薄紅の風 瞬く花

8

散り散りに逃げていく人たちの背中を、呆然と見送った。 見送ってから、自分が地面に座ったままなことに気づいて、それから、隣にいたはずのひとがいない、と気づく。 「えっ、あれっ?土方さ・・・」 辺りを見回していたら、後ろに誰かが立った気配と影を感じた。 振り向こうとしたら二の腕を掴まれる。そのまま身体を引っ張り上げられ、何かを押しつけられた。 「時間だ。来い」 押しつけられたものは、あたしの巾着袋と、さっきぶつけられたあの紙袋だ。 あたしの二の腕をがしっと掴み、強引に引っ張って歩き出す。 「あ、あのっ。来いって、・・・どこに行くんですか」 掴まれた二の腕が痛い。指が強く食い込んでいる。 痛さに戸惑いながらふらふらと後ろについて歩く。 肩をいからせて前を歩くひとの歩幅が大きすぎて、あたしの足では速さについていけなかった。 身体が前のめりになって、転びそうになる。 「ちょ・・・、待ってくださいよぉっ。あの、もう少しゆっくり」 「黙れ。荷物の分際で文句つけんじゃねえ。頭掴んで引きずられねえだけマシと思え」 早口に言い返すひとの足は、遅くなるどころかちっとも緩まない。 それどころか、却って早くなってるんじゃないだろうか。 前のめりで歩くあたしの格好は、半分引きずられているようなものだった。文字通りの荷物状態だ。 「荷物」をズリズリと地べたに引きずってでも、土方さんはとにかく先を急ぎたいらしい。 ああ、自分がすっごく情けない。 屯所の廊下で似たような目に遭ってる山崎くんの、半泣きの顔が目に浮かぶ。 締めつけられる腕の痛さに眉をしかめて、振り返りもしない背中を睨む。 睨んでいたら、なんだかふてくされたくなってきた。 そりゃああたしは、全ちゃんに言わせれば「嫁の貰い手のつかない 凶暴な女剣術使い」だ。 義父さんに仕込まれた体術も身についているし、飛び道具的な得意技もいくつか持っているから さっきのお兄さんたちのような一般市民の男の人が相手なら、刀無しでの実戦であってもそうそう負けない自信がある。 だけど、それでもいちおう身体だけは、か弱く華奢な女の子なんですけど。 木刀でも掴むみたいにわしっと握られたら、間違いなく指の跡が青あざになるんですけど。 女だなんて思われていないのは、まあ、警察官という職業上でも、直属の部下という立場上でも仕方ないと思ってる。 そこはもうある程度割り切っているつもりだ。 でも、きっぱり割り切ったつもりでいても、ここまでされたらムカつくものはムカつくのだ。 ここまで「女扱い」を忘れ去られて、あげくモノ扱いで引きずられるのは、ちょっと、いや、かなりムカつく。 ああ、言ってやりたい。その類まれなる馬鹿力、こんなところで発揮しないで下さい副長さま! 「馬鹿だ馬鹿だと思っちゃいたが。ここまでくると言葉もねえな」 苦々しい舌打ち混じりに、土方さんがぼやく。 はあ?とあたしは目を丸くした。あまりに驚きすぎて顔が強張って、かえって無表情になったくらいだ。 素人さん相手に大人気無く頭突き喰らわせたり、素人さん相手に大人気無く焼き印押しちゃうようなひとが よくもまあそんなことを、ぬけぬけと言えるなあ、…なんて。呆れを通り越して、逆に感心させられそうになる。 「・・・何それ。なんですかそれっ。こっちこそ心外ですよっっ。 あんな大騒ぎ起こしたひとがよく言えますね?言葉もないのはこっちなんですけど!! しかも二回もバカ呼ばわりしましたよねぇ、今!充分言ってますよねそれ。ひどくないですかそれ!?」 「うっせえ。十回でも足りねえところを二回で抑えてやってんだ。むしろ感謝しろ」 言い返されてムッとしたらしい。声が強張って、硬くなっていた。 