薄紅の風 瞬く花

4

慈善団体に深夜の急襲をかけた真選組が、その本部を占拠してから数時間後の早朝。 総力を挙げての出入りも無事に終わり、現場にいた関係者全員を補縛、 囚われていた子供たちを全員保護して、現場維持と撤収作業に当たる隊士以外の殆どが屯所に戻っていた。 全員揃って乱戦直後の徹夜明けだ。屈強者揃いの面々の顔にも疲れが浮かぶ。しかし休む暇はない。 たまたま今日が非番だった運の良い隊士以外は、出入り直後の事後処理にあわただしく精を出している・・・・ 出している、はずなのだが。実際彼等の間では、それぞれの隊を監督している隊長たちの目を巧妙に盗みながら とある噂についての仕事そっちのけな包囲網が着々と築かれていた。 非番の隊士の自室でも。食堂でも風呂場でも、本日満員御礼の取調室でも拷問部屋でも。 事務要員ばかりが集まる勘定方でも、調理室のオバちゃんたちの間でも、通いの女中衆の間でも。 屯所内のあらゆる場所で二人以上が顔を突き合わせれば、その場はとある噂で持ち切りになっているのだ。 さて。急激なスピードで屯所内を席巻し、コソコソと囁かれている噂話とはいったいどんなものなのか。 それではここで噂に花を咲かせる隊士たちの、とある一例をご覧いただきたい。 ちなみにこの、人目を盗んで上司たちの影のない裏庭に集い、円になって顔を突き合わせているのは、十人の隊士。 一番隊から十番隊まで一人ずつ、各隊に籍を置く男たちの代表が情報交換をするつもりらしい。 「おいおいィ、ありゃあ誰だ?」 「誰って誰だよ」 「誰って忍者だよ忍者ぁ。さんがキレたときに止めに入った、あの忍者!どこのどいつだよ、あの野郎」 「おー、それそれ。それよー、うちの隊長に聞いたんだけどよー、あれで元御庭番衆筆頭らしいぜ」 「はァ?アレが御庭番!?えっ、つか、どーゆーことォ?その御庭番が何でさんと」 「さあ。知り合いかなんかじゃね?しっかしよォ。ありゃあヤベーよなァ、 あの後ずーっとさんにべったりだったもんなァあの忍者。お前ら見たか?ビミョーだったぜ、副長の気配」 「イヤ俺ァ現場離れてたし見てねーけどよ。つーか現場にいたって見れねーよ怖ろしすぎて」 「んだよおめーら知らねーのォ?聞いてねーの?うちの隊長が言うにはよー、アレはちゃんの元カレだって話だぞ」 「違げーよ、何ガセネタ掴まされてんだよ。そーじゃねーよあれだよ、ありゃあ三角関係なんだって。 さんがあの忍者にしつこく迫られててよー、副長とモメてんだろ?」 「うおっ、マジでか!!んだよそれ、血ィ見るぞ!!」 「イヤイヤイヤ、おめーら情報が古りィよ違げーって。  俺が聞いたのはァ、そこに沖田さんまで飛び込んじまって四角関係でマグマ沸騰、ドッッロドロの泥沼に」 「へーえ。四角関係。そいつは面白そうな話じゃねーか」 飄々として空とぼけた声に、全員が揃って目を剥き絶句した。全員が囲んだ輪の同じ方向を向いて固まっている。 そこにひょいと顔を突っ込んできたのが、ちょうど今話題に上ったばかりの男だったからだ。 明るい色の瞳を眠たげに曇らせた沖田は、自分が降りてきたばかりの縁側を指した。 「その話、俺にも詳しく聞かせろィ。ほらほらおめーも、そこのおめーも。縁側にでも座りねィ」 「!!おおお沖田隊長っっ」 「ししししかしですねェ、まだ俺らも仕事が残っ」 「まァまァまァ、いーじゃねーか、ケチケチすんねィ。  昨日は夜通し働き詰めだったんだしよォ。軽ーく休憩入れるつもりで、知ってるこたァ洗いざらい吐いてみねェ」 「で、ですが、我々にも一応立場が、いやですからその、副長の目もありますし」 「あァ、土方さんなら構やしねーよ。 徹夜明けまで馬車馬みてーにガツガツ働きたがるのァ、あの仕事狂いのトーヘンボクだけでェ」 「誰がトーヘンボクだコラ。 つか、テメエも一生一度くれえは馬車馬になったつもりで狂ったよーに働いてみやがれ」 「おや、あんたも休憩ですかィ土方さん」 振り向いた沖田にのほほんとした声を掛けられた男。彼の発する怒気に凍りつき、隊士たちは再び絶句した。 咥え煙草を噛みしめた土方が、いつのまにか彼等の背後に立っている。 集まった顔をゆっくりと、ひととおり確認するかのように一瞥。そのままギロリと凄んで動かない。 その姿に全員が飛び上がりそうなほどに震え上がった。 勿論、上司の憤った様子にもあっけらかんとして構えている約一名の大物を残して、だが。 「何をボヤボヤしてやがる。てめーらもだァァァ!!このクソ忙しい最中にくっっっだらねー話しやがって!!」 鬼の副長の怒声を浴び、沖田以外の全員が蜘蛛の子を散らす勢いで逃げ出した。 