。先週の」 「はい、アレですか?アレならもう各隊隊長に回覧済みです。 おとといまでの分もまとめて回しちゃいましたから、今日中に報告が上がってくるはずですよ。 あ、そーだ。先週までの領収書も、回収してまとめてありますから。後でチェックお願いします。 それから、午後なんですけど。五番隊で警備の手が足りないそうなんです。あたし、行ってもいいですか?」 パチパチとパソコンのキーを叩き、画面と睨み合いながら問いかける。 そのままキーを叩きつつ、少し待ってみた。けれど返事は返ってこない。 あたしは手を止め、部屋の隅へと目を向ける。 灰皿で煙草を揉み消しながら、土方さんは机に分厚く積まれた書類に目を通している。 さっきお茶を出した時とほとんど違わない姿勢で、机の前に座っていた。 書類から目を離そうとしない横顔は、何かを考え込んでいるようにも見える。 何かあったのかな。 それとも、あたしの声が聞こえなかっただけなんだろうか。 でも、ちょっと気になる。そういえば最近の土方さんは、こんな反応が増えた気がする。 仕事のことに関してなら、問いかければいつも即答してくれるのに。 どうしたんだろう。 局内のことで何か懸案でもあるんだろうか。それとも、年末の忙しさで疲れてるのかな。 「あのォ。土方さあん。聞こえてますか?」 「・・・・・ったく。何だってえんだ」 書類をパラパラとめくりながら、ぼそっ、と小さく言い捨てる。 こっちをちらっと見た土方さんは、何か言いたそうな、妙に複雑そうな顔になった。 手にしていた書類で畳をぱしっと叩くようにして置くと、あたしのほうへ向き直る。 「。お前な。」 「え。行ったらダメですか?どうしよう。もう武田さんに返事しちゃったんですけど。 でも、今日は土方さんのお供も無いし、自分の仕事も片付いてるんですけど。ダメですか?」 「いや。そっちじゃねえ。」 「えっ、じゃあ領収書ですか?まとめるの早すぎましたか?来週で良かったですか?」 早すぎたらしい。責めるような厳しい顔で、じろっと睨まれてしまった。 あたしの問いかけには答えてくれないまま、土方さんは書類の束をまた手にする。 膝に置いたそれをしばらく眺めてから、重たげに口を開いた。 「・・・いや。それでいい。それと。昨日渡したヤツな。終わったら近藤さんに」 「はい、これですよね?」 側に置いていた書類を手に取り、立ち上がる。 たたっと部屋の隅まで駆け寄って、背中に向かってそれを差し出した。 「もう出来てます。近藤さんにも確認貰ってあります!」 「・・・・・・・・・・勘定方に回しとけ。」 「はい」 「それと」 「はい?」 「そのツラ。何とかしろ」 「・・・・・・・はァ?」 あたしの間の抜けた問いかけに、土方さんが振り返る。じっとこっちを見上げた。 何か怒っているらしい。すごく気に喰わなさそうな顔だ。口元が大きく曲がっている。 書類をあたしの手から抜き取って、すぐに素っ気なく背中を向けて。 独り言でも云ってるみたいに、低くつぶやいた。 「見れたもんじゃねえ」


Close to you

2

「だからぁ、軽ーくふざけてみたつもりだったんですよ!! 『え?それって直視できないくらい可愛いって意味ですかァ?』って、軽ーく訊き返したんですよォ!」 バンッ。 湯呑でテーブルを打ち鳴らしたら、中身のお茶が思いきりこぼれた。 向かいに座る山崎くんが、揺れるテーブルから味噌汁のお椀を慌てて持ち上げる。 「だって、だってェェ!!『え?』って思うじゃないですか!! 訊き間違えたのかと思うじゃないですか!幻聴でも聞こえちゃったのかなあ、とか! つい訊き返してみたくなるじゃないですかあァ!! っっっ、なのに、なのにィ!返ってきたのが『うっせえ、黙れブス』ですよ!?」 すぐ横から、ブッ、とくぐもった音がした。隣に座っている十番隊の原田さんだ。 食べていたものを喉に詰まらせたらしい。 うぐぐぐっ、と呻きながら喉を抑え、目を剥いて苦しそうにしている。 上司の暴言にキレかかった瞬間から数時間後の、遅めの昼食の時間。 