紫陽花が泣き止む頃に 3
縁日の人混みの中を逆行しながら、土方はの姿を探していた。 そうしているうちにも、雨足は強まる。 急に降ってきた雨に騒ぐ人たちが、屋台の軒を借りて雨宿りを始める。 勢いを増してきた雨の中。 白地の浴衣が目に入るたびに足を止め、その顔を確かめる。 しかしの姿には行き当たらなかった。 そうしているうちに、ついには参道を抜けてしまい、神社の入り口になっている赤い鳥居の前へと着いた。 ここまで来ても、の姿は見当たらない。 彼女を探しに散っている隊士たちの姿も見当たらなかった。 たぶん神社にはいないと見て、それぞれに探す範囲を広げているのだろう。 それでもまだ見つからないのだ。 案外この辺りで何かの足止めに遭い、そこにずっと留まっているかもしれない。 戻って、社務所や屋台の裏小路でも覗いてみるか。 あたりを再び見回しながら、土方が踵を返しかけたときだった。 「ちょっと!返しなさいよ!」 凛と張った女の声が、彼の背後から響いてきた。 その声に、彼の身体が反応する。 聞き覚えのある声だった。 見ると、そこには浴衣姿のがいた。 鳥居から道を挟んで離れた、閉まった商店の暗い軒先に彼女はいた。 回りを三人の男に囲まれ、そのうちの一人に叫びながら飛びつこうとしている。 飛びつかれそうになるたびに、その男は高く手を振り上げていた。 その手には、のものらしい巾着袋が握られている。 振り上げられた巾着が、隣の男に投げられる。そしてまた、別の男の手に渡る。 そのたびにはムキになり、彼等の手からそれを取り返そうとする。 土方が彼等に近づいていく間にも、その質の悪いキャッチボールはずっと続けられていた。 「返しなさいよ!何よあんたたち!クソガキに構ってるヒマなんかないっつーの!」 自分の前にいるときとは打って変わって元気な、威勢のいいの声。 一瞬土方の足が止まる。 浴衣で跳ねながら喚いている威勢のいい女に、はたして自分の助けが要るだろうか。 どうも疑問になってきた。 「わァーーかったわかった、返してあげるよお姉ちゃん。 返してあげるけどさあ。まずは俺らと遊んでから、な?」 ニヤニヤと笑ってそう言った男が、の背後の男に合図を送る。 高々と上げられた巾着袋を追うを、いきなり後ろから羽交い絞めにした。 思わず舌打ちした土方の足が、前へ急ぐ。 ところが押さえつけられ、宙に浮いた格好のは顔色ひとつ変えなかった。 両足を、反動をつけて高く上げると、前で笑う男の顔めがけて、渾身の飛び蹴りを放つ。 うぐっ、と情けない悲鳴をあげて男が倒れる。 次いでは、背後の男が唖然としている隙をつく。 腕を振り切ると素早く振り向き、浴衣の裾から飛び出した美脚が鋭く空を切る。 男の横っ面を、の足が草履ごと強襲。男は草履ごと吹っ飛んだ。 「この女ァ・・・!!」 残っていたもう一人が、再びを後ろから羽交い絞めにする。 倒れた男達が痛みに顔をしかめながら起き上がり、それぞれに険しい顔で寄って来る。 暴れて抵抗したものの、今度はも振りほどけなかった。さすがに恐怖を感じた。 抵抗を止めて息を詰めたとき、彼女を押さえ込んでいた男がうっと呻いた。 彼女を羽交い絞めにしていた男の腕が、ずるっと解ける。男の身体が地面に崩れ落ちる。 何が起こったのかもわからず、は振り向いた。そこに土方が立っていた。 「その袋、返してもらおうか。ついでにこの跳ねっ返りも。」 凄みを利かせた低い声。 土方が、驚いているを背後に庇うように進み出る。 場慣れしたその気配と鋭い目つきに圧倒されたのか、沖田とそう変わらない見た目の彼等はひるんで一歩下がった。 「窃盗に婦女暴行。シケた容疑だな」 実際に暴行に走ったのは、どう見ても彼とのほうである。 が、あえてそこは無視を決め込む。 「んだ、てめえ!」 「警察だ。文句があるなら、屯所までつきあってくれ。タダで一泊させてやるからよ」 殴りかかりそうな仲間を引きとめ、一人の男が土方を凝視する。 「おい、ちょっ、待て、・・・この制服・・・真選組の」 チンピラ警察24時。 ・・・とは、ただでさえ悪名高い真選組の名前を、さらに地に落としめた有名な謳い文句。 それが彼等の頭に浮かんだかどうかはわからない。 が、一気に青ざめた彼等は、我先にと凄い速さで逃げていった。 降りしきる雨の中に残されたのは、ずぶ濡れになった土方と。 そして地面に転がり雨に打たれる巾着袋と、草履がひとつ。 