いつもより急いで制服を着替えて。クセがついて跳ねた前髪を、鏡の前でささっと直して。 本日のバイト、これで終了。 いつもは夕方までなんだけど、今日だけ早い時間に変えてもらった。 荷物を持ってドアを開けようとしたら、丁度入ってきた先輩とはち合わせになる。 「さん。どうしたの早いじゃない。もう帰り?」 「はい、そーなんです。今日はこれから夜まで忙しいんですよォ」 「ああ、バレンタインデーだもんねェ。あの男前の彼氏とデート?いいわねー若いコはァ」 「え?あはは、アレは違いますよォ、元カレですよォ。それにデートじゃないんです。 コレ配りに行くんです」 へえ、違うのォ?とつぶやく先輩を前に、手に提げた紙袋の中をゴソゴソと漁る。 中からひとつを取り出して、手のひらにポンと乗せて。 「お先に失礼しまーす、お疲れ様でしたー!」 ロッカー室のドアを開け、先輩に手を振って。あたしは店の裏口を飛び出した。


君だけの魔法使い

1

駅までの道を、普段の倍くらいの速さで進む。走ってるのとそんなに変わらないスピードだ。 普段より三時間早い帰り道。両手にそれぞれ提げているのは、普段は持っていない大きな紙袋。 どっちもずっしり重くって、朝は駅から店まで歩いただけで手がしびれてしまった。 だけどこんなときはいくら荷物が重くてもそんなに気にならないし、嫌じゃない。 これを渡した瞬間の、喜んでもらえたときの顔を見たら。手のしびれなんてすっかり消えてしまう。 中身はぜんぶチョコレート。 屯所の全員と万事屋のみんなの分と。あとは小菊姐さんと、前のバイトで知り合った友達にも。 バレンタインデーにこうして毎年配り歩くのが、屯所にいたころからの恒例イベントだ。 手作りのチョコでもないし、値段もサイズも毎年変わらず小さいんだけど。 かわりに感謝の気持ちだけは、毎年たっぷり詰めてある。 この紙袋がふたつとも空になるのは、何時頃になるんだろう。 もしかしたら明日になるかもしれない。毎年最後に渡すのは、いつも決まってあのひとだ。 今日中に帰ってきてくれるといいんだけど。期待はしないでおこうかな。 そんなことを考えながら。万事屋に向かおうと、いつもは使わない地下鉄出口の階段へ 一歩踏み出したときだった。 「ええと。かぶき町だから、○の内線から・・・・」 つぶやきながら、足を止める。 あたりをキョロキョロ見回してみた。 ・・・・違うみたい。今のは幻聴だったのかな。 今、誰かに呼ばれたような気がしたんだけど。回りに見覚えのある人はいないし。 「・・・・・・・ー!!・・・・・・」 もう一度階段に踏み出そうとしたら、また声が聞こえてくる。 さっきのあれも、幻聴じゃなかったみたい。 前よりもしっかりと耳に届いたのは、元気で弾んだ女の子の声だ。 「どこ見てるネ、!!こっちヨこっち!!」 「・・・神楽ちゃん?」 「ーーーー!!!」 振り向いた方向の、交差点の向こう。 そこには巨大ワンコに乗った笑顔のチャイナ服美少女がいた。 満面のあどけない笑顔で大きく手を振っている。万事屋の神楽ちゃんだ。 ご主人様がご機嫌なせいだろうか。定春まで、心なしかほんのり笑顔に見えてくる。 ほんのり笑顔で無邪気に周囲の人を跳ね飛ばしながら、歩道を一直線に爆走してくる。 跳ね飛ばされた人の行方を気にしつつ、あたしも笑顔で手を振り返した。・・・けれど。 なんだろう。何か、遠近感がおかしいような。 気のせいじゃないよね。・・・凄さまじい速さで急接近されてる。 これはヤバいんじゃないだろうか。と身の危険に息を呑み、後ずさった瞬間には遅かった。 二人は背後に砂煙と疾風を巻き起こし、人もモノもすべてを蹴散らし薙ぎ倒す勢いで あたしの目前に迫っていた。 