片付かずに持ち込んだ書類の束。 吸い殻で一杯になった大きな灰皿。 あの部屋の机は、いつもそのふたつに埋もれている。 あの部屋の灯りは、屯所のどの部屋より遅い時間に消える。 一緒に眠ったはずなのに、目が覚めると隣には誰もいない。あのひとは机の前に座ってる。 書類を難しい顔で眺めている横顔を見ているうちに、あたしはうとうとしてまた眠りに落ちる。 「どんなに頑丈なひとだって、これじゃいつか倒れますよ。それとも書類と吸い殻に埋もれて死にたいんですか」 風邪をひいて熱が出ても休もうとしないから、心配になって。ついきつい言い方をしてしまった。 なのに、あのひとは珍しく笑った。 「悪かねえ。そいつァ、俺にしてみりゃ随分上等な死に方だ」 そんなことをいつになく楽しそうに言うから、聞いたあたしは泣きたくなった。



純愛狂騒曲!

9

崩れそうでなかなか崩れない、吸い殻が高い塔になってる大きな灰皿。 屯所にいた頃も、辞めてからも。その中身を片づけるのはあたしの役目で。 いつも灰がまわりにぽろぽろ零れていて。どうして火事にならないのか不思議なくらいだった。 危ないと言うたびに、あのひとは面倒そうな顔になる。 「俺がやるこたねえだろ。お前がいりゃあ片付くじゃねえか」 そう言って、ほらよと灰皿を突き出すだけ。 あの灰皿はどうなっているんだろう。誰が片付けてるんだろう。 ピチャッ、と跳ねる水の音。 肩に当たった雫の冷たさで、あたしは我に返った。 天井から落ちた水滴が、肩に当たって跳ねたらしい。 目を開けると、ふわふわと立ち昇る湯気の中。 あたしの身体がつかっている湯船の前で、神楽ちゃんが髪を洗ってる。 いつからここにいるんだろう。 どうしちゃったんだろう、あたし。 いつのまにかお風呂に入ってるし。 旦那と総悟と神楽ちゃんと、四人で晩御飯を食べていた。そこまでは覚えているけれど。 ・・・・そういえばさっき、神楽ちゃんに一緒に入ろうって言われて。 万事屋のお風呂を借りたんだっけ。そんなことまで、すっかり忘れてた。 あれからずっと、思い出していたのは土方さんのことばかり。 定春の散歩から戻った後の記憶が、ぼんやりしている。全部うろ憶えだ。 帰ってからは何をしていたんだろう。ご飯は何を食べたんだっけ。総悟はいつ来たんだろう。 「はあの男のこと、嫌いになったアルか?」 髪を洗い終わった神楽ちゃんが、湯船に入ってきた。 「浮気か?浮気されたアルか?」 「え、違うよ神楽ちゃ」 「不倫?不倫ネ!相手は人妻アルか?」 「・・・は?」 「わかった!水商売の女にはまったネ!風俗嬢に貢いでるアルかあの男!! ドロドロの愛憎模様ネ、絡まりあって抜け出せないグチャグチャな三角関係ネ!しびれるネ!!」 「・・・神楽ちゃん?またゴミ置場でレディースコミック拾ったの?」 「ワクワクネ!!いつ行く?いつ乗り込むネ、風俗嬢のところにいつ乗り込むネ! 私もついていくネ、オトナの汚さをこの目でマジマジと見学させてもらうヨ!!」 期待に目をキラキラ輝かせた神楽ちゃんが、抱きついてきた。 胸に顔を寄せて、すりすりしてくる。すごく可愛い。でもこの膨らむ期待感には応えられそうにない。 「あのね神楽ちゃん。いないからねそんなヒト。風俗嬢のお姉さんもみだらな人妻も」 「二股か!風俗嬢と二股かけられたアルか。可哀想ネ!」 「土方さんはそんなコトしてませんんん!!」 「そんなことナイネ。が気づいてないだけネ。 男は家を出たら千の仮面を被るネ。まるっきり別人ネ。の知らないトコロで風俗嬢と」 「してませんんんん!!土方さんはねえ、意外とマジメなの!!そーゆーコトしないの! てゆーかそういうトコに行く暇なんてないし!」 「そうアルか?」 「そうだよっ。ほんとに忙しいんだもん、あのひと。 時々ね、夜中までご飯食べてない日とかあるくらい、で・・・・・」 毎日きちんと食べてるのかな、ご飯。 また忙しいからって、食べずに部屋に直行してるんじゃないのかな。 いつもと変わらない、何も無かったような顔して仕事してるって、総悟は言ってたけど。 それって無理がある。あたしを探しながら、いつもどおりの仕事をこなしてるってことになる。 そんな時間あるのかな。時間の余裕なんて無いはずなのに。 「やっと言ったヨ」 「え?」 「、やっとあの男の名前言ったヨ。朝から一回も言わなかったヨ」 顔を上げた神楽ちゃんが、不思議そうに首を傾げた。 「おかしいネ。らしくないネ。いつもは、十分に一回『土方さんがね』って言うネ。 なのに今日は一回も言わないネ。それ変ヨ。すごく変ネ」 「・・・そんなに言ってた?」 うんうん、と何度も神楽ちゃんは頷いた。 頷くたびに、ぽたぽたと髪から雫が湯船に落ちる。 