ぶつけようの無い怒りをなんとか抑えて乗り切り、爆発寸前、珍しく無口なまま仕事を終えると、 あたしはすぐに土方さんの部屋を後にした。 まっすぐ食堂に駆け込んだけれど、ご飯なんてどうでもいい。 とにかく一刻も早く、一秒でも早く、この憤りを誰かに訴えたくてたまらなかったのだ。 たまたま食事中だったこの二人を見つけ、勝手に座り込んだあたしは さっきから一方的に、横暴な上司のサイテーさを延々と愚痴り続けていた。 「ああああもォっっ、信じらんないィィ!!! 何なのアレ!!何なんですかあのセクハラ上司!!フツー、女の子に言いますか!? ねえ、言えますか?面と向かってブスとか言う!?思っっきり『ブス』ですよ『ブス』!! てゆーかあたし、ブスだなんて、生まれて初めて言われたんですけどォォ!!!」 バンバンバンッ、と数回続けてテーブルを打ち鳴らす。 真っ青な顔で山崎くんの味噌汁をひったくった原田さんが、凄い勢いでそれを飲み干す。 浮かないようすでそれを眺めていた山崎くんは、頬杖をついて、はあァ、と悲しげな溜息をついた。 「そーなんだよねェ。あのヒトさあ、この時期はだいたい機嫌悪いんだよねェ。 年末年始ってさー、普段回ってこないよーな仕事まで色々回ってくるからさァ。 そうそう、そーいえばさあ。この前もえらく怒ってたよなァ。 『こういう時ほど過激派は裏でゴソゴソ動いてやがるのに、人手が足りねェ、ふざけんな』って」 「・・・そりゃあ、忙しいのはわかるけど!不機嫌になる気持ちも、わかるけどォ!! でもォォ、だからってブスは無いでしょ!!?ああああもォォ、悔しいィィィ!!」 ゲホゲホと咳き込みながら、厳めしい顔に涙を浮かべた原田さんがたしなめる。 「いやいや、さんもよォ。そうカリカリしなさんなって。 まあそのよお、副長だって本気じゃねえだろうよ。うっかり言っちまっただけ、ってやつじゃねえか?」 バンッ。 持っていた湯呑を、またテーブルに叩きつける。 横目にきっ、と睨むと、原田さんはうっと呻いて肩を竦めた。 「はいィ!?じゃあ原田さんなら言いますか、言うんですかブスって!? 別にブスだとは思ってないコに向かって、うっかり言うよーなことですか!? それっておかしくないですか!?そんなはずないですよ、絶対おかしいですよォォォ!! 普段から『ブスだなこいつ』って思ってるから、ポロッと口に出たんじゃないですかァァァ!?」 「い、いや俺はよォ、なにもそこまではよォ。いやいや、だからな?気にすんなってことだよ。 始終一緒にいりゃあ、まあ、そういうこともたまにゃあるだろうってことをだな」 「あああ、そーですよォ!もォいいんです! 喧嘩好きの仕事バカに、傷つく女の子の気持ちなんかわかるはずないじゃないですかァァ!! 何よォ!あたしの顔のマズさに文句つける前に、自分の仏頂面なんとかしろってーのォォ!!!」 バンッ。 もう何度叩きつけられたかわからない湯呑に、お茶はほとんど残っていない。 恐る恐る湯呑を覗きこんだ山崎くんが、怯えたような神妙な顔で指摘する。 「あの〜〜、さあん?それ俺のお茶なんだけどォ」 「あーー、そうそうっ、聞いて山崎くん、聞いてよ!!さっきね、お茶淹れた時にね! どうぞ、って出しただけなのに、こっち見てすっっっごく嫌そうな溜息つくんだよ!? この世で一番ムカつくモノでも見たよーな『寄るな虫ケラ』みたいな!見下した顔でェ!!!」 思い出したら、怒りのあまりに手までブルブルと震えが走る。 手加減なく鷲掴みされた湯呑に、ピシッという音と共にヒビが入る。 手元の異変に気づいたんだろう。原田さんが、げっ、と声を強張らせた。 「何よアレ!何なの!?あたしすっごく頑張ってるのにぃ!ここんとこひとつもミスしてないのに! マジメに遅くまで仕事してるのにぃ、何がそんなに気に喰わないの?どーゆーこと!? ふざっっけんな腐れマヨラーー!!寝込み襲ってやるう!!鼻にマヨ突っ込んで窒息させてやるぅぅ!!!」 「お、おい、さん、その辺でもうやめといたほうが」 湯呑ごとあたしの手を抑え込み、うろたえた様子で原田さんが止めに入る。 