土方に振り返った。 「ついでに言っとくが。俺じゃねえはずだぜ、あいつの初恋ってえやつは。 俺はそのー、何てえの?カムフラージュっつーか、身代わりみてーなもんよ。 はぜってー言いたがらねーが。あいつは」 「言う必要はねえ」 「あァ?」 服部が口をぽかんと開いて訊き返すと、遮った土方はムッとした顔で口を引き結ぶ。 肩をいからせて腕を組み、聞きたくねえ、とばかりに背を向けて拒んだ。 「俺には関係ねえ話だ」 ふてくされたような、投げやりな口調のその言葉に、服部はぴたりと黙り込む。 やがて、可笑しそうに背を丸めてくつくつと肩を揺らし始め、その強張った後ろ姿を眺めた。 前髪に覆われたその目も、実はからかい半分に笑みを浮かべてはいたのだが。 例によって、本人以外がその表情を窺い知ることはない。 頬を緩め気味に「そうかい」とつぶやくと、もう一度、挨拶代わりにひょいと手を上げた。 「まあ、そーいうことだからよ。次の依頼の時にはせめて普通に口訊いてくれってことだ」 「普通に、だァ?こっちは普通に訊いてやってんだろーが。蒸し返される覚えはねえぜ」 「いやァ、だからな?こっちも誤解を招くような真似しちまったかもしれねーが、 を世話してくれたあんたと遣り合う気は、俺の側にはまったくねえんだってことさ。 ただなァ。あいつの最初の男としては、こんな血生臭せェ生き方じゃねえ、 ・・・・まだ間に合うもんならよ。普通の娘としてまっとうに生きる道を歩ませてやりてーとも思うワケよ」 それを聞いた土方は、ちっ、といまいましげに舌を打つ。皮肉たっぷりに言い放った。 「フン、言いやがる。十やそこそこのガキ相手に、最初の男も何もねえだろう」 「・・・おいおいィ。副長さんよー。 やっぱりあんた、誰がどー見たってに気があるよなァ。な、そーだろ?」 「あァ!?ねえよんなもん。あるわきゃねーだろ」 「そーかそーか、やっぱりなぁ。最初に顔合わせた時もよー、そーじゃねえかとは思ったんだがよー」 「るっっっっっせーなァァァ、ねえって言ってんだろォが! 俺ァただ、てめえのもって回った口ぶりがどうにも気にくわねえだけだ!」 ふーん、あっそう、と、聞いているのかどうかも怪しい、いい加減な相槌を打ちながら、ニヤニヤと服部が笑う。 正直彼の、土方に対する第一印象はかなり悪かった。ろくに目も合わせようとしない土方を眺めて、 世間に名を売るその仕事ぶりはともかく、これは幕府の底辺役人にははありがちな、狭小な男だと思った。 頑なで高飛車でうっとおしいだけの、陰鬱な男。傷を抱えたを任せるには不十分な、懐の狭そうな男だ。 だから、に向って「やめとけってあんな野郎」と冗談混じりに口出しした時には、 何かしらの手を打ってどうにかを土方から引き離し、ゆくゆくは真選組を辞めさせるつもりでいた。 しかし屯所で声を掛け、こうして呼び出し、言葉を交わしていくうちに、その考えが徐々に変わってきた。 彼はこの男の意固辞なまでの頑なさと、意外なまでの面倒見の良さが・・・というか、 冷徹そうな見た目からでは測れない、不器用で釣り合いの悪い性分が、同じ男として気に入り始めてしまったのだ。 まあ、女に対する意地の張りようが、あそこでにしがみついているガキどもとそう大差ねえってところに どうも難があるのだが。こうして話してみれば、愛想のかけらもない面構えの割には、 案外可愛げもあるじゃねえか…と、最初は鼻についた彼の頑なさを、今では好意的な見方で眺めるようになっていた。 この男なら、を任せていいだろう。 こいつなら、たとえすべてを知ったとしても、あいつを見放して逃げはしまい。 そう読んだ服部は土方に近寄り、背後からポン、と肩に手を置く。ニヤリ、と意地の悪さ満点に口端を吊り上げた。 「イヤまァあれだな、あんたがあいつの男になるってこたァ、俺にとっても弟同然になるってことだからなァ。 もしそうなった暁にはよー、俺のことは「兄貴」と呼んでくれて構わねーからな、弟よ」 「ぁあァ!!?っだとコルァ、てっっめえェえ・・・、人の話聞いてんのか!!?」 にやつく服部が「俺の勘も捨てたもんじゃねえなあ」と満足そうに悦に入り、 一方、その隣の土方は悔しさのあまりに刀に手を掛け地団駄を踏み鳴らし、眉を吊り上げ抗議していたその間。 が扮するブタの着ぐるみ「らふてーちゃん」は、相変わらず子供のおもちゃにされていたのだが やっと彼等の姿を見つけ、「助けて」とでも言いたげにブンブンと手を振っていた。 手脚に子供をしがみつかせたまま、よたっ、と頼りなげな足取りで一歩踏み出す。 そこでなぜか立ち止まり、ふらりと身体を揺らして。ブタの着ぐるみは突然、がくっと膝を折った。 「おーい、らふてー?・・・なんだよォ、どうしたんだよー。起きろよー」 「寝ちゃったの?ねえー、らふてー。一緒に遊ぼうよーっ」 子供たちの不安げな呼び声に気づき、土方は振り返る。 地面にうつぶせに倒れたブタの着ぐるみを囲み、子供たちが呼びかけていた。 それでも着ぐるみはびくりとも動かず、彼等の声にも応えない 一人ががおそるおそる傍に近づき、肩を揺すってみても反応はなかった。 はっとした彼は、下駄履きの足で一歩踏み出す。何かに弾かれるようにして地面を蹴った。
「 薄紅の風 瞬く花 9 」text by riliri Caramelization 2009/10/27/ ----------------------------------------------------------------------------------- next