湯船に出来る波紋を見ているうちに、またさっきのあのひとの顔を思い出した。 「わからないアル。愛想つかして逃げてきたんじゃないアルか?」 あたしはううん、と首を振った。前髪の先から飛沫が飛んだ。 水面に、透明な輪が生まれて消える。たくさんの波紋が、重なっては散って、消えていく。 でも、頭の中に浮かんだあのひとの姿は消えてくれない。 「・・・そうじゃないよ。違うの。土方さんが嫌いになったんじゃないの」 嫌われるのは、確実にあたしのほうだろう。 いつか嫌われるんじゃないかって思ってた。ずっと怖かった。 勝手に不安になって、あのひとを疑って。そういう自分が嫌だった。 「あたしね。自分が嫌いなの。だから逃げてきたの。」 あのひとじゃない。あたしが嫌いなのは、あたし。 弱いあたしは、弱い自分をみていられなかった。 直視するのが辛くなって、逃げだした。何から逃げているのかもわからずに。 今はまだ傍にいられる。でも、それがずっと続くだろうか。 何の役にも立たないあたしを、傍に置いたって意味がない。邪魔になるだけ。 そう思う日が来るかもしれない。 土方さんに誰か、好きなひとが出来たら。あたしの居場所なんて一瞬で消える。 目の前の水面で広がる、このちいさな波紋みたいに。あっけなく消える。 まだあのひとの傍にいられるのが嬉しくて。だけど、嬉しいのと同じくらい不安になる。 打ち消そうとしても、何度も浮かび上がってくる不安。耐えられなくなった。 勝手に怖くなって、勝手に怯えて。あのひとを疑ってしまう自分が嫌になって。 刀と隊服を置いて、あのひとの机に煙草をたくさん詰めて。屯所から逃げた。 逃げたときは、まだ気づいてなかった。 あのひとから離れなくちゃいけない。この息苦しさから逃げたい。そんなことばかり思っていたから。 一緒にいてもあのひとのためにならないから。邪魔にしかならないから離れる、そう思ってたけれど。 あたしは自分のことしか考えてなかったのかもしれない。 だって、あのひとのことを考えているなら、手紙を置いて飛び出したりなんて出来ない。 迷惑かけるに決まってるのに。どうしてあんなこと、しちゃったんだろう。 じっとこっちを見ていた神楽ちゃんが、不服そうな顔つきになった。 湯船の隅に浮かんでいた黄色いアヒルをつつきながら、口を尖らせる。 「変ネ。私、わからないアル。が逃げることないネ。 自分が嫌いだと一緒にいられないアルか?」 「・・・・うん」 「どうして?どうしては自分が嫌いアルか」 「・・・どうしてなのかな。・・・自信が無いから、かな」 「ジシン?」 「うん。ぜんぜん無いの。自分に自信が無いし。・・・好かれてる自信も無いし」 こっちに泳いできたアヒルをつついてみる。 ぷかぷか大きく揺れるアヒルが、目の前でくるりと背を向けた。 「土方さんと一緒にいてもいいのかなあって、思っちゃうの。好きだって言われたことないし。 彼女にしてもらったのだって、・・・行き当たりばったりってゆーか、成り行きってゆーか・・・」 「成り行きで出来ちゃったアルか?一夜の過ちで出来ちゃった婚アルか? 恋愛期間もプロポーズも結婚指輪も無しアルか?」 「・・・やっぱりレディコミ拾ったでしょ神楽ちゃん」 「銀ちゃん、レディコミ買ってくれないネ。ジャンプしか読ませてくれないアル。 ジャンプなんて毛の生えてないガキと、天パのダメモジャが読めばいいネ!」 やっぱり大人の女はレディコミネ、ゴミ置き場は宝の山ヨ。 アヒルにお湯をかけて揺らしながら、神楽ちゃんが大きく頬を膨らませる。 ゴミ置き場で神楽ちゃんに拾われた雑誌と、街で土方さんに拾われたあたし。 どっちも拾われたことに変わりはない。でも、どちらかといえば雑誌を拾うほうが得だろう。 ホームレス状態だったあたしなんて、きっと神楽ちゃんが拾ったレディコミ以上にボロボロだったはず。 ボロボロな女を拾ったって、いいことなんてないのに。それでもあのひとは拾ってくれた。 あのときのあたしは、何を思っていたんだろう。どこで土方さんに拾われたんだろう。 土方さんに拾われた頃のことが、あたしはいまだによく思い出せない。憶えているのは、死にたいと思ったことだけ。 どうして思い出せないのかも、わからない。 これまでも、何度かあのころの記憶を辿ろうとした。けれど掴めたことがない。 浮かんだ記憶のかけらは、いつも朧げですぐ逃げる。目の前で霞んで、消えてしまう。すぐそこにいるのに掴めない。 あのひとと同じだ。 いつでもあのひとはどこか遠かった。傍にいるのに、あの眼は遠くを映してる。 遠すぎる視線の先に、何が映っているんだろう。そこにあたしの居場所はあるんだろうか。 