すると山崎くんまで何かにはっとして、顔を引きつらせはじめた。 「嫌ですゥ!朝から半日我慢したんですよ?愚痴くらい言わせてくださいよォ!! だいたい何がそんなに嫌なの?あんな長ーーーい溜息つきたくなるほど、あたしの顔が嫌ってこと!? まさか、もしかして。・・・さっさと整形でもしてきやがれこのブス!ってコトですかあァァ!?!!」 「行きたきゃ整形でも何でも行って来い。 ついでにその口も縫ってきたらどうだ。二度と開かねえようにな」 笑い混じりの、なのに冷え切った硬い声が、すぐ後ろで響く。 ぞおっ、と背筋を悪寒が突き抜けた。 「っっ痛たァァァ!!!!」 振り返る猶予すら、鬼は与えてくれなかった。 片手で頭をガッ、と、頭蓋骨がミシミシ軋みそうなくらいに強く掴まれる。 痛さに暴れるあたしの足に、鬼はさらに一発、ガツンと蹴りまで入れてくる。 「騒々しいんだよテメーは。メシくれえ静かに喰えねえのか!」 「痛いィィ!!痛いですゥ土方さん!!割れちゃう!頭割れちゃうぅぅ!!」 「安心しろ。テメーの頭なんざ、そのへんの湯呑と変わらねえからな。接着剤で充分だ」 ぱっ、と手が離される。 あたしはズキズキ痛む頭を抑えながら、へなへなとテーブルに崩れ落ちた。 「っっ、せめて病院に連れてって下さいよォ!!」 「おい。メシ喰ったか」 「まだですゥ!」 「喰ったら部屋に戻れ。午後は休みだ」 「・・・・・・はァァ!?」 驚いて後ろを振り返ると、お盆を手にした土方さんが立っている。 そこに乗せられた「見ただけで食欲が失せる魔法の丼飯」から反射的に目を逸らし、 あたしは眉間も険しくこっちを睨んでいる人を、恨みがましく睨み返した。 理不尽だ。ひどすぎる。 場の空気を和ませたかっただけなのに。ほんのちょっとふざけてみただけなのに。 それだけで、どうして「ブス」なんて断言されなきゃいけないの。 だいたいこのひとは、何にここまで機嫌を損ねているんだろう。 顔に出ないだけに、こうなってしまうと解らない。何がそこまで気に喰わないのか。全然掴めない。 なのに、ムカつくことに、誰に怒っているのかだけは不機嫌そうなこの気配で解ってしまう。 山崎くんも皆も、年末の忙しなさで荒んでいるからだと思ってるみたいだけれど。そうじゃない。違うのだ。 この不機嫌の台風の目は、たぶんあたし一人に向かって勢力を増している。 「煩ェよ。いちいち喚くな。つーか、ざっっけんな。 働き詰めの上司差し置いて、半日休めるってえのによ。何が不満だ馬鹿パシリ」 「え、でも。駄目ですよ。午後は五番隊の手伝いが」 「五番隊には他から加勢を回しておく。お前は晩飯まで部屋から出てくるな。いいな」 「でもォ!」 「いいから休め。お前、一昨日も休んでねえだろ」 えっ、とつぶやいてから、答えに詰まって口籠る。 あたしは手元を見下ろした。 手にした湯呑を弄りながら何て返そうかと焦っていると、先に言葉を被せられた。 「一昨日の夜、近藤さんが言ってたぜ。 どっかのバカが俺の部屋で、夕方まで書類整理してたってよ。 俺の留守をいいことに休日返上か。おい。お前、いつからそこまで仕事熱心になった」 冷えた口調で言われた厭味に、身体が竦む。 恐る恐る、気配を伺いながら土方さんを見上げた。 「先回りしすぎだ。気が効きすぎて空回りしてりゃ、世話ねえだろ。 急ぎでもねえ雑用に、そこまで根詰めてどーすんだ。 お前が休日返上で切羽詰まるほどのこたあ、俺は振っちゃいねえはずだが。」 じろりと横目に睨まれてしまえば、もう何も言い返せない。 動揺してしまって、あとはもう自己嫌悪しか沸いてこなかった。 本当は、自分でも思っていたから。こんなことをするのは、褒められたことじゃないって。 内心引け目を感じていたのだ。 勝手に土方さんの部屋に入り込んで、頼まれもしないのに仕事を片づけていたことに。 それでもこみあげてくる言い訳がましい反論を、ごくんと呑み込んで。きゅっと唇を噛んだ。 「・・・・すみませんでした。」 消えそうな声で謝ったら、他に言うことがなくなってしまう。 あたしはしゅんとしてうなだれた。 