二の腕を強く握り直すと、よりいっそうぐいぐいと、おかまいなしに引いてくる。 痛いですっ、とわめいても離してくれない。あたしはこの横暴な手を振り解こうと 腕をよじったり、掴んでいる手の指を引き剥がそうとしながら逆らった。 「・・・あのぉ!さっきも同じこと言いましたけど。この際だからしつこく繰り返しますけど! 土方さんて、あたしをどれだけバカだと思ってるんですか!?」 「ああ。百回言っても物足りねえな。百回怒鳴り倒してえくれえ馬鹿だ」 言い終わらないうちに腕を離され、前を歩く背中が急停止した。 突然立ち止まられても、前のめりになっていた足は止まらない。 ぶつかる前に止まろうとしたけれど、運の悪いことに草履の爪先が地面にひっかかる。ぐらりとよろけた。 腕が無意識に、何かに縋ろうと前に伸びる。 「!ひゃっっっ」 抱えていた手荷物が腕を離れる。足元で、どさっ、と音が響いた。 目の前が真っ暗だ。何が起きたのか、自分がどこでどうなってるのか。何もわからない。頭の中が真っ白に飛んでいる。 顔を押しつけていた、温かくてびくともしない黒い壁から、とりあえず顔を離してみる。 人目も忘れて叫びそうになった。壁と思ったのは、――壁のはずがない。背中だった。 それから自分のしている格好の大胆さをじわじわと自覚して、声も出ないほど呆然として。 次の瞬間、火がついたみたいに顔が熱くなった。 土方さんの胴に腕を回して、身体をぎゅうっと押しつけて。・・・要するに、夢中で抱きついてしまってる。 「・・・は、はぅうあああぁあぁ!?」 おかしな声は出せても言葉が出てこない。声は出せるけど、言葉がひとつも出て来ないのだ。 「ごめんなさい」とか「すいません」とか「事故です偶然です不可抗力ですうぅぅ!!」とか。 訴えたいことは次から次へと、頭の中が言い訳の洪水になりそうなくらい溢れてくるんだけど、 口はぱくぱくと動くだけ。あやふやに空気を噛むだけ。何より焦ってしまうのは、身体が金縛りに遭っていることだ。 土方さんに巻きつけて、がっちり組んだ腕が硬直している。着物越しに漂う、煙草の匂いが近すぎる。 どうしよう。どうしよう。どうしよう。 うあぁ、とか、あうぅ、とか、情けない声を漏らしていると、固まった腕に何かが触れた。 着物の袖越しに、熱い感触が滑る。辿り着いたあたしの手を、上から包み込んだ。 「・・・抑え込めるだけの腕力もねえ奴が」 「え、・・・・・・・」 「意気がったガキどもの小競り合いなんざ、放っておきゃあ済む。ああいう時は、女は真っ先に逃げりゃいいんだ。 ・・・・・それを、てめえは。何やってんだ。素手に丸腰で、わざわざ仲裁に入る奴があるか」 その熱さが、土方さんの硬い手のひらだとわかるまで。 あたしは奇声を上げるのも忘れて、この衝突事故の気まずさも忘れて。 腕から手へと伝う感触に、身体中の神経を奪われていた。 覆った手がわずかに動く。指先に力が籠められて、ぐっと強く握られた。 それだけで、頭の中がぼうっとして。熱くなった。顔だって火がついたみたいに熱いのに、頭の中まで火照ってきた。 「謹慎中で隊服も着てねえ。刀の一振りも提げてねえ。 んな時にてめえから男の揉め事に首突っ込むような、身の程知らずな女。馬鹿に決まってんだろうが」 感情を押し込めたような低い声が、背中を通して伝わってくる。 背後のあたしに言い聞かせている、というよりは、独り言のようにも聞こえた。 少し体温の高い、土方さんの手。今でも鍛練を怠っていないのだとわかる、指の腹まで硬くなった手。 あたしの手が、土方さんの大きな手に包まれてる。 手の甲に当たった指先が、じれったそうに爪を立てる。ぎゅっと肌を掴んだ。 「土方さん・・・」 言われたことを、何度も何度も、火照る頭の中で繰り返す。 