終りの季節
「今日こそ聞かせてもらいやすぜ。オイ土方。オメエ、どーしてと別れたんでィ」 今日こそ俺も知りてえもんだ。 酒にゃ強くも無えくせに。どうしてこうも呑みたがるのか、このガキは。 隊服の襟元を緩めながら。 目先にグイっと突き出された割箸の先を、寸手に避けてかわす。 真選組副長、土方十四郎はいかにも迷惑そうな、醒めた目をして隣の男を眺めていた。 「言わねェと人質の命が無いぜェ。白状しやがれィ、この腐れマヨラァァァ」 摂取過剰な量の酒精に、目も頬も首筋もほんのり赤く染め。沖田がしつこく絡んでくる。 電話で「人質を返してほしけりゃあ、今すぐ飛んでこいやァ」と酔っ払いに呼び出され。 着けば着いたで、彼の隣に無理やり座らされてしまい。 土方は仕方なしに、手にした冷酒を啜っていた。 ちなみに今、沖田が「人質」と称したもの。 それは彼等の行きつけである、屯所近所の小さな飲み屋。 日々炊き続けられたおでんや煮物の匂いがしみついた、この古びた店の中にいる。 彼等が二人仲良く並んで座る、十に満たない幅狭なカウンター席。 その背後にある、閉店間際で客の引けた畳敷きの座敷の片隅に、彼女はいる。 そこにいるのは、土方とは切っても切れない縁の女。別れたはずが舞い戻ってきた、。 店の女将に借りた毛布を被り、まるで猫のようにころんと丸くなっている。 座敷へ振り返った土方が、眠る女の顔を眺める。 普段は淡い色に映る頬も耳も、今や沖田の比にならないほどに赤く染まっていた。 すやすやと、土方が来たことも知らずに眠りこけている。 手にした杯を口許に運び、ほどよく冷えた酒を含む。 土方は、呆れたような苦笑いを浮かべた。 「呑気なツラしやがって・・・」 こいつもこいつだ。 元からスキが多すぎるってのに、酒が入ればなおさら始末が悪い。 総悟に輪をかけた酒の弱さを、ちっとも自覚しやがらねえ。 目の届く範囲でなら、多少呑もうが気に留めないが。 ちょっと目を離したスキにフラフラと、どこまででも行きやがる。 これだからかなわない。 奢ると云われりゃ、総悟だろうがあの銀髪だろうが見ず知らずの野郎だろうが、 たいして考えもせずについていく。この悪癖はいただけねえ。 犬だの猫だの飼うように、きっちり躾けておけりゃあいいんだが。女相手じゃそうもいくまい。 どうにかならねえもんなのか。 考えるだけ無駄と知りつつそんなことを思案していると、彼の頬を何かがグイグイと突いてくる。 以上に躾の施しようの無い奴が、手にした割箸の先で突いていた。 俺の相手をしろ、と不満そうに口を尖らせて迫ってくる。 「なァーにを、ニヤケ面して見てんでェ。それより俺に答えろィ」 「酔っ払いの愚問に答えなきゃなんねえ筋合いなんざ、無ェよ」 「はっ、筋合いでも牛スジ煮込みでも、まとめてかかってきやがれってんだァ。 副長サンよォ。俺ァねえ、アンタに訊いてんでさァ。牛はお呼びじゃねェんだよォォォ」 「ああ。だな。牛も酔っ払いも俺も、お呼びじゃねーよ。 おい。つーかよ。どーして毎回俺だ?」 グイグイと押してくる割箸の先を掴み、土方はポイと投げ捨てる。 すると沖田はカウンターに置かれた、割箸の詰まったコップを胸に抱き抱え、新たな得物を抜き出した。 へらへらと笑いながら、眉間も険しく酒を啜る男の目を半分本気で狙い出す。 それを掴んだ土方が、再び背後にポイと箸を放り捨てる。 延々と、しかし淡々と繰り返される、小学校の給食時間並みに幼稚な攻防戦。 おかげで土方の背後の床はたちまちに、割箸だらけになっていった。 「エコ」などという言葉は、この二人の頭には当然無い。あるのは「やるかやられるか」それだけである。 時を同じくして武州を離れ、うんざりするほど見飽きた面を突き合わせてきたこの二人。 こうして攻防を繰り返していても、お互いの表情を窺うことなど一度もない。 そんな必要はないのだ。どのみち相手の思惑など、目を向けるまでもなく見え透いているのだから。 