小さく舌打ちすると、土方さんはあたしの頭を容赦無く小突いた。 痛いっ、と呻いて頭を抱えるパシリに構うことなく、くるりと踵を返す。 「喰ったらこのまま部屋に引っ込め。これァ命令だ、いいな。今のうちに寝貯めしておけ。 クソ忙しい年末年始にパシリが使えねえんじゃ、意味無ェだろーが」 踏み出した土方さんの足が止まる。 言い忘れたことを思い出したかのように、また振り向いた。 「ああ。年始が過ぎたら好きにしろ。どこにでも行ってこい」 何を考えているんだか判らない醒めた目で、涙目のあたしを見下ろす。 そしてなぜか、ふっ、と厭味たっぷりな顔で目を細めた。 「そのツラのマズさを、医者が切った貼ったくれえで治せるもんならよ。 何の造作も無えからな」 半開きになっていた口が、凍りつく。引きつったまま動かなくなる。 口も聞けないあたしのことなんて構いもせずに、セクハラ仕事バカは隣のテーブルに着いた。 唖然と見ていた二人が、いそいそと茶碗を片付け出す。気まずそうに逃げていった。 頬が強張って仕方が無い。 というよりも、全身が怒りでビリビリと引きつってきた。 絶対そうだ。間違いない。 何よ。何が『先回りしすぎだ』だよ。嘘ばっかり。 あれだけあたしの仕事ぶりにかこつけておいて、何よそれ。 あんなのただの建前でしょ。本音じゃないんでしょ? ほんとは土方さん、あたしが気に喰わないだけなんだ。 「・・・土方さあぁぁぁん!」 「あァ?」 椅子を倒して立ち上がり、丼飯を掻き込んでいる人に駆け寄る。 すうっと息を吸い込んで、あたしは問いかけた。 「教えてください。あたしが何をしたんですか。 土方さんがそこまで根に持つよーなスゴい何かを、いつのまにしでかしたんですか!」 「んなモンねえよ」 間髪入れずに、ぴしゃりと言い返されてしまった。 しかもすごくうっとおしそうな、つまらねえことを訊くんじゃねえ、とでも言いたげな顔になってる。 丼飯を掻き込む手は止まらないし、こっちを見ようともしない。 「ウソつかないでくださいっ。何かあるでしょ、絶対あるはずだもん!」 「だからねえっつってんだろ。いい加減にしろ、しつけえぞ」 「ウソォ!絶っっっ対根に持ってる!持ってるじゃないですかァァ!!」 「うるっせェよ。つーか、おい、テメーこそ何持ってんだ!?」 テーブルに置かれたソースの瓶を掴み取り、あたしはキャップを投げ捨てた。 忌まわしいゲテモノ丼めがけてドバドバとソ−スをぶちまけると とたんに鬼は箸をテーブルに叩きつけ、血相を変えた。 「何しやがんだコラァァァ!!」 「何?何なんですかァ!あたしの何が、そんなに気に喰わないんですか!?」 「ああ気に喰わねーよ!テメーがぶちまけたソレが気に喰わねーよ!!」 ムキになった土方さんが立ち上がり、手からソースの瓶を奪い取られる。 喰えねえじゃねーかァァ!といまいましげに丼飯を突き付けられ、怒鳴られた。 『そんなゲテモノ、ソースかかってなくたって食えるかァァ!』 そう怒鳴り返したくなるのを爆発ギリギリでこらえながら、あたしは不満に頬を膨らませる。 「俺じゃねえだろ。てめーこそ何だ。気に喰わねえなら言ってみろ。」 「はァ!?」 「お前なぁ。自分が、腹ン中にこっそり鬱憤飼っておけるようなタマだと思ってんのか」 テーブルに丼を叩きつけるようにして戻すと、土方さんの手はあたしに向かって伸びてきた。 頬を掴まれ、伸びそうなくらい強く引っ張られる。 いつものことだ。口で言い返されるよりも先に、こうして手が伸びてくるのは。 なのに、ぎゅっ、と掴まれたら、あたしの身体はびくっと震えて固くなった。 それに気づいた土方さんが、だんだん苦々しい顔になっていく。 「部屋戻って眺めてみろ、鏡でよ。 そのマズいツラ映して、ちったァ考えてみろってえんだ。 どこも隠せちゃいねえんだよ。肩肘張ってこらえてんのが、見え見えじゃねえか」 あたしは黙って口を引き結んで、強張った顔で前を見上げた。 きっと、こういう態度が気に喰わないんだろう。 不愉快そうに眉を曇らせた土方さんは、頬から手を離した。 