口に出すのをしばらく迷ってから、やっと口を開いた。 「もしかして。さっき散々暴れた・・・あれって、・・・・・」 あたしを心配して、あんな真似したんですか。 訊こうとして、顔を上げて。抱きついた背中を眺めていたら。何も言えなくなった。 頭の中が。心の中が。胸の中が。指先から爪先まで、全部に染みていく。 身体中が、たくさんの思いで満ちていく。あたしの中はまた洪水になった。 訊きたいことがありすぎて、伝えたいことが多すぎて。何から話していいのかもわからない。 胸の中が一杯になって、思いが溢れすぎて。何も言えない。 黙ったまま、こつん、と動かない背中におでこをくっつけた。 ああ。なんだ。そうなんだ。そうだったんだ。 この手がじれったそうにあたしを掴むのも。 振り上がった拳骨が、なぜか落ちてこなかった理由も。 全部わかった。このひとはあたしを、心配してくれたんだ。 ただ怒ってたんじゃなくて。心配したから腹を立てたんだ。 「ガキどもの小競り合い」と馬鹿にするような喧嘩に、思わず飛び込まずにいられないくらい心配してくれたんだ。 あたしが自分の無鉄砲さに気付かないから。放っておけばいい喧嘩の仲裁に入ろうとしたから。 睨み合ってる男二人の間に素手で入ったあたしが、見ていられないほど危なっかしくて。腹が立って、それで。 へなへなと、肩や腕から力が抜けていく。 力が抜けたら、今度はなんだか可笑しくなってくる。自然に顔がほころんでいった。 心配してくれたのは、もちろん嬉しい。本人の前じゃなかったら笑いだしたくなるくらいだ。 でも、だからって、あそこまでしなくたってよかったのに。 いくら何でもやりすぎじゃないの。 終いには刀に手まで掛けていた姿を思い出したら、こらえていた可笑しさが一挙にこみあげてきた。 ぷっ、と吹き出してしまった。ああ、ダメだ。一度吹き出したらもう、こらえられない。止まらない。 くすくすと肩を揺らして笑っていたら、振り返った横顔にじろりと睨まれ、凄まれた。 「・・・ってっめぇえ・・・・・」 「だってぇ。ふふっ。おかしいですよ。何もあそこまでしなくたっていいのに」 土方さんは一瞬口籠ってから、憎たらしそうに眉を顰めてあたしを睨んだ。うっせえ、と顔を背ける。 問いかけても答えてくれない、ぎこちなく立ち尽くした背中は 屯所のみんなといる時とはちょっと違う。滅多に見れない、見慣れない姿だ。 今、この背中をこんなに近くで眺められるのは、あたしだけ。 この背中におでこを押しつけて、頭を預けて。温かさを感じられるのも。あたしだけ。 そう思ったら、なんだかじっとしていられなくなる。押しつけたおでこをぐりぐり擦りつけたくて うずうずしちゃうくらい、嬉しくてたまらないんだけど。 どうしても嬉しさより可笑しさが勝ってしまって、あははっ、とつい声を弾ませて笑ってしまった。 「一体どうしちゃったんですか。あたしがナンパされかけただけで、刀抜くほど怒るなんて。 やっぱりおかしいですよ?今日の土方さん。だってそれじゃ、まるで、・・・・・・・・・・・」 嫉妬でもしてるみたいじゃないですか。 軽い口調で、冗談めかして言うつもりだったのに。 言いかけて、口を開いて。どうしてだろう。言えなくなった。 ためらいが硬い塊みたいに喉に詰まって、言葉を押し留めている。結局、言うのをやめた。 「・・・・・・・・ごめんなさい。すみませんでした」 ああ、とだけ、怒ったような口調で答えて、土方さんは振り向いた。 落ちた荷物を手早く拾い上げると、さっきと同じようにあたしの腕を強く掴んで歩き出した。 さっき乗ったジェットコースターの架橋の下を横切る。 架橋に沿った桜並木の間も横切った。 