紫陽花が泣き止む頃に

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に向けられた突然の打診。 だが土方にしてみれば、それは突然の思いつきから出た言葉では無かった。 最近彼は、の処遇を一人で懸念していた。 このまま自分の下に就いていても、はただ萎縮し続けるだけなのではないか、と。 この剣の腕には可能性がある。 現場に慣れさせ、場数を多く踏ませれば、沖田に並ぶものにもなりそうな可能性がある。 奴に預け、一番隊の本領である切り込み部隊としての仕事に就かせる。 それがこいつを隊士として育てるには、最善の道かもしれない。 そう思い始めていたのだ。 常に行動を供にしていた彼女が、自分の周りから消える。 そうなれば、しばらくは物足りなさがつきまとうだろう。今でさえその空虚さは、薄く俺につきまとっているのだから。 だが、それでも土方は、を引き止めようとは思わなかった。 副長として、組織を統括する者としての、自分の采配には自信がある。 胸に灯る私心を押して、彼女の可能性を潰すつもりも無かった。 「・・・あたし、副長直属をクビになるんですか」 彼の背後でぽつりとつぶやく、の声。 その声からは、すっかり感情が抜け落ちてしまっていた。 「役に立たないから他へ行け、・・・っていうこと・・・ですよね」 「いや、そうは」 言ってねえ、と言いかけた彼を、が遮る。 「やっぱりお役に立ててなかったんですね。そうですよね。 ・・・そうなんですね、やっぱり。自分でもそうなのかなあって、・・・思ってたんです」 「いや、あのな」 俺ァそういう話はしてねえ、と言いかけたところを再び遮られる。 「ダメだってわかってるんです。せっかく副長付きになれたのに、・・・あたし、緊張してばっかりで。 何をしてても、副長の目が気になっちゃって。意識しすぎちゃうんです。 だけど、役に立たないといけない、失敗しないように、って思ったら、つい。緊張しすぎちゃって・・・」 気の抜けた萎れた声音で、はひたすらに喋り続ける。 土方の声など、耳にも入っていないらしい。 話の進まなさにしびれを切らし、彼は苛々と振り返った。 「・・・お前、人の話」 聞いてんのか、と言いかけて止まる。 目の前に立っているは、思いつめたような表情をして彼を見上げていた。 「それが副長のご命令なら、従います。 だけど、あたしは・・・一番隊には、行きたくありません。」 足元で、カラン、と何かの音がした。 下に転がったのは、が持っていた草履だった。 なんとなしにそれを目で追い、ふたたびに向いた土方の表情が、驚きに固まる。 すでに雨で濡れていたの頬に、新しくひとすじの流れが伝っていた。 猫を思わせる大きな目は、涙に潤んでいた。 「・・・え・・・・あ、あれっ、あたし、・・・」 土方の表情が強張ってきたのに気づき、はそこで初めて自分の異変を知った。 いつのまにか泣いていたなんて。 思いつめすぎていた彼女は、感情のままに溢れた自分の涙に気づいていなかった。 あわてて頬に流れるそれを、手で隠した。 「すみません。・・・・ちょっと。ちょっとだけ、待ってください」 あたふたと土方に背を向けると、うつむきがちに浴衣の袖で顔を拭う。 彼は、上着を被ったの背中を見ていた。 慌て気味な、小さな少女のようなその仕草。 剣を奮う男勝りな姿とは、別人のような頼りなさ。 自分の隊服の大きさが身に余る、女の身体。いまにも隊服がずり落ちそうな、ほっそりした小さな肩。 「あたし。・・・嬉しかったんです。配属が決まって。 副長付きなら、拾っていただいたご恩を直接返せるって。そう思って、嬉しかったんです。」 涙に詰まった声で、は語る。 袖で涙を抑えながら振り向いて、土方を見上げた。 「でも、実際に配属になったら、緊張してばっかりで。失敗は多いし、ていうか、毎日失敗だらけだし。 だんだん身体が縮むっていうか・・・怖くなっちゃって。副長の顔を見ると、余計に緊張しちゃうんです」 そこまで気にするような失敗を、いつ仕出かしたというのか。 