猛ダッシュで逃げ去る十人の隊士たち。一瞬で四散したその背後に砂煙が巻き起こる。 その背中を恨めしそうに眺めながら、沖田は土方に問いかける。 「で?あんたァ知ってるんでしょう。結局のところの何なんでェ、あの忍者は」 「俺が知るか。そーいうこたァに聞け。つーかテメエはまず働け」 「ちぇっ。何でェ、ちょっとくれー教えてくれたっていーじゃねーですか。 ・・・・今の姫ィさんにはさすがに聞くに聞けねーから、あんたに聞いてるんでェ」 問われた土方はどこまでも無反応だった。沖田が嫌がらせに顔を近づけて覗き込んでも答えはない。 口端が下がり気味なその口から漏れてくるものといえば、濛々と湧き上がる灰色の煙だけ。 あーあ、とふてくされた口調でつぶやいた沖田は頭の後ろで腕を組み、回れ右で背を向けた。 「仕方ねェ、野郎に直接聞いてみるか。挨拶代わりに一発ブチ込んでやってもいいですかィ、土方さん」 「やめとけ」 土方が振り返り、こちらも振り返った沖田をじろりと睨む。 面白くなさそうに口許を歪め、短くなった煙草を指に挟んだ。足元に落として踏みつける間 すでにその手は隊服の胸のあたりに伸びていて、懐から次の一本を取り出している。 「どうしたって詐欺師の面にしか見えねえが。あれでどうして手強えェらしい。 原田達が正面から踏み込んだときには、正門警備の奴等が半分は片ァついちまった後だったそうだ」 「へーえ。あの野郎一人で、ねぇ」 「ああ。少なくとも今日の働きで、近藤さんは奴がすっかり気に入ったようだぜ。 あれァ多分、今後もうちに出入りすることになるだろう。お前、むやみに絡むような真似するんじゃねえぞ」 「フン、あんたこそ。少しは顔色に気をつけたらどうですかィ」 「あァ?」 「殴りてぇ、ってツラに書いてありやすぜ」 ほんの一瞬、煙草を挟んだ指が固まった。 元から歪んでいた口が、いっそう面白くなさそうな気配で深く曲げられる。 その表情をちらりと見上げた沖田が、見透かしたような笑みを浮かべた。 「土方さんも修行が足りねェなあ。」 「うっせェ。てめえはグダグダぬかしてねえで持ち場に戻れ」 足蹴にされて追い払われ、沖田は不満気に口を尖らせた。それでも土方の後をついてくる。 ある程度事情を知っているらしい近藤に訊いても、困った顔ではぐらかされるだけだった。 となれば後は、の身元は自ら調べたらしいのに、その一切を押し黙っているこの男の口を割らせるしかない。 しかし、いくら沖田がつついても、咥え煙草の口は頑として開かなかった。 「吐けや土方ァ」としつこくゴネる沖田を背後に貼りつかせたまま、土方は屯所のあちこちへと足を運ぶ。 捕えた攘夷志士たちの顔ぶれを手配書と付き合わせたり、取調に当たる隊士たちに指示を与えて回りで、 その足は止まる気配もない。明らかに不機嫌そうな表情は、眉間の皺が昨夜から固まったままだ。 無理はない。現場では事実上の総指揮官として采配を奮い、派手なドンパチが終われば撤収作業の中心に立ち、 屯所に戻れば後始末に忙殺される土方にしてみれば、表情を緩めて一息つくような暇があるのなら、 自室に籠って報告書の一枚にでも目を通して仕上げてしまいたいところ。 それでなくても命じた隊務を放棄して人の仕事の邪魔をしにくる奴はいるし、 こういう時にはいつも彼の手足となって走り回り、補佐を務めるはずの直属隊士はこの場にいないのに。 日頃は半人前だと皮肉っているが、副長補佐としてのは意外とてきぱきしていて成長も早い。 何より土方が重宝していたのは、上官である彼の意図をよく汲んだ働きぶりをするようになったことだ。 それだけにこういう時の不在は痛い。山崎も別件で不在の今、他に代役を務める奴はいなかった。 は今頃、どうしているのか。さすがに泣き疲れて眠っているかもしれない。 おそらく自分の部屋で休んでいるはずだ。少女に抱きついたまま泣きじゃくる彼女を心配した近藤が 一足先に屯所へ連れ帰っている。現場の撤収を取り仕切った後、ついさっきに屯所に着いた土方は、 顔を合わせた近藤から「女中頭に預けておいたぞ」と、報告の合間に耳打ちされていた。 土方は黙ってそれに頷き返し、二人がについてそれ以上を語ることはなかったが 後から折を見て、指示があるまで部屋を出ないように、とに言い聞かせに行くつもりでいた。 具体的には近藤が決めることになるが、今日明日中に何らかの処罰を下すことになるだろう。 いかに我を忘れて取り乱し、心神喪失の状態だったとはいえ、あれは誰の目にも行き過ぎでしかない。 しかも、彼女が就いているのは他の隊士よりも自分や近藤という局内幹部に近い、副長直属という唯一の特殊な立場。 