頭上を走り抜けたジェットコースターが起こした強風に、桜の枝が大きく煽られる。 揺れた枝は花びらの猛吹雪を舞い散らせて、あたしの目の前も遮った。 ほんのりと色づいた吹雪の中を、腕を引かれながら通り抜ける。 前を行くひとは振り返らない。脇目もふらずに直進する背中からは 急ごうとしている気配は感じられるけれど、さっきのように引きずられて前のめりになるようなことはなかった。 女の足の速さに合わせてくれているのかもしれない。歩幅もこころなしか小さくなっている。 「あの。土方さん」 「ああ」 「あの。・・・・・・・・痛いです」 「あぁ?」 「腕が。痛いんですけど」 「手荷物が贅沢言うんじゃねえ」 「贅沢くらい言いますよ。いくら手荷物だって、痛いものは痛いんですから。 てゆうかこんな馬鹿力で握られたら、誰だって痛いに決まってますよ。誰だって青あざが出来ますよっ」 「・・・ったく。黙って歩けねえのかてめえは」 「少しは加減して掴んでくださいよぉっ。 ゴリラに掴まれたってびくともしない土方さんと違って、乙女の柔肌はデリケートなんですから。 妙なところで人を女扱いするくらいなら、そういうところに気を遣っ・・・」 口答えを続けていたあたしは、言葉に詰まって立ち竦んだ。 先を急いでいた土方さんが、また唐突に肩を強張らせて立ち止まったからだ。 しまった。つい調子に乗って、言いすぎたのかも。 じりじり後ずさりながら身構える。けれど、土方さんは振り向かなかった。 あっさり腕が離されて、代わりに手がこっちに差し出された。 差し出された手に戸惑って、あたしは黙って見つめていた。 上向きにした手のひらの先で、指がひらりと、誘うように動いた。 『来いよ。』 無言で立ち止まった背中に、そう言われたような気がした。 餌付けした野良猫の喉を撫でようとしている人が、こっちに来い、と手招きしている仕草にも似て見える。 ふらり、と足が前に出た。 身体が強力な磁石で勝手に引き寄せられているみたいだった。 信じられない、と目を見張りながら手を伸ばす。 こっちに向けて伸ばされた指先に、呆然と触れてみる。そっと指先を握ってみた。 「!!ひっっ」 握ったとたんに手が動いて、罠にかかった獲物みたいにがしっと鷲掴みにされる。 驚いて手を高く跳ね上がらせると、土方さんが振り返った。 固まって目を丸くしたあたしを肩越しに眺める。意地悪く細められた目が満足そうに笑う。 その表情を見た瞬間、胸がとくん、と波打った。 からかわれるのはいつものことでも、こんな子供っぽい、打ち解けた表情を見せてくれるのは珍しいから。 不意打ちにあたしを脅してからかうのは、多忙な副長さまの「気晴らし」らしい。 手近の部下で手っとり早いストレス解消というか、土方さんにとっては仕事の合間の息抜きみたいなものなんだと思う。 脅す、といっても、どれもたいした悪戯じゃない。ただ、いつも完全に気を抜いた瞬間をしっかり見計らって 仕掛けてくるから、単純なあたしは面白いくらい簡単にひっかかって、その度にバカにされる。 それでもなぜか、からかわれるのが嫌になったことはない。 騙される悔しさよりも、この素っ気ないひとに構ってもらえる嬉しさのほうが大きいのかもしれない。 ・・・・・どこまで単純なんだろう、あたしって。 まあ、あの表情にときめかされた一方で、呆れていたりもするんだけど。 いつも澄ましてるけど 実はつくづく大人気ないよね、とか、大人になってもガキ大将はガキ大将なんだなあ、とか。 「・・・・土方さんて。実は意外と無邪気ですよねぇ。 寺子屋で女の子にカエルぶつけてた頃から成長してないタイプってゆーか。中身はただの子供ですよね」 「うっせえ。つか、てめえが言うな。遊園地風情ではしゃぐ奴が人をガキ呼ばわりするな」 「ほら、それですよそれ。