触れる指先の我儘を

7

沖田の部屋で布団を投げ枕を投げ、器用に逃げ回る奴を追い回しての大乱闘を繰り広げた後。 肩に上着を担いでやや眠そうな仏頂面の土方は、自室へ続く暗い縁側を一人歩いている。 時刻はとっくに日付を超えて、真夜中になっていた。 縁側に沿って並ぶどの部屋も白い障子戸は薄暗く染まり、灯りは落ちている。静まり返って気配が無い。 この時間になれば、あとは夜勤の隊士しか起きている者はいないはずだ。 もとっくに寝ているだろう。そう思いながら、左の頬をさすって表情を曇らせる。 そう強く打たれたわけではない。痛みも無ければ腫れも残ってはいない。 なのに、柔らかな女の手の感触だけがそこにはまだ残っている。 さすがに今夜は同じ床で休む気にはなれない。 しかし、あの部屋に一人で放り出しておく気にもなれなかった。 自分と近藤の部屋の間にある空き室に、毛布と目を通しかけた書類でも持って転がり込むか。 そう考えながら、疲れた足取りで自室へと戻った。 ところが。そこには誰もいなかった。 冷えた暗い部屋には中央に、畳目に合わせて敷かれた布団が一組敷いてあるだけだ。 先に寝付いているはずのの姿が、消えている。 持ち込まれていた大荷物が。あのスーツケースが消えている。 「・・・・」 思わず力が籠った手に揺らされた障子戸が、カタン、と軽く鳴っただけ。 返事も、物音も。何も返ってはこない。 立ち竦んだ彼の頭を占めていたのは、ある光景。これとまったく同じ光景だ。 前にもこれと同じことがあった。 灯りが点っているはずの部屋は暗く冷え、そこで彼を迎えてくれるはずの女の姿が消えていた。 残されていたのは血まみれの刀と、白い着物。白い封筒。 文机の引き出し一杯に詰め込まれた煙草の代わりに、中から消えていたもの。あれは――― 敷居を前に数秒は呆然としていたものの、土方はすぐに大股に進んで文机に向かう。 引き出しを外れるほどに大きく開けて、その奥に手を突っ込んで探り出した。 重なった封書を乱暴に払い避けた手が、ぴたりと止まる。 ほっとしたかのように大きく息を吐き、そこに入っていた何かを大事そうにゆっくりと拳に握って 中から引き抜いた。 封書の下に見つけたもの。それは、の家の合鍵だ。 失くなってはいなかった。が消えたあのときと違って、入ったままになっている。 が、そこで止まってはいられなかった。 立ち上がると鍵を上着の懐に放り込み、何か気付いたのか急に眉間を寄せる。腕を組んだ。 募る焦燥感に急かされながらも、その場をうろうろと円を描いて歩きながら考え込む。 大荷物ごといなくなった。しかもこの時間だ。 あの馬鹿が。ガキの家出じゃあるまいし、こんな夜中にどこへ行きやがった。 家に戻ったのならそれでいい。だが、どうも帰りたくなさそうにしていた節がある。 そうなると、あの気が強え鉄火場芸者のところか。 それとも。いや、まさか。 またあの、胡散臭い銀髪のところに転がりこんじゃいねえだろうな。 「・・・・んの野郎ォ・・・・」 気に食わない男が焦る自分を嘲笑う顔を思い浮かべ、 上着を翻して腕を通しながら、土方は障子戸へ向かって突進する。 ところが障子戸を目前にしたところで、気がついた。 強張っていた背中の気配がぴたっと静まり、室内を振り返る。 部屋の奥から、静けさに溶けそうなくらいに密やかな音が。ほんの微かな寝息が聞こえていた。 微かな音を辿って、暗い部屋を足音もなく横切る。 静かに襖を引き押入れを開けた。 昼間は布団が詰まっている上段の真っ暗な奥で、何かが動いた。 衣擦れの音と一緒に、もぞっと小さく動く気配がする。 しだいに暗闇が目に馴染んできて、開けた時には平坦な黒一色に見えた視界が 目の前から徐々に奥へと広がり、拓けていく。 拓けていった視界の一番奥、押入れの奥の壁際に。が膝を抱えてうずくまっていた。 何か言いかけて開いた土方の口が、ぐっときつく結ばれる。 