「他にいんだろ他に。山崎も永倉も非番じゃねえか。 あいつら呼べよ。なんで俺だよ。ったく・・・悪酔いするたびに呼び出しやがって」 「あんだァ?答えられねーってのかよォ。ったくよォ。これだからヘタレはいけねーや」 「誰がヘタレだ誰が」 カウンターの向こうから、すっと酒肴の小鉢が差し出される。 受け取った土方と目を合わせると、割烹着姿の店の女将は口許を抑え、くくっと笑った。 絡む沖田と絡まれる土方の様子が、どうにも可笑しかったらしい。 福々しい顔に笑みを浮かべたままでカウンターに背を向けると、流しに溜まった洗い物を片付け始めた。 店に残った客は、既に彼等三人だけ。だが帰りを急かすような素振りもない。 こっちの片付けが残っているうちは、好きなだけいたらいいさ。そんな笑顔だった。 「しょーがねェなァ、ヘタレ土方さんよォ。まァ仕方ねェ。たまには気ィ遣ってやらァ」 「お前が俺に、気遣いだァ?」 「まァまァまァ。遠慮すんなィ。ほら、これでも食いなせェ」 散々に食べ散らかした、食いかけの煮物の器を押しつけられる。 土方は憮然と押し返した。 「どーせ毒でも盛ってあんだろ」 「まァまァまァ。人の好意は素直に受けとくもんですぜィ」 「一服盛るのが好意たあ、言わねえぞ」 「これだから。器の小せェ男は困る。 毒を食らわば皿までも、って言葉もあるじゃねえですか。 男だってんなら、俺の好意も皿ごと受け取ってみやがれィ」 「んな腹にもたれそうな好意、要るかよ。皿ごと返す」 「何をモタついてやがるんでェ、あんたァ」 「あァ?」 「万事屋にまで殴り込んだくせによォ。どーしてあんたァ、と撚りを戻さねえんでェ」 小鉢へと伸ばした箸が、ふと止まる。 しかし土方は、それ以上の戸惑いを見せることがなかった。 酒肴の和え物を口に放り入れながら、普段通りの素っ気なさで沖田に返す。 「それこそ要らねえ気遣いじゃねえか」 「ほらほら、吐きやがれ。俺ァ、テメーのそういう構えたところが気に食わねーんでィ」 「気が合うな。俺もお前のそういう生意気さが気に食わねーよ。・・・おい総悟。聞いてんのか、てめェ」 「心配すんねィ。しっかり聞いてらァ」 口ではそう言ったものの、沖田は今にもカウンターに突っ伏しそうに頭をユラユラとふらつかせている。 目は半分閉じているし、緩んだ口元からは今にも涎を垂らしそうだ。 どうやらもう一匹、泥酔い猫が増えそうだ。 近所と思って歩きで来たが、あいつにこいつまでは背負えねえ。 誰か呼び出すか。 携帯を取り出そうと、懐に手を入れる。 ついでに出した煙草を咥え、火を点けたところで。ゴン、と鈍い音がした。 隣の沖田だ。カウンターの分厚い一枚板に、頭をもろに打ち付けたらしい。 最初こそ痛そうに唸っていたものの、そのままそこへ伏せてしまって、動かなくなった。 これで猫は二匹になった。 はあ、と諦めの溜息をついた土方が、携帯の画面を開く。 ボタンを一度押したところで、誰を呼ぶかを考え始める。すると。 「ヘタレのくせに。カッコつけてんじゃねーよ」 「・・・寝言にしちゃあ、はっきりしすぎちゃいねえか」 「あんたじゃねえんだ。寝言にして誤魔化せるほど、俺は構えちゃあいられやせんぜ」 手に持ちっ放しだった箸を、ブン、と土方の目の前に突き付ける。 頭はカウンターに伏せたまま、沖田は酒に潤んだ目をじろりと彼に向けてきた。 「どんだけ自信があるってェんでェ。悠長に事を構えすぎじゃねーですかィ、あんたァ。 いくらが・・・、まだ撚りを戻さねえ、ってごねたからってよォ。」 女ってえのはどれも皆、口に戸が立つってことが無い。相手構わず、所構わず。ぺらぺらとよく喋りやがる。 解っちゃいるが、酔っ払い猫。少しは相手を選べってえんだ。 開いた携帯をまた閉じる。 それから、突き出された箸を酔っ払いの手からもぎ取った。 パシッとカウンターに叩きつけるようにして置くと、土方は強い口調で訊き返す。 