土方は無言で巾着を拾い上げ、次いで草履を拾い上げた。 呆然と彼をみつめていたが、はっと我に返る。 「あ、あのっ、副長」 声を掛けられた土方が、無言で振り向く。 押し付けるようにして拾ったものをに持たせた。そして。 「馬鹿野郎!」 の頭に怒声とともにふり下ろされたのは、土方の容赦の無い鉄拳だった。 いたあっ、と悲鳴をあげてが地面にうずくまる。 頭を抑えてうずくまったまま動かない。痛みをこらえるだけで手一杯らしい。 「おい馬鹿女。連絡ひとつ入れずに、今までどこで何してやがった」 「・・・・・っっ、痛った・・・・っ」 「痛ェだ?当たり前ェだ。馬鹿に手加減する必要なんざ無えんだよ」 苛々と言い切った土方が、彼女の前にしゃがみ込む。 うずくまったままのの顔を覗いてみる。 その赤くなった頬は、不満げに膨らんでいた。前髪を伝って、雨の雫が頬を流れていく。 「男三人相手に、得物もなしに勝てるとでも思ったか。ずいぶん自惚れてんじゃねえか。」 「・・・・自惚れてなんて、いません」 「自惚れてんだよ。だからこんな真似しでかしたんだろうが。 沖田も奴等も、お前探しに行ったきりまだ戻らねえ。今頃どこまで探し回ってんだか。 あいつらさんざん振り回しといて、てめえはガキどもに捕まって、か。世話無えな。 少しは回りの迷惑も」 「頼んでません」 ふいっと顔を背けて、は口を尖らせた。 その強情さにムッときて、土方の眉が吊り上がる。 「ああ?」 「あんな奴らくらい、あたしだって一人でなんとか出来ます。 副長に助けてくれなんて、頼んでません!余計なことしないで下さいっ」 「テメ・・・てえした度胸じゃねえか。よくまあ上官に向かってんな口叩け」 彼の言葉を遮るように、膨れ顔のが勢いよく振り向いた。 猫を思わせる大きな目がまっすぐに、きっ、と彼をきつく睨む。 「そんな口でもどんな口でも叩きます。副長のお手を煩わせるようなことは、なかったんです! 放っておいてくれればよかったんです!! 見なかったことにして屯所に戻ってくれたらよかったんです!!」 上擦って感情的な口調に加えて、畳み掛けるような速さで文句をつけてきた。 言われる一方になってしまった土方は、怒っていたことも忘れてを見ていた。 それから苦々しさに口許を歪め、黙り込んだ。 放っておけるものなら、そうするに決まっている。 元来、そう親切な質でもなければ、人の良いほうでもない。 どんな女にでも、こんな真似をするような男でもない。 そういう男が、放っておけないからこそこうして雨の中を探しに来たのだ。 だが。 「・・・警官が、襲われそうな女を前にして見過ごせるか。それこそ職務怠慢だろうが。」 胸に灯る本音が口に上ることはなかった。 口にしたのは、無器用な建前。職業倫理に則った言い訳。 そのまま二人とも口を閉ざしてしまった。 むくれてうずくまったままのの頬は、赤く染まって雨に打たれていた。 ゆるく結い上げられていた長い髪は、さっきの騒ぎと雨で乱れている。 水滴が、うなじの後れ毛を伝って首筋に流れ落ちている。 淡い色のうなじを伝う、雨水のしずく。 それをいつのまにか目で追っていることに気づき、土方はきまり悪そうに目を逸らした。 雨足はまだおさまりそうもない。 目の前の商店の、暗い軒先が目に入った。彼は立ち上がった。 「・・・もういい。ここでこのままてめえの言い分聞いてたら、風邪ひいちまう」 うずくまったまま動かないに、突き出すようにして手を差し出す。 「さっさと立て。」 差し出された手をちらりと見て、は子供っぽく口を尖らせる。 「・・・・大丈夫です。副長こそ、ずぶ濡れじゃないですか。 先に帰ってください。あたし、総悟たちを探しに行きますから」 「はァ?何言って」 「いいから放っといてください」 「いいから立てっつってんだろ。っとに、何なんだてめえは。」 「副長こそ何なんですか!いっつも怖い顔して黙ってるくせに!どーしてこんな時に限って」 「るせェ、これァ俺の地顔だ。放っとけってんだ」 「放っといてほしいのはこっちです!」 不毛な言い争いは、一巡りしてふり出しに戻ってしまった。 いったい何をやっているのか、俺は。 舌打ち混じりに大きく息を吐いた土方が、物も言わずにの腕を掴んだ。 驚いたが、目を見開いてその手をみつめる。 そのまま彼はの手首を引いた。彼女の身体を引っ張り上げ、立たせた。 立たせたのはいいが、草履の片方はまだの手の中にあった。 