とある早朝。 庭に降りた雀たちのさえずる声が、くっきりと響いている。 部屋の障子戸が朝日を透かして眩しく映る、からりと晴れた朝だった。 屯所の自室で目を覚ました土方が最初に目にしたものは、隣で眠っている女の顔。 昨夜彼が布団に入った時にはそこにいなかったはずの、女の呑気な寝顔だった。 こいつ、いつの間に。人の気も知らねえで、のうのうと眠りやがって。 憮然とした寝起き顔が、眠る女を黙って見つめる。 彼は突然、勢いよく布団を跳ね上げて起き上がった。 寝間着姿の首筋のあたりを、無造作にぼりぼりと掻いている。 布団を剥がれてしまったは、猫のように背中を丸めて小さく震えていた。 寒そうに自分の肩を抱いて身を竦める姿をじっと見ながら、彼は呼びかけた。 「」 「・・・・ふ・・・ぁ・・・ぃい?」 半開きになったの唇が、ふわりと半開きに開いた。 その動きを目にしただけで、土方の身体には唇を重ねたときの柔らかい感触が甦ってきた。 まるでそこに触れたかのように。 ぐっと喉を詰まらせ、土方は背後の障子戸へと強引に顔を逸らす。 ただでさえ寝起きで朦朧としている理性が、グラっと大きく傾きかけたのだ。 乱れた寝起きの頭をグシャグシャと掻き毟りながら、剥がした布団を再び掴むと 顔を背けたままの手探りで、隣の女に深く被せようと試みる。 横目にちらりと、隣の様子を確認した。成功だ。寝起きの目には刺激が強かった部分は、なんとか隠れている。 多少の落着きを取り戻した彼は、ややわざとらしい咳払いをひとつ打った。 「・・・おい、起きろ。お前、いつ来やがった」 「ん・・・・ふぁ・・・い・・・おやふみ・・なさぁあいぃ・・・」 「寝るな。挨拶は要らねえから説明しねえか。 ァんだ、てめえ。今何時だと思ってんだ。放っときゃ昼まで寝てる奴が、んな早えェ時間に」 「・・・ひ・・・じかたさあん」 「ああ」 「・・・あたしぃ・・・・・こ・・・に・・・いて・・・ぃい?」 ここにいていい? 寝惚けて途切れながらの蚊の鳴くような声は、彼にそう訊いているらしい。 しかしそれだけでは話が見えない。 少なくとも、訊かれたことへの返事にはなっていなかった。 「しばらくう・・・・土方さ・・・のぉ・・・へやにぃ。泊め・・くらさぁあい・・・ぃ」 そう言ってからムニャムニャと言葉にならない声でつぶやき、はすうすうと寝息をたて始めた。 しばらく土方さんの部屋に泊めてください。 言葉の意味を計りかねた土方が、彼の戸惑いを置き去りにして眠りに落ちた女をまじまじと見つめる。 戸惑いながらもふと、背後に何か大きな気配を感じて振り向いた。 そこには見覚えのある淡いピンクの大きなスーツケースが、どんと居座って待ち構えていた。
触れる指先の我儘を 5
「すいません副長ォ、戻りましたァ」 屯所から程近い場所にあり、局内の殆んどの連中が一度は世話になっている大きな総合病院。 その中にある、味気なく青白い照明で照らされた薄暗い立体駐車場。 通院や見舞いに訪れる人達の車に混ざって停められた一台のパトカーに向かって どこか少年っぽさを残して頼りなげな細身の男が一人、足取りも軽く駆けてくる。 真選組の監察、山崎退。 難しい仕事もソツなくこなして重宝がられる優秀な隊士であり、いまや真選組には欠かせない存在ではあるものの まさに絶妙としか言いようのないタイミングの悪さと、運の無さも兼ね備えているこの男。 ある種の器用貧乏体質の持ち主。というか、ちょっとだけ不幸な星の元にうまれた男、である。 自他共に認める「副長のパシリ」とされて久しい彼だが、今日は土方の私用に走らされていた。 上司が座る後部座席のドアを開けた彼は、病院で処方された薬の入った白い袋を手にしている。 が行方不明になる直前の、あの料亭での出入りで肩を負傷して以来、土方もこの病院に通い続けていた。 思った以上に深手だったのだが、治りが遅かった傷口もほぼ塞がりつつある。 