「いやああああ!!兄ちゃんっ、兄ちゃんっっっ」 「やめろ、離せぇっ、離せーーー!!美代、美代っっ」 夜明けも間近な薄闇に、漂う煙や硝煙の匂いを裂くような残響が尾を引いた。 冷えた大気を震わせたのは、ふたつの悲鳴。それは子供の声だった。
薄紅の風 瞬く花 3
その悲鳴を耳にしたのは、立ち会った男の背後に身を屈めて滑り込んだ瞬間だ。 背中合わせになった姿勢から素早く身体を捩り、逆手に掴んだ刀を 動きに追いつけていない背中に向けて、円を描いてひるがえす。着物が横にすぱっと裂けた。 一歩遅れて、血が目の前を一直線に飛び散る。ぐぉっ、と呻いてよろけた男の前にあたしは滑り込んだ。 背を斬られた痛みで震えていた手を籠手で払い、刀の柄を奪う。光る切先を、そいつの喉元に突き付ける。 「動くな。まだ生きていたいのなら、大人しく従いなさい」 男は声も出さなかった。真っ青になった顔を強張らせるだけで、動かない。 すっかり戦意を失くしたのか、抵抗する素振りもなかった。 そこへ駆けてきた一番隊の隊士が抑え込んで、身動き出来ないように縄を掛ける。 男を引き渡して、さっき声がしたほうに向かう。叫んだのが大人の声でなく、子供の声だったのが気になっていた。 先に駆けつけた隊士たちが、すでに円を描いて集まっている。その人垣の内側にさらに数人、 円の中心にいる男を取り巻いている隊士たちがいる。あれは十番隊だ。 他の隊士たちより頭ひとつ高い背格好で一際目につく、原田さんの姿があった。 十番隊に包囲されて、何かブツブツ唱えながら、恨みがましい視線で周りを睨みつけている男。 そいつは片腕で刀を振り回し、もう片腕には「兄ちゃん」と悲鳴を上げて泣いている女の子を 羽交い締めにして捕えていた。 色が褪せてボロボロな着物を身につけている。まだ寺子屋にも通えないくらいに小さな女の子だ。 男からほんの2、3メートル離れたところで、同じようにボロボロな着物姿の男の子が叫んでいる。 その声もほとんど悲鳴だった。聞くほうが耳を切られるような、涙で詰まった叫び声が痛々しい。 あの子たち、どうしてあそこに。 閉じ込められた子たちしかいないはずだった。全員助けたと思ったのに、まだ助けられていない子供がいたなんて。 「・・・どうしたんですか。あの男、どこから子供を」 傍にいた顔見知りの隊士に問いかけると、苦い顔で背後にある建物を指した。 それは夜間には誰もいないはずの、慈善団体の本拠地。正面玄関前に構えた大きく白い洋館だ。 「あそこだよ、あそこ。あの中から、自棄になったのが火薬の煙に燻されて出てきやがった。 子供を人質にとって隠れた卑怯者が、まだ残っていたのさ」 狂ったように刀を振り回し、脅しをかけてくる男に対して、厳しい表情で威嚇しながら詰め寄る原田さんも 他の誰も踏み込めずにいる。子供を盾にされているのだ。 泣き叫ぶあの女の子の身の危険を思えば、誰だって迂闊に手出しは出来ない。 それでも数人がジリジリと、緊張感に張り詰めた空気の中をじわじわとにじり寄り、包囲を狭めていく。 手にした刀や火器を構えながら、男の隙を窺っている。 あたしもそこへ混ざろうと踏み出したら「姫ィさぁん」と、気の抜けた声が背中に当たった。 振り向くと、少し離れた貨物コンテナの前に、刀を肩に担いだ総悟が立っていた。 手のひらを上向けてヒョイと指先を上げ、こっちへ来いと手招きしている。急いでそこへ駆け寄った。 「・・・・まだ他にもいたんだね」 「ああ。息のあるガキはあれで全部かと思ったが。先に檻から連れ出したのがいたらしいや」 妹らしき子の名前を叫ぶ男の子。美代と呼ばれたその女の子を捕え、刀を振り回して威嚇する男。 騒ぎに気づき、数が増えてきた隊士たちを薄目に眺めながら、総悟が、ちっ、と 珍しく悔しそうな舌打ちをする。刀の先で、騒ぎの中心にいる男の背後に置かれた貨物コンテナを指した。 「姫ィさんは原田の後ろで待機だ。