目の前で萎れる彼女がいつ失敗したのかすら、土方には覚えがなかった。 配属されてまだ間もない。仕事を覚えさせるために色々と教え込み、間違いがあれば指摘した。 指導するのは上官としての責任。勿論そこでは叱ったかもしれない。 しかしそれはどれも、思い返そうにも浮かばないような些細なことばかりだというのに。 他に思い当たるの失敗といえば、アレしかない。 アレ以外に何があるというのか。 時々淹れさせていた茶の、あの殺人的な不味さに比べれば。どんな失敗も可愛いものだ。 の仕事ぶり。そこに問題は無い。 だが、現に彼女は萎縮していた。 の涙の原因が。 互いの不和の素性が、自分の存在にあるのなら。 そう思えば、彼の口から出る言葉は自然と限られたものになる。 「・・・・それなら、一番隊に行きゃいいだろう。」 の目が、次々に生まれる涙の粒に潤む。 駄々をこねる子供のように、大きくかぶりを振った。 「嫌です」 「嫌ったって、お前」 「ダメですか。・・・あたしがいたら、ダメですか?」 「ダメとは言ってねえだろ。つーかお前、聞けよ人の話」 話は進むどころか、同じところに留まって停滞しきっている。 目の前で降り続いている夏の通り雨が、いまだに去る気配を見せないのと同じに。 「あたしは嫌です。副長付きがいいんです! お願いします。あたし、もっと頑張りますから。だから、このまま傍で働かせてください・・・!」 頭を最深に下げる。 肩にかかっていた土方の上着が、滑り落ちて地面に落ちた。 それでも彼女は頭を上げない。じっと土方の返事を待っている。 ゆるくまとめた髪の先から、ぽたぽたと雫が落ちていく。 困ったような、呆れたような表情を浮かべ、土方は上着を拾い上げる。 に向かうと、ふたたびそれを彼女に掛けた。 雨に濡れて冷えた浴衣姿の肩が、そっと下ろされた暖かさに包まれる。 「頑張りゃいいってモンじゃねえ」 の肩を掴んで、その身体を引き起こす。 掴まれたことに目を丸くして、彼女はただ土方を見上げた。 「力が入りすぎだ。・・・俺は別に、そこまでして恩義を返してもらう気は無えぞ。」 肩から手を離して、土方は目の前の女を見下ろした。 その表情はやはり硬く、ぎこちない。 それでもこのところずっと、彼の傍にいるときには常に曇っていたその目に、もう翳りは無かった。 彼女の中で、迷いがふっきれそうなところまできているのだ。 「肩の力抜け。 俺の役に立つかどうかより、自分がどうしてえのか考えろ。 真選組の一員として、隊士としてどう働きてえのか、だ。わかるか、。」 しばし考え込むようにうつむいてから、は顔を上げた。 まっすぐに彼を見上げる目には、あのひたむきさが戻っていた。 「副長のお手伝いがしたい・・・です」 声はやはり小さい。 だがはっきりと、土方の目を見て言い切った。 の返事を聞いて、ふっと力を抜いて肩を落としたくなる安堵が、彼を包んだ。 その心地よい安堵が、感情の現れが薄い表情に浮かぶことはなかったが。 「わかった。それならこっちもとやかく言わねえ。お前の好きにすりゃあいい。」 素っ気無く言いながら、彼は目の前で降り続く雨に目を向けた。 隊服の懐を探ろうとして、また思い出す。 煙草は無いし、上着はの肩にある。 ここに煙草があれば、それは最近に無く旨い一本だったろうと思う。 しかし、今は無くても構わない。そんな気もした。 今ここを出て、わざわざ買いに行く必要も無いだろう。 目を潤ませ、こっちを見ながら涙をこらえている女が隣にいるのだから。 隣に目を向けると、の浴衣の裾が目に入る。 透けそうな白地に、雨に濡れた紺色の花が咲いている。 もう夏も終わりに近く、その花の盛りはとうに過ぎていた。 季節はずれのこの花が、ここに夏の名残として雨を連れてきたのかもしれない。 それともこの通り雨は、あの福引で引き当てた幸運が連れてきた、おまけのようなものなのか。 駄菓子の当たりクジじゃあるめえし。 我ながら馬鹿なことを思うもんだ。 