「え、ちょっ、神楽ちゃんんん!!?」 「ーー!!!迎えに来たアルヨ!!」 スピードを緩めずに走り込んできた定春の上から、嬉しげに神楽ちゃんが叫ぶ。 左腕をうんと伸ばして姿勢を低めると、身体を竦ませたあたしを歩道の上から横抱きにかっさらう。 心臓が止まりかけて声も出ないあたしを片腕に、けっこうな重さの紙袋二つごと抱えたままで、 ご機嫌な神楽ちゃんが「このまま宇宙までひとっとびネ、定春ー!」とケラケラ笑う。 あたしはそのまま、駅前から万事屋まで一直線にお持ち帰りされた。 「んだよォ、の手作りじゃねーのかよォォ!!?」 珍しく目を大きく見開いた旦那が、珍しく呆然とした顔で目の前に立ち尽くしている。 ココは万事屋の玄関前。 あたしへめがけて突進してきた旦那は、まず最初に神楽ちゃんの傘で一撃に張り飛ばされた。 懲りずに立ちあがってガバッと腕を伸ばし、抱きつこうとしたところを 背後からすかさず振るわれた、新八くんのハリセンフルスイングに叩き落とされる。 それでもなお頭を抑えながらフラフラと立ち上がったところに、あたしは持ってきた紙袋を差し出した。 「手作りじゃなくたっていいじゃないですか。貰えるだけで有難いじゃないですか銀さん!」 「んだよォ。俺、スゲー楽しみにしてたのにィ。くれるからには手作りだと思って期待してたのによォ。 一週間チョコ断ちして、胃薬まで用意して待ってたのによォォォ」 「胃薬って。・・・ホントに楽しみにしてくれてたんですか旦那」 「ったりめーだろォ!?この糖分王が禁断症状に耐えながら一週間過ごしたんだぜ!?」 今にもキレそうな顔でブチブチボヤいている傍から、旦那は紙袋に手を伸ばす。 中からチョコの入った小袋を何個か鷲掴みに取り出すと、早くもそれを開けて食べ始めた。 新八くんも神楽ちゃんも、口一杯にチョコを貪る旦那を呆れ混じりの白い目で睨んでる。 二人と旦那を見比べながら、あたしは何も言えずに意味なく薄ら笑いを浮かべる。 えーと。ホントはこれ、一人一個なんですけど。 ・・・・なーんて本音は 子供みたいに口を尖らせながら、モゴモゴとチョコ頬張っている人には・・・言いづらいなあ。 まあ、いいか。人数分より少し多めに用意してあるし。糖分王を一週間待たせちゃったお詫び、かな。 「ごめんなさい。去年と同じで買ったヤツなんです。 手作りチョコはね、禁止されてるんですよ。土方さんに」 「またあいつか、マヨの差し金アルか。気に食わないアル! すっかりを独り占めした気になってるネ、あの男ォォォ」 頬をぷうっと大きく膨らませた神楽ちゃんが、傘をブンブン振り回して憤る。 その先端が旦那の顔面に偶然ヒット。「ぅゴっ」と呻いた旦那の身体が廊下に沈んだ。 「・・・ええと・・・・・・そうじゃないの。土方さんは、その。 実は。前にバレンタインデーのチョコを屯所で作ったことがあるんだけど。 14日には屯所の全員に渡すつもりで、一週間前からずっと練習してたんだ」 「へーえ。屯所全員の分かあ。真選組も大所帯だし、ひとりじゃ作るの大変そうですね」 誰かに手伝ってもらわなかったんですか、沖田さんとか山崎さんとか。 新八くんに訊かれて、あたしは溜息混じりにしみじみ頷いた。 「そうなの。ホント大変だったんだよ。あたしじゃなくて、みんなが」 「は?」 「チョコ作りの練習始めたら、みんなが味見役を買って出てくれてね。でも。 三日目くらいから、どの人もバタバタ倒れ始めて・・・・・」 あたしのチョコが原因の集団食中毒で、近藤さんや総悟を始め隊士が総倒れで寝込んでしまい。 「真選組で集団食中毒発生 細菌テロの可能性も」 テレビや新聞で大々的に報道され、驚いた松平のとっつあんまで屯所に駆けつけて。 