だからこそ失態があればより厳しくせざるを得ない。下手な贔屓は出来ないし、表立っては庇えない。 何よりも、組織をまとめ上げていく役目にある自分が、こういった後ろ暗い不祥事を見過ごすわけにはいかなかった。 子供の命を救った、という単純な結果だけを見るとするなら、がしたことを間違いだとは言い切れない。 あそこで単騎飛び込んだのも、本人が冷静さを欠いていたとはいえ、咄嗟の判断としてはそう不味くはなかった。 だが、やりかたが不味すぎた。それに、別人のように残忍だったあの姿も気にかかる。 人身密売に関わっていた攘夷浪士の一人を嬲り殺しにした、全身を血に染めても刀を止めようとしなかったの姿。 あの、何かが憑りついたような彼女の姿が目に焼き付いて、後始末に忙殺されている今も頭から離れることがなかった。 現場の撤収を指示していた間も、そこだけが血で黒く染まった地面につい目が行ってしまったくらいだ。 要らねえ手間かけさせやがって、の奴。 何がどうしてああなっちまったんだか、あの馬鹿は。つか、ありゃあ一体どういう加減だ。 たしかに俺も「暴れて来い」とは言ったが。何もあそこまで暴れろたァ言ってねえ。 苛立って眉間の皺をいっそう深めた彼が、まさに馬車馬の勢いで事後処理の仕切りに没頭していた、ちょうどその時。 屯所を湧かせる噂の渦中にある人物。当の服部の姿は、彼等の頭上にそびえる屯所の屋根の上にあった。 現場の中心で隊士たちを仕切っていく土方と、その周囲で指示を仰ぐ連中を見下ろしている。 胡坐で屋根瓦に座り、膝には開いたジャンプを置き。猫背気味に前のめりな姿勢で、下を眺めているその姿。 その、さっぱりやる気の見えない彼の基本姿勢は、見る側には緊張感など毛程にも感じさせない。 しかし、そんな一見隙だらけの無防備さでいて、実は常に周囲に神経の網を細やかに張り巡らせているのだし、 隙と見せかけて襲いかかってくる敵の油断を誘う、餌の役目をその姿勢が兼ねている。 ・・・というようなことは、呑気そうに顎髭のあたりを掻いている本人くらいしか知りようのないことだった。 「鬼の副長。土方十四郎、か・・・・」 目を覆うまでに長く伸びた前髪の奥から、注意深く観察するような目線で見下ろしながら 膝上にあったジャンプをパン、と閉じる。 花曇りに白く霞んだ春の空を見上げ、苦笑い混じりの独り言を漏らした。 「っとによォ。趣味悪りィよなァ、あいつ・・・・・・」 「何だよ。あれ、おめーの男じゃねーのかァ?」 「・・・全ちゃん。どーして普通に入って来れないの。てゆうか何。いきなり何の話!?」 「んァ?ああー、悪りィ悪りィ」 ついさっきまで屋根の上にいたはずの男は、音もなく外れた天井板の暗い奥から のっそりと顔を覗かせていた。口を開けて唖然と真上を見上げるに向かって 悪いと思っているのかどうかも怪しい平然とした口調で詫びを入れ、ひらりと畳に舞い降りる。 ここはの部屋である。天井から突然現れた忍者は、屋根から天井裏に潜り込んでここまで這って辿り着いたらしい。 なのに、とても天井裏を通ってきたとは思えない身綺麗さだ。忍者装束にはひとかけらの埃も蜘蛛の巣もついてはいない。 つまりたちが気づかなかっただけで、服部が屯所の屋根裏に忍び込んだのは今日が初めてではないということなのだろう。 何度か使った道だから、今更埃にまみれることもないのだ。頭から足先までその姿を眺めて、は力の無い苦笑を浮かべる。 彼女の肌のいたるところにこびりついていた血の跡も、今は既にない。 赤黒く汚れていた隊服から、普段着らしい着物に着替えている。部屋の中央に敷かれた布団の上に、脚を崩して座っていた。 「これも職業病みてーなもんでよー、 ついつい薄暗れー場所から出入りしちまうんだって。まァあれだ、気にすんな」 「・・・気にすんなって言われても。そんなところから顔出す人を気にしないほうが難しいよ」 変なの、と肩を揺らして笑い出したその表情は、彼が知っている昔のとほとんど変わらない。 無邪気に笑って「全ちゃん」と彼の後をついて回っていた。その幼い面影が、ちょうど今 彼女の膝に頭を乗せて眠っている、疲れきった様子の少女の姿に重なって見える。 その少女は、血にまみれたに脅えることもなく抱きついてきた件の子供。男の盾に使われたあの子だった。 甘えて傍を離れなかったあのチビが、こうしてガキの世話を焼くようになるとは。 なんとなく可笑しくなって、服部はわずかに表情を緩めた。 「?どうしたの」 「いやァ。つくづく女は変わるもんだなあと思ってな。思ったほどには落ち込んでもいねえようだしよ」 笑って服部を見ていた大きな目が、ふっと揺らいで硬くなる。 