「こっちも訊きてえもんだな。おい。寝言で誤魔化すってえのは無しにしろよ」 そう言いながら、女将に向けて声を掛ける。 頷いた女将が、冷蔵庫から彼専用の、一風変わったボトルキープの品を取り出した。 カウンターに載せられたそれは、酒ではない。言うまでもなく、例の調味料である。 「そこまで知ってて、お前。何が不満だ?」 伏せたままの酔っ払いが、彼を見上げて眉を曇らせる。不満に口を尖らせた。 今では酔いの回ったときくらいにしか見せなくなった、その表情。 そこにはいまだに、沖田の素顔の燐片が残っているように土方には思えた。 この酔っ払いの身の丈が、今の半分だった頃。 小さな背筋をがむしゃらに伸ばし、何かと俺に噛みついていた。 幼い沖田の顔に似合わぬ意地の張りようと、ガキ臭い悪行の数々を思い出す。おかしくなってふと笑った。 「渋ってんのは俺じゃねえ。 あいつが俺のとこには戻らねえ、って渋ってんだぜ。お前にゃ好機だ、喜べよ」 「はっ。だァーからてめえはカッコつけだってんだァ。見せつけてんじゃねーよ」 「・・・お前よォ。最近、酒の絡みがしつこくなってきやしねえか。 そこまで近藤さんに右習えして、どーすんだ」 絡み酒なこいつと大将。 後ろで寝ているあの猫は、酒が入ればなお煩い。 どうして俺の周りにはこうも、酒癖の悪い奴等ばかりが集まるのか。 自分の味覚の癖の悪さは、すっかり棚に上げて。 ……というよりも、その癖の悪さをいっこうに自覚する気配すらなく、 酒肴が見えなくなるほどの、多量のマヨネーズをぶちまけながら。 土方は心中で、しみじみと嘆いた。 「・・・あんたもあんたで、もだ。さっさと元に収まりゃいいもんを。 どこをどうすりゃ、今まで通りでいようだなんてことになるんでェ」 「知るか。俺に訊くな」 「だァーから、構え過ぎだってんでェ・・・」 ぐったりとカウンターに伏せたままの沖田の目が、何か言いたげにじっと土方を見上げる。 やれやれ、と馬鹿にしたようにつぶやくと、そのままうつぶせになって顔を埋めた。 ふーっ、と深く息を吐き、肩を落とす。 「・・・あんたが無理にでも引っ張ってやりゃあ、だって。無碍には出来ねえだろうに。 そうやって構えて、勝手にすりゃあいいって顔してられたらよ。戻りたくても戻れやしねえさ。 が別れるって言い出したときといい、今といい。あんたァ、引き際が良すぎるんでェ」 店の暖気に温くなりかけた酒を飲み干し、土方が隣をちらりと見下ろす。 沖田の言おうとしていることが、解らないわけではない。 しかしその問いかけに返す肯定も、否定も。返さない理由も。彼の口に上ることはなかった。 「総悟。」 「・・・・ァんでェ」 「あれァ、てめえに何言った」 「あれってえのは何でェ」 「あれったらあれだ。そこで寝てんじゃねーか」 「んだよ聞きてーのかよ。聞きたきゃ焼きそばパン買って来いや土方ァ」 「絡むな。いーから言え」 「・・・コーヒー牛乳も忘れんじゃねーぞ」 「言え。後で買ってやっから」 「・・・ちっ。」 何度か舌打ちを繰り返した沖田が、ブツブツと聞こえない何かをつぶやく。 それ以上に詰め寄ることもなく、土方は手酌で酒を注いでいる。 絡み好きな酔っ払いが動かなくなると、店の中はとたんに静けさを増した。 カチャカチャと小さく、女将が洗う皿の音が響く。 明日の下ごしらえらしい煮物の鍋から、くつくつと煮える柔らかな音がする。 白く昇る湯気に流れて、ふわりと漂う甘い醤油の香り。 点けっ放しの年代物のテレビからは、小さな音が漏れている。 頬杖をついて辺りを眺めているうちに、瞼が重くなっていく。 屯所にいては味わい難い。欠伸の出そうな気だるさだ。 自然と眠さに包まれていく感覚に、鍋から登り立つ湯気のように包まれる。 生暖かく、空気の緩んだ静けさだ。 離れているのに、丸くなって眠るの小さな寝息まで聞こえそうな気がする。 俺にはどうもピンとこねえが。