表情がぎこちなさを伴って、戸惑ったような、憮然とした顔へと変わっていく。 頭と肩を壁にもたれさせ、困ったような顔で目を閉じているの姿を彼はじっと見つめた。 襖戸に寄りかかるようにして腕を掛け、深くうつむく。長い溜息をひとつこぼした。 しかし穏やかだったその反応も、ほんの束の間のことだった。 安堵と共にじわじわと盛り上がってきたのは、当然ながら要らぬ心配をさせられたことへの怒りの気圧だ。 ドン、と押入れの横壁を拳で強く打つ。すると彼女ではなく、押入れの下段に入っていたものが応えてきた。 そこに押し込まれていたのスーツケースが、バタッと倒れた。 「・・・・この、馬鹿が・・・・!」 「・・・ふぁあ・・・・あい」 「あい、じゃねえ起きろテメ、なァに呑気に寝てやがる!人がどれだけ」 「・・・んん、・・・・違いますってばぁ、ジャングルはそっちじゃないですよぉ、近藤さあぁん。 5丁目のスーパーの角からあ、曲がって居酒屋の裏口にある生ゴミのぉ、バケツのフタを開けてェ・・・」 口はフニャフニャと動いているものの、彼女の目は閉じている。つまりは寝言だ。 異次元空間への道案内か。一体お前はうちの大将をどこへ連れ出すつもりなのか。 一気にどっと気が抜け、呆れ果てた彼は肩を落とす。顰めた眉間を抑えてうなだれた。 「総悟ォ!!神楽ちゃんのおやつ取らないの!二人で仲良く分けなさいっ」 「ごめーん山崎くんのラケット、振り回してたら折れちゃった」 「原田さあああーん!チャック開いてますよォォォ!!」 フニャフニャと緩ませたの唇からは、気抜けする寝言ばかりが次々と飛び出してくる。 しばらくうなだれていた彼は顔を上げ、疲れと諦めが入り混じった表情でを眺めた。 既に時間は真夜中。しかも疲労のピークと呼んでいいくらいに倦怠感は溜まっている。 寝ているヤツのボケにいちいちツッコミを入れてやる気力も、すでに無い。 仕方がねえ。奮発ついでに、説教も無しにしてやるか。 を起こそうと、土方は彼女の肩先に手を伸ばす。ところがその手は、触れる寸前で止められた。 伸ばされた指先が、ぎゅっと宙を掴んで握りしめられる。すぐに彼女から離れていった。 彼女へ向けられたはずだった手は、腰のポケットへと投げやりに突っ込まれる。 襖に掛けた腕に頭をもたれさせると、彼は立ったまま眠ってしまったかのように動かなくなった。 とにかく疲れきっていた。身体も疲れてはいるのだが、気力はさらに萎えている。 いや、体力や気力がどうというよりも、彼女に振り回される自分自身に疲れていた。 さっさとこの場を離れたい。のことは一晩放って、何も考えずに眠ってしまいたい。 一人でゆっくり休みたい。 なのに彼が選んだのは、疲れた身体が悲鳴で訴えてくるような行動だ。 押入れの上段に脚を掛け、そう広さもなく奥行もない中に上がり込む。 土方はの隣にどかっと腰を下ろし、狭い隙間に身を収めた。 横幅の狭さに難儀しながらも胡坐で居直ると、上着を揉みくちゃにするような荒い仕草で探り出す。 中から取り出した煙草を一本、大きく口端を下げた唇できつく噛んだ。 その表情は、ふてくされてもいなければ拗ねてもいない。 子供染みた可愛げのあるご愛嬌など、完全に通り越している。苦々しい、の一言に尽きるものだった。 自分の行動が理解出来ない。納得がいかなかった。 叱られた子供よろしく、こんなところに籠城しただ。 だが、それを放っておけない自分の愚かしさときたら。 これを機に風邪でもひいて寝込むような軟弱さでも晒してみろ。救いようがないとはこのことだ。 どこまでこれに振り回されりゃあ気が済むのか。まったく舌でも噛みたい気分だ。 布団は空だ。目の前だ。さっさとあれに潜って寝ちまえばいいものを。 こんな手足の伸ばしようもない窮屈な鰻の寝床に、何が嬉しくてわざわざ入りたがる。酔狂なこった。 