今では念のための痛み止めと、軽い手当程度しか必要がない。時折こうして薬を受け取るために訪れているのだが、 病院の隣に接して建っている大きな薬局には、美人の受付嬢や薬剤師が多いと隊士の間で評判が高かった。 この時ばかりは山崎も、毎回嬉しげにパシリの命に赴いている。 上司の横暴に慣れているからなのか、それとも元からそういう気質なのか。 受け取ってきた薬の袋をガサゴソと開くと、処方の紙を片手に甲斐甲斐しく説明を始めた。 「こっちが痛み止めでこっちが胃薬だそうです。前に出したヤツとは違うから間違えるなって言ってましたよ」 「おう」 「いやァ、受付がやたらに混んでましてねェ。待ってる間に隣に座った爺さんが・・・・ あれっ。さんは?もう行っちゃったんですか?」 キョロキョロと薄暗い辺りや車内を見渡してから、不思議そうに車内の土方に目を戻す。 「なんだァ、もう店に戻っちゃったんですか。」 ちぇっ、と残念そうな顔で薬を手渡し、土方の前方の助手席に座った。 背後の男がぴくりと眉を吊り上げた表情の変化に気付くことなく、のんびりした口調で一人喋り続ける。 「随分短い休憩ですねェ、あの店。まあ、今日も屯所に戻れば会えるからいいですけど。 やっぱいいよなあ、女の子がいるって。さんがいるだけでそこだけ空気が違うってゆーかァ」 「何の話だ」 「へ?」 「あれがどうした」 「どうした、って。えっ、来なかったんですかさん。いや俺、さっきそこでばったり会ったんですけどォ」 隣の薬局へ行くために病院の敷地を出たあたりで、バイトの休憩時間中に外出していたに会ったのだと言う。 ここに土方がいることを伝えると「じゃあ行ってみようかな」と、嬉しそうにしていたらしい。 シートに深く身を埋めていた土方はわずかにうつむき、考え込むような仕草を見せた。 そんな上司の様子には気付かずに、山崎は不思議そうに首を捻っている。 「おっかしいなァ、副長が車ん中にいるって言っといたんですけどねェ。局長にも」 「・・・近藤さんだァ?」 「ええ、局長ですよ。 二人で昼飯食べた後だとかで。ほら、ここから近いじゃないですか、さんのバイトしてる店」 ここから一区画しか離れていない街の中心部に、がバイトしているカフェがある。 屯所からも近く、行けばそのカフェのちょっと変わった制服姿に身を包んだにサービスして貰えるだけに 屯所周辺の見廻り当番に当たった連中や、非番の隊士たちの溜まり場と化していた。 がそこで働き始めた時には当然のようにほぼ毎日居座り、土方を色んな意味で苛立たせていた一番隊隊長は 最近は連日通うのにも飽きたのか、それとも何かの気まぐれか。珍しく割り振られた任務を淡々とこなしていた。 あれっ、と小声でつぶやいた山崎は車内の低い天井を見上げ、何か思い出したような顔をする。 「そーいやこの前も会ったなァ、ここの近くで。最近よく一緒にいますねえあの二人」 「おい。それァいつの話だ」 「は?ああ、そーですねえ、さんが屯所に戻ってきた日あたり・・・いやァ、その前? 屯所に戻る途中だったかなあ・・・何だったんだろ、アレ。二人とも妙に切羽詰まった顔して話し込んでましたよ」 「・・・・・・先週か」 自分に確認でもしたかのように一言漏らした土方は、腕を組み、窓の外へ視線を移して黙り込んだ。 が屯所に転がりこんで来たあの朝は、一週間近く前になる。 あれ以来はアパートに戻っていないらしい。訳を尋ねると「たまにはみんなと一緒にいたいなあと思って」 と、淋しがりで人懐っこい彼女らしいことを言いはするのだが。 真選組を辞めて以来、大荷物まで持ち込んで連日入り浸るのは初めてだった。 「局長、最近お妙さんの顔見てないって嘆いてたからなァ。 姐さんに会えないのが淋しいらしいっすよ。さんに慰めてもらってるんですかねェ?」 へらっと笑って振り向いた山崎だが。次の瞬間には、総毛立った猫の勢いで縮みあがっていた。 