おそらくはこんな気配を、平穏と呼ぶのだろう。 「笑うんでさァ。まだ戻れねェ、って。」 掠れた細い声が、隣からぽつりと聞こえる。 眠ったはずの酔っ払いは伏せたままで、寒そうに肩を竦めて身じろぎをしていた。 「まだ戻れねえ。今の自分じゃ、あんたの隣にゃ立てねえんだと。 発作が治ってあんたの役に立てるようになるまでは、真選組には戻れねえんだ、って」 「ああ」 気の無い相槌を打ってから、背後を振り返る。 眠るの顔は、包まれた毛布に埋もれて見えなかった。身体をぎゅっと、ちいさく丸めている。 ただ寒がっているようにも見える。だが。 その姿が土方には、迫るものから身を潜めてやり過ごそうとしているようにも見えた。 「あれァ、の本心じゃねえ。・・・どこか足りねェ。嫌な笑顔さァ」 突っ伏したままの酔っ払いが、肩を揺らしてゲホゲホと咳き込む。 聞こえてきたのは、酒に潰れて掠れた声。喉が詰まって苦しげだった。 「・・・あんなツラさせるために、旦那んとこへ転がり込んだんじゃ・・・ねェや・・・」 こいつはこんな声だったろうか。 いつの間にこんな、いっぱしの男のような口をきき始めやがったのか。 ガキでいられる時間なんて。 終わってみれば、いかにもあっけないものだった。 てめえがガキだと気付く間も無い。無残なまでの短さだ。 あと三年もすりゃあ、こいつのこんな姿を見ることも。もう、なくなるんだろうか。 店の灯りにうっすらと透ける、色素の薄い沖田の髪。 その色は、眠りかけているこの酔っ払いとは違う面影を、彼の目前に一瞬で引き寄せる。 気合いづけに一発殴ってやろうと伸ばしかけた手が、ぴたりと止まって宙を掴む。 中途半端に浮いた手の行き場を求めて、土方は煙草の箱を取り上げた。 「総悟」 「何でェ」 「お前。背ェ伸びねェなあ。」 「・・ぁんでェ、そりゃ。・・・馬鹿に・・・すんね・・・ィ・・・」 云いかけたままに声は萎み、言葉は途切れた。 伏せたままで眠ったらしい。 肩がすうっと緩んでいって、規則正しい寝息に合わせて上下し始める。 その様子を眺めながら、灯した煙草を口に含む。 吸った煙が喉を巡って、身体の奥深い底へ落ちていく。 懐かしさに嗅覚をくすぐられるような、店に漂う煮物の匂いと混ざっている。 「言ってやりゃあいいじゃねェか。ついて来いってよォ。あんたらしくもねェ。 ・・・・・・・いや」 眠ったはずの酔っ払いには、まだ言い足りなさが残っていたらしい。 ガン、とカウンター下の壁を蹴る。 続けて三回打ち鳴らすと、音は止んだ。 「違ェな。うんざりするほどあんたらしいや、土方さん。 姉上と同じだ。 そうやって気ィもたせて、散々待たしといたくせによォ・・・」 珍しく強張った、感情の滲んだ声で沖田が言い詰める。 そして彼が黙ってしまえば、互いに続ける言葉も無く。ぎくしゃくとした無言が続いた。 煙を吐いた土方が、何かに吸いこまれるような表情で、目を伏せる。 捉われた何かを、しかしすぐに振り切ったらしい。 普段通りの無表情さで目の前を見上げた。 女将は皿を洗い終え、鍋蓋を手に煮え具合を確かめている。こちらを窺うことも無い。 横に目を移してみれば、沖田はぴくりとも動かない。 テレビからの笑い声が、妙に遠く聞こえる。 くつくつと、鍋から湯気の吹く音がする。 店中に漂う生暖かさと、湯気に曇った平穏さが 二人の間に空いた苦さを、かろうじて埋めていた。 「・・・ふぁあ・・ァ」 力無く短い欠伸をすると、沖田はその顔を土方へと向けた。 眠そうに潤んだ眼は細く開けられ、煙草を咥えた男を眩しげに睨む。 「いつまでもそうやって余裕こいてっと、横から一気にかっさらいやすぜ」 「やってみろ。やれるもんならな」 鼻先で笑った土方が、眠るに振り返る。 眠る女は、丁度寝返りを打っていた。 毛布に埋もれていた顔が覗き、ふう、と小さく寝息をつく。伏せた睫毛がぴくりと揺れる。 ふにゃりと緩んだ表情は呑気そのもので、まだまだ目覚めそうにもない。 