俺ァあっちに回るから、挟み討ちといこうぜ」 あたしが無言で頷き返すと、総悟は綺麗に口端を吊り上げて笑う。すぐに背を向けて走り出そうとした。 これまでの実戦でも繰り返し使ってきた手だ。何の打ち合わせもしたことはないし、 決まった合図があるわけでもない。それでも不思議と総悟の潜めた息遣いや、飛び込む瞬間の気配まで 手に取るように判る。しかもそれはなぜかあたしだけじゃなく、総悟にとっても同じことらしい。 息が合わずに失敗したことは一度もなかった。 「うわぁぁああああァ!!!」 声にはっとして振り返る。「兄ちゃん」と呼ばれた子供が、がむしゃらな大声で叫びながら突進していく。 取り囲んだ隊士の多さに気を取られていた男の隙を突いて 女の子を羽交い締めにした腕に飛びつき、手にした何かでざっと切り裂いた。 血にまみれて光るそれは、ガラスの破片だ。銃火器戦で壊れた倉庫の窓ガラスが割れて、至る所に落ちている。 その欠片をいつのまにか拾っていたのだ。 男の子は再び男の腕に飛びついた。ガラスで切られた痛みに男はうめき、刀を持った手は止まっている。 しがみついた男の子を睨みつけるその顔は、子供に向けていいはずのない醜さだった。 憎しみに澱んだ目が血走っている。 「あーあァ。これだからガキは敵わねェや」 勘弁してくれィ、と総悟が嘆く。 いつもどおりに飄々とした声だけれど、男と子供たちを睨む表情には苛立ちが滲んでいる。 「こんのヤロォ・・・・ふざけやがって、ガキが!!こいつが殺られちまってもいいのか!?」 「ぃやあ!!に、兄ちゃあんっ、兄ちゃ」 「離せっ、美代を離せぇぇーーーっっ!!」 男の子は必死で血の流れる腕にしがみつき、抵抗を重ね、どれだけ大きく振り回されても 噛みついた腕を離そうとしない。小さな身体をがむしゃらに絡みつかせて、力一杯に暴れる姿は いつあの男に抑え込まれてもおかしくない危なっかしさだ。見ているだけで、刀の鍔に掛けた指先が焦れる。 無茶だ。妹を救いたい一心で身の危険も顧みず、必死になっているのはわかるけれど、 刀を手にした大人を相手に、幼い子供が素手で揉み合うなんて。 取り巻いた人垣を割って、総悟が男を包囲する十番隊へ駆けよる。 あたしもその後に続いて割り込み、二人で最前線へ飛び出した。 いっそあそこへ飛び込もうか。 ここで無鉄砲な単独行動をすれば、当然後で罰せられる。でも、黙って見守る猶予はどこにもない。 あの男の腕にはもう見切りがついている。子供にあっさり隙を突かれる程度の腕前だ。 それなら局内最強の腕を持つ、あたしの相棒―― 一番隊隊長の総悟が、わざわざ刀を抜く必要もない。 飛び込むきっかけさえあれば、半人前のあたし一人で充分だ。 踏み出そうかと迷いながら、無我夢中で男の腕に喰らいついている子供を見つめて もどかしくなってぎゅっと唇を噛んだ。その時だ。 頭の中を、懐かしい影がすっとよぎった。過ぎていったその横顔を目で追ったあたしの中で、空気が止まる。 慌ただしく流れていた時間が、目の前の光景が。ぴたりと止まって静まりかえった。 「ちっ、仕方ねェ。涼音はあの野郎の気を引いてくれ。俺ァどうにか隙を突いて、ガキを・・・・・・」 言いかけて途切れた総悟の声は、聞こえている。ちゃんと耳に届いてる。 なのにあたしはただ呆然と立ち竦んだまま、泣いていた。 自分でも泣いているとは気付かないうちに、涙が滲んでいたのだ。 総悟に声を掛けられたときには、もう止まらなくなっていた。 「・・・・・。あんた、・・・どうしたんでェ」 怪訝そうに問いかけられても、返事が出来なかった。 総悟が変に思う。返事をしないと。 頭の片隅ではそう思っているのに。泣き叫ぶ女の子と、小さな体でがむしゃらに抵抗している男の子の姿に 全身が釘付けになっている。喉の奥から勝手に、やっと絞り出したような細い声が出た。 