ぷいと背を向けると「何だってえんだ」と吐き捨てる。 「急に意固地になりやがって」 「・・・なってませんっ」 きつい口調で言い返すと、土方さんの背中が強張ったみたいにぴたりと固まった。 バンッ、とテーブルを平手で殴りつける。 その大きな音で、あたしの身体はまた強張った。 「なってんだよ。てめえにゃ見えてねえだけのことだ。 こっちは休みくれてやるって言ってんだ。素直に引っ込みゃ済む話じゃねえか」 「・・・・・いやです」 「あァ!?」 「いやですっっ」 ブンブンと首を横に振って、あたしは反抗的な態度を押し通した。 だけど内心では意地を押し通すだけで精一杯だから、うつむいたら瞼がじわっと熱くなってくる。 どうしよう。こんな時に。このひとの前では泣きたくないのに。 手の甲で閉じた目をこすって、沸いてくる涙を抑えつけるようにしながら、心の中で念じる。 落ち着いて。落ち着かなきゃ。 こんなところで泣いたら、もう何を言い返したって聞き入れてもらえない。 「・・・すみません。でも、いりません。休みなんて要らないですっ」 背を向けてそこから逃げ出した。 食堂の通路を抜けて、ざわついている人たちの間を無理やりに縫って走る。 前も見ずに扉を開けて飛び出したら、どん、と何かにぶつかった。 「おう、ここにいたのか。探したぞォ」 顔を上げると、近藤さんが立っていた。 不思議そうにあたしを見てから、食堂の中へ目を移す。 「ん?何だ、どうした。何かあったのか?」 「何でもねえよ」 呼びかけた声はあたしを飛び越して、いつにまにか後ろにいたひとに向けられていた。 食堂の扉をぴしゃっと閉めると、土方さんは何も言わずにあたしの横に並ぶ。 あたしと土方さんを見比べ、近藤さんは表情に疑問を浮かべて訊き返した。 「そーかァ?」 「あんたこそ何だよ。似合わねえモン提げてるじゃねえか」 「ハハハ、そうか、やっぱり似合わねえか」 そいつは違ェねえや、と手にしたものを顔の前に掲げて、近藤さんが笑う。 「似合わない」と言い切られたのは、リボンのかけられた箱だ。 あたしも時々買っている、近所のケーキ屋さんのもの。 「こいつはに買ってきたんだ。クリスマスどころか、もう年末になっちまったけどな」 クリスマス用のラッピングなのか、リボンには柊の葉の飾りが差してある。 赤いリボンの結ばれた箱が、目の前に差し出される。 それを見たら、あのときのことが目の前に浮かんできた。 クリスマスイブに、食堂で。 近藤さんが慌てていた様子も。 井上さんと永倉さんが懐かしそうに話していた姿も、一瞬で目に浮かんだ。 止まりかけていた涙がまた沸いてきて、瞼が熱くなってくる。目の前が少しずつ滲んでいく。 うつむいて一歩退いた。下がったら、食堂の扉に背中が当たる。 横には土方さんがいて、前にはケーキと近藤さんがいる。どこへも逃げられない。 すっかり追い詰められた気分になって、あたしはどうしようもなく泣きたくなった。 スカートの裾をきつく握って、唇を噛んで涙をこらえようとしたけれど。やっぱり涙が滲んでくる。 「それにまあ、その。・・・」 ちらっと土方さんのほうを窺ってから、少し気まずそうに笑って。 片手を顔の前に立てて、謝る仕草をしてみせた。 「あの時はすまなかったな。聞かせなくていいことまで聞かせちまって」 近藤さんは済まなさそうに頭を掻いている。 怪訝そうに見ていた土方さんが、何のことだ、とでも言いたげな顔でこっちを睨む。 睨まれたって、あたしに本当のことが言えるはずもない。 近藤さんも、雰囲気の悪さを薄々感づいているんだろう。まあ食べてくれや、と苦笑いで箱を差し出してきた。 受け取らなくちゃ。 受け取らないと、土方さんに変に思われる。また近藤さんに気を使わせてしまう。 そう思い直して、箱を受け取ろうとした。手を伸ばした。 なのに手を伸ばしかけたら、指が震えて硬くなる。横にいるひとの目が気になってしまう。 慌てて手を引っ込めて、大きくかぶりを振った。 「・・・貰えません」 「そうか貰えないかァ、って、・・・・え?」 「だって。貰えないです。 