まるで童女だ。 そう思いながら眺めた男の顔も、わずかに緩む。 さっきは苦しげに見えたはずの丸く縮んだ身体も、今は強張りから解かれたのか。 幾分か緩んで見えた。 「やるだけ無駄だ。あれァ、俺に惚れてんだ。」 眠る女を眺めながら、当然のようにしれっと言い切る。 事も無さげなその言い切りようが、いつにも増して腹立たしい。 沖田は憎たらしげに目を光らせた。 「・・・・・フン。いつまでほざいていられるかねェ。」 「るせえ。少なくともテメェにゃ負けねェよ」 「へいへい。じゃあ、誰になら負けるってんでィ」 「もういねェ」 「オイオイ。天狗がいるよ天狗が。天狗がほざいたよ調子こいて」 「いねえ。こっち側にゃ、もう。いねえんだよ」 短くなった吸い殻が、灰皿で潰すように揉み消される。 それを見つめる土方の顔は、いつになく茫洋として静まっている。 「敵わねェのはよ。もういねェ奴だ。 いねェ奴にゃ敵わねえ。生きてるモンがどうあがいたって、一生敵いやしねェんだ。」 沖田の表情がわずかに変わる。 戸惑ったような、測りかねたような。常の彼には無い表情をちらつかせた。 「神妙なこった。そんな言い草、あんたのガラじゃねェや」 「ああ。」 ふああ、と大きな欠伸を噛み殺した沖田が、潤ませた目を閉じる。 ふたたびカウンターに顔を伏せて、動かなくなる。だが。 隣の男には気づかれないよう、伏せられた顔は悔しげに唇を噛んでいた。 野郎に言われたせいじゃねえ。 酒が入り過ぎているせいだ。 目に浮かんできたあの、ほっそりとして優しげな面影に。むせかえったように喉が詰まるのは。 揉み消してもなお燻り続ける煙が、灰皿から薄く昇っている。 その向こうを仰ぐようにして、土方がじっと眺めていたのは。沖田も浮かべた淡い女の面影と。 そして、もう一人。 沖田には見覚えのあるはずの無い、その男。 土方の目の前では煙に紛れて朧げに、その姿を成していた。 「ぁアんだよ。車があるなら先に言えってんだ。つーかよ。おい、誰に運転させる気だ、テメ」 長居していた飲み屋が暖簾を仕舞い、看板の灯りを消した頃。 店裏に停めてあったパトカーを前に、若干酔いの回った土方は沖田の背中に無遠慮な蹴りを入れていた。 蹴られたほうは酔いの回りが深すぎるのか、 普段であれば即座に十倍返しするところを、へらへら笑うだけでやり過ごしている。 夜更けの寒さにも騒がしさにも、いっこうに目が覚めないらしく は、土方に担がれたまま眠っていた。 「・・・ひじかた・・・さぁーー、・・・。」 開いたドアから車に乗り込み、担いだ女をシートに下ろす。 無造作に降ろされシートで弾んだ身体は、土方に絡みついて離れようとしない。 面倒そうな顔で彼が腕を外そうとすると、いやいや、と拗ねた顔で大きくかぶりを振った。 泥酔しきって正体もなくしているとはいえ、相手は惚れた女だ。 しがみつかれれば悪い気はしないし、頭のひとつも撫でてやりたくはなる。 ・・・・・なるのだが、しかし。いや、ちょっと待て。 の髪に触れる寸前で思い直し、わずかに後ろを振り返る。 背後で読めない表情を浮かべているもう一人の酔っ払いと、目が合った。酔いが退く思いがした。 こいつの前で絡まれたって、面白くもなんともねえ。 あっさり出た結論に従って、土方は絡みついてくるの腕を掴んで解く。 車から降りると携帯を取り出し、問いかけた。 「おい、今日の夜勤。原田んとこだったよなァ?」 「違いまさァ。藤堂さんですぜ」 「違げーだろ。テメ、ガキみてえな嘘つくんじゃねーよ。解んだよテメーの嘘は。ぜっっってー原田だろ」 「だから違うっつってんだろォが土方よォ。藤堂ったら藤堂でェ」 「ぬかせ。原田だったら原田だ。あー、今思い出した。ぜっっってーーー原田だ」 「解ってんならガキみてーに聞くんじゃねーよ土方ァ」 「うっせえ。この寒さに泳ぎてェのか、コラ」 酔いの醒めた鋭い視線が、目の前に流れる川へと注がれる。 