あわや屯所壊滅。マスコミに日々取材攻勢を敷かれる、大騒ぎになってしまった。 あのときのことは忘れようがない。悪夢だった。今でも思い出すたびにぞっとする。 薄暗い拷問部屋。激怒に震える手が抜刀寸前な鬼の副長を前に正坐して、二時間に渡って説教されたんだから。 そんな青ざめて号泣するほど怖い体験をしてしまったこと以外にも、もうひとつ。 あの「悪夢のバレンタインデー」を忘れられないのには理由がある。 泣けてくることに。コレがあのひととの「初バレンタインデーの思い出」なんだもん。 しかも、いまだに『菓子作ったら切腹』って、この時期になると口煩く言われてるし。 屯所の台所に立っただけで人の視線と緊張感を感じるってゆーか。イヤ、病原菌扱いってゆーか。 お湯を沸かそうとヤカンを持っただけで、調理場のおばさんたちがあわてて止めに入るくらいだ。 「そ、そういうことですか。じゃあ、コレは」 「うん、昨日まとめて買ってきたの。でも、買ってきたのをそのままじゃ楽しくないかなと思って。 一人分ずつラッピングして、オマケのおみくじをつけてみました!」 持ってきた紙袋を、とん、と玄関の床に置く。 神楽ちゃんと新八くんが顔を寄せ、二人で中を覗き込んだ。 「はいっ、二人とも引いてみてね!」 チョコの詰まった大きな紙袋の中は、カラフルな色と模様の小袋で埋ってる。 中身にお金をかけていないぶん、ラッピングには手をかけてみたんだけど。 神楽ちゃんが選んだのは、小さな赤い袋。 結ばれた白いリボンを解くと、ハートのかたちのホワイトチョコが出てくる。 「今年も牛乳チョコネ!」 「それはね、ホワイトチョコって言うんだよ神楽ちゃん」 「去年のチョコもコレだったネ。は牛乳好きアルか? コレいっぱい食べたら、私もみたいにおっぱいポヨポヨになるアルか?母乳たくさん出るアルか?」 「イ、イヤ母乳はあたしも出ないんだけど」 さっそくチョコに齧りついている神楽ちゃんの横で 水色のリボンを解いた新八くんは「義理だってわかってても嬉しいなァ」と表情を緩めてる。 白地に青の水玉の袋の中を覗き込んだ。 「あ。まだ何か入ってる。これがおみくじですか?」 チョコを手にした新八くんが、もう一度袋の中を探る。 細く畳まれた小さな白い紙を摘み出すと、蛇腹に折られたそれをパラッと開いた。 「えーと。『小吉 M−1一次予選敗退 来年に賭けろ』・・・・?」 「それ、手作りなんだ。大吉から大凶まで入ってるの」 「小吉アルか新八。さすが新八ネ、何をやっても一生地味でハンパな小吉人生ネ」 怪訝そうな顔でメガネのズレを直し、紙を見つめる新八くん。 その隣で紙を開いた神楽ちゃんが首を傾げる。 「コキチって何アルか。一万円札のユキチの親戚アルか」 「神楽ちゃん。それこそが地味でハンパな小吉だからね」 「『カッパに抜かれたシリコダマを求めて三千里』・・・シリコダマって何アルか」 「そ、それは。ええと、下でお登勢さんかキャサリンさんに聞いたらいいと思う」 「おみくじっていうか、人生ゲームのコマに書いてあるアレみたいですね。 ・・・ところで銀さん。あんたはさっきから何やってるんですか。いい加減起きてくださいよ」 「銀ちゃーん。まだ拗ねてるアルか」 呼びかけられて軽く蹴りを入れられた旦那は、さっきからずっと床に寝転がっている。 子供っぽく膨れっ面で口を尖らせて、身動きもしないで黙ったままだけど 丸めた背中から「構って」オーラがユラユラと揺れながら噴き出している気がするのはなぜだろう。 その傍に座り込んだ神楽ちゃんが、起きるネモジャモジャ、と旦那の髪をグイグイ引っ張っている。 「ウザいネモジャモジャ。今年の収穫もの義理チョコで打ち止めアルか。 