動揺を隠しきれないは、瞳を曇らせてうつむいた。 「・・・さっきは止めてくれてありがとう、全ちゃん。ごめんね。怪我させちゃって」 見下ろした少女の髪を指先でそっと撫でながら、済まなさそうに謝った。 「なに、たいした傷じゃねーよ」と言いかけ、うっかり上げそうになった手を、彼は何気ない仕草で引っ込めた。 上げそうになった手に、刀に斬られた傷を隠す包帯が巻かれているからだ。 枕元に腰を下ろした服部に、ねえ、とが不安げな声を掛ける。 「この子と、あのお兄ちゃん・・・これからどうなるのかなぁ」 「お上に保護されたんだ。行く行くは国の施設にでも送られるんじゃねーのか」 おそらくそうなるのだろう。 親もなく家もなく、育ててくれる身寄りも無い子供の行先は、当然限られたものになる。 子供の頃にはあまり意識したこともなかったが。思えば自分は、親のない子供としてはずいぶん恵まれていたのだろう。 実の子と何一つ分け隔てなく育ててくれた義父の存在に救われ、周囲の大人たちの優しさにも恵まれていたのだ。 そういう義父に恵まれた自分は、運が良かった。・・・だけど、この子は。 は唇をきゅっと結び、眉をひそめる。少女の髪を撫でる指先は動かなくなった。 「心配いらねーだろ。ガキなんて案外しぶといもんだし、兄妹揃って生き残ったんだからよ。 後はてめえらでなんとか生きていくさ」 「・・・・・うん」 「ガキの心配もいいけどよー。少しは自分のことも考えとけよ。これでも一応、心配してんだぞ」 「・・・・・うん。でも。ごめんね。あたし・・・・」 言葉を途切れさせて、彼女はいっそう深くうつむいた。 やれやれ、とでも言いたそうな様子で服部もうつむき、顎髭のあたりを無造作に弄り始める。 何事も出来るだけさらりと済ませたい性分の彼にとっては、この手の湿っぽさというのが身体に合わないのだ。 しばらく顎のあたりに手をやっていたが、こうしていても仕方がないと割り切ったのか、突然顔を上げた。 「それよかよー。っとにお前、あの男でいーのかよ」 「え?」 「え、じゃねーよ。十年経っても男の趣味が悪りィとこは相変わらずじゃねーか」 「趣味って・・・・え、だから、何?さっきから何の話?」 は怪訝そうに首を傾げて訊き返す。 天井裏から顔を出したときも同じようなことを言われたが、いったい何が言いたいのか。 「イヤだーからあれの話だろ、あれの。しっかしまた、とんでもねーのに惚れ込まれたもんだよ。 お前は知らねーだろうがなァ、ありゃあ俺たち裏稼業の奴等にもそこそこ顔と名前が売れた男だぜ。 真選組の副長といやあ、街のチンピラから過激派大物まで、それこそ首狙う奴に事欠かねーくれえの恨み買ってんだぞ」 服部の言葉を聞いているうちに、生まれつき大きな彼女の目がじわじわと、最大限に大きく見開かれていく。 彼が言い終えた頃には、口までぽかんと開ききっていた。 は何も言わなかった。いや、ぱくぱくと口は動くのだが、どうやら声も出ないほど驚いているらしい。 そのまましばらくの間口だけを動かし続け、頬どころか耳や首筋まで真っ赤に染まったところで、ついに大きく叫んだ。 「・・・・・・・はああァ―――!!?」 「はァー?って何言ってんのお前。あれだけ人前で堂々イチャついといて何言ってんの今更。 それともやっぱアレか、隊規に職場恋愛禁止ー、とかあるのかァ?んで、実は裏でこっそり」 「なっっっ、な、何それっっ。違うってば!!」 「いーだろォ別に。俺にまで隠すこたねーだろ。あァ、もしかしてお前、見られちまって照れてんのか」 「照れるも何も・・・、ち。違うの、土方さんはそういう人じゃないの! あれはねえ、あたしを女だなんて意識してないからああなるだけなの!!他の人たちと同じに扱ってるだけなの!」 はァ?と、今度は服部が驚く番だった。 がいったい何をどう捉えて違う違うと連発するのか、彼にはまったく理解がつかない。 あんな真似を野郎にする奴がいたとしたら、そいつは間違いなく女より男に興味を抱く類の奴だろうに。 と言ってやろうかとも思うのだが、当のはそう信じきっているらしい。 呆れた目で眺めても、うろたえるは眠る少女の髪を夢中で撫で回していて そんな彼の視線には気づいていなかった。 「・・・てゆーか全ちゃんこそおかしいよ。何をどう見たらあれがいちゃついて見えるの。全っっ然わかんないし!」 「はァ。そーかァ?・・・・いや、つーかお前さ。マジでそう思ってんの」 「マジも何もないよ。あるわけないじゃん。 土方さんには、・・・・・。