浪士どものアジトを見張るのに、路地の隙間に張り付いて一晩潰すのとたいした差はありゃしねえ。 自分で自分に皮肉を畳みかけながら、咥えた煙草に火を点ける。 手のひらに乗せたライターをムッとした顔で睨んだ。 俺の代りに一晩休め。部屋の主を待ちわびている布団に向けて、放り投げて手放す。 咥えていたものを指に挟むと、皮肉な気分ごと吐き出すかのように勢いよく煙を噴き出した。 真上の闇を。煙を漂わせ始めた、暗くて低い木目の天井を力の無い眼で見上げる。 煙草を咥え直して壁に背中を預けてしまえば、全身から力が抜けた。 残ったのは口に含んだ煙と、頭に重くからみついてくる気だるさだけだ。 「・・・・面倒臭せェ・・・・」 気力の抜け落ちた声でぽつりと漏らす。それは愚痴というよりは弱音に近い。 窮地にあっても意地を押し通し、強気を崩すことがない男が。人前では口にするはずのない弱音だった。 それはついさっきのことだ。 沖田の部屋からここへ戻る途中で気がついたこと。 彼本人にしてみれば認めたくもない、小さな発見に行き当たっていた。 夜風に触れて頭を冷やしながら、土方はある記憶に。ある日見た光景に突然思い当り、思わず廊下で足を止めた。 それを思い出して、自分がなぜに触れるのを意固地になってまで我慢しているのか。それがやっと判った。 この部屋で我を忘れてを抑えつけた、その前の出来事。近藤の部屋で迷っていたことの理由が、今になって解けた。 意地になって我慢していた理由は、つまらなさすぎて笑えもしない、取るに足りないものだった。 土方に触れられたときにが見せる顔に。眉を曇らせて、泣きそうになる彼女の拒絶の表情を見たくなかった。 あの表情を思うと触れられなかった。彼はただ、に拒まれたくなかった。それだけだったのだ。 気づいた本人にしてみればシラを切り通してでも認めたくない、バカバカしい原因。 それはあの日、姿を消したを半月ぶりで目にしたとき。 万事屋にいることを突き止めた日に始まっていた。 あの時は初めて、彼の手を拒んだ。 強張った態度で、万事屋の背中にしがみついて去っていった。 追いかける気にもなれずに、彼が舗道に立ち尽くして目で追ったもの。の瞳は、曇って泣き出しそうだった。 どうやらあれが、彼に無自覚のトラウマを植え付けてしまったらしい。 ここ数週間。に触れるのを拒まれるたびに、まったく無自覚のうちに。 彼はあの時味わったのと、同じ苦さを胸に溜め込み続けていたのだ。 んん、と隣から小さな、しかし苦しげな声が響いた。 見ればが腕でぎゅうっと抱いた膝にしがみつくようにして、うずくまった身体を強張らせていた。 の姿は寝間着にしている白い着物一枚きりで、上着も毛布も被っていない。 辺りを見回したが、押入れには他に着せてやれそうなものがなかった。 仕方なく上着を脱ぐと、彼女の膝に放るようにして掛けてやる。 すると、眠っているはずのはそれに縋りつき、両腕で強く抱きかかえた。 「・・・・・・お兄ちゃん・・・・・」 それを聞き、土方はさっと表情を変えた。 壁にもたれていた身体を起こし、身を乗り出してへと向き直る。 驚きに染まった目で眠る彼女を凝視した。 お兄ちゃん。 そう呼びかけたのは、喉の奥からやっと絞り出したような声。 ひどく苦しそうな、溜め息を漏らしながらの声だった。 「・・・どうして・・・わかってくれないの。・・・やだ、よ。・・・・ねえ、その、人は」 最後につぶやいた言葉は、何を言ったのかも判然としない。 語尾が震えて、薄く開けられた唇の中で消えていった。 じっとそれを見つめていた男は、何か言いたげに口を開く。 しばらくそのまま放心したかのように彼女を見つめ、動かずにいた。 聞いた言葉が信じられずに、彼女から目を逸らせずにいるような。そんな表情をしている。 がかくん、と頭を傾げる。 規則的で深い寝息をたて始めた頃になって、彼はようやく緊張から解かれた身体を壁へと預ける。 