「・・・兄さん・・・・・・・」 最後は涙に掠れて、声が消えてしまった。 ぎゅっと唇を噛んで、たった今口から漏らした、懐かしい響きを噛み締める。 声に出して呼んだのは、もう一年も前。あの時が最後だった。 「この・・・!何しやがる、離せ、ガキっ」 「美代!逃げ、っっっ」 男は羽交い締めにした女の子を突然、ぱっと離した。同時に男の子が振り払われ、背後から蹴りつけられる。 倒れたその子の髪を鷲掴みにして持ち上げると、男は刀を高々と振り上げる。 止めに入る間もなく刀が一閃して、小さな背中に振り下ろされた。 耳を裂くような女の子の悲鳴が上がる。血が宙を舞った。男は子供を物のように地面に投げ捨て、 斬られた痛みにもがいている身体を踏みにじった。 「やあぁぁ!!兄ちゃん!兄ちゃぁあぁん!!」 「てっめえ・・・殺されてえのか!?クソガキっっ」 倒れた子供の衿首を掴んで、いまいましげに怒鳴った男が刀を夜空へ高く振りかざす。 血に汚れた男の子の顔が恐怖で凍りつく。 殺られる。そう思ったのよりも一瞬速く、あたしの身体は前へ飛び出していた。 「!」 引き止める総悟の声を背にして、あたしは男の胴に向けて抜き払っていた。 上腕ごと振り仰いでがら空きになった横腹に、ためらいなく飛び込む。 「!!っぐ、っっっっ」 衝撃に短くうめいた男の腹に、銀色に光る刃が沈む。力を込めるごとに、ズブッ、と籠った音をたてて埋もれていく。 肉を貫き、内臓まで刀が潜っていく感覚。深く突き立てる感覚にありったけの力を籠める。なぜか身体中の血が騒いだ。 鍔まで沈んだ冷たい銀色を力任せに、一気に引き抜く。目の前に散ったのは、沸騰しているかのような禍々しい赤の波。 男の腹から血が飛沫をあげて噴き上がる。視界のすべてを一瞬で、暗い赤に染め変えた。 血まみれで呆然としている子供たちの腕を、夢中で掴んだ。横へ押し飛ばして、引き抜いた刀を構え直す。 よろよろと地面を踏み締め、腹を抑えて逃げようとする男が、上擦った声で何かを叫んだ。 言葉にならない何かを叫んでる。撒き散らした血溜まりの中で、脚を滑らせて転んだ。 無様に這いつくばって、それでも逃げようとしている。こっちへ向かって腕を振り回しながら叫んでいる。 たぶん命乞いをされてるんだろう。恐怖で歪んだ形相と取り乱した仕草が、そう言っている。 その姿が不思議だった。わからない、と思いながら、男を見据えて一歩踏み出した。 血の池の中をじたばたと引っ掻き、飛沫を飛ばしながらのたうちまわっている。 これだけ血を失ったら、どうせもう助からないだろう。もう間に合わない。 たとえ息があるうちに病院に辿り着けたとしても無駄だ。出入りのたびに見てきた、あの目をしているから。 あの赤く濁った目に宿っているもの。あれは死相の影だ。 馬鹿みたい。あたしの刀で一瞬にこと切れてしまえば、すぐに楽になれるのに。 斬られた痛みを感じることもない。自分が死んだことさえ気づかずに、楽に逝けるのに。 それでも奇声を上げながら血にまみれて、のたうち回って。自分で自分の命を擦り切らすような真似をしている。 わからない。不思議だった。 この男はどうしてこんなに怯えてるんだろう。いったい何が怖いっていうの。 あたしが今、していることは、これまでにあんたたちが散々繰り返してきたことと、何ひとつ変わらないじゃない。 倉庫の中で。一心不乱に走る仲間たちの姿に心を打たれて、後を追って走りだした。 あのときに感じたのとは違う何かが、あたしの胸の奥に灯っている。 さっき感じた熱いものとはまったく別の灯。 胸を焼いて全身を奔り、燃やし尽くすほどに凶暴なもの。なのに熱さを感じない。 ひんやりと醒めた炎が、胸の奥で揺れている。あたしの足を、ためらわせることなく男の元へと向かわせている。 胸の奥で、冷たく燃えさかっている炎。 蛇の舌先のようにちろちろと躍る。青白い炎のようにゆらめいている、冷えた衝動。 