土方さんは、あたしのことなんか目に入ってないんだから」 『いや、お前がちっとも気付かねえだけで、実際目に入りまくってんじゃねーの。』 ・・・とは、さすがに服部も口にするのを憚ったのだが。 兄貴代わりとして嘆きたくなると同時に、吹き出したくなる可笑しさも覚える。 見た目にも中身も成長を遂げたはずのだが、こういう面に関してはどうやらさっぱり成長していないらしい。 土方が自分のことなど見ているはずがない、と頭から思い込み、当然のこととして信じきっているのだろう。 怒ったような顔で少女の髪を撫でているその目はやたらに真剣なのだが、その真剣さも懐かしかった。 昔馴染みの服部には、そういう彼女が「全ちゃん、が大きくなったら結婚してね」と一方的に押し付けて、 彼の後を子犬のようなひたむきさでついて回っていた、十年前の彼女の姿にかぶって見えるのだ。 そういえばあの頃も、一度そうと決めて信じきったことに対しては、二度と疑うことをしない子供だった。 その思い込みの激しさは、十年経っても相変わらずらしい。 そこまで思い至ってから、ふと服部は思い返す。 浮かんできたのは、さっきの現場で目にしたの姿だ。 顔から湯気が出そうなほどに赤面してうろたえている、目の前にいる娘とは別人のようだったあの姿。 あれもおそらく、この危なっかしいまでの思い込みの激しさが招いた、もう一人のの姿だろう。 まあ、あれがもうひとつの人格とまではいかないだろうし、本来のとは掛け離れて解離した姿でもあるが、 ああいう血も涙も凍りつかせた、何かに憑りつかれているようなが生まれてしまったのは、なぜなのか。 そこがどうにも気に掛かる。 この先そう何度も現れるものではないのかもしれない。だが、あれがこいつにとっていい兆候でないのは確かだ。 思い込みの激しさに、自分でも振り回されちまうようなところがある奴だ。 一旦あの状態に陥ってしまえば、歯止めがつくまい。 あれが現れていた間は意識もどこかへ飛んでいたようだし、自分で制御するどころの話ではないだろう。 ――それに多分、俺が思うに。あれが生まれる引鉄となったのは、――― 「よくねえ連中に関わってるとは聞いてたが。まだ行方知れずか、あの学問バカは」 はあっさり頷き返した。うん、と短い返事もついてきた。 彼が問いかけたそれは、内実を知ってはいたが切り出し辛く、あえて触れずに知らないふりを続けてきた話だ。 もっと強張った態度を取られたり、最悪堰を切ったかのようにじめじめと泣かれるのではないかと予想していたのに 意外とあっさり頷かれ、認められてしまい、却って拍子抜けする思いがした。 所在なさそうに顎髭を弄り出した彼を見て、はくすくすと笑い出した。 「・・・・そっか。やっぱり知ってたんだね、兄さんのこと」 「偶然な。こういう稼業やってるとなぁ、聞きてーことも聞きたくねーことも勝手に耳に飛び込んで来るのさ」 「うん。そうなの。・・・あたしも引き止めたんだけど、駄目だった。いなくなっちゃったんだ、兄さん」 あはは、と声を上げて笑って、は膝元で眠る子供を見下ろした。 無理に笑ったこめかみが、さらりと流れた髪の影でひきつっている。 「兄さんのことがなかったら、真選組に入ったりしなかった。元々、家を出るつもりもなかったんだもの。 ・・・・・あのね。全ちゃんは子供だって笑うかもしれないけど。あたしの夢だったの。 あの家で、義父さんと兄さんと。ずっと三人一緒で、仲良く暮らすのが夢だったんだ」 フン、と鼻で軽く笑って返しはした服部だが、内心笑う気にはなれない。 が家族円満を夢見るようになった切実さを知らない奴であれば別だろうが。彼には笑えなかった。 「あたしは兄さんの代わりに師範代になって、兄さんがあの家の家督を継いで。 学問所で研究を続けてその道で成果を出せば、義父さんも兄さんのことを少しは理解してくれるかもしれない。 そうなったら、いつかは兄さんと義父さんの溝も埋まるんじゃないかって思ってた」 「いやァ、そりゃあ無理ってもんだろ、お前」 「そう?」 「そりゃあそーだろ。親父さんは岩みてえに口が硬てえし、あいつはあいつで本音は口に出さねえ奴だ。 見た目ちっとも似てねえが、さすがに親子だけあって、どっちもどっちな頑固者だぜ」 「・・・うん。ほんと、そうなんだよね。だからあたし、余計頑張らなきゃって思ってたんだけど。」 そう言って再びは笑った。 上手く作って笑えもしないくせに、それでも無理をして笑う。引きつり気味で影のある表情だ。 こんな顔は、十年前には見た覚えがなかった。そう思いながら、服部は彼女の膝に目を落とす。 びくりともせずに眠り続けている少女の姿には、疲れが滲んでいる。 