胡坐を組んだ自分の足元へ視線を移す。ゆっくりと、普段の鋭さが消えた静かな眼で前を見上げた。 暗がりの中で薄く開かれた眼は、闇の中に探し当てた何かを追っていた。 視線をやや遠くの押入れの外へ向けると、暖色に灯った点をちらつかせる煙草の先を上へと揺らし。 煙を吐きながら何か考え込むように眉間を寄せて、腕を組んだ。 「土方さぁん」 隣から声がした。 ようやく起きたか、と振り向くと。 笑っている。えへへ、とは口端を緩ませて笑っていた。 さっきまでとは打って変わって表情を崩した彼女は、掛けられた上着を顔に引き寄せて頬擦りをしている。 ただ、その目だけはさっきまでと変わらずしっかりと閉じていた。寝言で呼ばれただけだった。 呑気なもんだ、と子供のようなあどけなさに失笑して、彼が表情を緩めかけた時だ。 何の警戒心も無い幸せそうな笑みを浮かべたが、再び彼の名を呼んだ。 「土方・・・・・・・・・・・の、ばーーかやろぉーーーー・・・・」 聞いた男は和らぎかけていた表情を凍りつかせ、次いで青筋を浮かべる。 思わず握りしめた拳に力が入り、何の緊張感もなくへらへらと笑っているに向けて若干振り上がった、のだが。 大きくふらついた彼女の頭が、寄りかかっていた壁とは逆の方向に傾いた。 わずかな隙間を空けて並んでいた土方の肩に、とん、と着地してしまった。 「ごめ・・・・な、さい・・・・」 柔らかな重みが肩に、そして腕にもたれかかってきた。の身体が寄りかかってくる。 長い髪は彼の肩に波打って広がり、さらさらと滑り落ちていった。 漂った髪の香りに、抑えていた自制心を奪われそうになる。 苦い表情で舌打ちすると、彼はもたれかかってきた女から顔を背けた。 さっき無理に奪った唇の。押し入った口内の柔らかさと、抱きしめて捕えた肌の香りが、身体にはまだ残っている。 唇から漏れた苦しげでいて艶めいた喘ぎ声が、まだ耳の奥に残っている。 他のどの女でもない。でなければ冷ましようのない熱だ。 それを思えば血が疼いたが、隣の女に触れる気にはなれなかった。 身体はもたれかかってきた女を求めている。それなのに、手だけはかたくなにその衝動を拒んで動かない。 「・・・どこ、行くの・・・・置いて、ちゃ・・やだ・・・・・・・」 もたれかかった身体を通して、悲しげな声が彼の身体に響いてくる。 土方が振り返ると、淡い色をしたの頬には一筋の涙が流れていた。 どこに行くの。 止めるの手を振り切ってこの部屋を出た時に、同じように問われた。 もしかしては、さっきの諍いを夢に見ているのだろうか。 素気無く振り払われた手に、こいつも俺と同等の痛みを感じていたのだろうか。 それなら何故こいつは、かたくなに俺を拒んでいるのか。気付かれてもなお、隠した何かを明かそうとしないのか。 頬から顎へ伝って、首筋へ。流れていくの涙を、土方はただ漫然と眺めていた。 拭ってやりたい気もしていた。しかし煙草を挟んだ彼の手は、縛られたかのように動かない。 自分の肩に身を預けて、無防備に眠る女。の存在が、やけに遠く離れたものに感じてしまう。 面倒臭せェ。 その一言で振り切って、染みついた思いごとまとめて捨ててしまえれば。 こいつを知る前の、元の自分に戻れるのだろうか。 その答えは問いかけるまでもない。解りきった愚問だ。 どうせ俺は捨てられなどしないのだ。 同じようなことをして故郷を捨てた。あの頃の自分には、今となってはとうてい戻れそうにない。 似たような台詞を吐いたことがある。女を振り切ってきた。 あれは武州を出る前だ。共に江戸に連れていってくれと。ついていきたい、とせがまれた。 一言で切り捨てて、それからはまともに顔を見ることもなく終わった。 眠るように息を引き取った。後になってから、そう聞いた。 葬儀には出なかった。亡骸を前にすることもなく、遺影も目にしなかった。 合わせる顔など有りはしない。