その冷酷な衝動を殺意と呼ぶのだと気づきながら、あたしは足を止めなかった。 ひらりと半円を描いて、刀を頭上に振りかざす。刃紋を濁した暗い色が宙に散る。 何も考えずに、這いつくばって泣き叫ぶ男に向かって、振り下ろして。 ―――その後は、何も見えなくなった。 恐怖に囚われて泣き叫ぶ男の、死相に翳った表情。その歪んだ顔以外は。何も見えなかった。 「・・・・・・・・ぅいい。大丈夫、二人とも無事だ」 宥めるような、静かな声が聞こえた。 ずっと遠く。すごく遠くから響いてくる、籠った声。・・・・・・これって、たぶん全ちゃんの声だ。 「兄貴のほうは・・・まあ、傷一つ無えってわけにはいかねーが。思ったよりは浅く済んだぜ。 妹のほうは掠り傷ひとつねーよ」 目の前に人影のような暗いかたちがある。そこに全ちゃんがいるのは判る。でも。 どうしてここにいるんだろう。・・・二人とも、って、誰のことだろう。何を言ってるんだろう。 ああ。そうだ。 仕事の依頼で来ていたんだ。それで――― そこまでは判るのに。それ以上は、何も考えられなかった。 視界も頭の中と同じだ。周りは見えているのに、何一つはっきりしない。 目が痛い。目に入った何かのおかげで視界が曇ってるみたいだ。 ぼんやりと歪んで見えない、半透明の霧で隠されたような遠くを指して、全ちゃんが言った。 「おい。見えるか。ほら、あいつらちゃんと生きてるぞ」 気づいたら、はあっ、はあっ、と、息が荒く弾んでいた。激しく動く心臓の音が胸で鳴り響いていた。 指された向こうに誰がいるのかも見えていないのに、何も考えられないから、ただ頭を振ってみせる。 こくんと大きく頷いた。 「。もういい。もう終わったんだ。だから離せ。大丈夫だ。」 ぼんやりと霞みがかって映る手元を見下ろす。 あたしの刀の切先を、全ちゃんの手が押さえている。 その手のひらを、ひとすじの赤い流れが伝っていた。 あれは全ちゃんの血だ。抑えた刃が当たるところから流れ出している。鮮やかな色をした、全ちゃんの血。 手首から滴ったそれが足元へ落ちていくのを、ぼんやりと目で追った。 まだ視界のはっきりしない足元で、ピチャッ、と水滴が跳ねる音がした。 大丈夫だ。離せ。 淡々と、呪文のように、何度も繰り返される全ちゃんの言葉。 それを聞いているうちに、刀がぽろっと手からこぼれた。 カラン、とコンクリートの地面を打って、飛沫を上げて足元に落ちる。 足元に出来ていたのは、鮮やかな赤に染まった血溜まりだった。 鼻を突くような強い血の匂いが、脚を伝って這い上ってくる。 どうしたんだろう。身体の感覚がおかしい。 隣にいるはずの全ちゃんの声が、分厚い何かに遮られているみたいに歪んでる。 全身がだるくて、唇が勝手に震えて。何か言おうと口を動かしても、喉からは少しも声が出なかった。 じっと自分の手を見つめた。手首から爪の中まで、どろりとした赤黒さに濡れている。 震えてるのは、指が痺れてるからなんだろうか。刀を持ったかたちのまま、指がガチガチに固まっている。 全ちゃんが立っている向こう。視界の隅に何か、動かない真っ赤なものが入っている。 ・・・ああ。そうだ。あれは、足だ。もう動かなくなったあの男の足。・・・・・・あたしが殺した。 そうだ。あの男はもう死んだ。あれはあの男の、血にまみれた真っ赤な足先。 視界が曇ってはっきりしないのは。飛び散ったあの男の返り血を、頭から被ったから。 あの男は死んだ。もう動かない。 痙攣に背中を震えさせながら息絶えて、手足の先がびくりとも動かなくなるまで刺したから。 背中を貫く深さまで、何度も何度も、抉れた腹を切り刻むほどに刺して。噴き上がる血を被って。 それから――― 思い出したらすうっと、血の気が醒めて。それから、ドクン、と大きく心臓が跳ねた。 気味の悪い、不安定で大きな音が耳の奥でこだまする。身体中に鳴り渡った。 顔を上げると、周りをたくさんの人が取り囲んでいる。 