しかし目を閉じた表情は子供らしく和らいでいて、開いた唇からは深い寝息が漏れていた。 「でもね。たぶん兄さんには、それだって重荷だったんだよ。 ・・・・・・・ううん。家のことよりも。あたしそのものが重荷だったんだよね、兄さんには」 淋しそうに言って黙ってしまったに合わせて、服部も無言で通した。 正直の兄が、彼女を重荷でないとは言えなかっただろうことを知っていたからである。 とその兄は、彼が知っている限りでも遠慮の多い兄妹だった。 血の繋がりが無いためなのか。それとも道場主の親父と、剣の道には興味の無い兄の疎遠が原因なのか。 他人の目にはつかない隠れた問題もあったのかもしれない。が、一時あの家に入り浸っていただけの服部は そこに立ち入るまでには至らなかった。 彼の見た限り、兄妹の仲はひどくぎこちない。 ほんの少し兄と口を訊くのにも、幼いが細かく気を使っているのは誰の目にも判ることだった。 例えばある日、父親が無理に稽古をつけさせようとして、道場で兄をと立ち会わせたことがあった。 それを服部は最初は興味本位に眺めていたのだが、見ているうちにやりきれない気持ちにさせられた。 当時すでに稽古では大人の門下生顔負けの腕になっていたが、一度も打ち込もうとしないのだ。 血の繋がらない妹の自分が、大勢の前で跡取りの兄に恥をかかせるわけにはいかないとでも思ったのだろう。 幼い子供なりによく考えてしたはずの遠慮が、どれだけ兄の心を傷つけるか。 当時のはまだ、そこに気づけるほどの年ではなかったし、兄貴もそれは判っていたのだろう。 遠慮されても何も言わなかった。しかしそれが、兄だけに限定された遠慮ではないことは知らなかったはずだ。 当時のには癖があった。年上だろうと年下だろうと、自分よりはるか格下と見抜いた相手には 決して自分から打ち込めない。弱者に対してとどめをさすのをためらうのか、腰が引けてしまうのだ。 昨夜あの現場で、コンテナ上から彼が観察した限り、どうもその傾向はいまだに剣技の癖として残っている。 一打、二打と、数回剣を交えて動きを見切ってしまった後は、やはり相手の格に合わせて 自分の動きを抑えたり、逆に思いきり討ち込んでみたりで、相手によって出方を変えている節がある。 だが、あの時は違う。我を忘れて男を滅多刺しにしたあの時のは、まるで違っていた。 勿論服部も突然の豹変ぶりには驚いたのだが、頭上から俯瞰で動向を窺っていた有利さもあって、真っ先にを止めた。 そしてその後に何気なく、ぐるりと取り巻いた奴等の顔を見回した。 すると、仲間のはずの真選組隊士たちはどいつもみな、一様に驚いている面をしていた。 あの男でさえ同じ反応だった。ということは、奴等の誰もがああいうを見るのは初だった、ということになる。 兄のことさえなければ、家を出ることはなかった。ずっとあの家にいるつもりだった。 そう言っていたさっきの口ぶりからして、はこの十年近く、あの家の娘として普通に日々を送っていたはずだ。 つまりそれは、ここへ来る前。順当に考えれば、兄貴が家を出て姿を消したあたりから、真選組に入るまでの間。 その間に、に何らかの変化があったということか。 「ねえ。全ちゃん」 「おう?」 「兄さん・・・今頃、どこでどうしてると思う?」 沈んだ声の問いかけに、ふとその場が静まり返る。 しかし服部は、わざと呑気そうな口調で切り返した。 「まあ、死んだって話も出てこねーしな。どっかでこっそり生きてんじゃねーのか」 「うん。・・・・そうだよね」 「心配ねえよ。あいつァ頭の良すぎるきらいはあるが、やることに抜かりはなさそうだからな。 人より頭の回る奴ってえのは、危ねえ博打はそうそう打たねえもんだ」 眠っている少女を見つめながら話していた服部は、すっと手を伸ばす。 余程疲れきっているのか、間近での話声にも一度も目を覚まさなかった少女の頭をポンポンと宥めるように叩くと すぐに畳から立ち上がった。その姿を目で追いながらはなぜか目を細め、嬉しそうに微笑んだ。 「何かそれらしい話でも聞いたら報せてやるわ。だからお前もあんまり思い詰めるんじゃねーぞ」 「・・・・ほんと、変わってないんだね」 「んァ?」 「見た目はすっかり変わっちゃったけど。意外と慰め上手なところは変わってないね。ありがとう、全ちゃん」 言われた服部は表情ひとつ変えなかった。 ただ黙って、やりにくそうにボリボリと頭を掻いていた。 それから間もなく、服部はの部屋を後にした。 本人は来た時と同じに天井から屋根へ戻るつもりだったが「せめて帰りは普通に帰ってよね」とに障子戸を指されて 仕方なく言われたとおりに従った。