足元のバランスを崩した彼女の身体が、そのまま土方の胸へと倒れこむ。 きゃっ、とちいさな悲鳴とともに、抱きとめられるような格好で。 前のめりに倒れ込んだ。 土方の胸に顔を埋め、彼の背中に回されたその手は隊服にぎゅっとしがみついた。 華奢で柔らかな身体が、真正面から飛び込んできた。 無意識のうちに、土方の腕は濡れた浴衣の背中を抱き支えていた。 互いに顔を見合わせる。 沈黙と夏の通り雨が、抱き合ったままの二人に降り注ぐ。 元から赤かったの頬が、さらに赤みを増していくのを見つめながら。 すでに我に返っていた土方は、これはマズいと焦り始めていた。 マズいとは思っているのだ。 それは判っている。 判ってはいるが、どうも身体が動かない。 自分の胸にもたれて動かない、の身体の温かさ。濡れた薄地を通して伝う、その肌の柔らかさ。 濡れた髪から匂い立つ香り。そのどれもが、彼の身体をとらえて離さない。 どうやら彼の身体は、彼女を手放す意思が無いらしい。 これも本能が勝って理性が負けた状態、ということになるのだろうか。 「・・・・すっ、すすす、すいませんんん!!!」 首筋まで真っ赤になってしまったが、どもりながら甲高い声をあげる。 こちらもなぜか動けないらしい。 困ったような、恥ずかしそうな表情。ひたすらに瞬きを繰り返す大きな瞳。 紅い唇が何か言いたげに開かれるが、声をあげることもなくきゅっと結ばれる。それを幾度も繰り返す。 柔らかな唇の動きにいつしか目を奪われていた土方が、ぎこちなく視線を逸らす。 しかし逸らした先にある景色は、唇をはるかに上回るマズさだった。 の肌に濡れて貼り付いた、白地の浴衣。 その薄地は、下に着けた襦袢まで透けさせてしまいそうに、 彼女の胸や腰の丸みを帯びた線と張りのある質感を、くっきりと露わに映し出していたのだ。 その艶やかさに息を詰まらせ、彼はの身体を思い切り引き離した。 染まった頬に手を当てて、ぼうっと彼をみつめているをよそに、上着を脱ぎ出す。 脱いだそれが、の頭に乱暴に被せられた。 突然真っ暗になった視界。 何もわからず言葉も出ないの手を、硬く大きな手がしっかりと掴む。 無言のままに、その手は彼女を強引に引っ張った。 片足は裸足のままの足元をよろけさせながらも、はぼんやりと彼に従った。 引かれるままについていった先で、雨音が小さくなり。 ずっと身体に当たっていた雨粒が止んだ。 掴まれていた手が、放される。 上着の暗がりの中から、おずおずとが顔を出す。 そこは商店の軒先だった。 隣にいる男は相変わらずの険しい顔で、黙って降る雨を睨んでいた。 その濡れた前髪から、雨のしずくがぽつぽつと落ちていた。 どうして副長は、ここに来たんだろう。 雨が降り止むのを待たずに今、ここまで来たのは。どうしてなんだろう。 思い浮かんだその理由は、我ながら都合の良い、恥ずかしい思い上がりにみえる。 自分の図々しい思い上がりなのかもしれない。 けれど、もしかしたら。 このひとは、戻って来ないあたしを探しに来てくれたんだろうか。 隣の男の顔をぼうっと見上げながら。の胸は、かすかな期待に高鳴っていた。 同時に自己嫌悪が顔を出す。 もしも自分の思い上がりが、そう的の外れたものでないとしたら。 いや、そうでなくても、自分はこのひとに酷いことを言ったに違いない。 「・・・あの。・・・副長」 「先に帰る。総悟に連絡入れとけ」 飛沫をあげる暗い雨中に踏み出そうとする土方。 その袖を、は慌てて掴んだ。 「副長っ」 袖を引かれた土方は、引き止められたことに戸惑った。 だが振り返らなかった。 判っているからだ。 振り返って見てしまえば、またあのくすぐったいような、 いまいましいような、何とも言えない気持ちにかられるのだと。 「・・・すみませんでした。あの・・・失礼なことばかり言って、申し訳ありません」 萎れた小さな声が、背後でつぶやく。 彼の袖を掴んだ手は、力を失って離れていった。 「。」 「はい」 「お前。一番隊へ移るか」 それは打診だ。 しかし何の前触れもなしの、突然の申し出だった。 驚いたは唇を開いたまま、動かなくなった。
「 紫陽花が泣き止む頃に 3 」text by riliri Caramelization 2008/08/22/ ----------------------------------------------------------------------------------- next