近藤さんにお詫びされるようなことなんて、あたし。・・・何も・・・・」 言いかけた途中で、唇が小刻みに震え出す。 我慢しようと唇を噛んだけれど、間に合わない。遅かった。 唇の震えと一緒に沸いてきた涙は、もう止めようが無く頬を伝っていた。 「っっっ!!?どどど、どーしたァ!?なっ、ええっ、何でェ!?」 箱を持つ近藤さんの手が、あたふたと揺れている。 なぜかその箱と手から目が逸らせなくて、あたしはぽろぽろ涙をこぼしながらまたかぶりを振った。 違うんです。ごめんなさい。 謝りたくても唇の震えを抑えるので一杯で、言葉にならない。 走って逃げればよかった。 近藤さんに呼び止められても、土方さんが追いかけてきても。 二人を振り切って、あのまま部屋に戻ればよかったのに。 今頃こんなことを思っても、もう遅いけど。 そう思ったら、なんだか可笑しくなった。冷めたような、皮肉な気持ちになってくる。 それでも涙は止まらなくて、涙腺が壊れてしまったみたいに溢れ続けている。 どうして今なんだろう。 クリスマスイブのあのときから、今日まで。 一人でこっそり泣いて気を晴らすくらいの時間は、いくらでもあったのに。 呆然としちゃうくらいショックだったのに、泣けなかった。 悲しくて仕方ないのに、どうしても涙が出てこなかった。 知りたくなんてなかった。 聞きたくなんてなかったのに。 あのときあたしは、どうして訊いちゃったんだろう。 あのときからずっとだ。 「ミツバさん」の名前は、あたしの頭から離れてくれない。 仕事が終わって部屋に戻ったら、頭はその名前で一杯になってしまう。 一人で黙って部屋に籠っていると、勝手に目に浮かんでくる。 見たことも無い女のひとが、土方さんのすぐ横で微笑んでいる姿が。 見たことも無いその女のひとを、どこかくすぐったそうな顔をして見つめている、土方さんの姿が。 「なっ、えええっ、ウソっ、俺ェェ!?俺のせいなのォ!?トトトシィ!!?」 「・・・さあな。俺も訊きてーよ」 涙腺が壊れたあたしに困ってしまった近藤さんは、どうしていいのかわからずにおろおろしている。 逆に土方さんは慌てるどころか、すごく面倒そうな顔で廊下の向こうに目を逸らしている。 しばらくじっと廊下を眺めてから、すっかり諦めきったような、投げやりな溜息をついた。 「悪りィ。ちょっと外してくれねえか。」 ケーキの箱を取り上げると、土方さんが不満気に口を曲げたままで廊下の向こうを目で示す。 言われた近藤さんが、ああ、と顔を強張らせて頷いた。 こっちをチラチラと振り向きながら、廊下の向こうへ歩いていった。 視界からケーキの箱が消えただけで、唇の震えはなぜかすこしずつ収まっていく。 でも、涙は止まらない。ほんとうに涙腺が壊れちゃったんだろうか。 足許に目を向けると、頬を流れ落ちた涙の粒がぽたぽたと廊下にこぼれている。 あれだけ反抗的な態度を張り通して、しかも言い逃げしたんだもの。 絶対土方さんは怒ってる。怒られるに決まってる。 身体を竦めて、土方さんが口を開くのを待った。 ところが、いくら待っても土方さんは何も言おうとしない。 沈黙が続くほどに、絶望的な気分になっていく。 ぐすぐすとすすり泣きながら、あたしは今度こそクビだと言い渡されるのかと怯えていた。 もしかして、口も訊きたくないくらいに呆れられたんだろうか。 もしそうだったら、どうしよう。今度こそ一番隊行き確定かもしれない。 そんなの嫌だ。怒鳴られて殴られるほうがまだマシだ。 「。お前」 「そんなの嫌ですうぅぅ!!」 「まだ何も言ってねェ!」 叫んでから、はっとして顔を上げた。 腕を組んでいる土方さんは、怒鳴りたいのをギリギリでこらえているような顔をしている。 部下のバカさに呆れて頭痛が起きたのか、眉間を抑えて肩を落とした。 「だって・・・・だって!また一番隊に行けって思ってるんでしょ?」 「一番隊だァ?んなもん知るか。何の妄想だ馬鹿パシリ」 「だって、この前からずっと怒ってたじゃないですかあぁぁ!」 だって、と口籠りながら見上げる。 涙がぽろぽろこぼれて、嗚咽が止まらなくなった。