腕を組んで自分を見ている背後の男の、不穏な半笑いの表情に目が釘付けになってしまったのだ。 「ふ、ふふ副長ォ!?お、俺っっ、何か、気に障るようなことでも」 「いいや。むしろ礼でも言いてえところだぜ。」 喘ぎながら逃げようとする部下の動揺ぶりを嘲笑うかのような、冷たい笑みを浮かべながら 土方がゆっくりと手を掛ける。新調したばかりだが使う機会の訪れなかった、あの刀の鍔に。 指で押された鍔がわずかに動き、カチッ、と刀身が硬質でキレの良い音を響かせた。 「お前のおかげで、やっとこいつの出番が来たらしいからなあぁぁぁ」 うつむいた土方の口端が楽しげに吊り上がる。くくっ、とどこか気味の悪い笑いを洩らしている。 どうやら自分は、言ってはいけないことを口にしたらしい。 やっと悟った山崎は涙目で青ざめたのだが、時はすでに遅かった。 後悔とはその文字通りに、ほぼすべてが先に立つべくもないものだ。 彼が青ざめた数秒後。 薄暗い駐車場内を走り始めた車からは、耳をつんざくような山崎の悲鳴が漏れていた。 その日、土方が屯所へ帰り着いたのはまだ夜も浅い時間。 食事を済ませた隊士たちがまだ食堂に溜まって、それぞれにくつろいでいる頃だ。 酒も入って雑談にざわめいている隊士たちの姿を、醒めた表情で横目に眺める。 脱いだ上着を肩に引っ掛けて、彼は食堂の前を素通りした。 どこを歩くにも常に速足の彼には珍しく、気だるく重たげな足取りだ。 挨拶してくる隊士たちに目を向けながら、自室のある棟へと歩を進めていた。 縁側沿いの廊下を進むにつれて、元々疲れ気味だったその表情がじわじわと曇り始めた。 表情が晴れない原因は、仕事上のストレスではない。ごく私的なことだ。 彼より先に部屋に戻っているはずの女を、どう扱っていいものか。 昼間に聞いた山崎の話は、本人か近藤の言い分を加味しなければ噛み砕けそうにない。 だが訊きづらい。 自分の部屋にいる女は、普段のとは違っている。 別れたという体面も投げ出して大事にしてきた女が、今や彼にとっての苦痛の種になりつつあった。 これが今のではなく、普段のであれば良かったのだが。 それなら彼にも不平はない。不平どころか無条件で受け入れただろう。 とはいえ素直に喜んでみせるつもりはないし、 「いつまで居着く気だ」くらいの、笑い混じりな皮肉は口走ったかもしれないが。 そんな皮肉も、あくまで嬉しさの裏返し。普段よりも屯所に戻るのを愉しみにしたはずだ。 しかし今の彼は、とうてい彼女のお泊りを喜ぶ気にはなれなかった。 むしろ苦痛だ。楽しくないのだ。毎夜が拷問に等しいのだ。 仕事を終えて部屋に戻る前に深々と暗い溜息をつくのが、最近の彼の日課になっていた。 連日続くやりきれない寝苦しさに擦り減っているのは、心労だけではない。 人よりいささか頑丈な出来の精神力と自制心の無駄遣いだけで、ここまでなんとか乗り切ってはきたものの さすがに土方も、体力的に疲弊してきた。 せめて自分が他の部屋で寝るなり、を他の部屋に移すなりと出来ればいいのだが それはそれで面倒が多いし、どうせ気になって眠れはしないだろう。 なにしろ屯所は、女に飢えた野郎共の巣窟だ。 それにしても。俺はいったい何をしているのか。 ここまでくると、我慢だ何だを通り越していっそ馬鹿馬鹿しい。滑稽にすら思えてくる。 意固地になって耐え続けている自分を、客観的に、まるで他人事のように眺めるまでになっていた。 それは縁側を進み、部屋に戻るわずか手前でのことだった。 土方の足がぴたりと止まった。同じ棟の並びにある、一つの部屋の前で。 障子戸の向こうから漏れ聞こえてきたのは、何か思い詰めているような、ひそひそと翳った女の声。 そこに重なって聞こえるのは、この部屋の主の声だった。 低く潜めた近藤の声が、の声と混ざっている。 障子を隔てての距離もある。会話の内容までは聞き取れないが、 小声で話しあっているらしい二人の口調には、浮いた雰囲気など感じられない。 