それに実を言えば、さっきから気になっていたこともあったのだ。 部屋の外に続くこの棟の縁側に、見知った誰かの気配がある。 と話していた途中から、その気配はじっと縁側に佇んで動かない。おそらくこっちの話は筒抜けだったはずだ。 案の定、障子戸を開けた途端にその姿が目に入る。 人が歩けば床板が軋むはずの古びた縁側を音もたてずに進みながら、服部は薄笑いで問いかけた。 「どっから聞いてたんだ?副長さん」 「なに、気にすんな。たいして聞いちゃいねーよ」 「ははっ、そうかい。まァ、それはいいとして。ひとつ頼んでもいいか」 「あァ?」 「もしもあんたにその気がねえんなら、きっぱりふってやってくれ。」 頼むわ、と片手を顔前に立て、服部がを拝む仕草をしてみせる。 彼を見据える土方の険しい目には、何の反応もない。驚いた気配を見せることも、顔色を変えることもなかった。 昨日の夜から続いている不機嫌そうな表情のまま黙り込み、深く煙を吐く。 すっと目を伏せて服部の視線を避け、の部屋の障子戸へと顔を背けた。 「聞いてねーって言ってんだろ」 「そーかァ?・・・まァ、俺ァどっちでも構わねえけどよー。 んじゃ、聞こえてなかったことにしといてやるわ」 黙って聞いている土方の片眉がピクリと動く。 屯所で顔を合わせた時にも感じたが。どうもこいつのすっとぼけた喋りには、いちいちひっかかる何かがある。 「俺が思うに、あんたから言ってもらうのが一番効くと思うんだよなァ。そーすりゃいっぺんに上手くいくだろ。 きっぱりふられりゃあの目も覚める。ここを辞めりゃあ、血生臭い仕事からも足が洗える。 あんたにしたってそのほうが好都合のはずだぜ。それこそ肩の荷がひとつ降りるってもんだろう」 服部が答えを待って口をつぐんでも、土方はただ黙って煙草から細い煙を昇らせていた。 人が何も聞いてねえと断っているものを、向こうが勝手に勘繰って話を進めているだけのことだ。 聞いてやる義理もなければ、答えてやる義理もない。かといってその場を立ち去りはしなかったが。 内密に頼んでおきたい用もあったし、こいつの言い分を無視する気にもなれない。 これが半端な世話焼きなどではなく、の身を真剣に案じての口出しなのだということは この男が現場で咄嗟に取った行動からもよく解る。ガキの頃からを知っていて、今も兄貴のような立場にある男が 態度はどうにもぞんざいではあるが、頼む、とまで言ってきたのだ。そこまでされてはなかったことにも出来なかった。 拾って屯所に連れてきた最初からしてそうだったが。 あいつをここに引き止めているのは、結局のところいつも自分なのだ。 が真選組の隊士となって以来、本人にその自覚が有る無しに関わらず、はずっと、一人でぽつんと立っている。 普通の女として暮らす道と、血の匂う闇を生きる道との間に引かれた境界線の、ちょうど真上に。 その線上に立ってふらついているあいつを、中途半端に構ったり、引っ張ったりしているのが俺だ。 境界線の上を散々行き来させながら、あいつがどちらの道を選ぶのかを黙って見ている、ろくでもねえ男。 あいつにとっての俺の存在は、この男の目から見ればせいぜいそんなところだろうし、そこに異論を挟む余地はない。 元々自覚していただけに耳も痛かった。だが。 のことを誰かに諭されるのは、圧倒的に面白くはない。つい、余計な口を返したくなった。 「てめえに世話ァ焼かれる覚えはねえが」 「そう怒るなって。俺だって他人の色恋沙汰に世話ぁ焼くなんざ、ガラでもねえしやりたかねえが。 どーもあんたの方も、微塵もに気がねえとは思えなくてね。ガラにもなく心配になってきたって次第さ」 切り返された土方は、いよいよ無表情になった。 これ以上は聞く耳持たねえ、とばかりに顔を逸らして返事もしない。 負けず嫌いな人間の常で、人に図星を突かれるのが面白くない性質でもあるし 事がの話になると、どうもこいつとでは分が悪い。さっきからやりこめられてばかりいる。 急に頑なになった気配に気づいたのか、服部の顔はいっそうにやつき具合が増している。 舌打ちしたくなるような苛立ちは押し隠して、彼は本題へと話題を切り替えた。 「おい。情報屋としての料金はいくらだ」 「はァ?」 「真選組としての依頼とは別口だ。その兄貴の噂が耳に入ったら、俺にも流してくれ」 服部の目が土方に向けられ、ぴたりと止まる。 実際には、彼の目は前髪に隠されて見えていない。見えないのだが、驚いて目を見張っている その視線が土方に集中していることは気配だけでも察せられた。 頬のあたりを強張らせた服部が、ははっ、と引き気味な笑いを浮かべる。 ひょい、と手を上げて一歩踏み出した。 