大量の血を頭から被ったから、目まで曇っている。誰の顔もぼんやりして良く見えない。 あの大きい人は原田さんだろう、とか、その一歩前に立つ明るい髪色が総悟、とか。 なんとなく思うけれど、どの顔もよく見えない。 自分を取り囲んでいる血の匂いに澱んだ空気に紛れて、みんなの気配が伝わってくる。 重苦しい。見えなくても、みんなが固唾を呑んでこっちを見ているのが気配でわかる。 全ちゃんの少し後ろに立っている人の、口許の煙草がおぼろげに見える。 きっとあれは土方さんだ。 目が合った、と思った瞬間に、咥え煙草を固く噛みしめたのがわかった。 じっとこっちを見ている。何か言わなきゃ。そう思うけれど、声が出ない。 血まみれのあたしを、あのひとはどんな顔をして見ているんだろう。 その表情を思うと怖くなって、うなだれて目を逸らした。 いつのまにか、全ちゃんがあたしの手を取っていた。 指をゆっくりと一本ずつ伸ばして、石のように強張っていた手を開かせていく。 全部の指を開かせてから、大丈夫だ、と、ひとりごとのように言った。 「大丈夫だ。・・・・・あいつだって、まだ死んじゃいねえさ。」 聞いた瞬間は、何を言われているのかもわからなかった。 でも。血に汚れた自分の手を、ぼんやりと見ているうちに。ああ、と気がついた。 全ちゃんに会わなかった十年間で、あの家がどう変わったのかも。あたしが家を出た本当の理由も。 何も話さなかったし、何も訊かれなかったけれど。 たぶん全ちゃんは知っている。知ってるから、訊かなかったんだ。 『あいつだって、まだ死んじゃいねえさ』 少しずつ染み込んでいったその言葉が、喉をすうっと通って、ふっと胸のあたりを突き抜けて。 身体の奥底まで落ちていった。 落ちた、と思った時だ。頬に熱いものがすっと伝って落ちた。 伝った感触がうっすらと残って。ああ、あたし泣いてるんだ、と、まるで他人事のようにぼんやり自覚した。 それよりも心臓の音が気になる。どくどくと激しく脈打って耳に響く。その音が煩くて、わずらわしい。 身体のざわめきが不安を募らせていく。 人を斬ったのは初めてじゃない。誰かの命を奪ったのも、初めてじゃない。 刃が肉を貫く感触にも。骨を砕くあの感触にも、あたしの手はとっくに慣れているはずだった。 なのにざわめきが止まらない。身体じゅうの血が騒いでいる。沸騰しているみたいに暴れている。 「・・・・・ありがとう」 消えそうに小さい涙声が、下から聞こえた。 ちょうど目線を落としたところに、女の子がいた。さっきまであの男に捕まっていた子。 盾にされていたあの子だった。血の中を裸足でゆっくり踏みながら、こっちへ歩いてくる。 大きく見開かれた黒目がちな目は、涙で潤んでいる。じっとあたしを見つめていた。 「ありがとう、おねえちゃん。兄ちゃんをたすけてくれて、ありがとう」 女の子があたしの手を取ろうとして、指先に触れた。あたしはその手を振り払った。 柔らかくて熱い子供特有の肌の感触が、嫌だった。なぜか怖かったのだ。 何か触れてはいけない、知らないものに突然触れられたような気がして、怯えてしまった。 手を払ってしまってから気づいて、あっ、と声が漏れた。それが初めて出た声だった。 女の子は眉を曇らせて、泣きそうな表情でこっちを見上げている。仕方なく声を掛けた。 「・・・だめだよ、触っちゃ。手が汚れちゃうよ」 ううん、と、女の子が大きく何度も、かぶりを振った。 ぱっ、とあたしの脚に飛びついて、ぎゅっと抱きしめて。ふんわりした頬を擦り寄せてくる。 「いいの。ありがとう。ありがとう・・・・」 ありがとう。おねえちゃん、ありがとう。 何度も何度も繰り返されているうちに、すとん、と腰が抜けて。身体が地面に崩れ落ちた。 血溜まりの中に落ちたのに、女の子はきつくなった血の匂いなんて気にもしない様子で抱きついてくる。 顔に纏わりついた髪の毛が、ふわふわと柔らかく首筋をくすぐる。