逆に何か警戒しているような、重苦しい雰囲気は感じられるのだが。 「しかしなァ、」 中に声を掛けようと、土方が障子戸に歩み寄る。 ちょうどその時に、たしなめるような近藤の声がした。 「こうなっちまった以上、そろそろトシにも」 「・・・いえ、土方さんには。まだ・・・・」 「だがなあ。そう気負うこたあねえだろう?俺もよォ、多少なりはお前の気持ちが判ってるつもりだが。 あいつの心情も、・・・・なあ。察してやってくれねえか」 言い淀んだ近藤に対して、は潜めた声で返した。 間を置くことなく、きっぱりとした口調で。 「土方さんには関係ないことです。 あたしが自分で決めたことですから。自分で決着つけたいんです。 自分で片付けて。自力でここに・・・真選組に、戻りたいんです」 障子戸の向こうでそれを耳にした男が、ぐっとこらえるような顔で視線を床に落とす。 数秒の間を置いて。うつむいたまま、手を掛けていた障子戸を大きく引いた。 障子を挟んだ気配に気づいていたのか。 胡坐で座った近藤は、何の揺らぎもない目で彼を見上げる。 しかしその正面に座り、ゆるゆるとした動作で顔を上げたは 明らかに怯えたような表情をしていた。その手には、開いた携帯が握られている。 「おう。今戻ったのか」 「・・・お、おかえりなさい。お疲れさまで」 「何やってんだ」 抑えた口調の低い声で問いかけて、彼は鋭い視線を畳に落とす。 視線こそ合わせようとしないものの、その問いかけが近藤ではなく に向けられたものであることは確かだった。 えっ、と戸惑った声でつぶやきかけたがはっとして、慌てて手にしていた携帯を後ろ手に回す。 彼の目を避けるように隠すと、パチン、と二つ折りに閉じた。 「いや、さっき一緒に飯食ってな、ちょっとヒマだったからよォ。 まあその、世間話だよ、なあ?」 「あんたにゃ訊いてねえ」 醒めた声でぼそっと、土方が言い捨てる。 その声に刺々しさを感じ、は膝に置いていた手できゅっと着物を掴んだ。 険悪とまではいかないものの、部屋の中はぎこちなく強張った空気に呑み込まれた。 「あ、・・・・・・・ああ、そうか!いやあ、悪りィ悪りィ。つい口挟んじまった」 ははは、と頭を掻き、近藤が豪快に笑い飛ばす。 彼の笑顔の屈託のなさに、その場は幾分か拍子抜けしかけた。 だが空気は緩んだものの、さすがに漂う気まずさまでは拭えない。 場を和ませるために試みてみたものの、近藤は笑顔の引っ込め時が掴めずに顔を引きつらせ気味にしている。 「・・・・・いや。すまねえ」 土方は、無表情にぼそっとつぶやいた。普段の彼なら、余程でない限りは口にしない言葉を。 それに驚いた近藤は頭を掻く手を止め、わずかに目元を曇らせた。 うつむきがちに視線を彷徨わせていたが、ぴたりと土方に視点を合わせる。 何か言いたげに唇を動かす。しかし、言いかけたそれは言葉にならずに収められ。 黙ったままで、ふいと顔を逸らした。 「まあ、そこで立ち話もなんだからな。お前も入れ」 呼びかけられても、土方はその場を動こうとしなかった。 ただ黙って、うつむいた視界に映る自分の手を見下ろしていた。 固く握りしめた右の拳を。 わからなかった。 こいつじゃねえ。自分がわからねえ。彼は自分を計りかねて、沈んだ目をして佇んでいた。 訊きたいことや言いたいことなら、立ち話では収まりがつかないほどに溜まっている。 こいつが何を隠しているにしても。何に向き合おうとしているにしても。 どうして俺ではなく、近藤に話を持っていくのか。 それとも俺には訊かせられない、何か言い辛れえ含みでも隠していやがるのか。 いつかはここに戻りたい。隊士として戻りたい。 元のように剣を握れるようになるまでは、今まで通りに。公然とした縁を戻すのは、無しにしたい。 それは彼がを連れ戻した日に、彼女の口から言われた言葉だ。 言われたときには驚いた。