掛ける言葉など、どこを探したところで見つかるはずもない。 弱い身体を養いながら。ずっとあの家で、誰を頼ることもなく一人で。 自分の幸せより弟の成長を楽しみにしながら、つつましやかに暮らす一生に終わった女。 あれにしてみれば俺は厄災だ。やっとの思いで口にしただろう望みを断ち切り、武州に置き去りにした薄情な男だ。 しかも砂上の楼閣とはいえ、最期に掴むはずだった幸せまでぶち壊した。 どれだけ良く見積もったところで、性質の悪い厄病神以下でしかない。 化けて出られても文句は言えない。憎まれ疎まれても、草場の影から呪われたにしても。当然の報いだ。 あれに今の俺が吐いた泣きごとを。それで気が済むなら呪っていいと聞かせたなら。 あいつは。ミツバは何と言うだろう。 あいつのことだ。 わざと怒った顔を作ってみせてから「まあひどい、呪うだなんて。失礼ね」と笑うかもしれない。 おとなしそうでいて悪戯好きな女だった。 泣き顔も見せなければ、愚痴も弱音も表には出さない。芯が強くて気丈な奴だった。 白く尽きた煙草の灰が、長く固まってぽとりと足の間に落ちる。 灰皿、とつぶやき煙草を隣に差し出して、ふと気がつく。土方は隣の女に目を向けた。 長い睫毛は閉じた目を縁取って動かない。寝息が聞こえて、そういえば眠っているのだと思い直した。 は自分では吸いもしないくせに、携帯用の灰皿を持ち歩いている。 最初は道に落としたのを見て「マナーが悪い」と口煩く騒いでいた。 そのうちにわざわざ灰皿を持ち歩くようになり、 吸い終えるのを見計らっては「これに入れて下さい」と差し出されるようになった。 勝手にさせろとやりあっているうちについ根負けして、いつのまにか吸い殻を差し出すのが習慣づいてしまった。 手のかかる猫でも飼っている気でいたが。飼い慣らされているのは案外、自分だったのかもしれない。 そう思いながら、隣の女に目を移す。 は何かつぶやきながら、唇をふにゃふにゃと動かしていた。 駄々をこねるような仕草で、預けた頭を隊服の肩に擦りつけてくる。 風呂に入って、乾かしもせずにここに籠ったのだろう。髪の香りが甘く強く、漂ってきた。 「・・・ひ・・・かた、さぁ、ん・・・・・」 「ああ」 ぼそっと寝言に返事を返す。 煙草を咥えた唇の片端が、ほんのわずかに緩んで笑った。 女の寝顔を眺めるようになったのは、こいつを傍に置くようになってからだ。 江戸に来て以来、決まった女に入れ込むことなどなかった。 どの女の許にも居着く気はなかったから、出来る限り薄情に通した。 あらかじめ深入りせずに済みそうなのを選んで、女と女の間を代わる代わるに渡り歩く。 それでも女の態度に馴れや情が見え隠れして、雲行きが危うくなり始めれば、すぐに姿を消す。 女を相手にするのに唯一決めた流儀は、それだけだった。 契りは身を縛る鎖と同じだ。 置いてきた女に情が湧いていれば、いざという時に判断が鈍る。残してきたことへの迷いが、目を曇らせる。 生まれた情で身を滅ぼすことになりかねない。 命を拾えるかどうかの瀬戸際では、瞬間の迷いをどう捌くかにその先の明暗がかかっているからだ。 いつでも命を投げる覚悟はある。 だが、懸けた大望を果たすまでは死んでやる気などない。どうあっても生き延びてみせる。 少なくとも、容易く犬死にを遂げて三途の渡り賃を払ってやる気などない。 だからこそ、迷いを生むことになりそうなものは心掛けて身の周りから排してきた。 相手がどんな女だろうと先は誓えない。最期は邪魔になるだけだ。 そう頑なに定義して、疑うことなく信じ込んでいた。 ところが偶然ここへ連れ帰ったを前にしているうちに、定義がたちまちに揺らぎを見せた。 しかもこいつは、女としては比類のない剣の腕を持っていた。 この女なら。こういう女なら。これから先も懐刀として傍に置けるかもしれない。 