そーやってすぐムキになって言い返すところが子供なんですよっ。 クールで強面が売りのくせに、実は一生ガキ大将から抜け出せないタイプじゃないですかぁ」 「フン。ほざくんじゃねーよ、一生パシリが」 「はァ!?ちょっとぉ。何の予言ですかそれは。人の人生を勝手に決めないでくださいよ。 細◎☆子だってもう少し気を使ってくれますよ!?あたしの一生を偉そうに断言しないでくださいよっっっ」 「一生だろ一生。わかりきってんだろんなこたァ。てめえはな、言い草がハナっから負けてんだよ。 今のはガキ大将にすらなれねえ三下が、悔し紛れにぬかす御託だろーか。 んなこと言ってる奴ぁ一生パシリで終わるに決まってんだ」 言い合いながら歩いていくうちに、廃院になった診療所のようなお化け屋敷の、 ドロドロと黒く塗りたくられた大きな看板が近づいてくる。 そういえばさっき土方さんが向かっていたのも、こっちの方向だったかもしれない。 これからどこに連れていかれるんだろう。 行き先はわからなかったけれど、あたしは尋ねなかった。 ここで行き先を訊いたりしたら、この手を離されそうな気がして。 重ね合わせた手のひらが熱い。 骨張っていて先が硬い、長い指や、手のひらまでごつごつと硬くなった大きな手をじっと眺めながら歩く。 男のひとの手だなあ、と当り前なことを思う。 そして、屯所から離れた場所で、土方さんとこんな時間を過ごしている自分が なんだか信じられない、と不思議な気持ちになってきた。 嘘みたい。信じられない。 そう感じはじめたら、足の感覚までふわふわと浮いているような気がして。まるで雲でも踏んでいるみたいだ。 ・・・もしかしたら。夢心地って、こういうことをいうんだろうか。 園内の中央にある、イベント広場の前を通り過ぎる。 もう上演時間は終わったみたいだけれど、広場では男の子向けのヒーローショーが上演されていたらしい。 ステージから扇状に広がるベンチの並んだ観客席から、続々と家族連れが席を立ち、長い列が出来ていた。 ヒーローの変身ポーズの真似をして興奮気味な男の子たちが、他のアトラクションを目指しながらはしゃいでいる。 すれ違ったその中の一組を、どこかで見た覚えがあるなあ、と何気なく目で追った。 お父さんの背中に背負われて眠っている、小さな女の子の寝顔を眺めて気付く。 この子はたしか、ベンチで寝ていたときに眺めていたあの子だ。 背恰好が美代ちゃんに似ている、お母さんに手を引かれていた女の子。あの時の家族連れだ。 お父さんの背中に頬を埋めて、ぐっすり眠る女の子。 あたしはその子とお父さんの背中が、他の家族連れの人波に紛れて見えなくなるまで その場に立ち止まっていた。混雑でごった返すイベント広場の前で、足を止めて見送った。 「おい。」 「・・・・あ、はいっ」 はっとして振り返ると、土方さんは煙草をくゆらせながらあたしが動き出すのを待っていた。 すいません、と軽く頭を下げてから見上げる。 土方さんの鋭い目が、何か確かめるようにじっとあたしを見た。それからすっと顔を逸らし、背を向けた。 黙って手を引かれて、再び歩き出す。 急いでいるはずの土方さんが、なぜ文句ひとつ言わずにあたしが歩き出すのを待ってくれたんだろう。 歩き出してから思い返して、どうしてだろう、と首を傾げた。 歩きながら振り返って、見つかるはずのない女の子の姿を探す。 探したって見えるはずがない。広場から溢れ出したたくさんの人の背中に阻まれて、あの子の姿は見えなかった。 見えないことに少しだけ、あたしはほっとしていた。なのに、あの子の姿が見れないことが淋しかった。 あの子から目が離せなかったのは、美代ちゃんに見た目がなんとなく似ているから。 