すこし高めな体温が、冷えた肌に染みていく。 抱きつかれてるのに、何も感じない。感情が壊れてしまったんだろうか。 あたしの中から、大事なはずの何かが抜け落ちてしまっている。目の前にあるはずのことが遠く視える。 こうして抱きつかれても、人肌の温かさは感じるのに、どこか現実感がない。 擦り切れて汚れた女の子の着物の裾が、黒く変色し始めた血を吸っている。 布地が暗い色に染まっていくのを、なんとなく見ていた。そして、なんとなく思った。まるで他人事のように。 この子は怖くないんだろうか。足元に広がる血の海が。足元に落ちた、血を吸った刀が。 度を失って、何も見えなくなって、あんなおぞましい真似をしたあたしのことが。この子は怖くないんだろうか。 身体の震えが激しくなった。夢中で男を貫いた、その後が見えた。 失いかけた記憶が繋がり始めて、あの後にあたしが何をしていたのかが視えてくる。 ぷつりと途切れ、隠れていた身の毛のよだつような記憶が、糸のようにすらすらと繋がり始める。 繋がった記憶が、鮮明に。頭の中で絵になって再現される。 目を剥いてビクッと震えて、動かなくなった。息絶えた瞬間のあの男の顔が、頭の中に甦ってくる。 身体の芯まで震わすような揺れが全身に走って、歯がガチガチと鳴る。止まらなくなった。 これは本当にあたしの記憶だろうか。本当に、あたしがしたことなんだろうか。 だったらあたしは人として、隊士として。剣を手にする者として、最低なことをしたことになる。 突風のような感情に煽られて、自分を見失ってしまった。してはならない命の奪い方をしてしまった。 「・・・・・、」 背後から呼ばれて、ドキッとした。 抑揚を抑えた低い声が、頭の上から降りてきた。 「立てるか、お」 「いやぁ!」 髪を振り乱して、取り乱した声で叫んだ。嫌だ。こんな汚れた姿、見られるのは嫌。 だけど、来ないで、とは言えない。そこまでは声にならない。 女の子の身体を強く引き寄せる。その肩口に、震えの止まらない唇を押しつけた。 「・・・・やぁ・・・」 「、落ち着け」 肩に置かれた全ちゃんの手を、思いきり振り払う。 女の子にしがみついて、何度も大きくかぶりを振る。小さな肩に顔を埋めて拒んだ。 「見ないで。見ないで・・・くださ、・・・・・・」 涙声で頼んだら、それからは二人とも何も言わなくなった。 すぐ隣でじっとたたずんでいる、土方さんの気配が重い。その重い沈黙が怖かった。 煙草の匂いの近さが胸の奥を埋めていく。嗅ぎ慣れた匂いだ。なのに、息が詰まる。 見ないで。誰も見ないで。誰にも見られたくない。 あんな真似をするあたしなんて、あたしじゃない。 あんな真似したくなかった。したくなかったのに。 あの子たちを見ていたら思い出してしまって、自分を抑えきれなかった。 男の前に飛び込んだあの時。 死んじゃうよ、と誰かが頭の中で囁いた。ひっそり囁く誰かの声が、頭の中を真っ白に塗り潰した。 泣き叫ぶあの子たちの姿が、兄さんとあたしに見えた。男が刀を大きく振り上げた瞬間の、あの男の子の顔。 恐怖に染まったあの顔が、怯えた顔であたしを見つめる、あの時の兄さんに重なって見えた瞬間。 飛び込んでは駄目だと言い聞かせるもう一人のあたしの声も、怒りを押し留めていた理性も、 すべてが目の眩むような白い光に掻き消されて、跡形もなく消えた。消し飛んでしまった。 何もかもがよく似ていた。あの時聞いたのと同じひそやかな声で、誰かがあたしに囁いた。 『あの男を殺さないと、お兄ちゃんが死んじゃうよ』
「 薄紅の風 瞬く花 3 」text by riliri Caramelization 2009/07/17/ ----------------------------------------------------------------------------------- next