傍に置くつもりなどなかったはずが、いつしか期待が頭を持ち上げていた。 こいつもそうなることを望んでいたし、こいつの弱さを測れずにいた俺に、油断があったことも否めない。 自分のわずかな油断と誤算が。してはならなかった采配が。の進む道を踏み外させることになった。 会わせるべきではない奴の元へ。連れていくべきではない出入りの頭数に入れた。 あの日を境に変わってしまった。 見惚れるほどに美しいあの太刀捌きは、あれから一度も目にしていない。 みし、みし、と遅めに、縁側の床板をゆっくり軋ませる足音が伝わってきた。 誰か厠にでも起きたのだろう。 猫背気味な人影がのっそりと、欠伸を漏らしながら障子戸の向こうを通りすぎていく。 誰かが縁側を歩いて床板を軋ませる音は、壁に囲まれた狭い押入れの暗闇にはくっきりと響いてくる。 その音は、まだが隊士で、土方直属の部下だった頃を彼に思い出させていた。 の足音。唯一の女隊士だったのそれは、かえって彼の耳について注意を惹いた。 だからあの夜も。が隊士を辞めて彼とは別れる、と言い出した日も、 彼の耳はその軽く柔らかい音が自分の部屋を目指して向かってくるのに気づいていた。そして不思議に思った。 いつもなら小言をぶつけたくなる騒々しさで踏み込んでくるはずのが、障子戸の前で立ち止まっていたのだ。 見かねた彼が自ら戸を引き、入れ、と催促しても、彼女は空気に縛られでもしたかのように動かなかった。 障子戸が開いたことにやっと気づいたかのような顔で。泣き腫らしたうつろな瞳で、彼を見上げた。 結局何も言えずに、あれから黙って見守ってきた。 距離は置いたが、今まで以上に大事にしてきたつもりでいた。 使い勝手の良い刀など、他に幾らでも手に入るというのに 使いにくいはずのこれがすっかり手に馴染んでしまった。いまだに唯一の懐刀だ。 どうしても手放したくなかった。この折れたままでふらふらと、いつまでたっても戻って来ない女を。 自身の内側からしか窺えないだろう何かにすっかり囚われて、追い詰められていたあの頃のも まだ危なっかしくふらつきながら出口を探しているような今のも、どちらもいじらしかった。 うつむいて思いに沈み、何かをこらえている。あの表情を見るたびに、抑えていた言葉が口を衝いて出そうになる。 もういい。そのままでいい。だからもう、戻って来い。 何度そう言いかけて、何度口をつぐんだことか。俺がそれを口にすれば、こいつも楽になれるかもしれないのに。 煙と一緒に身体を巡らせている記憶は、次々と絶え間なく浮かびあがってくる。 注意に囚われるものを映さない静けさの中。 暗闇に囲まれて、かえって頭は覚醒しているらしい。 眠りを求めて訴えてくる身体の疲れを、すっかり無視して動き出していた。 今頃思い煩ったところで無駄だときっぱり切り離し、眠らせておいたはずの過去が浮かびあがる。 それは、自嘲に満ちた後悔を沸き立たせるものばかりだ。 面倒臭せえ。 二度目のつぶやきは、煙に混ざって真上の闇へと消えていった。 口にしていた煙草を手に取って、長く深々と煙を吐く。土方はゆっくり目を閉じた。 無駄な後悔に夜を徹して思い悩むくらいなら、浅く寝苦しい夢にでもさっさと沈んだほうがまだましだ。 尽きない回想に頭を巡らせているうちに、彼はいつしか心の整理をつけていた。 さっきの寝言に、涙に確信を覚えていた。 きっとこいつは帰ってくる。今はまだ、迷路で方向を失っているようなものだろう。 近藤さんの前でが漏らした言葉。あれを言葉通りに取っておく。 心変わりで他の男を頼ったのでもなければ、ここへ戻れるのなら俺以外の誰でもよかった、というのでもねえはずだ。 こいつは自力で俺の傍に帰ろうとしている。辿りつこうとしてあがいている。前が見えずにもがいているだけだ。 どうせ信じて待つ以外に道が無い。 まったく進歩がねえのは癪だが、呆れるくらいにこれまで通りでいくしかない。 