「んじゃ、俺ァこれで。おつかれっしたーーァ!」 「待てよ」 土方の手が伸び、目の前を通り過ぎる男の後ろ襟首のあたりを、がっ、と掴んだ。 服部は振り返り、少しむっとした様子でその手を眺める。 しかしすぐに表情から険しさを消し、気配も緩めて苦笑した。降参、と軽く両手を上げてみせる。 「なにも急ぐこたあねえだろう。少しはゆっくりしていけよ。 ここまでペラペラと吐いたんだ。この際包み隠さずぶちまけていったらどうだ」 「いやいやァ、勘弁してくれよ。これはあいつにとっちゃ、他人には知られたくねえ話でしかねえんだ」 詰め寄る土方と真正面からぶつかりあう気は、どうやら服部にはないらしい。 にやつきながら周囲を軽く見回して、一歩近寄って彼に耳打ちしようとする。 勿体ぶりやがって、と土方は鼻白んだが、何も言わずに答えを待った。 「やめとけよ。ここで首突っ込んだところで、あんたには面倒こそあれ利はねえよ。 それこそ後で高くつくぜ。悪いこたあ言わねえから、今のうちにを追い出せよ」 そこまで言って、服部はしばらく間を置いた。 表情は薄く笑っているが、その沈黙には何かの含みが感じられる。 自分のすぐ目の前にいる男を、間近から冷静に見極めようとしているような気配が見えるのだ。 数瞬の後、何気なく口を開いて言った。 「・・・それともあんた。 拾っちまった娘の手を血に染め上げて、あげく生半可な同情で飼い殺しにでもする気かい」 顔は変わらず笑んでいるのに、口調の端々に棘がちらついていた。 それまでの半分からかっているような気安い響きには程遠い、打って変わった口調だ。 気配もさっきと色が変わったし、静かに張り詰めている。隠れたあの目は、どうせ笑ってなどいないのだろう。 成程。やる気の無さそうな面は商売上の隠れ蓑で、これがこの男の本性か。 鋭い目を細めて服部の変化をじっと見据えていた土方は、わざと面倒そうに溜息をついてから答えた。 「ああだこうだと、口出しの多い野郎だな。忍びにゃ向いてねえんじゃねーか」 縁側の端へと踏み出し、土方は服部に背を向けた。奥まった場所に立つ庭樹を遠目に眺める。 塀越しに頭を出している隣家の大きな桜は、既に葉桜へと姿が変わりつつあった。 たまに思いだしたかのように吹く冬の名残の北風で花は散り、柔らかそうな新緑がざわざわとうごめいている。 わずかに残ったあの花も、あと三日保たずに散るだろう。その散り際をなんとなく思いながら、深く煙を吐いた。 「高くつこうがどうだろうが、拾っちまったもんの面倒をどう見るかは俺の勝手だ。 てめえに指図を受ける言われもねえ」 それを聞いた服部は、そうかい、とだけ軽く答えた。 やはりのことに関して、土方とやり合う気はないらしい。 庭に目を向け煙草をくゆらせる彼の隣に並ぶと、「悪りィんだけどよー」と付け加えた。 「直々のご依頼はありがてえが。しばらく考えさせてくれ」 「この前と話が違うぜ。仕事の依頼は選ばねえんじゃなかったのか」 「ああ。自分と直接関わりのねえ仕事はな。ありゃあ身内と同じでね。なにしろ最初の男だ」 笑い混じりな最後の一言に目を見張った土方には見向きもしない。ひらり、と服部は飛び跳ねた。 隣棟の屋根に飛び乗り、薄曇りの空へと身軽に舞い上がる。 見上げた土方の足元へ、隣家の桜から舞い落ちた花びらに混ざってひらひらと、小さな紙が届けられた。 「まァどーしても返事を急ぐってえんなら、そちらさんからご足労願いますっつーことでよろしくー。 あー、そうそう、どうせ来るならあいつも連れて来てくれよな」 思わずカチンときた土方は、逃げるようにして去った忍者を睨みながら、手近に建った柱を一発殴った。 違う、と彼は自分を即座に否定する。 ガキの頃の戯言にまで妬いているなどとは、認めるわけにはいかなかった。 今のは別に、がどうこうとは関係ねえ。あの野郎独特のしれっとした言い方が癇に障っただけだ。 噛みしめた煙草から濛々と煙を吹き上げ、土方は縁側を行く他の隊士を跳ね飛ばしかねない勢いで歩き出した。 屯所中を見回りながら馬車馬のごとく働いていたさっきまでよりも、その顔はさらに不機嫌さを増し、ムッとしている。 いよいよ険しくなった眉間の皺はそのままで、ついにその日は一度として緩むことがなかった。

「 薄紅の風 瞬く花 4 」text by riliri Caramelization 2009/07/31/ -----------------------------------------------------------------------------------            next