ぎゅっと目を閉じた。 視界が暗くなったら、なぜか心細くなってきて。もっと悲しくなってしまった。 嗚咽混じりに泣きじゃくりながら、これじゃ呆れられたってしかたないだろうと思う。 さっきから何を言われても「嫌だ」ばかり。逆らってばかりだ。 「・・・っく、め、命令されたってあたし、っ、ひっ、行きませんからっ」 「自惚れんな。てめえなんざどこにも出せねえよ」 頬を何かが掠めた。 それから目元に何かが当たる。そっと温かいものを押しつけられる。 くすぐったくて目を開けたら、すぐ前に手があった。 土方さんの手だ。親指の先が触れている。涙をゆっくり掬っていく。 触れられたことに驚いて、あたしは目を見開いた。 どうしていいのかわからなくて、肩を竦めて身じろぎすると 強張った反応に気づいたのか、土方さんの指がぎこちなく止まる。 逸らされたままだった鋭い目は、こっちを向いていた。あたしの目をじっと見ている。 唇がわずかに動いて、何かを言いかける。 途中で止まって、またぎゅっと不満そうに結ばれる。 「ガキくせえ理由で泣き喚くような馬鹿は、どこに置いたところで無駄死にするのが精々だ。 一番隊だけじゃねえ。どこへやったって、今のお前じゃ使い物にもならねえよ」 頬をぺしっ、と叩かれた。 叩いた手がごしごしと、濡れた頬を無造作に拭う。 なんだか悔しい。胸がきゅうっと縮んで、切なくて。苦しくなった。 自分が嫌になってくる。嫌になるくらいに解ってしまった。 このひとにとっては、多分。 ・・・ううん。きっと。 きっとあたしは、女じゃないんだ。 手を握ってくれたのも、何かと気にかけてくれたのも、こうして慰めてくれるのも。 あたしが女じゃないから。出来が悪くて文句ばかりの、半人前の部下だから。 出来が悪くて手のかかる直属隊士が女だろうと男だろうと、このひとは気にもかけないだろう。 けれどもしも土方さんが、あたしの気持ちを知っていたら。 たぶん、こんなふうに慰めてはもらえない。 すごく呆れるだろう。職務に私情を挟むようなヤツは使えない、って。 今までのことなんて無かったみたいに、一方的に関わりを断たれて。 最悪副長就きを解かれて、無言で遠ざけられるのかも。口も聞けなくなるのかもしれない。 嫌だ。そんなの嫌。傍にいられなくなるのは嫌。 このひとが誰を思っていてもいい。 この先あたしを見てくれる望みなんて、どこにもなくて構わない。 気持ちを誰にも知られないように、胸の奥に閉じ込めて。全部無かったことにしたっていい。 あたしの気持ちは届かない。 けれどあたしには、ミツバさんにないものがある。 このひとの傍にいるための、大事な鍵。 あたしの手に、このひとに拾われる前から握られていた鍵。 ミツバさんには出来なくて、あたしには出来ること。唯一のこと。 土方さんが思うひとには出来ないこと。剣を奮うことが、あたしには出来る。 もしもあたしが、ほんの少しでも。土方さんを支えられるような存在になれたなら。 土方さんが大事にしているものを護れたら。このひとを追いかけていけるだけの力があれば。 あたしはいつでも、このひとの傍にいられる。 遠い武州にいるひとよりも。他のどんな女のひとよりも、近くにいられる。 失くしたくない。 今の立場を。あたしに与えられた居場所を。 やっと見つけた大事な場所を、誰にも渡したくない。 邪魔されたくない。譲りたくない。どうしても手放したくない。 譲らない。譲るもんか。このひとの隣を、誰にも譲ったりしない。 覚悟は一瞬で、迷いようもなく固まった。 けれどその覚悟は、あたしを押し潰してしまいそうな重苦しさから解放してはくれない。 それどころか、後ろめたい気持ちと情けなさでいっぱいになった。 顔も知らない女のひとに抱いた、ちっぽけでみじめな優越感にすがって。無理に笑おうとする自分の姿が見える。 想像しただけで息苦しくなる。歪んだ顔の女が、笑ってる。 土方さんの目には、こんなあたしがどう映るんだろう。 口にしなくたって見透かされてしまいそうだ。 後ろめたさの裏に隠した、みっともない優越感なんて。