つい手を伸ばしそうになるくらいに気を揉みながら、黙って見守る。それより他にないだろう。 俺が助けを出せば無駄になる。 何を決心したのかは知らないが。頼りなく踏み出したこいつの一歩が、泡になる。 「あと少し、待ってやる」 吸いこまれそうに真っ暗な闇を。 押し入れの低い天井を見上げて、土方は誰にも届かない独り言を唱えた。 隠されるのは面白くないが、黙って頷いてやるしかない。とはいえ、頷く気になれない部分もまだ残っているが。 他に頼るくれえなら、音を上げてさっさとこっちへ飛び込んでくりゃあいいものを。 ああも見え透いて回りくどい真似をされては、疑いたくもなるというものだ。 だいたいこいつは自覚に欠ける。俺に惚れられているという自覚が、無いに等しいほど薄いのだ。 とはいえ、この頭痛がするような自覚の薄さには、 女の求めるような台詞を一切口にしない自分の態度が、大きく関わっている。 の無自覚ぶりを責めてはいない。追及はしまい。深追いすれば困るのは誰なのか。目に見えて明らかだ。 「待ってやるから。こっちの気が変わらねえうちに、さっさと戻って来い」 の白い着物の袖に。暗闇でも浮いて見える真白なその上に、土方は手を滑らせる。 床に落ちている彼女の指先に、ほんのわずかに触れる程度に自分の指先を重ねた。 こうして隣にいれば、どうしたって触れてしまいたくなる。 もっと触れたい。 だが、触れてしまえば欲が出る。 もっと触れたい。 頭の中はそれだけに突き動かされる。手を伸ばせば、外れた箍はひび割れる。二度と用を為さなくなる。 温かな頬に触れ、撫でた指の隙間からさらさらと滑り落ちる髪に触れて。 柔らかな唇を奪ってしまえば、後は歯止めなどつかないだろう。 「・・・どうして」 隣から、ぽつりとつぶやく女の声が聞こえてきた。 いつの間に目が覚めていたのか、は眠たそうで不機嫌な顔で敷かれた布団を眺めている。 重たげな瞼は、よく見れば赤く腫れていた。 曇ってかすれた小さな声で、憎まれ口を叩いてきた。 「・・・こんなことされたら迷惑です。ちゃんと布団で寝てください。 倒れられたら気分悪いじゃないですか。あたしが悪いみたいじゃない」 「うっせえ。ここァ俺の部屋だ。どこで寝ようが俺の勝手じゃねえか」 「どうして。お布団、空けておいたのに。・・・・・ほんとは、疲れてるくせに」 拗ねた口調で言ったは、土方のほうを見ようとはしなかった。 布団を見据えたままで、きゅっと唇を噛んでいる。 自分の遠慮が的を外して土方に届かなかったのが、歯痒かった。そんな顔をしていた。 は彼に布団を譲るつもりで、大荷物まで引き連れてここに籠っていたらしい。 赤くなった目を擦りながら布団を敷いて、押入れに籠って膝を抱える。 そんなの姿が、彼には容易く想像がついた。 涙の跡を残した顔で、口を尖らせて目を閉じて。泣きながら眠りについたのだろう。 思い浮かべれば可笑しくもなるが、それ以上に痛々しくなった。 その頬に触れてみたい。 乱暴にして悪かった、とは口に出来そうにないが。せめて頬を撫でて、髪を撫でて。宥めてやりたい。 ぼんやりと、しかしごく自然にそう思い浮かべている自分に気付く。 どうやら身体は囚われていたはずの葛藤からすでに解かれて、心よりも先に呪縛から抜け出していたようだ。 意外に思って、思わず自分の手を見下ろした。 拒まれるのを嫌がり、躊躇っていたはずの手は。今も彼女に触れたままでいる。 「たまにはガキの頃を思い返すのも悪かねえ」 「・・・ガキの頃って。何を」 涙声で訊かれて口を開きかけた土方は、声を出しかけてふっと呑み込んだ。 問われて返すつもりでいた、用意した当たり障りのないごまかしの言葉。 それがなぜか、頭の中からすうっと引いて消えていった。 「言ったところでお前にゃ判らねえよ」 用意したごまかしは、聞かせられない本音を孕んだ、棘のある口調にすり替わっていた。 