ほんとは知りたかった。訊いてみたかった。 だけど一度も訊けなかった。知ってしまうのが怖かったのかもしれない。 「・・・あーあ。やっぱり・・・そうなのかなぁ・・・」 「どうしたアルか?」 「・・・土方さん、拾ったモノを捨てられなかっただけなのかも。 あたしがあんまりしつこかったから。だから、仕方なくつきあってくれただけなのかも。」 不思議そうに目を見開いている神楽ちゃんに、なんとなく笑いかけた。 笑いかけたら苦しくなった。なんとなく笑っただけなのに、なぜか苦い気持ちになってしまう。 自分から言い出したことなのに。認めたくなくて、苦しくなる。 拾われた恩返しだなんて言いながら勝手に懐いて、いつのまにか好きになっていた。 まとわりついてくるのを嫌そうに眺めていても、あのひとがあたしを完全に突き放すようなことはなかった。 だからもっと好きになって。気持ちを抑えきれなくなって、困らせてしまった。 あのひとの優しさに甘えていた。今と同じだ。 付き合っていたときも、別れてしまってからも、ずっと気になっていた。ずっと引け目を感じてた。 このひとはあたしを不憫に思って、ただ甘えさせてくれているだけなのかもしれない。 行きがかりで拾ってしまったヤツを、見捨てられなかっただけなんじゃないのかって。 さっき探しに来てくれた時だって、心のどこかでそう思った。 もしかしたら土方さんは、あたしを拾ったことにまだ責任を感じているのかもしれない。 偶然拾ってしまったヤツを、放っておけなかっただけなのかも。そんなふうにしか思えなくなってる。 「やっぱりわからないヨ。ただ一緒にいるだけじゃダメアルか?」 神楽ちゃんがアヒルのお尻を指で押していく。 目の前に来たアヒルを指して「コレ私ネ、お湯が宇宙ネ」と言った。 「私、自分の星からココへ来たヨ。今、私の居場所はココネ。 ダメなオッサンとダメなメガネがいるところが、私の居場所ネ。私の家。帰る場所ヨ。 帰りたいところがあるのは、ステキなコトネ。私知ってるヨ」 湯船いっぱいの宇宙を旅してきたアヒルが、あたしの胸元にくっついた。 揺れるアヒルを眺めながら、神楽ちゃんは嬉しそうな顔をした。 遠い星から来た、ぷかぷか揺れる小さなアヒル。ここで辿り着いた今の家がとても好きなんだろう。 「私知ってるヨ。銀ちゃんにも新八にも、いつかは会えなくなる日がくるネ。」 少し弱くなった声が、湯気の籠ったお風呂にくっきり響く。 神楽ちゃんがこっちを見上げてくる。大きな瞳と目が合ったら、息が詰まった。 「いつかは一緒にいられなくなるネ。 マミーにも会えなくなったヨ。みんなそうヨ。いつか会えなくなる。でも、それまではずっと一緒ネ」 ネ?と同意を求めるみたいに、神楽ちゃんが首を傾げる。 やっぱり何も言えなくて、ただ笑って頷いた。なんだか泣きたくなってくる。 いつかは会えなくなる。いつかは一緒にいられなくなる。 神楽ちゃんが口にしたのは、あたしがずっと怖がっていること、そのものだ。 「どんなダメ銀ちゃんでも、どんなダメメガネでもいいネ。毎日一緒。 ココが私の帰るところヨ。私の家ネ。 毎日笑ってケンカして、ゴハン食べるネ。他に何もいらないネ、ソレが一番ステキネ。」 「うん。」 頷いただけで、目が熱くなった。 あたしの胸に顔を埋めて嬉しそうに笑う、遠い場所からやってきた女の子。 神楽ちゃんが一人で過ごしてきた心細さや不安は、あたしには想像がつかない。 遠すぎて、大きすぎて測れそうにない。でも。 ずっと一緒にいたい。そう思える人がいることの嬉しさと怖さ。そういう気持なら、痛いくらいにわかる。 「はどこに帰りたいアルか?」 目を丸くした神楽ちゃんが、無邪気に問いかけてくる。 でも、今のあたしには何も答えられない。 きゅっと唇を噛んだ。 湯船の中で揺れる、熱い宇宙に思いきりよく潜る。まるで何かを振り切ろうとしているみたいに。 ここで溺れてしまいたい。そんなわけのわからない、バカみたいなことを思った。 どうしてあんなことしちゃったんだろう。 屯所を飛び出して、いろんなところを泊まり歩いて。 あのひとから逃げているつもりだった。 他の居場所を見つけるために。あのひとの邪魔にならないように。ずっとそう思ってた。 だけど違う。そうじゃない。 あのひとから逃げていたんじゃない。あたしは自分から逃げたんだ。

「 純愛狂騒曲!9 」text by riliri Caramelization 2008/11/03/ -----------------------------------------------------------------------------------           next