降り続く雨に目を戻し、土方は肩を竦めた。 浴衣の袖で目元を拭いながら。 がかすれた声で、つぶやいた。 「・・・いいんですか」 「ああ」 「ほんとに・・・ほんとに、ほんとに、いてもいいんですか?」 「しつけぇんだよ。何度も言わせんな。好きにしろっつっただろ。」 「だって。あたし役に立たないし」 彼はそこでつい振り返ってしまった。 自信が無さそうにうつむくを見下ろし、なぜそんなふうに萎れるのかと歯痒くなる。 「誰がんなこと言った。俺ァ一度も言ってねえぞ。てめえが勝手に」 そこまで言って、先が出てこなくなった。 いや、言葉に詰まったわけではないのだ。 つい反論してしまった。本音がこぼれそうになった。 そのすぐ先に隠している自分の核心に、つい触れそうになってしまった。 は黙っていた。硬かったその表情がふうっと緩み、肩から自然と力が抜ける。 彼女の中でずっと硬くなっていた何かが、突然解けたようなやわらぎを見せ始めたのだ。 途中で止められ、引っ込められた土方の本音。 は触れなかったはずのそれは、実は彼女のほんの爪先程度を掠めていたのかもしれない。 彼の言葉に何かを察して。自分の思い上がりがそう外れたものでもないことに、気づいたようだ。 「・・・いや。だから。お前がそうしてえなら、そのままここにいりゃあいい。」 咳払いで間を濁して、土方は雨に目を戻す。 袖で涙を拭いながら、は頷いて応えた。 「・・・・はいっ」 突然何かを思い出したらしく、は巾着の中を探り始めた。 「あの。これ。どうぞ」 遠慮がちに差し出されたものは、煙草の箱だった。 それも、彼がいつも吸っているもの。 「さっき吸ってたのが最後、・・・ですよね?」 そんなことを、なぜ。いつ彼女は気づいたのか。 煙草の減りに気づいていたとしても、どうしてこれを。 箱に目を留めたまま動かない土方の中には、沸々と疑問が湧き上がる。 彼の戸惑いには気づくことなく、は恥ずかしそうな、済まなさそうな顔をした。 「コンビニの場所がよくわからなくって。遠回りしてたら、すごく時間がかかってしまって。 総悟やみなさんには、あとでお詫びします。まさか自分が探されてるとは思わなくて。 ・・・せっかく連れてきてもらったのに。ご迷惑をおかけして、すみませんでした」 縁日からが忽然と消えた理由。 それが自分の煙草を買いにいくためだったとは。 険しく眉間を寄せた土方は、言葉も無くをみつめていた。 彼女と目が合うと、ふいと顔を逸らし。一気にどっと疲れが出たような、深い溜息をついた。 何があったのかと気遣うような顔をして、が彼を見上げている。 女ってのは、どいつもこいつも。 どうしてこうも身勝手なのか。 何かひとつに夢中になりゃあ、手元のことまで留守になる。周りなんぞ見ちゃいねえ。 しかもこいつにゃ、自覚ってもんが足り無さすぎる。 自分の一挙一動が、何の気なしに口にした言葉が、どれだけこっちを振り回しているのか。 それすら気づいちゃいないときてる。 だらしねェ話だ。 俺が、いや俺達が作り上げてきた真選組が。ぽつんと入った紅一点に、ここまで振り回されるとは。 情けねえ。 総悟といい隊士の奴等といい、近藤さんといい。 たかだか女風情に、どこまでうつつを抜かす気か。情けないにもほどがある。 今までずっとそう思ってきた。だが違う。そいつは俺の欺瞞だった。奢っていたのだ。 どうにも笑えねえ。呆れたもんだ。 これでは、俺までがあいつらの仲間になってしまう。 真選組の未来が危ぶまれてきた。 かすかな頭痛を覚えるほどに、彼は自分に、そして目の前のに呆れていた。 しかしそれでも、彼の手は無言のうちに伸びるのだ。 差し出された煙草は、まだ彼女の手の平に載せられている。 無言で煙草を掴む。 それから彼は、また溜息をついた。 真選組という組織の、そして自分のこれからを思えば頭が痛い。 けれど、目の前に差し出された煙草にまで頭痛を覚えているわけではなかった。 待ち望んだブツをついに手にしたニコチン中毒患者としての嬉しさとは、また別の嬉しさがあった。 