口をつく寸前にちくりと刺すような後悔を憶えた。 それでもなぜか言ってしまった。 言ったところで、には判らない話。 そこには、たとえ懇願されたところで決して聞かせる気のない話が。 ちらつかせてしまった本音の核心が潜んでいる。 は赤く腫れた目を瞬きさせながら、彼をじっと見ている。 泣き疲れたぼんやりした表情は、まだ夢の中を彷徨っているかのようだ。 剣を構えたときの気位が高そうで凛とした立ち姿とは、別人のようで。年よりも幼く頼りなげに見える。 このままでいい。こいつは何も知らない。今のには、判りはしないのだ。 これ以上を不安にさせたくはない。知らないままでいさせてやりたい。 気づいたところで、こいつを待っているのはおそらく身体を射るような、突き抜けるような悲しみだけだ。 このままでいい。判らないままでいい。無邪気に向けられるこいつの笑顔を、壊したくはない。 だが。もしもこいつが、すべてを知ってしまったとしたら。 てめえはどうする。 てめえはどうする。何を選ぶ。何を護る。何を見放し、斬り捨てるのか。 普段と何ら変わりのない無表情を装いながらも、土方は自分を問い詰めていた。 煙を身体の奥から吐き出す。 自分にしか判らない空々しさを染み込ませたごまかしを、何気ない口調で答えた。 「吸わねえ奴には判らねえ。 ・・・ガキの頃。狭めえ場所に籠って、隠れて吸う煙草の味は格別だった」 それを最後に、部屋は真夜中の沈黙に包まれた。 籠っている狭苦しい闇に身体を埋めて。二人とも無言でいた。 重ねたままになっていた指先が、寄り添った肩が。互いの存在と体温を伝えてくる。 忙しさに追われる毎日だったとはいえ、二人で過ごしてきた時間は既に短いものではなくなっている。 互いにそれ以上の言葉もなく、それ以上に言葉が必要ないことを肌で感じて知っていた。 土方は黙って触れていた手を取り、指を絡める。 の指の間にゆっくりと、隙間を埋めるように自分の指を挟んでいく。 久しぶりに味わった肌の温もりにためらいながらも、柔らかくそっと握った。 身体を重ねている時でもない。酔いの回った彼女に抱きつかれて無理やりに、でもなく。素面の間に手を繋ぐ。 恋人同士であればごくありきたりな愛情確認でしかない、その行為。 しかし普段の彼にとってはありきたりではない。それをも知っている。 泣きつかれでもしない限りは、素っ気なく拒むはずの行為だった。 指を重ねて絡まり合った手を、は拒むこともせずにぼんやり見つめていた。 それからほっとしたかのように表情を緩めると、今にも泣きだしそうに唇を噛みしめる。 深くうつむくときゅっと力を込めて、包み込んだ大きな手を握り返してきた。 すすり泣くのをこらえているような嗚咽が漏れてきて、の手が震える。 それでも握りしめた手を放そうとしなかった。 白い着物に包まれた薄い肩も、ちいさく小刻みに震えている。 声を殺して泣いている。 その姿が土方に図らずも、見失いかけていたの思いを確かめさせることになった。 理由は今も解らない。だが、俺がそうであるように、こいつもまた。 俺に触れたくないのではなくて、俺に触れられずにいるんだろう。 迷うことなく握り返してきた手が、のまっすぐな思いを彼に語りかけてくる。 傍にいたい。放さないで、と。 また振り払われるのではないかとためらいながらも。 それでも、何度でも自分へ向けて伸ばされるの手。この細く小さな手が。 彼女の思いがまだ自分へと向けられていて、心は今も互いに繋がれているのだという証に見えた。

「 触れる指先の我儘を 7 」text by riliri Caramelization 2009/03/29/ -----------------------------------------------------------------------------------          next