簡単に見破られてしまうかもしれない。 それとも、とっくに見破られていたんだろうか。 嫉妬に歪んだ醜さが、知らないうちにあたしの顔には出ていたのかもしれない。 そう思ったら、目の前にいるひとの視線が急に怖くなった。 これ以上見られたくない。慌てて土方さんから目を逸らして、深くうつむいた。 「おい」 「え、っ、ひゃっ」 頭の後ろに手が回されて、強く掴まれる。そのまま引き寄せられた。 あたしは自然と前のめりになる。倒れそうになって悲鳴を上げた。 上げた悲鳴と一緒に、あたしはバタッと倒れ込んだ。土方さんの胸に、飛び込んでしまった。 「・・・・・・・勘違いすんじゃねえぞ」 びっくりしすぎて声が出ない。涙まで止まってしまう。 おそるおそる見上げようとすると、頭の天辺を抑え込まれる。 「これァ、・・・その。アレだ。泣いてる女に対する礼儀みてえなもんだからな」 抑え込んだ頭をポン、と叩かれ、慌てたような口調で念を押された。 もう泣くな。 ぼそっと低くつぶやいた声が土方さんの胸を通して、頬に響く。 普段のような鋭さも、棘もない。宥めるような静かな声。 響きが心地良い。瞼が、すうっと自然に閉じていく。 「・・・もう、駄目かも・・・・」 「ああ?」 なんでもないです、と答える代わりに首を振った。 きっともう手遅れだ。間に合わない。こんな気持ちを忘れたり出来ない。 解りにくい優しさに気づいたときの、胸が熱くなるような嬉しさも。 さっき触れられたときの、泣きたくなるような切なさも。 誰にも気づかれずに、閉じ込めておけるだろうか。 このまま無かったことにして忘れるなんて、出来そうにないのに。 こんなに近くにいて、こらえきれるのかな。 ほんとうに、このままで。ずっとこのひとの傍にいられるんだろうか。 せりあがってきた涙と一緒に、とりとめのない不安が身体に染みていく。 背中に腕を回して、手を隊服にしがみつかせて。 あたしは思いきり抱きついた。 抱きついた瞬間、土方さんが小さく息を呑んだのが、身体を通して伝わってきた。 「・・・・・か、勘違いしないでくださいっ。 違うんですこれは、あのっ。ただ、ええと、だから。 ・・・ちょっと、誰かに・・・・泣きついてみたくなっただけ、ですからっっ」 おろおろと言い訳すると、くくっ、と笑いをこらえる声が聞こえてきた。 頭を抱いていた腕が、肩を伝って背中へ降りていく。 もう片方の手は髪を撫でながら、あたしの顔をぎゅっ、と乱暴に自分の胸へ押しつける。 「・・・・っとにてめえは。・・・どうしてこうも、可愛気の無え」 「土方さん」 「あァ?ァんだよ」 「うるさいです。黙ってくださ・・・」 煙草の匂いと涙で喉が詰まる。息苦しくて、あたしは何度か咳き込んだ。 土方さんの手が、ぎこちなく背中を撫でている。 大きくて温かい手の、ぎこちない優しさが嬉しい。 なのに、撫でられるほどに優しくされることが辛くなって、嬉しくなるほどにさみしくなる。涙が滲んでくる。 そのまま涙が止まらなくなって、咳と嗚咽がこみ上げる。 抱きついた身体の、煙草の匂いを纏った温かさにむせかえる。 ぐずぐずとすすり泣き出したあたしに、どうした、と土方さんが問いかける。 何度も大きく頭を振る。 かすれて弱った声で、すみません、と謝った。 「ごめんなさい。でも。・・・少しだけ、黙っててください」 今だけでいいから。勘違いしたままで、いさせてください。 あたしは喉の奥でつぶやいた。ほんの少しだけ、小さく声が漏れた。 けれど。抱き合ったひとの胸に、あたしの願いは届かなかったんだろう。 土方さんは黙ったままで、返事は戻ってこなかった。

「 Close to you 」end text by riliri Caramelization 2008/12/26/ ----------------------------------------------------------------------------------- 次は現在 「純愛…」後。「いったい俺が何をした」です           next