取り出した携帯を土方が耳に当てると、横から伸びてきた腕がそれを奪い取った。 読めない笑みを被った沖田が、ボタンを押す。コール音が途切れた。 「これからもう一軒。どうですかィ」 「はどーすんだ」 「大丈夫でさァ。俺が膝に抱いて寝かせときまさァ」 「そーか。そんなに斬られてェか」 「はっ。やれるモンなら、やってみなせェ。」 飽きるほどに見慣れたツラが、含み笑いで「遊んでくれよ」と誘いをかけてくる。 隊服のポケットに土方の携帯を捻じ込み、寒そうに肩を竦め。 それでもふてぶてしく笑っている。 奇妙なものだ。 それとも存外、俺にも酔いが回っているのか。 前にいるのは酒気の抜け始めた、いつもの澄ました笑い顔だというのに。 見慣れたはずのそれがなぜか、どこか目新しく見慣れないもののように、今の土方の目には映った。 笑う沖田の口許から、冷えた吐息が白く煙る。 そのようすが、やたらとはっきり目についた。 店の中で味わった、緩んで生暖かい平穏さは、酒気と一緒にあっという間に抜けていく。 身体と一緒に、頭まで冷え始めたらしい。 沖田の髪が、真夜中の木枯らしに煽られて舞い上がっている。 冷えた肌をかすめて吹き抜けていく、刃のように鋭くて乾いた風が。季節の変わり目を報せて過ぎる。 吐く息の白も、日毎に濃さを増してきている。気づけば風向きも変わっていた。 凍てつく季節の前触れだ。冬がもう、そこまで来ている。 共に田舎を捨て、江戸へ出て。 どれほど季節は過ぎたのか。 こうして顔を付き合わせるのもうんざりするほどの、長い時間を隣で過ごすうちに。 もうどれだけの冬が、俺達の前を通り過ぎたのか。 数え忘れるほどの季節が、こいつの背丈を伸ばして。幼さを薄めながら去っていく。 これがガキでいられる時間も、おそらくはあと僅かなのだろう。 どうやら終わりは近いらしい。 湿った生温さに浸された思いが、今更に頭を過っていく。 柄にも無え。 どうせこれも、まだ酒が残っているせいに違いない。 それだけでも無いだろうことを、薄々は感じつつ。鈍った頭を叩き起こそうと、土方はこめかみをきつく抑えた。 くだらねえ、生温い感慨ばかりが浮かぶのは、 俺がとっくに、その季節を通り越しちまったからなんだろうか。 それとも。腹の奥では、ひそかに案じていたとでもいうのだろうか。 この気に喰わねえ、生意気なガキの行末を。どこまでてめえの目で見届けられるのかを。 いや。どっちにしたって笑い草だ。柄でも無えことにかけては、どこに違いがあるというのか。 木枯らしが吹き抜ける間に行きついた手短な結論が、彼に乾いた笑いを運んでくる。 ふと視線を上げてみれば、うんざりするほどに見飽きた顔が目に入る。 寒さに肩を竦めながら、気味が悪そうにこっちを眺めていた。 「・・・んな時間に、開けてる店もそう無えだろう」 「ありやすぜ。閉まってたって開けてみせまさァ」 「テメエが奢れよ」 「オメーが奢りやがれ土方」 「ウルセエ息の根止めんぞオラ、地獄見せんぞ」 「そりゃいいや。先に行って待っててくだせえ、土方さん」 扉の開いたパトカーから、沖田が素早くバズーカを担ぎ出す。 爆音が、静まりかけていた夜更けの繁華街に轟く。 それに混ざって、土方の怒号が鳴り響く。 開いたままのパトカーの扉。 その奥では、眠るがふにゃふにゃと、寝言混じりの何かを緩んだ笑顔でつぶやいている。 華々しく咲いていた、ネオンの洪水も消えかけて。しかし未だ、夜明けには遠い繁華街。 男二人の賑々しくも楽しい宴は、今日もこうして更けていった。
「 終りの季節 」text by riliri Caramelization 2008/12/11/ ----------------------------------------------------------------------------------- 次は過去編 「かわいいひと」のつづきでクリスマス。 next