さっきはあまり考えずに、ただそれだけの理由だと思ったけれど。 こうしてもう一度目で確かめてみてわかった。それは少し違うみたいだ、と。 たぶん、あたしがあの女の子から目が離せなかったのは、美代ちゃんだけが理由じゃない。 あの女の子と家族の姿が懐かしかったせいだ。 小さかった頃の自分。まだ何も知らなくて、「養子」という言葉の意味もよくわかっていなかった頃の自分。 義父さんの広い背中に甘えていた。兄さんが差し出してくれるあの冷たい手の優しさを、ただ信じて。頼りきっていた。 「」と呼んで、笑いかけてくれる二人の間で甘えていたあたし。 一番幸せだったころのあたしと、あの家の懐かしい面影に、幸せそうなさっきの家族を重ね合わせて見ていたから。 手を繋いで笑い合う家族。どこにでもある幸せそうな笑顔を浮かべた、どこにでもいる家族。 家族連れで溢れかえっている休日の遊園地では、少しも珍しくない。似たような人達は星の数ほどいるはずだ。 そんなありふれた、星の数ほど在るはずの小さな幸福が、今のあたしの目には泣きたくなるくらい懐かしくて。 泣きたくなるせつなさと同じくらいに、まぶしく見えて辛くなる。 まぶしすぎて穢れを寄せ付けることがない、神聖な陽だまりにあの人たちは包まれている。 それはきっと、さっきのあの子が背負われていたような場所。 幼い子供が蕩けるような寝顔でまどろむ、お父さんの背中のような。温かで居心地の良い場所だろう。 その陽だまりは、今のあたしには触れてはいけない脅威のようで。 畏れに似たおごそかさで包まれて、輝いて見える。まぶしさに目がくらんで、つい顔を逸らしたくなる。 きっとあの優しくて温かい場所は、一度そこから転がり落ちた人間を拒むのだ。 拒まれてしまった人間には、差し伸べられる救いの手が与えられない。 駆け上がって戻る階段もなければ、戻る術もない。だからどんなに帰りたいと願っても、もう二度と帰れないんだろう。 たった一人のお兄ちゃんを失いかけた美代ちゃんも。 暗闇に呑まれて苦しんで、もがき続けて。すべてを掻き消すことを望んだ、弱くて優しい兄さんも。 兄さんを見失って、帰る家まで失くしてしまった。大切なものを護りきれなかった、弱いあたしも。 前を向いて、先を歩く土方さんの手を食い入るように見つめる。 見つめながら、呪文のように口の中で唱えた。 ひっそりと動かした口の中は、からからに渇いていた。 見ていない。 あたしは女の子なんて見ていない。 あの子は最初からいなかった。いなかったんだ。 あれは幻。自分から捨てたくせにあの家を忘れられずにいる、あたしの作り出した幻。幸せな幻だ。 広場から流れ出てくる、たくさんの人波の狭間を掻い潜って。 あたしにはまだ見えない先を見据えて、立ち止まらずに速足に歩く。 目の前を進む黒い着流し姿の背中が、どこを目指しているのかはわからない。 繋いだ手を、少し力を強めてぎゅっと握ってみる。 あたしの手は、いつまで覚えていられるんだろう。 たぶん二度と繋ぐことがない、このひとの手の暖かさを。強く握られたときのあの感触を。 土方さんの足が止まる。振り返ると、怪訝そうにあたしを見た。 黙って握り返したのが、そんなに気になったんだろうか。 「おい」 「はい?」 「はい、じゃねえ。何だ。言いてえことがあるなら口で言え」 「別に何も。今のはさっき驚かされたお返しですよ」 引っかかりましたね、と笑って返すと、煙草を咥えた口端がほんの少し噛みしめられる。 やり返されたのが悔しかったみたいだ。 ムッとして黙り込んだひとの手を、今度はあたしから引っ張ってみた。 繰り返し聞くうちに覚えてしまった、遊園地のスピーカーから流れてくるBGM。 