だからお前はモテないネ、サバンナの王になれないネ。 打たれ弱いオスはサバンナではメスに相手にされないアル!」 「イヤ、これ以上銀さんに野生に還られると困るんだけど」 「うるっせーなァ、いーんだよ俺ァ。サバンナの王だァ?んなモン全然なりたくないもんね銀さんはァ。 ケモノの頂点なんて誰が立つかよ。頼まれたって立ちたくねーしィ。 ジャングル大帝にもターちゃんにも憧れてねーしィ! つーか俺は海の頂点に立つ男だからね、いつか海賊王になる男だからね!?」 「そんなイジけた海賊王にグランドラインは越えられませんよ」 「いつまでゴネてるアルか。出航前に沈没かヘタレ海賊王。が呆れて帰ってしまうヨ!」 「あのー。旦那。あたし、今日はちょっと急いでて。これから他にも行くところがあって、・・・」 言い辛くなって小声で切り出したら、旦那の背中がピクッと反応した。 「行くって。どこ行くんだよ」 「チョコ配りに行くんです。小菊姐さんのところと、前にバイトしてた店と。それから屯所に」 「さあ。」 「はい?」 「ヤローとデートとかすんの、今日」 すっかりふてくされた口調で、ボソッと訊かれてしまった。 それだけであたしはすっかりたじろいで、思わず玄関から一歩外へ引いてしまった。 「ううん、そうじゃないですけど。・・・土方さん、いつも帰ってくるの夜中だし。 今日中に帰ってくるかどうかもわかんないし」 「じゃあいーだろ。ゆっくりしてけよ。ウチで夕飯食ってけば」 「え。でも。・・・あの。・・・・・」 「あーあー、待ってたってダメダメ。ありゃあ待つだけ無駄だって。 いくらモテたってよー、ヤローの中身は女の気持ちなんてわかんねえトーヘンボクだからよ。 どーせバレンタインなんて忘れてんだろ。帰ってこねーよ」 「・・・はい。でも。」 旦那はこっちに背を向けたまま、黙ってる。 どうしよう。言えないよ。 他の人には言えても、旦那には言えない。 土方さんは夜中になっても帰ってこないかもしれない。 でも。それでも屯所で、あの部屋で帰りを待っていたい、なんて。言えるわけない。 どうしよう。・・・旦那は、わかってて言ってるんだよね。 あたしが土方さんとのことを誰に訊かれたら、一番困るのか。旦那はわかってるんだもの。 バイト先の先輩に答えるみたいに 「彼氏じゃないですよ、元カレですよ」なんて軽さでは答えられない。 どう答えようかと困りながら、あたしは口を開きかけた。その時だ。 新八くんの持ったハリセンが、目の前で大きく振り上がった。 「いい加減にせんかィィィ!!」 スパァァァン、とキレの良い音が鳴り渡る。 新八くんは鼻息も荒く、フン、と息巻いた。 「はいはい、もォやめてください。カッコ悪すぎて見てられませんよ。 これじゃまるで、フラれた腹いせにさんをイジメてるみたいですよ」 「し、新八くんっ」 「いいんです、こーいうときはビシッと躾けないとダメなんですよ、このヒトは。 いいですか銀さん。そんなゴネられかたしたらねェ、誰だって来づらくなるでしょう? ったくもォ、世話がやける大人だなァ!これでさんが来てくれなくなったら、アンタが一番ヘコむくせに」 「そーネ沈没海賊王!を困らせる男は私が許さないネ!!」 「ほらあ、起きてくださいよォ。今のうちに謝っといたほうがいいですよ」 左右両側から、新八くんと神楽ちゃんに着物をグイグイと引っ張られながら 旦那はノロノロとダルそうに起き上がる。 あたしの方に向いて胡坐をかくと、こっちを上目づかいに見上げてくる。 口を尖らせてつまらなさそうにしている旦那を見ていたら、寺子屋に通っていた頃を思い出した。 悪戯しても滅多に謝ろうとしないガキ大将が、先生に叱られて渋々で謝ってきたときの顔みたい。 