その嬉しさは、彼をほのかな甘さで満たした。 日頃は滅多に笑うことのない鬼の副長が、呆れたような笑みを薄く浮かべるほどに。 「もしかして・・・違ってましたか?いつも吸ってるのって、他の煙草ですか?」 「いや。これだ。」 「そうですか・・・よかった」 ほっとした顔をして、は土方が掛けた上着を肩から外そうとした。 そろそろ返そうと思ったらしい。 気づいた土方がはっとして、それを手で抑えて止める。 「脱ぐな」 「はい?」 目を見張る。 土方が、上着が簡単に脱げないように袖を首元で結んでしまった。 てるてる坊主状態になったは、不思議そうな顔をする。 「屯所に着いて部屋に戻るまで、それを脱ぐな。絶対脱ぐな。命令だ、いいな」 言い切る土方の口調は強いものだった。が、声までは動揺を隠しきれなかった。妙に焦った声になる。 しかも、顔を不自然に逸らしてしまった。 自分でもこの態度、怪しすぎんだろ、とは思うのだが。 「・・・?・・・はい」 はなんとなく返事をした。してはみたものの、どうも納得がいかないらしい。 胸元を見下ろしてから、ふと眉をひそめた。 「・・・・すっごく煙草臭いです、これ。やっぱりお返ししてもいいで」 「脱ぐなっつってんだろ。」 「・・・はい」 それでもまだ納得いかないらしい。 怪訝そうに首を傾げて、また胸元を見下ろす。 じっと土方の上着を眺めている。 そろそろ止む頃か。 軒先に落ちる雨は、いつのまにか小降りに変わっていた。 勢いの無くなった雨のようすを伺いながら、待望の一本を箱から取り出す。 さっそく火を点けて味わい、中毒患者は禁断症状の危機から脱出した。 目の前で、灰色の煙が昇る。やんわりと広がって、消えていく。 見慣れたはずのその景色に、どこか居心地の悪い満足感を覚えながら。 土方は、隣のを見下ろす。 彼女はなぜか、一人でクスクスと笑っていた。 「何が可笑しい」 「いえ。あの、・・・すごく煙草臭いけど・・・でも、副長の匂いがするなあと思って」 ふふっ、と笑って楽しそうに肩を竦める。 黙っていれば、年相応の女らしさと、どこで身につけてきたのか知れない気品に包まれる。 なのに、笑うとその表情や仕草からはあどけなさが滲み出る。 が微笑んだときにみせるこの落差は、いつも彼の目を奪うのだった。 「さっきと、同じ匂い・・・」 そう言いかけて、はふと息を呑んだ。 匂いとともに巡らせてしまった、ついさっきの出来事。飛び込んだ胸の温かさ。 思い返しただけで何も言えなくなった。 ただ頬を染め、うつむいた。 赤く染まった横顔を、無表情を装った土方はしばらく眺めていた。 実は多少の動揺を覚えた。 隣の女に触れてしまいたくなる気持ちにかられた。 けれど、それは彼の奥に秘められた。 思いを行動に移すのを拒む気持ちが、彼の中で強まった。 に触れたいと望み、手を伸ばそうとする淡い衝動。 たったそれだけの衝動をためらわせてしまう。 頑ななまでの自制の心が、彼を捉える。 そういう自制を呼び覚ます何かが、彼の奥底では今でも静かに微笑んでいたのだ。 小降りになっていた雨がおさまった。 軒先からしとしとと落ちる雨垂れを見上げ、静かな声で土方がつぶやく。 「止んだな。」 「はい」 「帰るぞ」 「はい」 染まった頬の赤みを気にして抑えながら、は小さく返事をした。 落としたままになっていた草履を、慌てて履き直す。 先に歩き始めた男の背中を追って、濡れた浴衣の裾が絡む足でぎこちなく歩き始めた。

「 紫陽花が泣き止む頃に 」end text by riliri Caramelization 2008/08/22/ ----------------------------------------------------------------------------------- 次は隊士を辞めた理由とか別れた理由とか色々 一部血生臭いので 苦手な方は避けてください。                              next