うろ覚えのメロディーを小声で歌いながら、ぐいぐいと手を引いて勝手に先を歩く。 これからどこへ行こうとしているのかも知らないのに。 広場から出てきた家族連れが、バタバタとあたしを追い越していった。 頭に戦隊ヒーローのお面を被った小さな男の子たちが、笑いながら駆けていく。 曇り空を切って飛ぶツバメのように低くすり抜けていったその子たちの姿が、どうしようもなくまぶしく見えて。 あたしは深く目を伏せて、足元に視線を落とした。 白いコンクリートの舗道に敷き詰められた薄紅色の花びらが、蹴散らされながら舞っていた。 『今ならまだ間に合うんじゃねーのか。意地張ってねえで、早く親父さんのところへ帰ってやれって』 黙って歩き続けているうちに、ふと全ちゃんに言われたことを思い出す。 あの出入りの最中にまで「家に帰れ」と繰り返していた全ちゃんの姿が、なぜか浮かんできた。 あたしが家を出ることがなかったら。今もあの家で暮らしていたら。 全ちゃんと会うことはなかったのかもしれない。 もし再会していたとしても、こんなに心配を掛けるようなことはなかっただろう。 どこにでもある遊園地での光景を、まぶしく思うこともなくて。 自分が光の外に弾き出された、ありふれた幸せから拒まれた人間だなんて思うこともなかったんだろう。 だけど、もしあたしが家を出なかったら。このひとには会えなかった。 兄さんを見失って、あの男の手から逃れて。身一つで逃げ出してみても、帰る場所なんてもうどこにもなくて。 自棄になって命を捨てる気でいた、あの時のあたし。 何もかも失くしたあの時のあたしでなければ、このひとには出会えていなかった。 繋いだ手をもう一度、強く握ってみた。 忘れたくない。手のひらに刻みつけて残しておきたい。 いつまでも忘れないように。あたしの手が、いつまでもこの手の熱さを忘れないように。 心の中で唱えていると、繋いでいる腕をぐいっと引かれた。 よろけてふらっと後ろに下がると、煙草の匂いがぐんと近くなる。 あたしの隣に並ぶと、土方さんは空の向こうを目を細めて見上げる。面白くなさそうに小声で言った。 「あれの仕返しにしちゃあ、しつこくねえか」 訊かれても、何も言えなかった。 繋いだ手から力が抜けていく。手のひらが離れそうになった。 このひとの手に縋ってもいい理由なんて。口実なんて他に何もない。 ただの部下のあたしには、いたずらの仕返し以外に見つからない。 この手は、このひとは。あたしのものじゃない。 今はあたしと繋がれているこの手は。あたしのものじゃない。 お互いに忘れられないひとの手に。遠く離れた今でも、このひとを待っている女のひとの手に繋がっている。 だから、ただ強張った顔で笑ってみせた。解けかかっていた手を、そっと。ゆっくり握った。 からかわれた仕返しのふりをして、まだ甘えていたかった。 全ちゃん。 ありがとう。でも、ごめんね。あたし、やっぱり家には帰れない。 勝手に飛び出しておいて、言えたことじゃないってわかってるけれど。ほんとはあたしだって義父さんに会いたい。 ほんとは元のように、義父さんやお駒さんと一緒に。あの懐かしい家で暮らしたい。 だけどそれ以上に。あたしはただ、このひとの傍にいたい。他の誰よりも、このひとに近いところにいたいんです。

「 薄紅の風 瞬く花 8 」text by riliri Caramelization 2009/09/30/ ----------------------------------------------------------------------------------- ぎゅーするよりちゅーするより押し倒すより 「手を繋ぐ」が一番副長に似合わない気がする            next