頭をボリボリ掻きながら、身体の大きくなったガキ大将はすごく嫌そうに口を開いた。 「つーか、アレだよ。今のはよォ。ちょーっとイジメてみたくなっただけだから。 気にすんなって。な?」 「は、はい。いえ、あたしは全然気にしてませんから」 「・・・一字たりとも謝る気がないよ、このヒト。幼稚園児以下だよ」 「無理ネ。今から躾けてももう間に合わないヨ新八。 銀ちゃんは、ヒトに謝るくらいならそいつをボコッて埋めるくらいのダメ大人ネ。一生ネバーランドの住人ネ」 「うっせーなァ。テメーらがいなきゃなあ、俺だって今頃とっくにグランドライン越えだっつーの」 不服そうに言いながら、目の前に置かれていたブーツに足を突っ込む。 旦那はすっと立ち上がった。 玄関前を塞いで立っていたあたしに手を伸ばして、何のためらいもなく背中を抱いて。 「よーし、行くかァ」 「っっ、ひゃァァァ!!?」 よっ、と軽い掛声を合図に、旦那はあたしをそのままひょいと抱きあげる。 腕の中で身体がぐらっと揺れて、怖くなった。旦那の首にしがみついてしまった。 しがみついてから、旦那がニヤニヤしているのに気づいた。 しかも、そのニヤニヤした顔がすーっと近づいてくる。 からかうような表情で、まっすぐ覗き込んでくる。 「イヤイヤ。ダメだって」 「は、はい!?」 「こういう日にそんな目ェして見上げられたらよー。男はみんな、告られんじゃねーのかと思うからな?」 あたしはあわてて身体を離した。 離すといっても顔だけで、どうやったって身体が密着しちゃってるんだけど。 そういえば、いわゆるお姫様抱っこは生涯二度目だ。・・・相手は一度目と同じ人。 「んじゃ、送ってくっから。うらやましくて鼻血出してんじゃねーぞ新八ィ」 頬が赤い新八くんと、目を細めて興味深そうに笑っている神楽ちゃんが、無言で玄関から見送っている。 腕にはあたしを抱いて、あたしが持ってきた紙袋二つも手に提げて。 口笛混じりにCMソングを歌う旦那は、軽々と階段を下っていく。 一段降りるごとに、グラッと大きく身体が揺れるのが怖い。思わず旦那の着物にしがみつく。 「旦那ァ!お、降ろしてください!!」 「イヤイヤ気にすんなって。わざわざチョコ届けに来てくれた礼だからよォ。たいしたことじゃねーよ」 「たいしたことですよォォ!!お姫様抱っこですよ!?乙女の一大事件ですゥゥ!!」 「まァまァ、いーからいーから。 大丈夫だって原チャリ使うし。このまま菱屋まで運んでったりしねーからさァ。安心しろって」 階段下に停めてあったベスパのシートに、抱き下ろしたあたしを座らせて。メットを頭に被せてくれる。 被せてもらったときに、旦那の指が少しだけ頬を掠めた。 それだけなのに、なぜか驚いてしまった。身体が勝手にビクついて、ちょっとだけ肩が揺れた。 あたしは何に驚いたのか。自分でもよくわからない。 なんだか旦那に対してきまりが悪くなって、表情が硬くなってしまう。 エンジンを掛けて自分もメットを被ると、うつむいた旦那はぽつりとつぶやいた。 「悪りィ。困らせちまったな」 「え、・・・・・・」 「頼むから、そーゆー顔しねーでくれよ」 一瞬、なんのことを言われているのかわからなかった。 少し考えてから、さっきのことに思い当る。 「ヤローとデートとかすんの」と訊いてきた、さっきの旦那の拗ねた顔に。 やっとピンときた。そして、すごくびっくりした。 意外だった。だって。この旦那が。そんなことで謝るなんて思わなかったから。 あたしはメットで重くなった頭を、大きく何度も振った。 違うのに。そうじゃないのに。 旦那はまだ、さっきのことを気にしてたんだ。 「・・・・ううん。あたし。何も考えずに来ちゃって。 