自分の片腕としてここへ戻ることは、とうに諦めたものと思っていたからだ。 けれど決心の固さに想像がつくだけに、口には出来なかった。 返事を待って固唾を呑むまっすぐな表情を見てしまえば、言えはしなかった。 女として自分の傍にいてほしい。元の鞘に戻れ、とは。 誰よりも近くで見てきた女だ。 黙って苦しさを抱え込みながら、それでも無理をして笑っていたあの姿も。誰より近くで目にしてきた。 頷くより他になかった。 が、うやむやのうちに受け入れたものの、時間が経つうちに考えも変わった。 真選組に戻る。それがこいつなりの選択で、奮い立たせた覚悟だというのなら。黙って見守る以外にない。 俺はこいつの納得がいくまで、とことん付き合ってやるより他にない。 に告げることはなかったが、胸のうちではそう決めていた。 しかしどこかで、安堵してもいたのだ。 連れ戻したあの日。まだ傍にいてもいいかと、は涙声で尋ねてきた。 あれを聞いたときに思った。やっと戻って来た、と。もうこいつを手放さずに済むのだ、と。 もしも発作が治らずに終わったら。こいつの覚悟が実にならず、片腕としての道を断たれたとしても。 それでも傍に置いておける。もう忽然と姿を消して、俺の目の前から消えるようなことはないだろう。 俺はただ、そう信じたくて楽観していただけなのか。 いつかはここに戻りたい。 あの言葉の持つ意味を。俺は穿き違えていたのだろうか。 恥も外聞もかなぐり捨てて、連れ戻したが。 やっと自分の許に戻ってきたはずの女が。 何かが起きているらしいこの期に及んで、自分ではなく他の野郎を頼ろうとしている。 それとも。 こいつにしてみれば、ハナから俺でなくとも済む話だったのか。 ここにいる奴等の中の誰かでさえあれば、どんな奴でも良かったのか。 そいつを介してここに隊士に戻れるのなら、俺であろうが誰であろうが構わない。 それで事足りる程度の存在。戻りたい場所と自分とを繋ぐ、触媒程度の存在にすぎなかったのか。 思いあぐねている間にも、沈んだ目がじっと見つめていたのは握った拳だけだった。 やっと目の前に誰がいるのか気づいたかのような緩慢な動作で、彼はようやく顔を上げる。 不安そうに着物の端をぎゅっと掴んで、おずおずと視線を合わせてくる。 曇った目をした女の顔を、じっと見据える。 これは駄目だ。埒があかない、と土方は無言のうちに思い直した。 何を迷うことがある。詮の無いことにうだうだと、いつまでも思い煩うくらいなら すべてを置き捨て、遠慮もためらいも振り捨てて。何も考えずにただ問い詰めればいい。 中に踏み入って、彼女の手を掴んで。 ここから引きずり出して、部屋に押し込めて。問答無用に問い詰めてしまえばいい。 苛立ちと鬱憤に満ちた頭の中では、確かにそう判断がつくのに。 身体は重くどんよりと、固まったままで動かない。なぜかに手を伸ばせない。 手は動かずに、見えない何かに縛られたまま。 足もまた、目の前の敷居を跨ぐたった一歩を踏み出せないままだ。 自分でもわからない。いや、他の何より、自分そのものがわからなかった。 なぜ、俺は。何のためにここまで我慢しているのか。 障子の前で立ち尽くす彼を、近藤は訝しげに見上げている。 「どうした?トシ。入れよ」 そうして手招きで促されても。 敷居を跨ぐこともなく、彼はその場で立ち尽くしていた。 自分だけを見据えて動かない厳しい目線に、後ろ暗さでも感じているのか。 は戸惑いの表情を浮かべている。 視線を合わせていることに耐えきれなくなったかのように、泣きそうに眉を曇らせてうつむいた。
「 触れる指先の我儘を 5 」text by riliri Caramelization 2009/03/19/ ----------------------------------------------------------------------------------- next