来ないほうがよかったですよね。ごめんなさい。」 「んなことねーよ。つか逆だろ。にチョコ貰えねーとグレるからね、俺」 「・・・こういう日なら。ちょっとだけ、お返しできるかなって思ったんです」 「んー?」 「あたし。旦那にずっと助けられっぱなしじゃないですか」 「あァ?そーかァ?」 「そうですよ。家出したときも、・・・あの。・・・いっぱい迷惑かけちゃったし。 なのに、また遊びに来いって言ってくれて。あれからも普通に会ってくれて。 すごく嬉しかった。すごく感謝してるんです。・・・なのにあたし、何も旦那に返せなくって」 「ははっ。わかってねーなァ。俺のはよー。そーいうんじゃねェんだって」 旦那がすこし身体を屈めて、薄く笑いながらあたしの顔を覗き込んでくる。 いきなり距離が縮まった。 「俺ァ、ただ待っていたいだけだからな。 あんたが俺んとこへ来るのを、手前勝手に待ってたいだけなんだよ。 が野郎の帰りを待ってたいって思う気持ちと、そう変わんねえよ。だから気にするこたァねえんだ」 自分の視線の遣り場も。まっすぐな視線をどう受け止めたらいいのかも、わからない。 座ったリアシートの上で、足が地面につかないことにさえ、落ち着かなさを感じてしまう。 ドキドキして、あたしは不自然に顔を逸らしてしまった。 「俺よー。のそういうとこも好きだよ。 いざとなったら全然嘘がつけねーとこも。うまくねえやり方しか出来ねえとこも。」 さっきまではダルそうに喋っていたのに。 こういうときの旦那は、どこか静まって優しげな声になる。 この声を聞くと、あたしは声が詰まる。何も言えなくなる。 どうしてこのひとは、いつも待っていてくれるんだろう。 他の人のところに戻ったあたしなんかを、大事に扱ってくれるんだろう。 旦那の気持にあたしが応えられないのを知っているのに、それでも見守ってくれてる。 しょうがないって受け入れて、許してくれているんだって。この声の穏やかさが、そう言っている。 エンジン音に合わせて揺れるシートに座って。車体の振動で、気持ちまで震えている気がした。 こういうときの旦那に返す言葉は、やっぱりどこを探しても見つからない。 あたしはじっと黙ったままで、返事も出来ない。目が合っても頷くことも出来ずに、ただ顔を逸らすだけ。 旦那にとってはそれでもいいのかもしれない。でも。 黙りながら。あたしって狡いなあ、とつくづく嫌になってしまう。 さっき意地悪を言われたときよりも、もっともっと困っていいはずなのに。 自分から目を逸らしたあたしは、ほんとうは胸が高鳴るのに、困ったふりをしているだけのような気がして。 どうしてなのか。なぜかあのひとの、素っ気ない横顔が浮かんでくる。 浮かんだ顔が厳しい目でこっちをちらりと見たような気がして、胸が痛くなった。 旦那が前のシートに腰を下ろす。車体が深く揺れて、あたしの身体はグラついた。 前に座るひとに腕を掴まれ、軽く引っ張られた。 あたしの両手を包むようにして抑えると、旦那はお腹のあたりで着物とベルトを掴ませる。 「んだよォ。ダメじゃん。もっと思いっきり掴まってくんねーと。銀さん楽しくねーよ? もっと身体ごと、ギューっと背中に押し付けてくんね?」 「それはイヤです」 ちぇっ、と舌打ちした旦那の肩が、可笑しそうに小さく揺れる。 アクセルを柔らかめに踏み込んだ。白のベスパが、菱屋に向けて滑り出す。 車体が鳴らす排気音に混ざって、旦那の口笛混じりな歌が流れてくる。 いつもどおりの気だるそうな声。時々メロディーが違ってる、ちょっといいかげんなCMソング。 途中から、歌詞も旦那の替え歌になって。お菓子のCMソングが、子供には聞かせられない歌に変わってしまった。 あたしは自然と、その声に耳を傾けていた。 聞いているうちに。いつのまにか、強張っていたはずの頬が緩んでいく。 歌詞がどんどん変わっていくのが可笑しくなって、つい吹き出してしまった。 あんなことがあったのに。 それでも旦那は笑ってくれる。いつでも来いよって、待っていてくれる。 ちいさなチョコ一個じゃ返し足りない、口にはしないたくさんの気持ちを 旦那はあたしに向けてくれてるんだ。 子供みたいに拗ねた顔も。このおかしな歌も。こうして背中に触れたときの、心地よさも。 気にするなって慰めてくれたのも。 全部あたしに向けられたもの。そう思うとやっぱり、どうしていいのかわからない。 いつもあたしは貰ってばかり、助けてもらってばかりで。それでも、旦那の気持ちを受け取れないから。 この捉えどころのない、不思議な人に。チョコ以外の何かを返せるのかな。 でも。 どうなんだろう。旦那は、そういうことをあたしに望んでいるんだろうか。 自惚れなのかもしれないけど。もしかしたら、旦那の優しさに甘えているだけなのかもしれないけれど。 自分が相手を思ったぶんだけ、何かを相手に返してほしい、とか。 そういうのとは、ちょっと違うような気がする。 さっき旦那が言ったみたいに。 あたしが屯所で、いつ帰ってくるかわからない土方さんの帰りを待っていたいと思うのと 同じなのかもしれない。 ただ帰りを待っているだけでいい。顔を見れるのが嬉しい。声を聞けるのが嬉しい。 帰ってきたそのひとが、ほんのすこし笑ってくれるだけで。それだけで、もっと嬉しくなる。 あのひとに。土方さんに会って初めて知った気持ちだ。 返せてるのかな。あたし。 「感謝してます」のひとことじゃ言い表せない、あたしの感謝は。 こうして旦那に会ってることで、少しずつ伝わってるんだろうか。 ちゃんと伝わってるといいのにな。 ほんの少しでも届くといいな。ありがとう、なんて短い言葉じゃ言い尽くせないから。 そういえば。まだ旦那にチョコの感想を聞いてない。 甘党の旦那が一週間ぶりに食べるチョコ。美味しかったのかな。どうだったんだろう。 ・・・イヤ、どう考えても、あたしが作るよりはうんと美味しいはずなんだけど。 そうだ。来年は、旦那のぶんだけ特大サイズにしてあげようかな。 そんなことを考えながら、あたしは旦那の背中におでこをくっつける。 排気音混じりでどんどん酷くなっていく替え歌の歌詞に、笑いながら耳を傾けた。 肌を切るような風が、旦那の身体に回している手を冷やしていく。 手袋をしてくればよかったな、と思っていたら、旦那がノンキな口調でこっちに叫んで寄越した。 「沙和なァ、いまごろヅラ被って化けてんじゃねーのォ?」 「あれはヅラじゃなくて鬘ですよ旦那ァー!」 「なァなァ、また食っていいーー?」 「え?はいィー!?」 「菱屋に着いたらァー!またチョコ食ってもいいー?」 あたしはプッと吹きだした。なんだか可笑しい。 子供におやつをせがまれてる、お母さんになった気分だ。 でも。よかった。あのチョコ、美味しかったんだ。 あのチョコから。ちょっとだけ、旦那に届いたのかな。あたしのありがとうの気持ちが。 じわじわと嬉しくなってきて、着物を掴んだ手をぎゅっと握る。 排気音に負けないように、あたしは声を張り上げた。 「はい!!でも小菊姐さんのぶんまで食べないで下さいよーー?」

「 君だけの魔法使い 1 」text by riliri Caramelization 2009/02/05/ -----------------------------------------------------------------------------------         next